映画がなかなか観られません...

201933日(日)

府中TOHOシネマズ 『映画ドラえもん のび太の月面探査記』
今回は脚本が辻村深月ということで,少し楽しみにしていた。とはいえ,彼女の作品を読んだことはないし,映像化されたものを観たこともない。とはいえ,前回の川村元気氏の脚本はイマイチだったので,小説家による脚本というのを期待した。しかし,観終わった感は同じような感じでしたね。やたらと展開が速く,スペクタクル満載で,細かく考えると腑に落ちないハッピーエンド。ドラえもんの映画が原作者の手を離れてどのくらいたったかは分からないが(ちなみに,藤子・F・不二雄こと,藤本 弘さんは1996年に亡くなっているとのこと),多くの人の手によって作られるこの種の映画を路線変更するのは難しのだろうか。個人的には2時間(子ども向けアニメは2時間未満のものが多いが)に詰め込むようなものではなく,普段112分程度のものを膨らませていくという発想の転換をしてほしい。
https://doraeiga.com/2019/

 

201947日(日)

恵比寿ガーデンシネマ 『たちあがる女』
ある日,映画に行こうと思って,最近の私のお気に入りである吉祥寺アップリンクのスケジュールを確認している時に発見した作品。残念ながら,その日は予定変更で行けなかったが,この日は逆に予定変更で午前中が自由になったので,午後の予定に合わせて恵比寿で鑑賞。アイスランド映画です。グローバル化の波のなかで事業拡大をもくろむ製鉄会社を,政府も外国資本の投資受け入れという形で推進している。しかし,その企業の活動は豊かなアイスランドの自然を破壊すると危機を感じた一人の中年女性が立ち上がり,営業妨害のテロ活動を一人でひっそりと行っている。政府はある組織による抵抗勢力と認識し,監視の目を光らせる。
最終的には女性は逮捕され,活動は中断されるが,別の次元でのハッピーエンドを迎える。この映画の面白いところは,彼女の活動を支持する人がほとんどいないことだ。唯一,彼女をかくまう一人の男性が登場するが,それは決して彼女の行為自体を支持しているわけではない。かといって,彼女は孤立するわけでもない(もともと孤高の存在)ところも面白い。とはいえ,私が期待していたような面白さではなかった気もする。
http://www.transformer.co.jp/m/tachiagaru/

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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編7)

Gratton, C. and Preuss, H. (2008): “Maximizing Olympic Impacts by Building Up Legacies”, The International Journal of the History of Sports 25 (14): 1922-1938.
以前から名前をよく見るPreuss氏の論文をようやく入手。レガシーキューブというのは先日紹介した川辺謙一『オリンピックと東京改造』で登場したのを初めて見たが,出典は示されていなかった。すると,この論文に全く同じ図版で登場します。こちらにも直接の出典は示されていないが,Cashmanという人の2000年シドニー大会に関する2005年の著作についての説明の中に出てくるので,こちらがオリジナルだろうか。あるいはもっと一般的に知られている図式だろうか。ともかく,「レガシー」なるものを計画的/偶発的,ポジティブ/ネガティブ,有形/無形という3次元で捉えようとするもの。この論文ではイベント前後の時期を5つに分け,「イベント構造」なるものを6つの項目で整理します。時期:1.着想と実行可能性,2.招致過程,3.建設とイベントの組織化,4.イベント開催,5.イベント・レガシー。項目:1.インフラストラクチュア,2.知識・技術開発・教育,3.イメージ,4.感情,5.ネットワーク,6.文化。この論文での事例研究はオリンピックではなく,2002年にマンチェスターで開催されたコモンウェルス大会です。都市開発の規模としてはオリンピックとそう大差はないが,グローバルな規模での報道などの発信としては比べ物にならない。最後の文章が興味深いので引用しましょう。「開催国政府はオリンピック大会を開催した場合の真のレガシー効果を真の意味での科学的に評価することを歓迎しない政治的立場がある。」(p.1933)

 

Olds, K. (1998): “Urban Mega-Events, Evictions and Housing Rights: The Canadian Case”, Current Issues in Tourism 1 (1): 2-46.
ようやく入手した論文。この雑誌のこの年次のものを所蔵する大学は2つしかなく,そのうち1大学には地理学者が在籍していたので,はじめましてのメールで依頼をしたところ,快諾してくれて入手。ありがたいです。著者のOldsはカナダの地理学者Leyとの共著で万国博覧会の論文があり,大学院時代に読んでいた。そんな彼がオリンピック関連の論文も書いていることを知ったのはCOHREの報告書を通じてであったが,その報告書が2007年であることを考えると,1998年の段階でこのテーマで書かれたこの論文はかなり先駆的だといえる。
本論文はオリンピックだけでなく,カナダで開催されたメガイベント,1986年のバンクーバー万博,1988年のカルガリー冬季オリンピック大会,そして1996年の夏季オリンピック大会はトロントが招致活動をしていて,これら3つのイベントを考察対象としている。
バンクーバーは2010年に冬季オリンピック大会が開催され,ボイコフの研究でも反オリンピック活動が盛んだった大会で知られる。1986年の万博における貧困層の立ち退きが激しかったということがこの論文で分かり,2010年につながっていくのだと理解できる。カナダも連邦国家だが,居住権に関する法律は州によって異なるようだ。バンクーバーの位置するブリティッシュコロンビア州と,カルガリーのあるアルバータ州とでは,アルバータ州の方が借主に厳しい。日本では賃貸住宅を想像するが,カナダではホテル住まいの人の話が多い。日本でいう日雇い労働者たちが住まう簡易宿泊所のようなものだろうか。でも,カルガリーの話では比較的高級なホテルの話も出てくる。ともかく,ダウンタウンではホテルに常住している人たちが多いのだろうか。メガイベントの決定によって家賃が一時的に上げられたり,観光客のためにリノベーションするという理由で追い出したりということがなされたようだ。会場近くにある大学ではイベント開催に協力していて,その一環として学生住居を選手や観光客のために一時的に利用するなどということもあったようだ。ともかく,バンクーバー万博とカルガリーオリンピックで立ち退きにあった人は多かった。そのこともあり,トロントでオリンピック招致活動が始まってからは反対運動が激しくなり,結果的に招致は失敗に終わったという話。しかし,2010年には再びバンクーバーでオリンピックが開催されてしまい,この頃の教訓は活かされなかったのだろうか。

 

Absalyamov, T. (2015). The influence of cultural and sport mega-events on sustainable development of the city. Procedia - Social and Behavioral Sciences 188 : 197-C201.
https://ac.els-cdn.com/S1877042815021655/1-s2.0-S1877042815021655-main.pdf?_tid=spdf-1eeddc64-cfb8-45ba-8dad-17f3c7f503e5&acdnat=1519109463_6ab2785a88a908caaf187f2d9b09ca2e
この論文は2010年バンクーバー大会を事例に,カナダ人543人,アメリカ人247人にアンケートを取った調査。それぞれのナショナル・チームにどんな期待をするかということを,開催2か月前,開催初日,閉会式直後,終了2か月後の4時点で測定したもの。オリンピック研究では,住民や開催国民の意識調査はなされているが,アスリートとの関連についてはなされていないということと,これまでは開催前後の2時点の実施が多かったが,それを4時点にしたというのが新しいところ。しかし,全般的にこの研究はオリンピックがどうかというところよりも,イベントの経過によって意識がどう変わるかということを心理学的統計学的に明らかにすることに重点が置かれていて,統計学的な操作にあてられた説明が多い。結果としては,文化・社会的な類似性を有する2国民であっても,統計学的に有意な差がある。冬季大会はアメリカよりもカナダが強いが,メダルへの期待はアメリカ国民の方が圧倒的に強い。また,時系列的には大会が進行するにつれて期待度は高まっていき,終了後は下がるという傾向がある。

 

