私たちの声を議会へ

三浦まり 2015. 『私たちの声を議会へ――代表制民主主義の再生』岩波書店,212p.2,000円.

 

わが家は朝、NHKラジオを聴いている。5時からは「マイ朝ラジオ」という番組をやっているのだが、そのなかに「社会の見方・私の視点」というコーナーがある。このコーナーにたびたび出演して、いつも分かりやすいが鋭い意見をする、三浦まりさんという人がいて、気になっていた。上智大学の政治学教授だとのこと。特に、衆議院選挙前の特集で登場したときに、「私は女性参政権の歴史を研究しているのですが、女性が参政権を獲得するまでに払った多くの努力と犠牲のことを考えると、棄権という選択肢は考えられません。」という発言にドキッとした。私自身、研究者でありながら、政治にはほとんど関心がなく、30歳になるまでは投票というものをしたことがなかった。とりあえず、30歳で初めて投票に行ってからは欠かさず行くようにしているが、無関心はつい最近まで大きく変わることはなかった。しかし、私も結婚し子どもを持ち、家を建てて現在の住所に戸籍を移して、このままこの地に骨をうずめようと決心してからは、地元に関わることを考えるようになり、政治的な関心も高くなってきた。

地域の祭で自民党の国会議員や市議会議員が顔を売っていることに辟易し、保育園の父母会の会長を務め、その件で共産党の市議会議員に相談したりするなかで、自分の生活の問題として政治について考えるようになった。それはローカルなものだけでなく、都政や国政にも必然的に不満を抱くようになった。いまだに正規の就職をしていない身としては、市議会議員などになるという選択肢も考えていたりする。しかし、意識ばかり高まっても知識が追いつかないとどうにもならない。ということで、とっかかりとして、この人物の文章を読んでみたいと思った次第。政治学は比較的近い分野でありながらも、なかなかどこからアプローチしたらよいのか分からないということもある。本書は岩波現代全書の一冊であり、かなり一般読者を想定しているはずだ。

はじめに
1章 代表とは何か
――代表制と代表性
2章 政党は何をめぐって競争するのか
――政党対立軸の変遷と責任政党政府
3章 参加を考える
――議会の外の代表制/性
4章 「分配」と「承認」をめぐる政治
5章 再び参加を考える
――グローバル化と経済格差
終 章 私たちの声を議会へ

著者はカリフォルニア大学バークレー校でPh.D.を取得したとのこと。各地でさまざまな講演も行っているということで、限られた短い時間でのラジオ・コメントも分かりやすくかつ物事の本質を捉えた話ができるのだと思う。本書を読んでみて、私の直感は正しかった。本書の参考文献は、欧文の最新政治学研究や、日本語訳のある政治学の古典、そして日本の政治学研究など、沢山すぎず、代表的なものを少しずつ読み進めていこうと思える文献表だった。

もちろん、それだけで評価するべきではない。代表という抽象的だが基本的な概念。そして、私自身よく分かっていない政党の話。特に、日本における政党の具体的な歴史を概観しているのはとてもありがたかった。「55年体制」などの基本的な知識もない私だが、自由民主党という名称とその政治的態度の矛盾ばかり感じていたが、本書の説明ですっきりし、またなぜ今日においても自民党が勝利してしまうのか、ということについても少なからず理解することができた。

タイトルにもあるように、本書は現代日本の政治体制を解説するだけのものではなく、それを変えていこうとする啓蒙書でもある。第3章の副題にもあるように、議会の外から私たちが声を上げていくことが必要であり、選挙の結果を受け入れるのみではいけないのだ。ただ、ここについては私自身はもう少し期待をしていた。例えば、選挙権を持たない18歳未満の若者とか、外国人などの意見を届けるチャンネルはあるのだろうか。そういう活動をしているNPO法人などの事例がもっとあることを期待していたが、少し抽象的な議論に終始しているような印象を持った。

逆に私が意識していなかった問題で、本書で強調されていたのが「ケア」の問題、すなわち高齢者介護の問題である。もちろん、こういう福祉の問題は政治の問題ではあるが、簡単にピンとはこない。しかし、「どのようにケア責任を家庭内で、社会のなかで、また国家の役割として分担するのかは、きわめて政治的なイシューである」(p.v111)という文章を読むと、著者が女性であることも含めて説得的に理解ができるし、またローカルからナショナルまで、また今後のケア労働者の担い手を外国人移住者に任せていくということも含めるとグローバルな問題として、スケール横断的な今日的トピックだと理解できる。

本書を読んで改めて思うのは、代議員制民主主義を採用している日本であるが、代表者に自らの思いを託すという私たちの基本的な政治的行為である投票を行うにあたっても、私たちが知らない、あるいは知らされていないことが多いということだ。このあたりについては、やはり教育やマスメディアを通して啓蒙していく必要があるのだろうか。あるいはそれがなされると中央政府にとって都合の悪いので、あえてそうはしていないのか。しかし、一方で啓蒙という近代主義的な発想についてもその達成には躊躇してしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地に呪われたる者

フランツ・ファノン著、鈴木道彦・浦野衣子訳 1969. 『地に呪われたる者』みすず書房、216p.800円.

