都市の原理

ジェイン・ジェイコブズ著,中江利忠・加賀谷洋一訳 1971. 『都市の原理』鹿島出版会,307p.2400円.

『アメリカ大都市の死と生』(原著1961年)で知られるジェイコブズによる1969年の著書。先日,想像都市論で知られるリチャード・フロリダの本を1冊読みましたが,やはり原点はジェイコブズの都市論にあると思い,とりあえず本書を手に取りました。『アメリカ大都市の死と生』は今読んでいるところです。原著タイトルは「諸都市の経済」というシンプルなものですが,第1章からなかなか刺激的なタイトルです。

はしがき
1
 初めに都市ありき――そして農村が発展する
2 新しい仕事はいかにして生まれるか
3 都市の非能率と非実用性
4 都市の成長はいかにしてはじめるか
5 都市の爆発的成長
6 大都市の輸出要因はいかにして生まれるか
7 都市の経済発展と資本
8 将来の発展パターン
付録

私は都市の研究をしていますが,根本的な都市史,あるいは都市文明史的なものはあまり読んだことがない(例えば,ルイス・マンフォードなど)。しかし,なんとなく著者が批判する発展史観は私にとっても常識的でした。つまり,人間社会の初歩的な形は農業による自給自足で,そこから余剰生産物が発生すると交換が生まれ,交換を担う主体が生まれると分業が始まり,農業に携わらない人たちが集住する集落ができ(主に交換の場である市場に),都市が生まれる。そんな発展史観だ。著者は冒頭でそれを根本的に問い直す。初めに都市があったのだ,と。農業が自ら生産性を高め余剰生産物を生む,というのは考え難いという。そもそもが,農業をやらずにかれらから得た食糧で生きる都市市民が代わりに生み出した生産性を高める技術を農民に提供し,それによって生産性が上がるのだと。著者は明確には書いていないが,この初期の食糧の譲渡は日本でいう年貢のような税に当たるもので,マルクス的にいえば「本源的蓄積」というところの搾取になるのだろうか。
もちろんジェイコブズはそういった政治的な観点を有する人ではないと思うが,物事を本質から素朴に考えようとするところがあるから,逆に考え方がラディカルだったりする。ともかく,この説が今日においてどう評価されているのかは知らないが,私にとっては刺激的あった。まあ,創造都市論的ないいかたをするならば,都市という雑多な人が集まる場所で新しい発想が生まれ,技術に育ち,そうでない所に伝播する,ということだろうか。じゃあ,改めて農業の伝播についてはどうなのか,手元にあって途中で読むのを断念してしまったサウアーの『農業の起原』を読みたくなった。
ただ,一方で改めて考えさせられるのは,創造都市論もそうだが,結局のところ,都市とは発展でしか語れないのかということだ。都市とは当然始まりからして人為的な人工的な建造物であり,また自然発生的という側面はあるものの,古代から都市国家があったように,やはり大きな権力によって管理されるものである。であるから,当然その維持に関しても,改良という観点から権力者が特定の意図を持って都市の形を整える。いわゆる近代的には都市計画というものだが,それが正しいか正しくないかみたいなことを主に論じているのが『アメリカ大都市の死と生』ではあるが,やはりその成功の指標は「発展」あるいは「賑わい」のようなものである。「都市は生き物だ」というような言い方があり,だからこそ成長や衰退ということが語られる。もちろん,同じ状態でとどまらない流動的な存在であるということはあると思うが,動態的でない静態的な都市というのはだめなのだろうか。基本的にはそこに住む者が加齢するので静態的というのはありえずに,住民の移動がない限りは高齢化を迎え,それが都市ごと老化を迎えるのであろうか。そんなことを考えさせられる読書であった。

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空間に遊ぶ

新しい書評が掲載されました。当分は『地理学評論』に毎号私の書評が掲載される予定です。

成瀬 厚 2018. 田山忠行編:空間に遊ぶ――人文科学の空間論.地理学評論 91: 114-115

田山忠行編:空間に遊ぶ――人文科学の空間論.北海道大学出版会,2016年,261p.2,400円.

