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2010年9月

出産準備

出産予定日までちょうど一ヶ月ということで、ぼちぼち準備が整ってまいりました。台湾で大量にもらってきたベビー服は多少偏っていたけど、妻の母親が一時的に来日した際に新生児の肌着などを買ってもらってきた他、もし女の子だったら、少し大きくなってからの外出着などももらえる予定。わが家は布おむつで育てる予定だが、布おむつ本体やさまざまな大きさのおむつカバーもあります。母乳で育てる予定ですが、哺乳瓶も新品でいただいたし、離乳食が始まってからの食器セットもいただいた。ベビー布団ももらえる予定だし、座れるようになってから使うB型ベビーカーももらえる予定。そうそう,抱っこ紐も既に2ついただいています。一つは首の座らないうちから使えるもの。
ということで、最近お会いしていない皆さんへ、出産祝いのおねだりをしてしまいます。足りないものや欲しいものを列挙しますね。普通、出産祝いって無事産まれてから贈るものだとは思いますが、産まれてすぐ必要なものもあるんですよねえ。事前のお祝いも歓迎いたします。

まずは湯温計。秋生まれのわが子は沐浴の温度に気をつけなければいけません。まあ、お湯の温度など適当でいいとか、すぐに体感で適温を計ることができるようになる、とかいいますが、念のため。
⇒へたに高性能のものや、無駄な装飾は要らないということで、こちらなんてどうでしょう。

ベビー体温計。耳で測るやつなどありますが、やはりわきの下がいいそうです。そして、短時間で体温を予測する予測と、10分くらいで正確に測る実測とがあります。
⇒予測と実測の両方ついたこちらですかね。

新生児用布おむつカバー。すでに、2,3枚はあるのですが、毎日おむつ本体を20枚ほど換えるので、当然カバーもけっこう必要なようです。特に生後間もない頃は頻繁におむつ換えが必要なので、同じサイズが必要です。
⇒定番の赤ちゃん本舗でいいかな。

搾乳機。これは産まれてからでいいと思います。実際、お乳の出がどうかにもよるし、どんなのが良いのかもそれほど調べていないので。
⇒とりあえず、こんな感じ。

ここからは高価です。

オートスウィング。いわゆる揺りかごですね。家で赤ちゃんとお母さんが2人の時、家事で手が離せないという時に、スウィングして寝てもらいます。ただ、赤ちゃんによっては寝てくれないということもありますが、食事時に座らせたりするときにも使えるようです。
⇒妻が欲しがっているcombi製。

A型ベビーカー。まだちゃんと座れない新生児用。これは実際に必要になるか分かりませんし,経験者の意見では使う期間が非常に短いとのこと。
⇒やはりこれもcombi製。

オイルラジエータヒーター。これは直接育児とは関係ありませんが、赤ちゃんにも優しい暖房器具が必要です。これはすでに購入予定ですが、一応。
⇒やはりデロンギ製。

まだ、いろいろありそうな気がしますが、とりあえずこんなところで。まあ、あくまでも自分たち自身のメモのつもりで書いています。もし、本当にお祝いを考えてくれている方は、事前にお知らせください。

9月26日(日)

つい先週はちょっと寝つきが悪かったんだけど、ここ数日は良く眠れる。この日は2人して寝坊してしまい、遅い朝食を済ませ、急いで新宿に出かける。

新宿武蔵野館 『おにいちゃんのハナビ
私は以前から谷村美月ちゃんが好きだったし、妻は最近高良健吾が気に入っているということで、主演で兄妹を演じる本作を、公開2日目に観る。しかし、意外にも1時間前で整理番号は10番。最終的にも客席は3割程度しか埋まらなかったようです。やはり演技に評価が高い美月ちゃんでも、かなり美形の高良君でも集客力はそんなにないようです。まだまだ大衆の好みはテレビに流されているのでしょうか。
さて、ここ数日観ている映画は九州、四国ときて、最後は新潟。そして、また事実に基づく病気ものです。予告編でやっちゃっているので、ネタバレにはならないと思いますが、『君が踊る、夏』では、小児癌の少女は奇跡的にまだ闘病中だというが、谷村美月演じる女性は物語り半ばにして亡くなってしまう。新潟県片貝町で実際に行われている花火大会がこの作品の舞台。主人公兄妹に、母親が宮崎美子、父親が大杉 漣という家族は妹の病気の回復を願って、東京から空気のよいこの街に引っ越してくる。明るい妹はすぐにこの街に馴染むが、この地で白血病を発症してしまい、入院する。一方の兄は1年しか通わなかった中学はもちろんのこと、高校に入っても友達はできず、結局卒業しても進学も就職もせず、妹の入院中に引き篭もりになってしまう。一時的に退院した妹はそんな兄を部屋から引きずり出すためにいろいろはたらきかける。この町の花火大会は、企業からの出資によるものではなく、地元の同級生会主導で行われる。それぞれの同級生会は20歳の時、33歳、42歳、60歳の時に花火を上げる。兄はこの年、20歳になるのだ。妹はどうしても兄に同級生会に入って、自分のために花火を上げてほしいと願うが、願いかなわず逝ってしまう。妹が再入院した頃から兄は妹のためにという生きがいを見出し、新聞配達と同級生会での活動に精を出すようになるのだが。
もちろん私にとっては病気にも負けずに笑顔で兄を連れまわす美月ちゃんの姿を観るのが楽しくて仕方がないが、本作の見所は妹が亡くなってから。その前から、ことあるごとに涙が頬を伝っていたのに、ここからは涙が止まりません。兄は何を決心し、どういう行動に出るのか。一見、ちゃらちゃらした役どころが似合う高良君ですが、シャイで思ったことを表現できないが、その分一人でひたむきに何かに打ち込む姿はとても似合っています。そして、これは多少ネタバレですが、高良君の2度の号泣シーン、これは見所です。病院で妹が死ぬ場面の泣き方はイマイチだったのですが、その他の2回は、どれだけ彼がこの役にのめりこんでいたかがよく分かります。もちろん、それにはそれまで愛らしい笑顔を彼に向けていた美月ちゃんの演技が不可欠だったのでしょう。ともかく、泣かされる映画です。最後の花火のシーンはちょっと長すぎたかな。

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宮崎美子3連続

金曜日は会社に行かない日なので、この週から大学が始まるが、一応4連休。そのなかで3本の日本映画を観たが、なんとその3本全て、宮崎美子が母親役。

9月23日(木,祝)

午前中は夫婦2人で美容院を予約。といっても、別々のところで、それぞれ散髪が済んだら府中で落ち合う。
夫婦で6月に台湾に行った時、妻が書店で購入してきたのが、吉田修一『悪人』の中国語訳。妻は日本語でも普通に小説を読むことができるが、なぜかこの作品は中国語で読みたかったのだそう。まあ、映画も観ておきましょう、という感じだったが、モントリオール映画祭で深津絵里が最優秀主演女優賞を受賞したということで、すっかり話題になったので、急いで前売り券を買っておいた。
混雑を予想し、早めに受付をし、ランチ。その日は雨だったので、映画館と同じビルの1階に入っているカフェだったが、メニューの選択ミス。イマイチだった。