 

サイード『オリエンタリズム』を読んだのは修士課程だったが、その衝撃的な読書の後に、本書を読む必要を痛感していた。その後古書でファノンの『黒い皮膚・白い仮面』を入手し、読み始めたが途中で断念してしまい、そのまま本書に手を伸ばすこともなくなってしまった。今受けている依頼原稿のなかで、ポストコロニアリズムについてファノンに言及してほしいという要望があり、今更ながら読んだ次第。

 


1
 暴力
2
 自然発生の偉大と弱点
3
 民族意識の悲運
4
 民族文化について
5
 植民地戦争と精神障害
結論

 

もうすでに現代のポストコロニアリズムに触れてしまっている身としては、1961年に原著出版された本書をどうとらえていいのか、前半を読みながら混乱した。ちなみに、序文をサルトルが書いていて、それから読むことも混乱の一因かもしれない。

第二次世界大戦が終わって多くの植民地は解放された。しかし、執筆当時ファノンが身を置いていたアルジェリアが独立したのは1962年。まさに、ファノン自身がその独立運動に参加していたとのことだから、そういう時代背景をまず知識として得た上で読むべきだったかもしれない。総論としての植民地主義はそれなりに理解しているつもりでいる。今日的には、力のある者が暴力的に力がない者から略奪するという印象だが、当時は社会ダーウィニズムに基づいて、優れた人種・民族が劣った人種・民族に与え、導くという意識があった。同時代的に考えた場合に、植民地支配を当事者たちが悪の行為と意識していたわけではないことに気づく。

しかし、実際の植民地支配がどのようになされたのかということを私はあまり勉強してこなかった。部分的にはアンダーソン『想像の共同体』や土屋健治『カルティニの風景』、英国の株式会社による植民地開発事業に関しては勝山貴之『英国地図製作とシェイクスピア演劇』、日本統治下の台湾を描いた映画『セデック・バレ』などで知ることもあったが、いまだに知らないことの方が多い。そういう意味でも、本書から学ぶことはあった。コロンと原住民、西欧化した民族主義者、民族ブルジョアジー、植民地のルンペン・プロレタリアート、など支配する側と支配される側の両極のさまざまな位置にさまざまな主体が位置する。

それはそうと、精神科医であったファノンによる最も衝撃的な内容がやはり5章である。植民地支配をめぐって精神に異常をきたした人々の記録が多数報告されている。これらは脱植民地化された現代において、遠い過去の事実とはとても思えない。非常に現代的な問題を提起していると同時に、人類があまり過去から学んでいないことも分かる。

丁寧な訳者の解説も含めて、貴重な読書体験でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジェントリフィケーションと報復都市

ニール・スミス著,原口 剛訳 2014. 『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』ミネルヴァ書房,404+46p.5,800円.

 

5800円という値段から,これまで読まずにいたが,読んでみて得るところは非常に大きかった。ニール・スミスは論文も含めてほとんど翻訳されていない。『現代思想』の1999年12月号の特集「変容する空間」に訳されている「グローバル経済の危機と国際的批判地理学の必要性」はタイトルから分かるが,国際批判地理学会議の基調講演となっている。
正直言って,スミスは1984年の『不均等発展』を読みたいところだし,ジェントリフィケーション自体には興味はなかった。しかし,本書はジェントリフィケーションを広義に捉え,そうして特定の研究分野にとらわれない広範な議論が展開されていて,素晴らしい読書体験だった。訳者もいわゆる狭義のジェントリフィケーションを専門としているわけではないが,長い時間をかけて本書と向き合って,いろんな人の助言を借りてこの訳書を作り上げたことにまずは感謝の意を表したい。

まえがき
イントロダクション
 第1章 「アベニューBの階級闘争――ワイルド・ワイルド・ウエストとしてのロワー・イーストサイド」
 第2章 ジェントリフィケーションはダーティ・ワードか?
第Ⅰ部 ジェントリフィケーションの理論に向けて
 第3章 ローカルな議論――「消費者主権」から地代格差へ
 第4章 グローバルな議論――不均等発展
 第5章 社会的な議論――ヤッピーと住宅をめぐって
第Ⅱ部 グローバルなことはローカルなこと
 第6章 市場・国家・イデオロギー――ソサエティヒル
 第7章 キャッチ=22――ハーレムのジェントリフィケーション?
 第8章 普遍と例外をめぐって――ヨーロッパの三都市
第Ⅲ部 報復都市
 第9章 ジェントリフィケーションのフロンティアを地図化する
 第10章 ジェントリフィケーションから報復都市へ

本書の原題は,訳書の副題になっている「新たなる都市のフロンティア」である。米国の事例がベースとなっているが,米国でフロンティアといえば,西部開拓の前線のことである。全土を開拓しつくしてしまった後,新しい前線=フロンティアが都市の中心部であるというわけだ。そして,著者自身も研究者としてジェントリフィケーションという現象自体を専門にしてきたわけではないが,自身の都市経験がおのずからこのテーマに向かわせたという。

ハーヴェイについでマルクス主義地理学の立場に立つスミスだから,当然資本主義がもたらす格差社会,貧困の問題,ホームレスなどが彼の主要な研究対象だったわけだが,ジェントリフィケーションはまさに都市中心部の貧困者を襲う資本主義の手だといえる。本書の魅力はその多角的な視角であり,多様な手法である。社会思想的な理論は著者の得意とするところだが,それだけではなく実際の統計データに基づくいわゆる経済理論による検証も含まれている。実際の観察に基づく写真が掲載されれば,雑誌や風刺画,映画などの表象分析も含まれる。

本書での発見はいくつかあるが,非常に素朴なところでは,「ジェントリフィケーション」という言葉自体について。日本ではなじみの薄かったこの言葉を私は学術用語かと思っていたが決してそうではなかったということ。タイトル通り,第2章がこの言葉の一般における用法をめぐる議論だが,第2章のタイトル自体は新聞広告の見出し記事だということである。学術後としても行き過ぎた再開発を揶揄する言葉と私はとらえているが,一般社会においても同様で,開発側はこの言葉を消去しようとしたり,浄化しようとしたりする。

3章,第4章では著者の得意とするスケール論と不均等発展論が存分に生かされている。基本的に本書は米国の事例で展開していくのだが,第8章ではヨーロッパの三都市として,アムステルダム,ブダペスト,パリについてそれぞれの事情が報告されている。

本書がジェントリフィケーション研究にとどまらないのは,「報復都市」についての議論である。この概念を理解するのは少し難しい。ジェントリフィケーションが欧米で進展するなか,もちろんその資本の力に抵抗する反ジェントリフィケーション運動はかなり活発であったのだが,いずれにせよ,弱者の声はかき消されてしまう。さらにはそうした弱者に声に対して,資本の力がマジョリティである大衆の意識に訴える形で,ホームレスなどへの報復を訴えるのだという。その意識が報復主義であり,その立場に立ってさらなるジェントリフィケーションを推し進めるのが報復都市だという。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地政学とは何か(ドッズ)

クラウス・ドッズ著,野田牧人訳 2012. 『地政学とは何か』NTT出版,241p.2,052円.

