洗濯物が乾きません

2016年8月3日(水)

大学が夏期休暇に入り,例年は週5日で会社勤務をしたりしていますが,今年はしっかり休んでいます。水曜日はテアトル系をはじめとしていくつかの映画館でサービスデーだったりしていますが,恵比寿のガーデンシネマもサービスデーということで久し振りに恵比寿に行くことにしました。

恵比寿ガーデンシネマ 『生きうつしのプリマ

ドイツ映画『ハンナ・アーレント』の監督・主演コンビで撮影された作品。初老の男性がある日ネットで,亡くした妻そっくりのオペラ歌手を見つけ,娘にそのオペラ歌手に接触するようにお願いするところから物語は始まる。まあ,そんな奇抜なストーリーというわけではありませんが,脚本がしっかりと書込まれていて,観ていて飽きない映画。出演する役者もいいですね。やはり日本で上映されるドイツ映画は良質な作品が多いです。

2016年8月18日(木)

日比谷みゆき座 『ヤング・アダルト・ニューヨーク

ベン・スティラーは『ナイト・ミュージアム』の1作目は観たけど,個人的にはあまり好きではない。本作で彼の妻を演じるナオミ・ワッツもどちらかというと苦手な女優。でも,加齢を隠そうとしない感じは好感が持てます。本作で好きな俳優といったらアマンダ・サイフリッド(なんか,読み方が変わりましたね)くらいか。でも,思ったよりも登場場面が少なく残念。

原題は「While We're Young」というもので,「若くいられる間」とか「若いと思っているうち」とかそんな意味合いだろうか。なかなか考えさせられる要素が盛りだくさんの作品。主人公は44歳という設定。若い頃は少し売れた映画を作ったが,最近はだらだらとなかなか完成させられないドキュメンタリー映画監督。ある日,若い夫婦に出会い刺激のある生活に...という展開。中年夫婦はハイテク生活に溺れ,若者夫婦は逆にアナログ志向とか,子どものいない主人公夫婦と,40歳代で子どもを産んだ親友夫婦との関係悪化,ずる賢く成功へと向かっていく若者と生真面目なやりかたでなかなか成功を掴めない主人公。

まあ,ちょっと中だるみな場面はありましたが,結末的にはすっきりしたので,いい映画だったと思います。

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Landing: Eight collaborative projects between artists + geographers

Driver, F., Nash, C., Prendergast, K. and Swenson, I. eds.

2002. Landing: Eight collaborative projects between artists

+ geographers. London: Arts and Humanities Research

Board, 64p.

本書は,私が2013年に『地理学評論』に発表した風景芸術に関する論文を執筆中にみつけたもの。いくつかの芸術関係の地理学論文に引用されていたが,きちんとした著書というよりは,美術展のカタログ的なもので,いわゆる著者とか編者というものが明記されておらず,Amazonで探す際も少し苦労した。ともかく,大学図書館で所蔵している大学はない様子。

小冊子だが,デザインも凝っていて表紙,裏表紙にもびっしりと文字が印刷されていたりします。論文執筆当時はペラペラめくるだけだったが,今回一通り読んでみた。一応,以下に目次を示しますが,分かりにくいです。本書はロンドン大学ホロウェイ校の地理学者を中心に企画された,地理学者と芸術家の8つのコラボレーションの記録。参加している人のなかで,キャサリン・ナッシュという地理学者は,キャシィ・プレンダガストという芸術家の作品を分析する研究論文を発表していて,そんなつながりから広がっていったのではないかと想像される。

本書の巻末に文章を寄せたキュレーターのイングリッド・スウェンソンがまとめやくで,『視覚的方法論』という著書もある地理学者のジリアン・ローズが寄稿していて,8つの展示について一通りの解説をしているご意見番といったところか。目次で「+」で結んだ8つの章がコラボレーションの内容で,芸術家と地理学者の組み合わせになっている。それぞれタイトルがなく,名前だけが列記されているので分かりにくい。

序章:フェリックス・ドライヴァー,キャサリン・ナッシュ,キャシィ・プレンダガスト

ケース・スタディ(着陸,進展しながら制作する展示):ジリアン・ローズ

ユアン・クルス+ルシアナ・マーティンス

マシュー・ダルツェル,ルイーズ・スカリオン+ジャン−リュック・シュウェニンガ

ジェレミ・デラー+アドリアン・パルマー,デイヴィド・ギルバート

ジャクリーヌ・ジェフリーズ+ロブ・ケンプ

ジャニス・カーベル+フェリシティ・カラード

ニルス・ノーマン+ヴァンダナ・デザイ

キャシィ・プレンダガスト+キャサリン・ナッシュ

リチャード・ウェントワース+フィル・クラング

コラボレーションに関する思考:イングリッド・スウェンソン

作者紹介

芸術展示といっても,芸術家の活動に地理学者が口を出してギャラリーで展示されるというものではなく,大学の研究室を展示の場所としていて,主にその鑑賞者は地理学者が想定されているようだ。地理学といっても自然地理学者も含んでいて,芸術作品の素材としての岩石や鉱物,植生などが用いられる。地理学者の手法としてのフィールドワークが取り入れられ,自然観察や街でのフィールドトリップと景観観察,そんなものも含まれる。

