テキヤ稼業のフォークロア

厚 香苗 2012. 『テキヤ稼業のフォークロア』青弓社,165p.,3000円.

私がよく参加する研究会の報告者として招かれたのが本書の著者。その研究会は日本地理学会の研究グループだが,最近は分野内での報告者が不足しているのか,他分野から報告者を呼んで,分野間ネットワークを広くするということに研究会の場が利用される雰囲気もある。

著者は民俗学の研究者である。私は民俗学にはなぜかあまり興味をそそられず(人類学も同様だが),これまできちんと読んでこなかった。地理学研究者の中には,非常に民俗学に近いところで仕事をしている人も多いのだが。

しかし,人の話を聞くのであれば,簡単だということで,報告を聞きに行った。当日は水上生活者の話だったが,それまでは継続して東京下町のテキヤの研究をしていたということで,本書ともう一冊新書を執筆している。ということで,読んでみました。

序章 露店のなかへ

第1章 テキヤの社会――集団構造とその維持原理

第2章 一人前の商人になる――名乗り名の継承方法と機能

第3章 縄張りを使う――商圏の運用と地域社会

第4章 健忘録テイタを読む――記録される祝祭空間

終章 民間伝承の力

200ページに満たない本ではありますが,内容は非常に濃密です。本書の内容は学位論文とのことだが,学位論文らしい難解さがあまり解消されないまま単行本になった印象は否めない。テキヤというのはいわゆるお祭りの時や,境内に出店する露天商を営む人たちのことだが,本書は「テキヤ=ヤクザ」のような単純なステレオタイプを否定し,アカデミックの場でもきちんと理解されていない人々についてより正確に理解しようという試みだから,分かりやすい説明はできないのかもしれない。あるいは,本書はあくまでも民俗学特有の文体で書かれているだけで,それに馴染みのない私のような読者にとって読みにくいのかも知れませんが。

著者は東京下町で育ち,日常的にテキヤに接して暮らしていたという。本書の中に書かれている著者の経歴もなかなか複雑で,その部分はある研究者の個人誌としても楽しめる。テキヤという人たちは社会の中でそれなりに観察される人たちである。そうした人たちの社会の仕組みを本書で理解できるわけだが,ある意味時代錯誤というか,にわかに現代でもそういう生活をしている人がいるというのが信じられなかったりする。でも,社会というのは私たちが理解する以上に複雑で,私たちの身近な空間でさえも,理解の及ばない信念,知識,思考,行動などを有する集団たちがいるということを改めて考えさせてくれる本である。

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都道府県名と国名の起源

吉崎正松 1985. 『都道府県名と国名の起源』古今書院、169p.、2500円.

林 正巳『府県合併とその背景』を購入しようとAmazonで検索している時に見つけた本。地理学に属していながら、古今書院から出版されたのに知らない本はいっぱいあります。

しかも、都道府県名の研究をしようというのに本書を知らずに投稿していたら大変なことになっていた。本書のことを知らずに、私は47都道府県名の起源を調べるために『角川日本地名大辞典』の各巻で少しずつ調べていた。

作業の途中で本書を見つけ、とりあえず第一弾として投稿する予定の論文では本書の成果を利用させていただくことにした。本書はまさに書名通り、都道府県名と旧国名の起源についての諸説を整理したものであり、目次を示すのはあまり意味がないが、以下の通りである。

一、わが国の地名の研究

二、わが国の地方行政区画名の起源

三、各説

 1 都道府県名の起源

 2 国名の起源

参考文献

あとがき

本書で著者は、「地名を表わすのに,地名の語義に相応する漢字の字訓を用いたものもあるが,そうではなく,単に漢字の字音を当てたものがはなはだ多い」(p.2)という認識に立つ。私たちは名前に込められた意味を、用いられた漢字に求めがちである。しかし、著者によればもっとも継続するのはその読みであり、漢字の読み方も頻繁に変わり、当て字も非常に多いという。