Edelson, N. (2011): “Inclusivity as an Olympic Event at the 2010 Vancouver Winter Games”, Urban Geography 32 (6): 804-822.
Urban Geography誌はこの号でオリンピック冬季大会の特集を組んでいる。そのなかでも,読むのはまだ1本目だが,この論文の著者は計画コンサルタント業者のようだが,学術文献だけでなく非常に多くの資料に精通していて素晴らしい論文。私も土木コンサルタント会社で働いているが,日本の企業にも見習ってほしい。そして,バンクーバーについてはこれまでもいくつか論文を読んできたが,この論文で2010年冬季大会の見方も随分変わった。こんな要約では語りつくせない非常に充実した論文である。Oldsの論文で確認したように,バンクーバーは1986年に万博を開催し,その時は多くの立ち退きがあった。その後,1988年のカルガリー冬季大会,1996年のトロント大会への招致失敗と経験を積んできた経緯もあり,メガ・イベント開催に関わる居住権の問題や社会的弱者の権利などに市民が敏感になっている。オリンピックのようなイベントはカナダ連邦政府,ブリティッシュコロンビア州,バンクーバー市という3つのレベルの政府の関りがある。そして居住関係やインフラについてもそれぞれの関わり方がある。それを踏まえて,オリンピック招致活動が始まる前後にバンクーバーに登場したさまざまな団体が概観される。それぞれの団体はいくつかの調査を行ったりしてさまざまな報告書が公表されている。そうした団体は市民団体だけではなく,各政府が関わるものもあり,また直接オリンピックへの関与を謳った団体もある。各団体はオリンピックに向けてさまざまな活動を行ってきた結果,招致委員会が提出した立候補ファイルでは,高度なインクルーシヴに関わる目標が提示され,それが開催決定につながった一つの要因でもある。しかし,最終的な開催計画はやはりかなり透明性の悪い状態で決定したとのこと。とはいえ,各種団体はそこで落胆せずに活動を続ける。この論文で非常に印象的だった記述は,警察や軍隊を監視する団体だ。メガ・イベントの際によく行われるのがホームレスなどの一時的な排除だ。警察権力を用いて強制的に行われる。そういうことがないように,市民団体は警察を監視する。政府はホームレスの一時保護施設を作ったりし,ともかく社会的弱者への暴力だけは認めないという市民一丸となった闘いは功を制したようです。とはいえ,開催都市全体としての変容はやむを得ず,結果的にホームレスの数は1.5倍に増えたとのこと。またインフラに関しても,市民生活に要求される東西の連絡鉄道よりも,空港から市街への南北アクセスが優先されて整備されるなど,オリンピックの弊害は無ではなかった。

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現代オリンピックの発展と危機1940-2020

 

石坂友司 2018. 『現代オリンピックの発展と危機1940-2020――二度目の東京が目指すもの』人文書院,272p.2,500円.

 

日本でその研究歴のすべてをオリンピックにささげてきた人はそれほど多くない。1976年の著者はスポーツ研究が盛んで,オリンピック研究者も多い筑波大学の出身で,その研究歴の多くをオリンピックにささげてきた研究者だといえるかもしれない。オリンピックを総括できる本をこれまで,ゴールドブラット『オリンピック全史』,ボイコフ『オリンピック秘史』と外国のものを紹介してきたが,本書は日本の研究者が書いたという意味でもその特徴がある。とはいえ,3冊の著者いずれもが,都市への効果ということをテーマの一つとして持っているという点で,読むべき一冊。

はじめに
第一章 オリンピックの誕生と伝統の創造
第二章 日本におけるオリンピックの受容
第三章 オリンピックと政治――ボイコットの時代
第四章 オリンピックとアマチュアリズム
第五章 オリンピックと商業主義
第六章 オリンピックは本当に黒字を生むか
第七章 オリンピックと象徴的権力
第八章 オリンピックレガシーの登場
第九章 2020年東京オリンピックの行方
おわりに

本書にはフランスの社会学者ブルデューの名前がよく出てくる。第七章のタイトルに「象徴的権力」が用いられているが,ブルデュー理論が根底の一つにあるようです。また,私が唯一持っているブルデュー本『メディア批判』のなかに,「オリンピック――分析のためのプログラム」という補論があることを知る。読み直そう。
本書が『オリンピック全史』や『オリンピック秘史』と異なるのは,「近代スポーツの発展は近代オリンピックと密接な関係を築いている」(p.26)という言葉に示されているように,近代スポーツ史という広い文脈でとらえているところにある。この視点は1981年の『反オリンピック宣言』にもあったものだが,本書ではそれが学術的な議論を受けているので,議論がさらに深堀されている。特にアマチュアリズムなどについての議論は深いし,政治や商業主義についても,どちらが正しい的な主張ではなく,データも示しながら,これまでこうした出来事があり,こうした議論がなされてきたということを示しつつ,議論が展開する。
6章では財政的な検討もいくつかの大会の事例で詳細になされており,第7章ではレガシーの話に移行する。ここでは,都市開発についても英語文献にかなり言及する形で議論されている。こうして,改めて本書の内容を振り返ると大して目新しいことは書いていないような気もしてくるが,『オリンピック全史』や『オリンピック秘史』が英語圏の文献に依拠することで一部は似たような記述になっていたのに対し,本書は関連する日本語文献に依拠しているため,かなり違った記述になっているという印象は強かった。特に私がまだ読んでいなかった多木浩二『スポーツを考える』など,スポーツ論やスポーツ研究の日本における層の厚さを感じさせる一冊だった。

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オリンピック秘史

ボイコフ, J.著,中島由華訳 2018. 『オリンピック秘史――120年の覇権と利権』早川書房,333p.2,200円.

にも紹介しましたが,元サッカー選手であるスポーツ社会学者,ボイコフの単著が翻訳されました。とはいえ,ボイコフにはオリンピック関係の著書が他にもあり,タイトルを見るだけでは学問的に面白そうなものは本書以外にもあります。本書の原題は「Power Games: A Political History of the Olympics」です。早川書房から出ているということで,少し一般向けの色合いが強いものと想像されます。本書の文献表にはゴールドブラット『オリンピック全史』はないし,逆に『オリンピック全史』の方にもボイコフのいくつかの論文しか言及がないということは恐らく,同じ2016年に出版されたこの2つの著書は同時並行的に執筆されたものと思われる。翻訳に関しても同様で,1896年のローマ大会以降を扱っている点でも,特に19-20世紀にかけての記述は似ているところが多い。とはいえ,彼が他の著書のタイトルにも使用している「祝賀資本主義」については,第5章でもタイトルに用いているため,後半を期待して読んでみましょう。なお,早川書房からの出版ということで,原注が省略され(本文中の番号は残されています),ウェブでPDFをアップロードするという手段をとっています(なお,そのPDF40ページにわたります)。

はしがき
序章「オリンピック作戦」
1章 クーベルタンとオリンピック復活
2章 オリンピックにかわる競技大会の歴史
3章 冷戦時代のオリンピック
4章 オリンピックの商業化
5章 祝賀資本主義の時代
6章 2016年リオデジャネイロ夏季オリンピックの大問題
日本語版増補