北海道大学大学院文学研究科・文学部では,毎年公開講座を開催しているという.そして,その講座を「北大文学研究科ライブラリ」として出版しており,本書はその13冊目となる.本書は地理学にとってはお馴染みの「空間」というテーマについて,北海道大学所属の哲学,美学,東洋史,博物館学,仏文学,言語学,地理学,心理学の研究者9人による講座が収録されている.評者が成瀬(2013)でお世話になったゲルハルト・リヒター研究者の浅沼敬子さんが含まれていることもあり,本書を手に取ったが,多くの章から学ぶことが多かったので,ここにその内容を紹介したいと思う.
「空間に遊ぶ」というタイトルについては,「この『遊ぶ』には,元々,『考えてみる』という意味が込められていました」(p.iv)と説明しており,特段本書を貫く空間の捉え方を示しているわけではない.多様な立場から空間について考える,というほどの意味合いだと思われる.マラン(1995)の副題「空間の遊戯」にあるような,ポスト構造主義的記号論が思想のベースにあるわけではない.さて,各章の内容をみていこう.
第一章「仏教は空間をどう考えていたのか」(林寺正俊)は,インド哲学の立場から,仏教における空間的な概念を解説している.成瀬(2014)では,私たちが身につけている西洋近代科学的な空間概念を問い直すために,近代以前の空間・場所的な概念を検討したが,同じような考察は,本章のような非西洋哲学からも行えると分かる.公開講座ということもあり,批判的思考を促すというよりは,聴衆に身近な西洋近代的空間概念に引き寄せながら,それとは異なる空間概念へと理解を促している.仏典で「世間」や「世界」と漢訳される語が,サンスクリット語で「ローカ(loka)」といい,英語のlocalと語源を共通するという.インド・ヨーロッパ語族がなんたるかを理解していない評者にとっては,この一節を読んで少し納得した.
第二章「たちあがる『空間』――現代アートの一段面」(浅沼敬子)は現代芸術の一般的な形式である「インスタレーション」について解説している.まず,そもそも絵画が空間をどのように表現してきたのかという歴史をたどる.絵画がその描写対象である視覚空間を枠で切り取ることによって,芸術作品が描かれたコンテクストから切り離されるようになり,近年ではそれが再び埋め込まれるという流れを手際よく整理している.代表的なインスタレーション作品がいくつか提示されていることも門外漢には嬉しい解説である.
第三章「古文書から見る過去の都市空間――モロッコの古都フェスとその郊外」(佐藤健太郎)は歴史地理学研究と非常に近い,地道な調査結果の報告である.地理学でモロッコの研究というと荒又(2012)くらいしか思いつかないが,本章は植民地化されるまでの状況の復元が目的である.東京駒込の東洋図書館に所蔵されている,西暦1619世紀の8点の皮紙文書は,不動産関連証書である.著者はそれらを携えてフェスを訪れ,文書に書かれた地点を特定する.文書のみによって地点を特定するだけでは研究にはならない.現地での聞き取りを含む,関連する情報を収集することで地点の特定が可能になるが,それらによって,当時の町の様子が少しずつ明らかになり,またなぜそのような不動産取引がなされたのかということからも都市全体の構造の一端が明らかにされる.
第四章「『文化を展示する』とは何か」(佐々木亨)は,福田(1997)などの研究によって地理学には多少なじみのある博物館研究の成果である.マオリやアイヌ,ハワイなどを事例に,具体的な展示の詳細を例示して論がすすめられていて,非常にわかりやすい.
第五章「『無限の空間の永遠の沈黙』を前にして――パスカルからカミュへ」(竹内修一)は評者には読み応えのある一章であった.カミュの『異邦人』(1942年)を,「パスカルに対するカミュの応答であり,反論である」(p.139)という観点から解釈する.17世紀の科学者であるパスカルは敬虔なキリスト教徒であり,『パンセ』に残された「この無限の空間の永遠の沈黙が私を恐怖させる」という一節について,詳細な文献学的考察が行われる.ここで用いられている「空間」の語は,近代科学者として得た客観的な均質空間であると同時に,キリスト教的な神と私が関わる主観的なものでもある.カミュは『パンセ』を熟読していながら,一方でパスカルとは正反対の人間の生きざまを主人公に体現させたという.
第六章「ことばと空間――日本語から考える」(加藤重広)は指示詞の解説から,日本語が持つ空間観を明らかにしている.私たちが「コソアドことば」として知っているものを,英語と比較し,歴史的な成立経緯について説明する.私たちはコソアの使い分けを距離に応じて行っている場合が多いが,それは必ずしも距離だけに準拠するわけではない.本章は普段何気なく使っている言葉を見直す機会を提供してくれるが,読書案内で提示されている著者の著書からもう少し専門的な内容についても提示してほしかった.
第七章「空間と情報の地理学」(橋本雄一)は地理空間情報の解説から,津波災害を想定した場合のその活用法が示される.さらには,避難所の分布とその近隣の人口,避難所までの経路などの情報から避難計画に役立てる調査結果が報告されている.本書の副題に「人文科学」とあるという意味においては工学系に近い本章は少し異質だともいえる.
第八章「空間の認知と色彩」(川端康弘)は心理学や認知科学の知見から空間認知の問題を解説したものである.周知のとおり,地理学においても認知地図研究は進んでおり,前半の教科書的な解説はおなじみのものである.しかし,本章はタイトルにあるように後半は色彩に焦点を当てているところが新鮮である.
第九章「大きさと奥行きの知覚――錯覚が示す視覚の仕組み」(田山忠行)も視覚による知覚の問題を扱っている.二次元の視覚映像から私たちがいかに三次元空間を知覚するかということを,錯覚を中心に,大きさと奥行きという観点から解説している.錯覚にもさまざまな種類があり,運動視差という変化する視覚情報からも,私たちは三次元空間を知覚する.
本書は公開講座の内容を活字化したものであり,ですます調で統一されている.また,学術書につきまとう文献参照の煩雑さを回避しようと,文献については,各章の最後に「読書案内」としてまとめられている.ただし,すべての章でそれは統一されていない.多くの章は未だ探究中の最先端の学説というよりは,これまでにオーソライズされた学説の解説にページが割かれており,研究者には多少の物足りなさを感じる.一方で,第三章や第五章は評者にとっても非常に魅力的なものであった.
とはいえ,本書から学ぶことは多い.各章がバラバラな感じはせず,一定のレベルでまとめられている.こうした公開講座が毎年度企画され,実施され,また継続的に出版されていることに敬意を表し,機会があれば過去のものにも目を通したいと思う.