本書は書名に「起源」とつけているが、特定の地名に対して単一の起源を探求するというものではない。特に地名の起源は結局よく分からないというものが多く、本書では、新旧様々な説を列記し、新説から旧説への批判や同調などについても、冷静に記述する。ある意味、価値中立的な立場で自らどの説が有力だと判断することを目的としていない。

そもそも歴史考証的な地名研究は、各時代でなされ、それが歴史的に積み重ねられる。現代に近づくほどその考証は正確なものとはなると思うが、現代において、特定の地名に関する史料が、ある時代になされた歴史的研究しか存在しないとなると、それを信用すべきか否か、地名研究とは思ったよりもなかなか難しいものであるということがわかった。

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昨年観た映画報告終了

2016年12月29日

新宿テアトル 『この世界の片隅に

前日も新宿に映画を観にきていたので、テアトル新宿にもちょこっと寄って観ましたが、なんと立ち見が出るほどの混雑ぶり。舞台挨拶などあったのかと確認したがないようなので、劇場スタッフに聞いてみたら、平日でもかなり席が埋まっているとのこと。その場で座席指定をしておこうと考えたが、新宿のチケット屋を回っても前売り券を購入することができず、やむなく帰宅してからネットで予約。1800円の通常料金でした。

まあ、本作は『君の名は。』についでロングランで話題になっていますから、細かい解説は必要ありませんが、やはり観て良かったと思える作品でした。あまり前情報を入れませんでしたが、広島から呉へ嫁に行った女性の物語です。呉は軍港ですから、空襲という意味では広島よりも集中的であったということ、爆心地から少し離れた呉という土地から原爆を体験すること。そういう、細かいところまで私自身が知ろうとはしていなかったことを反省させられる内容です。

新宿武蔵野館 『アズミ・ハルコは行方不明

蒼井 優主演作ということで魅力的でしたが、加えて高畑充希も出演しているということで、観に行った。観終わった後は、うーんというイマイチな印象でしたが、内外を含め保守的な映画表現のなかで、ある意味挑戦的な映画だといえるかもしれません。若者の暴走(?)がテーマかといえばそうでもないし、何か社会問題的なものを訴えているかといえばそうでもない。登場人物が魅力的な人間でもないし、どこかに物語のピークがあるわけでもない。かといって、くだらない日常を淡々と描くわけでもない。まあ、捉えどころのない映画といったらいいでしょうか。とはいえ、原作があるんですね。読んでみたいような、みたくないような。

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大衆文化、地政学、同一性

Jason Dittimer 2010. Popular culture, geopolitics & identity. Roman & Littlefield, 179p.

やばい、やばい。本格的に日本の出版界に「地政学」の波が押し寄せている。私も関わった地理学者の地政学入門書が翻訳されたが(フリント『現代地政学』)、ランドパワーやシーパワーといった古典的地政学の枠組みで現代のグローバル世界を理解しよう、理解させようという動きが強さを増している。

10年前くらいは米国で地政学を学んできたという奥山真司の存在が危ないと思っていたが、今ではそんな個人はどうでもいいというような勢いを見せている。一方で、佐藤 優という個人は地政学に限られない現代世界のご意見番的な個人も出てきて、日本では弱小の学問である地理学がいくら真っ当な意見をいっても聞き入れられないだろう。まあ、それは日本だけでの話でもなさそうな気がする。

それはともかく、オートゥーホールの『批判地政学』が出たのが1996年、それ以前からジョアンナ・シャープは「大衆地政学」を主張していて、私も1994年の論文ではそれに着目していたので、本書も10年前に出ていたら私もすかさず書評を書かねばならなかっただろう。まあ、本書のことを知った時、やはり書評を書こうと読みがら書き進めてはいたのだが、途中で読むのも断念してしまって、既に6年が経過してしまった次第。