既に地理学者との関係も深いキャシィ・プレンダガストによるこのときの制作作品は,想像上の地図。一見,普通の地図に見えるのだが,地図に書込まれる「地名」に着目し,どこにどんな言葉を書込むのか,というところに芸術性と思想を忍び込ませるというもので,とても刺激的だ。ともかく,英国ではこういう試みがけっこうすすんでいるようで面白い。日本でも,まだまだ芸術への関心は低いが,おそらく若い世代にはこういうことをできる素養があると思うので,こういうことができる可能性はあると思う。

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日本とは何か

梅棹忠夫 1986. 『日本とは何か――近代日本文明の形成と発展』日本放送出版協会,232p.,780円.

こちらも日本論を読む一環で選択したもの。当然著者の名前は知っていたが,読む機会はなかった。しかし,本書が掲げるのは日本文化ではなく「日本文明」である。そのことは1992年に出版された西川長夫『国境の越え方』では特筆されていなかったが,1998年出版のテッサ=モーリス・スズキ『日本を再発明する』では特に意識して「文明」に1章を割き,バブル終焉期の1990年にこぞっていくつかの「日本文明論」が登場したという。本書は1980年代のもので,『日本を再発明する』のなかでも直接の検討対象にはなっていないが,1990年代の日本文明論に大きな影響力を持っているという。

序にかえて:ニューヨーク,パリ,ポートランド,そしてヴァンクーヴァー

Ⅰ 日本文明の座標

Ⅱ 日本文明の位置

Ⅲ 近代日本文明の形成と発展

Ⅳ 日本文明の歴史的連続性――伝統社会とハイテク社会

Ⅴ コレージュ・ド・フランス出講記

付 梅棹先生の素顔――コレージュ・ド・フランス随行記(小川 了)

解説 梅棹文明学をめぐって(米山俊直)

この手の日本論は多少斜に構えて読んでしまうが,本書は特にⅢ章を非常に興味深く読んだ。Ⅲ章は歴史を遡って,現代から明治,江戸,中世と検討していく。その歴史的知識の豊富さに驚かされる。著者はもともとモンゴルやアフガニスタンをフィールドとする民族学者だったという。まあ,はじめからある意味で反ヨーロッパ的ではあったのだが,ヨーロッパ中心主義的な歴史観を脱するために,「日本文明論」を持ち出す。日本文化は他の文化との横並びではなく,優劣の序列の最高点に立つヨーロッパ文明と,日本文明は肩を並べるほどの優位性を持つというような主張へと結びつく。

著者によれば,一般的に日本は明治維新以降に文明開化といってヨーロッパ文明を積極的に取り込むことで近代化を遂げ,ヨーロッパ文明を基礎とする世界のなかで先進諸国の仲間入りを果たすというものである。それに対し,著者はユーラシア大陸の西の端のヨーロッパと東の端の日本は,大陸中央の乾燥地帯によって隔てられ,長い歴史で交流がないまま似たような発展を遂げたという。どちらにも封建制があるというのがその大きな根拠だという。確かに,明治期にはヨーロッパから多くのものを吸収するが,それ以前に日本は近代化の道を歩みつつあり,そのベースがあって,ヨーロッパ的なものを取り込みやすいものにしたという。

本書に他の日本文化論と共通する部分があるとすると,Ⅳ章の内容だろうか。日本がかつてから持っていたものと,現代手に入れたものとが共通性を持っているのであれば,それは外見が変わっても「日本的なもの」は普遍的に息づいているということになる。

本書は著者がさまざまな国から招聘されて行った講演や連続講義の内容をまとめたものであり,それらの事情に関してもかなり詳しく説明されている。著者が多くの言語を読み書きレベルで習得しながらも,ヨーロッパ言語での会話能力はほとんどなかったというのは驚く。しかし,通訳を付けてでも,特にフランスで彼の研究を聴きたがる人がいたというのはやはりすごいことなのだと思う。

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entanglements of power

Sharp, J. P., Routledge, P., Philo, C. and Paddison, R. eds. 2000. entanglements of power: geographies of domination / resistance. London: Routledge, 301p.

大学院時代,ジョアンヌ・シャープという地理学者による大衆文化の地政学という研究に非常に惹かれた。彼女はその後,ポストコロニアル文学の研究から徐々にフェミニズムへと傾倒していく。以前にも彼女が編者の一人として出版された『BodySpace』という論文集を読んだが,本書も彼女が編者の一人ということで購入した本。序文は買った当時に読んだが,それから10年以上経って,ようやく読み終えた。

1 縺れ合う権力:支配/抵抗の地理(シャープ, J. P., ラウトレッジ, P., ファイロ, C. and パディソン, R.)