文 献

荒又美陽 2012. カサブランカ――フランス保護領時代の遺産をめぐって.都市地理学 7: 90-95
成瀬 厚 2013. 遠近法主義に抗う現代風景芸術
――芸術を対象とする景観研究.地理学評論 86: 413-435
成瀬 厚 2014. 場所に関する哲学論議
――コーラとトポス概念を中心に.人文地理 66: 231-250
福田珠己 1997. 地域を展示する
――地理学における地域博物館の展開.人文地理 49: 442-464
マラン, L.著,梶野吉郎訳 1995. 『ユートピア的なもの
――空間の遊戯』法政大学出版局.Marin, L. 1973. Utopiques: Jeux dspaces. Paris: Miunuit.

成瀬 厚(東京経済大学非常勤講師)

 

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娼婦

アラン・コルバン著,杉村和子監訳 1991. 『娼婦』藤原書店,626p.7,800円.

手元の手軽な未読本がなくなり,ついに手を出した分厚い本書。随分前から私の書棚にはあったが,おそらく読んではいないはず。通勤電車のお供にはちと重いが,読み始めてそれだけの価値はあると感じ,頑張った。

日本語版への序文
まえがき
第Ⅰ部 規制主義による公娼制の計画と隔離された世界
 第1章 規制主義の言説
 第2章 規制主義の隔離された世界
第Ⅱ部 監禁から素行の監視へ
 第1章 規制主義の計画の波錠,あるいは誘惑のイリュージョン
 第2章 満たされぬ性と売春の供給
 第3章 規制制度への批判
第Ⅲ部 新しい戦略の勝利
 第1章 性病,誘惑,身体的退化――監視の必要
 第2章 法制的無策と新規制主義の事実上の勝利
結論
20
世紀〔1914-1978〕――ベルトコンベアー式色恋と身体の新しい管理構造

規制主義という言葉が目次にも何度も出てくる。そして,それへの批判というのがあるが,決して二項対立的な別の〇〇主義があるわけではない。つまり,娼婦という存在を必要悪として公的に認める「公娼」という制度はあるが,基本的には娼婦という存在,売春というものを歓迎する者はいない。だからこそ,この規制主義というものは意外に捉えがたく,本書を読み進めていても,説明されているのがどのような立場なのか,時折分かりづらくなる。しかし,こうして目次を書き写すと,説明の手順と歴史の展開はすっきりと整理されているようだ。
本書の原著は1978年。本書の冒頭には,娼婦という存在を歴史学のみならず学問はまともに扱ってこなかったという。そこで,娼婦に関するあらゆる情報を集め(原題にあるように,期間としては19-20世紀に限定しているが),基本的にフランスに限定はしているが,あらゆる角度から分析する,その方法と労力には脱帽する。現代思想的な文献はフーコーくらいしか引用されていないし,言説概念に関する説明もきちんとなされているわけではないが,まさに同じ年に出版されたサイード『オリエンタリズム』に並ぶ労作だと思う。
そして,本書が単に過去を知る歴史学というだけでなく,出版の直前までの出来事を巻末にまとめ,現代の問題として捉えなおそうという姿勢もまさに新しい歴史家の姿勢として提示されたのだと思う。
その後,出版が続く「分厚い」コルバン流歴史学の著作の基本が本書にあり,また,その方法は徐々に洗練されていくのだ。ちょうど最新号の『思想』(岩波書店の月刊誌)には小倉孝誠さんが「アラン・コルバンと歴史学の転換」という文章を寄せていたりして,まだまだ注目されていることを知る。

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グローバル資本主義と〈放逐〉の論理

サスキア・サッセン著,伊藤 茂訳 2017. 『グローバル資本主義と〈放逐〉の論理――不可視化されゆく人々と空間』明石書店,333p.3,800円.

