【読書日記】志位和夫『新・綱領教室 下』

志位和夫(2022):『新・綱領教室――2020年改定綱領を踏まえて 下』新日本出版社,246p.1,500円.

 

上巻は以前紹介しましたので,今回は下巻です。上巻の際も書きましたが,本書は2020年に改訂された日本共産党の綱領を解説するもので,綱領の構成に沿って話が進んでいます。第三章までは日本共産党における日本と世界の歴史認識の整理であり,現在の日本が対米従属と大企業優先の経済(独占資本主義)を特徴とすると結論付けられていた。それに続き,第四章以降では,そうした日本のあり方を党としてどう改革していきたいのかという道筋が示される。綱領を読んだだけではさらっとしていて具体的な社会像が描けないが,本書を読むとそれが明瞭になります。

第四章 民主主義革命と民主連合政府
第五章 社会主義・共産主義の社会をめざして
【資料】日本共産党綱領(2020年改定)

日本共産党に対する誤解としては,ソ連や中国のように,共産党による革命があり,一党独裁の政治が行われるというものがある。しかし,日本共産党が示しているのは共産主義革命ではなく,民主主義革命だという。ソ連と中国の存在のゆえに日本においては早くから共産主義が弾圧されてきたという歴史があり,日本共産党への支持は少数派にとどまっている。冷静に考えても少数派の日本共産党が革命を起こし,一党独裁の状況を作り上げるのは不可能である。その不可能性のゆえに,日本共産党に対する誤解は,それを暴力的に行うという「暴力革命」というレッテルをつけようとしている。しかし,これも具体的に考えてほしい。確かに,日本にはいまだに革マル波(日本革命的共産主義同盟・革命的マルクス主義派)という団体はあるそうで,かれらは1970年前後にヘルメットをかぶって角材や鉄パイプを持った暴力的なデモを行っていた。しかし,日本共産党とは別組織であり,そもそもつながっていたとしてもヘルメットと鉄パイプ,火炎瓶で政府を転覆させる革命が行えるのであろうか,あるいは地下で軍事組織を準備しているのだろうか。およそ考えにくいことである。実際に戦後も70年にわたって公安警察が日本共産党を調査し続けても何も出てきていないという話もある。
いずれにせよ,この日本でそういう革命を考えるのは現実的ではなく,日本共産党は現行の法体制に基づいた現実的な革命を描いている。それは一党によるものではなく,民主連合政府というものである。1955年以降の自民党中心の政治においても,かつて何度か連合政府が組まれたことがあるし,連合野党というものができたこともあったが,そこに共産党は含まれていなかった。それが近年では市民連合が主導する野党共闘として,共産党が含まれるようになり,近年は選挙を戦ってきている。現在の日本共産党が目指す民主主義革命とは,共産党を含む野党連合により政権を奪取し,米国従属・大企業優遇の政治から,市民の声を聴く政治,すなわち本来の民主主義を取り戻すことを目指している。
その際に,共産党を含む連合政府ができた時に,共産党独自の政策の行方はどうなるのか,ということをこの本では詳しく議論している。具体的には自衛隊と天皇制である。日本共産党は戦前から戦争反対を訴え,天皇中心の軍国主義を批判してきた。つまり,戦後においては天皇制と自衛隊の廃止は,他の政党にはない主張である。しかし,連合政府として国政を行う際には,共産党の独断で天皇制と自衛隊を即座に廃止することはしないと宣言している。あくまでも,国民の大多数の意志に従い,平和の外交が進み,世界で軍縮が進んできて,日本国民が他国の脅威に怯えなくなって防衛力の必然性を感じなくなった時点で自衛隊を廃止するといっている。天皇制についても,憲法違反の行為がなされないように注視することと,天皇家に対する人権侵害が行われないようにことに留意しながら,こちらも国民の総意に従うものとしている。
本書,特に下巻は当然といえば当然ですが,意外にもマルクス入門的な意味合いもあるかと思う。第四章の後半には,共産党の民主主義革命の前段階として,現在の資本主義のあり方に対して「ルールある経済社会を築く」方策が述べられる。そこで,マルクス『資本論』から「工場法」に関する議論がある。なお,いわゆる資本主義の暴走のことを『資本論』では「大洪水」と表現しているらしい。最近話題のマルクス研究者,斎藤幸平さんの出世先が『大洪水の前に』というタイトルだったが(私は未読),マルクスのこの記述からきているのか。それはともかく,マルクスの生きている時代にも工場労働者の労働時間を規制する運動があり,労働時間の短縮によりイギリス産業が盛況に転じたというのだ。まあ,それは後のアメリカでオートメーション化により賃金の上昇と労働時間の短縮が達成されて高度成長期が生じたことと通じるのだろう。
第五章はまさに,日本共産党がどのような形で日本社会を社会主義・共産主義へと変えていくのか,その道筋が語られる。私は非常勤先の講義で1516年のトマス・モア『ユートピア』の話をしている。以前も書いたように,エンゲルス『空想から科学へ』での空想的社会主義の典型として訳者が『ユートピア』を挙げているわけだが,その記述は綿密で,具体的な社会の在り方が政策のように示されている。マルクスが描く社会主義・共産主義社会の在り方はどういうものだったのか,それを受けてのレーニン,実現したソ連,そして中国の社会の在り方との関係が気になってはいた。しかし,本書によれば,マルクス自身は社会主義,共産主義の名の下で望まれる社会の「青写真」を描き,それに合わせて社会を作り上げていく行為を厳しく戒めたというのだ。とはいえ,何も方向性がないのでは社会主義でも共産主義でも何もない。いわゆる共産主義は,私有財産ではなく,財産は共有するという基本があるとは思う。しかし,社会主義の基本は,資本家と労働者という階級の分断を解消することであり,本書には物象化という概念は登場しないが,私がかつて学んだように,労働者が自分が生産している商品を,自分が私用するということと切り離すという意味での物象化も解消するように,生産手段を社会化するということが基本であるという。例えば,実現した社会主義国ではこの「社会化」は「国有化」を意味していたわけだが,本書では「社会化」の具体的な記述はない。どのような主体が所有するのか,その主体がどのような性格をもち,どのような規模を持つのか。そこは状況に応じて具体化されるべきことだということだろう。ともかく,生産手段を社会化することで,労働は全ての人の行為となる。そのことで,必要な労働量は社会の構成員全員に分配されるので,一人当たりの労働時間は短くなる。また利潤最優先の資本主義社会から脱すれば,必要以上の労働力は生まれない。多くの人が自由な時間を持つこととなり,個人の人生はより豊かになり,その豊かさは社会に還元される。まあ,いいことづくめのように聞こえますね。確かに,自由時間さえも制限をつけていた『ユートピア』と比べて,19世紀末に書かれた,ウィリアム・モリス『ユートピアだより』は文体自体が近代小説になっているので単純比較はできませんが,人々はより自由に豊かに生活している様子がフィクションとして描かれています。私のような人間はこういう議論を読むと素直に受け入れ,そこに未来社会の希望を持ってしまいますが,素直に受け入れない人は圧倒的に多いし,そういう人が現実にいることを考えると,そういう人と共生する社会にこうした自由で豊かな社会が現実的なものになるとは残念ながら,失礼ながら思えない。
とはいえ,こうした希望ある社会の姿を示すことをやめずに活動し続けることしか私たちにできることはないのかもしれない。

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【読書日記】ファーリーほか『知のマトリクス』

ファーリー, D.・ファインスタイン, B.・デイブス, A. G・ピングリー, D.・ウォレス, W. A.・ロッシ, P.著,渡辺義治・坂本賢三・高橋恵一・山口信夫訳(1987):『知のマトリクス』平凡社,236p.1,600円.

