Remaking Human Geography

Kobayashi,A. and Mackenzie, S. eds. 1989. Remaking Human Geography. Winchestre: Union Hyman, 273p.

なんとなく懐古主義で、地理学でかつて出た論文集を少しずつ買い集め、読んでいこうと思っている。値段との相談もあるが、まず購入したのが本書と『Horizens in Human Geography』。本書は大学できちんと読んだ記憶はないが、編者であるコバヤシの書いた9章だけは強烈に記憶にあって、風景・景観論の重要文献として再読する必要を感じていた。

改めて、序章から読んでみると、この論文集がきちんと私の記憶に残っていた理由がわかった。この本は理論的、方法論的、認識論的な一貫性を持って編集されていて、寄稿者たちも編者の意図に沿った形で書かれた文章を寄せている、という理想的な論文集だからである。日本の地理学ではこういう論文集は皆無といってよい。編者が2人とも女性研究者だというのも本書の大きな魅力の一つである。

さて、その理論的云々については、要するに1970年前後に英語圏地理学の大きな転換点となって2つの潮流である、人文主義地理学とマルクス主義地理学が、1980年代になると主にマルクス主義の立場から人文主義地理学に対する批判がなされるわけだが、1980年代後半になると単なる批判ではなく、それを乗り越えて新しい段階へということになり、本書はそういう文脈で編集されている。

人文主義とマルクス主義は、この頃ギデンズの構造化理論の影響もあり、主意主義と決定論という別の二元論としても語られるようになる。また別の表現でいえば、行為主体と構造という言い方もあり、本書でもそちらに重点を置いた論考もあります。日本でも1993年に雑誌『地理』で「社会地理学とその周辺」という特集を組み、私も記録係として参加した座談会などもあり、この雑誌がアカデミアにも多少協力していた時代でもあった。

本書の内容、および執筆者は以下の通りである。

序章:最近の社会地理学における人文主義と史的唯物論(コバヤシ, A.・マッケンジー, S.)

第一部:問題

1 リストラクチュアリングにおける社会的・経済的要請:地理学的視角(ブラッドバリィ, J.)

2 仕事と生活の関係を再構築する:環境的行為主体としての女性、地理学分析としてのフェミニズム(マッケンジー, S.)

3 理論、仮説、説明と行為:都市計画の事例(ウルフ, J. M.)

4 人文地理学における統合:史的唯物論の展開(ハリス, R.)

第二部:方法

5 定量的技術と人文主義-史的唯物論の視角(プラット, G.)

6 史的唯物論の理論と測定(フット, S.・リグビィ, D.・ウェバー, M.)

7 経済地理学における構造と主体、そして経済的価値の理論(バーンズ, T.)

8 反応的方法、地理的想像力、そして景観の研究(レルフ, E.)

9 弁証法的景観の批判(コバヤシ, A.)

第三部:方向性

10 人文主義の歴史的考察、地理学における史的唯物論(コスグローヴ, D.)

11 地理学における人文主義と史的唯物論の対話(セイヤー, A.)

12 人文地理学における理論に対する断片、一貫性、限界(レイ, D.)

これまた、読み終わってから随分と時間が経ってしまったので、詳細な説明はできませんが、印象深かった章を中心に書いていきましょう。

1章は、ドリーン・マッシィが『空間的分業』を出版したのが1984年だったと思うが、リストラクチュアリングという言葉が英国ではやったのもこの時期です。日本ではその後バブルの崩壊とともに、非常に否定的な意味で「リストラ」って言葉が流行りましたが。ちなみに、1章の著者は本書の出版を見ることなく亡くなってしまったらしく、冒頭に置かれているようです。

本書への寄稿者に女性が多いのは偶然ではない。もちろん、編者が女性ということもあるが、地理学における人文主義とマルクス主義が成熟するなかで欠けていたのがフェミニズムの視点であり、地理学でフェミニズムが盛り上がりを見せるようになったのも1980年代であり、本書ではフェミニズムが前面に強調されているわけではないが、重要である。まず、2章は編者の1人によるものだが、カナダでの調査事例に基づいた、家庭で仕事をする女性(子守から内職まで)の実態を報告している。

3章は打って変わって理論的な短い文章で、都市計画分野における人文主義-唯物論論争を取り上げている。まあ、都市計画をめぐっては、上からか下からか、専門家と地域住民、理論と実践など、最近は特に後者の重要性が強調されていますね。4章は「人文地理学の統合」なんてタイトルだから理論的なものかと思いきや、またこちらもカナダのキングストンが登場し、その新左翼運動の事例を通して考えるという内容。

第二部「方法」の冒頭論文である5章は、2004年に来日してお会いしたこともあるプラットさんの論文。人文主義もマルクス主義もどちらかというと、計量地理学に相対する形で質的な分析が強調されていたが、その両者における「量的技術」を取り上げるというのが彼女らしい。しかも、「技術」といいながらその根本思想に関わるもので、「原子論」や「還元」といった議論が展開されています。6章も続いて、史的唯物論における理論と計測ということで、カナダの産業、米国の鉄鋼業を事例に経済的な指標の計測を行っています。

