2020年もよろしくお願いします

2019年12月22日(日)
府中TOHOシネマズ『映画 妖怪ウォッチJam 妖怪学園Y 猫はHEROになれるか』
子どもたちに観に行くと約束していたものの,いつの間にか公開されていて,急遽観に行った。うちの長男はけっこう怖がり屋で,「妖怪ウォッチ」は幼い頃にアニメを1話観ている途中で怖くて観られなくなり,その後積極的には観ていなかった。ようやく最近になって新しいテレビシリーズを動画サイトで1週間遅れで妹と一緒に観るようになった。私も当初はやはり水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」が民俗学にも貢献しているのに対し,「妖怪ウォッチ」は妖怪をキャラ化しすぎていると食わず嫌いだったが,観てみるとやはり面白い。ということで,「妖怪学園Y」は本編とは少し違いますが,初の映画版を観に行くことになりました。
今やっているテレビアニメは25分の1話をオムニバス形式で放映していますが,映画となると当然長編です。脚本もしっかりしているし,なんといっても最近のアニメは絵がきれい。私の時代にも「北斗の拳」などが映画化されていましたが,原作の絵が丁寧すぎるために,アニメになると雑に見えて仕方がなく,子どもながら(まあ,もう中高生ですが)にその辺が残念で仕方がありませんでした。ともかく,本作も大人も十分に楽しめるものでした。
https://www.eiga-yokai.jp/


2019年12月31日(火)
冬休みに入り,子どもたちと毎日3人で過ごしている。妻の仕事も前日で仕事納めだったので,この日は少しは気が抜けると思いきや,仕事仲間と忘年会とやらで朝帰り(未就学生を含む2児の母が朝帰りってすごいですね。しかも,年に数回はあります)。ということで,急遽映画で時間つぶし。幸い,この日はTOHOシネマズが会員サービスデーをしていて,1400円で観られるということで,子どもたちに作品を決めてもらう。
府中TOHOシネマズ『ルパン三世 THE FIRST』
ついに,ルパンもフルCGになりました。ルパンの映画は宮崎 駿の『カリオストロの城』などもあり,その世代の人々は理想形がある。声優に関しても,やはりドラえもんが大山のぶ代でなければならないように,ルパンは山田康雄でなければならない。ただ,日本の技術も向上してきたCG作品ならば,別物として楽しめるのではないかということで観ることにした。5歳の娘が渋っていたのだけが気がかりだが。
「THE FIRST」とタイトルにあるように,ストーリーはルパン三世のおじいさん,アルセーヌ・ルパンとの関連が組み込まれている。なんと,ヒトラーがブラジルで生きていた!かもしれない,という設定の下,古代遺跡にとてつもない破壊兵器か巨大なエネルギー発生装置かといった,壮大な物語です。まあ,そこそこ楽しめました。娘も怖がる場面もありましたが,なんとか最後まで観てくれました。
https://www.lupin-3rd-movie.com/


2020年1月1日(水)
この日は妻が子ども2人連れて,栃木に住む自分の母親に1泊で会いに行く。以前は私も同行していましたが,その家のわが家用の寝具が不足していて,寝心地が悪いというのを最大の理由として数年前から私は行かなくなった。そんなことで,約2日間,1人で過ごせるということで,元日はとりあえず映画。行きは遅いということで私も映画の時間を合わせ,一緒に新宿へ。早めのランチを家族4人そろって食べて,私は映画館へ。
新宿シネマカリテ『家族を想うとき』
ケン・ローチ監督最新作。私はきちんと認識していなかったが,ローチ監督は前作で引退を表明していたという。なんといっても私の母と同い年の83歳というから驚くしかない。ともかく,作品を観るだけではその衰えはみじんも感じられない。キャストの紹介を読むと,その多くが映画初出演。4人の家族をリアリティを感じさせながら,それ以上の希望溢れる姿として描く手腕は感服するしかない。
主人公の男性は50歳になって新しい仕事を始める。中学生(高校生?)の息子と小学校高学年の娘がおり,妻は訪問介護の仕事をしている。これまで職を転々としていた主人公は,宅急便の会社と契約を結び,個人事業主として働く。とはいえ,仕事内容はほぼ会社に支配され,ノルマをこなせないと制裁が科される,そんな仕事。一方で,かつては成績優秀だった息子がグラフィティに目覚め,学校をさぼり,問題を起こす。毎日かつかつで生活しながら,バラバラになりつつある家族を何とかつなぎとめようとする物語。優等生の娘が家族のつなぎ目として頑張るが,ハッピーエンドとはいえない結末。前作『わたしはダニエル・ブレイク』では,単身の高齢者で生活保護を受けるかどうかというような状況だったが,本作は働き盛りで未成年の子どもが複数人いる家族の物語。特定の状況の人の生活だけでなく,多くの人がそれぞれの事情で生活に苦しんでいる現代社会を見事に描いている。なお,原題は「Sorry We Missed You」となっている。Weが誰で,Youが誰かを考えさせられる。
https://longride.jp/kazoku/


2020年1月2日(木)
年末に献血がしたかったが,かなわず,この日の予約はもう締め切られていたが,ダメもとで立川に来てみた。だめだったら映画にする予定。自宅を出るのが少し遅くなってしまい,映画を先に観ることにした。そういう予定なので,作品にあまり選択肢がなく,何となく選んだ作品。
立川キノシネマ 『テッド・バンディ』
実在した米国の連続殺人鬼を描いた作品。1970年代が中心である。予告編では主人公が殺人犯であるような描き方だが,本編はそうではない。以下はネタバレを含みます。主人公は法学校に通っていた過去があり,裁判では最終的に弁護士を解任し,自らが弁護を買って出る。警察の証拠はすべて状況証拠であり,この頃から激しくなってきた過熱報道を逆手に取り,全米各地の未解決事件を全て自分と結び付けようとしていると,視聴者に訴える。米国で初めて彼の裁判で法廷にテレビカメラが入る。観る者は,犯人は彼かもしれないけど,そうではないかもしれない,と思い(私だけか),後半で「唯一殺されなかった女」とされる恋人が「初めに彼を通報したのは私だ」と後悔の念にさいなまれるシーンがあるが,それによってさらに彼は冤罪だとの思いを強くさせられる。しかし,死刑施行前の彼女の面会での彼女のセリフですべてが解決する。彼女の存在がフィクションかどうかは分からないが,よくできた脚本である。とはいえ,彼女が当初から確信をもって主人公のことを信じていなかったかどうか,もしそうだとしたらなぜなのか,その辺は丁寧に語られない。
http://www.phantom-film.com/tedbundy/

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自治体の姉妹都市交流

佐藤智子(2011):『自治体の姉妹都市交流』明石書店,273p.5,500円.

 

オリンピック研究の文献調査がひと段落し、具体的に2020年東京大会を事例に何を調べていくか、ということを考え、ホストタウンについて概観する研究目標を立てている。ホストタウンというのは日本独自の事業のように思われる。その用語自体がいかにも日本語的英語だが、事前合宿というのは多くのスポーツの国際大会でありうることだと思う。実際に、陸上の選手たち(特に長距離走)が標高の高い土地で合宿を行うというのはよく聞く話だし、実際に文献調査のなかでも医学的に効果的なのかを実際の選手の例で研究したものがあった。しかし、日本のホストタウン事業はそうしたアスリート側の需要だけではないようだ。
2020
年東京大会では、政府の首相官邸が音頭を取って、ホストタウンの推進を行っている。単なる推進ではなく、実施する自治体はその計画を政府に提出し、登録をする必要がある。その登録数は現在300を優に超え、400に迫ろうとしている。下記ウェブサイトに公表されているそのリストによれば、既に姉妹都市提携を結んでいるものが少なくない。そもそも、この姉妹都市にせよ、ホストタウンにせよ、日本の地方の小さな町村が、世界の途上国の小さな国と関係を結んでいることもあるのだから、なぜその2箇所が結ばれるのか、という単純な疑問が生じる。オリンピック総論に結びつけるのは難しいかもしれないが、そんな素朴な地理学的関心を抱く対象でもある。そういう意味でも、姉妹都市に関する研究をひとまず調べたところ、日本では地理学者が執筆している論文がいくつかあったし、米国でも一昔前の著名な文化地理学者であるゼリンスキーが1991年に米国地理学協会の雑誌に掲載した論文があった。ただ、日本の地理学者の論文は、いい方は悪いが片手間にやっているような感じであり、本格的に姉妹都市研究者というのはやはり多くはないようだ。そんな中、複数の論文を書いている人物がいて、その人物について調べたら本書を刊行していることが分かり、早速購入していただいた次第。しかも、われわれの翻訳を出版してくれた明石書店が発行元である。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tokyo2020_suishin_honbu/hosttown_suisin/