 

平凡社のヒストリー・オヴ・アイディアズ叢書の9巻。小ぶりな冊子で,機会あるごとに集めて読んでいます。手元にあるのは12巻『神の観念史』,14巻『進歩とユートピア』,21巻『愛のメタモルフォーズ』,22巻『イコノゲネシス』,28巻『国家への視座』で,6冊目。原著は1968年,1973年に発行された『思想史事典』で,日本語版はその項目を特定のテーマで集めて単行本化したものである。どの巻も私が知っているような著者はいないが,この巻は『普遍の鍵』と『魔術から科学へ』を持っているパオロ・ロッシが執筆した項目が含まれている。『魔術から科学へ』の原著タイトルは「フランシス・ベーコン」なので,本書の執筆項目はまさにロッシの専門分野。

ファーリー「ギリシアとローマにおける合理性」(渡辺義治訳)
ファインスタイン「ヘルメス思想」(坂本賢三訳)
デイブス「錬金術」(坂本賢三訳)
ピングリー「占星術」(坂本賢三訳)
ウォレス「中世の実験科学と力学」(高橋恵一訳)
ロッシ「ベイコン主義」(山口信夫訳)

本書でもフランシス・イエイツの名前は何度かあがっているが,ヨーロッパにおける近代科学が合理的なものとして成立する前史としてのオカルト哲学的な歴史を本書で概観することができる。キリスト教に染まる前のギリシア時代にヨーロッパの哲学・科学は開花していたが,ローマ帝国の拡大とともにヨーロッパ的なものが成立し,それにローマ帝国が採用したキリスト教文化が,そうした科学・哲学の進展を妨げた。そこに外部として刺激を与え続けたのが,キリスト教にとっては異端であった宗教・思想である。
ということで,本書はそうした歴史の順番に項目が並べられていて,「ギリシアとローマにおける合理性」では,思考停止の象徴である神話がこの古代に合理的なものに進展したかを整理している。「ヘルメス思想」とはイエイツの著作にも登場するが,エジプトのヘルメス・トリスメギストスのものとされる思想である。ヘルメス文書といわれるものは,『コルプス・ヘルメティクム』,『アスクレピオス』,『エメラルド板』という三文書ならなるという。「錬金術」は近年『鋼の錬金術師』という漫画(読んではいない)や,「賢者の石」も登場するハリー・ポッター・シリーズ(映画すら観ていない)などがあり,大衆的な理解も以前よりは浸透しているのかもしれない。とはいえ,私の理解は乏しく,まさにその読んで字のごとくな感じの理解だが,その範囲はもっと広いようだ。いずれにせよ,近代科学としての化学の前身とされる。「占星術」は錬金術よりもよりより親しみがある。いわゆる星占いだが,本書によれば,占星術は出生占星術(いわゆる星占い),全般占星術,開始占星術(占う時点の星の位置),質問占星術の4つに分類されるという。
最後の2つの項目はいわゆる近代科学への移行を説明している。フランシス・ベイコンは演繹法と帰納法を論じ,後者に重きを置いたが,ガリレオ・ガリレイはまさにその代表だ。命題から議論を始めるのではなく,実験を通じて経験を積み重ね結論を得る。とはいえ,「ガリレオの先駆者たち」と副題がつけられているように,「中世の実験科学と力学」では,13世紀からアリストテレスの著作を通じて科学の方法論が議論されていたという。その頃の実験の素材として代表的だったのが光学だったという。反射や屈折,虹などは身近な現象であり,実験が行われた。実際に眼鏡や望遠鏡などの起源は知らないが,実利的な側面も大きい。ということで,最後の「ベイコン主義」では,ベイコンをめぐる顛末が描かれて興味深い。

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【読書日記】志位和夫『新・綱領教室 上』

志位和夫(2022):『新・綱領教室――2020年改定綱領を踏まえて 上』新日本出版社,270p.1,500円.

 

日本共産党は2022年に創立100年を迎えましたが,その10月に私は日本共産党員になりました。Twitterでは詳しく書きましたが,まあこの歳まで正規社員にならず,所属のない人生を歩んできましたから,50歳を過ぎて一つくらい身の拠り所があってもいいかなという軽い感じです。自公政権のとんでもない政策が繰り返される中で,選挙活動もなかなかできないし,かといって住民運動,市民運動的なものへもなかなか参加できない(子ども中心の家庭事情で)なかで,わずか一票を共産党に投じるくらいしかできない自分が不甲斐ない思いをここ数年はしてきたという状況で,何らかの使命を果たすというかなんというか,ともかく自分を納得させたいというのが大きいのかもしれません。
いずれにせよ,私に入党を薦めてくれた市議会議員さんと,新入党員研究めいたものを行っています。今は綱領の勉強をするということで,お借りしたのが本書。『しんぶん赤旗』は日本共産党の機関誌という扱いで,党員でないとその記者にはなれないわけですが,現在の日本共産党幹部会委員長である志位さんが,2021年に二度にわたって,しんぶん赤旗の新入局員を対象にした講義を書籍化したのが本書です。ですので,章立ては綱領に従ったものになっています。まずは上巻から。

まえがき
序論 党の綱領の基本的性格,現綱領にいたる改定の歴史,全体の構成について
第一章 戦前の日本社会と日本共産党
第二章 現在の日本社会の特質
第三章 21世紀の世界
資料

政党の綱領というものを,入党を検討するにあたって初めて読みました。とはいえ,他の政党を検討したりはしていないので,他の政党の綱領なるものを読んだことはありませんでしたが,思ったものとは異なっていました。もっと,具体的な政策集のようなものを想像していましたが,政策のようなものは具体的なものとしては書かれていません。かといって,目標とする社会主義・共産主義社会の姿が描かれているわけでもなく,目次に書いたように,前半は党の認識に基づく日本と世界の現代史が記されています。日本共産党は2022年で100年になりますから,創立は1922年ということになります。以前,このblogでも紹介しましたが,日本共産党の結党当初については,映画『わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯ー』でなんとなく知りました。この映画は治安維持法の弾圧によって24歳で亡くなった女性を描いている。彼女はまず労農党という政党(Wikipediaによれば,1929-31年)で活動していましたが,最終的には日本共産党員となる。戦時下でありながら天皇制と侵略戦争に反対することで,弾圧の対象となったということです。そんなこともあり,戦前からの日本の歴史を踏まえないと,この政党の存在意義を理解できません。ということで,上巻はそんな日本共産党創立当時の日本の状況を踏まえ,戦後のアメリカ統治期を経て現在の日本国憲法のもとで復興・発展していくわけですが,第二章では主にアメリカ合衆国への従属状況,また戦前から続く日本の国家独占資本主義状況が解説されます。第三章もアメリカ主導の戦後の世界の状況が解説され,冷戦を経て,先進国-発展途上国的な図式から,21世紀に入るとその図式が壊れつつあり,いわゆる発展途上国といわれた国々によるさまざまな国際的な取り組みが紹介されます。
綱領は決して長くなく,詳しい解説があるわけではありません。また,本書は第一章に入る前に,2020年に改定された現在の綱領になる前の姿,改定の履歴について説明されています。現在の綱領についても,100年の党の歴史のなかで変更された歴史認識についても語られます。まさに,書名にあるように,教科書としての綱領はそのまま読んでも頭に入りにくいですが,教員による指導の下で学ぶとその流れがはっきりわかってわかりやすいということです。
本書から学ぶことがいくつもありました。まず,日本共産党はよく言われることではありますが,マルクスが主導した社会主義運動は「インターナショナル」という組織名や,「世界の労働者よ,団結せよ」という『共産党宣言』の有名な言葉にあるように,国境を越えた連帯と組織化が基本でした。そんななかで,国際組織の日本支部的な意味合いがあったことは間違いありません。1917年に革命によって成立した,世界初の社会主義国であるソ連は,少なくとも当時は国際的な共産主義組織にとっては,希望であり,お手本でもありました。それに対してアメリカ合衆国は,まさに資本主義の力でもって戦後の世界を支配しようとする帝国主義であり,特に日本はその従属関係にあったために,日本共産党にとっては敵対すべき国でした。そんななかで,冷戦の時代があるわけですから,日本政府はアメリカ側に立つ一方で,日本共産党はソ連側に立つという図式はあったと思います。しかし,戦後は中国も共産党一党支配が進み,この先進的な社会主義2国が,日本を陣営に取り込もうと,日本共産党に介入してくるという歴史があったようです。そして,日本共産党は分裂しそうになり,改めてここで「科学的社会主義」に立ち戻ろうという努力がなされたようで,ソ連と中国という2つの社会主義国の在り方を冷静に研究することとなり,まずはソ連に対し,その覇権主義的な在り方を批判していきます。現代的な言い方でいえば,ソ連と中国はマルクスの理論が言うところの,資本主義→帝国主義→社会主義という社会発展論的な段階を経ずに社会主義化したために,一党支配的な覇権主義に陥ることになったと。その結果国内においても人権侵害がはびこるような,日本共産党が目指す社会の理想とはかけ離れたものとなっていると。
綱領に反映されたアメリカの姿は,徹底的に研究されています。世界各地で戦争をしているアメリカ合衆国は一時期は国連を利用してその影響力を世界に及ぼし,逆にある時期からは国連から離れ,国連憲章などを無視して自国の利益のみに従った軍事介入を世界各地で行ってきたといいます。つまり,ソ連=覇権主義,米国=帝国主義という図式で,ウォーラーステインのようなマルクス主義のものいいとは少し言葉の使い方が違いますね。国家独立資本主義という理論も,かつての日本のマルクス主義経済学者の言葉としては知っていました。それは財閥を中心として発展した戦前の日本を批判する言葉として私は理解していましたが,戦後に入っても,新自由主義政策の下で大企業への税制優遇をしてきた政策は独立資本主義という枠組みでとらえられるようです。
本書と並行して,エンゲルス『空想より科学へ』なども読んでいましたが,マルクス主義の社会の捉え方は思った以上に社会発展論的な考え方が強いことが分かりました。それはレーニンの『帝国主義』を読んだ時にも思いましたが,カナダの地理学者がマルクスはダーウィン以降の社会進化論の影響下にあり,社会を生物学の隠喩で語る傾向にあるという話に納得しました。本書の本文にはよく「発達した資本主義」という表現がでますが,社会発展的には,資本主義が発達すると国家独占状態になり,そのことで,次の段階である帝国主義に達します。その後の段階として社会主義・共産主義に移行するわけですが,ソヴィエト連邦や中華人民共和国は高度に発達した資本主義国家ではなく,政治的には民主主義も熟成しなかったところを,革命によって社会主義化してしまったところに欠陥があったといいます。どちらも一党独裁による人民抑圧的な政治となり,国内においては人権侵害が行われ,国外に対しては覇権主義的な振る舞いが行われると。
とはいえ,改定前の綱領では,ソ連や中国を社会主義を実現しようとする社会と希望をもって捉えられていたようで,むしろ共産党による批判の矛先は,高度な帝国主義段階にあるアメリカ合衆国に向けられていました。綱領では冷戦についてほとんど語られていませんが,今回の綱領改定では,「21世紀の世界」と表題が変更された第三章で,欧米の大国主義ではなく,多くの国がそれらから独立し,国連に加盟し,軍事ブロックとも関係なく,国として国連の一議席を確保することで発言権を強めているという現状に希望が見出されています。そうした旧植民地国のなかからも多くの新興国が現われ,またASEANのような地域協定がアジアだけでなく,南米やアフリカでも生じており,アフリカは平和の協定にまでは至っていないものの,アジアと南米のものは少なくとも自分たちが属する地域内では戦争をさせないという目標を掲げて外交努力がなされているといいます。そんななかで,米国とも中国とも関係を有する日本はASEANと協力して,さらに広域な平和的外交で役割を果たすべきとしています。また,社会主義への移行に関しても,高度に発達した資本主義社会における社会主義の実現はいまだ成し遂げられていない未知の領域であり,苦難な道ではあるが,そこに向けて希望をもって進んでいきたいとされています。
とりあえず,上巻だけで今回はしめておきたいと思います。