前半はかなりゴールドブラット『オリンピック全史』と似たような記述が目立つ。おそらく、過去にさかのぼればさかのぼるほど、残された資料が少なくからだろうか。どちらの著者も過去の史料を自ら分析する歴史家ではないので、限られたオリンピック史家の仕事に依っているからだろう。とはいえ、強調の仕方はボイコフ独特なものは感じることができる。例えば、1904年のセントルイス大会は、この時代の他の大会と同様、万国博覧会との同時開催、よくいわれる表現では「万博の添え物」として捉えられる。しかし、ボイコフはここでオリンピック大会というよりは万博の一つのイベントとして開催された「人類の日」イベントについてページを割いている。当時の万博では、植民地主義的な意識が支配的で、植民地から現地人とその家屋とを会場に移設し、そこに見世物として住まわせていたというのが有名。一方、このイベントは、人種別の運動能力(今でも「身体能力」という表現で当時の人種観は息づいている)を測定するものだった。
また、4年に一度各地を巡回して開催するというクーベルタンの企図を無視して開催された1906年のアテネ大会の説明も比較的多い。正式にはこの大会を認めるか認めないかは意見が食い違うようだが、著者はそういう意味でもこの大会の意義を強調したいのかもしれない。そして、アスリートの扱いにも焦点を合わせているのは、著者自身がかつてオリンピック代表にも選ばれたサッカー選手だからかもしれないが、アスリートが必ずしもオリンピック競技大会の中心にあるわけではない。かなり早い段階から、というか初期の上流階級の親善大会から国別対抗の競争へと変わっていった段階で、アスリートは運営側のさまざまな意図に翻弄される存在であった。
2章は「オリンピックにかわる競技大会の歴史」というタイトルだが、もちろん「かわる」は「代わる」であり、代替的なスポーツイベントが論じられる。これはゴールドブラットも詳しく論じていたように、女子オリンピックや労働者オリンピックに関して説明があるが、章の後半に1932年ロサンゼルス大会、1936年ベルリン大会、戦後初めての1948年ロンドン大会が含まれているのは面白い。第3章からは、一般的に知られていることはあまり書かれない。もちろん、冷戦やアパルトヘイト、民族問題などがオリンピック大会のボイコットを生んできたことはよく知られているが、それがかなり詳細に描かれる。1963年にスカルノ大統領時代のインドネシアで開催された新興国競技大会(GANEFO)についても詳しい説明がある。
1976
年のモントリオール大会が巨額の負債を抱え込み、1984年ロサンゼルス大会で公的資金を投入しない大会が成功したことで商業化が進展していくことはよく知られるが、第4章以降では、まさにメガ・イベント化したオリンピックを相手に格闘する開催都市の様子が詳しく記述されている。1976年冬季大会(この頃は冬季大会は夏季大会と同じ年に開催されています)は米国コロラド州デンバーでの開催が予定されていたが、1972年に住民投票を行い、6割が反対票を投じ、撤回した。その後も、実はけっこう住民投票をやって、招致をとりやめた事例は多いがあまり知られていない。そして、多くのNOCは住民投票をすると反対が多くなる可能性は大きいことを知っていて、あえてやらないことは多いという。
ボイコフはナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』で提示された「惨事便乗型資本主義」という概念と対になる概念として「祝賀資本主義」という概念を提示する。さらにこれら二つに共通する特徴をアガンベンの「例外主義」で補強して,近年のオリンピックを解釈している。ボイコフは祝賀資本主義をタイトルに掲げる著書も書いているが,本書でも第5章でこの概念がかなり丁寧に解説されている。彼は日本スポーツとジェンダー学会から招待を受けて,シンポジウムにビデオメッセージを寄せたことがあり,その報告が翻訳されて学会誌に掲載されているが,本書の記述とかなり重なるものがあった。どうやら,同じような話をいろんなところで書ける人らしい。まあ,ともかくそうでなければ,まだ翻訳されていないその本を読まなければならなかったが,本書で詳しく説明されているので,ありがたい。祝賀資本主義とは,災害時の参事便乗型資本主義と対になり,特別な事情の際に,どこからともなくお金が出てくるというような事態。ここで注目すべきは,新自由主義という近年の多い流れにオリンピックも位置付けることができるが,民間資本の活用に大きな重点を置く新自由主義と異なり,オリンピックは非政府組織のIOCが主体となり,国や都市政府が登場して巨額をつぎ込む。これがある意味新自由主義とは相いれないながらも,現代の特徴である。新自由主義はグローバル化を促進するが,一方で近年の政治的風潮は保守主義的な,国民国家単位のナショナリズムをかりたてるものでもある。オリンピックというものもコスモポリタン的な理念を持ちながらもナショナリズムを基礎とするもので,新自由主義ですべてを説明することはできず,そこにこの祝賀資本主義という説明原理が必要となる。
5章以降,2008年北京大会以降の記述は,情報もたっぷりあることもあって,非常に手厳しい。とはいえ,冒頭にも書いてある通り,著者はオリンピックを頭ごなしに否定する学者ではない。元スポーツ選手であり,アスリートとしてこの祭典に参加する喜びを知っている。そんな著者だからこその,「改革への提言」が丁寧に記載されている。冒頭の一節のみ引用して終わりにしよう。「開催都市はこれまでずっとオリンピックのために働いてきた。そろそろオリンピックの方が開催都市のために働いてもいいころだ。」(p.291

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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編6)

Andravovich, G., Burbank, M. J. and Heying, C. H. (2001): Olympic Cities: Lessons Learned from Mega-events
Politics,
Journal of Urban Affairs 23 (2): 113-131.
アンドラノヴィッチとバーバンクの共著論文は前にも紹介しましたが,彼らは北米の事例でオリンピック研究をかなり手掛けているようです。この論文も2001年という比較的早い時期の都市を文脈にした批判的研究です。この論文でも,1984年ロサンゼルス大会,1996年アトランタ大会,2002年ソルトレイクシティ大会と米国のオリンピックにこだわったているのは,米国ではオリンピック開催に公的資金を投入せず,基本的には民間活力で準備,運営をするということになっているから。まあ,ある意味新自由主義的な企業家主義的都市政策と理解できます。もちろん,招致から開催まで10年ほどかかりますので,この論文で対象としているのは,1970年代から2000年代まで,オリンピックに関わるところでいうとグローバル化や都市政策の変遷などの時代の変容があるなかで,それぞれの時代に開催されているので,それだけでも違いがあります。また,そもそもの都市の違い,夏季と冬季の違いがありますが,この論文では違いを確認しながらもそこに米国における共通点を見出していきます。米国といえど完全に民間活力ではなく,特にソルトレイクシティでは市や州などもかかわっているようです。アトランタでは,オリンピック関連の再開発に対して地域住民による反対運動がけっこうあったようです。ソルトレイクシティでは贈賄問題がありましたし,環境団体による地域住民との反対運動もあったようです。民間活力といえども,市民参加がほとんどないというところは共通しているようですね。

Lenskyj, H. J. (2015): Sport Mega-events and Leisure Studies, Leisure Studies 34: 501-507.
このレンスキーという研究者はかなり批判的なオリンピック研究者のようですが,なかなか論文を手に入れることができません。この論文も非常に短いもので,オリジナルの研究というよりは,レジャー研究の分野での状況報告です。著者はカナダのトロント大学で教育学の研究所に所属しているようですが,社会学がベースにあるようです。1980年代から研究をしているようですが,社会学のレジャー研究ではスポーツというテーマが周縁に追いやられ,そこで女性の問題をとりあげるなどもってのほかだという雰囲気があったとのこと。そもそもオリンピック研究は大学と提携した独特の研究発表の場や,IOCが絡んだものなどがあり,批判的な研究を受け入れる土台がなかなかできなかったということも指摘しています。そんななかで,彼女が2012年に編集したパルグレイブという出版社から出した『オリンピック研究のハンドブック』は批判的なエッセイのみを収録したものであるとのこと。「レジャー研究の調査は,スポーツ・メガ・イベントを批判し,レジャー・サービスを提供するにあたって社会正義という課題に政策立案者の注意を向けることによって,この不均衡に立ち向かうことができる」(p.506)と締めくくっています。

Short, J. R. (2008): Globalization, Cities and the Summer Olympic, City 12 (3): 322-340.
かなり以前から活躍している英国の政治地理学者によるオリンピック論文。以前から読みたかったがようやく入手できた。やはり読んでよかったと思える1本。まだ,こういう論文が何本かあるんだよな。何とか入手する手段を考えなくては。
さて,シンプルなタイトルで,テーマは明白ですが,内容は多岐にわたります。よく語られていることも多いですが,著者なりの特徴のある記述もいくつかあります。まずはオリンピックのテレビ放映権が回を追うごとに倍増しているということはよく知られていますが,IOCに支払われる全体の放映権における米国の割合が徐々に減少しているということ。最近はネット配信やオンデマンドなどで多様化するなか,競技中継にもお国柄が出ているそうです。その国が好きな競技や報道の仕方があり,多様化しているとのこと。また,「大会の都市化」という表現を使って,開催都市の再開発やイメージ作りなどが論じられます。大会に関わる費用対効果分析については随分ページを割いていて,その意味のなさが指摘されています。それから,オリンピックの開催都市になることがかなりのステイタスになるようで,他のイベントを引き寄せ,結局は集まるところに資本は集中し,そうでないところにはどう頑張ってもなかなか集まらないというまさに近年進行するグローバル化の不均衡拡大をオリンピックが助長しているとのこと。

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オリンピックと東京改造

川辺謙一 2018. 『オリンピックと東京改造――交通インフラから読み解く』光文社,244p.800円.

東京オリンピックに伴う交通インフラの整備に関する知識をつけようと読んだ,光文社新書の一冊。著者は私と同い年の交通ライターとのこと。オリンピックにはそもそも関心はないが,東京の交通が1964年大会と大きく関連すると語られることが多いのに違和感を抱き,調べ始めたとのこと。まあ,交通に関する具体的な事実を学問的に突き詰めるとなると,それがいつ誰がどのような経緯で決定したのかということのチマチマした話になってしまうが,あまり丁寧に根拠を示さず,すっきりとまとめられています。

序章 プレイバック1964
1章 巨大都市を生んだ都市改造史
2章 五輪とレガシー
3章 1940年大会・幻の五輪
4章 1964年大会・初の五輪
5章 2020年大会・再起の五輪
6章 これからの東京と交通

本書には,ある都市計画家の議論を借りて,東京という都市を人体にたとえ骨格や循環期間が未発達なまま肥大化したと語られている。1か所では,名古屋や大阪と比べ,とまで書かれている。しかも,その根拠は計画されている道路の完成率のようなものだ。では,その何十年前に計画された道路が整備されていれば,東京に交通問題はないのだろうか。まず,著者の都市の捉え方に疑問を抱く。
結論としては,1964年大会はたまたま戦後の大規模なインフラ整備計画と時期が重なり,大会開催に向けてお金が出たり,若干の計画変更があったり,工事を急いだりしたことがあったが,オリンピックのために交通が整備されたわけではない。また,そういう事情や,時代背景の違いなどからも,2020年大会に1964年大会と同様の期待をするのは間違っているということになります。まあ,基本的な事実や,コラムで示された過去のオリンピックの負の遺産,つまり今は放置され朽ち果てていく競技会場の写真が掲載されているのはありがたかった(ネットで調べればすぐに出てくるらしいが)。

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グローバル・シティー・リージョンズ

スコット, A. J.編,坂本秀和訳 2004. 『グローバル・シティー・リージョンズ――グローバル都市地域への理論と政策』ダイヤモンド社,365p.,4,800円.Scott, A. J. eds. 2001. Global City-Regions. Oxford: Oxford University Press.