序章 自治体の姉妹都市交流に関する研究の必要性
1章 姉妹都市交流の概観
2章 研究の目的と対象
3章 姉妹都市交流に関する先行研究
4章 岩手県の自治体における姉妹都市交流
5章 姉妹都市交流に関する事例研究――姉妹都市交流が休止している事例
6章 姉妹都市交流に関する事例研究――姉妹都市交流が活発な事例
終章 自治体の姉妹都市交流――継続的交流を可能ならしめる要因

本書は著者の博士論文とのこと。とはいえ、巻末の著者略歴を見てみると、1980年に米国の大学院を修了しており、エミリー・ディッキンソンに関する英文著書を1999年に出版している。どうやら文学研究者として一定の実績を積んだ後、2009年に東北大学で行政学に分類できるのかは分からないが地方自治体の研究を手掛けて博士を取得し、本書出版時には岩手県立大学の教授をしている。本書における事例研究も岩手県内の市町村に関するものである。あとがきを読むと、著者の略歴と本書に至る経緯がよく分かる。著者は自らの関心に導かれ、米文学畑から行政学へと移ったわけではないようだ。1988年に新潟大学から岩手県立大学に移ったのを機に、そして最近とみに叫ばれるようになった大学の地域貢献の一環として、岩手県を中心とした、そして通訳として関わりのあったという姉妹都市交流に関する調査を他の2人の研究者と共同で始め、その後他人の推薦で大学院に編入学し、博士論文としてまとめることを決めたという。
ここまでの方向転換は簡単にできることではなく、またほとんど未踏の領域に取り組むのは大変だったと思う。本書にまとめられた調査結果は私の素朴な疑問に答えてくれる、詳細で丁寧なものであり、重要な価値があると思う。しかし、残念なのはやはり学術的な位置づけが、少なくとも地理学を学ぶ私にとっては不十分に思われたことだ。文献表にある著者が発表した2002年から2008年にかけての12編の論文は全て所属する大学の紀要に執筆されているが、あとがきでは日本国際政治学会の国際交流分科会での報告をしているという。しかし、国際政治学分野での位置づけがなされているわけではないし、またあとがきで社会学の先生に指導を受けたとあるが、社会学的に位置づけられているかというとそうでもない。姉妹都市交流を一般的な社会変容に位置づけることにとどまっている。とはいえ、私が漠然と考えていたように、この姉妹都市交流は1980年代の「国際化」という風潮の下で拡大し、さらに竹下政権下で行われた1989年のふるさと創生政策による1億円の地方交付金が制度・財政的な面を後押しし、民間でもその時期に設立された国際交流協会がその主たる担い手になっているという位置づけから学ぶことは大きい。
後半の実証編ではまず、岩手県の当該市町村へのアンケート(16件で回答率100%)を行い、全体的な傾向を整理している。ブール代数アプローチについての詳しい説明がないのは残念だが、要はこの調査では、従属変数を4つの説明変数によって理解するというもののようだ。その4つの変数とは、①姉妹都市提携の申し入れは岩手県側か、外国側か、②公的資金の利用の有無、③役所の担当者が連絡を取る際の言語の障害の有無、④都市間の訪問者数、である。従属変数としては、姉妹都市交流が活発に行われているか否かであり、上記4つの説明変数はいずれも活発に行われるための条件ととらえることができる。しかし、実際には4つの条件全てが満たされなくても交流が継続している自治体もあれば、条件を満たしているのに交流活動が休止中の自治体もある。それらを個別に説明するのが第5章以降になる。第5章は交流が休止に至ってしまった自治体の事例、第6章は交流が継続している自治体の事例となっている。
本書の事例研究を読むと,姉妹都市の研究がこれまでほとんどなされていなかったかが理解できる。姉妹都市とは国内の自治体と海外の自治体との締結によるものである。すなわち,国内の調査と海外の調査を含むのだ。本書がもっぱら岩手県に限定されるのは,ただでさえ国内の姉妹都市締結数は多いのに,それぞれの相手先が世界中に散らばっているので,ある程度一般性を持たせようとしたときに選ぶ事例も限定される。著者はそれをとりあえず岩手県だけでも網羅しようとしているのだ。とはいえ,著者の言語能力の制約から,近年日本で姉妹都市締結が増加している中国に関しては,調査から外している。とはいえ,中国以外については一通りの調査をしており,岩手県に限定されてはいるが,姉妹都市交流に関する一般的な状況と個別の状況については本書でかなり把握できるのではないだろうか。姉妹都市交流がそもそも,日本が高度成長後の余裕のあった時期に始まった国際化ブームに乗る形で,「異文化交流」のような言葉を使ってもいいが,安易にお互いの町を訪問しあうという活動に終わったものが多いようだ。その訪問についても,ホームステイというのは必ず組み込まれるものの,現地での行動は観光ツアーのような詰め込み式の旅行であり,本当の意味での人的交流や深い異文化理解があったわけではない。そもそも,姉妹都市の関係自体が形骸化し,象徴化されているという。一方で,古くから締結関係にあったものでも市長の想いが強い場合や,連絡を取り合う職員の存在,そして地元の民間団体の努力などによって,交流活動が継続的に行われた事例はいくつか本書で紹介されている。著者はこの交流活動を,それを行う主体と同じ目線に立ち,良好な交流が行われた場合,その小さな試み積み重ねが世界平和へとつながっていくと信じている。政治的,もしくは経済的な二国間関係では産まれえない,本来の人間関係のあり方に基づく国際関係がそこにはある。とはいえ,著者も形だけの姉妹都市交流の姿をいくつも目の当たりにしており,そうした自治体に向けられた視線は厳しい。
本書の著者だったら,オリンピックのホストタウンのあり方に対して,何を想うのだろうか。この作業がひと段落したら,連絡を取ってみたい。

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TOKYO 1/4と考えるオリンピック文化プログラム

東京文化資源会議編(2016):『TOKYO 1/4と考えるオリンピック文化プログラム――2016から未来へ』勉誠出版,255p.2,500円.

 

2016年の出版ながら、今更見つかった本。とはいえ、来年3月に発行になる『経済地理学年報』では、オリンピック関係の特集を組んでもらい、私も執筆したのだが、この執筆陣に入っている太下義之氏は、本書の「編集参与」とのこと。結局1度しかお会いしていないので、本書の存在は教えてくれなかったな。本書の編者である「東京文化資源会議」とはそのウェブサイトによれば、2014年6月から活動を始めた「東京文化資源区構想策定調査委員会」の発展した組織であり、委員会としては内閣府や国土交通省、文化庁を中心とした政府内委員会だったようです。当然、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会が東京での開催に決定した2013年以降に動き出した委員会ですから、それを前提としているのは間違いありません。しかし、当時は2012年ロンドン大会の後であり、2016年リオデジャネイロ大会はまだでした。日本ではあまり知られていませんが、オリンピック・パラリンピックはスポーツ競技だけでなく、文化プログラムの実施が開催都市に義務付けられています。一つは、前回の大会終了後から4年間を文化オリンピアードと名付け、開催国での文化事業を行うことになっています。これはオリンピック憲章に明記されているものではありませんが、開催年のオリンピック村の開村から閉村までは文化イベントを行うこととなっており、その計画は国際オリンピック委員会(IOC)の承認を必要としている。そして、太下氏の文章でも詳しく書かれていますが、2012年ロンドン大会が、文化オリンピアードから2012年の文化プログラムまで、非常に充実したイベントが開催されたことが知られていて、本書を読むと東京でも一部の人たちの中では、「東京でも!」という強い意気込みが感じられます。
https://tcha.jp/