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【読書日記】反五輪の会編『OLYMPICS KILL THE POOR』

反五輪の会編(2021):『OLYMPICS KILL THE POOR――オリンピック・パラリンピックはどこにもいらない』インパクト出版,303p.2,020円.

 

2020年の夏季オリンピック・パラリンピック競技大会の開催地が決定されるのは20139月。反五輪の会はそれに先立って,2013年の1月に結成されている。本書の冒頭は15ページを割いて,小さい字で活動の記録が年表として記されている。15ページの最後には【2021/6/25現在 オリンピック・パラリンピック反対継続中】とある。本書は1年延期されたオリンピック大会開催中の730日に発行されている。私は反五輪の会のTwitterをフォローしているが,かれら(実際のメンバーは女性が多いようだが,彼女/彼という表記も面倒なので,私の場合はひらがな表記で性別を問わないものとしています)の活動は現在も続いている。2030年の冬季大会の招致を札幌市が進めているが,それに反対する札幌の市民団体をサポートしているのだ。
本書は本書のために誰かが執筆したものではない。反五輪の会の活動はこちらのウェブサイトで告知され,活動が記録されているが,そうした諸々の文章を収録したものだといえる。適宜写真が掲載され,またビラの画像も数多く収録されている。
https://hangorin.tumblr.com/

ということで,読み物というよりかれらの活動を振り返る際に参照すべきアーカイブとして所有していたが,とある事情によりまずはかれらの活動を通しで理解しておく必要が生じ,読むことにした。発行から1年が経過してしまったが,もっと早くに読むべきだったと後悔。それくらい重要な本である。2008年に夏季大会に大阪市が立候補していた。その際もオリンピック反対運動は起こっていて,弁護士を中心とする組織「大阪オリンピックいらない連」が活動をしていた。こちらのウェブサイトもまだ残されていて,重要な情報は参照することができる。私は当時の当事者に連絡を取り,かれらが発行していたニュースをお借りして閲覧したことがある。それは非常に貴重な資料で,こういうものは書籍化すべきだと強く思ったが,反五輪の会はそれが本書として実ったので,とても重要だと思う。
http://www.interq.or.jp/osaka/xgorin/index2.html

反五輪の会の主要メンバーの一人,いちむらみさこさんについては,このblogでも何度か書いたが,自ら望んで野宿生活を送っているアーティストである。彼女が執筆した文章の多くも本書に掲載されている。また,小笠原博毅・山本敦久編(2018)『反東京オリンピック宣言』(航思社)にも執筆している小川てつオさんが書かれた文章も多く掲載されている。小川さんも野宿者でありながら,雑誌『現代思想』などにも執筆している。そうした文章を読むと,研究者並みに文献調査をして,研究者以上に現場と当事者をよく知っている。それはともかく,反五輪の会は野宿者の方々を含むメンバーで構成されていることもあり,数年前から話題になっていた,渋谷区の宮下公園をめぐる問題で活動されていた方々ともつながりは深いようである。つい先日も,宮下公園に続いて,再開発が計画されている同じ渋谷区の美竹公園が工事の準備という口実で閉鎖され,立ち退きに応じなかった野宿者一人が公園内に幽閉されるということがあり,反五輪の会の方々も抗議に参加し,Twitterで情報発信をしていた。この際に中心となったのは「ねる会議」という団体で,いずれにせよ野宿者同士のネットワークとかれらを支援する団体・個人とのネットワークを感じさせる事件だった。
2020東京オリンピックでまず問題化されたのは,もちろん招致活動における政治的汚職の問題や,元安倍首相のプレゼンテーションでの発言などもあったが,本来は2019年ラグビー・ワールドカップに間に合わせるように建て替え計画が進んでいた新国立競技場の建設に伴う問題である。近隣の都営霞ヶ丘アパートの取り壊しが検討されたのは2012年7月。2013年3月にはIOCの現地視察があり,国立競技場周辺の野宿者の一次立ち退きが行われた。その時にはすでに反五輪の会の活動は始まっているが,何が言いたいかというと,反五輪の会という団体は当初から野宿者支援や居住権の侵害という問題に深く関わっていると思われる,ということである。
反五輪の会は,多くの抗議活動を,2017年1月に発足した「「オリンピック災害」おことわり連絡会」(通称:おことわりんく)とともに行っている。下記のウェブサイトを見てもどのような人が関わっているのかは分からないが,発足集会の映像が残っていて,そこでは『で,オリンピックやめませんか?』(亜紀書房,2019年)の編者の一人である思想家の鵜飼 哲さんが挨拶をしている。もう一人の編者である天野恵一さんは1998年の長野オリンピックに対する反対運動から生まれた『君はオリンピックを見たか』(社会評論社,1998年)の編者でもあり,その辺りの人的ネットワークから生まれた団体かもしれない。
http://www.2020okotowa.link/

本書にはオリンピックの弊害がほぼ網羅されているように思う。私がオリンピック研究に関わるようになって,学術文献の調査から始めた。学術研究はしっかりとした根拠のある情報をもとにしないと議論ができないので,学術文献ばかり読んでいても実はオリンピックの弊害や問題点はなかなか見えてこない。そういう意味では,先述した『君はオリンピックを見たか』や,1988年の名古屋が夏季オリンピックに立候補していた時の反対運動から生まれた『反オリンピック宣言』(風媒社,1981年)の方が学ぶことは多い。もちろん,反対運動の方々もいい加減な情報に基づいた無責任な発言をするわけではないし,特に書籍化されるような文章ではその辺はしっかりしている。しかし,学術研究とは目的が異なり,事実の蓄積よりも反対運動につなげる動機や理由,根拠づけがメインなので,情報源を特定できるような記載をしなくてもよい。また,かれらは実際に研究者も巻き込んだ活動をしているため,そうした研究者から口頭や講演で聴いたこと,また実際に立ち退きなどの当事者の話を聴いていることもあり,研究者よりも生の声を知っているという側面もある。
本書は活動の記録であり,理路整然と何かを説明するものではないので,反復は多い。しかし,同じことでも何度も角度を変えて論じられたり,対談のような形で議論が展開されたり,資料によっては問題を整理して提示したりしている。ここで,かれらがまとめた「オリンピックに反対する11の理由」を転載しておきたい(pp.210-211)。

1 野宿者排除/団地の取り壊し
2 五輪再開発・ジェントリフィケーション
3 「テロ」をあおり過剰なセキュリティ対策
4 原発被害者を切り捨てる「放射能安全宣言」
5 ジェンダーを巡る問題
6 優生思想とパラリンピックを巡る問題
7 ボランティア動員とオリ・パラ教育
8 街路樹の伐採とアジアの熱帯林破壊
9 膨大な公費と不正招致疑惑
10 過労労働
11 アートで五輪プロパガンダ