府中TOHOシネマズ 『悪人
さて、深津絵里に注目が集まる本作ですが、監督は前作『フラガール』が非常に好評だった李 相日だから映画自体が注目されてもよい。『フラガール』は非常に前向きな映画だったが、本体この監督は人間のダークな部分を描くのを得意としているから、本作は全く違和感なし。名前で分かるとおり、在日朝鮮人何世かだが、主演の妻夫木 聡君も『ノーボーイズ、ノークライ』で監督人俳優と共演しているし、けっこう汚れ役だったし、この役にも違和感はなし。唯一、深津絵里がサチ薄い30女はよく演じていたものの、これまではコメディタッチで最終的にはハッピーで、しかも性的な絡みはなしという感じだったので、どう演じるかが見物。
他にも、妻夫木演じる男に殺されてしまう女性を満島ひかりが扮しているなど、見所は満載。しかし、結論からいうと、ちょっと予想とは違っていた。妻がいうにはほとんど原作どおりということなので、私の期待は既に原作の時点で満たされないわけだが、もっとディープな人間の心理を描くものを期待していた。確かに、主演の2人の演技は素晴らしかったと思うし、その演技を引き出した監督の演出も然り。しかし、その演技が何か大きなメッセージを伝えるかどうかというのは別の次元であって、その意味で私の欲求を満たす作品ではなかった。
ちなみに、本作では宮崎美子は殺される女性の母親役。柄本 明と夫婦役で理容室を営む。まずは殺人事件の被害者の母親として。

9月24日(金)

この日から、法政大学の後期講義が始まった。前期から引き続き受けてくれる学生が7人くらい、プラス後期から受けようとする学生がひどく遅刻して参加。相変わらず人気のない授業です。しかし、その分やる気のある学生と信じてやっていきましょう。
講義後、池袋に移動して妻と落ち合う。この日はなんと脚本家の今井雅子さんとランチをご一緒させてもらうことになった。今井雅子さんは6年前の映画『ジェニファ 涙石の恋』で知って、それ以来彼女のホームページの掲示板を通じて知り合い、2年前に初対面を果たす。このblogによく書き込んでくれる岡山のTOMさんの提案で一緒に食事をさせていただいたのだ。そして、昨年彼女の脚本映画『ぼくとママの黄色い自転車』の公開初日の舞台挨拶の際、2度目の対面を果たす。今井さんには娘さんがいて、今年の8月で4歳になった。彼女は布おむつで育てられたということで、妻が妊娠してから一度お会いしたいですねえといってはいたのだが、今井さんは現在NHKの朝ドラ『てっぱん』の脚本にとりかかっていて、非常に多忙。たまたまこの日は池袋で観劇の予定があり、その前のちょっとした時間をご一緒させてもらった。
池袋西口、立教大学近くのカフェzozoiで待ち合わせる。50枚近くの布おむつと今井さんの娘さんに似合いそうな派手な柄のおむつカバーを10着ほど。その他にも残っているベビーグッズは譲ってくれるとのこと。さすがに布おむつを人からもらうとは思わなかったけど、確かに毎日20枚も交換することを考えれば50枚あってもたりないくらいだし、それを買い揃えて、成長したらポイ捨てというのもどうかと思う。なんだか、布おむつの偉大さを知る。1000円のランチはそこそこだったけど、1時間強、いろんなお話を聞かせてもらって贅沢な時間。

妻はその後友人と会う予定があったので、私は池袋で映画。池袋で映画といえば、今井さんも連載を持っているフリーペーパー『buku』をもらう。

池袋シネマサンシャイン 『君が踊る,夏
予告編を観た時から観たいと思っていた、『ダイブ!』に出演していた溝端淳平君の主演映画。高知の本場よさこい祭が舞台になっています。本編が始まって、いきなり予告編の予想を裏切られる。溝端君演じる主人公の男は高校3年生。木南晴夏演じる女性と付き合っていて、卒業後は一緒に上京する約束をしていた。それが、彼女の突然のキャンセル。たまたま、路面電車から、その彼女が自分の親友の男に肩を組まれているところを見てしまい、浮気が原因だと誤解したまま東京で5年が過ぎる。彼は写真家を目指し、専門学校を卒業し、藤原竜也演じる憧れのカメラマンの助手として働いているが、仕事自体も、自分の写真作品もパッとしない毎日を過ごし、このままカメラマンという夢を追い続けられるのか疑問を抱いている。そんな時、母親が入院したという知らせがあり、急遽高知に帰省する。その帰省によって、5年前の誤解が徐々に解かれていく。
ここからが、予告編で伝えられる内容になっていくのだが、実は高校時代の恋人の幼い妹が、状況を目前に小児癌を発症したのだ。すでに母親を亡くしているので、彼女はやむなく自分の夢を捨て、家庭のことと妹の看病という道を選んだということだ。幸い、その5年の間に妹は回復に向かい、本人は主人公と5年前に約束したという、よさこい祭で踊ることを切望する。その少女の夢を叶えるために奮闘しながら、主人公は自分が失いかけていたものを取り戻すという、事実に基づく物語。
ヒロインの木南晴夏はちょっとぱっとしないが、けっこう存在感はあると思う。妹を演じるのは『アマルフィ』で誘拐される少女を演じた大森彩音ちゃん。ちょっと可愛すぎますが、その他にも主人公の母親役でまたまた宮崎美子が出演している他、それなりに豪華なキャストが経験の浅い主役たちを支えます。ちょっと予想したとおり、前半はいかにも高知県の観光PR映像的な印象。東京との差異を誇張し、祭に熱を上げるコミュニティを強調する。しかし、後半はよさこい祭の本番に向け、盛り上がっていきます。よさこい祭といえば、以前高知大学にいた地理学者内田忠賢さんが研究をしていて、それなりに知っていた。それが現在では私の住む調布でも行われ、本場高知では全国から200以上のチームが参加し、優勝を競うイヴェントになっているらしい。祭りだけど「伝統」というものを主張しないし、地元性を強要もしない。残念ながら、つい先日行われた調布のよさこい祭の様子を見ることはできなかったが、先にこの映画を観ていたら絶対に見たのに、と思う。

9月25日(土)

この日は東京経済大学で後期最初の講義。これまではそんなことがなかったのだが、なんと前期から継続して受けている学生は数人で、ほとんどが後期からの受講者だった。なんだか、慣れない雰囲気のまま1回目終了。
一度帰宅して自宅でランチ。先日鹿港で買ってきた肉まんと、妻が生地を手作りし、市販の餡子に胡麻を擂って混ぜたオリジナルあんまんでの昼食。肉まんよりも手作りあんまんがふかふかで美味しかった。その後は揃って地元の散歩。深大寺温泉ゆかりまで歩いていってひとっ風呂と思っていたが、なんとなく取りやめに。結局深大寺までは歩く。すると、ちょうどこの日は十五夜ということで、なにやら読み聞かせのイヴェント、十五夜の会ってのが始まるということで聴いていった。もっと素朴な、年配の方が語り聞かせるのかと思いきや、若者集団によるパフォーマンスでした。この手の最近多いんですね。結局、19時を過ぎてしまうと、この周辺の飲食店は全て閉店してしまっていたので、バスで調布駅まで戻って夕食。

最後の宮崎美子は次回に持越しです。

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4連休

9月18日(土)