 

本書の著者は地理学者である。世界都市をめぐる議論としては,同様に地理学者によって組織された会議の記録である,ノックス&テイラー『世界都市の論理』が1995年に出版され,日本語訳が地理学者も参加して鹿島出版会から1997年に出版されている。一方,本書は原著が2001年に出版され,翻訳家によりダイヤモンド社から2004年に出版されている。本書は『世界都市の論理』ほど明確に国際会議の体をなしているわけではないようだが,第2部は「グローバル都市地域学会」(p.32)での会議講演とされている。その登壇者は経営コンサルタントという肩書の大前研一,世界銀行総裁のウォルフェンソン,そしてカナダ・ケベック州知事のブシャールという面々なので,それなりの規模の大きい学術会議が開かれたと思われる。とはいえ,訳者あとがきもなく,詳しいところは分からない。会議自体は1999年に開催されたようす。

第1部 序論
 第1章 グローバル都市地域(スコット, A. J.・アグニュー, J.・ソージャ, E. W.・ストーパー, M.)
第2部 グローバリゼーションと都市地域の発展に関する実際的問題について:三者による本会議講演
 第2章 グローバル経済から地域に繁栄を呼び寄せるには(大前研一)
 第3章 世界銀行とグローバル都市地域:貧困層に手を差し伸べる(ウォルフェンソン, J. D.)
 第4章 グローバル都市地域の時代のケベック(ブシャール, L.)
第3部 グローバル都市地域は新しい地理的現象か?
 第5章 21世紀のグローバル都市地域(ホール, P.)
 第6章 グローバル都市とグローバル都市地域:その比較(サッセン, S.)
 第7章 グローバル都市地域の経済的役割と空間的矛盾:機能・認識・進化の側面から(カマーニ, R.)
 第8章 グローバル時代における都市間ネットワーク(フリードマン, J.)
第4部 グローバル都市地域の競争優位
 第9章 地域、そして競争の新しい経済学(ポーター, M. E.)
 第10章 北米の地域国家としてのオンタリオとグローバル都市地域としてのトロント:NAFTAの挑戦に応える(クーシェイン, T. J.)
第5部 アジアのグローバル都市地域:政治的、経済的課題
 第11章 都市間の競争と経済的弾力性の問題:グローバリゼーションとアジアの危機(ダグラス, M.)
 第12章 都市地域の地位再考:経済危機後の韓国(キム, W. B.)
第6部 グローバル都市地域の新たな集団秩序
 第13章 統治する都市と地域:グローバル時代における地域的再編(キーティング, M.)
 第14章 シリコンバレーの教訓:グローバル都市地域における統治(ヘントン, D.)
 第15章 地域の統治と対立の管理:ブラジルのクラスターから映し出されるもの(シュミッツ, H.)
第7部 結び:環境問題
 第16章 発展途上のグローバル都市地域における環境の持続可能性とサービス(パナトヨウ, T.)

第1章は米国の地理学者4人によって書かれているが,目新しいことは書いていない。本書はやはりこれまで提示されていた世界都市(world city)でも,グローバル・シティ(global city)でもなく,最後に「地域」とついているのが地理学者によるこだわりだと思うが,第1章にそれに関して突っ込んだ議論はない。なぜだか,第3部に入って一応地理学者ともいえると思うが,英国のホールや,グローバル・シティの提唱者サッセンが,この概念について議論をしている。それはまた詳しく見ることとして,第2部は各人によるそれほど長くない講演である。大前研一は当時出版された新著『新・資本論』の宣伝が中心で,タイトルに掲げられた問いには答えていない。それにしても,恐るべき自信家だ。第3章は,世界銀行の総裁ってそんなこともしてるんだ,という感じで世界各地の貧困地区を訪れ,話を聞いたということが報告されている。かれらは生きる力があり,「斬新な考え」(p.53)を持っており,少し手を差し伸べるだけでその能力を発揮するという。ケベック州知事の講演はとても短いが,それでもこれだけ教養のある知事を羨ましく思う。東京都知事も猪瀬や舛添など,教養人だったはずだが,その教養が都政に活かされていたとは思えない。
第3部では,まずフリードマン以前に「世界都市」概念を使っていたピーター・ホールによる第5章。フリードマン以降,ノックス&テイラー『世界都市の論理』,そしてテイラーらが参加したGaWCに続く研究に言及し,それらのデータを使いながら世界都市ランク的な話を展開し,21世紀の新しい都市の形態について論じています。第6章は『グローバル・シティ』のサスキア・サッセンが自分が論じたグローバル都市の考え方について整理しつつ,本書で提起されている「グローバル都市地域」という概念との比較をしている(のでしょうか?)。『グローバル・シティ』はロンドン,ニューヨーク,東京に関してさまざまなデータを用いてその類似性や彼女のグローバル都市の定義に合致することを根拠づけているが,一方でフリードマンが主張していたような都市間ネットワークという観点は希薄である。しかし,確かに当書では都市間競争よりも都市間の補間や協働という側面を強調していた気がする。本書で提起されるグローバル都市地域という考え方は,フリードマンの都市間ネットワークを含みつつも都市内ネットワークも包括する概念である。とはいえ,やはりサッセンは自分の議論が正しかったことを強調していますね。第7章のカマーニという人物はミラノ工科大学の教授ということですが,グローバル都市の認識論的側面,象徴的存在という議論が面白いです。特に,p.120に提示された図7.2は,グローバル都市の役割と題し,空間的論理を領土的アプローチとネットワーク・アプローチに,認識論的論理を機能的アプローチと象徴的アプローチに二分し,4つの象限に分類しています。タイトルにある「空間的矛盾」については通勤と不動産についてデータを示しながら論じていますが,イマイチ分からず。第8章にはフリードマンが登場します。彼は「都市地域」を「機能的に統合された地域という意味で使っている」(p.142)としています。そして「統治」という側面をここでは強調し,その主体が国家に限らず超国家的組織,また回国家的な自治体,都市政府などの役割を示しています。なぜか事例として「黄海地域共同区」の事例を挙げています。
本書の特徴は、都市の問題を都市単体としてではなく、地域としても捉えることにあり、そこに地理学者たちによるこだわりがあるのだと思う。とはいえ、地域という言葉は地理学者の専売特許ではないし、むしろ場所とか空間なども使う地理学者に対し、地域という言葉はコミュニティと置き換え可能な形で社会学者がこれまでよく使っていた概念でもある。なので、本書に寄稿した研究者はさまざまな分野の人のようだが、その辺りがこれまでの都市関係論集とは少し異なった特徴を有している。
第9章の著者マイケル・ポーターは翻訳書もある経済学者ということだ(『競争戦略論』ダイヤモンド社、1999年)。この章ではクラスターという概念を強調している。経済学者は都市間競争といっても、実際には都市に所在する企業間の競争にすぎない、と考えることも多い。しかし、著者はそれは企業単体ではなく、ある業種の企業であれば、その関連企業や下請け企業などが関連したクラスターを都市内で形成しているという。第10章の著者トマス・クーシェインはカナダの経済学者とのこと。この章ではトロントというカナダの都市を取り上げるが、カナダという連邦国家のなかの、オンタリオ州の州都ということで、オンタリオ州を地域国家ととらえ、トロントに関しても、行政上の都市としてだけでなく、グレーター・トロント・エリア(GTA)としても捉える必要がある。さらにアメリカ合衆国と五大湖を挟んで接しているこの地域においては、トロントという都市は、バッファローやデトロイトといった合衆国の都市との関連性が強い。ということで、単なる都市の経済だけでなく、さまざなま公的機関の政策が関わっている。
本書を含む近年の都市論の特徴は、数十年前のこうした議論は国際的といえども欧米中心であったが、欧米以外の地域を無視できない状況がある。本書の出版時点ではまだ中国の発展はまだまだだったが、第5部はアジアが取り上げられている。第11章の著者マイケル・ダグラスは日本研究者らしく,日本の話題がちょくちょく出てくる。とはいえ,この章は日本のみの話ではなく,東アジア,東南アジアについて,特に1990年代後半の経済危機について説明し,その後の復興を企業の合併・吸収を代表とする金融的戦略として示している。大阪がさまざまな巨大プロジェクトに手を出して危機に陥ったという話もあります(2008年のオリンピック招致も含む)。第12章は韓国の研究者による韓国の話題。
第6部に入って,統治の問題が議論される。第13章はよく覚えていないが,「制度分析」なるものが登場する。これは「近年における新たな流行としてもてはやされており」(p.291)とあるが,原語が示されておらず,何のことだか分からない。マニュエル・カステルのことも「キャステルス」などと表記されていて,少し翻訳に疑問が残る。第14章は米国シリコン・バレーの事例,第15章はブラジルの靴産業クラスターの事例で分かりやすい。第7部は最後の部だが,第16章のみで,しかも環境問題に特化していて本書のなかでは少し異質な感じ。とはいえ,途上国の都市発展に欠かせない話題であり,基本的な知識は提供してくれる。編者によるまとめもなく,訳者あとがきもない。少し尻切れトンボ感のある読書でした。

