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分類の未開形態

エミール・デュルケーム著,小関藤一郎訳 1980. 『分類の未開形態』法政大学出版局,217p.,2000円.

本書は,デュルケムが作った雑誌,『社会学年報』に1903年に掲載された「分類の若干の未開形態について」と1902年に掲載された「トーテミズムについて」を併せて翻訳したものである。前者の論文は人類学者マルセル・モースとの共著であり,また付録としてこの論文に関連するモースの書評などがついている。デュルケムは周知のように19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスの社会学者であり,いわば社会学の父である。
私が大学院に入学した頃,助手で東京都立大学に所属していた島津俊之氏がデュルケムの研究をしていたので,デュルケムのことは間接的にいろいろ知っていた。彼が地理学者としてデュルケムに関心を持ったのは,フランスの社会地理学者アン・マッティマーがデュルケムの概念「社会空間」に着目していたことを経由している。そして,彼の大学院の指導教官だった山野正彦氏も,デュルケムと同時代のフランスの地理学者,ヴィダル・ド=ラ=ブラーシュとデュルケムの関係について論文を書いているのだ。もちろん,それらを踏まえ,島津氏は地理学者は誰もやろうとしない暴挙に出た。それはすなわち,デュルケム作品を原語で精読することだ。それはおよそ10年を要して2つの論文に結実した。その後,和歌山大学に就職し,彼の関心は近代期の歴史的研究に移行するが,資料の丁寧な解読に活かされていると思う。
さて,そんな私も大学で教えるようになって,ヨーロッパの地理学史的な話をするようになって,近代に入るとフンボルトとリッターからラッツェルといったドイツの地理学者,そしてフランスのヴィダルについて話すことになる。ここではもちろん,山野氏のような地理学史の研究成果を参照して,地理学者ヴィダルと歴史学者フェーヴル,社会学者デュルケムの話をしなくてはならない。ということで,『社会学の方法基準』や『自殺論』を読んだわけだが,これが素朴に面白かった。やはり新しい学としての社会学がいかに地理学や歴史学とは違うのかということを説得的に示さなくてはならないので,必然的に議論は説得的になるし,また同時にあらかじめ与えられた研究意義というものがないから,これまた必然的に問題意識が素朴なところから出発するのだ。
さて,そこで本書だが,本書に収められた2本の論文は,1本が人類学者モースとの共著ということもあって,素材は当時はまだまだ未開社会が残っていたオーストラリアとアメリカからもたらされた社会形態に関する資料。トーテミズムについてはフロイトも「トーテムとタブー」という文章を書いている。しかし,トーテミズムとはそもそもなんなのか,ということが分かってなかったりするわけだ。まあ,私にとって「トーテム」とは小学校の校庭にあったような「トーテムポール」である。でもこの想像力は決して間違っていないはずだ。さまざまな動物の頭や神様のような顔が何段にも重なっている木の彫り物。まあ,ある民族集団の各社会(本書では胞族という)が,動物のような象徴的存在をアイデンティティのよりどころにして,階層的に存在するというこんなイメージ。
まあ,このイメージがどれほど合っているかは分からないのだが,ともかくその象徴が動物であることは本書においては明らかで,しかも驚くことにそれは単なる象徴だけでなく,その胞族において,その動物の取り扱いが定まっているということだ(大抵はその動物を食べてはいけない)。正直言って,本書に収められた2つの論文のうち,「トーテミズム論」は既存の研究書の紹介と検討に終始していて,細かい議論が多く面白くない。その一方で,「分類の若干の未開形態について」は現代の社会アイデンティティ論として読んでも十分に面白い。まあ,私が人類学の基礎的な文献を読んでいないのは確かなのだが,とても新鮮だった。それはもちろん,レヴィ=ストロースの固有名詞論(なんと,これも読んでいない)とも関係しているし,その後の民俗学的な地理学の農村空間分類研究などの起源もここにあるといっていいのかもしれない。さすがデュルケム。やはり『社会分業論』も読みたくなった。

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