来週からは大学の後期授業が始まるので,丸一日金曜日がお休みなのは最後。ついでに月曜日は敬老の日なので,私は4連休。この日は妻の提案で世田谷線沿いを散歩しようということで,下高井戸まで電車で移動。私も以前,下北沢の深夜イヴェントに参加後,下北沢から桜上水まで歩いたことがあったが,なかなか魅力的な町並みが続くことは知っていてもその時は早朝。改めて,世田谷区の住環境に魅力を感じる。
途中,豪徳寺駅前のたい焼き屋で一息つく。たまたま,何周年記念かで,1日30名様たい焼き1円,というのにあたってしまって,抹茶ラテと併せて151円とお得。ここのたい焼きは生地も餡子もさっぱりとした感じで人気の理由はすぐに分かります。そこからちょっと世田谷線からは外れて小田急線沿いに経堂まで歩く。最近,妻はマタニティヨガや,マタニティビクスで経堂に通っていて,それが終わると妊婦仲間でいろんなお店に繰り出すということで,経堂付近の飲食店に詳しくなった。ということで,最近のお薦めの中国料理屋でランチ。1000円と若干高めだが,丁寧に作られたなかなかのお味。東京農業大学の近くを通って,世田谷線上町駅近くの鹿港(ルーガン)というお店に立ち寄る。ここは台湾の肉まんのお店。肉まんだけでなく,まん頭(まんじゅうではなくまんとう)専門店で,妻は以前から知っていた。とても人気で並ぶこともあるということですが,この日はすんなり買えました。肉まんを2つとまん頭を,スタンダードの白いやつと黒糖のやつを2つずつ持ち帰り。それに加えて,その場で味見ということで黒糖まん頭の蒸したてを一つ。このまん頭というのは,ほんのり甘くてそのまま食べても抜群に美味しいのだが,基本的に肉まんと同じ生地なので,日本で知られているのは,豚の角煮をサンドする食べ方。六本木のRバーガーもこれの応用編だ。
ここから結構続けて歩きます。松陰神社前付近で一休みということで,人気のありそうなパン屋のイートインコーナーでコーヒーとミルクパンをいただく。なにやら食べてばかりの散歩だが,それもよし。次の駅,若林の近くでは妻が以前とてもお世話になった,ギャラリー世田谷233に立ち寄って,トイレを拝借。ここまでくればゴールの三軒茶屋駅はもうすぐ。三軒茶屋も魅力的なお店は多いが,私のほうがむしろ疲労してしまい,帰りは世田谷線を使って下高井戸経由で帰宅。さっそく,まん頭を蒸し,塩コショウだけで味付けした牛肉とサラダ菜を挟んで食べました。これは本当に美味しいです。送料は高いですが,Amazonでもまとめ買いできるので,お薦め。

9月19日(日)

翌日も妻と出掛けて映画1本。

銀座テアトルシネマ 『トイレット
荻上直子最新作。『かもめ食堂』は好きだけど,なぜか大人気になってしまい,表立っては好きといえず,『めがね』にいたってはひどかった。PFFスカラシップ作品だった『バーバー吉野』とその次の『恋は五七五!』が好きだったので,その路線に戻って欲しいと思いつつ,なんとなくまだ『かもめ食堂』の路線を引きずりつつも,自らの原案に基づいた映画化ということで,予告編を観てもちょっと期待。
しかし,今回は北欧ではなくカナダが舞台。登場人物は兄,弟,妹の3きょうだい。母親が亡くなって,その母親が日本から呼び寄せた日本人の祖母と一緒に暮らすなかで兄弟愛を取り戻していくというお話。祖母をえんじるのは荻上作品常連のもたいまさこ。きょうだい3人の演技の微妙さもいいし,最近の路線にありがちな予定調和的なところも少なく,まあまあ,いい感じになってきたと思う。次回作にも期待できるかな?

9月20日(月,祝)

この日は献血でもしようと思った。それに映画とかつけて一人で出掛けるのもなんなので,2人で出掛けられるところを考えて立川に行ってみようと提案。以前は駅ビルの上階にあった立川の献血ルームだが,3年前に移動して,行くのは初めて。ここは当日でも電話予約できるというので,12時からで予約する。献血はいつもどおりでしたが,サービス的にも施設的にもイマイチ。待合室のエアコンが効きすぎで,冷房対策をしてこなかった妻は冷えてしまった。
その後,高島屋のレストラン階でランチをし,昭和記念公園へ。といっても,有料のゲートをくぐる前でも十分広い公園になっています。しかも,昭和天皇記念館などという有料の施設を含んだ建物があり,その屋上は公園の延長として芝生が敷き詰められ,樹も生えています。さすが国立公園,金かかってます。それだけでも何となく疲れてしまう私。秋バテでしょうか。

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妊婦ライヴ

9月16日(木)

なんと、永山マキさんがわが家と同じくらいの出産予定日で妊娠というニュースに加え、BE THE VOICEの和田純子さんも妊娠6ヶ月というニュースが飛び込み、そんな2人が一緒にライヴをするというので、夫婦二人でいくことにした。さすがに、出演者が2人も妊婦だったら、会場は禁煙だろうというのもありますな。

渋谷七面鳥
当日はあいにくの雨。座り安いソファ席をゲットするために、開場から開演まで1時間ありましたが、開場予定時刻の18:30にお店に到着。私たちも含め10人弱の人が並びましたが、一番奥のソファ席をゲット。さすがに、マキさんの産休前最後のライヴとあって、見知った顔たちが集まります。私たちはステージ横から見る感じ。特に禁煙と強調はされていませんでしたが、吸いそうな人はほとんどいないという客層。テーブルに灰皿も出ていなかったし、結果的に禁煙で助かりました。
BE THE VOICE:まずは和田純子さん登場。かなりゆったり目の衣装で、お腹はほとんど目立ちません。この日は妊婦だというのにカホンに座っての演奏。もちろん、ギターは鈴木俊治さん。BE THE VOICEも永山マキさんもライヴは今年2回目。なんとなく前半は純子さんの歌声が安定していませんでしたが、かなりマニアックなMCとともに、後半に向けて調子が出てきました。途中は純子さんが抜けて、マキさんの相方であるイシイタカユキ氏が登場し、男子2人の演奏があったり、コーラスでマキさんが参加したりと、予想通りの楽しいステージ。でも、BE THE VOICEの楽曲と和田純子さんの歌声を生で聴いて、やはりきて良かったと実感。純子さんは足でカホンを蹴ったり、右手で叩いたりと大活躍。
永山マキ×イシイタカユキ:私の妻はこの時点で、座り続けることに多少の苦痛を感じてきましたが、マキさんはいたって元気。BE THE VOICEの演奏中も楽屋から顔を出して写真を撮ったりしていた。こちらはもう隠せないほどに大きくなったお腹で登場。もちろん、パフォーマンスに影響はありません。奥田民夫やゴダイゴのカヴァーを含んだステージはさすが。私たちがお世話になっている助産師さんも、妊婦になると感情豊かになるといっていましたが、マキさんはまさにその通りらしく、自分の曲を歌いながら泣いている。やはり面白い人だな。どんな子どもが産まれて育っていくのか、純子さんのところも含めとても楽しみである。子どもが大きくなるまでこんな付き合いが続いていければいいなあと思う。
終演後はなんとか、純子さんに妻を紹介したく、ちょっと粘りました。マキさんは開演前に私たちの存在に気づいていましたが、純子さんは私たちがどこに座っていたのか分からなかったようで、驚いた様子。そして、慌しい中「おめでとう」と声をかけてもらいました。イシイタカユキさんとはなぜか妊婦トークなど盛り上がったり。

これで、妻のライヴ鑑賞も産休に入ります。

9月17日(金)

妻は朝から針灸に通い、午後からは病院で診察があるので、私は新宿に行って映画。その後、病院で落ち合うことに。

新宿武蔵野館 『瞳の奥の秘密
選んだのはアルゼンチン映画。本年度の米国アカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品。かつてあった木村拓哉主演ドラマ『ヒーロー』が検察官の役だったのが,本作の理解にとても役に立った。主人公は引退した一人の男性検察官。一度結婚もしたが,離婚しているため引退して一人で持て余している時間を,自ら関わったとある事件をネタに小説を書くことにする。その事件とは、結婚したばかりの若い夫婦に起こる悲劇。銀行員の夫が出勤した後、妻が自宅で強姦され、殺害される。社会的に大きな影響のあるような事件ではないが、主人公にとっては忘れられない事件。まさに映画のタイトルが全てを物語るような展開で、事件に関わる人物たちの世界と、主人公が関係する人物たちの世界とが交錯する、飽きさせず、次から次へと展開していく素晴らしい脚本。外国語映画賞の受賞は納得です。

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おむつなし育児

クリスティン・グロスロー著,和田和代訳 2009. 『おむつなし育児――あなたにもできる赤ちゃんとのナチュラル・コミュニケーション』柏書房,328p.,1800円.