7章は当時経済地理学における思想的な研究を進めていたバーンズによるもの。まさに「構造と主体」の問題をタイトルに掲げています。節のタイトルを列挙すると、「マルクスによる価値の労働理論」、「新古典派経済学」、「建築的および文脈的アプローチ」、「スラッファの無価値理論」と続く。スラッファという経済学者は知らなかった。

8章は『場所の現象学』などの著者として知られるレルフによる景観に関する論考。正直、邦訳されている2冊以外にきちんとレルフの文章を読んだことがないが、この章はかなり印象が違った。レルフの景観論は、美術史的な基礎を持つコスグローヴに対して、現象学に依拠する没歴史的な考えをするものだと思っていたが、この章では、コスグローヴも好んで取り上げるラスキンのほか、ハイデガーやヴィトゲンシュタインなども取り上げられる。芸術についてや、地理的想像力、「見る方法」などコスグローヴ的な用語が登場します。決してわかりやすい文章ではありませんが、新鮮でした。

9章が当初私の目当てだった、コバヤシによる論考。私は地理学における景観に関する理論的な論文をいくつか翻訳して本にできたらいいなあと密かに考えていますが、この文章を再読して強くその中に含みたいと思った次第。「弁証法的景観批判」というタイトルは、サルトルの『弁証法的理性批判』からきている。このサルトルのタイトルはもちろんカントの『純粋理性批判』からきているわけだが、その思想の系譜で景観も考える必要があるという短いながら、これまで地理学における景観論とはまた違った観点で非常に刺激的。

「方向性」と題された第三部に入りますが、10章も引き続き景観研究者のコスグローヴの執筆章。でも、景観がテーマではありません。コスグローヴはルネサンス期のイタリア研究者でもありますが、「人文主義」という概念の歴史的考察。なぜか1970年代の現象学に依拠した人文地理学に「人文主義」という呼称が使われたわけですが、そもそも「humanism」という言葉はウィキペディアによれば、「ルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。」と説明される。フランス人が多かったことから「ユマニスト」とカナ表記されます。まあ、「人間の本質を考察する」という点からすれば、1970年代の人文主義地理学に当てはまりそうですが、時代的な特異性を主張していて面白い。

11章は地理学者でありながら『社会科学における方法』という主著を持つセイヤーの文章。まだ、この本は読んでいませんが、最近彼の文章を読む機会が多い(最近の文章ではありませんが)。どの論文も哲学的考察が深くて難しいが刺激的。本書はそろそろまとめに入っていて、このセイヤーの章と12章のレイによる章が総括的な内容になっています。抽象的な議論が中心で、ちょっと内容を詳しく思い出せません。人文主義やマルクス主義の盛り上がりを側で見ていたセイヤーと、人文主義地理学を、トゥアンやレルフとは別のルーツから推し進めた社会地理学者であった当事者であるレイによる回顧というところが面白い。

編者たちによるあとがきなどはありませんが、本当によく編集されている論文集だと改めて思う。これは編者の力量によるところも大きいですが、やはり編者の求めに応じてこれだけの文章を寄せられる英語圏地理学の層の厚さを改めて実感する読書でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近代フランスの歴史

谷川 稔・渡辺和行編 2006. 『近代フランスの歴史――国民国家形成の彼方に』ミネルヴァ書房,366p.,3200円.

先日、宮島 喬さんの本を紹介したが、同じ講義の昨年度の同じ時期に購入したのが本書。エスニシティの話をするのにやはりEUの話をしなくてはならないと思ったが、ヨーロッパ全体となると範囲が広すぎるので、一つに国に絞ろうと思った結果思いついたのがフランス。しかし、本書を購入したものの、冬休みに読もうと思っていたものの、結局読めずじまいで、1年後に読むことになった。

本書は1993年に出版された服部春彦・谷川 稔編『フランス近代史』の全面改訂新版ということのようだ。

序章 「近代フランスの歴史」が投げかけるもの(谷川 稔)

第Ⅰ部 国民国家の成立と展開

第一章 〈アンシアン・レジーム〉のフランスとヨーロッパ(高澤紀恵)

第二章 フランス革命とナポレオン帝政(谷川 稔/上垣 豊)

第三章 カトリック王政からブルジョワ王政へ(上垣 豊)

第四章 社会共和国の夢から産業帝政へ(谷川 稔)

第五章 対独敗戦から急進共和国へ(長井伸仁)

第六章 ふたつの世界大戦とフランス社会(渡辺和行)

第七章 第二次世界大戦後の政治と社会(中山洋平)