まえがき

序章:大衆文化――プロパガンダと娯楽の間

1 地政学:歴史、言説、調停

2 大衆文化:理論、方法、間テクスト性

3 場所と大英帝国の表象

4 第二次世界大戦後の米国における国民の語り

5 情動、体現、戦闘ヴィデオ・ゲーム

6 行動的観衆と福音的地政学

7 覇権、サバルタン・スタディーズ、ニュー・メディア

8 結語:アイデンティティ、主観性、そして先へ

冒頭からなかなか面白い。「初版への前書き」とあり、注釈に「私は生来楽観的な人間である」とある。こういうのは普通、2版が出た後に、初版の前書きのタイトルが変更されるものである。著者は自信を持ったこの著書が、評判になり版を重ねるということを予想しているということだ。実際、その後6年経ったがどうなったのだろう。この前書き自体も、自分がなぜこのような研究をするようになったのかという経緯が率直に書かれていて面白い。

とはいえ、中身は目次からもある程度わかるように、いたって教科書的な内容である。1章では地政学の歴史が概観され、2章では大衆文化と題し、カルチュラル・スタディーズで学ぶような事柄が一通り説明されている。フランクフルト学派、グラムシ、フーコー、ド・セルトー、精神分析、内容分析や民族誌まで幅広いです。

3章からは各論という感じで、これまた人文地理学で話題のテーマに沿って、地政学のテーマとなりえる事例を交えて論じていくというスタイル。1990年代に流行った「BOX」もあります(本文中に組み込まれたキーワードの解説文)。3章は少し古い1990年代に人文地理学を席巻した「表象」概念。最近著書が翻訳された英国の地理学者クラウス・ドッズの地政学研究を参照することで、『007』の分析や、風刺画の分析が紹介されます。この風刺画家はスティーヴ・ベルといいますが、以前もジリアン・ローズがオープン・ユニバーシティの地理学の教科書でベルの風刺画を取り上げたことがありました。英国では有名なんですかね。ベルの風刺の対象はフォークランド紛争。フォークランド紛争についてはほとんど知識がなく、理解できなかった。知るべきことはとても多い。

4章のテーマは「語り」ということですが、まあ「表象」概念の延長ですね。こちらでは英国に続いて米国が事例で、自らが手がけてきたアメリカン・コミックとして、『キャプテン・アメリカ』を取り上げています。

5章になると、少し新しいテーマとして「情動」が登場します。個人的には大衆地政学は表象概念で論じるにはふさわしいが、その後、表象概念への批判から展開していくことになる人文地理学のテーマで議論をするのは難しいと感じている。なので、本書のこの展開に期待する一方で、本当に上手くいくのかという疑問もある。確かに、情動というテーマと、5章の事例である「ヴィデオ・ゲーム」とは相性がいいように思う。近年の戦争とヴィデオ・ゲームの関係というのは大衆レベルでも議論されている問題だが、本書ではそういったジャーナリズム的観点はなるべく避けようとしているように感じた。しかし、この事例が情動というものに深く探求しているかというとちょっと疑問。

6章では、カルチュラル・スタディーズのメディア研究以降の主たる流れとしてのオーディエンス研究とその方法論としての民族誌が登場する。事例はイスラエル・パレスチナの地図が2枚ほど掲載されおり、中東問題である。とわかったように書いているが、今となってはどんなことが議論されていたのかもきちんと思い出せない。確か、中東関係はグローバル・メディア企業の報道に操作されているという見解が一昔前にはあったが、SNSの発展した今日では、現地の一般人のblogがメディア報道とは異なった事実を発信し、注目されるということが書かれていたと思う。そうした話のどこが「福音的地政学」と呼ぶべきものなのか、まで理解していない。

7章ではサバルタン・スタディーズが登場する。主にスピヴァックによって有名になったサバルタン・スタディーズであり、そもそもがポスト植民地的な意味合いにおいて地理学にも親和性が高いと思うが、その本格的な地理学研究は読んだことがない。本書ではメキシコの地図や、映画『イラク 狼の谷』のポスターなどが掲載されているが、やはり本章も私の中では上手く咀嚼できていない。

本書のように、新しいうちに読み始める英語の本は、まずは翻訳できるかどうか、翻訳に値するかどうかという判断をする。それとは別に、書評を書けるかどうかを判断するわけだが、本書は翻訳しようとは思わなかった。まあ、私の力がそれに達していないという判断も含めてだが。で、書評くらいは書きたいと思いながらも、日常に追われて結局読むのをやめてしまったわけだ。まあ、いつも通りではあるが、自分の怠惰を感じさせられる読書でした。

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ドフトエフスキイ論

バフチン, M.著,新谷敬三郎訳 1974. 『ドフトエフスキイ論』冬樹社,403p.