私はかつて「批判地政学」を中心に地政学に関わる文献を読んでいた。それから20年が経ってしまったが,最近はどうやら日本で地政学ブームということで,とあるところから執筆依頼が舞い込んだ。さすがに20年前で止まっている知識で書くわけにもいかないので,最近出版されたものをいくつか読んでみようと思う。とりあえず,『現代思想』の特集号「いまなぜ地政学か」を読んでみたが,実のところは批判地政学にここ20年の間の進展はさほどないようだ。
進展した分については私も翻訳に参加した,コーリン・フリント『現代地政学』(原書房,2014年)でだいぶカバーできる。最近の地政学ものでは,ここでも紹介したDittimerの『Popular culture, geopolitics & identity』があるが,この両者で取り上げられていたのが,本書の著者ドッズによる映画の地政学研究だ。ということで,これまでドッズの論文は読んだことがなかったのだが,日本語で読めるものがあったので,読むことにした。

1章 地政学的であることは賢い
2章 地政学は知的な毒物か?
3章 地政学的構造
4章 地政学とアイデンティティ

原著は2007年に出版されたもので,訳者は上智大学で国際関係論を学び,ジョンズ・ホプキンス大学に留学した経歴を持つが,翻訳家である。なので,「訳者あとがき」もなく,著者に関する情報は得られない。本書の学術的な位置づけも確認はできない。一般的に「大衆地政学」と訳されている「popular geopolitics」も「一般人の地政学」などとなっており,あくまでも日本での地政学ブームに乗った形での翻訳だといえる(最近はこういうのを「論壇地政学」というらしい)。ただ,訳語で一つ評価できるのは,geopoliticsを「地政学」で統一していることだ。フリント『現代地政学』の監訳者である高木彰彦氏は,学問としての地政学と,そうでないもの(そこには実態としての世界情勢も含まれる)とを区別したいらしく,学を抜いて「地政的」と訳している。高木氏の認識とは立場を多少異にしている,政治地理学者,山崎孝史氏もこの表記には従っているが,私はその表記には反対している。両者は確かに違うのだが,区別はできないと思う。
さて,本書の内容だが,やはり原著もかなり一般読者を意識して書かれていると思われる。本書でも著者が得意とする大衆文化が強調されていて,やはり後半ではハリウッド映画の話などもふんだんに盛り込まれているのだが,「批判地政学」を前面には押し出していない。しかも,批判地政学についてはこれまでの私の理解が一面的すぎたのだが,本書ではフランスの地理学者イヴ・ラコストの研究を指して登場するくらいだ。しかし,このやり方が日本の読者にとってもいいのだろう。
Amazon
でのレビューは3件しかなく,どれもありきたりだが,フリント『現代地政学』のレビューはアカデミズムのたわごとのような厳しい意見が書き込まれている。やはり一般の読者は古典地政学の知識を求めており,そういう期待をした読者に少しでも批判的な意識を気づかせてくれるのではないかとひそかに期待したい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

旅にとり憑かれたイギリス人

新しい書評が掲載されました。8月に書いたものですが,ここにもあげておきたいと思います。

成瀬 厚 2017. 窪田憲子・木下 卓・久守和子編:旅にとり憑かれたイギリス人――トラヴェルライティングを読む.地理学評論 90: 626-629

 

窪田憲子・木下 卓・久守和子編:旅にとり憑かれたイギリス人――トラヴェルライティングを読む.ミネルヴァ書房,2016年,3265p.3,500円.