はじめに(柳与志夫)
I
 オリンピック文化プログラムとは何か
 「オリンピック文化プログラム」序論――東京五輪の文化プログラムは2016年夏に始まる(太下義之)
 対談 オリンピックが「戦後」を終わらせる(青柳正規×御厨貴)
II
 フロントランナー,4人が語る!
 回帰する都市リノベーションする都市(隈研吾)
 熱狂の中心を作り出すために(猪子寿之)
 みんな乗りこめキャラバン隊が行く(野田秀樹)
 2020年にTURNする(日比野克彦)
III
 文化プログラムのトリガー・文化資源
 2020年へのレガシー2020年からのレガシー(吉見俊哉)
 東京の文化資源の多様性と東京文化資源区構想の意義(柳与志夫)
 「東京ビエンナーレ」が日本の地域を変える(中村政人)
IV
 全国に展開する文化プログラム
 個都・東京――東京文化資源区構想と東京オリンピック2020をめぐって(南後由和)
 水と土に育まれた「創造交流都市にいがた」(篠田昭)
 過去・現在・未来に求められる地域活動――台東区谷中界隈の事例にもとづく考察(手嶋尚人)
 英国から,ふじのくに静岡へ――新たなレガシーが生まれる(岩瀬智久)
 文化が開く京都の未来~創造,育成,交流~(平竹耕三)
 地方から発信するBEPPU PROJECT(山出淳也)
 沖縄文化を世界へ――2020年東京五輪を契機とした地域文化発信の可能性(杉浦幹夫)
資料編
 オリンピック憲章(2014年版 第五章三十九条)
 東京文化ビジョン(文化戦略・主要プロジェクト2015年策定)
 参考資料リスト
コラム(桝本直文)
 ①2008年北京大会のギリシャ芸術展示館
 ②2012年ロンドン大会大英博物館が文化プログラム会場に
 ③アテネの地下鉄ミニミュージアム
 ④ナショナルハウス

さて、本書にはいくつかのインタビュー記事が掲載されています。もちろん、2020年東京オリンピックに関わる人たちです。文化庁長官(青柳正規)、新国立競技場設計者(隈研吾)、文化プログラムを先導するプロジェクト監督(野田秀樹・日比野克彦)などです。野田秀樹が本書で語っている「東京キャラバン」は実際に2015年から実践されているようです。
https://tokyocaravan.jp/about
そして、上記にある「東京文化資源区」と名付けられたものは、北は谷根千から南へ、上野、本郷、湯島、秋葉原、神田、神保町のエリアとなっています。本書ではまず吉見俊哉がこの地域の重要性を訴えます。文化研究者らしく、文化概念の定義を説明していますが、それは批判的な立場ではありません。耕作するという本来の意味から教養という意味に展開してきたのがcultureですが、その隠喩を元に戻し、人の成長(教育)にも土壌が必要なんだみたいな言い方で、本郷は今でも東大を中心とする文京エリアですが、神保町エリアを江戸時代の参勤交代から明治期の中国人留学生、その後の東京大学(本号より前に神保町で創立されたそうです)、学習院大学、一橋大学、東京外国語大学などの立地場所として、現在の書店街(出版社も)として位置付けています。ある意味、吉見氏の門下生ともいえる、南後由和も話を合わせるように、東京の江戸時代の姿まで遡り、「の」の字を描くように、1964年オリンピックで欧米文化の下で開発された青山・六本木・渋谷からぐるっとまわって、今は東京の北から東の方がホットなスポットだと論じています。ほとんどが日本語で読める多様な分野の書籍を用いて、言葉巧みにこの東京文化資源区の魅力を伝えています。
後半では、日本各地の取り組みが紹介されます。東京からはまさに東京文化資源区に入っている谷根千の仕掛人ともいえる手嶋氏によって、谷中が墓地のおかげで暗いイメージを持っていた時代からの転身が語られます。新潟市は市長が執筆し、創造都市ネットワークの先進都市ともいえる新潟市の魅力がこれでもか、と列記されます。静岡県からは行政の担当者が同様にPRをします。京都からも京都市の行政担当者が、沖縄県からも行政担当者による宣伝がなされています。これらを読んでいると、本書の執筆時(2015年末から2016年初頭にかけて)には、まだ日本政府や組織委員会から文化オリンピアードの地方への働きかけはないようです。しかし一方で、静岡県の行政担当者はロンドンにも視察に行っているくらい、ロンドン大会の文化プログラムを目の当たりにし、それと類似したものが日本でも2016年以降展開することを期待し、地方活性化の起爆剤とするべく準備をしていることが分かります。少なくとも現時点では、組織委員会のウェブサイトを見ても、文化オリンピアードについての詳細な情報は得られず、かれらが期待したような展開をしているようには思えません。一度、本書への寄稿者に対して、その後どうだったかを聞いてみたいものです。

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オリンピックは変わるか

チェルナシェンコ, D.著,小椋 博・松村和則編訳(1999):『オリンピックは変わるか――Green Sportsへの道』道和書院,278p.2,500円.Chernushenko, D. : Greening Our Games: The Environmental Guide for Sports & Recreation Decision-makers.

 

オリンピック関連書籍をさまざまな方法で探しているが,少し間を置くと,同じ方法でもこれまで見つからなかった本が見つかることがある。本書もそんな感じで見つかったが,原著の書誌情報が著者名と書名しか分からなかったので,ウェブで調べてみた。しかし,タイトルそのものの書名は出てこなかった。著者はWikipediaに項目があり,そこには以下の著書があった。邦訳が1999年だから,やはりこれのことか。
Chernushenko, David (1994). Greening our games: running sports events and facilities that won't cost the Earth. Ottawa: Centurion Publishing & Marketing. ISBN 0-9697571-5-8.

序文
セクションA スポーツのグリーン化――なぜそれが必要か?
序章 スポーツのグリーン化――なぜそれが必要か?
 第1章 健康な身体,健康な地球:そのつながりをつくること
 第2章 政治的圧力の増大と経済的影響力
 第3章 グリーンスポーツ倫理の必要性
 第4章 持続可能なスポーツの原則を定義する
 第5章 全てのレベルで持続可能なスポーツを促進する
セクションB スポーツのグリーン化――いかにすればそれは可能か?
 第6章 施設の建設と運営
 第7章 大会の遺産:自然環境/社会/経済
 第8章 環境評価基準の開発:招致活動をグリーン化する
 第9章 グリーントラベルとグリーンツーリズムの促進
 第10章 全てのレベルでスポーツのグリーン化を――実践的ガイド
 第11章 核施設に関する提言
付録A ケーススタディ:彼らの物語を語る
付録B 事実と数値:経済効果の数量化
付録C 行動規準