7つ目にあげられているオリ・パラ教育については,実際に教鞭に立っているますだらなという人による文章がいくつか本書に掲載されている。オリンピック・パラリンピック教育についてはアカデミーでも断片的にしか情報が得られておらず,今のところは本格的な調査・研究はない。そういう意味では,教育現場からのこの声は貴重である。その他には,首藤久美子さんによる文章が多い。確か,YouTubeで視聴したどこかの座談会にも登場していて,反五輪の会の代表的な存在といえる人かもしれない。本書には首藤さんや小川さんが他の媒体に執筆した文章も収録されている。
反五輪の会の2013年から2021年にかけて9年間に及ぶ運動の軌跡を地理的な側面から確認しておきたい。東京都内において,かれらの活動の拠点の一つは新宿にある。新宿はもちろん都庁のある西口もあるが,デモのやりやすからいったら東口がある。最初の立ち退きの現場であった国立競技場周辺ももちろん重要。そして,本書ではあまり語られていなかったが,毎月(毎週?)金曜日の夜に東京駅前で抗議行動をしていたはずだ。オリンピック選手村など,ベイゾーンの競技施設にも何度か視察に行っている。その他にも宮下公園の運動にも参加し,川崎でイスラエルの軍事見本市が開催される際にも訴えている。年表から地名を拾おうとも思ったが,あまりに多くてちょっと断念。それだけ,数多くいろんな場所でかれらは抗議行動を行っていた。
五輪会場は東京だけでなく,「復興五輪」を謳う必要上福島にもあり,かれらはそちらにも複数回訪れている。マラソン会場は札幌に移ったので,そちらにも出向いているようだ。かれらの活動は当初,2020年のオリンピック大会が東京で開催されることを阻止すれば終了だったこともあったが,後に東京とともに立候補していたマドリードやイスタンブールでも反対運動が起こっていたことを知り,「オリンピックはどこにもいらない」ということで,世界中の五輪反対運動と連帯することとなった。東京大会の前の大会である2016年リオ大会の際には,リオデジャネイロまで出向いている。もちろん,夏季大会だけではないので,2018年平昌大会にも行っている。
それだけの行動をしても,オリンピック反対の声は大きくならず,新型コロナウイルスのパンデミックが日本にも訪れ,五輪大会は1年延期された。かれらの抗議行動も1年継続されたといえる。さすがにこの状況で開催すべきではないという声が大きくなり,医療機関や女性活動家などからも抗議が起こるようになり,日本共産党も最終的には中止を訴えるようになる。本書の最後に掲載された2021623日の抗議行動で,都庁前で声を上げたのは以下の団体・個人である。
・反五輪の会
・オリンピック災害おことわり連絡会
・都教委包囲・首都圏ネット
・長野:オリンピックいらない人たちネットワーク(復刻)
・アジア女性資料センター
・フランス・オーベルヴィリエ市:JADJardins a defendre
・福島・虹とみどりの会
・松本:オリンピックの中止を求める松本の会
・「女性たちの抗議リレー」
・ふぇみん・婦人民主クラブ
・グレゴリー・加藤
・都庁職病院支部
その他,同時期に行われた抗議集会としては,静岡や浜松,多摩地域,横浜,九州の久留米,大阪・釜ヶ崎という日本各地だけでなく,韓国,パリ,ロサンゼルス,ウィーン,シドニー,ニュージーランド・ウェリントン,ワシントンDCなどを確認している。都内各地で行われた集会の様子はYouTubeで配信もされ,そのいくつかを私も視聴した。コロナのおかげでオリンピック中止が現実のものになるという希望も少し抱くような盛り上がりだったが,一度決めたものは簡単に取り消せない,この国の政府の在り方を強く反映するように,結局は実施されてしまった。昨今のオリンピック大会は軍隊も出動するほどのテロ対策,セキュリティが増大しているが,東京も例外ではなかったように思う。しかし,かれらの矛先はもっぱら五輪反対運動の人々を制するだけに終始していて,本当の意味でのテロ行為が行われなかったことは一つの救いではあるが,逆にいうと,国際テロ組織が東京を標的することの意義はないということかもしれない。ともかく,オリンピックに反対する人の正当な意見を封じ込めるというところに税金などを投じた警察などが動員されることの無意味さをも感じ取った大会であった。
もう一つの希望は,現在2030年冬季大会に対して札幌市が招致活動をしているのに対し,招致に反対する複数の団体が札幌の地元で結成された活動をしていることだ。もちろん,そこには反五輪の会を含む東京大会に抗議してきた人たちも支援していて,連帯が高まっている。招致段階でこれほどの運動がおこること,そしてかつての大阪や名古屋とは違い,多くの反対者が「オリンピックはどこにもいらない」という意識を持っていると思われていること,これは大きな希望である。是非とも招致中止を実現させたい。

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【映画日記】『七人樂隊』『マイ・ブロークン・マリコ』『線は,僕を描く』

2022年1012日(水)

立川シネマシティ 『七人樂隊』
香港の監督7人が撮影した7本の短編オムニバス。私の世代は香港のカンフー映画をテレビで散々観たわけだが,1作目の監督はなんと,ジャッキー・チェンともよく共演していたサモ・ハン(・キーポー)で,カンフーの修業を描く。設定された時代もさまざまな作品が集い,古き良き香港から現代まで,特に若き魅力定な女優さんも何人か登場し,飽きさせません。個人的には『道に迷う』という作品がとても良かった。香港に育つが,英国で長く生活をし,香港での生活は自然の多い郊外を拠点としている。久しぶりに訪れた香港の都心は風景がすっかり変わり,妻・息子との待ち合わせになかなかたどり着けない。その男性は最終的に交通事故で亡くなってしまうのだが,本作を監督したリンゴ・ラムも撮影後亡くなったらしい。そして,本作に出演していた青年は監督のご子息だという。
http://septet-movie.musashino-k.jp/

 

2022年1026日(水)

立川シネマシティ 『マイ・ブロークン・マリコ』
コミックを原作とした,永野芽郁主演映画。原作漫画はペラペラ観たが,映画については特に情報も入れずに観た。なんとタナダユキ監督作品でしたね。そういう意味ではよくできていました。永野芽郁はもちろん知っているけど,私はドラマを観ないので,橋本 愛と共演した映画『PARKS』くらいしか観たことがない。でも,その演技を見るだけでもなかなかの俳優であることは分かったので,本作は少し楽しみにしていた。そして,共演の奈緒だが,『マイ・ダディ』で見た時に,中越典子に似ていると思ったが,今期のドラマ『ファーストペンギン』で共演しているとのこと。堤真一演じる男性の亡くなった元妻を演じるのが中越で,主演の奈緒を見て,妻の再来だと思うというストーリーらしい。やっぱり似ているんですね。
それはさておき,いきなりネタバレですが,本作のタイトル「ブロークン」というのはそういうことだったのか,と納得。奈緒演じるマリコは幼少期から父親に虐待される。男性と付き合うようになっても暴力男にばかり惹かれ,怪我が絶えない。そんなマリコと幼少期から付き合っている主人公は,マリコしか友人がいないが,内心そんなマリコに苛立ちを感じていた。マリコは男に暴力を振るわれるのは全て自分の行いのせいだと思い込まされ,精神を病んでいる。つまり「壊れている=ブロークン」のだ。窪田正孝の役どころもよかった。マリコの遺骨をかかえて主人公は東北に旅に出る。スクリーンに映る「八戸」の文字や「青の森」と名付けられたバス。まりがおか岬というのは実在する地名ではないようだが,東北を彷彿とさせるのは間違いない。そして,本作においてはその旅から戻ってきてからの展開がなかなかいいと思う。主人公は職場に無断で欠勤したので,辞表を提出するが,受理されず,以前のような日常が戻ってくる。なんとなく,それがリアルなのかなと思う。
https://happinet-phantom.com/mariko/

 

2022年111日(火)

府中TOHOシネマズ 『線は,僕を描く』
この日は映画サービスデーということもあり,妻の休みにあわせて有給休暇を取り,一緒に映画に行った。当初はせっかくなので,短館系のマニアックな映画を考えていたが,他にもやりたいことがあり,妻が他の作品で気になっていたという横浜流星主演のこの映画になった。あまり気乗りはしなかったが,十分に満足できる作品だった。
他の出演者もよく知らないまま見始めたら清原果耶さんが出ていて,一気に前のめりになった。なんだかんだで彼女の演技はあまり観ていないが,『宇宙でいちばん明るい屋根』以降,スクリーンで彼女の演技を観る機会を楽しみにしていた。京王線ユーザーであれば,高尾山のポスターで毎日のように見かけはするのだが。ということで,あまり彼女の演技の幅は知らないが,本作の役どころははまり役のように思えた。まあ,確かに三浦友和演じる水墨画の巨匠の孫として立派な家で生活している身分であれば自然かもしれないが,ちょっと衣装が素敵すぎるところにリアリティを感じなかったが,それを着こなす彼女の姿を見られるのはありがたかった。主演の横浜流星さんの演技もなかなかだったと思う。最近,日本映画を観ると,俳優の世代間共演が気になる。本作でも,私が子どもの頃からテレビに出ていた三浦友和,私と同世代で私の加齢とともに活躍していった江口洋介,そして私より大分年下の横浜流星。役どころとしても水墨画を上の世代から下の世代へと継承していくわけだが,演技という点でも下の世代は上の世代に学ぶのだろう。それでいて,上の世代は下の世代の可能性に刺激される,そんな関係。
https://senboku-movie.jp/index.html

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【読書日記】皆本夏樹『フェミサイドは,ある』

皆本夏樹(2022):『フェミサイドは,ある』タバブックス,58p.1,000円.