旅行記は地理学者にとってもなじみのある存在であろう.とはいえ,旅行記の地理学的研究が十分になされているわけではない.英語圏では,文化地理学で表象研究が多くなされていた時期に,ポストコロニアリズムの観点が導入された論集が発表されている(Duncan and Gregory 1999).本書は英文学研究でトラヴェルライティングという言葉を用いた動向を受け,日本人研究者が具体的な素材を使って編んだ論文集である.
編者の一人による序章「冒険・蒐集・帝国――英国トラヴェルライティングの諸相」(窪田憲子)は,その研究史をたどっている.travel writingは旅行記を示す言葉の一つであったが,唯一の表現ではなかった.文学研究で1980年代から特定のジャンルに対してこの語が好んで用いられるようになったことにはイギリスの歴史的背景が大きく関係するという.大航海時代には多くの航海記が残されたが,イギリス小説が登場する際,デフォーの『ロビンソン・クルーソー』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』といった,旅をモチーフにした作品が大きな役割を果たす.19世紀には多くの女性が旅行者となり,その記録を出版した.大英帝国という世界中を覆う大きな傘の下で書かれるテクストをその時代背景で読み解くのがトラヴェルライティング研究ということになるが,その古典としてPrat2008)の『帝国のまなざし』(初版は1992年)は地理学や人類学においても引かれることが多い.
本書は3部に分かれており,第
部「拡張/反転する世界」には,以下の5章が含まれており,植民地支配の状況を批判的にとらえる論考から成っている.
1章「あれは幻の南方大陸か?
――ジェイムズ・クック航海日誌」(大田信良)はクックによる3度にわたる太平洋航海の第二回(1772-1773年)に焦点を当てている.クックの航海について評者が思い浮かぶのは多木浩二による一連の研究である.第二回航海を論じた多木(2001)は,同行した画家ホッジスによる画期的な風景画表現を強調している.この章はそれを暗に批判するかのように,「個別の歴史性をになう物質的条件の吟味を基盤とする文化研究によってこそ,解釈されるべきである」(p.39)と論じ,大半を歴史的背景の記述に費やしている.航海日誌の分析が十分になされていないことには不満が残るが,植民地支配を,イギリスとフランス,オランダとの関係をそれぞれの世界戦略という空間的・政治的次元と,貿易や金融という経済的次元とで捉える視点は多木には欠けていたものだといえる.
2章「プラントハンターの旅行記
――ロバート・フォーチュン,紅茶の苗を求めて中国へ行く」(青木 剛)を読むには橘セツによる研究を読んでおくと理解が深まる(例えば,Tachibana 2014).イギリスによる異国への博物学的な関心は,クックの航海に同行した博物学者たちからあったわけだが,1830年代の庭園ブームのなか,海外からの実用的・装飾的植物の導入がすすめられ,世界中から植物を持ち帰る担い手をプラントハンターと呼んでいた.フォーチュンは1842年にロンドン園芸協会の温室部門主任に抜擢された人物で,実用的植物のチャノキを求めてアヘン戦争後の中国を旅する.中国の良質なチャノキは,イギリスの紅茶文化を支えるインドでの茶の栽培を拡大する役割を果たした.彼の旅行記は専門的な知識を伝えるだけでなく,19世紀になっても多くのイギリス人にとっては〈未知の地〉にとどまっていた中国について一般読者に知らしめるものでもあった.
3章「インド大反乱を見たメンサーヒブたち
――ルース・クープランドの滞在記」(大平栄子)はインド大反乱を経験した女性による滞在記を扱っている.「メンサーヒブ」とは「社会的地位のある白人女性をインドで呼ぶ時の呼称」(p.67)とされる.クープランドはイギリス軍の従軍牧師の妻として18561858年までインドに滞在し,滞在記を残している.反乱の中で,彼女の夫はセポイたちに射殺されるが,彼女は反乱者たちから逃れながらインド内を移動する.イギリス人と反乱者は命を狙われる者と狙う者という関係ではあるが,彼女がインド人全般に向けたのは偏見に満ちたコロニアル的視点であった.
4章「異郷に故郷を重ねて
――スコットランドと旅のレトリック」(松井優子)は,スコットランド人による多くのテクストを取り上げている.それらは18世紀半ばから19世紀後半まで,旅行先は全世界に及ぶが,「スコットランド人の旅行癖とともにあったトラヴェルライティングは複雑にして多様だった」(p.112)という結論が漠然と印象に残るだけで,雑駁なものである.
5章「インドへの愛憎と帝国主義批判
――VS・ナイポールのトラヴェルライティング」(木下 卓)は,トリニダード出身のナイポールの旅行記を取り上げる.インドからの移民三世としてトリニダードで育ったナイポールは大学進学でイギリスにわたり,その後もそこで作家活動をする.1961年にトリニダード政府から奨学金を受け,西インド諸島と南米北岸諸国を回る.1962年にはインドに1年間滞在するが,「旅でナイポールが発見したものは,西洋とインドに引き裂かれた自己だった」(p.129).1988年にはインドを再訪する.それは自分探しではなく,「変貌しつつある多様性に富んだインドの姿を発見した」(p.130).さらにイスラム圏への旅を重ね,彼はポストコロニアルの作家として,イスラム教とキリスト教が有する帝国主義的要素を批判する.
第Ⅱ部は「自然の〈発見〉」と題され,アルプス山脈,極地,アフリカ奥地の旅が取り上げられる.第6章「絶壁に立つ
――アルプス越えと〈崇高〉の誕生」(久守和子)は17世紀後半のグランドツアーを論じている.「山と呼べる山がない」(p.146)イギリスの風景といえばなだらかな起伏の地形を基礎とするピクチャレスクなものである.アルプスを越えてロランなどが描いたイタリアへと至るグランドツアーの目的は,イタリア風景画の蒐集も含んでいたが,お付きの者の籠に担がれてではあるが,アルプスの断崖絶壁を目の当たりにして〈崇高〉概念を美学に取り入れた.
7章「極地をめざす旅
――『フランケンシュタイン』から辿る探検者たちの栄光と挫折」(武井博美)では,シェリーによる『フランケンシュタイン』(1818年)をトラヴェルライティングとして解釈する.当時の極地探検の資料を提示し,この小説もその極地言説の一部であることを論証しているが,作品の全体的な解釈のなかでの位置付けについては明確に示されていない.
8章「ナイルの水源を求めて
――リヴィングストン博士の奥地探検を中心に」(岡倉登志)は19世紀後半のアフリカ内陸部探検を取り上げる.アフリカ協会を母体として1830年に創設された王立地理学協会がアフリカ探検において重要な役割を果たす.「18735月にチタンボ村で息をひきとるまでアフリカの地で社会生活をおくり続けた」(p.202)リヴィングストンを中心にイギリス人の探検記が検討される.アフリカをめぐる植民地政策についての言及もあるが,ナイル川水源特定という科学的探究を議論の中心としている.
第Ⅲ部「異文化との遭遇」は第Ⅰ部や第Ⅱ部のように明確な主題を有しないが,女性旅行家を多く扱っているのが特徴である.
9章「泣きわめく中世の女巡礼者
――マージェリー・ケンプ,聖地への旅」(伊達恵理)は1934年に写本が発見された,イギリス人の中世女性の自伝が紹介されている.14世紀後半,20歳で結婚し「40歳になるまでに14人の子どもをもうけた」(p.218)というケンプは「英語で書かれた最古の自伝」(p.217)を残し,その半分を旅先の出来事が占めている.彼女は突然信仰に捉えられ,神のお告げで聖地巡礼を始める.エルサレムへの巡礼は巡礼団での旅となるが,周囲への配慮のなさから「疎ましい以上に,迷惑な存在」(p.223)であり,一人置き去りにもされてしまう.彼女は,信仰に関しても幻視や号泣の発作により,悪魔憑きと非難されるような特異な中世女性巡礼者であった.
10章「『マホメットの楽園』を旅して
――メアリ・モンタギュとトルコの女性たち」(志渡岡理恵)では,トルコ大使の妻が残した滞在記が取り上げられる.特筆するべきことは,彼女が偏見のない視線でトルコ社会を眺めていたことである.彼女の功績は,トルコでは民間で行われていた天然痘種痘をイギリスで普及させたことである.「当時イギリスでは,ローマ帝国を滅ぼした強力なオスマン帝国の脅威に対する不安もあって,トルコは『野蛮な国』と貶されていた」(p.255).本章では,モンタギュの滞在記の分析を通じ,彼女のトルコ社会との関わり合い方,トルコ人へのまなざしがその功績にいかに結びついたかが論じられる.
11章「アルフレッド・イーストと明治日本の出会い
――ある風景画家の旅日記から」(中川僚子)は,1889(明治22)年に日本に半年間滞在した風景画家の日記を取り上げている.この年は「アーネスト・フェノロサ,岡倉天心を理論的指導者として東京美術学校が開設された年である」(p.272)という.イーストは日本美術史においても重要な人物であり,イギリスでも帰国後に開かれた日本の風景画展覧会で画家として飛躍したという.日本への旅は日本に関心を持つ芸術家でない2人に同行する消極的なものであったが,箱根や日光での日本人との出会いは彼にとっての貴重な経験だったという.
12章「ヴィクトリアンの日本見たまま
――イザベラ・バード『日本奥地紀行』を読む」(窪田憲子)は,金坂清則氏による翻訳で知られる『日本奥地紀行』が取り上げられる.外国人に移動制限があった1878(明治11)年に,イギリス公使からの調査依頼という形をとって,バードは自由に移動できるパスポートを有していた.本章では,衝撃の異文化体験と題し,彼女が否定的に捉えた出来事を中心に紹介される.彼女の旅は個人的な興味や物見遊山の旅ではなく,「旅を自分に与えられた試練・天職(vocation)として受け止め,好き嫌いを超越して旅して回る」(p.317)ものだったという.
本書で取り上げられるテクストは航海記,旅行記,滞在記,雑誌・小説,探検記,巡礼記など多岐にわたる.それらは1819世紀のイギリスという時代と場所に限定されたものだが,大英帝国の植民地政策によって太平洋,中国,インド,極地,アフリカ内陸部,トルコ,日本と世界中を結びつけている.トラヴェルライティング研究は英文学研究の空間論的転回とも呼べるものかもしれないが,地理学研究はほとんど参照されず,ポストコロニアル批評をベースとした独自の展開だともいえよう.
執筆者の多くは英文学の研究者であるが,門外漢の読者にも嬉しいのは,取り上げられるテクストの日本語訳が出版されているものが多いことである(12578912章).評者は時折英米文学の研究論文を読むことがあるが,テクストからの引用が原文のみであったり,また微妙な英語表現が論旨の中心をなしていたりすると理解に及ばないことがある.本書は,その辺りのストレスを感じず読むことができるのも特徴の一つだといえる.

