思考の誕生

ピアジェ, J.著,滝沢武久訳 1980. 『思考の誕生――論理操作の発達』朝日出版社,240p.,880円.

地理教育の分野で子どもの地理的認識の発達という研究分野があるが,そこでピアジェを参照する研究者はけっこう多い。それはピアジェが子どもの発達心理についての研究のみならず,「景観問題」といわれる空間認知に関する研究があるからだという。まあ,そんなことでたまたま古書店で見つけ,安価だった本書を購入した。朝日出版社のエピステーメー叢書もけっこう集めているし。

本書はフランス語で出版された著書の翻訳ではなく,著者の講演録を訳者が集めて一冊にまとめたもの。内容は下記の通り。

思考の科学

関係の認識論

知覚と知能における運動の役割

数学の構造と知能の操作の構造

子どもの数の発生

知能の誕生

冒頭の講演から,自伝的な内容で始まる。子どもの頃から生物学に関心を示し,神童ともいえるように,成人になる前から学術雑誌などに論文を執筆していたという。その後,心理学的な領域に関わるようになるが,本人の関心は一環して「認識論」にあるという。また,数学に関しても一定の素養があるようで,4章のタイトルにもありますが,本書でもけっこう数学の話が出てきます。なお,この4章に「構造」という語が出てきます。私が唯一持っているピアジェの本は,クセジュ文庫『構造主義』ですので,そういえばピアジェは構造主義者でした。

本書から学ぶところは予想以上にありました。でも,一方では発達心理学的な意味での理解はあまり進まなかった気もします。まず,ピアジェについて知らなかったことが多かったのは当たり前ですが,本文を読むよりもむしろ訳者あとがきのなかで,訳者はピアジェをデカルト・ニュートン的な近代的空間観のオルタナティブとして位置づけています。相対性理論のアインシュタインとの交流もあったり,数学のなかでも位相数学的空間(トポロジー)の主張など,子どもの空間認識によって近代的空間観を乗り越えようとしたということらしい。

本文のなかでは,まず2章の「関係の認識論」。最近私が認識論にちょっとこだわっているというのは書いていますが,ピアジェの研究関心の中心に認識論があるということ,そして具体的な彼の認識論の一つとして「関係」という論点で議論されています。本書でよく登場するのが,子どもは同じ重さの粘土をこねて形が変わると,体積や重さが変わると認識するという話。丸い状態から細長くすると,ある子どもは長さが長くなったから重くなるといい,ある子どもは細くなったから軽くなるという。集合論や外延と内包の議論などもあります。

もう一つは5章の「子どもの数の発生」。これは私自身が自分の子どもと接しているときの経験と照らし合わせて「なるほど」と思った次第。子どもは早くに数を数えられるようになるが,それがすなわち数を理解したことにはならないという。数というのは抽象的な概念で,頭のなかだけで計算できるようになると数の理解に達したといえるらしい。つまり,目の前にある事物の数を数えるとか,指を折って足し算をするとかいう行為はけっして数を理解しているとはいえず,物と視角に依存した行為ということになるらしい。ともかく,数というものの本質について考えさせられる。

まあ,ともかく難解であると同時に刺激的な読書でした。

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夏も終わりか

2016年9月15日(木)

恵比寿ガーデンシネマ 『グッバイ,サマー

『エターナル・サンシャイン』で度肝を抜かれた監督で,その後,『恋愛睡眠のすすめ』(2006),『僕らのミライへの逆回転』(2008)と観たが,イマイチしっくりこなかった。そもそも彼はミュージック・ビデオをよく撮っていて,ビョークなどの作品も手がけていて,そんな作品集のDVDも出ている。以前親交のあったミュージシャンに借りて観たこともある。

彼の監督作品は英語圏での制作もあったりするが,本人はフランス人であり,本作はフランス映画。上に挙げた2本の映画が私にとってイマイチだったのは,その豊かな想像力についていけないというところが大きい。そういった意味では本作は違和感なく楽しめました。彼の想像力はおそらく子どものものなのでしょう。多くの人が大人になると失ってしまうものを彼は失わずに持ち続けていて,それが創造の源になっていると思う。

さて,本作はその想像力の担い手になっているのが14歳の男子中学生ってところが違和感のなさにつながっています。「あの頃はそんなこともあったよな」と共感できたり,「そういう奴もいたよな」てな具合で。ともかく,この主演のダニエル役の男の子が可愛いのだ。周りより背が低く,「ミクロ」とあだ名を付けられ,伸ばし気味にしている髪の毛でいつも女の子に間違えられる。本人はエッチなことも興味があるのに,同級生の女子とは同性扱いされてしまう。そこに,風変わりな転校生テオがやってくる。テオの家は骨董品屋でよく手伝わされて機械の修理などをやっている。知的でちょっと思想かぶれた主人公の母親をオドレイ・トゥトゥが演じているところがまたいい。

夏休みに2人は自分たちで廃材から作ったキャンピングカー(?)で旅行をするってのが大きなストーリーなんだけど,その車が出来上がる過程とか,作った車を行動で運転することの許可を得にいくところとか,道中の進路の決定とか,ともかく細部が凝っていて,上映中ずっと楽しめる作品。ただ,このありふれた邦題はいかがなものか。