出産・育児関係の本は一時的なものだから,図書館で借りることにする。図書館で育児関係の棚を見ていたときに,ふと目に付いたのが本書。その時はまだ妊娠中期で,まだ早いかなあと思いながらもペラペラ。ほー,と思いながらもそのまま借りずに書棚に戻した。その後,だんだん予定日が近づくに連れ,わが家でも布おむつの準備を始めているわけですが,おむつの問題は思っていた以上に大変だということを知る。新生児は1日に10~20回も排泄があり,しかも知人のお子さんでも3歳すぎてもおむつは外れていないのだ。まあ,それは常識なんだけど,紙おむつだったら大量の廃棄物が,もちろん布おむつでも大量の水と洗剤,そしてわれわれの労働力を費やす必要があるということを身にしみるようになった。
そこで思い出したのが,本書のタイトルである「おむつなし育児」。そういえば,夫婦で国分寺のカフェスローにランチを食べに行ったときにもそんな話があったように思い出した。そう,カフェスローはNPO法人「自然育児友の会」の重要な拠点になっていて,一角ではそのNPO関連のショップも併設されていた。そう,本書は韓国系アメリカ人によるおむつなし育児の啓蒙書だが,日本でもその動きはかなり浸透してきたらしい。
さて本書の内容だが,まずおむつなし育児とはおむつを全く使わないことではないし,いわゆるトイレ・トレーニングのハウツー本でもない。副題に書いてあるが,重要なのは赤ちゃんとのコミュニケーション。おむつなし育児とセットになって使われる用語が「排泄コミュニケーション」。そう,言葉を学ぶ前の赤ちゃんとのコミュニケーションはいくつかある。その重要なのが食べることと寝ること。赤ちゃんがお母さんの腕の中で泣いた時,お乳が欲しいのか,眠いのか。もちろん,それに加えておむつが濡れているのか,というのもあると思う。赤ちゃんが泣いたり,手足を動かしたり,そういう挙動から,その子が何をしたいのかを読み取って,世話をする。それこそが親子のコミュニケーションである。おむつ育児の場合には,排泄コミュニケーションは事後的なものである。紙おむつが段々進化し,吸収力や通気性が抜群になってきたが,その一方でその弊害も叫ばれている。おむつなし育児はまだそれほど定着していないかもしれないが,この時代にあえて布おむつにこだわる人たちも多い。それは単なる廃棄物を減らすという環境主義的な関心だけではなく,排泄をしても赤ちゃんが快適であると,自分が排泄したことを認識できずに成長してしまい,おむつが外れるのが遅くなるというのが認識されてきたからだ。だから,あえて布おむつで自分が汚物で不快であるということを赤ちゃんに認識させるという目的がある。
しかし,それもやはり事後的なものである。本書の主張はちょっと発想を転換し,生まれたての赤ちゃんだって,自分がおしっこがしたいとかうんちがしたいとかを事前に判断できる,そしてその判断を言葉以外の表現を使って親に伝えることができる能力を有している,という前提に立つ。むしろ,この生まれ持っての能力は,長期間のおむつ使用によって失われてしまうと考えている。おむつ育児によって赤ちゃんは「おむつのなかに排泄することを覚える」のだという。だから,一度覚えたおむつへの排泄を,再び3歳になる頃におまるやトイレへの排泄へと教育しなおすということになる。その期間に紙おむつであれば大量の廃棄が,と先ほど述べたようなこと。
確かに,おむつなし育児は手がかかります。しかし,それは日に10回ものおむつ替えの労力と代わらないもので,しかもおむつなし育児は常に赤ちゃんと向かい合って,その子が何を欲しているのかを読み取ることだから,機械的なおむつ交換と違って,親子の結びつきを強める行為だという。
おむつなし育児は全くおむつを使わないわけではない。もちろん,そういうあり方もあるが,1日に1回,おむつをはずす時間を設けること。あるいは1日に1回,おまるやトイレに赤ちゃんを「ささげて」,「シーシー」と合図をする。あるいは,おむつを外してお知りの下に敷き,赤ちゃんが排泄する様子を観察し,排泄前にどんな兆候があるのか,あるいは起きたばかりや授乳後など,排泄しやすいタイミングを知ること。そうして,赤ちゃんの排泄について親が観察し,また人間の排泄について赤ちゃんによく説明すること。排泄物で体を汚すことが不快で,おむつの外に排泄できた時に快適なことを教えること。排泄の後の赤ちゃんの気持ちよい表情をみて,親が喜ぶこと。そんなことが,魅力的に本書では語られています。なので,おむつなし育児は片意地張ってやるものではなく,赤ちゃんとより深く接する術として理解することがよいようです。もちろん,順調に行けばおむつなし育児によって,おむつを使わずに済む時期は1歳前後と,非常に早まることもありますが,やはり3歳前後まで完全には外れないこともあるようです。なので,おむつ代をケチろうとか,布おむつの選択の労力が省けるとかというのは,おむつなし育児で必ず伴うものではないし,おむつなし育児も前進後退を繰り返す可能性も十分にあるということです。まあ,ともかく気軽に取り組んで欲しいということと,たとえ失敗したとしても(本当は失敗にめげずに気長に続けることが大切なのですが),無駄なことは何もなく,それが後のトイレ・トレーニングに活きてくることもある,とのこと。
最後に本書の難点も少し。本書は啓蒙書ですから,分かりやすさが第一です。そして,米国特有の書き方というのでしょうか。非常にくどいです。おむつなし育児はいつでも始められるということを売りにしていますから,本書はおむつなしを始めようという時期ごとに章が分かれています。「生後~3ヶ月」,「3~8ヶ月」,「8~12ヶ月」,「12~24ヶ月」,そして最後に「おむつからの卒業」といった具合に。なので,読者は自分に該当するところを読めばよいのですが,まあ私は通して読んだわけです。なので,非常に繰り返しが多い。しかも,意外に具体的な記述が少ないです。そして,グッズの紹介も米国で主流なものが中心でちょっとイメージしにくいですね。
まあ,ともかく授乳というのは母親にしかできないことですから,おむつなし育児に懐疑的な妻が見ていない隙に,密かに父子間の排泄コミュニケーションを楽しもうと思っています。

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真像残像

田沼武能 2008. 『真像残像――ぼくの写真人生』東京新聞出版局,348p.,2190円.