著者は学術研究者ではなく,編訳者あとがきによれば,「スポーツと環境のコンサルタントをしている」(p.273)とのこと。訳者たちは「グリーンスポーツ研究会」という団体のメンバーであり,この団体の創設時にカナダの活動団体をウェブで見つけ,その代表者が著者であったという。東欧やロシアっぽい名前だが,カナダ人らしい。厳密な学術書ではないが,居住権と立ち退きに関するCOHREのレポートのように,本書から学ぶことは大きい。
原著タイトルの「Games」は,一般的にオリンピック競技大会を指すことがあると思うが,言葉自体にオリンピックを含意する所以はないと思う。目次にも一切オリンピックの語はなく,また書名は「Gamesのグリーン化」であるのに対し,目次では「スポーツのグリーン化」となっている。まあ,「ゲームのグリーン化」では分からないから「スポーツ」にしたのかもしれないが。ともかく,前半ではあまりオリンピックの話は登場しない。まず,私たちが普段行うスポーツ(まあ,大人になると普段スポーツはしないが,高校までで普通に行われる体育館での体育や部活などを想定すればよいか)でも,室内で行われるものは少なからず健康被害が考えられるというところから始まる。確かに,個人の住宅建設でも薄い板を張り合わせた合板とか,細かい板をつなぎ合わせた集成材でも,それらを接着させる接着剤の健康被害がいわれることがある。体育館の床などは当然,合板か集成材だし,そこに分厚くワックスが塗られている。まあ,そんなことだろうか。もちろん,スポーツの多くの起源は自然でのものであり,それが徐々に木を取り除き,地面を平らにし,石を取り除き,同じ大きさの砂を敷き詰めたり,土を固めたり,芝生を敷いたりするようになる。芝生の管理は大変で,伸びた芝を刈るだけでなく,雑草が生えないように,枯れないように管理をする。冬季スポーツであれば,雪の量,氷の厚さを管理する。トラックの形状,長さなどが規格化され,その管理や規格化がやりやすいように,徐々に室内化されていく。自然環境への負荷が増え,競技者の身体の健康への影響が増していく。既に近代化されたスポーツを標準としてしまっている私たちがあたり前としてしまっていることが,この時代に根本的に問われるようになった。
2章はよくある,オリンピックなどのメガ・スポーツ・イベントに典型的に表れる商業化や政治利用の話がなされるが,それもやはりスポーツによる環境破壊を促進する要素であると論じられる。そして,第5章のタイトルにあるように,「全てのレベル」で考えていることに本書の特徴があり,メガ・イベントだけを問題視するのではなく,私たちに身近なスポーツ環境を見直すことの意義を訴えている。持続可能性というのはメガ・イベントのことを議論するだけでは不十分で(極端な話,イベントはなくなっても,民衆のスポーツは継続する),一般の市民が持続的に環境と自らの健康を守りながらスポーツをし続けられる,というのが本書の目指すところのように感じた。とはいえ,おそらく原著が書かれた時期の直近のオリンピック大会である,1994年リレハンメル冬季オリンピック大会の説明は多い。
訳者あとがきによれば,この訳書は原著の2/3の分量だそうだが,2つのセクションに分かれ,半分が実践編に充てられている。非常に具体的な話が多く,オリンピック研究で指摘されていたさまざまな問題のなかでも環境への配慮という分野はもうかなりのレベルで行うべき対策は明白で(これも時代によって変化はするのだろうが),本書はそれがかなり網羅的にまとめられていると思う。日本オリンピック委員会,あるいは2020年東京大会の組織委員会は本書を知っているのだろうか。本書に限らず,COHREの報告書とか,そうした文書を調査し,整理し,計画に反映するようなことはやらないのであろうか。私自身が学術分野に身を置こうとする人間であるから根本的な考え方が運営側の人間とは違うのかもしれないが,そうした先人の知恵を取り込んでさまざまなものに配慮するオリンピック大会,それを推し進めることに何の抵抗があるのだろうか。やはりIOCの要求に応えるので精一杯なのだろうか。ともかく,新しいオリンピック運営を主張するのであれば,これまで問題となっていたことに真摯に立ち向かい,開催都市の住民の声を聞きながら,学術研究の成果を活かして作り上げればいいだけだと思うのだが,難しいのだろうか。素朴な疑問を抱く。

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子どもと映画を観る楽しみを覚えました

2019年1124日(日)

パルテノン多摩小ホール 多摩シネマフォーラム「ファミリー・デー」
翌日は,多摩シネマフォーラムの子ども映画2本立てに子ども2人を連れて行った。
『映画クレヨンしんちゃん 新婚旅行ハリケーン 失われたひろし』
午前中はクレヨンしんちゃん。以前はあまり興味を示さなかったクレヨンしんちゃんですが,保育園の運動会か何かで映画のエンディング曲が使われたようで,急に興味を示し,行くことになった。私も映画版を観るのは初めて。これまでもいくつか予告編は観ていたが,とりあえず本作に関してはなかなかよくできていて,大人が観ても十分に楽しめました。もちろん,子ども2人も大満足。子ども映画は通常の映画館でもまあ,それほど周りを気にするわけではありませんが,こういう映画祭でかつ映画館ではない場所での上映だと,わが家に限らず子どもたちも思う存分笑って,楽しめます
『名探偵コナン 紺青の拳(こんじょうのフィスト)』
昼休みはあまり時間がなく,しかしいい天気だったので,パルテノン多摩の階段状になっているところで,事前に買っておいたおにぎりでお昼ご飯。同じような考えの人が多かったです。
さて,午後は名探偵コナン。こちらも映画は初めて。というか,怖がりの長男は一度アニメを観た時,残忍な殺人シーンを目の当たりにして以来,コナンを見ることはなかった。9歳になった今回は克服できるでしょうか。そして,5歳になった長女は全編観られるでしょうか。シンガポールを舞台にした今回の映画。なんと,前半の多くが字幕でした。これはちょっと予想外。コナンって対象年齢は小学生だと思うけど,小学生で字幕ってどうなんでしょう?ともかく,文字を読めるようになってきたばかりの長女には厳しいですね。しかし,なんとか最後まで席には座ってられました。長男もそれなりに楽しんだ様子。私もシンガポールに言った気分で楽しみました。
https://www.tamaeiga.org/

2019年121日(日)

調布シアタス 『映画すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ』
そして,翌週も映画サービスデーということで,話題になっていたすみっコぐらしの映画をまた子ども2人を連れて観に行きました。長女もキャラクターとしてのすみっコぐらしはかなり好きなようです。さて,映画がネットで話題になっていたのはもっぱら大人が観て癒されたという感じのもの。観てみてちょっと納得。なかなか脚本が凝っていて,ちょっと幼い子ではその内容のちゃんとしたところまで理解できないかも。とはいえ,ストーリーは理路整然としているわけではなく,子どもらしい訳の分からなさもあり,私は少し眠気を催す感じでもありました。なので,意外にも長男が一番楽しめたようす。でも,最後の最後で私が楽しみました。エンディングが流れ,どこかで聞いた歌声。原田知世さんだ~と思いながらもじっくり聞くとそうでもないような。でも,やはり原田知世さんでした。そして作曲は伊藤ゴローさん。そうそう,私が10年以上前にライブ通いをしていた頃,知世さんはあの辺の人たちと一緒に音楽をしていたんですよね。私の手元にも『music & me』なるアルバムがあります。参加ミュージシャン情報は詳しくエンドクレジットに出てこなかったけど,きっとチェロは徳澤青弦さんだ,なんて思いながら聴いていました。
https://eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=sumikkogurashi

2019年125日(木)

今年度は息子の小学校の保護者会に出席していなかったので,この日は有給休暇をとって,行くことにした。午前中は映画。
立川シネマシティ『ドクター・スリープ』
何を観ようかと悩んだ結果,なんとなく骨がある映画を観たいなと思い,こちらを選択。なんと,スタンリー・キューブリック監督作品『シャイニング』の続編。原作はスティーブン・キングで,『シャイニング』の40年後を描くという。主演は私の好きなユアン・マクレガー。『シャイニング』はよく覚えていないが,劇場では観ていない。大学生の頃によくある感じで,みんなで誰かのうちに集まり,お酒を飲みながらビデオで観る,そんな感じだったと思う。もともとホラーなどは好んで観る方ではないが,本作はともかく怖かったことだけ覚えている。なので,『シャイニング』ファンが喜ぶような細部の登場という仕掛けはあまり楽しめなかったが,単独でも十分楽しめる作品。それほど筋を複雑にしていないところがいいですね。観た後にすっきりとさせてくれる作品で,この時の私にちょうど良かったです。
http://wwws.warnerbros.co.jp/doctor-sleep/index.html

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文明の衝突

ハンチントン, S.著,鈴木主税訳(1998):『文明の衝突』集英社,554p.2,800円.

 

非常勤先の授業で,前期は日本地理を,後期は世界地理を教えている。今年度からは教科書はなくし,日本史・世界史の復習を地理的観点から行い,現代の問題へとつなげるような内容をオリジナルで考えている。とはいえ,前期・後期ともに中心となる参考図書を決めていて,後期はラコストの『地図で見る国際関係』(原書房)を使っている。今度,この図書とは関係ないが,世界の宗教について論じ,世界で起こる紛争の原因は宗教ではない,と語るつもり。宗教による対立を主張する著名な著作ということで,本書を読んでおこうと思った。フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』などと並んで,冷戦終結以降の世界を論じた代表的な著作だが,読んだことはなかった。フクヤマの本も同様だが,ハンチントンの文明の衝突論は,はじめに1993年に『Foreign Affairs』に掲載された論文が話題となり,本書自体は1996年に発行されている。

第一部 さまざまな文明からなる世界
 第一章 世界政治の新時代
 第二章 歴史上の文明と今日の文明
 第三章 普遍的な文明? 近代化と西欧化
第二部 文明間のバランスのシフト
 第四章 西欧の落日:力,文化,地域主義
 第五章 経済,人口動態,そして挑戦する文明圏
第三部 文明の秩序の出現
 第六章 文化による世界政治の構造変化
 第七章 中核国家と同心円と文明の秩序
第四部 文明の衝突
 第八章 西欧とその他の国々:異文化間の問題点
 第九章 諸文明のグローバル・ポリティックス
 第十章 転機となる戦争から断層線の戦争まで
 第十一章 フォルト・ライン戦争の原動力
第五部 文明の未来
 第十二章 西欧とさまざまな文明と単数形の文明