東京等写真美術館 杉本博司「ロスト・ヒューマン」

この日は比較的時間に余裕があったので,リニューアルした東京都写真美術館に足を運んだ。この日やっていたのは杉本博司。杉本博司は英文の地理学論文を読んでいた時に知った芸術家で,数年前に日本でもドキュメンタリー映画が制作され,その存在は知っていたが,作品を生で観るのは初めて。館内のモニターで,園ドキュメンタリー映画を流していたが,ちょうど今回の展示に関わるシーンをやっていて,杉本は第二次世界大戦の戦争遺物の収集をしていた。その一部が今回の展示の一部となっている。

この展示は,世界の終わりを想定し,特に日本を対象にしているが,さまざまな職業の人間が世界の終わりを迎え,何を回顧し,何を反省するのか,人間が犯した罪とは何かという視点からの独白文が展示され(その文章の直筆には各界の著名人が協力している),それに関連する遺物が展示されている。それが3階の展示で,2階の展示は「廃墟劇場」というシリーズで,過去の「劇場」シリーズの続編とのこと。その名の通り,廃墟となった劇場のステージの部分に白く光るスクリーンを配し,撮影したというそれだけの写真ではありますが,そのかすかに写る朽ち果てていく劇場の様子が多くのことを物語ります。もう一つは「仏の海」というシリーズで,整然と並ぶ千手観音を撮影したもの。杉本氏は1948年生まれといいますから,来年で70歳。まだまだ精力的な活動が続き,刺激的な作品を魅せてくれるのでしょう。

2016年9月19日(日)

立川シネマシティ 『オーバー・フェンス

函館三部作と称し,佐藤泰志の函館を舞台とする小説の映画が異なる監督で制作され,どれもが好評を得ていた三作目。一作目は熊切和嘉監督による『海炭市叙景』が2010年,呉 美保監督による『そこのみにて光輝く』が2014年,そして本作は山下敦弘監督が手がける。山下監督については過去の映画日記でも書いてきたが,『どんてん生活』や『ばかのハコ船』という初期の作品を賞賛していた友人がいて,続く『リアリズムの宿』を初めて劇場で観た。この作品には若かりし頃の尾野真千子ちゃんが出演しています。その後も『くりいむレモン』『リンダリンダリンダ』『松ヶ根乱射事件』『マイ・バック・ページ』と観続けているが,正直好きな監督とは呼べない。ということもあって,その後の作品は観ていなかったが,本作は函館三部作の最後ということで観ることにした。

オダギリジョーと蒼井 優という組み合わせもいいですね。本作も他の2作となんとなく似た空気を醸し出しています。と,Wikipediaで調べてみると,彼の出身大学は大阪芸術大学で,熊切監督は先輩にあたり,呉監督は同期だという。まあ,淡々と撮る手法と映画音楽は山下監督らしい作品といえるのか。でも,正直なところは何が山下監督らしい映画なのかってのがイマイチはっきり分からないところが素直に好きになれない理由かもしれない。まあ,ともかく本作に関しては監督が誰ということは無関係に素直に観ることができる作品。原作でどう描かれているかは分からないが,蒼井 優演じる女性は彼女以外には難しいだろうし,優香がちょろっと出てくるところも面白い。「オーバー・フェンス」というタイトルの意味がもちろん象徴的な意味合いもあるんだろうけど,最後のシーンがそのものでほろっと笑えるラストがいい。

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君の名は。

2016年9月9日(金)

立川シネマシティ 『君の名は。

楽しみにしていた新海 誠作品。今回はなにやら宣伝費がかかっているみたい。声優に若手俳優を起用し,いろんな番組に出ているみたいだし,新海作品で最高の上映館数だとのこと。公開されるやいなや,興行成績が話題になるなど大ヒット。周りが盛り上がると冷める質の私。そもそも,今回はなにやら男子と女子が入れ替わるという『転校生』的なネタで,しかも主人公は高校生ということで,それほど過度な期待はしていなかった。新海作品は細田 守のようなストーリー展開や非現実的なファンタジーが売りではなく,ストーリーに重きを置かず,映像(+音響はミソ)が魅力だと思っていたから。

しかし,ふたを開けてみれば,私にとって今年一番の作品になりました。いろいろ考えさせられることもあるけど,ともかく観ている間中がっしりと心をわしづかみにされ,観終わった後放心状態にさせられたのは事実。ともかく,「すごかった」とかではなく「やられた」という感じ。よく考えると,楽しみにしていたわりにはちゃんとした予告編は観ていなかった気がする。高校生の男女が入れ替わるという設定と,男の子が東京で,女の子がどこかの田舎で生活しているということは把握していたが,ポスターにもある隕石がなんなのか,特に考えもしていなかった。