文 献

多木浩二 2001. 『船とともに――科学と芸術クック第二の航海』新書館.
Duncan, J. and Gregory, D. eds. 1999. Writes of passage: Reading travel writing. London and New York: Routledge.
Prat, M. L. 2008. Imperial eyes: Travel writing and transculturation second edition. New York and London: Routledge.
Tachibana, S. 2014. The
capture of exotic natures: cross-cultural knowledge and Japanese gardening in early 20th century Britain. Japanese Journal of Human Geography 66: 492-506.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ポスト2020の都市づくり

一般社団法人国際文化都市整備機構(FIACS)編 2017. 『ポスト2020の都市づくり』学芸出版社,285p.2400円.

 

2020年の東京オリンピック後に,そのために行った都市整備をどう活用すかという議論は新聞レベルでもありますが,本書はフロリダの翻訳者である井口典夫氏も書いているということで,読んでみた。読み終わって,帯を見てみると,「ソフトパワーによるイノベーティブなまちづくりへ」とある。確かに,私はオリンピックのために整備された競技場や関連するインフラをどう活用するのかというハードな問題ではなく,ソフトな問題を知りたかったわけだが,本書はあまりにもオリンピックとは関係なかった。しかし,反面教師的に本書から得たものはあった。

序文 「ポスト2020年」が意味するもの(水野誠一)
1章 創造都市の理念と実際(井口典夫)
2章 都市の創造力を高める「ポップ」&「テック」(中村伊知哉)
3章 来るべき計画者のために~アートプロジェクトの現場から(芹沢高志)
4章 アートは地域に取り込まれるのか,地域はアートに力をもらえるのか(玉置泰紀)
5章 街のブランディングとソフトインフラ(小林洋志)
6章 動き出すパブリックスペースと運営組織のデザイン(保井美樹)
7章 都市開発の変化とソーシャルハブの形成(松岡一久)

その井口さんとは,本書に書かれている略歴によると国土交通省で役人をしていた後,青山学院大学に移ったという。本書の1章では,渋谷・青山・原宿エリアのまちづくりに関わった事例が紹介されているが,ここを「筆者自身のふるさと」(p.33)と呼ぶ。「地元」ならまだしもこんな日本屈指のファッション地区を「ふるさと」と呼ぶところにまず違和感を抱く。確かに,こうした多くの資本が集中する地区であっても,各企業が好き勝手にやって統一された街並みができるはずはないが,この地区を訪れる者なら誰もが知るあれもこれも私が提案したみたいに書かれると自慢にしか聞こえない。実態は分からないが,潤沢な資金に人材が集まるようなこの地区の事例は,事例になりうるのであろうか。