 

『反「女性差別カルチャー」読本』と同じ形態で発行された本書。『反「女性差別カルチャー」読本』の時は発行をタバブックスとしたが,正確には発行はgasi editorialとあり,発売がタバブックスである。本書に価格の表示はないが,確か1,000円だったと記憶している。分倍河原のマルジナリア書店で購入。

まだ知らなかった日
ポストイット・テロリスト
フェミサイドは,ある
要望書を作る
#
小田急フェミサイドに抗議します デモ
「私たち」とは誰か?
1
か月後の #小田急フェミサイドに抗議します デモ
南米の反フェミサイド運動
運動には人とお金と時間が必要だ
大学生たちが記者会見をする
内閣府男女共同参画化局長に署名を提出する
おわりに

本書は,202186日に起こった,走行中の小田急線内で起こった殺人未遂事件をきっかけに,SNS上で声を上げ,Chande.orgでオンライン署名を実施し,政府宛に要望書を作成・提出するまでにいたった,一人の大学生の記録である。著者名は本名ではなく,「夏樹」という名前も男女ともにあるものなのでそこにこだわる必要はないが,本文を読むと女性だということは分かる。ただし,本書の中でもそこは強調していない。ジェンダーをめぐる,女性が弱者に立たされた社会構造の中から生まれる犯罪に関して,被害者や当事者の立場から声を上げて行動に起こすという事例については,いろいろ知ることができる。
しかし,本書は一見,特定の事件の当事者ではない人が,その事件をきっかけに行動を起こしたものである。さらにいえば,著者は以前からそういう行動に参画していたような活動家ではなく,今回のことを通じて活動家になっていく,そういう過程をたどることができる貴重な本である。ほとんど活動に起こせていない(デモすら参加したことがない)私が書くのはおこがましいが,本書は,社会に対して,政治に対してモヤモヤした気持ちを日々抱きながらも,さまざまな活動家が行っている行動に参画することもできずに悶々としている人にも勇気とその方法を教えてくれると思う。
著者が行った行動は素晴らしい。上で当事者ではないと書いたが,それは一般的な物言いであり,そうではないところが本書から学ぶべきことである。本書ではこの小田急線事件の犯人を断罪するものではなく,この身近で起きた事件から,多くの人が当時者意識をもっていくことの重要性を訴えている。これは単なる「無差別殺人」未遂なのではなく,明確に「女性」であることをその殺人(未遂)行為の動機としており,そこには性行為を含む歪んだ男女の恋愛のあり方をめぐる問いが存在する。私も社会科学を学ぶ身として頭では分かっているつもりだが,アンコンシャス・バイアスなどの言葉でいわれるような,52年間生きてきて染みついている感覚から逃れられていない。正直なところで言えば,結婚という制度内に入ることによって,配偶者以外の女性を性的対象としては見ないようにする,という理性による自己制御を行っているにすぎない。とはいえ,結婚以前も私は理性的な人間として,といいながら実は人見知りもあり,気軽に異性(同性も同じだが)に声をかけられるような人間ではなかっただけだが,ともかくそうした女性に対する性的欲望を内に秘め,表に出さなかっただけのことである。
それはともかく,本書を読んで考えたことをつらつら書きたいと思う。ちょうど12年前,私たち夫婦に長男が産まれた。妊娠中に性別を確認していなかったので,男の子が産まれた時には驚いたが,ともかく性別を意識しないように,本人にも意識させないように育てようと思っていた。とはいえ,それを厳格に実施しようとしたわけではないが,いずれにせよ,当人がどのように「男の子らしさ」を獲得するのかだけは観察したいと思っていた。初めての子ということもあり,育児関係の物資はかなり知人からいただくことが多かった。妻は台湾の出身で,妊娠時に二人で台湾を訪れたが,その際にもいろんなものをもらった。性別は判明していなかったので,子どもが着る衣類の色もさまざまだった。日本でも,知人のお古をもらうことがあり,性別問わずにいただいたので,乳児の頃はかなりピンクの服も着させていた。絵本の類もいろいろいただいたり買ったりしたが,不思議なことに乳幼児に読み聞かせるような絵本は性別を意識させるものは少ないように感じた。1歳を過ぎて立つようになるといろんな玩具で遊ぶのだが,台所用品でのおままごとがけっこう気に入っていたようだ。このまま女の子路線で育てたいと密かな想いがあったが,それはある時期から裏切られる。そう,急に車や電車に興味を持つのだ。そのきっかけは残念ながら観察も記録もできなかった。そこからは,トミカとプラレールの時代。しゃべるようになってからの子ども玩具は明らかに性別で区別されている。トイザらスなどに行くと,男の子コーナーと女の子コーナーとに区分されている。それ以降は親の制御などできない状態で,ベイブレードやトレーディングカードと男の子玩具がわが家には溢れるようになった。
長男と4歳差で下の子が産まれた。今度は女の子だった。こちらは当初から性別の件は諦めた。配偶者の希望で髪の毛は3歳くらいまで伸ばし,本人もピンクや紫を好んで着ていた。兄が持つ男の子用玩具にはあまり見向きもせず,もうすぐ8歳になる今でも遊んでいるが,シルバニア・ファミリーをかなり早い時期から遊んでいた。たまにプラレールでも遊ぶし,レゴブロックは好きだが,アイカツなどのアニメも観て,おもちゃ屋にあるようなゲームもしていた。それが小学校に入る頃に変化があった。ランドセルもピンクだったのだが,入学してからはピンクや紫から,緑や青といった色を好むようになり,洋服はひらひらがついたものやキャラクターなど過度に装飾があるものは好まなくなった(サンリオのシナモロールはかなり好きなままだが)。かといって,全般的に男の子っぽいものを好んでいるわけではなく,どちらのものも都合よく好きなものは好きという感じで選んでいる感じがとても好ましい。
何が言いたいかというと,結局男らしさとか女らしさと一括りに語れるものではなく,そして親の影響とかもそれほど明確ではなく,やはり一人一人の個性が強いと感じる。とはいえ,先ほども書いたように,玩具は男の子用と女の子用と売り場が区分され,例えば自転車などは男の子向けと女の子向けとデザインだけではなく,自転車の形態そのものが違うのだ。学校ではブルマがなくなり,ランドセルの色も自由に選べ,教員は男女分け隔てなくさん付けで呼ぶ。教育の現場では私たちの世代とは違ってジェンダーを意識させることをなくそうとしている。
しかし一方では,消費という場面でジェンダー区別に接する場面があまりにも多い。例えば,息子は6歳ごろから『コロコロコミック』を買っている。12歳になった今でも毎号買っているが,これは妹も読んでいる。その一方で,妹は時折『ちゃお』を買うようになった。漫画も明らかに大人になっても読者が男女に区別されるものがほとんどであり,ジャンル化している。私が読んでいた頃の『コロコロコミック』も主人公は大抵男子で競争原理に基づく話が多く,恋愛沙汰のものはほとんどなく,それは今日でもあまり変わりない。一方で,『ちゃお』がどの辺りの年齢層を対象としているかは知らないが,恋愛ものばかりなのだ。ちょっと脱線がすぎているのでこの辺にしたい。いずれにせよ,この時代にあってもジェンダー規範はさほど劇的には薄れていないということを認識しておきたい。