第Ⅱ部 もうひとつの近代フランス

第八章 女・男・子どもの関係史(長谷川まゆ帆)

第九章 植民地帝国フランス(平野千菓子)

第十章 移民と外国人のフランス(渡辺和行)

第十一章 フランス「国民経済」の発展と変容(中島俊克)

終章 二一世紀のフランス(渡辺和行)

以前にイスラーム史の概説書も紹介したが、こちらも各章を異なる著者が分担してはいるが、一冊読むとフランスの通史がわかるという意味では非常に堅い教科書的な本であり、読み終えるまでに時間がかかった。

もちろん、こういう本は一読して全て頭に入るわけではなく、必要に応じてまた読み返すといった辞書的な意味もあるのだと思うが、得るところは大きかった。読み終えてからだいぶ時間が経ってしまって、具体的なことはあまり書けないが。

近代期のフランスの話は文化史的な研究書で結構触れてきたつもりだが、政治史となるとなかなかすっと頭に入ってこない。そもそも、フランス革命という世界史的に大きな歴史の舞台となったフランスなのにすぐに王政復古だの、ナポレオン帝政だのがやってきて、本当にフランス革命が民主革命なのかと思ってしまう。まあ、ただ単にブルジョワ革命だということかもしれないが。ともかく、複雑すぎて簡単には理解できない。イギリスとの関係、ドイツとの関係、二度の世界大戦におけるフランスの立ち位置ということに関しても、本書でその複雑さを知るたびに余計スッキリとは理解できなくなってくる。

アブー=ルゴド『ヨーロッパ派遣以前』を読んでから、ヨーロッパの歴史だけ学んでもしょうがないと思う一方で、こういう本を読むと、ヨーロッパだけでもなかなか十分な理解にたどり着けない、と思ってしまう。もう私も50歳を間近にして、こんなことでよいのだろうかと思ってしまう次第。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

多文化であることとは

宮島 崇 2014. 『多文化であることとは――新しい市民社会の条件』岩波書店,279p.,2300円.

某大学の非常勤で、エスニシティをテーマにした社会学の講義をしているが、今年度のまとめの話をどうしようかということで、選んだ本が本書。社会学の講義ということで、ブルデューの話はあまりしていないが、デュルケームの話はしているし、書店で見かけた時にシティズンシップの話など、重要な論点を話していないし、ヨーロッパの事例についても話はしていないので、本書は丁度良いと思った。

岩波現代全書の1冊ということで、著者もはしがきで「本書は研究書ではないので、自分の認識や訴えたいことを少し自由に書かせてもらった」とある。しかし、長年研究書を書いてきた著者だから自由な記述はほんの「少し」に過ぎなかった印象。私自身はあまり宮島社会学を読んでこなかったが、本書は彼のこれまでの研究のエッセンスが詰まっているようにも感じた。

序章 多文化であることとは

第1章 多文化あるいは差異の社会学

第2章 多文化シティズンシップへ――国籍を相対化する

第3章 マイノリティと差異の承認

第4章 多文化アプローチの行方とヨーロッパの移民マイノリティ

第5章 ジェンダーと文化

第6章 マイグレーションと子ども――「子どもの権利」の視点から

第7章 日本社会の国際化、多文化化

第8章 「多文化」の現在――共生が進むか、ナショナリズムへの反転か

エスニシティに関する議論というものは近年理論的な議論が進展していて、○○人や△△民族というカテゴリーを所与のものとはできない状況にある。しかし、いざ具体的な事例となると結局は○○人や△△民族という語が当たり前のように出てきてしまい、その複雑な状況をできるだけわかりやすく説明することに終始しがちのように感じる。

本書でも事例は多く登場するが、その歴史的な経緯を詳しく説明することより、将来的にどうすれば解決できるのかという糸口を探そうというスタンスなので、認識論的な立場がしっかりしている。そして、自身の研究としてはヨーロッパを基礎としながらもその経験を活かして、日本での状況を将来を見据えて理解し、解決していこうという著者の姿勢は素晴らしいと思う。

シティズンシップとは、私が最近読んだテッサ・モーリス=スズキのいくつかの著書にも登場したが、いわゆる市民権civil rightsとは違うようだ。ヨーロッパでいうところの市民権は、日本でいう国籍と近い概念だと思うが、シティズンシップとは生活者の権利である。もちろんそれは政治的権利であるが、狭い意味での政治ではなく、広い意味での政治。国政でいうと、よく納税の義務と参政の権利というが、多くの国で外国人は納税の義務は課せられるが、参政権は与えられていない。それは国家というのが国民のものである限り、国の行く末を決める議決権を外国人にも与えるということ自体が国民国家という理念に合わないからだと思う。

しかし、国政ではなく、地方政治ということを考えると、労働移民であっても、かれらは労働者であるだけでなく、生活者でもある。国の行く末に意見する必要性は感じなくても、地方行政に外国人の意見が反映されるべきといいう考えは、国民国家の理念と相容れないものではないと思う。まあ、この辺のことは私の理解の範囲で書いていることだが、近年シティズンシップが注目されるというのはそういうことらしい。