2 ヴィクトリア朝のセクシュアリティとクレモーネ庭園の道徳化(フィリップ・ハウェル)

3 友人関係としての権力:空間性,女性らしさ,および「騒がしさの監視」(ジェニファー・ロビンソン)

4 遊牧民的戦略と植民地統治:キレナイカにおける支配と抵抗1923-1932(デイヴィド・アトキンソン)

5 ドイツ再統一に抗する場としての近隣(フィオナ M. スミス)

6 権力としてのスポーツ:抵抗としてのランニング?(ジョン・ベイル)

7 エクアドルにおける縺れ合う抵抗,エスニシティ,ジェンダー,および国民(サラ A. ラドクリフ)

8 英国テレビにおけるジャマイカのヤーディーズ:支配的表象,抵抗のための空間?(トレイシィ・スケルトン)

9 組織的地理:職業組織における監視,展示,および権力の空間(フィリップ・クラング)

10 縺れ合う人間:権力とその空間性を特定する(スティーヴ・ヒンチクリフ)

11 反これ−対あれ:人間−非人間の軸に沿った抵抗(クリス・ウィルバート)

12 フォーリング・ダウン:症状としての抵抗(ティム・クレスウェル)

13 縺れ合う権力:影?(ナイジェル・スリフト)

14 縺れ合う権力:反省(ドリーン・マッシィ)

ということで,1章は10年以上前に読んだので,よく覚えていないが,下線をひいてあるので,そちらで少し思い出そう。本書のタイトルに用いられている「entanglement」という言葉についてかなり詳しく説明されている。ポストモダン思想は近代が作り上げた単純な思考を解体し,より複雑に理解しようとする傾向があるが,本書もその系譜にあるといってよい。この,絡まり合って,縺れ合うという意味を持つ「entanglement」という言葉をある種流行らせようという意気込みさえ感じる。タイトルの「権力」,副題の「支配と抵抗」というのは,人文地理学においてマルクス主義の影響が強くなり,広義の政治性を問題とし始めてからのキーワードであり,当初は権力の側の,支配の側の批判・否定に勢力を注いでいたわけだが,徐々にそれに抵抗する民衆の姿,あるいは権力を人々がいかに受け入れているのか,受け流しているのかそういうところに焦点をあてていくようになるのは,カルチュラル・スタディーズなどの流れを受けている。1章では従来の権力論が概観され,それがフーコーの存在によって見方が変わり,特にそのことが権力を地理の問題と関連させることになるという論の展開となっている。

2章はヴィクトリア朝(1837-1901年)のロンドンのクレモーネにおける風俗産業(?)をめぐる問題を取り上げる。1932年にできた庭園は1943年以降に急速に淫らな性の快楽の庭へと様変わりしたという。娼婦という存在は決して新しいものではないと思うが,社会的に彼女たちをどう扱うかという道徳的な問題は時代の産物だといえる。この章では,この庭園の閉鎖に対する賛成派と反対派の分布図が示されていたりして面白い。雑誌に掲載されたさまざまなイラストや風刺画が転載されていて雰囲気は分かるが,やはりきちんとした理解には至っていない。

3章は南アフリカをフィールドとする著者による論文だが,英国の社会改良家であるオクタヴィア・ヒルに関連するものである。オクタヴィア・ヒルは日本でどれほど知られているのだろうか。実は私は知っていて,『地理学評論』に2004年に中島直子という人がヒルのオープン・スペースに関する論文を書いているのだ。2005年には著書にもなっているらしい。ともかく,ヒルは英国で住宅や近隣地区を中心とする計画で社会改良を果たそうとした人らしく,その人の思想と方法を受け継いだ団体が南アフリカでも活動をした,ということらしい。しかも,本章によるとその団体は「オクタヴィア・ヒル女性住宅管理者」という名で,アパルトヘイト下の南アフリカで活動していたとのこと。南アフリカも英連邦の加盟国であるというつながりである。管理者のいる賃貸の集合住宅など現代の状況で想定してみよう。管理者は集団生活の倫理と道徳を説き,規則を罰するものに対して注意をする。この非常に小さな社会に秩序がもたらされるがそれはあくまでも小さな社会であり,その外部との関係はまた別問題となる。社会はあるていど改良される一方で,人種差別は維持される。

4章は私は全く把握していなかったが,イタリアのファシズム政権下でアフリカに植民地をもっていたという話。リビアの東湾岸地域にキレナイカという土地に植民地拡張計画があったという。しかも,この章は人類学者のエヴァンス=プリチャードの研究に多くを寄っていて,日本語には翻訳されていないが,『キレナイカのサヌシ族』という本があるらしい。本章は遊牧民であるサヌシ族がいかに近代的な統治形式をとる植民地において相反する存在だったかという論点。最終的にかれらが収容されたキャンプの写真は衝撃的だ。

5章は再統一化のドイツにおける近隣計画を論じる。場所は旧東ドイツの都市ライプチヒ。再統一によって近隣計画のあり方も民主化していくわけだが,集合住宅等を含めた建築物の様式を含めて,従来の社会主義的な形式を踏襲していくのか,新たに自由主義的なものに改良していくのかという論叢について論じられる。