今回の作品は,ネタバレなしに作品について詳細に語ることは難しいので,ご注意ください。

そう,まず単純に男女が入れ替わるのではなく,そこに時間的な問題も関わってくるというところを知らなかったとことがよかったこと。そしてそのおかげで素直に驚けた。この辺については,パンフレットに寄稿している氷川竜介氏の文章がうまく論じています。彼は明治大学の教授でアニメ研究者。『細田 守の世界』という著書もあるそうだ。彼がいうには,新海氏には大林宣彦の影響があるのだという。『転校生』との類似は誰もが思い浮かべるが,それに加え『時をかける少女』。そして,『時をかける少女』をアニメ化した細田との同時代的関連性も指摘する。もちろん,往年の『君の名は』も名前だけでなく男女関係のエッセンスも継承しているし,新海作品の得意とする宇宙ものも関わる。

そういえば,以前も読書日記で紹介したが,映画研究者の加藤幹郎は2010年の著書『表象と批評――映画・アニメーション・漫画』の表紙を『秒速5センチメートル』から東京の遠景を借りてきている。本書のなかの新海論は「風景の実存――新海誠のアニメーション映画におけるクラウドスケイプ」というものであるが,本作でも冒頭の隕石が雲を突き抜けていくシーンなど,加藤氏を喜ばせる演出がなされている。

本作のまた新しいアニメ表現の一つが,定点観測であろう。実写映画でよく見られるものだが,遠景の風景を定点観測し,早回しで再生するというもの。都市の風景では,建築物は変わらずに,太陽の位置と影,人や車や鉄道の動き,そういったものが一日のリズムを持って高速で移動する。自然の風景では雲の流れ,木々のざわめき,潮の満ち引き(本作では出てこないが)の一日のリズムを一瞬で感じることのできる動画。これが主要なところで何度か登場する。

『転校生』ものはけっこう難しい表現だと思う。大林宣彦の作品もそれが完璧に描かれていたというとそうではない。大抵は,男性の体に入ってしまった女性は,自分自身である以上にめそめそしてなよなよしくなる。もちろん反対も然り。まあ,ありえないフィクションである以上現実はこうなのだとはいえない。ひょっとしてそういう状況になると,普段意識していない男女差がより強調されてしまうかもしれない。

本作の場合はかなりその辺を意識しているように思う。しかし,やはり過去の作品の表現からは逃れられないものだ。本作では意識してかしていないか,主人公2人にはそれぞれ男女の友人がいて,男らしさ,女らしさはかれら友人が体現していて,主人公2人はけっこう中性的な存在である。それが,入れ替わるとやはり男らしさ,女らしさを演じてしまい,それが逆に周囲には魅力的にみえてしまうのだ。よく考えると,主人公2人の素の姿はあまりしっかり描かれていない。

風景描写に関しては,やはり東京の描き方は素晴らしい。まさにフェザーストン『消費文化とポストモダニズム』で呼んだ「日常生活の審美化」だ。写真家,本城直季が行った現実風景をジオラマのような虚構の風景のように撮影する技術も同じようなものだが,日常風景をより細密に写実的に描きながら,描かれてしまうはずの汚いものが失われ,風景全体が美しく見えてしまうのだ。さて,一方で岐阜県飛騨地方をイメージしたという架空の田舎町「糸守町」はパンフレットによれば,より一般的な田舎町を描いたとされている。コンビニやカフェはなく,若者たちは成長すると町から出て行くというイメージ。主人公の宮水三葉はこの町の神社の娘で田舎の伝統の担い手になっている。私は過疎化のすすむ田舎町を訪れたりしたことはないが,映画で描かれる風景はけっこう活気があるようにみえる。少なくともお祭りには若い人たちも多く訪れていて,過疎化がすすむ田舎町のようには思えない。この町に具体性を持たせないというのは,具体的なモデルがあるとアニメ巡礼などで迷惑をかけるということもあるし,ストーリー上は隕石が落ちて壊滅してしまうという負のイメージがつきまというからだが,やはり抽象化された田園風景という感が否めない。

さて,今回私は本作が最寄りの映画館で上映されていたにもかかわらず,立川まで来たのは理由がある。本作は爆音上映会として上映されていたからだ。爆音上映会とは元々吉祥寺のバウスシアターで行われていたもので,音楽映画やアクション映画の再映で行われていたように記憶している。2度目で観るのであれば,ストーリーなど細かいことは気にせずに音楽や効果音を爆音で楽しむという趣旨。それがいつから立川で引き継がれたかは分からないが,バウスシアターが閉館してしまった今,体験するのはここしかない。私自身,バウスシアターでは未経験で,立川でも初。しかも,本作は新作なので,どの程度爆音なのか。やはり実際はそれほど爆音ではなかったように思う。といっても,普段がどの程度の音量なのかも分からないのだが。でも,隕石が落下するシーンは地響きが確かにした。期待したほどではなかったが,いい音響のスクリーンで本作を観られたのはよかったと思う。

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個人空間の誕生

イーフー・トゥアン著,阿部 一訳 1993. 『個人空間の誕生――食卓・家屋・劇場・世界』せりか書房,308p.,2987円.