『グローバル・シティ』の初版が1991年なので,最新のサッセンの議論に触れてみたくて,原著が2014年の本書を手に取った。本書は『グローバル・シティ』と同様の手法で,一般的に入手可能な統計資料を提示しながらの論の展開だが,本書が描き出す現代世界の矛盾はあまりにも衝撃的で,刺激的な読書体験だった。

日本語版への序
序 過酷な選別
1章 縮小する経済,拡大する放逐
2章 新しいグローバルな土地市場
3章 金融とその能力――システムの論理としての危機
4章 死んだ土地,死んだ水
結語 システムの末端で

一時期,地理学においても「政治生態学」という分野があり,自然環境をめぐる政治性をテーマにした研究動向があった。また,先日息子が図書館から借りてきた『ぞうの森とポテトチップス』という絵本が非常に衝撃的だった。この絵本はボルネオ島が舞台で,パームオイルのプランテーション畑が拡大する過程で,象たちが住処を追われるという話。そのパームオイルが私たちに身近なお菓子であるポテトチップスを揚げるのに欠かせないという。まさに,パームオイルの話は本書にも出てきます。
一方で,本書が掲げる「放逐」という概念は,先日紹介したニール・スミスのジェントリフィケーション論でも出てきたが,ハーヴェイ『ニュー・インペリアニズム』に出てくる「略奪による蓄積」といった概念に近いのだろうか(とはいえ,ハーヴェイは未読。サッセンにも引かれていません)?ともかく,資本主義という世界システムが利潤を引き出す対象が不足してきたため,先進国や低開発国を問わず,下層階級の人々の命を奪うことも厭わずに搾り取る状況が今日は常態化しているという。
その結果生じる難民問題についても,基礎的なデータを提示して,いかに貧しい国が大量の難民を受け入れているかということが明らかにされている。一方で,先進国では情報遊びのように,「金融」という名のもとに多額のお金がやり取りされている。ともかく,本書で提示された数々の問題は地理学でも扱うべきものであり,それは全てグローバルなものであり,日本では研究しにくいという類のものではない。例えば,第2章では他国の土地を購入するという話だが,ここには王子製紙など,日本の企業も登場する。まさに差し迫って必要とされている研究ではないだろうか。

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黒い皮膚・白い仮面

フランツ・ファノン著,海老坂武・加藤晴久訳 1970. 『黒い皮膚・白い仮面』みすず書房,187p.700円。

『地に呪われたる者』を読んだので,手元にあるこちらも読み返すことにした。読み返すといってもどこまで読んだかもわからず,いずれにせよ内容を覚えているわけでもないので,一から読んだ。読後時間が経ってしまったので,きちんと紹介はできません。

序:フランシス・ジョンソン
はじめに
1
 黒人と言語
2
 黒い皮膚の女と白人の男
3
 黒い皮膚の男と白人の女
4
 植民地原住民のいわゆる依存コンプレックスについて
5
 黒人の生体験
6
 ニグロと精神病理学
7
 ニグロと認知
結論に代えて
ファノンの認知:フランシス・ジョンソン

『地に呪われたる者』の序文はサルトルだったが,こちらは序文とあとがきをフランシス・ジョンソンなる人物が執筆している。訳者のあとがきにもこの人物についての説明はない。本書では白人と黒人の関係が論じられている。本書に書かれている性的な内容については,現代のAV業界が作り出した神話が根強く,あまり変化していないともいえる。つまり,黒人男性のペニスは大きく,精力は絶倫だという話。
また,本書には文学批評的な内容も含まれる。ファノンは36歳で亡くなり,みすず書房から出ている「フランツ・ファノン著作集」が決して厚くない4冊であることからも多くの著作を残したとはいえないが,その一言一言の重さを感じないわけにはいかない。そうした言葉が21世紀の今日でも多くの人に読まれている事実は喜ばしいことだが,逆に考えると,本書原著が出版された1952年から黒人をめぐる状況が根本的に改善されたかと考えるとむなしくもなる。

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2017年の鑑賞映画は20本でした

2017914(木)

随分前の日記になります。この日は念願だった夫婦でそろって休みを取って2での行動。昨年度までは妻の職場の保育室に娘を預けていたため,娘を預けて妻が休むということが不可能だった。今年度から,娘は認可保育園に通い,息子は小学校+学童クラブなので,2人での行動が可能になった。それが年度始まって半年でようやく実現したということです。

テアトル新宿 『幼な子われらに生まれ
なんだかんだでこれまで観てこなかった三島有紀子監督作品。浅野忠信は好きではないが,田中麗奈は好きで,この夫婦は観ておきたいと思った。なによりも,子どもを実際に持った身として今観るべき作品なのかもしれない。私たち夫婦にも色々あって,順風満帆とはいえない状況。私は本作を冷静に観たが,妻はそうではなかったようだ。久しぶりに夫婦そろって観る映画だが,それにふさわしい作品とはいえなかった。家族といえど,本当の意味で分かりあうことはない,それは血のつながりがあろうがなかろうが同じことだと思う。それを理解した上で努力するか,理解せずにやみくもに努力するかでは大きく違う。かといって,理解した上で努力を放棄してしまうというのも。重松 清の作品を読んだことはないが,本作の原作はちょっと読んでみたい気もする。