バフチンの書とは結構相性がいい。と言いつつ、まだ本書やラブレー論などの大著は読んでいない。本書はドフトエフスキイの作品を一つぐらい読んでからと思っていたがいつまでも読む機会もないので、本書をとりあえず読んでみた。目次自体は非常に魅力的である。

はしがき

第一章 ドフトエフスキイのポリフォニイ小説と従来の批評

第二章 主人公と作者との関係

第三章 ドフトエフスキイのイデエ

第四章 ジャンル,題材構成上の特徴

第五章 ドフトエフスキイの言葉

 1 散文の言葉の型とドフトエフスキイの言葉

 2 中篇小説の主人公の独白の言葉と叙述の言葉

 3 長篇小説の主人公の言葉と叙述の言葉

 4 ドフトエフスキイの対話

結び

しかし、正直今回は惨敗だった。ほとんど十分な理解に達する前に読了してしまった。それは単にドフトエフスキイの作品を読んでいるかいないかの問題ではないような気がした。

ただ、バフチン批評の基本概念のほとんどが、このバフチンと同じロシアの作家の作品から来ていて、バフチンによればドフトエフスキイこそが文学における新たな試みの先駆者であるといえるほど、評価されているということだ。そして、それが故に、これまでのドフトエフスキイ批評が達しなかったところバフチンの批評が達し、それによってバフチンは現代の批評家たちも魅了される批評家になったということだ。

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年末にまとめて映画を観ました

2016年11月26日

新宿ピカデリー 『湯を沸かすほどの熱い愛

前評判もとてもよく、宮沢りえの演技もしっかり観ておきたかったので、公開からかなり経っていましたが観に行きました。とてもいい映画だと思いますが、ちょっと私的にはイマイチと思ってしまいました。間違いなく良かったのは杉咲 花の演技。度胸がある演技で今後も楽しみです。セリフで「?」と思ったのは、ヒッチハイカー役で登場する松坂桃李との会話。北海道からヒッチハイクで日本縦断をしているという彼の言葉を宮沢りえ演じる主人公が嘘だと暴くシーンだが、「北海道出身にしては訛りがない」というセリフがある。北海道には訛りがあるのだろうか?まあ、アイヌ訛りというのはあるかもしれないが、北海道民の中でアイヌはどう考えてもかなりの少数派だ。多くの北海道民は日本全国からの移民であり、まあ集住移民ということで、元の地方の訛りが北海道で変化したことはあるかもしれないが、私の知る限りの北海道出身の人に訛りはない。

本作は、誰に対しても熱い愛を注ぐことで、どうしても愛されてしまう主人公を描いているはずなのだが、本当に主人公はそんなに愛されるべき存在なのだろうかということを素直に信じられない私がいる。入院してからも特に何が起こるわけでもなく、普通に死んでしまうのも、インパクトは少ない。もうちょっと衝撃的なストーリー展開を期待してしまった私なのだが、映画で描かれるのはいたって普通な一女性の死だったような気がしてしまった。

確かに、自分の実子ではない子どもを育て、さらにもう一人引き取ろうというのはそう簡単にできることではない。また、ある意味では本作がわざとらしいドラマティックな展開ではなく、あくまでもリアルに日常を描いたものともいえるかもしれない。

2016年12月28日

新宿角川シネマ 『手紙は憶えている

私の好きなカナダの映画監督アトム・エゴヤンの作品。今回はこの作品の存在をラジオで知りました。最近は家でラジオを流していることが多いのですが、ふとした時に佐藤江梨子の映画紹介のコーナーがやっていて、本作を紹介していたのです。さすが、佐藤江梨子。