ともかく、学ぶことの多い読書でした。宮島社会学もきちんと学ばなくてはと思った次第。しかし、デュルケームからブルデューまで、フランス社会学に半生を捧げ、フィールドとしてもヨーロッパと向き合ってきた著者ですから、その枠組みから抜け出ることが難しいのは確か。本書でも、ヨーロッパ至上主義的な立場は取らないといいながらも、ここかしこに先進的なヨーロッパの思想や実践から日本が学ぶことは多いといった類の記述がみられる。もちろん、著者は漠然としたヨーロッパ思想の信仰者ではなく、具体的なヨーロッパ人研究者の学説を検討してきたわけだから、話は単純ではなく、自身が最も精通している観点から物事をみるというのは決して間違ったことではない。ただ、読者がそうした著者の立場を少しでも理解した上で、本書の主張も単純化せずに捉えることが必要なのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

キャラクター文化入門

暮沢剛巳 2010. 『キャラクター文化入門』NTT出版,226p.,1800円.

このblogでもお知らせしましたが、今年に入ってとある研究会で一度報告する機会があった。その報告内容は自主的に決めたものではなく、研究者の知人との飲み会のなかでなぜか一方的に決められたもの。私がアニメを題材に話をすることになったのだ。もちろん、このblogで書いているように、個人的な趣味として映画は好きだし、アニメ作品を避けるような人間ではない。しかし、アニメ作品を積極的に観るわけではない。ただ、その飲み会の席で上映前の『君の名は。』の話で盛り上がり、新海 誠作品はこれまで比較的観ていたので、その研究会は『言の葉の庭』の上映会+私の話少しということになった。

上映を主とするにしても、その後の議論として何も題材がないのではしょうがないので、新海作品のクラウドスケープを論じた加藤幹郎『表象と批評』はすでに抑えてあったが、他にいくつか事前に読もうと思って、思いついたのが本書。

著者の暮沢さんは現代美術の批評家として名高い。私もたまたま彼を知っていくつか著書も読んだことがある。『アートピック・サイト』という2010年の著作は芸術(アート)を場所(トポス)と関連づけたもの。『「風景」という虚構』という2005年の著作はタイトル通り風景論、ということで非常に地理学に親和性のある批評家ということで、一方的に親近感を持っている。

そういえば、彼がキャラクターに関する本を書いていたなと思い出し、Amazonで調べると、「なか見!検索⤵︎」があったので、確認するとやはり「セカイ系」についても論じられていた、ということで迷わず購入。私自身は「セカイ系」なることばんも知らなかったのだが、上述した飲み会の席で、私にアニメ論を進めた人物が新海作品を「セカイ系」と表現していて、気になっていた言葉。

第一章 キャラクターとは何か

第二章 キミとセカイの戦いでは、世界を支援せよ――セカイ系とキャラクター

第三章 インターフェイスとしてにのキャラクター――オタク文化とヤンキー文化

第四章 現在のキャラクターたち

おわりに

本書は当然現代美術批評ではない。そして単なるアニメ論ではない。著者はどうやらこの領域にかなり精通しているようで、取り上げられるのはアニメだけでなく、マンガ、ライトノベル、ゲームまでが中心であり、第二章で論じられる。この個人的趣味を、単なる評論ではなく、ある意味学術的な論証に耐えうる議論にまで高めようとする評論とするべく、第一章がある。そこでは、大塚英志や東 浩紀などの議論を丁寧に辿っている。そこで一つ納得したのは、「キャラ」と「キャラクター」とを分ける伊藤剛の議論。その著書『テヅカ・イズ・デッド』という書名は知っていたけど、そのなかの議論らしい。「キャラ」というのはいつから巷に流通している言葉か分からないが、確かに「キャラクター」という本来の意味が形骸化して、それだけで独立した語として成立しているという感覚はあった。例えば、ディズニーのミッキーマウスなどは本来はアニメの中できちんとした人格を持ったネズミだ。日本でもかつては輸入アニメとして放映され、それを通して人々はミッキーの魅力に惹かれていたのだと思う。しかし、私たち以降の世代はアニメをきちんと観ることもなく、ディズニーランドや各種商品に登場する図像だけのミッキーを愛している(私は愛していませんが)。その日本製といえばサンリオのキャラクターだ。こちらもおそらくかつてはアニメのようなストーリーがあったのだろうが、ともかく表情がないその図像は多様な人格を表現するのに適しているとは言い難い。