6章はスポーツ地理学研究者で知られるジョン・ベイルによるケニアの長距離陸上選手の話。ここでは,単なるスポーツとしての陸上ではなく,現在もリオデジャネイロ・オリンピックの開催中だが,オリンピックをはじめとするような国際的な協議会の場で,国家を背負って競技するスポーツのことを論じていて,ベイルはそれを「representative sports」と名付けている。これは「メディア・イヴェントとしてのスポーツ」という議論と近いと思う。ケニアの長距離走者は今では有名だが,その歴史は古くはない。本章にはクリケットの話など,植民地におけるスポーツの伝播,そしてそれが規律・訓練に用いられたり,逆に抵抗の道具になったりするということで,ケニアの陸上の場合も考えさせられることは多い。かれらは何のために走るのか,誰のために走るのか。

7章は南米エクアドルで,ある女性がある時期に,植民地化に伴って皆が放棄してしまった民族的衣装を自らのアイデンティティとして身にまとうようになり,それがいつしか先住民たちのアイデンティティの象徴と,自らの権利の主張につながっていくという話。

8章はジャマイカの「ヤーディーズ」をめぐる英国で制作されたテレビ番組の分析。「Yardies」を辞書で調べると「麻薬密輸組織のメンバー」と出てくる。本章では特にそこに限定はしていないが,日本のヤクザ的な意味合いで使われているようです。英国で1995年に制作された連続ドキュメンタリーである『情報提供者』と『ヤーディーズ』の2つを分析し,前者はまさにかれらを「他者」として表象していたが,後者になると,かれらの日常を描き出すことで,かれらだって人間なんだということを主張するようになるという。

9章は会社組織の内部での監視の問題を論じている。観点がなかなか新鮮だが,特定の事例を通じてではなく,既存の研究を通じた理論的な議論なので,かなり分かりづらい。

10章からは理論的な論文が続きます。10章はこの頃地理学でも盛り上がりをみせていたアクター・ネットワーク理論の紹介にページを割くことで,本書の主題である,権力の縺れ合い具合を論じている。

11章も続いて,ある程度ANT(アクター・ネットワーク理論の略称)を参照しながら,アクター=主体を人間以外にも拡張するというANTの議論から,特に非人間的存在としての動物に焦点を当てる。動物という存在は「自然の地理学」でもその主題の一つとされているが,ここではいくつかの風刺画を検討するなかで,擬人化された動物の表象について論じている。動物の擬人化表象というのは,児童文学に対して私も関心があるので,この章はまたじっくり読んでみたい。

12章の冒頭では,地理学における権力論を簡単に辿っている。1960年代辺りから,計量地理学への反発や時代的な風潮から,マルクス主義に依拠した「ラディカル地理学」が登場するわけだが,かれらが着目したのが「権力」である。その頃の権力論は明確な支配−従属の枠組みがあったわけだが,フーコーの影響下で,権力の主体を具体的な権力者に帰する考えから,社会構造のなかに組み込まれているものと考えるようになり,支配−抵抗はより複雑なものとして理解されるようになる。

13章,14章はいわゆる地理学のビッグネームとしてのスリフトとマッシィによるもので,短い文章。内容はよく覚えてません。

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日本人をやめる方法

杉本良夫 1993. 『日本人をやめる方法』筑摩書房,253p.,640円.

本書の著者は,1939年生まれ。京都大学を卒業して毎日新聞の記者を3年間勤め,米国へ渡り,社会学で博士号を取得する。その後,オーストラリアで大学教員となり,日本人と結婚してオーストラリア在住という人物。

日本論・日本人論・日本文化論など,日本を論じる書物には,著者が日本人か外国人かという違いと,日本を絶賛するものと日本を否定するものとがある。本書は日本人が外部的な視野を手に入れた上で日本を批判する本。

まあ,社会学者だけあって,目次をみる限りでは,それなりに客観的に日本社会を分析し,本書自体が有り体の日本人論にならないように目配せしてある。しかし,正直読後の印象は他の日本論とほとんど変わりがない。

プロローグ 戦略としての相対化

第一部 日本社会の深層を縛るもの

 第一章 障害としての「班」の思想

 第二章 「籍」の思想との対峙

 第三章 「ものいえば唇寒し」からの自由

第二部 「脱日本」への道標

 第四章 「日本からの難民」という範疇

 第五章 越境主義への招待

 第六章 移民一世の楽しみ

第三部 日本人論からの解放

 第七章 日本礼賛論のからくり

 第八章 あべこべ日本人論

 第九章 「日本人勤勉論」を再考する

第四部 概念構築の根底

 第十章 「考える」ことを考える

 第十一章 英語習得の落し穴

第五部 個人の国際化への関門

 第十二章 テクノクラートの国際化

 第十三章 ビザ制度の背後にあるもの

 第十四章 レイシズムとの戦い

エピローグ 新世紀の冒険者たちへ

本書のなかで一番面白かったのが「記者クラブ」の話。ちょうど最近公開された日本映画『64』では,記者クラブが主要な舞台となっている。表現の自由を主張する新聞記者側と,自らに都合の悪いことは隠蔽しようとする警察側とを対立的に描いている。