単著としては6年ぶりに,私の論文掲載が決まった。私は1995年に提出した修士論文で,写真家田沼武能の作品分析をしたが,その一部を久し振りに掘り起こして1本の論文にしたのだ。田沼作品の分析については,1997年に『人文地理』に,2001年に『地理学評論』に論文を掲載し,今回3本目が『人文地理』に掲載される。今回も論文に写真を掲載する予定はなかったが,1997年の時と同様に,編集委員会からそれとなく掲載の要望があり,やむなく分析した写真集の出版社と田沼さんに,掲載許可の手紙を書いた。その返事とともに送られてきたのが本書。
田沼さんから写真集(今回は著書だが)をいただくのはもう4冊になる。なかには9000円の写真集もあった。本書は既に2年前に出ているもので,いわゆる自伝なので,研究している身としては持っていて当然なのだが,その存在しか知らなかった。恥。そんなことで,今回の新しい論文は,田沼氏が1980年代に出版した,スペインはカタルニア地方の写真集と,南米はアンデス地方の写真集なのだが,本書のなかのそれら地域に関する記述を早速引用した。
さて,そんな感じで,本書は自らの写真を多数掲載した自伝である。写真家のなかには,自分の写真が語る以上のことは言葉では語らない人も少なくない。一方で,田沼氏は自分の写真集には必ず2ページ以上のあとがきを入れ,多くの場合知人の文筆家に序文を書いてもらい,個々の写真の解説文を入れることも少なくない。また,これまでもいわゆる写真集のほかに,文章を多数掲載した写真旅行記の類も多数出版しているし,また自ら文章を付した雑誌・新聞記事も多数ある。そもそも,本書は東京新聞への掲載記事をまとめたものである。そんな田沼氏だから,この手の文章を書くのはなんてことない。非常に明確で読みやすい文章を書く人だ。
そんな文章にも触れてきた私だから,本書に書かれた文章の多くは既に読んだことがある。というのも,自らの人生のエピソードは毎回ほぼ同じ言葉で語られる。その辺はさすが写真家だと思う。さて,そんななかでも今回本書で初めて読んだことも少なくない。一つは彼が幼い頃に大空襲を経験したという戦争の記憶。幼いといっても1929年生まれの田沼氏だから,終戦当時は16歳。まさに青春を戦中戦後に過ごしたというのは私には想像できない。そして,もちろん自伝だから彼自身が写された写真も少なくなく,面白い。若かりし頃の田沼氏はよくいる感じの元気でお調子のよい青年だ。そして,自身が書いていることだが,20歳台でジーンズを履いていることや,写真館以外の職業写真家であること,1950年代から撮影旅行でさまざまな国に出かけていたことなど,今で思うと当たり前のことだが,彼は常に時代の先をいっていたということを改めて思い知らされる。そして,新潮社の雑誌の仕事を通して,名だたる文士・芸術家と交流を結んでいたこと。これについてはもちろんその作品によって知ってはいたが,これほどの文章を費やしてその頃のことを回想するのは初めてだと思う。そして,タイム・ライフ社の仕事についてもけっこう書かれていた。彼自身が体験した太平洋戦争の記憶がもとで,彼は戦争写真家にはならなかったとのこと。社員という選択を排して,フリーランスでの契約にこだわったことなど。また,自らの写真集についても語っているが,その経済的な事情まで書いてあるのも初めてだと思う。今回の論文で扱った『アンデス讃歌』などは撮影旅行に1千万円の借金を作って出かけたこと,写真集はお蔵入りになりそうになって,ようやく6年後に出版されたという。それから,彼は現在日本写真家協会の会長をしているが,その仕事についても知ることができた。
まあ,その他にも説明すべきことは多いが,カラー写真も多く掲載した豪華本でありながら低価格なので,多くの人に読んでもらいたい本ではある。冒頭に書いたように,もう15年前に取り組んだ田沼武能の写真世界であるが,その選択は間違っていなかったと思う。写真そのものを取り上げやすい写真家は他にもっといる。田沼氏の写真はそういう意味では非常に優等生的で,研究として取り上げる人などまずいないのではないか。しかし,だからといってその価値がないわけでは決してない。彼の一生にはさまざまなものが関わってきており,彼の写真作品にはそれらが見事に反映しているのである。
かくいう田沼氏もすでに79歳。私は彼の作品分析をあと論文2本にまとめようと考えていて,それが終われば単行本1冊にはなるだろう。こんなことを書くのは失礼だが,なんとか彼の存命中にその仕事は仕上げたいものである。

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雨続き,平日ライヴ2つ

9月14日(火)

久し振りに平日に一人でライヴ。これはイープラスから案内が来たもの。イープラスからはいろんなライヴの案内が届く。もちろん、登録しているアーティストの情報ってのが一番多いんだけど、開催日が迫っているのにチケットが売れなくて、ディスカウントするものや、場合によっては本来有料のものを抽選で無料招待ってのまである。もちろん、これらの「得チケ」は好みの問題でほとんど買うことがないんだけど(無料のは1度行ったことがある)、今回のは普通のライヴイヴェントがなぜか価格を下げて案内が届いた。通常2500円が1500円。広沢タダシ君はもちろんファンだけど、今回は以前から聴いてみたかったsowan songもいたし、オープニングアクト含めて4組ならば許容範囲。また、以前はイープラスはシステム利用料が1枚につき600円、配送料が枚数に限らず500円ということで、チケット代+1100円というバカらしいシステムだったわけですが、最近はものによってはファミリーマートでの引き取りで手数料0というのを始め、もちろん今回もそれが利用できたので買ってみたのだ。なんだかんだで、会社を出るのが遅れ、渋谷で夕食も食べていたら、会場に着いたのが10分前くらい。

代官山晴れたら空に豆まいて
店内は満員とはいわないが、テーブルと椅子が出ているセッティングで、椅子はほぼ埋まっていた。しかも、ほとんどが女性。最終的に80人くらいは入っていたと思うが、男性は5人程度。さすがに女性の間で一つだけ空いている椅子に座る気にもならず、ステージ向かって左右端にある長椅子の右側に座る。
佐藤 歩:オープニングは女性弾き語り。名前を漢字で見ただけでは男女どちらか分からない。サイドと後ろをバリカンで刈った妙な髪形で、タンクトップにスカート。声量はかなり大きく、ギターで弾き語る。歌もギターもうまいし、それなりに独特で面白いがどこかチグハグしている印象。なんでも、昨年の夏に広沢タダシとは出会っていたらしい。サマーソニックという大きなイヴェントがあるが、私の身近なミュージシャンでも出場するためのファン投票に参加している人が何人かいるが、そんな感じで出場していたらしい。広沢君は審査員。
岡野宏典:「一期一会」というイヴェントをやっていて、今度は山田タマルちゃんも出演していて(行ってませんが)、ちょっと知っていた。そもそも、広沢君とは仲がいいらしいので、どこかで聴いたことがあるのかないのか。非常に真面目で一生懸命なのは分かります。最前列の女性たちは彼のファンでもあるようだ。歌も飛び抜けて上手くはないが、その誠実なところが女性の心に訴えるのかもしれませんね。
sowan song:以前はよく行っていた渋谷の7th floor。数年前にそのお店の大プッシュアーティストだった。一度、橋本 歩さんや戸田和雅子さんたちと、この7th floorのシェフがオープンした神泉駅近くのお店での打ち上げまでついていった時、お店の関係者にお薦めされた男性シンガーソングライター。確かに、いつもワンマンライヴをやる時のサポートメンバーは私の知っている人が多く、豪華だった。でも、それから結局1度も聴く機会がなく、ようやくこの日聴くことになった。なんでも、年齢は私の一つした。ジャケットはさわやかな青年の横顔がラフスケッチで描かれているので、小柄なさわやか少年が出てくると思いきや、関西弁丸出しの少し腹の出てきた(?)中年男でビックリ。しかし、話は面白いし、ギターも歌も上手い。曲もなかなかいいですね。でも、前の2組の出演者が短めのステージだったので、曲数が多く、後半はちょっとおなかいっぱい。でも、CDで改めて聴いてみたいかも。
広沢タダシ:久し振りのタダシ君の弾き語り。その前に,この日の彼の出番が何番手かなあと久し振りにblogを覗いてみると,なんといろんなことが書いてありました。レコード会社との契約が切れたこと云々。そして最後に「今年の5月に離婚しました。」あれ?結婚したのはつい最近だよな。しかも,ながい間支えてくれた一般女性と書いてあったような。そんな報告をした後に相応しくも,「悲しみのぬけがら」を1曲目に持ってくる。相変わらず,ギターはうまい。まあ,この曲はそんな自身の心境というよりも,ギターテクニックを楽しめる曲だからってのもあるかもしれない。弾き語りの時は最近よくありますね。そして,10月に発売予定のニューアルバム(といいつつ,ライヴ会場では先行発売していますが)から「ファミリーレストラン」。一人暮らしのときに彼はほとんど外食だったようだ。しかも,ファミリーレストラン好き。基本的に孤独が好きな人とは思っていたけど,やはり結婚生活はうまくいかなかったのでしょうか。そんなこんなで,この日はニューアルバムの曲を中心に。今回の新譜でも素晴らしいバラードを作っていますが,このファミレスの曲や眼鏡の曲など,ちょっとふざけた歌詞が多い最近。しかも,最近は唄い方もちょっと違っていて,あっさりしているというか,あまり心がこもっていないというか,そんな感じがします。でも,おそらくそんな彼でないとできない曲ってのがあるんでしょうね。
後半では岡野君をステージに呼んで「星空の向こう側」を一緒に演奏したり,アンコールでは出演者4人が舞台に出て「デイ・ドリーム・ビリーバー」を演奏して終了。広沢君の新譜『雷鳴』を買いたかったが,上記の通りこの日はスタッフを連れてきてないようで,本人が戻るまでお待ちくださいという。すでに22時をすぎていたので,10月の一般発売日を待つことにして帰宅する。

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富士北麓観光開発史研究

内藤嘉昭 2002. 『富士北麓観光開発史研究』学文社,195p.,2300円.