第二章がセカイ系の解説に当てられる。まあ、この言葉を聞いた時に『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発するものだという想像はできていたが、世間ではその通りらしい。私の場合、『エヴァ』は新劇場版を1作観ただけだから、何が新しいのかよく理解できていないが、新海誠の『雲のむこう、約束の場所』と実写版映画の『最終兵器彼女』は観ていたので、なんとなくは理解できた。私のような人間は『エヴァ』を『機動戦士ガンダム』のパクリだと思ってしまうのだが、ガンダムがなぜ幼い少年少女たちが世界戦争に巻き込まれるのかというところを丁寧に描いて状況設定をしているのに対し、その辺の物語的な周到さを省略してしまった上で作品が成立するというのが、ある意味でまさにリオタール的なポストモダンと言えるのかもしれない。

第三章は独自の路線を走っていく。正当なアニメ研究の流れのキャラクター論では取り上げられないような展開。アニメといえばオタク文化だが、オタク文化の対極にも位置付けられそうな、ヤンキー文化を取り上げ、キャラクターという共通項で2つの文化の共通性を見出す。その具体例が痛車とパチンコ。第四章は最近話題の聖地巡礼や男の娘などを取り上げ、現在の状況を確認している。相変わらず、暮沢さんの本は発想が豊かで、読者のことを考えつつ、その予想を超えていくような展開で刺激的です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自然の死

キャロリン・マーチャント著、団まりな・垂水雄二・樋口祐子訳 1985. 『自然の死――』工作舎、683p.、3800円.

本書の存在は、トゥアン『個人空間の誕生』を読んだ時に発見して驚いたのか、ハラウェウィ『猿と女とサイボーグ』の一部を再読した時に発見したのか忘れたが、ともかく1980年に原著が出版され、それがいち早く1985年に翻訳されていたという事実に驚いた。

しかも、壮大なる大著でありながら、一気に読み終えてしまい、なぜ本著のような名著をこれまで私が知らなかったのかということもまた驚き。少なくとも、そう頻繁に引用される本ではない。自然の地理学に関心を持ち、場所論の関係からフェミニズムの著作もそこそこ読み、講義の関係で科学史についても勉強している私だが、これまで断片的に学んだいたことは本書にほぼ網羅されているといっても良い。個人的にはサイモン・シャーマ『風景と記憶』に匹敵する読書体験だった。

序(フリッチョフ・カプラ)

はじめに――女とエコロジー

第一章 女としての自然――はぐくむ地球

第二章 農地・沼地・森林――ヨーロッパの生態の変遷

第三章 有機的社会とユートピア――カンパネラ・アンドレーエ・カレンバック

第四章 生き物としての世界――ルネサンスの有機体哲学

第五章 無秩序としての自然――女と魔女

第六章 生産・生殖と女――受動的役割への転換

第七章 自然を支配する――科学技術と家父長制

第八章 機械論的な秩序――自然・社会・人間の新しい統一モデル

第九章 権力としての機械論――一七世紀の科学技術

第十章 自然の管理――人間優位の環境保護

第十一章 自然を論じた女たち――アン・コンウェイと哲学的フェミニストたち

第十二章 ライプニツとニュートン――生命論をめぐって

エピローグ

さて、先に結論めいたことを書いてしまったが、本書の内容に関しては、詳細な目次で大筋が理解できる。ただ、本書の魅力は、一般的に言われているmother natureやmother earthという言葉から連想される自然と女性との関係を、一枚岩的ではなく複雑なものとして、静態的なものではなく動態的なものとして捉えているところにある。こうした単純な観念はより深く論理的に思考すると、必ずそこに矛盾を孕んでいるものである(例えば、政治思想における左派と右派のように)。

まあ、ともかく短い言葉では説明しきれない内容だからこそ、600ページの文字を費やして記述しているわけで、私が少ない言葉で説明することこそが本書の魅力を損なうことになってしまう。ということで、科学を志すものであれば読むべき本。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

今年に入って観た映画

2017年2月1日(水)

新宿シネマート 『太陽の下で

映画サービスデイに何を観るかと悩み、時間的にもちょうどよかった北朝鮮のドキュメンタリーを選択。ロシアの映画監督が北朝鮮の日常を描くために企画するが、その台本は北朝鮮政府当局が書き、北朝鮮によって演出がなされるといった内容。ドキュメンタリー映画でありながら、北朝鮮の演出家が度々登場し、「ああじゃない、こうじゃない」と指示を出し、やり直しをさせる。

よくメディアなどでも登場する北朝鮮のマスゲームなどに代表されるように、北朝鮮という国は国民全体に対する厳しい統制がなされているという印象を私たちは持っている。この映画はその印象を確実なものにするが、一方では私たちの生活そのものを問い直すことにもなる。

社会学で「役割論」とか「演劇論(ドラマトゥルギー)」という議論があるが、私たちは社会の一員として何かしらの役割を演じることで成員として認められるという。北朝鮮の状態は特異なものだと私たちは思いがちだが、果たしてそうであろうか、また北朝鮮の国民は不幸で、私たちは自由を謳歌していると思いがちだが、果たしてそうであろうか、そういうことを考えさせる映画だと思う。