しかし,新聞記者だった著者による告発によれば,各警察署内に設置された記者クラブは,その部屋の賃料を新聞社が払っているわけではなく,その光熱費も含め,各警察署もちだという。私もそもそもこの記者クラブという存在は疑問だった。自分の足で取材もせずに警察が発表することだけを情報源として記事を書くのはどうなのかと。まあ,実態はそんな単純ではないんだろうけど,映画『64』でもその辺の新聞記者の怠惰についてはまったく描かれていなかった。それはともかく,著者がいいたいのは,理想的には反政府的な勢力となるべくジャーナリズムが,ある意味日本に独自の「記者クラブ」という制度によって,最も国家に忠実な組織である警察の情報を横流しするだけというのはジャーナリズムが保守的な立場にならざるをえない,というのはごもっとも。

それ以外は典型的な批判的な日本論。まあ,日本人に本質的な性格があるという主張をするわけではありませんが,日本文化論というより日本組織論的な論調です。いわれればそうかもしれないなあとは思う主張だが,全てがそういいきれるかな,という疑問は常につきまとうし,やはり日本を一つの社会であるとか,組織であるとかという想定自体が間違っていると思う。

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46歳になりました(7/26で)

2016年7月10日(日)

もう随分前で,鑑賞日をきちんと記録していなかったので,日付は適当です。

府中TOHOシネマズ 『64―後編

前編を観て,ちょっと乗り気ではなかったけど,やはり後編も観ておかなくては,とムビチケを買った。その後,近所の図書館で『キネマ旬報』をペラペラめくっていたら本作の批評が載っていたので,思わず読んでしまった。そこには「演技のぶつかり合い」みたいに書いてあって,前編を観た私もちょっと納得した。贅沢な配役なんだが,それらが相乗効果を生むというよりは競争している,そんな感じ。

観てみると,後編の方があっさりしていた。本作の物語的な点でいえば,組織がかりの警察よりも,娘を亡くした男の執念が勝る,というもので,これはまあ原作の素晴らしいところで,これだけであれば二部作にする必要はないが,この結末を引き延ばすという意味では二部作の必要がある,まあそんな感じか。

2016年7月20日(水)

新宿テアトル 『不機嫌な過去

二階堂ふみの出演作品は意外に観ていない。記憶にあるのは『王様とボク』くらいか。でも,調べてみると役所広司監督作品『ガマの油』にも出てたらしい。映画好きとしては映画で評価の高い彼女の作品は注目すべきであろうが,早くから評価されているので,今更という感じがある。

本作は妻が前売り券を購入してきて,結局私だけが観ることになった。面白い映画でした。台詞が独特ですね。意味不明の台詞が次々と繰り出される。小泉今日子の演技はなんか吹っ切れない感じがありましたが,二階堂ふみとの喧嘩のシーンはいいですね。場所の描き方もなかなか雰囲気が出ていて素敵です。

2016年7月27日(水)

立川シネマシティ 『ブルックリン

主演のシアーシャ・ローナンは今,私が外国の女優さんのなかではかなり好き。ジェニファー・ローレンスも『あの日,欲望の大地で』で注目し,『ウィンターズ・ボーン』でこれは本物の女優だと思ったが,『ハンガー・ゲーム』で有名になり,アカデミー賞まで受賞してしまったので,私が今更感はある。

一方でシアーシャ・ローナンはやはりチョイ役の『つぐない』で注目し,『ラブリーボーン』で好きになり,その後『ハンナ』『わたしは生きていける』『グランド・ブダペスト・ホテル』とそこそこ観てきている。

本作は,アイルランドから米国への移民を扱った作品。こういう作品は今までもあったと思うが,タイトルにもなっているブルックリン地区がアイルランド出身者が集住していたということや,主人公にプロポーズするイタリア系の男性が,まだ何もないロングアイランドに家を建てて移住するというシーンなど,さりげない史実に基づいていて,地理学的にも興味深い内容になっている。

さて,映画だが,シアーシャ・ローナンは今年22歳になるが,大分大人らしくなってきました。本作でも,したたかに揺れる恋心を見事に演じてます。今後も楽しみの女優さん。

2016年7月31日

昭島MUVIX 『ファインディング・ドーリー

この日は1歳9ヶ月になる娘を,アンパンマン映画で映画デビューさせようとやってきましたが,私は息子の一声でこちらを一緒に観ることに。私も息子も『ファインディング・ニモ』は観ていないのだが,大丈夫だろうか。

案の定,冒頭の展開はついていけません。まあ,それはそうと本作には本編上映前に短編がついています。それにしても最近のCG技術には驚くばかり。こういうものを幼い頃から観ていると,現実の風景なのか,CGなのかが区別つかなくなるというよりはその区別なんかどうでもよいということになるのでしょうか。

それはともかく,こういうのをスピンオフ作品というのでしょうか。やはり最近は感情移入(まあ,登場するのは皆水棲生物ですが)できるような王道の主人公ばかりでなくなっているんですね。微妙なストーリーで大人でも楽しめました。息子は相変わらず泣きながら観ていました。

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日本文化私観

ブルーノ・タウト著,森 儁郎訳 1992. 『日本文化私観』講談社,344p.,932円.

