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BodySpace

Duncan, N. ed. 1996. BodySpace: Destabilizing geographies of gender and sexuality. Routkedge: London and New York, 278p.

編者のナンシー・ダンカンは1980年頃から米国の文化地理学を引っ張ってきたジェイムス・ダンカンの奥さん。2人の共著論文もいくつかありますが,本書はそのタイトルにあるように,ジェンダーやセクシュアリティをテーマにしたフェミニスト地理学の代表的論文集。このころ,私はジョアンヌ・シャープという大衆地政学を掲げて積極的に論文を発表していた地理学者をマークしていて,本書も買ったものの,彼女の章を読んだきり置いたままだった。本書は14章構成で,1章当たりのページ数が少なく,しかもその寄稿者たちの顔ぶれがかなり魅力的なので,きちんと読むことにした。

序文:(再)場所化 ナンシー・ダンカン
序文では地理学とフェミニズムの関係について解説され,最後に各章の紹介がある。かなりあっさりした序文です。

Ⅰ部 (再)読

1章 フェミニスト理論と社会科学:新しい知,新しい認識論 リンダ・マーティン・アルコフ
1章はほとんど地理学とは関係ない。プラトンの時代からカントまで,理性や知識というものが,男性の知的・認識的属性によって制限されてきたという。カントの理性批判から,ヘーゲル,ニーチェ,マルクス,フロイトなどを通じて,理性や知が男性的=普遍的なものではなく,歴史的なものであったり,社会に埋め込まれたものであったりという認識がされるようになるが,フェミニズムは知は歴史的に男性が作ってきたものだという前提から,そうではないあり方を模索するようになってきたというストーリー。精神と身体を男性と女性の二分法で理解することの限界を述べ,フェミニズムは身体を強調することで,それと切り離して理解しがちな理性というものを問い直す。だからといって,女性らしさを本質主義的に捉えることは逆の意味で「ジェンダー・イデオロギー」となってしまう。性差をどう捉えるかというところに,新しい認識論とそれを広めていく戦略とが進められる。フェミニスト理論は新たな理論的規範を作り出すものではなく,新しい言説空間の可能性を示すものだという。

2章 フェミニズムの空間化:地理学的視野 リンダ・マクドウェル
近年の人文・社会科学の理論では空間的隠喩を用いることが多くなっているが,それはフェミニスト理論でもしかりである。地理学者のソジャが著作のタイトルに用いた「第三空間」はそもそもホミ・バーバが用いたものだし,地理学者マッシィが用いた「権力の幾何学」という表現は,ダナ・ハラウェイが用いた「差異の幾何学」からヒントを得ているらしい。ハラウェイの「状況に置かれた知」という表現もいたって空間的だが,それらは単なる隠喩として済ませるわけにもいかない。そもそも空間なんてカント的にいえばわたしたちの世界認識のあり方を支える枠組みにすぎないわけだから,その空間の捉え方が違ったものになれば,この空間的隠喩にも意義がある。そんなことで,フェミニストたちが用いるこの認識論は古い男性的なデカルト座標系に変更を加える,あるいはそれを揺るがす力を持っているというわけだ。

3章 主体性の再:地図化:地図学的視線と政治の限界 キャスリーン・M・カービィ
地図ほどの上から目線はないということで,基本的に地図というものは権力の象徴みたいなものだ。日常生活において,わたしたちは地図というのはわたしたちの空間的行動の案内役という側面しか気にならない。しかし,それは空間的な行動範囲が広がった現代社会に住む私たちだから思うこと。そもそも,非常に古い画像表現でありながら,これほど人間個々人の生活に関係ないものもない。すなわち,それはある特定の人物がその土地を支配するということになって登場するのが地図である。まあ,そんな権力と結びつくのが地図だが,もちろん,かつては(そして今でも)権力を握っているのは男性である。ということで,地図という表現をフェミニズムの立場から批判するのは当然だ。中ほどで取り上げられるのは17世紀フランスの探検家,シャンプラン。探検記の記述はよく読むと,身体とそこに備わった感覚(特に視覚)による体験記ではない。明らかにその視点は宙を舞い,俯瞰するように自らの行動を記述しているのだ。それこそまさに,マスキュリンな地図学的視点。しかし,後半ではいつの間にか,議論が現代の批評家,フレドリック・ジェイムスンの「認知地図」という文章に移行する(この文章は雑誌『10+1』に翻訳あり)。なにやら,分かったような,分からないような。