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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編5)

Kassens-Noor, E.m Gaffney, C., Messina, J. and Phillips, E. (2016): Olympic Transport Legacies: Rio de Janeiros Bus Rapid Transit System, Journal of Planning Education and Research 38: 13-24.
前にも単著論文を読んだことがある,都市計画系のオリンピック研究者Kassens-Noorが,ブラジル出身の地理学者Gaffneyと一緒に2016年リオ大会に関する論文を書いています。リオデジャネイロでは,オリンピックの開催において,4箇所に競技施設を分散する計画でした。当然それらを結ぶ交通計画が必要となるわけですが,リオではバス・ラピッド・トランジット(BRT)が採用されました。リオは3度目の招致で,2016年開催が決定したわけですが,これまでの招致計画で問題だったのが公共交通計画であったようです。グローバル・サウス(最近はグローバル化のなかの南北格差を含めこう呼ぶようです)での新しい公共交通にBRTはよく使われるようです。日本ではあまり見かけませんが,連結式のバスを路面電車のように運行するようですね。日本は路面電車の車両を換えてLRTが使われています。さて,第三世界ではおおむね好評のBRTですが,オリンピックに向けて,IOCの要望に応えながら整備されたリオではどうなのか,かなり批判的に検討されます。実際に整備において,貧困層の立ち退きがあった事例や,環境破壊なども指摘されています。大会開催時はオリンピック・ファミリー(選手や関係者,メディアなど)は既存の道路を用い,住民は過去に培われてきた公共交通は危険で不便だという信念から利用を避ける傾向にあり,利用しているのは外国人観光客だけという実態が示されます。自家用車からBRTへのモーダル・シフトはわずか2.4%と,期待されていた公共交通の分担率が12%から大会後には40%になるという想定にはほとんど達していません。公共交通も近年期待されているオリンピック大会開催のレガシーとなるべくものですから,リオ大会の場合はイマイチだったということでしょうか。

Chalkley, B. and Essex, S. (1999): Urban Development through Hosting International Events: A History of the Olympic, Planning Perspectives 14: 369-394.
この2人のオリンピック論文は2編ほど読んだ。その2編はEssexが第一著者となっているもので,1998年のものが夏季大会,2004年のものが冬季大会を概観するものだ。しかし,この論文を読んでみると,1998年のものとセットになっているような気もする。2人の著者は地理学者であり,論文には世界地図に開催都市が示されたものや,開催都市の施設配置の地図などが掲載されている。この論文も夏季大会について,1896年第1回アテネ大会から1996年アトランタ大会まで触れているが,都市の地図を掲載しているのは,1932年ロサンゼルス大会,1936年ベルリン大会,1976年モントリオール大会,1996年アトランタ大会である。一方,1998年の論文にも同じような地図があり,1972年ミュンヘン大会,1992年バルセロナ大会,2000年シドニー大会の地図が掲載されている。各大会について,2人で分担して調査・研究をしているのだろうか。
この論文では,オリンピック大会の開催が都市に与える影響という観点から,1896-1996年までの大会を4つのフェーズに区分しています。1896-1904年の第1フェーズは規模が小さく,新しい施設の建設など都市への影響は小さかったとされています。1900年パリ大会からは万国博覧会の一部として開催されていたことはよく知られています。第2フェーズの1908-1932年はオリンピックのための主要施設が新設されるようになりました。1908年ロンドン大会は万博との同時開催でしたが,オリンピックのためのスタジアムが建設されています。このように,この時期にはスタジアム建設に伴って,開会式などが祭典化します。1932年ロサンゼルス大会では,仮設施設の建設資材が大会後に売却されるなどもあったようですね。第3フェーズの1936-1956年は1936年ベルリン大会は特別ですが,その後もオリンピック村やオリンピック公園など,複数の施設が集積して開発されるようになりました。第4フェーズの1960-1996年は,競技施設だけでなく,施設が分散することもあり,公共交通機関なども含め,都市構造そのものにオリンピックが契機となるようになりました。1964年東京大会はその規模がかなり大きくなったことで有名です。それもあり,開催都市において住民によるさまざまな運動が生じてきた時期でもあります。1976年モントリオール大会はそうした開発により大きな負債が負の遺産として残されたことがよく知られています。ちなみに,この論文はホールマーク・イベント研究としての位置付けがなされています。

Reiche, D. (2017): Why Developing Countries are Just Spectators in the Gold War: The Case of Lebanon at the Olympic Games, Third World Quarterly 38: 996-1011.
オリンピック関連の文献を読み始めてから気になっていた雑誌『季刊第三世界』のオリンピック関連文献をようやく入手し,その1本を読んだ。ちなみに,第三世界とスポーツということについては,日本でも若干議論があり,石岡丈昇(2004):第三世界スポーツ論の問題構制―認識論的検討とフィールドワークの「構え」―『スポーツ社会学研究』12: 49-60.は読んでみたが,この雑誌は登場しない。まあ,ともかくオリンピックを典型として近代スポーツはさまざまなものとともにヨーロッパから植民地にもたらされたものであり,コロニアル研究の題材には適している。さて,この論文では何がテーマなのだろうか。以前紹介したもののなかでも,南アフリカ共和国がオリンピック招致運動をしたというものがあったが,招致することだけがオリンピック研究ではない。この論文ではレバノンを事例に,途上国とオリンピックの関りを論じている。レバノンはフランスから1943年に独立した国だが,1948年ロンドン大会以降,オリンピックには続けて選手を送り出している。しかし,その数は64年間で夏季・冬季併せて212人,多い大会で20人程度,少ない大会では1名の参加である。しかも,20程度を送り出していた年は,国内での内戦があった時期で,逆にオリンピックがそうした国際政治へのアピールに利用されたりするということを意味している。
なお,この論文は大会参加者や国内のオリンピック組織の要人へのインタビューを含んでいる。レバノンも1950年代から1980年までに4つのメダルを獲得しているが,近年では全くである。そもそも途上国ではこうした国際的なレベルに通用するスポーツ選手を育成するプログラムを持っていない。そもそも,国内で行われているスポーツが,国際大会の規格に適した形で行われていない。こうした国がオリンピックに選手を送るのにはIOCからのお金の流れがあるそうだ。実際にはオリンピック・ソリダリティ(OS)による支援で,2016年リオ大会でレバノンに支払われた額は13.2万米ドルだとのこと。その他に,こうした国ではディアスポラという手段があり,難民などで離散した,レバノン国籍を有する選手をレバノン代表として出場させている。近年では,米国の大学でスポーツを学んだ選手が出場しているとのこと。ただ,そうした特別枠は競技が限られている。また競技によっては国際連盟の力が大きかったり,ともかく途上国の選手がメダルを争うようなことは不可能ではないがとても難しいということがわかる。

Hiller, H. H. and Wanner, R. A. (2011): Public Opinion in Host Olympic Cities: The Case of the 2010 Vancouver Winter Games, Sociology 45: 883-899.
ヒラーはメガ・イベント,オリンピックを専門とする社会学者。ありがたいことに,自分の論文を自分のウェブサイトでほとんどPDFアップロードしてくれている。この論文を含むいくつかのものはオリンピック開催都市の居住者にアンケート調査をした結果報告です。この論文は2010年のバンクーバー冬季大会のもの。これまでも都市住民への意識調査をしたものはいくつかありましたが,学術的なものは少なく,しかも比較可能な形でなされていないという。この調査はかなり形式的な定量的社会調査です。大会開会の直前から閉会3日後まで6時点,1時点500サンプルで合計約3,000の回答を得ています。調査を依頼したオンラインを利用した調査会社はバンクーバー大都市圏内に8,000地点,10万人のパネラーを有しており,そこから年齢や性差などの社会的指標のバランスがセンサスと合うように抽出しているようです。結果的には時期を追うごとに,オリンピック大会に対する肯定的な意見が増えるというもので,それは特に同時期に行われた投票行動と,実際にオリンピック関連イベントへの参加の有無が大きく影響したとのこと。まあ,こういう調査をするとどうしても批判的な結果にはならないということでしょうか。バンクーバーはボイコフの研究などでも反オリンピック運動が盛んな大会,都市でしたが,多くの住民にとっては肯定的に受け止められたということのようです。

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オリンピック全史

デイビッド・ゴールドブラット著,志村昌子・二木夢子訳 2018. 『オリンピック全史』原書房,467p.4500円.Goldblatt, D. 2016. The Games: A Global History of the Olympics. London: Macmillan.