本書も今回日本文化論を読むということで読んだわけだが,もちろん本書の存在はよく知っていた。特に,西川長夫『地球時代の民族=文化理論』で,本書と同名のエッセイでタウト批判を繰り広げた坂口安吾について詳しく論じられていたので,そのうち読まなくてはと思っていた。

原本序(黒田 清)

訳者の詞(森 儁郎)

床の間とその裏側

あきらめ

メランコリイ

芸術

神道―単純性のもつ豊富性

絵画

彫刻

工芸

芸術稼業

建築

第三日本

解説(佐渡谷重信)

正直,読み終わってから随分経ってしまい,本書の内容はあまり頭に残っていない。西川の著書で理解している限りでは,タウトは数ヶ月の日本滞在で,日本文化の本質を発見した。むしろ,文明開化に沸き立って日本古来のものを蔑ろにして西洋文明を積極的に取り込もうとしてきた日本が,日本文化の良さに気づかされるのが本書を含むタウトによる発見だという。タウト自身も本書のなかで,日本人は独自の豊かな感性を持っているのに,西洋文化の真似事に興じていてもったいない,といった趣旨の内容を書いている。

しかし,他の外国人が書いた日本論・日本人論・日本文化論のように腹立たしい気持ちにはならなかった(腹立たしい気持ちになること自体が,自らに日本人アイデンティティのある証拠であり,また日本なるものの実体をどこかで認めているということだが)。少なくともこれだけのページ数を費やして論じているわけだから,その詳細な記述には屈服せざるを得ない。そして,日本に関する事柄の知識の量はとてもかなわない。まあ,そこが本書の影響力の強さなのであろう。

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人間を幸福にしない日本というシステム

カレル・ヴァン・ウォルフレン著,鈴木主税訳 2000. 『人間を幸福にしない日本というシステム【新訳決定版】』新潮社,380p.,771円.

本書には明確な書誌情報が記されていないが,ともかく日本では1994年に出版されたもので,私が読んだのは2000年の新訳。1994年版では篠原 勝氏による翻訳で,ウォルフレンの著書の翻訳を多く手がけている人物。今回の訳者である鈴木主税氏は私も名前を知っているくらい,多くの翻訳を手がけている翻訳家。そして,私は初めて買う「新潮OH!文庫」の1冊。

本書のことは1994年の訳書出版当時に知っていたが,基本的に日本論の類は読まない。今回大学講義のレポートの課題図書に指定して,私も読むことにした。

第一部 よい人生を妨げるもの

 第一章 偽りの現実と閉ざされた社会

 第二章 巨大な生産マシーン

 第三章 無力化した社会の犠牲者たち

 第四章 民主主義に隠された官僚独裁主義

第二部 日本の悲劇的な使命

 第一章 日本の奇妙な現実

 第二章 バブルの真犯人

 第三章 日本の不確実性の時代

第三部 日本はみずからを救えるか?

 第一章 個人のもつ力

 第二章 思想との戦い

 第三章 制度との戦い

 第四章 恐怖の報酬

 第五章 成熟の報酬

暴かれた日本の「素顔」(志摩和生)

本書を含め,著者による日本論は数多く出版され,その多くが日本語訳もされている。1989年に出版された『日本/権力構造の謎』が大きな反響を呼んだという。その本と本書の違いはよく分からないが,恐らく同じような論調で同じようなキーワードを使っているのだろう。確かに,そういわれてみると,本書のキーワードである「説明責任」という言葉は,昨今の選挙戦でもよく使われる言葉のように思う。本書を読んでいても,どこかで聞いたことのあるような話のようにも思う。

本書は日本の政治経済の実態を論じたものだが,やはり基本的な日本論の特徴を兼ね備えていると思う。確かに論じられていることは説得的なものかもしれないが,学術的な意味ではそうではない。事実を述べていると思われる一つ一つの記述が何の根拠に基づいているのか全く不明なのだ。その事実がどこに書いてあって,あるいはどのような調査や取材から得られたものかも判然としない。

前著のタイトルにもなっているように,本書の内容な日本の社会の構造がいかに政治権力・経済権力によって歪められているかを明らかにすることにある。その端的な表現は「官僚制度」である。しかし,ここで官僚というものを私が理解しているかというとそうではない。いわゆる分かったつもりになっている言葉の典型的なものかもしれない。私の理解では官僚とは政治家である。ただ,いわゆる政治家は名前を前面に出して選挙戦を行うことによって選出されるが,官僚は名もなき政治家という印象がある。いわゆる役人のお偉方であり,名のある政治家たちの公約を具体的な政策とし,行政の仕事として翻訳し,実行する人たち。総理大臣が代わっても基本的な政府の政策に大きな違いがないのは,実際にはそうした人たちが政策や行政を担っているからと考える際に重要な役割を果たす人たちのこと。

しかし,本書ではそういう人たちを「政治官僚」と呼び,それ以外の存在の重要性を指摘する。それは「経済官僚」とも呼べるようなものなのだろうか。財閥など大企業が政治家たちに圧力をかけ,自分たちの経済活動に都合のよい社会構造にしたてるというように理解できる。しかし,本書ではけっしてそういう人たちが影で政治を操っているというような言い方はしていない。そういう人たちですら,自分たちは自分たちの金儲けのためではなく,国のために尽くしているのだということを主張しているのだという。しかし,それがいったいどういうことなのか,はっきりとは書いていない。

