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翻訳の思想

柳父 章 1977. 『翻訳の思想――「自然」とnature』平凡社,238p.,950円.

私は2001年の論文で,自然=nature概念を考察に取り込んだ。その論文執筆時に本書を読んでいなかったのは大きな落ち度だと思う。もちろん,そういうことはよくあることといえばそれまでだが,投稿時に編集委員や査読者がそのことについて全く指摘しなかった,この学会の体制はさもありなんという感じだろうか。でも,まあ他人のせいにするのはよくない。そもそも最近本書を古書店で見つけたときに,ようやく感があったのは確かだ。柳父氏の本は既に,『一語の辞典 文化』(三省堂,1995年)を読んでいるし,そもそも著作の多い翻訳研究者として著者は有名である。私のこの論文はもともと修士論文の一部だったが,記憶を辿ると,修士論文執筆中は指導教官に本書について教えてもらったはずである。といっても,その頃は他に読むべき本が山積みだったし,著者名はしっかり覚えていたけど,タイトルまでは覚えていなかったというのが正直なところ。
natureという概念は,cultureとともに,西洋語としてはもっとも複雑な単語の一つではないだろうか。cultureについては,西川長夫『国境の越え方』に詳しいし,もちろん上に挙げた柳父氏の『文化』でも手際よくまとめられている。自然については1999年に出版された,やはり同じシリーズの伊東俊太郎『一語の辞典 自然』で済ませていたようなところがある。しかも,この本にも当然ではあるが,しっかり本書についての言及がある。さらに,本書は1995年にちくま学芸文庫にも入っているくらいだから,私の怠惰ぶりはまずい。と,かなり罪悪感に苛まれながらの読書となった。しかも,それは内容にも,である。
natureの日本での翻訳事情はcultureよりも複雑だということが本書を読んで思い知らされる。cultureはヨーロッパにおいても比較的新しい語であり,日本へも元号としては用いられていたものの,文化と文明という語は,明治期の新しい日本国建国の際に,civilizationおよびcultureの翻訳語として日本語に定着していく。それに対し,「自然」の事情はかなり違う。本書によれば,そもそも,中国語から引き継いだ「自然(じねん)」は日本語体系のなかでも存在していたし,オランダ語のnatuurの翻訳語として,すでに1796年に「自然」が宛てられていたという。さらにいえば,文化や文明が数十年の間にそれぞれcultureとcivilizationの翻訳語として落ち着いていくのに対して,natureに当てられた日本語はなかなか「自然」に固定していなかったようだ。
著者は長年「翻訳」という問題に関わっており,また本書のタイトル自体も「自然」の問題よりも「翻訳」の問題を前面においている。つまり,本書は翻訳の問題を考える一事例として「自然」を取り上げているのにすぎないが,数ある著書のなかで初期の頃の本書で「自然」を,しかも一冊の本で一語を取り上げたということもあり,いかにこの語の事情が複雑かということが分かる。江戸時代の後期から日本にもオランダから西洋近代科学が入り込み(もちろん,自然科学のこと),その後はドイツの哲学が入り込むなかで当然そのなかに自然哲学も含まれる。一方で,明治維新前後に法的・政治的なもの,そして社会思想的なものがやはりヨーロッパから入り込む。日本語体系には存在しなかった意味内容を伴う概念を持ち込むことの難しさはcultureもnatureも同じだが,すでに日本語体系のなかに位置している「自然」を翻訳語としても用いるということはかなりの困難があったといえるし,それは現在まで続いていると著者はいう。まあ,確かにその辺を論じたのが私の2001年の論文でもあるのだが,本書を読んでいればまた違った展開になっていたことは間違いない。かといって,別に自分を否定しているわけではなく,まあ地理学における自然論ってのは,特に日本ではまだまだなので,この貴重な日本人による成果を活かして次の研究へと進んでいこう。でも,ひとまず思い当たる経験的事例はないんだけどね。

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