久し振りにトゥアンの本を読む。おそらく初めに読んだのは『空間の経験』(以下,翻訳タイトルで表示)で,その後なぜか『トポフィリア』は完読できず,それでも『愛と支配の博物誌』や『恐怖の博物誌』は面白く読み,『モラリティと想像力の文化史』も持っているが,読んだかどうかの記憶はない。

いまさらトゥアンってのもあるが,本書のことは翻訳が出る前から気になっていた。本書のことを知ったのは,1992年の『現代思想』にトゥアンの論文が翻訳され,その訳者であった阿部氏がトゥアンの解説文を寄せていたところに,著作一覧があったからだと思う。本書の原題は「分節世界と自己(Segmented worlds and self)」というもので,この「世界の分節化」というフレーズが随分気になっていた。人間が事物に名前を付けるという基本的な行為は,無秩序的で連続的な世界を切り分け,意味付けていくというもので,その基本的な行為を「分節化」という言葉で表現できるのは便利だと思って,本書を読まずによく「分節化」という言葉を使っていた。

今回,本書を読もうと思い立ったのは,地名の階層性について考えるなかで,本書が関わるのではないかと思ったから。物事を階層的に理解し,それに名前を付けていく行為には,大きなものを分割して小さくし,それをさらに分割して,というトップダウン的な思考と,小さなものをまとめてグループ化して大きなものとして名前を付け,さらにまとめてという,ボトムアップ的な思考とがあると思う。「分節化」というのはトップダウン的な思考にあてはまる。トゥアンの著書というのはさまざまな分野から,世界のさまざまな地域,さまざまな時代から事例を持ってくることで話を組み立てるという特徴があるので,そいういう思考について,浅く広く知ることができるという利点がある。早速読んでみよう。

全体

 一 分節化・意識・自己

 二 結合体

部分

 三 飲食とマナー

 四 家屋と家庭

 五 劇場と社会

 六 環境と視角

自己

 七 自己

 八 自己と再構成された全体

先ほど書いたトゥアンの著書の特徴は,私の読書に求めるものとは基本的に相容れないため,場合によっては読むのが苦痛になるが,本書はそうでもなかった。本書はノルベルト・エリアスやフィリップ・アリエスなどの著書にも依拠していることもあり,他にもフランセス・イエイツやケネス・クラークなども文献表に現れ,どちらかというと,古きを知って現在を改めるといった歴史感覚が支配しているように思う。さらに,地理学者であり,中国系であるという著者の特徴から,ヨーロッパの近代をさらに地理的差異としての中国と相対化している。なかなか得るところの多い読書だった。

特に,本書は前半が室内空間についての議論が多く,私が2001年に『理論地理学ノート』に書かせてもらった室内空間に関する論文で本書に言及すべきだったと思う。また,本書には景観に関する記述も多く,2013年に『地理学評論』に書いた風景論文で言及すべきだった。しかし,投稿中に査読者が誰もそういうことを指摘しないのは,本書が地理学者にあまり読まれていないということだろうか。

訳文については,阿部氏の違和感のない翻訳がありがたかった。阿部 一氏は優れた論文を書きながらも,地理学内部ではあまり正当な評価を受けていない研究者だと思う。学会名簿で確認すると,まだ日本地理学会や人文地理学会には所属しているようだが,彼の新しい地理学論文を読みたいものだ。

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ものと場所

ゼノン・W・ピリシン著、小口峰樹訳 2012. 『ものと場所――心は世界とどう結びついているか』勁草書房、381+61p.、4536円.

私は卒業論文のテーマから「場所」というものを考え続けている。もう四半世紀になろうとしている。当初は、マス・メディアが特定の場所をどう描いているかということを素朴に考えていたが、日本の地理学におけるその研究の先駆者である内田順文氏の「場所の記号論」的な枠組みを批判しながらも引きずっていた。その批判を博士論文の冒頭に組み込んだが、博士論文の前に1997年に所属大学の英文紀要に書いた論文で、記号論を構造主義的なものからポスト構造主義的なものへの転回を論じた。そこで依拠していたのが、デリダやジジェクのポスト構造

主義的記号論だが、それと平行して当時固有名論で盛り上がっていたクリプキを参照して、記号における固有名の議論を地理的記号における地名の問題へと拡張しようとした。

場所の問題は『Hanako』のような週刊誌や写真、映画、小説、音楽などの素材を使って経験的な研究を重ねる一方で、2004年に『地理科学』に書いた論文では、博士論文の一部を使って場所の隠喩論を展開した。しかし、博士論文では隠喩論の前に、1997年の論文から発展した内容が含まれていた。そこでは哲学者のストローソンの『個体と主語』、サールの『言語行為』などに依拠して、われわれが事物を認識する際、またそれを言語を用いて表現する際に、事物が位置する場所の問題がどうなるのかということを考えていた。

この思考はケーシーの『場所の運命』によってちょっと方向転換し、2014年に『人文地理』に書いた論文へと結実した。それは古代ギリシア哲学にまで「場所的なもの」を探求しようという壮大な見取り図だった。しかし、一方で新刊で本書の翻訳を見かけた際に、博士論文の議論を続けるのに本書が手助けとなると勝手に思い込んでいた。もろもろの手近なものを処理している間に4年が経ってしまったが、Amazonの中古で程よい価格で出ていた本書をようやく読み終えることができた。