前にもクリストファー・ロー『アーバン・ツーリズム』の訳者として,本書の著者である内藤氏については書いたが,2008年に拓殖大学国際学部に移り,拓殖大学のホームページに彼のインタビューが掲載されていて,その経歴がかなり明らかになっている。経歴に「外務省勤務」と書いてあることが,彼の観光研究における政策提言的な側面に大きく影響していると思い込んでいたが,なんと外務省勤務は,彼の長い社会人生活における3年間にすぎないらしい。ともかく,さまざまなところを転々としているのはとても面白い。
本書は彼が桜美林大学に提出した博士論文ということだが,各章はそれ以前に発表されている。外務省勤務の経験と関係あるのか分からないが,政府系の財団法人から観光されている雑誌『運輸と経済』や,彼が専任講師として勤めていた奈良県立商科大学の紀要など。1999年に博士論文を提出した時点で,すでに『観光とアジア』と『観光と現代』という2冊の著書および,5冊の訳書を刊行しているので,そのバイタリティはすごい。しかし,以前にも書いたように,地理学関係雑誌には自らが翻訳することになる英文書の書評が掲載されるだけで,彼自身の研究については謎だった。そんな謎を解明するために本書を読んだわけである。
本書の目的と論旨は明確。富士山麓の山梨県側の地域を「富士北麓」とし,この地の観光開発の歴史を江戸時代から現代まで辿ること。なぜこの地域で論じるのかというのは,彼が山梨県出身ということも大きいようだが,明確な意義も述べられている。まずは目次を示しておこう。

第1章 近世の富士信仰をめぐる観光的考察(1603~1868)
第2章 近代的観光地の形成と発展(1868~1925)
第3章 昭和初期における社会変動と観光開発(1926~1945)
第4章 戦後の地域変容と観光開発(1945~1999)

本書のタイトルや目次からも分かるように,本書は非常にオーソドックスで硬い本である。といいながらも,あとがきで書かれているように,その書き方は,当地の観光開発があたかも一個人の人生に目的を持った成長のように,目的論的に,ドラマチックに描かれている,という意味では柔らかい本である。
江戸時代の主要な産業といえば農業である。それを前提とした時に,当地の自然環境は農業には恵まれないもので,とても貧しい地域だったというところから始まる。一般的な理解では,近代から現代に至る地域の発展は,農業を含む第一次産業から第二次産業を経,第三次産業へと移行するわけだし,また第三次産業の主要な部門としての「観光」は近代以降に顕著になってきたものだ。しかし,当地では富士信仰,あるいは富士講という存在が,前近代的な観光として,重要な産業として徐々に進展し,第二次産業化,つまり工業化という地域発展の段階を経ずに,第三次産業が展開していくという。しかし,それはあくまでも多くの貧しい農民たちの生活を豊かにするような地域発展ではなく,一部の富裕層にとってのみのものであった。それは近代期に入っての避暑地,リゾート地としての開発においてもしかりである。外国人向けのリゾート開発というのは日本各地で展開したものであるが,本書で面白かったのは今でも残っている大学のスポーツ合宿施設の開発である。本書は当時の大学生がいかに少数派のエリート集団であるかという資料を示しながら,戦後になるまで,当地の観光開発は一般的な民衆を相手にしたものではなかったことを指摘している。
そして,戦後に河口湖付近にオープンする富士急ハイランドに象徴されるような大衆レジャー化が進むわけであるが,彼が地理学者としてこだわっているのが,富士北麓と地域を設定していても,その中身はそのなかでも異なっており,富裕階層向けのリゾート中心の山中湖と大衆的なレジャー中心の河口湖という対比をしているところである。
確かにその論理は,一見直接関係なさそうなさまざまな資料を提示することで説得的になっているし,本書のストーリーは非常に面白い。歴史学的な手法をとりながらも,常に「観光」を中心におき,しかしその根底には農業貧困地域における「観光」を利用した内的発展というテーマはとても独自の視点と説得力があるように思う。ただ,ちょっと気になるのは,彼が「観光地理学」を標榜し,地理学の堅実な業績もきちんとフォローしながらも,いわゆる現在進行形の日本の地理学アカデミアにあまりコミットしようと思われないところだろうか。まあ,逆に地理学の方でも彼の著書を誰もきちんと紹介・評価していないように思われるのだが。

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こども風土記・母の手毬歌

柳田国男 1976. 『こども風土記・母の手毬歌』岩波書店,328p.,760円。

岩波文庫版。私が次なる論文で取り上げようと思っているのは,田沼武能の写真集『子どもたちの歳時記』(筑摩書房,1985)。この写真集は彼の作品のなかでもかなり好きなもの。私は修士論文で田沼武能のほとんどの作品を扱ったが,実はこの作品については掲載写真情報をまとめた表は作ったものの,作品そのものについての考察はほとんど本文にない。もし,この作品についての論文を書くのであればほとんど一からのスタートだ。久し振りに写真集を開いて,田沼氏による「あとがき」を読んでみると,冒頭に柳田国男の「こども風土記」からの引用がある。そう,この写真集は田沼氏が,「こども組」と呼ばれる,主に祭りのための子どもたちによる自治組織を探して日本全国を駆け巡った記録になっている。なので,それについて考察するということは,もっぱら民俗学の議論を参照することになりそうなのだ。
ということで,とりあえずはその柳田国男の文章を読むしかない,ということで柳田の文章を初めて読むことになった。社会学や哲学,批評,言語学など様々な分野の本を読みながらも,なぜか苦手意識があるのが人類学と民俗学。基本的に入門書の類は好きでない私だが,苦手な分野についてはそれらに頼りたくなる。ということで,柳田自身の文章を読む前に,福田アジオ『柳田国男の民俗学』(吉川弘文館,1992)を読んだことはあった。いや,きちんと読んだかどうかの記憶すら曖昧です。ともかく手元にはある。
「こども風土記」は1941年に『朝日新聞』に連載されたものであり,単行本としても朝日新聞社から1942年に刊行されている。一方,「母の手毬歌」は当初『村と学童』というタイトルで1945年9月,つまり敗戦すぐに刊行され,ほぼ同じ内容で『母の手毬歌』として刊行されたのが1949年。最終的に同時期に同じ目的で書かれた文章が10編あると本文にも書かれているが,そのうち8編を収録している。
「こども風土記」は「子どもとそのお母さんたちとに,ともどもに読めるものを」ということで依頼された新聞連載。「かごめ・かごめ」など,日本全国にある子どもの遊びについて,徒然する文章。1回の文章は短く限られているので,1つの話が一度で終わる場合もあれば,何度かにわたって続けられるものもある。柳田本人も書いているように,とても子どもが読んで面白いようなものではなく,かつて子どもだった人が,田舎での子ども時代を懐かしく思い出す,そんな記事になったようだ。やはり著者の興味は民俗学的なものにいっていて,全国各地にある似たような遊びの伝播や関連性,その起源などを素朴に追求するような文章です。そのなかに,「こども組」についての記述もある。言葉の起源に関する彼の関心はやはり興味深い。
「母の手毬歌」は「こども風土記」と比較して,1つの文章はながくまとまりがある。この岩波文庫版のタイトルにもなっている「母の手毬歌」は柳田自身の母親の思い出からはじまる。『村の学童』は結局,戦後の出版となったが,そもそもはそのタイトルにも現れているように,疎開先の学童に向けて教科書代わりになるものを与えたいという想いから書かれたものである。これもはやり「こども風土記」と同様に,子どもの遊びに限定しないが,日本のいろんな地方に伝わる民話や風習の類を集めてきて,その時間・空間的な推移を辿るというもの。
やはり全般的に,子どもに向けて書かれたということもあり,記録されている事実は非常に興味深いのだが,私自身はとても読みにくい。こういう文章は集中力が続かないのだ。でも,もちろん柳田氏の文章だからそのクオリティは高く,イラストも多数掲載されていて,非常に興味深い作品であることは間違いない。