文明や文化という概念を世界区分の基準としたり,紛争の原因とみなす考え方に私は強く違和感を抱く。しかし,やはりこれだけ世界的に話題になった本であることもあり,論旨はしっかりしているという印象。そもそも著者によれば,この議論が冷戦終結直後に構想されたこともあり,その頃は政治体制などが紛争の原因であるという考え方が一般的であり,文明という観点で世界のあり方を捉える考え方はある意味で新しかった。また,サイード『オリエンタリズム』も言及されているが,世界を二分法で論じるのはそれはそれで有効であるものの,世界の多様性を捨象した上で成り立つ議論である。また,国家単位で紛争や秩序を論じるものは,現実を反映するものだが,極端に言って世界を184ヶ国で論じるものであり,一般論にはなりえない。ハンチントンは文明という観点から世界を8つに区分している(アフリカ文明が存在するとした場合,そして掲載されている世界地図には「仏教」の区分があり,これを入れれば9つになる)。この考え方は,私が都道府県名の研究で構想している考えに近い。日本の多様性を論じる場合に,日本を国単位で論じる日本論や日本人論は強引な一方で,市区町村単位で論じることは,そもそも地名の認知度からして無理がある。47都道府県という数は日本の多様性を考慮しているという点でちょうどよいのではないか,という考えだ。とはいえ,これを私が積極的に推し進めるのではなく,批判的に都道府県の意味を脱構築しようと考えているということだが。
ともかく,そういう世界の捉え方において,著者の戦略は一般読者にうまくなじむのだと思う。しかも,世界を文化や文明という観点で区分した人は歴史的に多いことを示す。トインビーは23区分。シュペングラーは八大文明,マクニールは9つの文明,バグビーは日本と東方正教会を別にするのであれば11,ブローデルは7つの主要文明,という具合だ(p.58)。ウォーラーステインの『地政学と地政文化』の文明論にも言及しているし,当然文明概念の単数形と複数形も議論されている。さすがに,世界的に話題になった著者であるから,一つ一つの事実は,過去のものは研究文献を,現在のものは報道文献などを適宜参照していて抜け目ない。また,サッセン『グローバル・シティ』(2001年)などとの傾向にも近いのか,統計データに基づく図表が数多く掲載されているのも特徴である。かつての文明論のようなものとは異なり,定量的な論拠も示す説得性を有している。文化や文明を強調してはいるが,政治はもちろんのこと,経済や人口動態にも目配せをしている。特に人口動態は本書において重要な要素であり,欧米の先進国が人口減少に陥っている一歩で,経済発展を遂げている中国やインドでは人口が増え,また非欧米圏のイスラームやアフリカではそれ以上に人口が増えている。英語やキリスト教は今後影響を増していくことはありえず,中国語やイスラーム教の影響が増しているのだ。
そこまでを踏まえた第四部から,衝突の内容に入っていく。その前の第三部で論じられているが,「引き裂かれた国家:文明の再定義の失敗」と題し,文明の境界線(本文では断層線(フォルト・ライン)という言葉がよく使われる)にある国家は,歴史上難しい選択を迫られるといい,ロシア,トルコ,メキシコ,オーストラリアという国々の状況が議論される。第四部ではよりミクロな事件へと焦点を合わせていくが,徐々にイスラームに注視していく。データを示しながら,戦後の衝突で文明間のもの,文明内のものを列記しながら,いかにイスラームが関わるものが多いか,しかも文明内ではなく,文明間の衝突の多くがイスラームに関わるものであることを繰り返し強調するのだ。もちろん,数値はハンチントン自身がつくったものではないが,この辺りの記述が批判的な論点になったように思う。イスラームは好戦的だという根拠のない一般的なイメージを本書は補強している。学術的な根拠をつけるから,多くの人は,やっぱりイメージ通りだ,となり考えを改めることをしない。
本文では,本書の最大のキーワード,文明を文化と置き換え可能な形で用いている。文明概念の検討ではウォーラーステインの『ポスト・アメリカ(原題:地政学と地政文化)』にも言及して,文明概念の単数形と複数形の議論も踏まえて,本書では主に複数形で用いられているが,文明と文化の違いには意外にも無頓着だ。また,過去の植民地支配のこともかなり事細かに検討されており,ヨーロッパ文明のその影響(キリスト教や言語など)も論じている。文化・文明は静態的ではなく動態的に変化するものだと認識しているはずなのに,文明を政治経済の原因・理由とする場合には静態的に捉えられる。それは長期間変わらないものであり,その土地固有で変えられないものであるかのように語っている。そもそも初期のカルチュラル・スタディーズの論者や,西川長夫『国境の越え方』で国民国家批判を展開する際に,文化概念を根底から問い直すような作業は本書にはない。著者はあくまでも本書を学術書ではなく,エッセイのようなものだと書いていた気がするが,影響力の大きさからいうと,学術的か否かということはあまり関係ない気がする。
最近,フランシス・フクヤマも新著を発表したようだ。改めてこの時代に出された話題になった著書を読んでおく作業は必要かもしれない。

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体調不良で久しぶりに3日間ゆっくり過ごしました

タイトルと内容は関係ありません。

2019年116日(水)

立川キノシネマ 『真実』
立川の高島屋にいつの間にやらできていた映画館。10月にオープンしましたが,ちょうどオープンしたての頃,同じ階にある室内遊び場に娘を連れてきたので知った。この日,いつも観る立川シネマシティに観たい作品がなかったので,こちらの映画館をウェブで改めて確認すると,なんと配給会社(制作会社?)のキノ・フィルムズがやっている映画館だとのこと。しかも,水曜日はサービスデイ1,200円。観ようか観まいか迷っていた是枝作品を観ることにした。まず,タイトル。ストレートすぎて観たいなという気分にさせない。フランスでの撮影ですが,カトリーヌ・ドヌーヴ主演ということだけでおなかいっぱいだが,それにジュリエット・ビノシュ,さらにイーサン・ホークまでついてくる。日本人の監督がどう演出するのだろうか。興味よりも懐疑心の方が先にくる。河瀨直美監督の『ヴィジョン』を思い出してしまう。こちらもジュリエット・ビノシュを起用したが,私的にはイマイチだった。
だが,結果的にはとても良い作品だった。かつての栄光を持続したい大女優という設定はちょっと古臭く感じるが,その古臭い設定をドヌーヴは見事に演じ,その陰の素材としての娘を演じるビノシュは私がフランス映画で観てきた普通の人間を自然体で演じている。そのアメリカ人配偶者としてホークは,これまたステレオタイプ的な役どころだが,その娘を演じる子役とともに,いい味を出している。ドヌーヴの共演者である若き女優を演じるマノン・クラヴェルという女優がまた魅力的で,その劇中作品にはなんとリュディヴィール・サニエ(『焼け石に水』以来のフランソワ・オゾン作品のミューズ)まで出ている。こちらは残念ながら加齢に伴いその魅力を半減させているが,役どころとしてはぴったり。「真実」というタイトルについても一定の方向性が示されている脚本であり,またフランスの映画制作の現場を感じさせてくれる。その真実とは映画に象徴される人間社会の役割論的なあいまいな存在として設定されている。
https://gaga.ne.jp/shinjitsu/

 

2019年1123日(土)

この日は子どもを妻に見てもらって,久しぶりに多摩シネマフォーラムに行った。この映画祭は今回で29回目ということだが,始まったばかりの時に行ったことがある。その時は不便な場所にある多摩市役所に隣接する市民ホールのような場所を会場にしていた。その時観たのは,一般公開のないような作品群だった記憶がある。その後も多摩センターにあるパルテノン多摩小ホールで上映される,一般公開後の作品を何度か観ているが,それはこの映画祭のものだったかどうかは記憶が定かでない。今回は永山駅近くにあるベルブホールという会場に初めて行った。図書館も併設された公民館でなかなかいい施設だ。これまで多摩地域に30年住んでいるが,訪れなかったことを公開するくらい。