しかし、実際購入して手にとってみると、確かに新刊時に書店で手に取った時に、本書でストローソンが検討されているのを確認はしていたが、著者が哲学者ではなく、認知科学の研究者であることを知る。しかし、一方では最近取り組んでいる地名を概念階層の観点から論じようとしていて、その際に認知心理学などの文献を読んでいたので、ちょうど良いとも思った。目次を見ただけでは、私の期待に応えてくれる本かどうかは分からない。

第一章 問題への手引き――知覚と世界を結びつける

第二章 指標づけと個別者の追跡

第三章 選択――表象と事物をつなぐ鍵

第四章 意識内容と非概念的表象

第五章 われわれは空間をどうやって表象するのか――内的制約 vs. 外的制約

結論

私の読後の結論からいうと、私の場所研究の文脈で本書が大きな役割を果たすことはないと思う。著者については既に『認知科学の計算理論』という本が翻訳されているが、心理学実験も行なうような研究者であり、本書は哲学の議論に寄り添おうとするものであるが、認知科学自体がそうであるように、脳科学へも抵抗なく接続する。

本書はタイトルに「場所」を掲げるが、主要な論点は「空間」である。空間については第五章で検討されるが、その前提として第四章までが費やされるのだ。知りたいところを散々先延ばししておきながら、「空間」の概念はやはり地理学者のそれとは異なる。私の大学院時代の指導教官は認知地図研究の第一人者だが、私も遅まきながら地名研究の一環としてその動向を勉強せざるを得ない。その過程で、認知地図研究でも心理学者が机上の空間やマウスにとっての箱庭空間といった一望できるスケールの空間を問題とするのに対し、地理学者は場合によっては実際の身体的移動範囲以上の空間、すなわち地図でしか認識できない空間をも対象とする。そのスケール間の差異の大きさを実感し、研究における認識や態度が根本的に異なるのではと思うようになっている。

そういう意味において、本書はいろんなヒントは与えてくれるが、実際の地理学研究に役立つかというとそうではない。また、空間概念の違いだけではなく、本書はタイトルに掲げている「場所」に対してほとんど言及されないまま終わってしまうのだ。同じくタイトルにある「もの」についても同じ。もちろん、第二章では「個別者」の検討があり、ここでストローソンの議論と関わってくるのだが、私が考えるような、プラトンやアリストテレスの空間的概念が問題としていたものと場所の関係とは明らかに異なっている。結局、本書の読みにくさ、私のような読者における理解のしづらさは、心理学実験がどのようなことを明らかにするためにどのように設計されているのかという常識的なものを持っていないところに起因するのだと思う。

幸い、本書につけられた文献一覧には、翻訳のある主要な文献がいくつかあったので、今後少しずつそうしたものを読むことによって、再度本書を読むことがあったら、少しは理解ができるのではないだろうか。

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母親も80歳か

2016年8月24日(水)

大学が夏期休業中につき,平日の1日休日。例年は週5日通勤したりしますが,今回はしっかり休んでいる。そうでもないと映画が観られなかったり,そうやって平日1日くらい家事を担当しないと家が回らなかったり。まあ,ともかく水曜日は映画が1100円で観られる劇場が多かったりでありがたい。角川シネマや恵比寿のガーデンシネマはユナイテッドシネマ系列で,最近テアトルと提携したのか,ともかく水曜日はサービスデイ。いくつか観たい作品のなかからこちらを選びました。

新宿角川シネマ 『奇跡の教室

フランス映画の感動もの。高校1年生の落ちこぼれクラスを担当した歴史の女性教員が,特定テーマの歴史研究コンクールに応募することに。テーマはナチス政権下のユダヤ人の若者と子ども。もちろんクラスには黒人や有色人種も多い。この映画は事実に基づくものだが,人種と宗教の関係が分かりにくいところが現代的。黒人のムスリムやユダヤ教徒がいたり,ユダヤ教徒に改宗したという生徒がいたり。

このての感動ものはある程度展開が読めてしまうので,へたな演出だと逆に冷めてしまったりするが,この主演の女優さんがなかなかいいです。そしてコンクールのための作業を手助けする図書館司書(?)の女性の存在も大きい。この映画のみどころは,コンクールで優秀クラスが3クラス選ばれ,最優秀が決定する瞬間。3位から読み上げるため,必然的に最優秀は読み上げられる前に判明するのだが,その時の女性教員の表情がなんともリアル。わざとらしい喜びはなく,待ってましたといわんばかりの喜びよう。しかし,一つだけ理解できないのはこのクラスで一番目立っていた美形の女子がいて,彼女はコンクールの作業に参加していない。最後の方で参加することになるのだが,優秀賞に選ばれたときのスピーチを彼女が行っているのだ。しかも,かなり露出の多い白のワンピースで。確かに映画としては見栄えがいいかもしれないが,あの人選は事実に基づくのだろうか?