本書の著者について書いていこう。著者は当時大学生で,フェミニズムを学んでいるようだ。フェミニズム専門出版社&書店の「エトセトラブックス」にも通うような人物らしい。また,幼い頃に性暴力の被害を受けていたことを書いているが,それが性暴力だと自覚したのはフェミニズムを学ぶ過程であったことも書かれている。先述したように,ジェンダー不平等なこの社会に対してそれを改善したいという意識は持っているものの,実際の活動実践に踏み込むことはしていなかったが,小田急線の事件後,とある小田急線の駅にポストイットで意見をし,それをTwitterにあげたことで,活動の主体者となっていく。Twitterにはさまざまな批判・誹謗中傷の意見が書き込まれたが,一方では賛同するコメントもあり,著者の人生は大きく変わったと思える。悪い意味ではないが,逆戻りはできない人生を歩み始めたともいえる。エトセトラブックスに相談し,石川優実さんに相談することから人的ネットワークが次々と拡大していく。こういうところはSNS時代のすごいところだ。著者はそうしたネット上でできた繋がりを,今度は彼女たちが主宰するデモなどの集会に参加することで対面のものとし,またそういう機会をとらえて自身でも人前で発言するようになる。SNSの場では匿名の誹謗中傷の方が多いと思うが,実際にその場に集う人たちとの対面は著者に連帯の確実性を認識させ,また賛同者の存在を確実なものとして感じさせたのだろう。著者が人前でさまざまな発信をすることは,著者にさらなる勉強を要求していく。徐々に自分の発言に大きな責任が伴うようになっていく。目次にあるように,著者は小田急線の事件が起きた20218月から,本書が発売される2022年の8月まで,1年間をめまぐるしく過ごし,最終的にはオンラインで集めた署名を政府に届けるべく,記者会見まで行い,書名を提出した。賛同し,協力してくれる人は次々と現れたが,かれらが財政的な支援をしてくれるとは限らない。書名の印刷代,記者会見の会場の手配など,かなりの額の失費も多かったようだ。細かい金額までは書かれていないが,その辺りも行動にうつす際の覚悟として必要かもしれず,本書にその記載があるのはありがたい。ともかく,考えさせられることが多い読書だった。

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オンライン署名ご協力のお願い

私のこのblogを定期的に読んでいただいている方はそんなに多くはないと思いますが,読者の皆さんにオンライン署名の協力をお願いします。

来月1127日に東京都内の公立中学校3年生を対象とした英語スピーキングテスト(ESAT-J)が実施されます。
このテストは東京都教育委員会が進めている英語教育において,英語を話す能力を測定するアチーブメントテストとして実施されますが,実際には来年度の東京都立高校の入試にも利用される予定になっています。
さまざまな問題が指摘され,Twitterでは入試への利用を中止させようとする保護者がアカウントを作り,情報発信をしています。
https://twitter.com/hogosha20221127

まだこの問題をご存知ない方は,こちらの動画をご覧ください。当事者である保護者の1人も参加していて,この問題がとてもわかりやすい番組になっています。
ポリタスTV「都立高入試で問題含みのスピーキングテスト導入へ」
https://youtu.be/ma8Mf1h1kIw

研究者の方々も東京都教育委員会に要望をし,その会見の模様もYouTubeで見ることができます。こちらはより専門的な見地から,この問題の根深さというか,掘り下げた問題提起となっています。
ESAT-Jの都立高校入試利用中止を要望する会見」
http://youtu.be/JMtbi6ncvb4

今更中止なんてできないよと思うかもしれませんが,意思を示さないかぎりは何も変わりません。
こちらのネット署名はまだ行っていますので,この問題を理解し,賛同していただける方は是非,書名をお願いいたします。
https://t.co/90VBwPUvwo

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【読書日記】インゴルド『ラインズ』

インゴルド, T.著,工藤 晋訳(2014):『ラインズ――線の文化史』左右社,267+viiip.2,750円.

 

私はあまり人類学の文献を読んでこなかった。なので,知っている外国人の人類学者の名前といったら,翻訳されている人の一部でしかない。しかし,インゴルドの名前は知っていた。私は2013年に風景に関する論文を発表したが,その際の文献調査のなかで,インゴルドの論文を発見し,読んでいた。すごい論文だとは思ったが,私のレビューの流れに位置づけることができずに最終的には文献表に含むことはなかった。ダウンロードしたはずの論文PDFファイルも残っておらず,タイトルや掲載雑誌名など忘れてしまっていたが,「Ingold landscape」で検索したらすぐに出てきました。『World Archaeology』という雑誌に1993年に掲載された「The temporality of the landscape」でした。ブリューゲルの「穀物の収穫」(1565年)という作品が転載されています。それを読んだ時には,インゴルドがどの程度評価されているのか知る由もなかったので,本書が出版された時には驚いた。しかも,立て続けに翻訳が続き,論文を読んだ時にも一筋縄では行かない印象があったが,なんとなく嬉しかった。インゴルドの著作には,『The approprietion of nature』(1986年)や『The perception of the environment』(2000年)という地理学と関連するものもあり,これらが先に翻訳されていたら読んだと思うが,本書やその他の翻訳本にはこれまで手を出さなかった。
今回,トラベル・ライティングについて考えるなかで,本書で論じられる「ライン」にヒントがあるのではないかと考え,購入した。確信のある予感ではなかったが,ほぼ的中し,いくつかのヒントを得ることができた。

序論
第一章 言語・音楽・表記法
第二章 軌跡・糸・表面
第三章 上に向かう・横断する・沿って進む
第四章 系譜的ライン
第五章 線描・記述・カリグラフィー
第六章 直線になったライン

本書は書名通り,「ライン=線」をめぐって議論が繰り広げられているわけだが,やはり一筋縄ではいかない。また,冒頭で言い訳のように,本書はこのテーマについての始まりであり,全てを語りつくしたわけでもないと書いてあるが,読了してその通りだと思った。非常に議論が開かれていて,読者がいろんなトピックに関心を持ち,それぞれ独自に展開していく余地というか潜在性というか可能性を秘めた書だと思う。
第一章の冒頭は「発話と歌の区別」と題されている。本書は完全なオリジナリティを有するというわけではなく,それぞれのトピックで参照している重要な文献がある。冒頭のこの議論に関しては,翻訳もあるオング『声の文化と文字の文化』(藤原書店,1999年)が出発点にある。本書のテーマ「ライン」は様々な意味合いで用いられているが,一つは第四章のタイトルにもなっているが,「系譜」という歴史的連続性である。発話と歌,現代においてはある程度区別されているが,ラップというジャンルでは再び接近し,いまだに農作業で口ずさまれる歌など,元来の近しい存在も存続している。また,第五章の主題である,字を書くことと線を引くこと,絵を描くことの連続性についても論じられている。本書の特徴は,非物質的な連続性とともに,物質的な「軌跡」というものにも大きな比重があるところにもある。前半は読んでいて,先日亡くなった地理学者イーフー・トゥアンの博物誌的な作品を思い起こした。人類学者でありながら,この日記の冒頭で触れた論文のように恐らく考古学にも精通している著者だから,世界中から,またいろんな時代から適切な事例を引き出し,そうした事例間の共通性を見出しつつ,その多様性も示していくという論調はトゥアンに似ている。しかし,トゥアンがどちらかというと前半に理論的な話をして,後半に多くの事例を提示するのに対し,本書はこの事例提示には固執しない。そこが魅力的で読みやすい。とはいえ,「ライン」というテーマに貫かれながらもサブテーマはかなり広範で,しかも,このラインという概念自体がかなり緩やかなので,その展開にはかなりおおらかな気持ちで受け止めていかないと追いつけない。
第一章が音というどちらかというと物質性を伴わない事象であったのに対し,第二章は平面上に描き込まれるものが議論される。いわゆる絵画的なものに限定されず,表題にあるように糸や手相の皴,星座の星と星を結ぶ想像上の線など多岐にわたり,最終的には文字,さらには装飾された文字にまで議論が達する。
第三章はまさに私が期待していた内容でした。人間の移動という基本的な事実から出発し,第二章のテーマに引き寄せます。移動した軌跡を人間は地図というものに変換していきます。もちろん,ここでは地理学者が辿るようないわゆる地図の歴史ではなく,地図的なものが出来上がる概念的な過程が論じられ,さらにはそれを言葉として語るストーリーラインへと発展していくのです。なお,この辺りの議論はド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』を議論の土台としている。
第四章は,個人の血統と,生物の進化という系統=系譜がテーマ。こちらも人類学や生物学の具体専門的な議論を超越し,概念的なレベルで両者を結びつけてという論調が見事。第五章は第二章のテーマを受け継ぎ,世界各地の文字の歴史を踏まえ,絵画と文字の連続性,そして再び文字が絵画性を獲得すること,両者の関係性が論じられます。なお,ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』もしばしば参照されます。
最終章である第六章はまさしく圧巻。これまでのサブテーマがまさに「ライン」という概念で終結され,しかも私たちはラインと聞くと直線を思い浮かべてしまうが,もともとはもちろんそうではなく(フリーハンドで厳密な直線を引くのは不可能),線というものが時代を追うごとに直線というものになっていくのだ(もちろん,そんな単純な話ではない),という大まかな理解を踏まえておく必要がある。
なお,本書には地理学者が二人登場していた。一人目は歴史地理学者という肩書になっていたが,景観研究のOlwigであり,もう一人はスケールや境界の研究で知られる政治地理学者Paasiである。引かれている文献はいずれも論文集の一部で知らないものだったが,面白そうな文献なので,探して読んでみたい。このテーマで私が真っ先に思い描いた地理学者はヘーゲルストラントである。スウェーデンの地理学者で時間地理学の創始者である。本書の続編がすでに翻訳されているが,インゴルドがヘーゲルストランとに出会った時(まあ,知ってはいるが言及していない可能もある),どんな議論が展開されるのか,楽しみでもある。

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【読書日記】Dancan and Gregory eds. : Writes of passage: reading travel writing.