本書はそんな「エリートまちづくり」としては一貫している。地方の名だたるアート・フェスティバルのディレクターやKADOKAWAの編集者,博報堂プロデューサーなどなど。2章は竹芝地区に計画されているデジタル・コンテンツの集積地「CiP」の話。3章は別府市のアート・フェスティバルやさいたま市の「さいたまトリエンナーレ」。4章は日本各地で成功した「地域アート」の主催者へのインタビュー。5章は博報堂が手掛けた東京スカイツリーのソフト面でも取り組み。6章は公共空間の話だが,事例は日本の大都市圏中心部。7章は「ソーシャルハブ」という概念を提示しているが,公的に開かれた場でのクリエイティブな交流の必要性といったところでしょうか。

本書は地域活性化をうたっているわけではなく,あくまでも「都市づくり」といっているので,看板に偽りありというわけではない。私が期待していたものとは違っていたということだけだ。しかし,フロリダの理論がこういう人たちによって日本で紹介されていることが,現在この理論が政府の政策にも応用されていることの所以かと妙な納得をしてしまった。そこにアカデミーも絡んでいるわけだが,これらがもたらす功罪についてもアカデミーがしっかりみていかなくてはならないのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クリエイティブ都市経済論

リチャード・フロリダ著,小長谷一之訳 2010. 『クリエイティブ都市経済論――地域活性化の条件』日本評論社,250p.2800円.

 

都市論の勉強の一環で読んだ一冊。フロリダの著書は『クリエイティブ資本論』が有名だが,一冊読むのであれば,地理学者でもある小長谷さんが翻訳したものを読んでみたいと思った次第。本書は『クリエイティブ資本論』のベースとなったいくつかの学術論文を収録したものということらしい。

 第Ⅰ章 はじめに
 第Ⅱ章 都市とクリエイティブ・クラス
第Ⅰ部 才能
 第Ⅲ章 才能の時代の競争
 第Ⅳ章 才能の経済地理学
第Ⅱ部 寛容
 第Ⅴ章 ボヘミアンの経済地理学
 第Ⅵ章 技術と寛容(ゲーリー・ゲーツとの共著)
第Ⅲ部 場所
 第Ⅶ章 大学,才能,場所の質
 第Ⅷ章 9.11以降の場所づくり――クリエイティブ時代におけるロウアー・マンハッタンの復興
 第Ⅸ章 未解決問題

本書を読んで,やはり『クリエイティブ資本論』も読んでおこうと思ったが,おそらくそこでの発想は本書にすでに出そろっているようだ。フロリダが主張するクリエイティブ都市という議論はすでに日本政府の政策にも反映されるほどポピュラーなものになっている。まあ,この手のものが制作に利用される際には,その表面的な理解や形骸化が常なので,そこから頭ごなしに否定するのではなく,きちんと読んでおかなくては。

フロリダの主張はとても分かりやすい。それは大胆であるから注目されやすく,また統計データを利用して指標化・数値化して示しているから説得的で理解されているように感じた。そして,一方ではそのことが逆に専門家には反感を読んだり,批判を招いたりしている。やはりなんとなくサッセン『グローバル・シティ』と似ている感じがした。

本書でフロリダは,クリエイティブ・クラスを特権的な階級とみなしているわけではない。誰でもクリエイティブな才能を発揮できるはずだが,実際に発揮できるにはさまざまな条件があるのだという。そのキーワードが「寛容性」である。ある場所にクリエイティブな才能を発揮した人が集まるのは,そこが寛容な場所だからだという理論である。寛容性をはかる指標の一つが「ゲイ」である。同性愛者は,自身の居心地が悪い場所を避け,自分を受け入れてくれる土壌を求めて移動をする。それは芸術家にも当てはまり,それを本書では「ボヘミアン」と呼ぶ。これは今読んでいるスミス『ジェントリフィケーションと報復都市』のジェントリフィケーションの動向と一致する。スミスはもちろんこの動向には否定的なのだが,フロリダの理論では,それが都市を活性化させる要因だという。楽観的なフロリダに対し,悲観的なスミス,そこに中道のサッセンを位置づけられようか。

それにしても,数値化されたデータの提示が私のような読者には非常に煩わしい。同じ指標を何通りも組み合わせて同じ形式のグラフに示すという表現の仕方はあまりクリエイティブには思えない。まあ,ともかく本書で,フロリダ自身は自分の学説的な位置づけもしているし,自伝的な内容も含んでいて,学ぶことは多かった。そして,本書は訳者の解説が非常に丁寧であることも特徴の一つ。『クリエイティブ資本論』の訳者は,後日紹介する本の執筆者の一人だが,フロリダ理論を政策に適用してきたまさに張本人だが,訳者の比較というのも面白いかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新自由主義(ハーヴェイ)

デヴィッド・ハーヴェイ著,森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝訳 2007. 『新自由主義――その歴史的展開と現在』作品社,395p.2600円.