2016年9月1日(木)

この週は休みを木曜日に変更し,映画サービスデイにあてた。髪の毛もすっかり伸びてきて切りたかったので,この日は近所ですます。府中で朝一映画を観て,調布で散髪。

府中TOHOシネマズ 『後妻業の女

実写映画では今,一番楽しみにしていた映画。後妻業というのは近年メディアでも話題になった数人の女性の犯罪者がいますが,本作はフィクション。原作がどういうものかは分かりませんが,映画は予告編を観る限りコメディタッチで描かれる。

その「女」を演じるのは大竹しのぶ。まさに他の配役は思いつかない。彼女を後ろで糸引くのが豊川悦司。騙される男たちには森本レオ,伊武雅刀,津川雅彦という面々。津川雅彦の娘役で尾野真千子と長谷川京子。他にも豪華なキャストで何一つ無駄がないというか,ちょっと金庫を開けるだけで登場する泉谷しげるとか,探偵役の永瀬正敏の太ももの銃弾を取り除く獣医役の柄本 明とか,皆が楽しみながら出演しているという感じ。ちょっとうるさすぎたのは大竹しのぶの息子役で登場する風間俊介。

本作はなんとなく久し振りに気持ちのいいエッチシーンもある。最近は「あの演技派女優が脱いだ」とかちょっとだけで大騒ぎする感じで,日本映画ではなかなかいいエッチシーンに出会えないが,本作は大竹しのぶも水川あさみもパンツくらいもったいぶらずに見せているし,樋井明日香ってのは知らなかったけど,綺麗な裸体を何度か披露しています。まあともかく鶴橋康夫という監督は1940年生まれのテレビディレクター出身ということですが,なかなかいい映画撮りますね。豊川悦司主演の『愛の流刑地』(2007年)なども撮っているようですが,今後もちょっと期待したい。

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都道府県名と国名の起源

吉崎正松 1985. 『都道府県名と国名の起源』古今書院,169p.,2500円.

私が現在都道府県名の研究をしているということは何度か書いた。文献を読んでいるなか,発見したのが林 正巳『府県合併とその背景』(古今書院,1970)という本だが,タイトルを思い出せないままうる覚えでAmazon検索をした結果発見したのが本書。こちらも古今書院の発行でした。ちなみに,林 正巳は新潟大学で教えていた地理学者ってことが分かりますが,本書の著者についてはネット情報はなく不明。本書を読んだ限りではなんとなく,学校の先生かなにかで,生涯知名に関する研究書を読み続け,得た知見をまとめたという印象。

一,わが国の地名の研究

二,わが国の地方行政区画名の起源

三,各説

 1 都道府県名の起源(〔〕内は管轄庁所在地名)

 2 国名の起源

参考文献

あとがき

書名と目次通り,47都道府県および都道府県名と県庁所在地名が一致しない場合は県庁所在地名も含めて前半でその起源が説明されます。後半の「国名」とはもちろん「日本」という名前の起源ではなく,旧国(令制国,律令国)の起源。

昨年秋にこのネタで発表する前に,私は手っ取り早く都道府県名の起源を知るのに,『角川日本地名大辞典』の各巻で調べていた。本書は1985年の発行で,『角川日本地名大辞典』が全巻揃っていなかったからか,参考文献には含まれていないが,ともかく本書は新旧の資料から,都道府県名および国名に関する情報を整理したという労作。まさに私が今欲しかった情報が詰まっています。

といっても,私の観点からは,本書に記載された情報そのものというよりは,都道府県や旧国といったかなり広域につけられた地名の起源というのはかなりはっきりしないということが明らかに分かるということが重要です。本書によれば,地名は用いられている漢字の語義よりは読み方が重要であるという。日本の地名およびそれに準じて人名の名字も漢字2文字のものが多いというのは多くの者が知るところですが,地名の多くはそれまで呼ばれていた読み方に対して当て字として漢字を用い,さらにそれを2文字に変更したという経緯から,現在用いられている漢字は字そのものの意味は地名の本来の意味とはかけ離れているという。しかも,当て字として使う漢字が2つしかないとなれば,その途中で省略があったり,訛りがあったり,現在ではなくなってしまった読み方であったり,もちろん比喩表現を媒介したりということもある。ともかく,地名の起源というのは,起源というより歴史的経緯といった方が正しく,歴史の各時代でそれぞれの解釈があり,それが形を変えながら現代まで伝えられているというようなものである。

本書のなかで私的な観点から一つ不満があるとしたら,藩についての言及がほとんどないこと。そもそも府県はほとんどが廃藩置県によって成立して,府県名の多くが藩名を引き継いでいる。しかし,廃藩置県後に大規模な府県合併があり,最終的に旧国と近い領域が府県になったわけだから,旧国と都道府県との間の関係を「藩」という存在を媒介として関連づけられると思うのだが,本書はあくまでも地名の研究であり,その辺については考察外となっている。

ともかく,本書を読みながら,私の研究にとって重要なインスピレーションを多くいただいた。

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ヨーロッパ覇権以前(下)

ジャネット・L・アブー=ルゴド著,佐藤次高・斯波義信・高山 博・三浦 徹訳 2002. 『ヨーロッパ覇権以前――もう一つの世界システム(下)』岩波書店,200+91p.,2800円.