永山ベルブホール 多摩シネマフォーラム「地方で映画を創造する」
今回私が選んだのは,トークゲストに柳 英里紗さんが登場するセッション。26分の短編から67分の中編までが4本。午前中から昼過ぎまでの長丁場だ。
YEAH』(2018年,45分,鈴木洋平監督,柳英里紗主演)
水戸市の若宮団地というところで撮影された意味不明な作品。トークショーを聴いていなければ「なにこれ?」で終わってしまう作品だった。監督等の話を聴いてみると,茨城県出身で今でも水戸市在住の監督が幼い頃から電車で水戸に出る際に沿線に気になっていた団地だとのこと。その後,仲良くなった変な友達の出身がことごとくその団地だったりして,ともかくおかしな雰囲気を醸し出す団地だとのこと。柳英里紗さんの話でも,ほとんど人気のない団地だが,出会う人がことごとく奇妙な人なのだという。英里紗さんは,『ローリング』の撮影地が水戸であったことから,水戸を好きになり,頻繁に訪れていたという。そんななかで,鈴木監督と出会い,本作にいたったとのこと。
VERY FANCY』(2018年,30分,柳英里紗監督)
このセッションは「地方」と銘打っておきながら,本作の舞台は代官山に表参道,世田谷区をロケ地に選んで「めちゃくちゃ東京らしい風景を選んだ」と監督はいう。監督自身が本人役で主演し,監督して映画を作るというそのまんまの設定。しかし,レズビアンで5人の女性たちをたぶらかすという設定はフィクション(?)。とはいえ,同性愛とかがテーマではなく,ともかくコンセプトとして監督が好きなもの,美しい思うものをこれでもかと集めてフィルムに収めたという作品。こちらも,トークショーの内容で,より見方が多元的になる。このトークショーには鈴木氏と柳氏の他に,後半2本のプロデューサーである杉原永純氏が参加した。この人がまたおしゃべり好きで,それでいて本質的な発言が多かった。3本目は俳優の染谷将太が監督をしているが,俳優が監督をするときの視点について語ったり,東京を舞台にしていたって列記とした地方映画だと思うなどと発言する。彼が着目するには,この柳映画はいくつか斬新な試みがあり,その一つが,映画のなかの自分に対して,他の女優さんがアフレコでセリフを入れているという点だったりする。ともかく,柳氏の映画愛の詰まった作品である。
『ブランク』(2017年,26分,染谷将太監督)
プロデューサーの杉原氏はこの時期山口氏のYCAMというアートセンターに勤めていて,そこはもちろん映画に特化した施設ではないが,年に1本映画を制作するという計画で撮られたもの。本作はそのYCAMの施設を利用して撮影されたもので,なんと脚本は染谷氏の妻である菊地凛子が担当している。そして主演はなんと山本剛史。といわれてもピンとこないだろうが,山下敦弘監督の初期作品の常連俳優である。と偉そうに書きましたが,私が彼の作品を観始めたのは『』(年)からです。ただ,当時から彼の作品が好きな友人がいて,山下監督,山本剛史主演の『その男狂棒に突き』という2003年の作品を観たことがあった。その作品はなんと主演の役どころが汁男優というハチャメチャな映画。この山本剛史という俳優はその印象が強すぎて,本作でその顔を見た瞬間に思い出して笑ってしまった。ストーリーはうだつの上がらない中年警備員が夜のアートセンターでの警備の一夜を描いたもの。「ブランク」というタイトルはフランス語の白を意味するblancのことか。主人公は白い全身タイツの男に付きまとわれるが,その存在を知覚するわけではない。そして,それは他者でもなく最終的にはそれに同一化してしまう。という哲学的な内容。
『ワイルドツアー』(2018年,67分,三宅 唱監督)
実際にこのYCAMというアートセンターで青少年向けに行われているプログラムを追ったドキュメンタリー風の作品。はじめから完全なドキュメンタリーではないなと思いながらも,フィクションとも言い切れない雰囲気のなか作品は進んでいく。途中で,色恋沙汰が表に出てきて明らかなフィクションだと気づくという設定。この作品がどのあたりを狙っているのか,プロデューサーの口から聞きたかった。トークショーでは唯一話題にならなかった作品。
https://www.tamaeiga.org/

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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編22)

Ren, X. (2017): “Aspirational Urbanism from Beijing to Rio de Janeiro: Olympic Cities in the Global South and Contradictions,” Journal of Urban Affairs 39 (7): 894-908.
要旨の冒頭から,「メガ・イベントに関する批判地理学的学究のほとんどは,略奪による蓄積の概念を採用している」という。「略奪による蓄積」とはハーヴェイの『ニュー・インペリアリズム』での有名な概念だが,この概念によって開発による立ち退きやジェントリフィケーションという負のレガシーを論じるのが定番であり,その状態を乗り越えようという試みであり,タイトルにある「熱望的アーバニズム」というキーワードを用いている。事例としては2008年北京大会と2016年リオデジャネイロ大会であり,以前に紹介したShin氏の論文と同様にグローバル・サウスの大会(中国は北半球だが)と位置付ける。熱望的アーバニズムはグローバルな熱望(グローバル・シティの一員になること)とローカルな現実(経済的不安定,不法居住の増殖など)のギャップを強調し,分析的視野を広げるものだと定義される。この観点においては,各都市の歴史的背景が重要で,オリンピック招致前後の都市マスタープランの変化とメガ・イベントの位置付けを辿っています。中国とブラジルの比較を通じ,国家の介入の度合いなども比較の対象になります。メイン・スタジアムの建設や開会式などさまざまな違いがあります。リオの場合は,ファベーラという都市における負の側面がありますが,近年においては外国人観光客の訪問地となったり,ファベーラの商品化も進んでいるといいます。北京の場合も城中村というインフォーマルな居住区があり,オリンピック関連開発に伴う立ち退きなどありましたが,それを覆い隠して一党支配の国家が強く介入してきれいな都市をグローバル社会に示す中国と,論文中では「脈動する民主主義」と表現され,負の側面もまるごとその都市の個性として表現するブラジルとで,メガ・イベントをめぐる,都市・国家のありかたの違いが出てくるわけです。

 

Sanchez, F. and Broudehoux, A-M. (2013): “Mega-events and Urban Regeneration in Rio de Janeiro: Planning in a State of Emergency,” International Journal of Urban Sustainable Development 5 (2): 132-153.
この論文はブラジルのフルミネンセ連邦大学の「グローバル化と首都」研究室,リオデジャネイロ連邦大学の「国家,労働,領域,自然」研究室という共同研究の成果の一部とのこと。リオについてはかなり論文を読んできましたが,1992年の環境サミットから,2007年のパンアメリカン大会,2010年世界都市フォーラム,2013年世界ユースデイ,2014FIFAワールドカップ,そして2016年オリンピック大会と数多くのイベントを開催している。そんな中で,再民主化といえる政治的変容や,都市政策のネオリベラル化などを経てきている。なお,この論文ではボイコフは引用されていませんが,クラインの「参事便乗型資本主義」やアガンベンの「例外主義」というボイコフと同じ参照を通じて,メガ・イベントに乗じた都市政策・開発のあり方を論じています。なお,2007年パンアメリカン大会における費用は過去最大で,かつ民間の投資額は20%にすぎなかったという。また,ワールドカップ開催時は,スタジアム周辺ではスポンサー企業以外の飲食物は排除された。読み終えてから少し時間が経過してしまい,長い論文なので,さーっと眺め返してみても,他の論文と違う論点があまり思い出せません。著者の一人Broudehouxはよく見る名前ではありますが,ちょっと残念。読んでいる時はもう少し得るものがあったような気もします。

 