4章 もし鏡が出血したなら:男らしい住まい,マスキュリニズム理論とフェミニズム的虚構 ジリアン・ローズ
翻訳も出ている『フェミニズムと地理学』の著者,ジリアン・ローズは来日した際に,私が世話人の一人となってけっこう一緒にすごした。英語でのコミュニケーションは少ししかできなかったけど,息子を愛するとても優しいお母さんという印象。でも,研究者としての彼女の視点は非常に鋭く,厳しい。日常生活でも,研究上でも,マスキュリニズムが嫌いでありたいと思っている私の何気ない考え方にもそれが潜んでいることを気づかされてくれる。地理学者で難しい文章を書く人は少なくないけど,これほど説得的に刺激的な文章を書ける人はあまりいない。本章の内容はローズがとても好きで読んでいるというフランスのフェミニスト哲学者リュス・イリガライの議論を土台にしているのでとても難しい。ちなみに,私もイリガライは日本語で『性的差異のエチカ』と『基本的情念』を読んだ。その内容はとても難しいが,マスキュリンな男性哲学者の突き放すような難しさとは違って,親しみのある魅力を感じる。本章でも,2章と同様に,近年の思想における空間的隠喩をまず検討する。しかし,これらを論じる地理学者の論理が場合によっては,空間的隠喩とその外部にある実在空間とを二元論的にとらえているということを指摘し,隠喩的に語られる空間論がいかに実在の空間自体と関係しているかを論証している,ように私には思えた(理解できている自信はない)。そもそも,実在する空間というものを絶対視し,隠喩的なものを二次的なものとして捉えるという発想自体がマスキュリンである。

5章 再-身体化された視線 ハイディ・J・ナッシュ,オードリィ・コバヤシ
3章の副題にも「視線vision」が含まれていたように,視線も極めてジェンダー論と相性がよいのはローズが証明済み。確か,景観に関する論文も書いていたコバヤシだから,彼女が取り上げたのは美術史家のジョナサン・クレーリー。翻訳もある『観察者の系譜』と,私は知らないキャロライン・マーチャントという人の『自然の死』(1983)という著作が検討される。前半はクレーリーに関する議論。クレーリーは視覚を近代に特有の感覚と捉えていて,デカルト哲学によって観察者と対象を切り離し,視覚を他の感覚と別格にすることで近代的主体と近代合理性の誕生に関わるものとする。つまり,ここで視線の脱-身体化がなされるということだ。しかし,時代が下ってその視覚を利用したさまざまな装置や資本主義文化における娯楽(写真以降の映画やパノラマ館)が登場すると,その視線というのが観察者の身体へと再び関連性を持つようになる。そして,後半ではマーチャントの『自然の死』の検討に移行し,クレーリーと同様の関心を持つが,女性であるマーチャントはその身体における男女の差に関心を持っているという。まあ,近代科学の理性や合理性が男性性と結びつき,科学の対象である自然が女性と結びつくという議論は本書のこれまでのものと共通しているが,意外と面白い身体論・ジェンダー論には進展せず,また話はクレーリーに戻る。そもそも,クレーリーの議論も難解ではないが複雑で分かりにくいので,本章も多少分かりにくいが,3つのイラストで示された図式は面白い。

Ⅱ部 (再)交渉

6章 ジェンダー化された国民性:国民アイデンティティとのフェミニズム契約 ジョアンヌ・P・シャープ
冒頭にも書いたように,本書を買った当時に真っ先に読んだのが本章。今回改めて読んだのに,それから時間が経ってしまって,また詳細を忘れる。まあ,ナショナリズムに関する論考で,冒頭にはルナンの「国民とは何か?」やアンダーソンの『想像の共同体』が登場する。しかし,事例としては東欧の旧共産主義諸国を扱っている。まあ,国民アイデンティティと男女の関わり方の違いは容易に想像はできる。特に,東欧の場合にも『サラエボの花』という映画が描いていたように,戦時期に一部の女性が辱めを受けることは,国土を侵略されたり略奪されたりすることと象徴的に一致する。日本語の「国家」という言葉が,まさに「家」という語を使っているように,国民を擬似家族的に論じるのがナショナリズムであり,家父長制においてその家を守るのが母親の役目であるように,精神的な拠り所としての女性というのは,近年日本で製作された戦争映画の常套手段でもある。