主演はクリストファー・プラマーで、認知症を患った老人が戦時中の復習を死ぬ前に果たすという内容。いわゆる「衝撃のラスト」的な展開ですが、予告編でその展開は想像できてしまうところがいいのか悪いのか?まあ、結末がわかった上でのストーリー展開を楽しめるという余裕がエゴヤン的だといえるかもしれません。観客を焦らすいわゆる「サスペンス」ものではありません。ナチスとユダヤ人ものってのは結構多いと思いますが、そういう意味ではとても面白い内容です。

現在では、テロの加害者であり被害者であるというムスリムが、難民を装って入国しテロ行為を起こすというのが世界的な問題となっていますが、戦後世界中で裁かれることになるナチスの将校たちが、ナチスに迫害され、家族を失って身分も証明できないユダヤ人を装って世界中に逃れていたという史実があるかどうかはわかりませんが、いかにもありそうな話です。

新宿武蔵野館 『風に濡れた女

耐震工事のため、休館していた武蔵野館がリニューアルオープンしました。やはり3スクリーン体制まで変更したわけではなく、座席の配置が変更されたところまでにとどまっていました。この映画は日活のロマンポルノを著名監督によって復活させようというプロジェクト。本作は塩田明彦監督によるもの。塩田監督は宮崎あおい主演の『害虫』の監督だということ。懐かしい。

さて、本作は永岡 佑演じる男が、演劇人生を捨て、人里離れた山の奥で自活している。そんな中に間宮夕貴演じる謎の美女がやってきて、彼の生活をかき乱すというハチャメチャな設定で、エロティックにコミカルに描いています。まあ、基本的にこういうしょうもない映画は好きなのですが、やはりロマンポルノということで、エッチシーンが非常に多いのは久しぶりなので、意外に疲れます。

でも、こういう企画は大歓迎。

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ケプラーと世界の調和

渡辺正雄編 1991. 『ケプラーと世界の調和』共立出版,272p.,2750円.

本書は日野市立図書館の「リサイクル本」として出ていたものをいただいたもの。大学図書館ではそういうのはなかった気がしますが、公共図書館は(特に施設の老朽化が著しい日野市の場合)所蔵容量に限界があるため、新しい図書を購入すると一定数の図書を放出するようですね。

ということで、それほど期待していなかった本ですが、結構楽しく読めました。まあ、そもそも科学史にはそれなりの興味を持っています。しかし、ガリレオやニュートン、ライプニッツといった人に関しては、原著の翻訳も多いし、研究書も多いですが、ケプラーはそれほど日本語では読めないような気がします。

私自身はたまたま古書店で見つけて「博物学」の特集ということで購入していた『知の考古学』という雑誌の中に、ケプラーによる雪の六角形の結晶についての論文を読んでいましたが、なんとその訳者が本書にも寄稿している榎本さんでした。

休みなき60年――ケプラーの生涯とその時代(E・J・エイトン)

異端か正統か――ケプラーと神学(E・J・エイトン)

宇宙の完全性を求めて――ケプラーのコスモロジー(J・V・フィールド)

惑星運動の秘密をさぐる――ケプラーの天文学(E・J・エイトン)

理性で聴く惑星の音楽(小川 劯)

占星術への寄与と批判(J・V・フィールド)

多面体の幾何学から対数まで――ケプラーの数学(J・V・フィールド)

光と視覚および望遠鏡――ケプラー光学の展開(田中一郎)

雪と花のかたち――ケプラーの雪月花(Ⅰ)(榎本恵美子)

月のすがた――ケプラーの雪月花(Ⅱ)(渡辺正雄)

中国と日本におけるケプラー(橋本啓造)

目次に示したように、本書にはヨーロッパの著名なケプラー研究者2人の文章がいくつか翻訳されています。エイトンという人については、本書の編者の渡辺さんが翻訳した『円から楕円へ』という本が出版されているとのこと。また、ケプラー自身の本も河出書房新社の『世界大思想全集』に訳出されているものと、『ケプラーの夢』と『宇宙の神秘』、『世界の和声学』なる本が翻訳され、また、ケストラートいう人の『ヨハネス・ケプラー』という伝記の翻訳もあるらしいです。

私はライプニッツについてもそれほど多くを知りませんが、本書を読みながらライプニッツと混同するほどケプラー自身も天文学研究に限定されることなく、非常にスケールの大きい自然研究を通じて、宇宙の創造主である神へのたゆまなき探求を続けたということを知ることができました。

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概説イスラーム史

板垣雄三・佐藤次高編 1986. 『概説イスラーム史』有斐閣,316p.,1900円.