Becerril, H. (2017): “Eviction and Housing Policy Evolution in Rio de Janeiro: An ANT Perspective,” Journal of Urban Affairs 39 (7): 939-952.
続いてリオデジャネイロの論文。こちらはロンドン大学で博士論文を取得したメキシコ大学の研究者によるもので,博士論文をもとにした論文。タイトルにあるように,アクターネットワーク理論(ANT)を援用してリオにおける立ち退きと住宅政策を論じたもの。こちらは,アクターネットワーク理論はともかくとして,住宅政策を政権の変化とともに丁寧にたどっているところに特徴がある。アクターネットワーク理論については,私がまだラトゥールを読んでいないこともあり,よく分からないこともありますが,公共政策文書(うまく訳せませんが,public policy InstrumentsPPIと略されています)の政治社会学にも依拠すると書かれています。セザール・マイア市長時代(1993-1996)にリオデジャネイロ市当局は住宅政策を作成し始めた。その時は新たな住宅建設よりもファベーラの都市化(インフラ整備=近代化ということか)を重視していた。住宅とは単なる住居ではなく,日照やインフラ,交通,教育,健康,余暇を含む都市構造の統合である,と1994年の市の文書に記載されている。ファベーラ対策重視の政策をFavela-Bairroと呼んでいた。このプログラムには建築家協会やファベーラの住民組織,建設会社などが関わり,銀行からの融資も受けていたようです。マイアの同胞であるコンデ市長時代(1997-2000)にもこの方針は継続した。2000年の市長選挙で,再びマイアが当選するが,この時代(2001-2004)に「新しい」住宅局長のアマラルによって,ファベーラの改良よりも住宅建設が重視されるようになった。それが州知事との対立をもたらす。この時期にファベーラにおける暴力や麻薬取引などが問題になり,立ち退きが論争の的になる。マイアの第三政権時代(2005-2008)には住宅局の予算が削減される。連邦政府のルーラ政権時代(2003-2010)の成長加速プログラム(PAC)は以前も紹介したことがありましたが,これが2007年で,リオデジャネイロのパエス市長時代(2009-2012)には,選挙時の公約に都市無秩序に抗する「秩序の衝撃」なるものがあったようで,やはりスラムの改良よりも住宅建設や立ち退きが優先される。2009年には2016年オリンピック大会のレガシー計画として住宅政策が重視された。さまざまな取り組みがなされたようですが,バス・ラピッド・トランジットやケーブルカーなどの建設に伴う立ち退きや移転などもありました。

 

Hiller, H. H. and Wanner, R. A. (2015): “The Psycho-social Impact of the Olympics as Urban Festival: A Leisure Perspective,” Leisure Studies 34 (6): 672-688.
英語圏のオリンピック研究のレビュー論文を『経済地理学年報』に投稿したものはすでに脱稿してしまいました。ヒラーの論文は以前から紹介していますが,この論文は共著者とともに,継続的に行われているもので,2010年バンクーバー大会に関する住民意識調査を論じた2011年の論文はしっかり読みましたが,この論文ともう一本はきちんと読まずに言及してしまった。ようやくきちんと読みました。今回は2010年バンクーバー大会と2012年ロンドン大会の比較ということになっています。バンクーバーでは自らしっかりと設計された調査をしているのに対し,ロンドンでは民間によるいくつかの調査がなされているようで,この論文ではそれらを利用しています。結果的には,開催が近づくにつれて住民の関心が高まり,ネガティブなものからポジティブなものン変化していくという有体のものですね。なので,この論文は調査結果の報告よりも後半の考察に力が入れられている。それは,ヒラーが1990年に書いた1988年カルガリー大会に関する論文で主張されていた,オリンピック大会が開催都市にもたらす正の側面を強調するものである。オリンピック大会は開催都市でのレジャーの時間と空間を拡大し,またその概念をも拡大する。また,ここではいわゆる日本ではパブリックビューイングと呼んでいる「live sites」にも言及している。私のレビュー調査ではオリンピック研究にパブリックビューイングを扱ったものがないと結論したが,どうやら英語圏ではありそうだ。この論文ではオリンピックの都市にもたらす正の側面をフェスティバルという概念でまとめている。この概念もお祭り騒ぎ的な意味では否定的にとられがちだが,賑わいや活性化という点では,やはり重要なんでしょうね。

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在野研究ビギナーズ

荒木優太(2019):『在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活』明石書店,286p.1,800円.

 

『アルコールと酔っぱらいの地理学』でお世話になった明石書店さんの本は最近何かと目に入るようになり,気になっていた本書。私は「地理学関連科目を担当する大学非常勤講師の雇用実態と意識」(2017年,E-Journal GEO 12: 280-293)なる論文も書いていて,最近は独立研究者を名乗るようにしたので,読みたいと思った次第。翻訳の際にお世話になった編集者にお願いして購入した。

序 あさっての方へ
第一部 働きながら論文を書く
 第一章 職業としない学問(政治学・酒井大輔)
 第二章 趣味の研究(法学・工藤郁子)
 第三章 40歳から「週末学者」になる(批評理論・伊藤未明)
 インタビュー1 図書館の不真面目な使い方・小林昌樹に聞く
 第四章 エメラルド色のハエを追って(生物学・熊澤辰徳)
 第五章 点をつなごうとする話(活字研究・内田 明)
第二部 学問的なものの周辺
 第六章 新たな方法序説へ向けて(専門なし・山本貴光+吉川浩満)
 第七章 好きなものに取り憑かれて(民俗学・朝里 樹)
 第八章 市井の人物の聞き取り調査(文学研究・内田真木)
 第九章 センセーは,独りでガクモンする(宗教学・星野健一)
 第一〇章 貧しい出版私史(文学研究・荒木優太)
 インタビュー2 学校化批判の過去と現在・山本哲士に聞く
第三部 新しいコミュニティと大学の再利用
 第一一章 〈思想の管理〉の部分課題としての研究支援(専門なし・酒井泰斗)
 第一二章 彷徨うコレクティヴ(共生論・逆巻しとね)
 第一三章 地域おこしと人文学研究(哲学・石井雅巳)
 インタビュー3 ゼロから始める翻訳術・大久保ゆうに聞く
 第一四章 アカデミアと地続きにあるビジネス(哲学・朱 喜哲)

編者も第10章を執筆しているが,とにかく変わっている。私以上にコミュニケーション能力がないようで,誰とも話さずに済む清掃労働で収入を得,両親のもとで生活をしている。1987年生まれということなので,私もまだ結婚していない歳だが,恋愛などもほとんど必要としないとのこと。とはいえ,ネットでの発信をきっかけにこうして紙の出版物を依頼されて出しているので,私より恵まれている(?優れている?)といえるかもしれない点はある。私も最近はもっぱら研究に関する書き込みを続けているブログをもう15年近くやっているが,出版社などからお声がかかったことはない。ただ,自虐的にそんなクソ人生でも「よく自分の書いたものを読み直す。読み直してつくづく「いいものを書いたな」と思う。」(p.180)というのは私と同じだ。その位の幸せを感じても罰は当たらないだろう,という。ともかく,そんな編者から生まれた,他13人から成る在野研究者の声を集めた重要な論集である。
在野研究とは,第6章や第11章でもかなり詳しく論じられているが,概していえば,大学などの研究機関に所属せず,自力で研究生活を続けている人のこと。ただ,14人いれば,本当に人それぞれである。私のように大学の非常勤講師という形で大学とわずかながらつながっている人はこのなかにはほとんどいない。私のように,大学常勤職への就職を諦めきれないような人物はあえて含めていないのかもしれない。そんな多様な在野研究者の姿を一人一人紹介したくなる本だが,それは別の機会にとっておこう。おおまかに共通する問題は,研究に費やす時間とお金の問題だ。とはいえ,それに関しては大学の常勤教員であっても同じらしいということは各人も認識しているが。
本書が重要なのは,在野研究者の実態が分かるからだけではない。そもそも,研究者が自分の研究生活について語る機会などないのだ。書きたいことを書いている私のブログすら,本書で書かれているようなことまでは記録していない。時折それに類似したことを知り合いの研究者について書いたりすると,お叱りを受けたりする。研究者としては大学を通じて公的に名の通った人間(大学教員)はプライベートをネットなどで公表してはいけないらしい。ともかく,本書には文献の探し方,インタビューの仕方,研究時間の作り方,研究仲間の作り方,学会の学術会議がどういうものか,学術誌の投稿の問題,学術出版の状況,など,詳しいものもあればそうでないものもあるが,在野に限らない研究者社会の実態をある程度明らかにしてくれる。とはいえ,在野だからこそ,大学に勤めるアカデミアには当たり前であることに苦労する,という意味でそういう些細なことが特筆に値するのだ。また,在野だからこそ研究に注がれた愛を十分に感じることができる文章でもある。第2章の執筆者である工藤郁子さんは,学術研究をオタク的感覚で捉えている。オタクというのはあまり表現的にふさわしくないかもしれないが,論文を読む行為を音楽を聴いたり,マンガを読んだりするのと同じように,そして,特定の作品(論文)について同人と熱く語り,その著者=研究者に会うことはアーティストと会うような感覚。この感覚,私にも分かります。
このブログを借りて,そして本書の読書日記という体裁を借りて,私自身が本書の執筆者に選ばれたとしたら何を書くかを書こうと考えていたが,今はその時間を割けないのでやめておく。研究者は単著を書くとなにかと家族への謝辞を記すことが多い。しかし,私は家族からの協力は得られていない。家事と育児の本の隙間で執筆活動をするしかないのだ。幸い,通勤時間は長いので読書時間だけは確保されている。しかし,そこでインプットしたものをこうしてblogでアウトプットすることを私自身の研究活動の責務としているため,読むペースでしか書けない。また,今は講義期間中真っただ中で,そちらの準備に取られる時間もある。ということで,この辺にしておきます。
あ,最後に一つだけ。本書の書名はちょっとどうかなと思いました。本書を手に取ってもらうためには「ビギナーズ」っていい響きですが,決して本書は初心者向けではない,と私は思う。

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「不法」なる空間にいきる

本岡拓哉(2019):『「不法」なる空間にいきる――占拠と立ち退きをめぐる戦後都市史』大月書店,238p.3,200円.