ともかく,本書は一般論である。抽象論ではない。著者はどのような形で得たものか分からないが,日本に関する知識の寄せ集めの中から著者の頭のなかに構築されたシステムがあり,それを著書としてまとめているのだ。まさに,確たるものとしては実在しない「日本人」や「日本文化」というものを都合のよい素材によって実在物にしたてあげる日本人論,日本文化論と共通するものだと思う。もっといえば,血液型で人間の性格を判断するようなこととも共通する側面を有するともいってもいいと思う。

ただ,本書は学術書ではないので,こういう言語活動は表現の自由の観点からも十分ありえると思うし,読者に対する意識改革という意味ではむしろ歓迎すべき著書である。しかし,著者の真意が必ずしもきちんと伝わるわけではなく,間接的な情報を通じ,また別の日本のステレオタイプを生み出すことにもなるという意味では,やはり本書のようなものに対抗する言説も必要となろう。

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Fields of vision

Stephen Daniels 1993. Fields of vision: Landscape imagery & national identity in England & United States. London: Polity Press, 257p.

地理学者にはいわずとしれた風景研究の古典。意外に思われるかもしれないが(知っている人は知っていると思う),私は読むべき本を意外に読んでいない。コスグローブの『象徴的風景と社会構成体』も読んだのは比較的最近だし。

でも,なるべくなら手元に持っていたいと思い,いくつかの主要な本はAmazonの「ほしい物リスト」に入れておいて,安い中古が出たら買うようにしている。本書もそんな具合に購入したものだが,安いだけあって何色ものボールペンで傍線が引いてあり,鉛筆で英語の書き込みがあったりしている。

最近,会社の仕事で何度か新幹線に乗って大阪に行く機会があり,本書を持参し,車中で読むことにした。その際は半分も読むことができなかったが,やはり毎日往復2時間の通勤時間があるため,混雑する車内で読むのは大変だが,比較的早く読み終えることができた。

1 プリンス・オブ・ウェールズとセント・ポールの影

2 ジョセフ・ライトと権力の光景

3 ハンフリー・レプトンと地所の改良

4 J. M. W. ターナーと国家の循環

5 トーマス・コールと帝国の進路

6 フランシス・パルマーと大陸の合体

7 ジョン・コンスタブルとコンスタブル・カントリーの創造

とはいいながら,あまり内容を理解できたとはいえない。コスグローブの文章も難しいと感じていたが,ダニエルズの文章はそれ以上だった。これまで彼の文章を読んだのは,場所に関する人文主義批判と,景観研究とマルクス主義に関する論文だったため,私にも比較的理解しやすかった。英語では日常会話はできず,英語圏への海外旅行経験のない私にとって,抽象的な英文は比較的読めるようになっているが,より日常的なというか,その土地の歴史や社会に関わる具体的な記述になると知らない単語や言い回しが多くなり,理解が難しくなる。コスグローブの文章は論理展開の難しさなどもあるが,ダニエルズのはそうではない。明らかに私の知識不足での理解不足である。とはいえ,『象徴的風景と社会構成体』の時もそうだったが,ひとまず何が書かれているか,全体を把握しておいて,今後関連することを考察する上でまた部分的に再読すればいい。どっちにしろ,一度で理解するなど都合の良いはなしだ。

とはいえ,本書の目的は非常に分かりやすい。目次をみても分かるように,7つの事例について,それぞれのテーマが論じられる。本書は風景芸術に限定されないが,ともかく風景に関する絵画表現に限定し,1章に1人,人物を取り上げる。本書にほとんど抽象的な議論はないといっていい。

1章は現代の話から始まる。プリンス・オブ・ウェールズってのが私には馴染みがないわけだが,これまで一般的に「皇太子」と訳すように理解していたが,Wikipediaではそれは誤訳だとしている。確かに,英国はUnited Kingdomであり,イングランドがその中心であるはずだが,ウェールズとなっている。しかし,実際にこの名称で呼ばれる人物はイングランド国王の王子のことだし,まあともかく英国の皇室のことがよく分かっていないと正確に理解できないということだ。まあ,そのことはおいておいて,1章ではプリンス・オブ・ウェールズが1989年に発表したという「英国のビジョン」に関する話から始まって,ロンドンにあるセント・ポール寺院がいかにロンドンの象徴的存在であるかということを,17世紀における設計段階まで遡り,第二次世界大戦化における象徴的役割といった現代まで辿る。

第2章でとりあげられるジョセフ・ライトについては,著者が1988年にコスグローブと共に編集した『風景の図像学』のなかで,別の著者が論じている。この本は私が関わって翻訳が出ているので,該当章を読み直した。取り上げられる作品がほとんど同じで,私の理解はほとんど翻訳論文のみの印象になってしまった。ただ,英国風景における産業(革命)の象徴的意味は著者の風景研究の主たるテーマの一つでもある。地質学者とも親交のあった画家ライトは,科学技術がもたらす日常生活の変化を,人工的な光を用いて表現している。