2017年2月9日(木)

立川シネマシティ 『未来を花束にして

キャリー・マリガン主演ということで、早速前売り券を購入。観終わって、やはり彼女は今私が一番好きな女優だと確信。ヘレナ・ボナム=カーターも主要な人物として出演しているが、最近ティム・バートン監督作品ばかり出ているが、昔はこうした英国の歴史作品に出ていたなあと思い出す。歳は取りましたが、いい味を出しています。メリル・ストリープの出演を知った時は「うーん」と思いましたが、ちょい役だったのでよかった。主人公の夫役にベン・ウィショーが配役されていることも贅沢。

本作は、英国で女性の参政権が獲得されるまでの女性運動を描いています。しかも、当初そうした運動は平和的に行われていましたが、なかなか耳を貸さない男性たちに対して徐々に暴力に訴えていくその段階を中心に描いているところが今日的な映画に仕上がっています。女性たちは街中でテロ行為を繰り返します。といっても、一般市民を犠牲にしないという細心の注意を払って、やることといったら郵便ポストの爆破などと小規模なものですが、最後に描かれるのはちょっとした自爆テロ。こちらも自分は亡くなったがそのほかの犠牲は競走馬ちょジョッキーの負傷といった規模のもの。

しかし、それらを観るにつれ、現代のテロを思い起こさずにはいられません。当時の女性たちは言葉で説明しても聞いてもらえない、ということから世間の注目を浴びるためにテロ行為を行うわけです。しかも、人命に関わるような大きな行為はそれこそ最終手段。そもそも社会の半分を占める成員の声をなぜ聞こうとしないのか、と今日から考えると不思議なことですが、これを英国社会から、全世界に思考を拡張してみましょう。世界の半分がイスラーム教徒とはいいませんが、キリスト教徒の割合と比較しても少ないなんてことはない。しかし、世界はキリスト教を基礎とする欧米によって支配されている。男女の対立をキリスト教 対 イスラーム教に当てはめるのは強引ですが、ともかく「対テロ戦争」とか「テロの封じ込め」というのはまさにこの映画で警察による女性運動の取り締まりと同じように思えます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

テキヤ稼業のフォークロア

厚 香苗 2012. 『テキヤ稼業のフォークロア』青弓社,165p.,3000円.

私がよく参加する研究会の報告者として招かれたのが本書の著者。その研究会は日本地理学会の研究グループだが,最近は分野内での報告者が不足しているのか,他分野から報告者を呼んで,分野間ネットワークを広くするということに研究会の場が利用される雰囲気もある。

著者は民俗学の研究者である。私は民俗学にはなぜかあまり興味をそそられず(人類学も同様だが),これまできちんと読んでこなかった。地理学研究者の中には,非常に民俗学に近いところで仕事をしている人も多いのだが。

しかし,人の話を聞くのであれば,簡単だということで,報告を聞きに行った。当日は水上生活者の話だったが,それまでは継続して東京下町のテキヤの研究をしていたということで,本書ともう一冊新書を執筆している。ということで,読んでみました。

序章 露店のなかへ

第1章 テキヤの社会――集団構造とその維持原理

第2章 一人前の商人になる――名乗り名の継承方法と機能

第3章 縄張りを使う――商圏の運用と地域社会

第4章 健忘録テイタを読む――記録される祝祭空間

終章 民間伝承の力

200ページに満たない本ではありますが,内容は非常に濃密です。本書の内容は学位論文とのことだが,学位論文らしい難解さがあまり解消されないまま単行本になった印象は否めない。テキヤというのはいわゆるお祭りの時や,境内に出店する露天商を営む人たちのことだが,本書は「テキヤ=ヤクザ」のような単純なステレオタイプを否定し,アカデミックの場でもきちんと理解されていない人々についてより正確に理解しようという試みだから,分かりやすい説明はできないのかもしれない。あるいは,本書はあくまでも民俗学特有の文体で書かれているだけで,それに馴染みのない私のような読者にとって読みにくいのかも知れませんが。

著者は東京下町で育ち,日常的にテキヤに接して暮らしていたという。本書の中に書かれている著者の経歴もなかなか複雑で,その部分はある研究者の個人誌としても楽しめる。テキヤという人たちは社会の中でそれなりに観察される人たちである。そうした人たちの社会の仕組みを本書で理解できるわけだが,ある意味時代錯誤というか,にわかに現代でもそういう生活をしている人がいるというのが信じられなかったりする。でも,社会というのは私たちが理解する以上に複雑で,私たちの身近な空間でさえも,理解の及ばない信念,知識,思考,行動などを有する集団たちがいるということを改めて考えさせてくれる本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

都道府県名と国名の起源

吉崎正松 1985. 『都道府県名と国名の起源』古今書院、169p.、2500円.