2017111

この日は明治学院大学が学園祭で休講になったため,午後から新宿で映画を観ることにした。ちょうど映画サービスデーだ。

テアトル新宿 『月と雷
なんとなく予告編に惹かれて観ようと思っていた作品。角田光代原作の大友良英の音楽という魅力もある。初音映莉子という女優が主演なのだが,高良健吾とのベッドシーンもある。この女優さん,『ノルウェイの森』にも出演していたというが記憶にない。ネットで調べてみると幼き頃の顔にはかすかに見覚えがある。いわゆる美少女が170cmという長身に育ってしまったため,少しきつい顔立ちに成長している。それが本作に不思議な魅力を与えています。こういう空気感の映画はとても好きです。

2017127

この日は息子が通う小学校の保護者会があり,会社はお休み。午前中に映画を観て,小学校に向かう。

新宿シネマカリテ 『婚約者の友人
モノクロの予告編を観て,それがフランソワ・オゾン監督作品だと知って驚く。久しぶりに期待できるかもしれない。特にそれ以上の知識を得ずに臨んだが,なんとドイツが舞台の映画。第一次大戦後のドイツ。婚約者をフランス戦で亡くした女性がそのお墓参りである男性をみかける。その男性は婚約者の友人だという。主人公の女性はその婚約者の家族と同居しているのだが,徐々にその男性と家族とは距離を縮めていく。結末はある程度予測できるものだが,その展開の描き方はさすがオゾン監督という感じ。かといって,これまでの彼のどの作品に似ているというわけでもない。

2017年12月?日

シアタス調布 『映画かいけつゾロリ ZZ(ダブルゼット)のひみつ
この日は子ども2人を連れて映画館へ。息子はかなり早い時期から何度も映画館へ足を運んでいたが,娘は3歳にしてまだ2度目。1度目は母親とアンパンマンの映画を観たようだが,落ち着いて観ていられなかったとのこと。今回はHuluでテレビアニメ版の『かいけつゾロリ』をよく子ども2人で観ていることもあり,本人も観る気満々で出かけた。さらに私にとっては,調布に新しくオープンした映画館というのが楽しみ。
息子はテレビアニメを観る前に,単行本のゾロリをよく読んでいる。自宅にも知人から譲り受けたのも含めて10冊ほどある。最近30周年を迎え,単行本の巻数は30を超えた。私は全く知らなかったが,世代を超えたロングセラー作品だ。ただ,単行本とテレビアニメを見る限り,内容には若干の相違がある。しかも,テレビアニメには雑誌連載中の原作もあるというから,基本的に読みきりの単行本とは異なるのかもしれない。
今回の映画版は,こうしたシリーズものによくあるエピソード1的な内容。展開的には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思い起こさせますが,自分の両親の出会いに立ち会ってしまうというもの。まあ,大人にも十分楽しめる内容でした。娘は途中で少し飽きてしまったようですが,それでも私の膝の上でおとなしくしていました。やはりオープニングの曲がテレビアニメと違うというのはつかみが悪かったかもしれません。

2017年12月23日(土)

TOHOシネマズ日比谷シャンテ 『否定と肯定
わが家は朝にNHKラジオを聴いている。土曜日か日曜日かに,緒川たまきさんが映画紹介をするコーナーがあり,毎回きちんと聴いているわけではないが,たまたま聴けることを楽しみにしている。この作品は知っていたが,このラジオで紹介されたということと,授業でパレスチナ問題の話をしているということもあり,学生に紹介したこともあり,自分でも観ることにした。主演のレイチェル・ワイズも結構好きだし。
ホロコーストものの映画もかなりネタが尽きていると思うが,本作は舞台を現代にし,1990年代に行われた歴史家同士の裁判を取り上げている。ホロコースト研究者のユダヤ人女性歴史家のリップシュタットと,ホロコースト否定論者のアーヴィングがその当事者。こうした歴史的事実に関しては,日本でも従軍慰安婦の問題など,学問的には解決がついているように思われても,政治的な立場がそれを認めないような事柄がいくつもある。当然,ホロコーストに関してはその最たるものだ。私も以前読書日記で紹介したように,フリードランダー編『アウシュヴィッツと表象の限界』という本を読んでいた。そこで取り上げられた論争は1980年代のドイツで起こったものだが,この映画で取り上げられた事実については知らなかった。しかし,映画を観る限り,その争いはかなり低次元で,単にこの女性歴史家に降りかかった災難としか思えない。
ところで,日比谷シャンテの隣に建設中のビルは,TOHOシネマズ日比谷になるとのこと。どうやら日比谷シャンテは幕を閉じるようだ。