ますますイスラームのことを学ぶ必要性を感じる。大学の教科書で、アブー=ルゴド『ヨーロッパ覇権以前』を使うことで、一読するだけでなく、学生に説明するためにレジュメを作ったり、私的にはかなり理解が深まってる。と言っても、もともと世界史の知識のない私なので、山川出版社の高校の世界史の教科書の助けを借りているのだが、どちらも佐藤次高氏が関わっていることを知って、イスラームへのとっかかりを得た気がした。

また、この教科書を使った授業は東京経済大学で行なっているが、この大学といえば板垣雄三氏のいた大学でもあるということで、本書を読んでみようということになった。目次は以下の通りだが、目次自体に面白みを感じないのはいかにも1980年代の教科書だが、逆にいうと、著者に丸投げするのではなく、しっかりと編集方針が定まっているともいえる。また、同じタイトルの章を違う著者に書かせるというところも面白い。しかし、読んでみると板垣氏自身が書いた文章がないことに気づき、ちょっと残念。

序章 世界史のなかのイスラーム(佐藤次高)

1章 イスラームの政治的展開(後藤 晃)

2章 イスラームの社会的展開(佐藤次高)

3章 イスラームの危機(山内昌之)

4章 現代のイスラーム世界(山内昌之)

5章 支配とエリート〔Ⅰ〕(湯川 武)

6章 支配とエリート〔Ⅱ〕(永田雄三)

7章 都市と農村〔Ⅰ〕(坂本 勉)

8章 都市と農村〔Ⅱ〕(加藤 博)

9章 民族と宗教・宗派〔Ⅰ〕(清水宏祐)

10章 民族と宗教・宗派〔Ⅱ〕(山内昌之)

 

やはり思った通りイスラームは一筋縄では理解できない。なにせ一つ一つの概念が現地の言葉で登場し、当然それがカナ表記で頻出するのだからなかなかついていけません。しかも、フォントが小さくかなりの文字数の本書ですら「概説」でしかないのだから。

しかし、イスラームについて知るのは日本というのは恵まれた環境であるとも思う。サイードの本など読むと、欧米におけるイスラーム報道は、メディア権力による圧倒的な力である種の言説が流布されているのに対し、日本はそこまでではない気がするし、非常に優れたイスラーム研究者が多く、またかれらによる研究所も多く出版され、また外国の優れた研究書の翻訳も進んでいるのだと思う。そうしたものを一つ一つゆっくりと読んでいくことにしたい。

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3ヶ月前の映画日記ですみません

2016年10月19日

この日は中部国際空港へ出張。正確には出張は翌日からで、早朝からの現地調査ということで、非常勤先の戸塚から空港島内のホテルに移動します。せっかくなので、名古屋で映画を観ることにした。

映画館のあるミッドランドスクエアは駅に隣接した新しいビルでしたが、トヨタ自動車のビルのようで、車のショールームがあったりします。なかなか新鮮。

名古屋ミッドランドスクエア 『何者

選んだ作品はこちら。『桐島、部活やめるってよ』を映画で観て、その視点の鋭さに感心している朝井リョウ。しかし、一度原作を読もうと思って断念している。活字ではちょっと読めないようだ。ということで、映画は注目したい。といいつつ、この作品はあまり観たいと思う内容ではなく、むしろ妻が観たいというので前売り券を購入したのだが、なかなか観に行く機会がなく、私が名古屋に持って行ってしまったという次第。

映画としては色々いいたいこともありますが、やはり原作の魅力によって成立しているのだと思います。就職活動がテーマではありますが、おそらく主題はそこではなく、主人公が演劇をやっていたというところにミソがあります。人間は日常生活においても演技しているというまあ古くからいわれているようなことではありますが、それをTwitterやFacebookのような新しいコミュニケーション手段を用いて暴こうという作品。