Dancan, J. and Gregory, D. eds. (1999): Writes of passage: reading travel writing. London: Routledge.

 

本書が出版された当時,私はまだ辛うじて大学に所属していたので,本書の存在は知っていた。編者の一人,ジェイムス・ダンカンは地理学における表象研究を1990年代に牽引していた人物で,グレゴリーは地理学理論の貢献を長らくしていた。今思うと,本書が出版されたこの頃はこの2人にとっても転機だと思われる。とはいえ,ダンカンの方はこれ以降目立った研究は減っていくのだが,グレゴリーはエジプトの研究を精力的にしている頃。
私は最近トラベル・ライティング研究の文献調査をしているが,数年前に関連図書の書評を書いた時に真っ先に本書を思い出し,言及はしていた。しかし,その時は実物が手元にはなく,今回改めて入手し,また辞書なしで読んだ次第。なかなか英語読解能力は向上していません。特に本書のように,歴史的な内容や,日本で翻訳・紹介のされていない文学作品を扱ったものは特に知らない単語も多く,理解できない部分が多いです。ということで,はじめに言い訳しておきますが,詳細な紹介はできません。どんな内容が書かれているのかのみの記録です。

1 序章:ジェイムス・ダンカン,デレク・グレゴリー(地理学)
2
アフリカの限定された見方:18世紀初頭の語りにおける野性と市民性の地理:ロクサン・ウィーラー(英文学)
3
啓蒙の旅:チベットにおける顕現の形成:ローリー・ハヴェル・マクミリン(解説文)
4
旅の記述,セクシュアリティの地図化:リチャード・バートンのソタディック・ゾーン:リチャード・フィリップス(地理学)
5
ラックノウからの逃避行:ホームを旅し記述する英国女性,1857-8:アリソン・ブラント(地理学)
6
エジプトを書き刻む:オリエンタリズムと旅の文化:デレク・グレゴリー(地理学)
7
脱オリエンタリズム:遠く離れた場所における親しみの衝撃について:ジェイムス・ダンカン(地理学)
8
異国の親しみと親しみやすさの異国情緒:ギリシアへの世紀末旅行者:ロバート・シャナン・ペッカム
9
クローゼットを通じた旅:マイケル・ブラウン(地理学)
10
プロバンスの地図越しの記述:『プロバンスの12か月』における旅の癒し:ジョアンヌ・P・シャープ(地理学)

1992年にルイーズ・プラットの『帝国のまなざし:トラベル・ライティングと文化の越境化』が出てから,近代期の植民地支配に関連する旅行記をポストコロニアル研究の文脈で,「トラベル・ライティング」という用語を用いて分析することが一般化したようだ。ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』もフィクションでありながら植民地主義を前提とした旅行記的形式をとっており,初期にコンラッド研究をしていたサイードも『オリエンタリズム』(1978年)のなかで,この種の作品をいくつも取り上げているので,起源はそこまで遡れる。コンラッドに限らず,D・H・ロレンスや,フローベール,ランボーなどもヨーロッパ諸帝国の植民地を旅していた。私も非常勤先の講義で旅行記とユートピア文学を通してヨーロッパ史における地理学を解説しているので,この手のテーマはなじみ深い。学生にはレポートとして,平凡社の東洋文庫を読ませていて,そこから学ぶことも多い。一応,寄稿者の専門分野を日本語で示したが,自分の理解が心もとないものもある。「Expository Writig Program」とは何だろうか。「Department of English」というのも,日本であれば英文学とでもできようが,米国の大学のなかでどういう意味あいなのか。『Geographies of writing』という著書を持つNedra Reynoldsの専門も「writing and rhetoric」となっていて,イマイチ理解できていない。英語文献を読んで馴染みがないものに出会うと,そういう分野を紹介している日本語文献を検索するが,なかなかヒットしない場合も多い。英語圏に限定しても,日本の研究者がフォローしていない分野もやはりけっこうあるのだろうか。
さて,内容ですが,2章はアフリカに関するもの。タイトルでは18世紀初頭とありますが,アフリカ大陸はヨーロッパにとって,古代から地中海世界の一部であり,身近であった。航海時代の初期も,スペインによる大西洋横断の前に,ポルトガルによるアフリカ大陸周回があった。基本的に15世紀にはアフリカ大陸沿岸に植民都市が建設され,沿岸地域はヨーロッパに知られていた。しかし,その後南北アメリカ大陸は東海岸からなだらかに標高が上がっていくという特徴もあり,一気に植民地化されるのに対し,テーブル上の地形であるアフリカ大陸の内陸は探検が進まなかった。この章では,『ロビンソン・クルーソー』(1719年)で知られるダニエル・デフォーの1720年の作品『船長シングルトン』を取り上げている。日本語は2015年に『名高き海賊船長 シングルトンの冒険一代記』というタイトルで翻訳されているとのこと。
3章はチベットを題材としている。チベットといえば,上記非常勤の講義でレポートの課題図書として,デシデリ『チベットの報告 1・2』平凡社(東洋文庫)を入れていたので,少し理解しやすいかと思っていたがそうでもなかった。イタリア人デシデリはキリスト教の布教目的で18世紀初頭にチベットを旅しているが,この章では英国による1784年から1904年までのものを対象としている。18世紀で取り上げられるのは,ジョージ・ボーグルという人物。検索すると日本語でも解説記事が出てくる。知らない歴史が多いので,本書を読む際に調べるべきだった。続いてはサミュエル・ターナーという人物。こちらも解説出てきますね。どちらも「外交官」という肩書になっています。続いて,ブライアン・ホジソンでこちらはWikipediaにも記事があります。本書ではオースティン・ワデルという人物とともに仏教との出会いについて論じられる。20世紀初頭の事例はラドヤード・キプリングの作品『少年キム』。作家名と作品名は知っているが,Wikipediaだけでも学ぶことは多い。日本の滞在経験もある旅行家で,彼だけでもトラベル・ライティング研究の題材になりそう。それから,フランシス・ヤングハズバンドという人物で,1919年に王立地理学協会の会長を務めているという。そういえば,ブラッド・ピットが主演した『セブンイヤーズ・イン・チベット』なんて映画もありましたね。ハインリヒ・ハラーという登山家による1952年の自伝を原作にしているようです。
4章は,リチャード・バートンという人物の訳による『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』について。以前,ボルヘスのバベルの図書館について調べている時に,『千夜一夜物語』についでどこかで何かを読んだ。そんなことは常識だとは思うのだが,私にはいろんな常識が欠けているので,ディズニー作品でも知られるアラビアン・ナイトは,アラブ世界の口承伝承的なもので,それをヨーロッパ人が翻訳し,書物化したことが歴史的には大きい。ここで論じられるのは,バートンによる「Sotadic Zone」という概念だが,翻訳はなく,それについて論じた日本語の文献も見つからなかった。本書にはまさにこの言葉をタイトルにしたバートンの著書はないが,ウェブで調べると「モハメッド帝国の社会的・性的関係」という副題のついた書物が出てくる。この章もタイトルにあるようにセクシュアリティがテーマだが,ヨーロッパがアラブ世界を性的堕落として描いたということくらいしか想像できないが,この概念をウェブで調べると,どうやらバートンは実際にアラブ世界を地理的ゾーンとして「Sotadic」を画定しているようだ。とはいえ,この単語は手元にある『リーダーズ英和辞典』にもなく,ギリシアの詩の一形式で好色的なものという意味しか分からなかった。
5章は19世紀中ごろのインドにおける英国人女性を題材としている。以前書評を書いた『旅にとり憑かれたイギリス人』のなかに,1857年のインド大反乱(セポイの反乱)によって居住地から逃れて旅をしたクープランドという女性の旅行記の分析を読んだので,テーマ的には同一かと思うが,英文を読んでもあまり理解できなかった。この章のタイトル「ラクナウからの逃避行」は1858年に描かれた絵画のタイトルであり,白人女性が手を取り合って逃げるさまを描いている。幼い子は有色人種の女性(召使)が抱え,小さな子どもと老女を男性が導いている。本書では,逃避中の滞在地における住まいについても論じられていた。
6章の著書,デレク・グレゴリーについては明治大学の大城直樹さんがその研究動向についてその都度書いてきているが,この頃から始まったエジプト研究についてはまだ書かれていないようです。ヨーロッパ人のエジプト旅行については私も『フロベールのエジプト』を読んだので,何となくイメージはつく。もちろん,ピラミッドなどの古代遺跡が調査の対象となり,観光資源にもなるが,早くからイスラーム圏に含まれ,エキゾチックな雰囲気もあり,ナイル川沿岸を中心にヨーロッパ人の旅行先として整備されたようだ。ヨーロッパ人向けのホテルが建設され,フロベールの旅行記にあったように,売春宿もあったらしい。本書には他の章でもべデカーというドイツの旅行案内書,マレーというイギリスの案内書などについての言及もある。そんな近代観光にいたるまで考察されています。
7章はもう一人の編者ダンカンによるもの。ダンカンは1990年に現スリランカであるセイロン島のキャンディ王朝に関する研究書を出しており,この章もキャンディ王朝を題材にしている。セイロン島については,ノックス『セイロン島誌』平凡社(東洋文庫)をレポート課題図書にしていた。こちらは17世紀後半にセイロン島に漂着した若き英国人がキャンディ王朝に捕らえられ,19年後に脱出したという記録。本章の検討対象は19世紀後半以降の旅行記だが,やはり議論の仕方がグレゴリーよりダンカンの方が私には馴染みます。キャンディ王朝は1815年に英国の支配下に入っているので,本章は植民地としてのセイロン島に赴いた英国人の記録ということになる。異国情緒を感じながらもその土地の風景に英国らしさも求める。
8章は私なりに不十分な理解ながら,発見が多かった。19世紀末のギリシアを対象としているが,なぜギリシアがポストコロニアル視点に立ったトラベル・ライティング研究の対象となるのか。まあ,私の拙い知識でも考えれば分かる。ギリシアは古代にヨーロッパ的知性の基礎を築いたともいえるが,ヘレニズム文化やビザンツ帝国にも含まれ,徐々に西方に中心を移すヨーロッパにとっては東方=オリエントとも位置付けられる。バルカン半島はイスラームの影響下にあり,オスマン帝国の領土ともなる。この章では19世紀後半が論じられ,マレーの旅行案内書も登場する。ここには言及はないが1896年に近代オリンピックの第1回大会がアテネで開催されたが,その後1897年にクレタ島をめぐってトルコと戦争になり,1919年の本格的な戦争にまで続く。この章の最後には,ギリシアとアイルランドの奇妙な結びつきと題された節がある。
9章はマイケル・ブラウンという地理学者によるものだが,「クローゼットの地理学」なんて論文も書いていて,性的少数者の研究者のようだ。この章では,米国のゲイ作家ニール・ミラーの二つの作品(1989年と1992年)を論じているが,前半で精神分析と文芸批評についてや,クローゼット概念(性的少数者がそのアイデンティティをクローゼットにしまい込んだ状態からカミングアウトする)の解説などがある。ミラーについては日本での紹介もまだないようで,やはり理解は浅いが,ラカンやドゥルーズ・ガタリを用いて分析している。
最終章である10章は,初期のころから私が好んで読んでいる地理学者ジョアンナ・シャープによるもの。9章も現代作家の作品を取り上げたが,ここでは英国からフランスのプロバンスに移り住んで,プロバンスに関する著作を持つピーター・メイルを取り上げる。メイルについては取り上げられている1989年の作品は『南仏プロバンスの12か月』として,1991年の作品は『南仏プロバンスの木陰から』として翻訳されている。色々考えさせられる論文だったが,やはり消化不良。イギリスから見たフランス,都市と農村,旅行者・移住者・地元民,裕福で清潔な暮らしと農業労働など,こう書いてしまうと少し陳腐化した観光研究のテーマですが,シャープの手にかかると魅力的な議論です。でも,珍しくフェミニズム的観点は少なかったかも。
少し丁寧に読書日記を書こうと思って,いろいろ調べたら学ぶべきことが多かったです。本来なら調べながら読んだらもっと理解が深まるのだが,通勤電車の中でということなので,難しいですな。