2017年12月28日(木)

私の通う会社はこの日と1月5日(金)とを「計画休暇」とし,年末年始は12連休となった。せかっくなので,子どもたちは保育園と学童クラブに預け,2017年のしめくくりにもう一本映画を観させていただくことにした。

有楽町スバル座 『花筐
選んだのは大林信彦監督作品。最近の作品ですらきちんと観られてはいないが,独自の境地に入った大林作品を心に刻んでおくのは大切だと思う。本作は出演俳優にもその意気込みが感じられる。特に主演の窪塚俊介だが,くどい演技が素晴らしい。近年の映画的リアリズムは概して自然さを追い求めがちだが,大林作品にはそんなものはない。映画は作り物であるということに徹した独自の世界観が創造されている。上映時間の長さを十分に感じさせる体力を使う鑑賞だった。

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新しい論文が発表されました。

2001年度から東京経済大学で非常勤講師を始めて17年。現在、早稲田大学でもお世話になっておりますが、こちらのポストには首都圏非常勤講師組合のチラシがたまに入れられています。そんな頃から大学非常勤講師の処遇に関心をもつようになり、また3年前から明治学院大学にもお世話になっていますが、私と同じ講義「社会学6:エスニシティ・地域・境界」を春学期に担当している(私は秋学期)熱田敬子さんという存在が気になり、調べてみると『現代思想』に「専任イス取りゲームをこえて--大学に背をむける非常勤講師たち」という文章を書いていることを知り、早速読んでみた。だんだん自分の処遇について真面目に考える必要性を感じるようになり、日本地理学会会員で所属に大学非常勤講師と記している人に対してアンケートをとることにしました。 その結果を『地理学評論』の「資料」に投稿したのですが、貴重なオリジナルなデータというだけでは受け付けてもらえず、15人というサンプルの少なさ、集計結果の統計学的な不備などを理由に掲載不可にされました。学会員を調査対象としていることもあり、このままではこの学会の出版物だけが発表場所でしたが、幸いその電子ジャーナルである『E-Journal GEO』では丁寧に査読していただき、幸いなことに掲載に至りました。

成瀬 厚 2017. 地理学関連科目を担当する大学非常勤講師の雇用実態と意識.E-journal GEO 12 (2): 280-293.

電子ジャーナルですから、当然ウェブで読むことができます。こちらからどうぞ。

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私たちの声を議会へ

三浦まり 2015. 『私たちの声を議会へ――代表制民主主義の再生』岩波書店,212p.2,000円.

 

わが家は朝、NHKラジオを聴いている。5時からは「マイ朝ラジオ」という番組をやっているのだが、そのなかに「社会の見方・私の視点」というコーナーがある。このコーナーにたびたび出演して、いつも分かりやすいが鋭い意見をする、三浦まりさんという人がいて、気になっていた。上智大学の政治学教授だとのこと。特に、衆議院選挙前の特集で登場したときに、「私は女性参政権の歴史を研究しているのですが、女性が参政権を獲得するまでに払った多くの努力と犠牲のことを考えると、棄権という選択肢は考えられません。」という発言にドキッとした。私自身、研究者でありながら、政治にはほとんど関心がなく、30歳になるまでは投票というものをしたことがなかった。とりあえず、30歳で初めて投票に行ってからは欠かさず行くようにしているが、無関心はつい最近まで大きく変わることはなかった。しかし、私も結婚し子どもを持ち、家を建てて現在の住所に戸籍を移して、このままこの地に骨をうずめようと決心してからは、地元に関わることを考えるようになり、政治的な関心も高くなってきた。

地域の祭で自民党の国会議員や市議会議員が顔を売っていることに辟易し、保育園の父母会の会長を務め、その件で共産党の市議会議員に相談したりするなかで、自分の生活の問題として政治について考えるようになった。それはローカルなものだけでなく、都政や国政にも必然的に不満を抱くようになった。いまだに正規の就職をしていない身としては、市議会議員などになるという選択肢も考えていたりする。しかし、意識ばかり高まっても知識が追いつかないとどうにもならない。ということで、とっかかりとして、この人物の文章を読んでみたいと思った次第。政治学は比較的近い分野でありながらも、なかなかどこからアプローチしたらよいのか分からないということもある。本書は岩波現代全書の一冊であり、かなり一般読者を想定しているはずだ。

はじめに
1章 代表とは何か
――代表制と代表性
2章 政党は何をめぐって競争するのか
――政党対立軸の変遷と責任政党政府
3章 参加を考える
――議会の外の代表制/性
4章 「分配」と「承認」をめぐる政治
5章 再び参加を考える
――グローバル化と経済格差
終 章 私たちの声を議会へ