上巻は随分前に紹介しました。本書は今年度の東京経済大学の秋学期で使う予定なので,ようやく慌てて下巻を読んだ次第。

第二部 中東心臓部(承前)

 第七章 マムルーク朝政権下のカイロの独占

第三部 アジア

 インド洋システム――その三つの部分

 第八章 インド亜大陸――すべての地に通じる道

 第九章 海峡と瀬戸

 第一〇章 絹の中国

結論

 第一一章 十三世紀世界システムの再構成

上巻の紹介でみたように,本書は三部に分れていて,ヨーロッパ,中東,アジアという順番で13世紀後半から14世紀前半の歴史をたどります。原著の副題に「1250-1350」とあります。コロンブスの大西洋横断が1492年ですから,それを可能にする水準にヨーロッパの技術が到達する前の歴史が本書のタイトルでいう「ヨーロッパ覇権以前」ということになります。すなわち,結果的にヨーロッパの力がその後全世界を覆うようになりますが,本書の意義は,その直前の歴史においては,ヨーロッパの水準をさまざまな次元で上回るものが世界各地にあったということを強調している点です。

本書の記載のなかには,アメリカ大陸の発見もコロンブス以前に達成されていたという記録がいくつか残されているという。上巻の最後から続いている中東の話はやはりまだまだ私には難しい。その後始まるインドから東南アジア,中国の話は少しは理解しやすかったがそれでも圧倒的な知識不足を痛感した。

本書にはインド洋におけるモンスーンが,当時の海運を使った貿易の季節性に大きく影響したと説得的に論じている。このような議論はともすると,自然環境が人間行動を著しく規定するという環境決定論的なものになりがちで,読む方もどこまでを納得していいのか,なかなか難しい問題だ。中国の話でもシルクロードの重要性を説いている割にはそのもの自体の説明が不足していたり,やはりこの程度の分量の書籍でどこまで詳しく説明するかもなかなか難しい。講義で使うにはこちらの方で不足する知識を補わなくてはならないだろう。そういう意味でも,さらなる勉強を強いる魅力的な本であった。

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Phenomenology, science and geography

Pickles, J. 1985. Phenomenology, science and geography: spatiality and the human sciences. Cambridge: Cambridge University Press, 202p.

英語圏地理学には1960年代後半から「人文主義地理学humanistic geography」という動向があった。それは現象学に依拠し,コンピュータ・サイエンスのもと地理学において無機質化してしまった人間の扱いに人間性を取り戻すという大きな意義があった。しかし,人間の感覚や感情などを強調しすぎる嫌いがあった。現象学的地理学などとも呼んでいたが,厳密な意味でフッサールの現象学を丁寧に検討するわけではなく,ハイデガーやメルロ=ポンティ,サルトルなどの現象学派の著作から都合の良い箇所を使っていた,あるいは私の印象ではそこから派生する,バシュラールやボルノウ,ノルベルグ=シュルツといった著作の影響の方が強かったように思う。

まあ,そんなことをしっかりと検討して,フッサールの現象学をしっかりと地理学に活かそうとするのが本書の意図。同じようなことは今里悟之さんが2007年の英語論文で行っていますが,そこでも本書がかなり活用されています。ちなみに,著者のことはかなり前から知っていた。バーンズとダンカンが編集した1992年の『世界を書く』という論文集は私の研究者としてのスタートに大きな影響を与えていますが,そのなかにピクルスも「テクスト,解釈学,プロパガンダ地図」というタイトルで寄稿しています。また,その後『Ground truth』というタイトルの本を編集していて,GIS批判を繰り広げています。その当時の関心は地図にあったようですね。もちろん,現在でも刺激的な研究を発表している人ですが,その基礎に本書による現象学を基礎とした科学批判があるのかもしれません。

1 はじめに

 1 科学と人間

 2 科学と現象学

 3 この研究の計画

 4 「地理学的現象学」

 5 この学問の背景

第Ⅰ部 地理学と伝統的形而上学

2 地理学的言説とその中心的主題

 6 科学の基礎的概念と存在論に適した方法

 7 客観主義と主観主義

 8 実証主義と自然主義

 9 カントの存在論と物質的自然

 10 物理的空間の概念と地理学

 11 物理的空間,認知行動主義と主観主義への転回

 11 地理的対象の特徴のあり方

第Ⅱ部 地理学と現象学

3 地理学における現象学の解釈

 13 地理学の現象学的基礎

 14 地理学的現象学

 15 地理学的現象学へのアプローチ

 16 科学の視野

 17 生活世界への転回,地と対象の曖昧さ

 18 現象学的方法

4 地理学的現象学:その基礎の批判

 19 地理学的現象学の形而上学

 20 ヒューマニズムと「客観」と「主観」の混同

 21 地理学的現象学:その内的批判

 22 シュッツの構成的現象学への転回とフッサールへの回帰の正当化

第Ⅲ部 現象学と人文科学の問題

5 フッサール現象学:基礎的な企図

 23 現象学とは何か?