原書房は私が翻訳で参加した『現代地政学』の出版元であり,地理学書も多く出している。そんな出版社がオリンピック関連本を出すなんてビックリ。著者は「スポーツライター,社会学者」とされているが,これまでオリンピック関連文献を読む中で名前を見たことはなかった気がする。しかし,読み始めると2000年以降の研究を多く参照していて,まさに網羅的なオリンピック史といえそうだ。

1章 壮大にして有益な仕事 オリンピックの復興
 1896年アテネ大会
2章 最高の楽しみ ベル・エポック末期のオリンピック
 1900年パリ大会,1904年セントルイス大会,1908年ロンドン大会,1912年ストックホルム大会
3章 ライバル登場 1920年代のオリンピックと挑戦者たち
 1920年アントワープ大会,1924年パリ大会,1928年アムステル大会
4章 イッツ・ショータイム! オリンピックというスペクタクル
 1932年ロサンゼルス大会,1936年ベルリン大会,1940年東京大会(中止)
5章 スモール「ワズ」ビューティフル 戦後オリンピックの失われた世界
 1948年ロンドン大会,1952年ヘルシンキ大会,1956年メルボルン大会
6章 イメージは残る スペクタクルとアンチ・スペクタクル
 1960年ローマ大会,1964年東京大会,1968年メキシコ大会,1972年ミュンヘン大会
7章 崩壊 破産,ボイコット,アマチュアリズムの終焉
 1976年モントリオール大会,1980年モスクワ大会,1984年ロサンゼルス大会,1988年ソウル大会
8章 ブーム! 冷戦後のグローバリゼーション
 1992年バルセロナ大会,1996年アトランタ大会,2000年シドニー大会,2004年アテネ大会
9章 南へ 新しい世界秩序のなかのオリンピック
 2008年北京大会,2012年ロンドン大会,2016年リオデジャネイロ大会
終章
リオデジャネイロから再び東京へ

オリンピックの研究を始めたとはいえ,オリンピックそのものには個人的な関心はなく,IOCという組織について,オリンピック憲章について,過去のオリンピックの経緯について,そういう詳細に詳しくなったわけではない。むしろ,そういう記述を読むのは苦痛である。ただ,本書はそういういわゆる歴史記述のなかにも重要な事柄が散りばめられていて,比較的読みやすい。
まずは第1章だが,近代オリンピックの父といえばクーベルタンである,というのは私でも知っている常識。しかし,古代ギリシアのオリンピックの復興というのはそれ以前から何度も行われていたという。クーベルタンはそのうちの一つにすぎず,たまたま現代まで継続しているものの創始者が彼であっただけの話だ。第2章は第1次世界大戦前の状況で,オリンピックが万国博覧会の添え物としてひっそりと行われていたということはよく知られるが,クーベルタン自身のかかわりなどの詳細が記される。
3章はそのタイトルに示されているが,オリンピックへの挑戦者と表現されているが,要はオルタナティブとしての各種競技大会が登場した時代としてまとめられている。近代オリンピックの初期の頃は,上流階級の男性によるたしなみであり,アマチュアリズムという原則があった。つまり,労働者や女性,プロスポーツ選手などはオリンピック競技大会からは排除されていたということだ。本書で紹介される第一のものは,1919年に開催された連合国の兵士たちによる競技大会である。同じ年にはFSFSF(フランス女子スポーツクラブ連盟)が発足し,1921年にモンテカルロで「国際女子競技大会」が,翌年には「女子オリンピック」と称して競技大会が開催される。次のオルタナティブはIOC内部のものだが,ウィンター・スポーツの導入が始まり,1924年にはフランスのシャモニーで第1回冬季大会が開催される。そして極めつけが労働者オリンピック。こちらも1920年に設立されたSWSI(社会主義労働者スポーツ・インターナショナル)という組織(1930年代には400マ万人のメンバーをかかえていたという!)によって1925年に第1回労働者オリンピックが,本家よりも大きな規模で開催されたという。
4章は1932年ロサンゼルス大会から始まります。多くの歴代オリンピックの整理では1936年ベルリン大会で新しい段階に入ったとされることが多いです。この大会はナチスドイツによって政治的に利用された大会として有名です。スタジアムも含め多くの施設が計画的に作られ,聖火リレーがはじまり,国家元首が開会式に登場し,みたいな今にもつながるひな型のいくつかがこの大会で作られました。しかし,本書では1932年ロサンゼルス大会と1936年ベルリン大会には多くの共通性があるといいます。それは,後の1980年モスクワ大会,1984年ロサンゼルス大会が冷戦時に続いて米ソで開催された大会がボイコット合戦になったように,第2次世界大戦を前に2つの大国で続けて開催されたことの意義を強調しようという意図があるのかもしれません。1932年ロサンゼルス大会では,「国歌が流れ,3段の表彰台が置かれるメダル授与式」,「選手村の創設」(p.137)が始まった。1936年当時のドイツやソ連はオリンピックを国家事業と捉え,公的資金を大量に投入しますが,米国はそうではありません。できるだけ民間投資を促していくというのはこの頃からの伝統のようです。このころから問題になるのが人種問題です。黒人アスリートの参加が増えていき,かれらは一定の成果をあげますが,その待遇はひどく,まさに利用されていたという形。この章では,1940年の「幻の東京大会」についても記載されています。
5章は戦後の貧しい時期に行われた大会が,比較的小規模で開催されていました。1956年のメルボルン大会は初めての南半球での開催ですが,本書ではメルボルンという都市の歴史も簡単にたどってくれています。第6章で1960年代に入っていきますが,このころからオリンピックが大規模化し,さまざまな問題が噴出してきます。1960年ローマ大会ではテレビ中継が始まり,お金や競技,都市の整備に至るまでテレビを中心に変化していきます。1964年東京大会は初めてのアジアでの開催ですが,国の首都を開催地とすることで多額の公的資金を投入し都市基盤を作っていくというのは,1988年ソウル大会,2008年北京大会のモデルとなり,もう半世紀以上のことであるにもかかわらず,招致をもくろむ途上国のモデルとして未だに希望を与えている。ちなみに本書はほとんどが英語で書かれた文献資料に基づいていますが,1964年東京大会についてもそこそこ研究がなされているようです。1968年メキシコ大会は,陸上で金メダルを獲得した米国の黒人選手によるメダル授与式におけるパフォーマンスが有名だが,それ以前のことも重要です。1968年といえば学生運動を始めとする既存の体制に対する抵抗運動が盛んでしたが,メキシコでも同様,オリンピックを直接の矛先としたさまざまな運動があったようです。それを国家権力が死者も出す形で鎮圧し,あたかもそんなことがなかったかのように大会が行われたとのこと。冬季大会も徐々に規模を大きくし,今日でもよく知られるように,特に負の遺産を残す伝統がこのころから作られます。
7章は冷戦期の大会について。1976年モントリオール大会は巨額な負債を抱え込んだことで有名です。カナダは英語圏と仏語圏との政治的な争いが長らくありますが、その辺りについても詳しく解説されています。1980年モスクワ大会と1984年ロサンゼルス大会はボイコット合戦で有名ですが、本書ではロサンゼルス大会の商業主義よりも政治的対立に焦点を合わせています。そして、商業主義という言葉ではなく、「自由主義の大義名分」(p.285)と表現しています。そういう意味でも、1984年ロサンゼルス大会におけるスポンサー契約も重要です。1988年ソウル大会も、米ソ冷戦構造のなかで語られます。「もともと権威主義だった韓国は巨大な国家ぐるみの開発機構に衣替えし、奇跡的とも言えるほどの急速な工業化が実現した。」(p.294)とう歴史の延長にオリンピック招致が位置付けられています。
8章はグローバル化の文脈に位置づけられ、またIOC会長サラマンチ時代として特徴づけられます。章の冒頭に彼について一節設けられ、次の節は「新しい批判勢力」と題され、1960年代の抵抗勢力、1970-80年代の政治的対立によるボイコットに次いで、1990年代は組織的腐敗や都市の過剰開発、環境保護といった観点から批判勢力が登場します。しかし一方では、1992年バルセロナ大会が成功例として、後のオリンピックなどのメガイベントを利用した都市開発のモデルとされ、1996年アトランタ大会は1984年ロサンゼルス大会に続いて民間資本をうまく利用し、2000年シドニー大会は環境に配慮した大会として語り継がれることになる。もちろん、本書ではバルセロナ大会におけるカタルーニャの問題、アトランタ大会における貧困問題、シドニー大会における先住民族の問題などを論じています。そして、明らかな失敗事例として記憶も新しい2004年アテネ大会と同じ時代区分にされていることが著者なりに解釈だといえましょう。ただ、以前こちらで紹介したCOHREの報告書によれば、アテネ大会ではロマ族の排除が強調されていましたが、本書ではそのことには一切触れていません。
9章で扱う2006年以降は,2008年北京大会,2016年リオデジャネイロ大会,2014年ソチ大会と,BRICS諸国のうち,インドを除く3国を含んでおり,「新しい世界秩序」時代のオリンピックと位置付けています。特に北京大会とソチ大会は多額の公的資金を投入した大会であり,また北京大会においてはチベットの問題,ソチ大会においてもチェチェンの問題など,国内の少数民族の問題が大きく取りざたされました。リオデジャネイロは巨額の公的資金を投入できなかったが故に,大会運営はどうにかしのいだものの,都市開発に関しては大きく問題を積み残しました。2012年ロンドン大会に関しては,中心的な開発地域が貧困層や移民たちが住みつく地区であったことは問題とされていますが,比較的成功した先進国の事例とされています。しかし,やはり本書では厳しい指摘がなされ,章を追うごとに厳しさを増しています。2014年ソチ大会については「プーチンのオリンピック」と題した節が設けられていますが,前半は2010年バンクーバー大会における反オリンピック運動について説明されます。これについては既に紹介したボイコフという研究者による研究を情報源にしていますが,突如何の前触れもなく,バンクーバー大会からソチ大会に話題が変わります。
本書の原著は2016年出版ですが,短い終章で2018年平昌大会について少し触れ,その後に「リオデジャネイロから再び東京へ」と題された文章が書かれています。あまり2020年東京大会には触れられていません。本書には訳者あとがきはありませんが,最後の方でこの著者が2014年にブラジルのサッカーの歴史に関する本を出していることがわかります。最後の言葉を引用して終わりにしましょう。「IOCとは経験的なエビデンスも一般の人々の苦情も受け付けない組織であり,秘密裏に運営され,空想のなかで取引する集団だ。もしかすると,オリンピック・ムーブメントはまたも,現代という時代に適合するために十分なしなやかさと活発さを有していることを証明したのかもしれない。」(p.426

