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境界

こんなことを書くとまた怒られてしまうかもしれないが、実は最近、密かにこのblog日記の内容を2件ほど修正した。2件とも、日記中に実名で登場した本人が読んで、修正を依頼してきたのだ。1件はプライベートなことは書かないで欲しいというもので、もう1件はそれはあくまでもあなたの私見であるから、公の場でかくのは誤解を生じかねない、というもの。
修正したからといって、その人たちとの関係を修復することはできないが、ともかくいわれるままに修正してある。まあ、その2人は別に私のblogの常連読者というわけではなく、たまたま読んだのだと思う(また私見)。だからだと思うが、修正を要求する相手が明らかに間違っている。ほとんどの記事を読んでくれている人でそんなことまで理解してくれている人はいないかもしれないが、私は公と私の境界線があいまいなのである。それは私が常識知らずということもあるが、研究者としてこの「公私の境界」というものを一つのテーマとしているからだ。だから、私はこの日記を書き手として実名でやっているし、公の場に名前を出している研究者やミュージシャン、俳優や映画監督はもちろんのこと、書かれる側も実名で平気で批判をする。日記の内容もかなりプライベートなことにまで及んでいる。そもそも、公=パブリックと私=プライベートの境界など明白ではないし、明白にしようという努力は何かしらの権力や暴力を伴うものだと思っている。確かに、場合によってはプライバシーを守ることが人を暴力から守ることにもなるのではあるが。

公私の境界の問題に関する学問的議論はここで簡単に分かりやすく説明することは難しいが,私の生活における実践については簡単にいえる。はっきりいって,私には他人に隠すべきプライバシーはあまりない。もちろん,ある事柄を公にすることで,ある人が被害をこうむるということが全く分からないほど私に分別がないわけではない。それは自分自身にとってもしかりだが,基本的には私にはさほど大切に守らなくてはならないような私的領域は少ない。かといって,私的な部分まで公にしたことで,自分が被害をこうむったという経験もほとんどないのだ。だから,私の持論は,何かを守ろうと必死になって隠そうとするが故に,そこに付け込まれて被害に遭うのではないだろうか。

さて,私が日ごろ考えている境界は,公と私の関係だけでない。例えば,男と女という性の問題。学問的には一般的にこの問題は,生物学的な「性別」と社会的な「性差」の2つに分かれる。厳密にはこの生物学的と社会学的の境界すら明白ではないのだが,ここでは便宜的に分けておこう。社会学的な性差はもう少し分かりやすくいうと,男らしさと女らしさのことをいう。私たちはこれらの境界が生物学的性別に由来するもので,明白なものだとしがちである。しかし,近年は草食男子や肉食女子などといって(この表現にも実は一般的な常識が根底にあるのだが),男らしさや女らしさというものは時代と共に変化するし、社会によっても異なることは誰でも知っている。でも、日常的な場面だと意外と自分の常識が絶対的だとしてしまうのだ。
ところで、私は子どもの頃からいわゆる「男らしい」ものにはあまり興味はなかった。もちろん、男2人兄弟のわが家では特に違和感もなく、男の子向けのテレビを観ていたし、男の子向けのおもちゃが転がっていた。私は小学校3年生で少年野球を始め、自宅で腕立て伏せなどをやるような習慣ができたのも中学生の頃で、マッチョになりたいとは思わなかったが、筋肉美にはそれなりの憧れを抱いていた。しかし、なぜか中学生の頃、ジャージ姿の股間のふくらみに恥じらいを感じ、その頃女子生徒が皆やっていたように、ジャージの上のサイズを2サイズくらい大きめのを買ってもらって、お尻まですっぽり隠していた。でも、頭は坊主。

その後も特に女の子らしいものへの憧れというのはなかったが、高校生の頃からおしゃれ心に目覚め始める時、私の小さめの体には、メンズサイズの洋服は似合わず、しかもデザイン豊かな女性服に憧れたりした。高校卒業する頃から髪の毛を伸ばし、カットは理容室ではなく、美容室に行くようになったが、なかなか自分にしっくりくる髪型に出会えず、大学院の頃は背中まで髪を伸ばしたこともあったし、その頃はユニセックスなデザインの女性者の洋服も古着などで買うこともあった。
そんな私は性同一性障害だとは決して思わないが、少なくとも他の男の人とは違うと感じていた。その後、学術本の読書の面白さを知り、大学院に入学し、そしてジェンダー論やフェミニズムというものを知るにいたって、私の感覚はいたっておかしなものでなかったことを知る。むしろ、男性として生まれた人たちの多くが男らしいものをなんの疑問もなく受け入れ、場合によってはそれを誇らしげにする人もいるということの方が不自然であることを知ることになる。つまり、電車の中で大またを拡げて座席の2人分を占有している男たちは、戦時中にお国のためといって死んでいった兵士たちと似ているのではないかと思うのである。

ともかく、私の言動、行動には常識的でないものがあるかもしれない。しかし、それはあえてそうしているのだ。

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