2016年11月2日

府中TOHOシネマズ 『永い言い訳

以前から書いていますが、西川美和の作品はデビュー作の『蛇イチゴ』で惹かれてから観るようにしています。でも、正直私の中では『蛇イチゴ』がダントツで、世間的にはもっと有名で評価されている作品はそれほど好きではありません。しかし、ようやく本作は何の違和感もなく、楽しく観られ、それでいて考えさせられる映画でした。実は、配役にも少し不安はあったのですが、観ている間はそんな不安は全く吹き飛び、これ以外の配役が考えられないほどでした。

西川氏はこの作品で、映画監督の師匠でもある是枝監督の得意とする子どもを登場させています。そして子どもの存在が、映画の中で中心となるだけでなく、主人公の心情の中で、また作品の主題として中心にあるのです。子どもという存在そのものではなく、子どもを大人が自分の人生の中でどう扱うのか、子育てというものがどうなのか、という問いです。未婚である監督本人の人生観をある程度、自分とは異性の主人公に投影しているのではないかと思ってしまうほどです。

主人公は小説家であり、夫婦の間で子どもを作り、育てるという行為に人生の多くの時間を費やすということに対する負の効果を真っ先に考えています。しかし、思うように小説はうまくいかず、そんな矢先に妻が事故死し、他人の子育てに関わるようになる。それが小説家としてうまく行っていない自分にはそこから逃避でき、さらには楽しいということでのめり込んでいく。そんなことを担当の編集者に指摘されてまた悩む。みたいな、誰もが自分は今何をすべきかという問いを叩きつける作品です。

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柳田民俗学の子ども観

庄司和晃 1979. 『柳田民俗学の子ども観』明治図書,191p.,1100円.

私のPCが故障する前に書きかけていた読書日記なので、記憶はかなり薄れてきています。

さて、私には写真家、田沼武能の研究を継続的にしています。これは私の修士論文のテーマでしたが、あと2本くらい論文にしたら本にしたいなと思っていますが、なかなか進みません。失礼な話ではありますが、来週88歳を迎える田沼氏の存命中に間に合うのだろうか。

さて、田沼氏には1985年の作品で『子どもたちの歳時記』という作品があり、とてもいい作品です。彼の作品には時折言葉による作品の引用や言及があります。当然この作品には柳田國男の『こども風土記』への言及があるので、ある程度民俗学的な知識がないとその解釈もできないと思っているのですが、なかなか民俗学の勉強が追いついておらず、この作品については論文化が先延ばしにされているという次第。

とりあえずだいぶ前に発見し、Amazonのほしい物リストに入れておき、ようやく購入し、読んだ次第。先ずはも目次から。

まえがき

第一部 柳田国男の児童観と教育観

 第一章 柳田国男のしごと

 第二章 柳田国男の学問観

 第三章 柳田国男の児童観(一)

 第四章 柳田国男の児童観(二)

 第五章 柳田国男の成長観

 第六章 柳田国男の教育観

第二部 柳田教育論の継承と発展

 第一章 平凡人への着目の系譜

 第二章 柳田国男の常民像と教育

 第三章 平凡人の知恵の論理と教育

 第四章 日本人の精神的原型と論理

本書は明治図書選書に収められた一冊ということですが、なかなかコンパクトで想定はいい。しかし、読んでみると著者は民俗学者ではなく、教育学者だという。出版年からしても、目次からわかるように、柳田の仕事を紹介するだけで成り立っている。教育学者の視点からの柳田の仕事を概観するというのが前半、そして後半はそれを受けて、著者独自の教育論が展開されるというものです。

ということで、柳田が子どもについてどこにどんなことを書いたのかという情報は本書に書き込まれているので、それを頼りに柳田作品を読んでいくという作業が必要なようです。近年の柳田研究は彼に対する批判を少なからず含んでいるものですが、本書のように手放しの賞賛というのはその時代性ですかね。

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