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創造的都市

チャールズ・ランドリー著,後藤和子監訳 2003. 『創造的都市――都市再生のための道具箱』日本評論社,372p.3,600円.Landry, C. 2000. Creative City: A Toolkit for Urban Innovators. London: Earthscan Publication LTD.

 

本書の入手は困難である。まず,Amazonの古書で入手しようと思ったが,法外な値段がつけられていて断念した。非常勤先の図書館で借りようと思ったが,禁帯出になっていた。こうした一般書が禁帯出になることは基本的にないと思うが,経営学部も有するこの大学では借りる学生が多いのだろうか。最終手段として,近隣の公共図書館で検索したところ,調布市立図書館に所蔵があり,借りて読むことにした。日本語訳は2003年で,日本評論社から出ているが,出版部数が少なかったのだろうか?ともかく,返却しなくてはならない本なので,書き込みもできないし,少し詳細にコツコツ書き留めておこう。(単なるメモ程度で,文章にはなっていません。あしからず)
本書の原著は2000年とのこと。参考文献を見てみると,Bianchiniという共同研究者との共著で同名タイトルの『The Creative City』なるものが1995年に出版されている。他にも,この人を第一著者とした共著を他にも出している。1996年にはさらに3人の共同執筆者とともに『The Creative City in Britain and Germany』なる本もあり,「創造的都市」という発想は少し前からあることが分かる。また,著者は地理学者のピーター・ホールとの共著で1997年に『Innovative and Sustainable Cities』なる本も出している。
ランドリーの著書は他に日本語になっていないが,同様にクリエイティビティを主張するリチャード・フロリダの著書の多くは翻訳されており,その2者の議論の関係性,似ているところと違うところなどを見極めなくてはならない。ランドリーはイギリス人で上述のように,1990年代半ばから「創造的都市」を提唱している。一方,「創造的階級」を提唱するフロリダはアメリカ人で,『クリエイティブ・クラスの台頭』の出版は2002年であり,1990年代から著書はあり,ランドリーと同様にイノベーションに関するテーマで書いている。

1部 都市の問題推移
 第1章 都市の創造性の再発見
 第2章 都市問題,創造的な解決
 第3章 新しい思考
2部 都市創造性への原動力
 第4章 創造的都市への転換
 第5章 創造的都市の基盤
 第6章 創造的な環境
3部 都市創造の概念的道具
 第7章 創造性を作り出す計画をはじめよう
 第8章 都市における創造性の再発見
 第9章 創造的な過程を評価し,持続する
4部 創造的都市を超えて
 第10章 創造的都市とその彼方