 

最近私は近年の都市論について勉強している。先日紹介したサッセン『グローバル・シティ』もその一環だが,それより有名になってきたリチャード・フロリダなども読んでいる。その議論はクリエイティヴ都市論などとも呼ばれている。こうした動向は日本の社会学者がけっこうきちんと紹介しているのだが,その文脈で,英語圏地理学者による「都市の新自由主義化」という議論があるらしい。こちらは日本語ではまだきちんと読めるものはないのだが,もちろんそのベースとしてハーヴェイの新自由主義論があるということで,読むことにした。日本語訳は400ページ近い大著だが,原題は「新自由主義の簡単な歴史」ということになっている。まあ,実際日本語版の帯にも「21世紀世界を支配するに至った新自由主義の30年間の政治経済的過程とその構造的メカニズムを世界的権威が初めて明らかにする」とあるように,歴史といっても英国のサッチャーと米国のレーガン辺りからの話にすぎない。

第1章 自由とはこういうこと
第2章 同意の形成
第3章 新自由主義国家
第4章 地理的不均等発展
第5章 「中国的特色のある」新自由主義
第6章 審判を受ける新自由主義
第7章 自由の展望
付録 日本の新自由主義(渡辺 治)

最近,作品社から翻訳の続くハーヴェイものとしては,本書が読むのが初めてだが,これまで私が読んだハーヴェイものとはかなり異なった印象を受ける。確かに,ハーヴェイは博学でさまざまな知識が自由自在に駆使されて論が展開するのだが,本書は私が生きている時代の歴史ということもあるが,時事ネタのオンパレード的な感じで,学術的な重厚さや地理学的な雰囲気が前半ではほとんど感じられない。まあ,それは翻訳本の想定の雰囲気にもよるのだろうけど,やはり矢継ぎ早に出版されるハーヴェイの最近の著作はこういう感じなのかもしれない。

とはいえ,やはりその議論は適切で,思わず納得させられてしまう。本書は新自由主義を扱ってはいるが,特に政治の側面からアプローチしていて,論旨は明確である。しかし,彼の得意とするところの「地理的不平等発展」に関しては,第4章の目次から期待されるほど学ぶことは多くなかった。

私にとって学ぶことが多かったのは中国に関する説明である。素朴に,私はなぜ社会主義国の中国がこれほどの経済成長を遂げたのかということについて知識がなく,その点では基礎的な歴史的知識を得ることができた。そして,第4章以降は徐々に読み応えのある内容になってきて,読後の達成感はかなり得られた。新自由主義に関してもう一冊翻訳されている『ネオリベラリズムとは何か』も読んでおきたい。付録の日本に関する議論もためになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

保育・子育て支援の地理学

久木元美琴 2016. 『保育・子育て支援の地理学――福祉サービス需給の「地域差」に着目して』明石書店,220p.2800円.

 

先日,三輪律江・尾木まり編『まち保育のススメ』という本を読んだ。この本はクレヨンハウス発行の雑誌『クーヨン』で紹介されていたもの。育児をしている身としてはとても勉強になったし,地理学的にも興味深かったので,書評を書こうと思っている。しかし,一方で地理学にも最近保育に関する研究書が出版されているので,それを無視して書評を書くこともできない,ということで読んでみた次第。とはいえ,著者の研究論文は身近にあって読むこともできたのに,なぜか読んでこなかった。著者は私よりかなり年下で,本書が明石書店から出ていることもあり,多少の嫉妬心も含めて読んでみた。

はじめに
1
章 子育て支援と地域
2章 保育をめぐる地理的諸相
3章 都心は「子育ての場」となりうるか?①――都心大企業による企業内保育所の意義と限界
4章 都心は「子育ての場」となりうるか?②――湾岸部タワーマンション居住者の「保活」
5章 保育サービス不足地域における行政の役割
6章 大都市圏郊外における子育てNPOの役割――「ジェンダー化された空間」の保育資源
7章 ローカルなニーズ,ローカルなサービス①――地方温泉観光地の長時間保育事業の取り組み
8章 ローカルなニーズ,ローカルなサービス②――工業都市川崎の地域変容と学童保育
9章 地域に即した子育て支援に向けて。

目次の通り,全9章からなる博士論文がベースとなっている。そして,事例研究である3章から8章まではすでに発表されている学術論文がある。なのに総ページ数が220ページということで,書籍としての書き直しをかなりしているということが分かる。確かに,1,2章は学術的な読み応えがあり,3~8章はそれに沿った事例がコンパクトに並べられていて読みやすくなっている。9章はある種の提言ではあるが,事例では分からないような大風呂敷を広げることもなくまとめられている。

保育に関する研究や一般書はそれこそ非常に多いので,そういう意味においても「地理学」という観点を分かりやすく提示するという点において,本書はとても成功していると思う。著者は東京大学の地理学教室で学んであり,本書で提示されている地理学的な視点や方法は非常にオーソドックスなものである。保育や子育てに関してナショナルな視点,すなわち日本全国と都道府県における違い,場合によっては市町村レベルでの違いを示し,それを分類する。都市と農村や大都市と地方都市など。大都市は都心と郊外などに分類し,それぞれが抱える問題を居住者の年齢構成,家族構成,就業状況,その時間的推移などの「地域的背景」を確認し,本書のテーマである保育・子育てに関する指標である,待機児童数や保育施設の分布などと関連させて分析する。その総論を受け,論じる事例をいくつか抜き出し各論として論じていく。

各論として選ばれたのは東京都心,東京23区のなかでも保育サービスが不足しているといわれるいわゆる「下町」,名古屋都市圏郊外のニュータウン,地方温泉観光地,工業都市としての川崎と,多岐にわたる。しかし,これらの事例は,東京都市圏郊外で子育てをしている私のような読者にはいずれもなじみのないものである。一方で,『まち保育のススメ』は横浜市を中心になっていて,私のような読者にはなじみのあるものだが,ある意味ではこれも特殊の事例を一般化しているといえる。まあ,本書の後半の章タイトルが占めるように,保育や子育てに関してもローカルなニーズに対応するローカルなサービスが提供されているというのが実情であろう。

本書の事例は選ばれた地域についても気になるは気になるのだが,さらに指摘しておかなければならないのは年次の違いである。各章の調査は,著者がこれまでのキャリアで積んできたものであり,発表された論文は一番古いもので2006年である。そして,各調査ではアンケート調査がなされており,基本的にやり直して再新時点に合わせることは難しい。しかし,アンケート実施年が2003年7月と書かれているものを目にすると「えっ」と思ってしまう。保育・子育ての環境は刻々と変化しており10年前となると,それこそ保育園児だった子が中学生になってしまう。また,7章までは基本的に未就学児を対象とした「保育」だったのに対し,8章のみは「学童」が対象になっている。私の住んでいる自治体では,学童に関しては「保育」という言葉を使わずに「育成」という言葉を使う。まあ,この言葉にはしっくりはこないが,やはり言葉の使い分けは必要だと思う。