林 正巳『府県合併とその背景』を購入しようとAmazonで検索している時に見つけた本。地理学に属していながら、古今書院から出版されたのに知らない本はいっぱいあります。

しかも、都道府県名の研究をしようというのに本書を知らずに投稿していたら大変なことになっていた。本書のことを知らずに、私は47都道府県名の起源を調べるために『角川日本地名大辞典』の各巻で少しずつ調べていた。

作業の途中で本書を見つけ、とりあえず第一弾として投稿する予定の論文では本書の成果を利用させていただくことにした。本書はまさに書名通り、都道府県名と旧国名の起源についての諸説を整理したものであり、目次を示すのはあまり意味がないが、以下の通りである。

一、わが国の地名の研究

二、わが国の地方行政区画名の起源

三、各説

 1 都道府県名の起源

 2 国名の起源

参考文献

あとがき

本書で著者は、「地名を表わすのに,地名の語義に相応する漢字の字訓を用いたものもあるが,そうではなく,単に漢字の字音を当てたものがはなはだ多い」(p.2)という認識に立つ。私たちは名前に込められた意味を、用いられた漢字に求めがちである。しかし、著者によればもっとも継続するのはその読みであり、漢字の読み方も頻繁に変わり、当て字も非常に多いという。

本書は書名に「起源」とつけているが、特定の地名に対して単一の起源を探求するというものではない。特に地名の起源は結局よく分からないというものが多く、本書では、新旧様々な説を列記し、新説から旧説への批判や同調などについても、冷静に記述する。ある意味、価値中立的な立場で自らどの説が有力だと判断することを目的としていない。

そもそも歴史考証的な地名研究は、各時代でなされ、それが歴史的に積み重ねられる。現代に近づくほどその考証は正確なものとはなると思うが、現代において、特定の地名に関する史料が、ある時代になされた歴史的研究しか存在しないとなると、それを信用すべきか否か、地名研究とは思ったよりもなかなか難しいものであるということがわかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

昨年観た映画報告終了

2016年12月29日

新宿テアトル 『この世界の片隅に

前日も新宿に映画を観にきていたので、テアトル新宿にもちょこっと寄って観ましたが、なんと立ち見が出るほどの混雑ぶり。舞台挨拶などあったのかと確認したがないようなので、劇場スタッフに聞いてみたら、平日でもかなり席が埋まっているとのこと。その場で座席指定をしておこうと考えたが、新宿のチケット屋を回っても前売り券を購入することができず、やむなく帰宅してからネットで予約。1800円の通常料金でした。

まあ、本作は『君の名は。』についでロングランで話題になっていますから、細かい解説は必要ありませんが、やはり観て良かったと思える作品でした。あまり前情報を入れませんでしたが、広島から呉へ嫁に行った女性の物語です。呉は軍港ですから、空襲という意味では広島よりも集中的であったということ、爆心地から少し離れた呉という土地から原爆を体験すること。そういう、細かいところまで私自身が知ろうとはしていなかったことを反省させられる内容です。

新宿武蔵野館 『アズミ・ハルコは行方不明

蒼井 優主演作ということで魅力的でしたが、加えて高畑充希も出演しているということで、観に行った。観終わった後は、うーんというイマイチな印象でしたが、内外を含め保守的な映画表現のなかで、ある意味挑戦的な映画だといえるかもしれません。若者の暴走(?)がテーマかといえばそうでもないし、何か社会問題的なものを訴えているかといえばそうでもない。登場人物が魅力的な人間でもないし、どこかに物語のピークがあるわけでもない。かといって、くだらない日常を淡々と描くわけでもない。まあ、捉えどころのない映画といったらいいでしょうか。とはいえ、原作があるんですね。読んでみたいような、みたくないような。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

大衆文化、地政学、同一性

Jason Dittimer 2010. Popular culture, geopolitics & identity. Roman & Littlefield, 179p.

やばい、やばい。本格的に日本の出版界に「地政学」の波が押し寄せている。私も関わった地理学者の地政学入門書が翻訳されたが(フリント『現代地政学』)、ランドパワーやシーパワーといった古典的地政学の枠組みで現代のグローバル世界を理解しよう、理解させようという動きが強さを増している。

10年前くらいは米国で地政学を学んできたという奥山真司の存在が危ないと思っていたが、今ではそんな個人はどうでもいいというような勢いを見せている。一方で、佐藤 優という個人は地政学に限られない現代世界のご意見番的な個人も出てきて、日本では弱小の学問である地理学がいくら真っ当な意見をいっても聞き入れられないだろう。まあ、それは日本だけでの話でもなさそうな気がする。

それはともかく、オートゥーホールの『批判地政学』が出たのが1996年、それ以前からジョアンナ・シャープは「大衆地政学」を主張していて、私も1994年の論文ではそれに着目していたので、本書も10年前に出ていたら私もすかさず書評を書かねばならなかっただろう。まあ、本書のことを知った時、やはり書評を書こうと読みがら書き進めてはいたのだが、途中で読むのも断念してしまって、既に6年が経過してしまった次第。