本書の冒頭で著者は「文化」の役割を強調している。「文化は,ある場所が固有であり特有のものであることを示す一連の資源である」(p.8)と述べ,文化遺産,文化資源,文化資産というような概念を多用している。「都市計画家の仕事は,責任をもってこれらの資源を認識し管理し開発することである。」(p.8)や,「われわれはまた,都市のセンスを,色,音,臭いそして視覚的表現から検討し,年の競争力を作り出すことができる相互扶助や組織のネットワーク,社会的行事を含む広い範囲を採用した。」(p.8)と述べる。
イノベーションに関する研究は古い。おそらく著者もその研究から徐々に創造性へと関心を移していったと思われるが,「しかし,創造性を定義しようとすればするほど,わからなくなる。混乱と限定がすべての結論とともに現れる。創造性と革新は継ぎ目なく織り交ぜられている。」(p.17)と書いているように,この2つの概念は連続的にとらえられているようだ。そして,「創造性は目的ではなく行程であり,状態ではなくプロセスである」(p.15)などと論じている。創造性の概念も心理学や経営において研究が進んでいたようだが,著者がそれを都市に関する議論に展開する。
フロリダはその著書の中で(特に『クリエイティブ都市経済論』),多くの統計的分析をしている。「ゲイ指標」などをその都市のクリエイティビティを示す指標として用いるわけだが,かなり量的な把握によって,総体的な観点から創造的階級が議論されている。それに対し,ランドリーはかなり質的な議論で,総体として捉えるのではなく,個々の事例から,個人・組織の話としてクリエイティビティを論じている。「創造的な人々なしで,創造的な会議や創造的な組織を持つことはできない。同様に,創造的な組織なしで創造的な環境――それは,創造的な人々,プロセス,アイディア,成果が相互作用する舞台装置であるが――はあり得ない。このような革新的な環境を確立することが,創造的都市の主要な挑戦である。」(pp.16-17)と,個人のスケールから都市のスケールまでの因果関係を規定する。
都市に関しては,グローバル化に伴って都市間のネットワークが形成されていくという,都市システム的な理解をしている。そのネットワークは「移民性のパターンに根ざしている」(p.25)といい,都市間競争のなかにもニッチがあり,都市は互いに競争しつつ,補完しあっているという。著者は個人の経験を重視している。ハーヴェイの都市企業家主義という議論は新自由主義の下で近年よく語られるが,ランドリーは旧来の「都市経営者」(p.29)について,その弊害を語る。個々の役人も創造性を有しているが,お役所仕事ではそれが発揮されず,そのまま都市計画に反映される。「都市はブランドであ」(p.34)り,知識や情報が重要であり,それは現代のコミュニケーション・ネットワークで急速に流通するが,でもやはりフェイス・トゥ・フェイスの重要性を指摘している。この辺りの理解も経済地理学の最近の議論を読むとちょっと古い気もする。P.36の表題には「都市主義」とあるが,これはアーバニズムの訳だろうか,本文には登場せず,p.49には定訳の「都市的生活様式」という表記もある(ただ,単純にurban life styleのような語かもしれない)。「排除の地政学」(p.43)なんて言葉も使っていて,意外と都市問題に関する議論も含まれています。「高級化」(p.41)とあるのはジェントリフィケーションのことだろうか。
「都市の魅力に市場性を持たせる」(p.53)には文化地理学者などに参加してもらう必要があるという。ピーター・ホールの「革新的都市」(p.56)についても言及され,「認知地理学」(p.66)なる語も何度か登場します。以前にも出てきましたが,「都市の隠喩」(p.90)について,機械的な理解から,生物学に依拠する有機的なものに移行すべきだと主張する。「文化の多様性の受容」(p.82)という観点はフロリダと近いですね。そのうえで,「市民的創造性」(p.82)を強調します。創造性を持った主体が行動を起こすことで,平凡な都市が創造的都市へと変わるわけですが,その主体のリーダーシップが必要です。しかし,このリーダーは唯一無二ではだめで,更新できる資源であり,脱人格化が必要だといいます(p.84)。つまり,持続可能であることも重要です。持続可能性もランドリーのテーマの一つですね。行動する主体全てに創造性は必要ではなく,リーダーに従うハートナーシップは従順な人がいいのでしょうか。そうした組織の創造性の事例としてはいくつかのグローバル企業(スターバックスなど)が挙げられ,それらに対して積極的な評価をしているようです(pp.90-91)。
4章から徐々にヨーロッパの諸都市における事例の話が増えてきますが,冒頭の英国ハダズフィールドの事例で紹介されるのが,EUによる革新的な都市を競うコンペティションです。3年間で300万ドルの支援をうけられるといいますが,そういうのが1997年にあったようです。こことヘルシンキの事例は理解できましたが,段々事例の話ばかりになるとヨーロッパに詳しくない私にはよくわからなくなってしまいました。第4章の結論辺りで,著者の社会観が記されています。「多様性を讃えること,固有性を維持すること,そして創造性を利用すること」(p.107)によって寛容な社会となるということです。社会の寛容性を重視するところはフロリダと同じですね。
5章に入り,「よそ者」(p.139)と「内輪の者」(p.140)の議論があります。都市のよそ者についてはジンメルも論じていますし,地理学者レルフもインサイド/アウトサイドという議論があります。移民を含むよそ者が地域に刺激を与えるが,内輪の者が培った地域での知識も重要で,「正しい均衡」(p.140)が重要だということですね。第6章のテーマである「創造的環境とは,それがビルディング群であれ,都市の一部であれ,それとも都市全体や,地域であれ,要するに一つの場所のことである。」「一つの物質的な条件設定」(p.168)であるといいます。その都市基盤にはハード面とソフト面があります。
本書の訳者は「文化経済学」の第一人者ですが,本書でも文化産業が重視されています。とはいえ,ホルクハイマー&アドルノのような批判的な意味ではもちろんありません。米国では文化産業における雇用は10%以上を占めるという(ヨーロッパでは5%程度)。「文化的な創造性と技術的な創造性との融合」(p.176)という表現からは,先述した創造性とイノベーションの概念のつながりと関係します(ただ,訳文では革新という言葉とイノベーションという表記もあり,別物かもしれません)。「経済的な創造力」(p.179)という表現もあります。
p.180
ではホールを引用しながら「永遠に創造的でいることは可能か?」と問う。創造性というのは静態的でなく動態的だとしたうえで,それを持続する必要性を訴える。ズーキンには言及していないが,「ロフト・リビング」(p.182)の語も見られる。本書では一貫して従来の都市計画を批判しているが,「開発における文化の役割が再評価されることとなった」(p.183)としている。こちらもハーヴェイへの言及はないが,「企業家主義」(p.183)や「企業家精神」(p.184)について書き,「場所のマーケティング」(p.195)やブランド化についての議論もある。都市の創造性の一側面として景観も捉えており,有名建築家の公共施設の存在を肯定的にとらえている。もちろん,多様な人が集まる都市において創造性が生まれるという発想は一貫しており,「ディベート,民主主義,構想(visioning)」の重要性を説く。
「自覚的でわかりやすい,都市の創造性と革新に関する政策などはめったにあるものではない」(p.197)と述べ,創造的都市の達成は意図して必ずなされるものではないという。「創造性は,必要性や欠乏,衰退,闘争の帰結,リーダーシップの変化,社会的・政治的変化,パラダイム転換の台頭などを通じて生まれた」(p.200)という複雑性も語る。「全体的な(holistic)考え方とは,多様な角度,あるいは学際的なやり方をこえる,よりふみこんだ物事の考え方である」(p.205)と全体的な(俯瞰的な)見方についても肯定的にとらえている。p.208には都市の創造性のための7つの領域を示す。1.市民的創造性,2.都市創造性のサイクル,3.イノベーションと創造性のライフサイクル,4.都市のR&D(研究開発),5.イノベーションの基盤(matrix),6.活力と生命力,7.都市のリテラシー。「メタ都市学体系」なる語も登場し,文化地理学による洞察だという。
インターネットによる近年の通信技術も肯定的にとらえている著者だが,「私は「非空間的都市領域」への移行は不可避なものだとする観念に挑戦する。あるいはその領域を地理学や都市を運命付ける資源への近接性というものを欠いたものと単純に捉える考え方に挑戦する。」(p.207)と述べ,先にフェイス・トゥ・フェイスも重視していたが,場所の重要性は保持している。p.210では著者独自の考え方ではないが「SWOT分析」なるものを説明する。Sは長所,Wは短所,Oは好機,Tは脅威だという。
都市を有機体として捉える見方も本書を痛感しており,「都市の遺伝子暗号に創造性を組み込もうという広範な目的」(p.215)について語る。文化の強調も繰り返し登場し,「文化と創造性」(p.216),危険な企てとはいいつつ「文化計画」(p.217)について語り,「文化空間美術館,ギャラリー,劇場の文化施設」(p.217)の重要性を強調する。先のディベート云々に加えて,他人の議論を参照して「ブレイン・ストーミング,マインド・マッピング,創造的分類パック,シネクティクス」(p.222)などの言葉を列挙し,「都市想像力ネットワーク」(p.232)なるものの存在を強調する。
「スラム街の形成,古い都市建造物の大規模破壊,都市の民族構成の多様性の無視」(p.250)を悪い実践と位置づけ,「それらはしばしば無知やものぐさから生じる」とする。「創造性とイノベーションを強制的に推進させることはできるか?」(p.253)との問いはやはり否定的な語り口で,答えはノーであり,「マンフォードやリンチやジェイコブズ」(p.255)を組み合わせれば完璧な都市思想ができるのか,とこれまた否定的に語る。「オリンピックを契機とする,バルセロナの突出した都市再生」(p.277)という記述を見つけました。「都市を再生可能な資源のように動かしていく都市エネルギー」(p.281)という表現も有機体的な都市の捉え方を示しています。「創造的都市,それは定義からして反射的に(注:おそらくreflexiveの訳)学習する都市である」(p.301)と述べ,有機体としての都市は自己組織化されるもののようです。「つまり,創造的都市は,みずからの独自の評価に対する責任をとることで学習する」(p.303)のだそうです。創造的都市は単体としてではなく,「・協調的:他の都市との接触,・競争的,・共同的:共同学習を通じて知識を共有,・内部的:組織内に広める」(p.271)というように,他の都市との関係性のなかで成立します。IT技術を利用した都市の創造性に関するデータベース化構想について肯定的に語ると土肥宇治に否定的にも捉えています(p.276)。先に書いた,アーバニズムはp.310では()つきで「都市的生活様式」で訳されています。そして先ほど出てきた「都市リテラシー」と一緒に語られます。「都市のリテラシーとは都市を「読む」能力と技術」(p.310)としていますが,これはルフェーヴルやバルトのような記号論的意味合いではなく,リンチ的意味合いでしょう。この後に,カルチュラル・スタディーズの重要性についても論じられています。
さらに7つの領域。1.価値の創造と価値の複雑化,2.ハードウェア的解決からソフトウェア的解決へ,3.少ない手持ちで多くのものを,4.文化を渡り歩いて生きる,5.さまざまな見通しを評価する,6.旧いものと新しいものを想像豊かに結びつける,7.学習する都市。p.331では多文化主義の重要性を主張しながら,さらに文化間主義(inter-culturalism)の考え方が必要だといいます。最後になりますが,p.337で紹介されているパッツィ・ヒーレイなる人の1997年の著作『Collaborating Planning』が気になりました。ちょっと調べたら,日本人でも紹介している人がいました。ちょっと調べてみましょう。

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