第3章で論じられるハンフリー・レプトンについては,著者がかなり専門的に取り組んでいる人物で,上述した『風景の図像学』における著者自身の章にも登場するため,比較的理解しやすかった。風景を中心とした土地改良家として知られる人物。当然,ここに英国独特の風景美学であるピクチャレスクの感覚が組み込まれます。

第4章はいわずと知れた英国の風景画家J. M. W. ターナーに関する章だが,1844年の作品「雨,蒸気,速度」を中心に論じられる。やはりここにも蒸気機関車という産業の象徴が登場し,ロンドンという都市のテムズ川を鉄橋で渡るという場面だが,この章の国家権力という側面はイマイチ良く理解できなかった。

第5章からアメリカ合衆国が舞台になる。コスグローブの『象徴的風景と社会構成体』もイタリアとともにアメリカが登場するが,どちらも両国の関連性が考慮されている。本書においてはまあ分かりやすいが,英国領としての北米である。米国の風景に関しては,最近バーバラ・ノヴァック『自然と文化』を読んだところだが,本書を読むと風景画や風景をテーマにしたアメリカ研究というのがかなり多数行われていることを知る。本章でとりあげられるトマス・コールは章のタイトルにもなっている「帝国の進路」という連作があり,これ自体非常に興味深い。確かに風景画には春夏秋冬をテーマとした連作というのがよくあるが,コールは米国の風景にアルカディアやローマ的な古代の都市帝国の風景を投じたりしている。

第6章も米国が舞台で,取り上げられるフランシス・パルマーは企業のために要求される図像イメージを提供するような画家。ここでも米国の大陸横断鉄道がテーマとなっている。

第7章では再び英国に戻り,またまたいわずと知れた英国の風景画家コンスタブルが登場し,こちらは画家そのものというよりはその後の時代の作品の流用やコンスタブルが描いた農村風景につけられた名称「コンスタブル・カントリー」の系譜を辿る。日本でも広重的風景の研究なんてのができそうだ(すでにあるのかもしれない)。

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森林の思考・砂漠の思考

鈴木秀夫 1978. 『森林の思考・砂漠の思考』日本放送出版協会,222p.,700円.

著者は地理学者。とはいえ,その後言語学者としても広く名を知られることになる。著者の本をきちんと読むのは今回が初めて。大学院生時代に環境地理学を専攻する同級生の書棚に,著者の『超越者と風土』と『風土の構造』があり,その存在は知っていたが,当時は環境決定論に対する拒否反応のようなものがあり,この著者もそのレッテルをつけていた。

しかし,著者の言語研究はきちんと読んでみたいと思うようになったし,彼の議論がどのように環境決定論なのかも見極める必要がある。今回は「日本文化論」の1冊として本書を読むことにした。NHKブックスの1冊。

第一章 日本文化の森林的性格

第二章 変化する森林と砂漠

第三章 東西の差を生ぜしめたもの

第四章 日本における「砂漠化」の進行

第五章 日本の森林とその意味

第六章 砂漠的思考技術としての分布図

巻頭の「はしがき」によれば,本書は学術書として書かれた『超越者と風土』を一般向けに書き直したものだとのこと。そして,その一部はNHK教育テレビの「みんなの科学」という番組で放映された内容でもあるという。

著者の前著でどちらも「風土」という言葉が使われているように,そこには和辻哲郎の『風土』の影響がある。『風土』は副題に「人間学的考察」とあるように,自然科学の書ではない。あくまでも人間の性質について論じる名目で,世界を「モンスーン」「沙漠」「牧場」と分類し,モンスーンを日本を含むアジアとして,牧場をヨーロッパとして論じている。本書もそれに近い形で,洋の東西に分け,東洋を森林に,西洋を砂漠に分類する。そして,前著の「超越者」が「神」なのであろう。本書では超越者の概念は登場しないが,第三章では,宗教の違いと神の違いについて論じられている。

なぜ,和辻が牧場としたヨーロッパを砂漠としているかというと,そもそもヨーロッパを支配することになるユダヤ教およびキリスト教の発祥の地が砂漠にあるからだという。砂漠で産まれた宗教だからこそ,二者択一(生きるか死ぬか)の厳しい選択が人間に要求され,多神教ではなく一神教に辿り着くのだという。

第四章のタイトルにあるように,本書中盤では,日本で「砂漠化」が進行していると主張する。しかし,これは自然地理的な意味ではない。要するに,明治維新以降顕著に進んだヨーロッパ化。ヨーロッパ文明は砂漠で産まれたキリスト教に基づくものであり,著しく砂漠的な特徴を持つもので,それが日本に浸透するさまを「砂漠化」と呼んでいるのだ。

本書を読むと,内村鑑三『地人論』やジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』などを思い出す。これらは十把一絡げにいえば「環境決定論」といえるが,要は,自然と人間に関するさまざまな知識を持つ者が,「同じ場所にあること」を理由にその関連性を検討し始めると,それがかなり自由度を持って説得的な物語を作ることを可能にするということなのかもしれない。ともかく本書はある程度説得力を持ちながらも,冷静に考えると「そんなバカな」と思える内容が多く,どこからが科学的根拠に基づくのか,判断できなくなる。

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