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外の思考

ミシェル・フーコー著,豊崎光一訳 1978. 『外の思考――ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』朝日出版社,140p.,800円.

特に理由もないが,続けてフーコーを読むことになった。朝日出版社が1970年代に出していた「エピステーメー叢書」の1冊。この叢書はすごいサイズがちょうどよく,デザインも素敵なので,古書店で見かけると思わず「おーっ」と唸ってしまう。
本書には「外の思考」というブランショ論,「侵犯行為への序言」というバタイユ論,そして「アクタイオーンの散文」というクロソウスキー論の3編の文学論を収録したもの。原著では単行本としては存在しない。といっても,私はクロソウスキーなど知らないし,ブランショは1冊ほど哲学書を読んだことがあるが,バタイユはない。ブランショもバタイユも哲学者・批評家でありながら小説も書く,ということらしいが,そもそもにして小説的な小説なのか。
まあ,ともかくそんなんだから,はっきりいってチンプンカンプン。ただし,1番目の「外の思考」で,ブランショの話が出てくる前の前半部分にはしっくりくる文章がいくつかあった。久しぶりにそんな,傍線を引いた箇所を引用することでお茶を濁そう。

「要するに,言語はもはや言説ではなく,何かの意味の伝達ではなくて,生な実体としての言語の開陳,露呈された純粋な外在性なのであり,話す主体はもはや言説の責任者(つまりその言説を支え,その中において明言しかつ判断し,ときにはこの目的のためにしつらえられた一個の文法形態のもとに自己を表明する人)であるよりは,非存在,その空虚の中において言語の無際限な溢出が休みなく遂行される非存在なのである。」(p.14)

「あらゆる主体=主権性の外に身を保って,いわば外側からその諸限界を露呈させ,その終末を告げその拡散を煌めかせ,その克服しがたい不在のみをとっておく,そんな思考,そして同時にこの思考はあらゆる実証性の入口に位置するのだが,そのことはこの実証性の基盤ないし正当化を把握するためであるよりも,それが展開される空間を,それの場となる空虚を,それが成立する距たり,視線が注がれるやいなやその直接的確実性の数々が身をかわしてしまう距たりをふたたび見出すためである,――この思考は,われわれの哲学的反省の内面性,およびわれわれの知の実証性との関係からみて,一言で言えば《外の思考》と呼び得るであろうものを形成しているのである。」(p.17)

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