 

著者の本岡拓哉氏は1979年生まれ,関西大学で地理学を専攻し,大学院は大阪市立大学へと進学し,博士を取得している。こういう経路を取る人は関東に住み,大学に所属していないような私にもその存在は知られることになるが,なかなか接点はなかった。とある研究会で顔を合わせる機会もあったが,直接接する機会は,彼の学会発表で私が質問して以降のものだった。私自身も名前は知っているものの,彼の論文を読んだことはなく,その学会発表で初めてその研究に触れたが,その頃はすでに河川敷居住者を対象とした研究に移行していた。質問後,丁寧なメールをいただき,それ以降はなぜか私はそんなに頻繁に学会に顔を出す人間ではないが,学会に行けば顔を合わせるようになった。彼の奥さんも地理学者だが,彼女とは以前から面識があったことも,お互いに親しみを感じさせるきっかけだったかもしれない。ともかく,そういう次第で,出版早々に送っていただいた本書をようやく読むことができた。以下に本書の構成を示す(カッコ内は初出の出版年)

第1章 「不法」なる空間のすがた(2015年)
第2章 「不法」なる空間の消滅過程(2007年)
第3章 「バタヤ街」を問いなおす(2019年)
第4章 河川敷居住への行政対応(2018年)
第5章 立ち退きをめぐる空間の政治(2006年)
第6章 河川敷に住まう人々の連帯(2015年)
第7章 集団移住に向けた戦略と戦術(2016年)

私自身も本書のような研究を読むのにちょうどよい時期なのかもしれない。オリンピック関係の文献をよむなかで,evictionという言葉が「立ち退き」を意味し,オリンピックのようなメガ・イベントではかつてから立ち退きが行われ,最近でこそ強制立ち退きというのが行われにくくなってきたが(とはいえ,最近でも日本は新国立競技場建設に関連する立ち退きを行っている),それがオリンピック研究の一環としてかなり取り組まれているのだ。
一方で,本書で著者が取り組むのは副題にあるように,歴史的に行われた立ち退きである。容易に想像はつくが,冒頭でこの種の研究の少なさが指摘され,また本書で明らかにしたいことも明記されているのだが,それを解明するための史料の少なさに苦しめられている様子がよく分かる本である。第1章はそんななかでも,1957年に東京で行われたまとまった調査である『東京都地区環境調査』を丁寧に整理している。まずは入手可能な貴重なデータに関しては十分に活用するという態度は重要ですね。きれいな地図も作成されています。また,個々の不法占拠地区の土地利用の変化については,過去の住宅地図から地図上で確認する作業もしています。ただ,この作業はあまり実りが多くなかったように思える。図版として掲載されたものが明確に立ち退きを表現していないからだ。一方で,いくつか掲載されている空中写真は見事に立ち退きの実態を示している。私も2008年北京オリンピックに関するShin氏の研究を確かめるために,GoogleEarthなどで過去の空中写真を辿ってみたが,それは驚きだった。第2章は著者の出身地である神戸に舞台が移る。神戸市は著者の出身地というだけでなく,戦後バラックが街の規模が最大であり,またその対策でもその実績が高く評価されていたという。この章では,各行政資料に加え,市議会議事録や新聞記事なども活用されている。本書では後半に広島市の事例があるが,比較的広い河川敷をもつ広島市の太田川に比べ,神戸市の都市河川の不法占拠は,新聞記事の文章を読むだけで,衝撃的だ。自然堤防を挟んで緩やかな高低差を想像する一般的な河川(うちの近所の多摩川など)と比べ,人口堤防を挟んで,住宅地のはるか下を流れる都市河川。そんな縁に住宅を建て,糞尿などを宙に浮いた住宅部分から河川側に落とす,そんな図を勝手に想像してしまった。ともかく,神戸市では,周辺住民の匂いと不衛生状態の訴えの解消として,バラック撤去の政策が急務になったことがうかがえる。第3章では,再び『東京都地区環境調査』に立ち戻り,舞台は東京へ。一般的に用いられる「バタヤ」という概念を考察する。不法占拠の人々がどんな生業で生計を立てていたのか,バタヤの言葉はもの拾いと結びつく。宮内洋平氏の南アフリカ研究でもそうした下層の人々の生活は一般的だが,当時の日本でも一定の割合の労働者がいたということは知っている。私と同年代の社会学者である,下村恭広氏もそんな研究をしていた。この章では新聞記事の分析もあり,また別の資料を用いて,特定のバタヤ部落の消滅過程も辿っている。
第4章からは河川敷居住に焦点を合わせていき,まず全国的な傾向をつかみ,先行研究のある代表的な河川(熊本県の白川,静岡県の安部川,横浜市の鶴見川)などの状況が確認される。そして,第5章で再び神戸に戻る。特にここでは,どの不法占拠地区でも一定数存在していた朝鮮人部落について詳細な考察がなされる。この辺りからは元住民へのインタビューなども含まれている。章のタイトルには「空間の政治」とあるが,この詳細な事例研究を踏まえた何かしらの考察が欲しかった。第6章,第7章は広島市の事例に移る。広島市全体が太田川の扇状地だが,海に流れ出す河川流を人工的に処理すべき戦前から国の直轄事業として放水路の事業が始まる。しかし,周知のごとく広島は爆心地であり,事業の中断と,不法居住者の増大が生じた。本書の終盤ではその経緯と最終的にかれらが立ち退かされる過程を詳細に描いている。正直,これまでの読書はもどかしい気持ちにさせられてきた。史料に基づく誠実な分析であることが本書の特徴でもあるが,確実に書けないことは書けないという態度でもあるので,本書のタイトル「空間のいきる」という不法住宅に住む人のなまの生活がありありと描かれるわけではないのだ。もちろん,そういう人たちが積極的に記録を残すわけではなく,また行政側も撤去のために調査をする必要はあっても,それを積極的に保管するわけでもない。だから,復元するのは難しいことは分かる。第7章では,行政側の不良住宅地区の移転という政策に対して,そこに住む住民のために交渉を行った活動家たちの姿が丁寧に描かれている。残念ながら,住民の姿は最後まで断片的な写真でしか見ることはできないが,この読書は,戦後日本の都市を必死に生き抜いた人たちの姿に少なくとも地理空間というスケールで思いを馳せることができる経験だったと思う。
本書は「序論」の最後にドリーン・マッシーの『空間のために』における空間論を踏まえての考察とされているが,ここはちょっと気になる。マッシーはこの著作以前に「場所は静的で固定的なものではない」という場所論を展開していたが,『空間のために』はさらにそれを超えていく著作だと私は理解しているからだ。確かに,本書は場所論ではなく,空間論を軸にしていて,そういう意味では『空間のために』を踏まえるの正しいと思うが,もう少し丁寧な考察が必要だと思うし,序論で述べるだけでなく,結論でどのように「踏まえた」のかを最後に記してほしい。また,ド・セルトーの「戦略と戦術」を本書の後半で利用しているが,これに関しても文献にあるように,森 正人氏の議論の受け売り感が否めない。今更この形骸化した議論を繰り返すのではなく,原著に立ち戻った深い議論を展開して欲しかった。とはいえ,本書を読んで,学術書であろうとも著者の人柄がこんなにも溢れるものであるのだと強く感じた。

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