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最近の週末

9月10日(金)

この日は妻がマタニティビクスに行く日。午後からなので、私も経堂まで付き合っていく。以前、妊婦仲間たちと行ったというscone pantryというお店でランチ。デリ2品と大き目のプレーンスコーンにドリンクがついて850円。ちょっと高い気はしますが、丁寧に作られたスコーンとデリなのでよしとしましょう。平日のお昼時でしたが、特に混んだりせず、くつろげるお店です。あまり時間がなかったのが残念でしたが、今度ゆっくり散策してみたい街。私は一人で電車に乗って映画を観に行きます。
せっかく平日なので、ヒット中だといわれている『ハナミズキ』でも新宿で観ようかと思っていたけど、時間的に間に合いそうだったので、下北沢で乗り換えて渋谷へ。最近何度か予告編を観て、無性に観たくなったドキュメンタリー映画を観ることにしました。

渋谷ユーロスペース 『ようこそ,アムステルダム国立美術館へ
オランダの代表的なアムステルダム国立美術館。オランダ絵画といえばルネサンス期の作品はヨーロッパのなかでも重要。19世紀末に建てられた美術館の建築も重要なものらしいが、21世紀になって大幅な改装が計画された。改装案のコンペティションも終わり、その最終的な計画案を市民に示したところ、大事になってしまう。さまざまな市民団体や地区計画を検討する委員会は、その計画案に反対意見を示し、大きな論争が起こる。美術館側はこれから施工にかかる「最終案」と思っていたのに、市民側は意見を自由にいえる出発点と思っていたようだ。まあ、最近は巨額の税金が費やされる建設工事に関しては、行政側が「こうしますよ」と一方的に工事が進められるような時代ではない。各段階で市民の意見を聴きながら調整する必要があるのは、こういうことに遅れがちの日本でも既に避けられない。それを怠ったのは美術館側の落ち度としか思えない。まあ、それはそうとして、土木計画・設計に関わる仕事をしている身としては(でも、決して直接こういう議論の場には関わらないが)、なかなか面白い作品。もちろん、予定通りに計画が進まない美術館長も困っているのだが、一番可哀相だったのが、コンペに勝ってこれから詳細設計を進めようとしていた(ある程度は進んでいたと思う)建築家。しかも、オランダの美術館の設計を請け負うのはイタリアの建築家2人ってところも面白い。
美術館のスタッフにもいろいろいて、全体を取り仕切る美術館長。展示の内容を決めるさまざまなチーム。特に、改装してからは、時代毎の展示に変更するらしく、17世紀担当主任や20世紀担当などにチームが分かれる。それから、アジア美術担当者。日本の金剛力士像を購入するシーンなどもあって面白い。それから、さまざまな書類の審査をする役所の人々。サイクリング協会をはじめとする市民団体。なんでも、以前の美術館は1階に自転車の通行通路があったのだが、新しい改装案ではその幅が半分になり、自転車交通に支障があるということで大きく反対していたのだ。まあ、ともかくそれぞれがそれぞれの立場でいいたいことをいって、何年経っても物事が進展しない様子が見事に描かれている。
それにしても、こういうドキュメンタリーを観ていつも不思議に思うのは、ドキュメンタリー作家はいつの時点で、この題材が映画として面白いものになるというところを感じ取るのだろうか。文章で表現する場合にはある程度事後的でもなんとかなるが、本作でいえば、その問題となった市民への計画発表会の場の映像がなければ話にならない。話の発端を事前に察知して映像に残さなければならないのだ。まあ、とにかく物事はどんどん面白い方向に進み(当事者にとっては面白いなど失礼だが)、最後の方には館長が辞職までしてしまう。ともかく、いろんなことを考えさせられる映画です。

9月11日(土)

この日は友人のiwasakiさん宅を訪ねる。iwasakiさんとはBONNIE PINKファン仲間として知り合い、もう7,8年になりますかね。といっても、フリーのインテリアデザイナーとしての仕事が軌道に乗ってからはかなり忙しいようであまり会う機会もなかった。そんな間に彼も結婚し、2歳の娘さんもいる。ということで、そんな育児のお話を聴くということで、彼の家がある北鎌倉まで遊びにいったのだ。
北鎌倉の駅は何度か降りたことがある。といっても、鎌倉に遊びに行く際に、鎌倉駅周辺の雑踏を避けるために、またフラフラと散策するために北鎌倉で下車し、線路の東側を南下するコースを歩いただけなので、いわゆる駅前の商店街のある線路の西側は初めて。といっても、味のある小さなお店は多いものの、日常の生鮮食料品などを購入するには鎌倉か大船に行かなくてはならないとのこと。そんな駅から程近いマンションの3階にiwasakiさん宅はありました。駅まで娘さんと一緒に迎えに来てくれた。はじめはかなり恥ずかしがっていたものの、自宅につくと少しリラックス。さっそく、お手製のランチを5人でいただきます。昼間っからビールを呑み、私が持っていった赤ワインを呑む。
人見知りをする娘さんということでしたが、食事をしている間中、その子が私のことを見ている時は視線をそらさず見ていたことで、その後はすっかり遊び相手にしてもらいました。最近仲良くなった2人の子ども(もちろん、友人の息子さんです)がどちらも男の子だったので、私という男の大人が女の子にうけが良いのか悪いのか、あまり自信はありませんでしたが、台湾でのことに続いて、女の子にも自信をつける。そこで、子どもに好かれるコツが分かったような気がした。といっても、私は以前からそれを実践していたわけですが、要は子どもの視線から目を離さないということ。子どもは飽きっぽさとしつこさが同居している存在。しかも、相手をしている人物に対しては目をまっすぐ見つめる。大人はよっぽどの関係でない限り、長い間目を見つめることはない。むしろ、それを失礼だと思って、さりげなく視線を外すのがマナーだったり。それは子どもには通用しないのだ。だから、思い切り見つめること。無理に微笑む必要はない。穏やかな顔で問いかけるように見つめる。そして、遊び相手になっても子どもの飽きっぽさとしつこさを忘れない。しつこいものは大人が飽きても続け、飽きたものに対しては執拗に強要しない。まあ、簡単にいうと子どものペースにあわせるってことかな。私が前日に作ったさつまいもプリンも娘さんに大好評。たまたま、彼女がさつまいも好きだったらしい。ちょっとカラメルが失敗気味だったが、特に気にならずいただけました。
さて、iwasakiさんからもいろいろいただきものをしてしまった。まずは結婚祝い。そして、子ども服。なんと、iwasaki家もお下がりをもらって大事に着ていたとのこと。2代目、3代目になるものもありますが、捨てずに次の新米親たちに譲り渡すという、その物を大事にする精神と一緒にいただくことにしました。それからベビーカー。B型で、子どもがしっかりとお座りできるようになってから使うものですが、デザインもいいし、とてもキレイに使われていて、これもいただくことに。ベビーカーってのはA型とB型とある。最近はAB両用というのもあるが、A型は赤ちゃんを寝せたまま対面式で使用するもので、モノによっては生後1ヶ月くらいから使えるが、意外に使用期間は短いらしい。B型は子どもを進行方向を向いて座らせて押すもの。どういう形でベビーカーを揃え、使っていくかは大きな悩みどころです。
そんな感じで、快適なiwasaki家で思ったよりも長居してしまい、それだけの1日でしたが、有意義な土曜日。