著者はカリフォルニア大学バークレー校でPh.D.を取得したとのこと。各地でさまざまな講演も行っているということで、限られた短い時間でのラジオ・コメントも分かりやすくかつ物事の本質を捉えた話ができるのだと思う。本書を読んでみて、私の直感は正しかった。本書の参考文献は、欧文の最新政治学研究や、日本語訳のある政治学の古典、そして日本の政治学研究など、沢山すぎず、代表的なものを少しずつ読み進めていこうと思える文献表だった。

もちろん、それだけで評価するべきではない。代表という抽象的だが基本的な概念。そして、私自身よく分かっていない政党の話。特に、日本における政党の具体的な歴史を概観しているのはとてもありがたかった。「55年体制」などの基本的な知識もない私だが、自由民主党という名称とその政治的態度の矛盾ばかり感じていたが、本書の説明ですっきりし、またなぜ今日においても自民党が勝利してしまうのか、ということについても少なからず理解することができた。

タイトルにもあるように、本書は現代日本の政治体制を解説するだけのものではなく、それを変えていこうとする啓蒙書でもある。第3章の副題にもあるように、議会の外から私たちが声を上げていくことが必要であり、選挙の結果を受け入れるのみではいけないのだ。ただ、ここについては私自身はもう少し期待をしていた。例えば、選挙権を持たない18歳未満の若者とか、外国人などの意見を届けるチャンネルはあるのだろうか。そういう活動をしているNPO法人などの事例がもっとあることを期待していたが、少し抽象的な議論に終始しているような印象を持った。

逆に私が意識していなかった問題で、本書で強調されていたのが「ケア」の問題、すなわち高齢者介護の問題である。もちろん、こういう福祉の問題は政治の問題ではあるが、簡単にピンとはこない。しかし、「どのようにケア責任を家庭内で、社会のなかで、また国家の役割として分担するのかは、きわめて政治的なイシューである」(p.v111)という文章を読むと、著者が女性であることも含めて説得的に理解ができるし、またローカルからナショナルまで、また今後のケア労働者の担い手を外国人移住者に任せていくということも含めるとグローバルな問題として、スケール横断的な今日的トピックだと理解できる。

本書を読んで改めて思うのは、代議員制民主主義を採用している日本であるが、代表者に自らの思いを託すという私たちの基本的な政治的行為である投票を行うにあたっても、私たちが知らない、あるいは知らされていないことが多いということだ。このあたりについては、やはり教育やマスメディアを通して啓蒙していく必要があるのだろうか。あるいはそれがなされると中央政府にとって都合の悪いので、あえてそうはしていないのか。しかし、一方で啓蒙という近代主義的な発想についてもその達成には躊躇してしまう。

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地に呪われたる者

フランツ・ファノン著、鈴木道彦・浦野衣子訳 1969. 『地に呪われたる者』みすず書房、216p.800円.

 

サイード『オリエンタリズム』を読んだのは修士課程だったが、その衝撃的な読書の後に、本書を読む必要を痛感していた。その後古書でファノンの『黒い皮膚・白い仮面』を入手し、読み始めたが途中で断念してしまい、そのまま本書に手を伸ばすこともなくなってしまった。今受けている依頼原稿のなかで、ポストコロニアリズムについてファノンに言及してほしいという要望があり、今更ながら読んだ次第。

 


1
 暴力
2
 自然発生の偉大と弱点
3
 民族意識の悲運
4
 民族文化について
5
 植民地戦争と精神障害
結論

 

もうすでに現代のポストコロニアリズムに触れてしまっている身としては、1961年に原著出版された本書をどうとらえていいのか、前半を読みながら混乱した。ちなみに、序文をサルトルが書いていて、それから読むことも混乱の一因かもしれない。

第二次世界大戦が終わって多くの植民地は解放された。しかし、執筆当時ファノンが身を置いていたアルジェリアが独立したのは1962年。まさに、ファノン自身がその独立運動に参加していたとのことだから、そういう時代背景をまず知識として得た上で読むべきだったかもしれない。総論としての植民地主義はそれなりに理解しているつもりでいる。今日的には、力のある者が暴力的に力がない者から略奪するという印象だが、当時は社会ダーウィニズムに基づいて、優れた人種・民族が劣った人種・民族に与え、導くという意識があった。同時代的に考えた場合に、植民地支配を当事者たちが悪の行為と意識していたわけではないことに気づく。

しかし、実際の植民地支配がどのようになされたのかということを私はあまり勉強してこなかった。部分的にはアンダーソン『想像の共同体』や土屋健治『カルティニの風景』、英国の株式会社による植民地開発事業に関しては勝山貴之『英国地図製作とシェイクスピア演劇』、日本統治下の台湾を描いた映画『セデック・バレ』などで知ることもあったが、いまだに知らないことの方が多い。そういう意味でも、本書から学ぶことはあった。コロンと原住民、西欧化した民族主義者、民族ブルジョアジー、植民地のルンペン・プロレタリアート、など支配する側と支配される側の両極のさまざまな位置にさまざまな主体が位置する。

それはそうと、精神科医であったファノンによる最も衝撃的な内容がやはり5章である。植民地支配をめぐって精神に異常をきたした人々の記録が多数報告されている。これらは脱植民地化された現代において、遠い過去の事実とはとても思えない。非常に現代的な問題を提起していると同時に、人類があまり過去から学んでいないことも分かる。

丁寧な訳者の解説も含めて、貴重な読書体験でした。

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ジェントリフィケーションと報復都市

ニール・スミス著,原口 剛訳 2014. 『ジェントリフィケーションと報復都市――新たなる都市のフロンティア』ミネルヴァ書房,404+46p.5,800円.