本書を読んで,残念だった気持ちと安心した気持ちが共存した。日本の地理学では福祉分野の研究がけっこう盛んのようにみえる。本書もその流れに位置づけられるのだが,まだ保育や子育てというテーマに関してはまだまだだということが確認できた。というのも,介護や障がい者というテーマとなると実感がないので,研究から知ることの方が大きく進んでいる感じがするのだが,保育に関しては自分の経験があるため,その経験外で本書から学んだことはもちろん多いのだが,まだまだこんなことも調査・研究,考察できるのではと思ってしまう。ともかく,書評を考えている『まち保育のススメ』とは対照的だということが分かったので,書評する意義は十分に感じた読書でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グローバル・シティ

サッセン, S.著、大井由紀・高橋華生子訳 2008. 『グローバル・シティ――ニューヨーク・ロンドン・東京から世界を読む』筑摩書房,477p.,円.

 

仲の良い地理学者、荒又美陽さんの科研費メンバーに「協力研究者」として加えてもらった。課題は「ポスト成長期のオリンピックに関する地理学的研究―メガイベントを通じた都市変容分析」というものであり、私の担当として、とりあえず近年の都市論の推移を把握することが要求されている。ということで、サッセンのグローバル・シティ論をきちんと読んでおこうと思い、読み始めた。

その前に、手元にあった『現代思想』のサッセン特集をきちんと読んでみた。サッセンは思いの外、地理学研究に精通していて、『労働と資本の国際移動』という翻訳もされた著書があるように、移民研究も手がけている。今年翻訳が出た『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理』を読む前に本書を読んでいこうと思った次第。

 第1章 本書について
1部 グローバル化の地理学と構図を読み解く
 第2章 分散と新しい形の集中
 第3章 対外直接投資の新しいパターン
 第4章 金融業の国際化と拡大
2部 グローバル・シティの経済秩序
 第5章 生産者サービス
 第6章 グローバル・シティ――脱工業化時代の生産の場
 第7章 グローバルとシステムをつくるもの――ネットワークと階層
3部 グローバル・シティの社会秩序
 第8章 雇用と所得
 第9章 経済再編――階級と空間の二極化
むすびに
 第10章 新しい都市のレジーム?
エピローグ
別表A-D

目次を見ても驚くのは,彼女がかなり「地理学」という語を多用していることだ。もちろん,ハーヴェイやソジャ,スミス,スコットといった地理学者の文献が登場するだけでなく,なんとクリスタラーの名前も出てくることに驚く。特にクリスタラーを意識して,第7章のテーマは「都市システムの階層」となっている。しかし,それより驚いたのが,彼女の夫がリチャード・セネットだということ。世代的にはだいぶ離れているような気もしますが。

さて,前半は,というか後半までけっこう私には読みにくい。とはいっても,翻訳は素晴らしく,読みにくいというのは内容のこと。第3章が「投資」で第4章が「金融」ということで,私の苦手分野なのです。しかも,これまで私が馴染んできた都市論といえば,難しい思想書を駆使して論を組み立てる類のものが多かったのに対し,本書はきちんとしたデータを整理,提示し論を組み立てるということです。文献を参照するのはそうした経験的な研究成果であって,都市思想ではないという点は,ある意味新鮮で,だからこそ都市社会学の人に非常に評価されているのかもしれません。ただ,もちろん「投資」や「金融」がグローバル・シティにとって最重要の要素であることは私もわかります。本書の初版は1991年であり,翻訳書は2001年に出された第二版である。その10年間のデータが更新されていることは当たり前だが,初版に寄せられた批判に対する回答も巻末に収められている。そこでも述べられているが,投資や金融という,グローバル化に特有の場所によらない社会関係の在り方を,著者はあえて都市に埋め込もうとしているところに特徴がある。それが第1部である。

第2部の中心は「生産者サービス」である。サービス業というのは小売業を代表とする消費者を相手にした商売であるが,生産者を相手にしたサービスがグローバル・シティには顕著だという。これも,やはり場所を強く意識していることが分かる。多国籍企業の本社などが集中する大都市にはそういう生産者が経済活動を行う際に必要なサービスを提供する企業も集中するということだ。まあ,なんか私が書くと当たり前のことを書いているだけのような気もします。ちなみに,期待した第7章は,それほど地理学研究的な都市システムの話には展開していなくて残念。

読み応えがあったのは第9章です。ここは,彼女の得意分野でもある移民の話を含んでいるということもありますが,その前段というか,この議論を効果的にするために,投資や金融,生産者サービスに関する長々とした説明があったような気もします。そして,移民だけではなく自国の下層労働者についても,これまで論じられてきた両者の単純な関係だけではなく,詳しく議論がされています。日本の日雇い労働についても調査しているようで,詳しいエスノグラフィックな記述もあります。

「エピローグ」における初版に寄せられた批判に対する応答も非常に読み応えがあります。そこでちょっと気になったのは,本書ではグローバル・シティをとりあえず,ニューヨーク,ロンドン,東京の三都市としています。そして,この三都市に関するデータの比較をしているわけですが,それ以外のグローバル・シティ候補都市について同じようなデータの比較をした上で三都市が選ばれたのか,あらかじめ決め打ち的にデータがそろえられたのかということです。地理学者がやりそうなのは前者でありますが,作業としてはかなり膨大になると思います。まあ,本書は量的なデータでグローバル・シティの条件を探すような研究ではないので,そういう必要はないとは思いますが。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«沖縄とベトナム