まえがき

序章:大衆文化――プロパガンダと娯楽の間

1 地政学:歴史、言説、調停

2 大衆文化:理論、方法、間テクスト性

3 場所と大英帝国の表象

4 第二次世界大戦後の米国における国民の語り

5 情動、体現、戦闘ヴィデオ・ゲーム

6 行動的観衆と福音的地政学

7 覇権、サバルタン・スタディーズ、ニュー・メディア

8 結語:アイデンティティ、主観性、そして先へ

冒頭からなかなか面白い。「初版への前書き」とあり、注釈に「私は生来楽観的な人間である」とある。こういうのは普通、2版が出た後に、初版の前書きのタイトルが変更されるものである。著者は自信を持ったこの著書が、評判になり版を重ねるということを予想しているということだ。実際、その後6年経ったがどうなったのだろう。この前書き自体も、自分がなぜこのような研究をするようになったのかという経緯が率直に書かれていて面白い。

とはいえ、中身は目次からもある程度わかるように、いたって教科書的な内容である。1章では地政学の歴史が概観され、2章では大衆文化と題し、カルチュラル・スタディーズで学ぶような事柄が一通り説明されている。フランクフルト学派、グラムシ、フーコー、ド・セルトー、精神分析、内容分析や民族誌まで幅広いです。

3章からは各論という感じで、これまた人文地理学で話題のテーマに沿って、地政学のテーマとなりえる事例を交えて論じていくというスタイル。1990年代に流行った「BOX」もあります(本文中に組み込まれたキーワードの解説文)。3章は少し古い1990年代に人文地理学を席巻した「表象」概念。最近著書が翻訳された英国の地理学者クラウス・ドッズの地政学研究を参照することで、『007』の分析や、風刺画の分析が紹介されます。この風刺画家はスティーヴ・ベルといいますが、以前もジリアン・ローズがオープン・ユニバーシティの地理学の教科書でベルの風刺画を取り上げたことがありました。英国では有名なんですかね。ベルの風刺の対象はフォークランド紛争。フォークランド紛争についてはほとんど知識がなく、理解できなかった。知るべきことはとても多い。

4章のテーマは「語り」ということですが、まあ「表象」概念の延長ですね。こちらでは英国に続いて米国が事例で、自らが手がけてきたアメリカン・コミックとして、『キャプテン・アメリカ』を取り上げています。

5章になると、少し新しいテーマとして「情動」が登場します。個人的には大衆地政学は表象概念で論じるにはふさわしいが、その後、表象概念への批判から展開していくことになる人文地理学のテーマで議論をするのは難しいと感じている。なので、本書のこの展開に期待する一方で、本当に上手くいくのかという疑問もある。確かに、情動というテーマと、5章の事例である「ヴィデオ・ゲーム」とは相性がいいように思う。近年の戦争とヴィデオ・ゲームの関係というのは大衆レベルでも議論されている問題だが、本書ではそういったジャーナリズム的観点はなるべく避けようとしているように感じた。しかし、この事例が情動というものに深く探求しているかというとちょっと疑問。

6章では、カルチュラル・スタディーズのメディア研究以降の主たる流れとしてのオーディエンス研究とその方法論としての民族誌が登場する。事例はイスラエル・パレスチナの地図が2枚ほど掲載されおり、中東問題である。とわかったように書いているが、今となってはどんなことが議論されていたのかもきちんと思い出せない。確か、中東関係はグローバル・メディア企業の報道に操作されているという見解が一昔前にはあったが、SNSの発展した今日では、現地の一般人のblogがメディア報道とは異なった事実を発信し、注目されるということが書かれていたと思う。そうした話のどこが「福音的地政学」と呼ぶべきものなのか、まで理解していない。

7章ではサバルタン・スタディーズが登場する。主にスピヴァックによって有名になったサバルタン・スタディーズであり、そもそもがポスト植民地的な意味合いにおいて地理学にも親和性が高いと思うが、その本格的な地理学研究は読んだことがない。本書ではメキシコの地図や、映画『イラク 狼の谷』のポスターなどが掲載されているが、やはり本章も私の中では上手く咀嚼できていない。

本書のように、新しいうちに読み始める英語の本は、まずは翻訳できるかどうか、翻訳に値するかどうかという判断をする。それとは別に、書評を書けるかどうかを判断するわけだが、本書は翻訳しようとは思わなかった。まあ、私の力がそれに達していないという判断も含めてだが。で、書評くらいは書きたいと思いながらも、日常に追われて結局読むのをやめてしまったわけだ。まあ、いつも通りではあるが、自分の怠惰を感じさせられる読書でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«ドフトエフスキイ論