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【映画日記】『雨を告げる漂流団地』『アイ・アム・マキモト』『千夜,一夜』

2022年101日(土)

調布シアタス 『雨を告げる漂流団地』
小学2年生の娘と2人で過ごす日。なかなか1日すごすのは難しい。映画はほんの2時間だが,電車で移動して,映画館のある街に行く。ランチをする。映画の前後に買い物をする,という諸々を含めるとけっこう1日つぶれるので,とても良い。この日は以前に少し娘が関心を示していた映画の予告編を見せると,やはり観たいというので,132分と彼女にとっては少し酷だが観に行くことにした。
上映時間の長さもあるが,子どもが主人公のアニメ映画なのに,客席に子どもの姿はあまりない。取り壊しが決まった,5階建てのいわゆる「マッチ箱」団地。取り壊しにより移転した2人の小学生を含む6人が主人公。自分の子どもたちはほとんどしないが,私たちの世代は,よく探検ごっこをしていた。主人公たちも,取り壊しでフェンスで囲まれた団地に忍び込む。すると,大雨が降ってその団地が漂流してしまうという珍奇な展開。それこそが子ども的な発想であり,もう少し短くして子ども用にしたらよいのに,と思ったが,途中の展開が古き良き時代の街の廃墟みたいな展開なので,ノスタルジー喚起の戦略なのだろうか。個人的には好きなストーリーだが,少し冗長な気もした。娘は一度トイレに立ったが,そこそこは楽しんだ様子。
https://www.netflix.com/jp/title/81328781

 

2022年109日(日)

立川シネマシティ 『アイ・アム・マキモト』
妻が息子と観たいといっていた作品で,前夜にウェブ予約を済ませていたが,当日の朝になって頭が痛いと言い出し,急遽私が行くことになった。私も観たいとは思っていたが,観てよかったと思える作品。イタリア映画のリメイクとのこと。ただ,日本では2008年に『おくりびと』という映画が米国アカデミー賞の外国語映画賞を受賞するなどし,舞台が山形県だったこともあり,その続編的な意味合いも感じる。『おくりびと』の人気に乗じて全国の役所(山形県のみという設定も可能)に担当課ができる。本作の舞台である山形県庄内市(実際には庄内町)でも「おみおくり課」ができたが,現在は担当職員は1人(主役の阿部サダヲの他に,でんでん演じる男性もでてくるが,課のスペースにいるのは阿部のみ)。最終的にはつぶされてしまう,そんな設定を思い起こしてしまう。
日本の映画には,ドキュメンタリーで優れたものが多いが,社会問題を告発するドキュメンタリー的要素を含む映画はあまり多くない(それでも,以前に比べると確実に増えてはいます)。そういう意味で,注目すべき本作。まず,ここをもう少し丁寧に描いてほしいが,主人公のマキモト(牧本)が発達障害のような特性を持っていて,その特性を活かした職場を市役所が提供していて,上司も一定の理解があるというところ。それから,全編を通じては孤独死の問題。それをさまざまなケースがあり,遺族との関係についても少し詳しく描いている。宇崎竜童演じる最後の人物についてはメインで描かれ,炭鉱における劣悪な労働環境,ホームレスの問題,それから少ししか描かれないがお墓の制度的な話。いろいろ考えさせられる要素が盛り込まれています。とはいえ,商業映画であり,それぞれの問題に対する掘り下げも欲しいところ。
なお,本作にはなかなかの俳優が多数出演しているのも見どころの一つ。個人的には宮沢りえと満島ひかりの共演というのは嬉しかった。あえて書くと,満島さんの演技が素晴らしかった。とはいえ,やはり阿部サダヲのはまり感が素晴らしい作品。息子も満足しておりました。
https://www.iammakimoto.jp/

 

吉祥寺アップリンク 『千夜,一夜』
この日は当初,妻と息子が午前中でかけ,私と娘がお昼に合流し,その後私が一人で映画を観に行く,ということだったが,息子と一緒に帰宅し,家で食事をしてから再び出かけることになった。選んだ映画は『しんぶん赤旗』に紹介されているのを読むまで知らなかった日本映画。田中裕子さん主演ということで,少し心躍る。共演は尾野真千子さんとか,魅力的な作品。
結局,予告編も観ることなく観に行った。冒頭,田中裕子演じる主人公は30年も失踪した夫を待ち続ける,ふさぎ込んだ面白みのない女性を印象付ける。それが映画が進むにつれてどんどん輝いてきて魅力的な人物に見えてくる。女優として女性として田中裕子の魅力を楽しめる作品。ちなみに,尾野真千子演じる女性も夫が疾走したということで,その先輩である主人公に相談してくるという設定。その辺りの不自然さを解消するように,舞台は新潟県の佐渡島に設定されている。明言はしていないが北朝鮮による拉致問題を根底にしている設定。しかし,本作ではその特殊な問題に切り込むのではなく,そうした問題を素朴に問い直すところに魅力がある。身近な人が特に理由もなくいなくなること。それを残された人間はどのように思い,感じ,悩み,行動するのか。近年は子どもの失踪(そのいくつかは結局事故に遭い,遺体で発見されているが)も多く,本作の問いかけは適用範囲が広い。こちらも田中裕子と尾野真千子という世代の違う女優二人の演技合戦も魅力。
https://bitters.co.jp/senyaichiya/#

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