 

5800円という値段から,これまで読まずにいたが,読んでみて得るところは非常に大きかった。ニール・スミスは論文も含めてほとんど翻訳されていない。『現代思想』の1999年12月号の特集「変容する空間」に訳されている「グローバル経済の危機と国際的批判地理学の必要性」はタイトルから分かるが,国際批判地理学会議の基調講演となっている。
正直言って,スミスは1984年の『不均等発展』を読みたいところだし,ジェントリフィケーション自体には興味はなかった。しかし,本書はジェントリフィケーションを広義に捉え,そうして特定の研究分野にとらわれない広範な議論が展開されていて,素晴らしい読書体験だった。訳者もいわゆる狭義のジェントリフィケーションを専門としているわけではないが,長い時間をかけて本書と向き合って,いろんな人の助言を借りてこの訳書を作り上げたことにまずは感謝の意を表したい。

まえがき
イントロダクション
 第1章 「アベニューBの階級闘争――ワイルド・ワイルド・ウエストとしてのロワー・イーストサイド」
 第2章 ジェントリフィケーションはダーティ・ワードか?
第Ⅰ部 ジェントリフィケーションの理論に向けて
 第3章 ローカルな議論――「消費者主権」から地代格差へ
 第4章 グローバルな議論――不均等発展
 第5章 社会的な議論――ヤッピーと住宅をめぐって
第Ⅱ部 グローバルなことはローカルなこと
 第6章 市場・国家・イデオロギー――ソサエティヒル
 第7章 キャッチ=22――ハーレムのジェントリフィケーション?
 第8章 普遍と例外をめぐって――ヨーロッパの三都市
第Ⅲ部 報復都市
 第9章 ジェントリフィケーションのフロンティアを地図化する
 第10章 ジェントリフィケーションから報復都市へ

本書の原題は,訳書の副題になっている「新たなる都市のフロンティア」である。米国の事例がベースとなっているが,米国でフロンティアといえば,西部開拓の前線のことである。全土を開拓しつくしてしまった後,新しい前線=フロンティアが都市の中心部であるというわけだ。そして,著者自身も研究者としてジェントリフィケーションという現象自体を専門にしてきたわけではないが,自身の都市経験がおのずからこのテーマに向かわせたという。

ハーヴェイについでマルクス主義地理学の立場に立つスミスだから,当然資本主義がもたらす格差社会,貧困の問題,ホームレスなどが彼の主要な研究対象だったわけだが,ジェントリフィケーションはまさに都市中心部の貧困者を襲う資本主義の手だといえる。本書の魅力はその多角的な視角であり,多様な手法である。社会思想的な理論は著者の得意とするところだが,それだけではなく実際の統計データに基づくいわゆる経済理論による検証も含まれている。実際の観察に基づく写真が掲載されれば,雑誌や風刺画,映画などの表象分析も含まれる。

本書での発見はいくつかあるが,非常に素朴なところでは,「ジェントリフィケーション」という言葉自体について。日本ではなじみの薄かったこの言葉を私は学術用語かと思っていたが決してそうではなかったということ。タイトル通り,第2章がこの言葉の一般における用法をめぐる議論だが,第2章のタイトル自体は新聞広告の見出し記事だということである。学術後としても行き過ぎた再開発を揶揄する言葉と私はとらえているが,一般社会においても同様で,開発側はこの言葉を消去しようとしたり,浄化しようとしたりする。

3章,第4章では著者の得意とするスケール論と不均等発展論が存分に生かされている。基本的に本書は米国の事例で展開していくのだが,第8章ではヨーロッパの三都市として,アムステルダム,ブダペスト,パリについてそれぞれの事情が報告されている。

本書がジェントリフィケーション研究にとどまらないのは,「報復都市」についての議論である。この概念を理解するのは少し難しい。ジェントリフィケーションが欧米で進展するなか,もちろんその資本の力に抵抗する反ジェントリフィケーション運動はかなり活発であったのだが,いずれにせよ,弱者の声はかき消されてしまう。さらにはそうした弱者に声に対して,資本の力がマジョリティである大衆の意識に訴える形で,ホームレスなどへの報復を訴えるのだという。その意識が報復主義であり,その立場に立ってさらなるジェントリフィケーションを推し進めるのが報復都市だという。

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