 24 現象学の必要

6 現象学,科学,現象学的地理学

 25 記述的現象学と科学

 26 現象学,科学,生活世界

7 科学の基礎的存在論に向けて

 27 現象学と科学の基礎的存在論

 28 地理学における科学と客観化

 29 科学の発展と「進歩」の概念

 30 人文科学と客観化

 31 科学における厳密さと正確さ

 32 理論と自然と世界へのその到達と残余

 33 科学と生活世界

第Ⅳ部 人文科学,世界性,空間性

8 人文科学の含意と地理学の人文科学

 34 現象学

 35 現象学と地理科学

 36 公式に企図された人文科学に向けて

 37 フッサールと人文科学

 38 公式でアプリオリな「精神と人間性の普遍学」に向けて

 39 実存的分析と人文科学

 40 実存的分析と「世界の自然概念」(あるいは生活世界)

9 人間の空間性の理解に向けて

 41 地理学,世界,空間

 42 世界と世界性

 43 空間

 44 世界内存在の日常的様相

 45 用具的の空間性:場所と地域

 46 空間と科学

 47 人間の空間性

 48 空間と人間の空間性

 49 場所と空間:地理学的人文科学に向けた地域的存在論の含意

さすがに,1時間の通勤時間でも2週間ほどかかりました。しかし,読み終わってみると,ちょっと期待ほどではなかったという印象。なので,本書の内容を詳しく説明する代わりに詳細目次をつけました。

前半の,英語圏の現象学に依拠した地理学の検討はとても徹底していて学ぶことが多かった。しかし,本書を読んでもフッサール現象学がいったいなんだったのかははっきりとは分からない。まあ,確かに本文のなかにもフッサール現象学を単純に理解することはできない,のようなことが書いてある。それこそが地理学がこれまで利用してきた単純化された現象学ってのが誤りだったということです。

本書ではフッサール自身が現象学とはなにかという問いに対して「私とハイデガーだ」と答えたということに依拠し,ハイデガーの言葉は多く引用されている。科学に対する現象学的態度を論じる場所や,後半の空間性に関する議論ではフッサールよりもむしろハイデガーの方が多く登場する。この辺りが本書の物足りなさであろうか。

ハイデガーが云々ではなく,現象学の枠組みを活用していかに場所や空間について考察できるか,ということが知りたかったわけですが,これだけの本でもその答えに導くことができないというのはやはり難しいということでしょうか。

まあ,この問題については晩年の中村 豊氏なども考えていたようです。彼は年老いてこのテーマに取り組んだわけではなく,若くしてなくなってしまったわけですが,いろいろ新しいテーマに煩わされなくなる晩年のテーマとしてはちょうどよいかもしれません。

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洗濯物が乾きません

2016年8月3日(水)

大学が夏期休暇に入り,例年は週5日で会社勤務をしたりしていますが,今年はしっかり休んでいます。水曜日はテアトル系をはじめとしていくつかの映画館でサービスデーだったりしていますが,恵比寿のガーデンシネマもサービスデーということで久し振りに恵比寿に行くことにしました。

恵比寿ガーデンシネマ 『生きうつしのプリマ

ドイツ映画『ハンナ・アーレント』の監督・主演コンビで撮影された作品。初老の男性がある日ネットで,亡くした妻そっくりのオペラ歌手を見つけ,娘にそのオペラ歌手に接触するようにお願いするところから物語は始まる。まあ,そんな奇抜なストーリーというわけではありませんが,脚本がしっかりと書込まれていて,観ていて飽きない映画。出演する役者もいいですね。やはり日本で上映されるドイツ映画は良質な作品が多いです。

2016年8月18日(木)

日比谷みゆき座 『ヤング・アダルト・ニューヨーク

ベン・スティラーは『ナイト・ミュージアム』の1作目は観たけど,個人的にはあまり好きではない。本作で彼の妻を演じるナオミ・ワッツもどちらかというと苦手な女優。でも,加齢を隠そうとしない感じは好感が持てます。本作で好きな俳優といったらアマンダ・サイフリッド(なんか,読み方が変わりましたね)くらいか。でも,思ったよりも登場場面が少なく残念。

原題は「While We're Young」というもので,「若くいられる間」とか「若いと思っているうち」とかそんな意味合いだろうか。なかなか考えさせられる要素が盛りだくさんの作品。主人公は44歳という設定。若い頃は少し売れた映画を作ったが,最近はだらだらとなかなか完成させられないドキュメンタリー映画監督。ある日,若い夫婦に出会い刺激のある生活に...という展開。中年夫婦はハイテク生活に溺れ,若者夫婦は逆にアナログ志向とか,子どものいない主人公夫婦と,40歳代で子どもを産んだ親友夫婦との関係悪化,ずる賢く成功へと向かっていく若者と生真面目なやりかたでなかなか成功を掴めない主人公。

まあ,ちょっと中だるみな場面はありましたが,結末的にはすっきりしたので,いい映画だったと思います。

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