7章 男らしさ,二元論,そして高度技術 ドリーン・マッシィ
本章の素材は,私が大学講義で使っていたオープン・ユニバーシティの教科書でも用いているケンブリッジで彼女が行った共同調査の結果を利用している。まあ,日本でいうところの筑波学園都市のようなものでしょうか。大学と政府系研究所と一般企業の開発部門が隣接しているような,そんなケンブリッジのハイテク産業の従業員に対する調査である。その教科書で論じられた内容とは異なり,本章ではその企業の男性従業者の仕事に対する熱意についての議論がある。それは私の勤める会社でも経験していることだが,仕事に熱中し,いつまでも残業していることが,男同士の妙な共同意識を生み出し,そのことが男らしさの表出となる。

8章 ジェンダーの再交渉と公共空間および私的空間におけるセクシュアリティ ナンシー・ダンカン
編者自身による章。やはり本書に共通してみられる公共空間と私的空間との関係が議論の中心。彼女の単独の文章を読んだのは初めてだが,なかなか読みやすい。本章の前半ではこの問題を家庭内暴力の側面から論じていて興味深いが,私的空間が抵抗の場になるという議論,そして続いてホモセクシュアルや性労働者の話など転々としてちょっと散漫な印象。

9章 「異性愛街路」と(再)交渉する:レズビアン的空間の生産 ジル・ヴァレンタイン
私たちが普段何気なく歩いている街路=通り。大多数の異性愛者は配偶者や恋人と手を組んだり,場合によっては公共の場でキスをしたりしている。しかし,そこに例えばレズビアンのカップルがやってきて,腕を組んだりキスをしたりすると,一気に空気が変わる。つまり,何気ない街路=通りがいかに異性愛的な空間であるかが分かるのだ。そんななかでレズビアンたちがどのようにして普通に振舞える権利を獲得していけるのだろうか。

10章 場所の社会的/性的アイデンティティの再交渉:ゲイ・コミュニティは安全な天国か?抵抗の場か? ウェイン・D・ミスリク
本書の寄稿者17人のうちのわずか2人の男性のうちの1人。ワシントンDC近くにあるゲイ・コミュニティであるデュポン・サークルによる調査がもとになっている。著者は博士課程の大学院生らしく,その調査結果を利用しているのだろう。多くのゲイの発言が引用されている。ここデュポン・サークルではゲイ・カップルが比較的平然といられる場所ではあるが,それがゆえにそうしたゲイたちを暴力の対象として選ぶ人たちもいる。そこにいれば,暴力とその恐怖がいつも付きまとうが,米国全土でいうとゲイたちが市民権を得ている地区も多くはないので,異性愛的空間のなかでさまざまな行動の制約を受けるか,暴力の恐怖におびえるか,やはり後者を選ぶゲイたちは多いとのこと。どちらにしろ,まだまだかれらは肩身の狭い思いをしているようだ。

11章 「その計画」のどこにも居場所はない:青写真にわたしたち自身を置く方法 ヴェラ・チョイナード,アリ・グラント
この章はけっこう難しい。本章は2人の共著だが,ヴェラさんが視覚障害者,アリさんはレズビアン。レズビアンの話はこれまでも出てきたが,障害者の話は本章のみ。もちろん,2人とも女性。まずは,ヴェラさんが,大学教員として,いかに大学という施設が物理的に健常者向けにできていて,大学という組織も健常者が前提になっているのかを告発する。人種差別主義racismなどの言葉はよく出てくるが,本章で出てくるのは健常者主義とでも訳すべきか,ablismというもの。辞書なしで読んでいるので細部までは分からないのだが,ずいぶん卑屈な記述が多く,「だったら,どうすればいいの?」と正直現実的な困難さが先行してしまい,それを学術的にどうするべきかは難しい。結局この「The project」というのも具体的に何を示しているのか不明。

Ⅲ部 (再)発見=調査

12章 人種調査を生み出すこと:自己-他者の二元論を不安定なものにする ケイ・アンダーソン
著者であるアンダーソンは中華街の研究で有名である。本章は自らの『バンクーバーの中華街』という1991年の著作の要約から始まる。その歴史的内容は,イギリスとフランスの植民地からの独立,建国という時代的背景において少数派の移民であった中国人たちが自らの生活を守るために集住して暮らしていたのが中華街。もちろん,そうしたマイノリティに対しては差別の眼が上から横から向けられるわけで,そこで大きく問題となるのは人種と民族。しかし,もちろん本書の主たるテーマはジェンダーやセクシュアリティだから,その辺りに焦点を当ててまとめ直したもの。

13章 野外調査における現地を置き換える:男らしさ,隠喩,そして空間 マシュー・スパーク
本章の著者も本書では数少ない男性。私的にはけっこう面白かった。私自身はいわゆるフィールドワーク的なことはしていない,というか密かに観察するくらいならできるが,それではきちんとした調査にはならないので,要はできないのでしないのだ。でも,なんとかこのフィールワークが苦手ということを逆手にとって,フィールドワーク批判をしたいものだが,本章はまさにそんな内容。以前も,本書にも書いているオードリィ・コバヤシが「カラーリング・ザ・フィールド」という論文を書き(『社会・空間・地理思想』の2号に翻訳されている),人種・民族・性差という問題からフィールドワーク批判を行っているが,それを読んだ当時の私には難しすぎた。まあ,簡単にいうと,一般的に野外調査というのは男性的なものだというのだ。知る者と知られる者の不均等な関係のなかで,調査者は我が物顔で調査地に土足で入り込み,自らの目的のために知をもぎ取っていくのだ。まあ,本章もそんな分かりやすいことばかり書いてあるわけではなく,辞書なしで読むには難しいのだが,後でゆっくりと単語を調べながら読んでみたい。それでも面白かったら翻訳してみようか。フェミニスト理論に依拠した前半の議論に対して,後半は自らの経験を語る。彼が男として派遣社員として働くという参与観察である。自分でも引用しているが,彼はこの時期にまとめて4本も論文を出していて(調べたら2005年に著書を出版),かなり興味を引かれた。

14章 ポストモダン・フェミニスト社会調査への反省 J・K・ギブソン-グラハム
ギブソン-グラハムとは2人の女性の共著ペンネーム。キャサリン・ギブソンとジュリー・グラハムが,それぞれ個人でも執筆するが,共著の場合は分担執筆ではなく,ドゥルーズとガタリのように完全なる共同執筆ということでペンネームで活動している。論文会のなかで二村太郎君が彼女たちの論文を紹介してくれた。最近,このうちの1人が亡くなってしまったらしい。太郎君が紹介してくれた論文は経済地理学の新しい動向を紹介するものだったが,単なるアカデミックということだけでなく社会に,そして世界に積極的にコミットしていこうという立場が明確だった。本書も同様に,社会調査ということについて,単に研究者が社会に入り込んで事実を収集するのではなく,オルタナティヴなあり方を模索しようとしたもの。本章は『Gender, Place and Culture』に掲載されたものの短縮版であるらしい。そもそも,調査者と被調査者が明確に区別され,知る主体だけが得をし,知られる対象には何も還元されないというこれまでの社会調査のあり方はいかにも男性的だ。具体的に彼女たちはとある鉱業の町に入り込んで,そこの女性たちを調査するのだが,調査者と被調査者という区分を設けず,チームとして地元の女性たちと活動をし,その活動を通して住人たちは意見を変え,また社会組織自体が変わっていくという社会調査のあり方。詳細はイマイチ分からないが,結語において,この政治的企図を,「発見」や「暴露」といった社会調査における従来の隠喩ではなく,「会話」や「パフォーマンス」という隠喩が適切だといっており,これで私はかなり理解することができた。

結語 ナンシー・ダンカン
編者によるわずか2ページ強に過ぎない文章だが,分かりやすくうまくまとめている。本書では,基本的にフェミニズムの立場から,単一なものより多様性を,共通なものよりも差異を,普遍的なものより特殊なものを強調してきたといえる。しかし,それらを単純に理解していると陥ってしまう問題を指摘している。本書への寄稿者の多くは女性であるが,女性しかフェミニストにはなれない,と考えることは,女性なるものを絶対視し,またその場合の「女性しか」といった場合に,では個々人をどのように女性と区別するのかという根本的な問題を棚上げすることにもなる。ともかく,本書では女性や同性愛者,障害者,民族的マイノリティ,貧者などの社会的に弱い立場を強調してきたのだが,それですら単純化して理解した途端にさらなる問題を生み出すことになる。まあ,こうした問いは非常に複雑で単純な解答などないのだが,いつでも忘れないようにしたいものだ。

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