9月12日(日)

特に予定のない日曜日で、妻も家でこまごましたことをしたいといっていたので、一人で映画でも観るつもりが、妻が新宿に用事があるということで、彼女も観たいといっていた映画を選んで2人で観ることにしました。ちなみに、この日は伊勢丹の前のいつもの日曜日は歩行者天国になる道路で、映画『海猿』のイヴェントをやっていた。翌日のネットニュースには「沿道に集まった5000人のファンが」のように書いてありましたが、歩道には高い衝立が設置され、中の様子は全く見えず。見られたのは、伊勢丹向かいの丸井の2階にあるスターバックスコーヒーの座席からくらいでしょう。おかげでお店には行列ができていました。

新宿角川シネマ 『オカンの嫁入り
選んだ映画はこちら。『酒井家のしあわせ』の呉 美保監督による長編映画第2弾。大竹しのぶと宮﨑あおいが母娘を演じるもの。以前にも大竹しのぶと伊藤 歩が母娘を演じる『ふくろう』という奇怪な映画がありましたが、今回はどうなることか。といっても、粗筋は予告編で知らされている。2人暮らしの母娘。自由奔放な母は突然若い男を連れ込んで、結婚するという。それに抵抗を示す娘だったが、母親の余命が1年ということが分かり...まあ、こんな感じのファミリードラマです。2人が住む家の大家に絵沢萠子、30歳で母親と結婚することになる男に桐谷健太、母親が勤務する病院の院長先生に國村 隼が扮する。桐谷君の評価は人によって異なるでしょうが、いい感じの配役ですな。でも、原作は少し違うらしい。
そして、ネタバレではありますが、予告編では分からなかった一つの重要なことは、あおいちゃん演じる娘が引き篭もりだってこと。働いていた会社で、転勤してきた優秀な男につきまとわれることになり、通勤どころか電車に乗れなくなる。最近のあおいちゃんは明るい役が多かったので、こういう役は久し振りでいいですね。といっても、大阪が舞台なのでただ陰気に引き篭もっている感じではありませんが。まあ、ともかくこれだけの忙しさだけど、一つ一つの仕事をクオリティを下げずにこなしている彼女は凄い。といっても、大竹しのぶ相手にいい加減な演技はできませんけどね。でも、欲をいえば、『ふくろう』のようなぶっとんだ設定でも大竹しのぶならばなんとかなるわけだから、本作はちょっと無難すぎるかなという印象があります。
それにしても、一つ感心したのは、國村さんが煙草を吸うシーン。日本映画ではまだまだけっこう煙草を吸うという演出を意味ありげに使うことが多いです。しかも、最近では若い男女がスパスパと。これが私にとっては大きな違和感なんですよね。しかし、國村さんの煙草は凄い。火をつけるまでの過程や、煙を吐くタイミング、もちろんその吐き方まで。もちろん、おそらく本人がヘビースモーカーなんだろうけど、素晴らしいです。本来煙草なんてこの世からなくなってしまえ、という私ですが、ああいうひとはいいなあと思う。

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さまよえる近代

アルジュン・アパデュライ著,門田健一訳 2004. 『さまよえる近代――グローバル化の文化研究』平凡社,425p.,3800円.

原著が1996年に発表された人類学者による本書は,地理学者もよく言及していたし,2001年には2章が『思想』に翻訳されたこともあって,読まなくてはとは思っていた。でも,地理学者がそろって言及する,そして2章にも登場するランドスケープをもじった,5つのキーワード――エスノスケープ,メディアスケープ,テクノスケープ,ファイナンスケープ,イデオスケープ――がいかにも胡散臭くて,2004年に全訳が出た時にとても新刊で買う気がしなかった。
でも,冷静に考えると,グローバル化について論じているのに,あえてポストモダンとするのではなく,タイトルに「近代」とつけるあたりの思想についてはもう少し思い巡らせるべきだったか。原著のタイトルは「Modernity at large」というが,「at large」の多義性を理解していなかったのも一つの原因かもしれない。
その読みにくい名前で予想がつくように,著者アパデュライはインド出身で,現在は米国の大学で教鞭をとる。そして,本書もそのインドでの経験,そして非ヨーロッパ世界へのこだわりが根底にあるのだ。そういった意味で,本書はナショナリズムという極めてヨーロッパ的なテーマを扱いながらも常にインドネシアでの経験を中心においていた,ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』によく似ているといえる。前半の「文化」についての内省的な考察は非常にためになる。思ったよりも堅実な文章を書く人だと,読み始めて読まず嫌いを決め込んでいた自分を恥じた。
そして,吉見俊哉という社会学者ではあるがこの分野の日本における第一人者が解説を沿えた本書を翻訳した訳者の丁寧な仕事も読み始めてすぐに分かった。しかし,読み進めるにつれ,私の人類学との肌の合わなさが徐々に首をもたげてくる。なぜかは分からないのだが,読書ということだけに限っても人類学という分野にはなかなか突き進めないのだ。なかほどには,イングランドの紳士のスポーツ「クリケット」が,英国の植民地であったインドにわたって変容する様を事例に,脱植民地化について議論している。私が講義の教科書として使っていた英国オープンユニバーシティの地理学の教科書にステュワート・ホールが寄稿した文章にもジャマイカのクリケットについての説明があり,比較しながら読む。
結局,アパデュライはポストモダン思想家ではない。そして,近代という時代もヨーロッパを中心として確たる「大きな物語」を作り上げたとは考えていないようだ。もちろん,植民地獲得争いをしていたヨーロッパ列強の存在は大きいものの,世界はそれだけではないし,またヨーロッパの作り上げたものに限ってさえ,それは矛盾のない強力なものではなく,支離滅裂な部分も有するもの。だから,強力な「近代」がくずれつつあるのがポスト近代としての現代なのではなく,現代とは一見強そうに見えた「近代的なもの」の弱さが露呈し,行き場を失ってさまよえる状態になっているに過ぎない,そんなことなのだろうか。

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BodySpace

Duncan, N. ed. 1996. BodySpace: Destabilizing geographies of gender and sexuality. Routkedge: London and New York, 278p.

編者のナンシー・ダンカンは1980年頃から米国の文化地理学を引っ張ってきたジェイムス・ダンカンの奥さん。2人の共著論文もいくつかありますが,本書はそのタイトルにあるように,ジェンダーやセクシュアリティをテーマにしたフェミニスト地理学の代表的論文集。このころ,私はジョアンヌ・シャープという大衆地政学を掲げて積極的に論文を発表していた地理学者をマークしていて,本書も買ったものの,彼女の章を読んだきり置いたままだった。本書は14章構成で,1章当たりのページ数が少なく,しかもその寄稿者たちの顔ぶれがかなり魅力的なので,きちんと読むことにした。

序文:(再)場所化 ナンシー・ダンカン
序文では地理学とフェミニズムの関係について解説され,最後に各章の紹介がある。かなりあっさりした序文です。

Ⅰ部 (再)読

1章 フェミニスト理論と社会科学:新しい知,新しい認識論 リンダ・マーティン・アルコフ
1章はほとんど地理学とは関係ない。プラトンの時代からカントまで,理性や知識というものが,男性の知的・認識的属性によって制限されてきたという。カントの理性批判から,ヘーゲル,ニーチェ,マルクス,フロイトなどを通じて,理性や知が男性的=普遍的なものではなく,歴史的なものであったり,社会に埋め込まれたものであったりという認識がされるようになるが,フェミニズムは知は歴史的に男性が作ってきたものだという前提から,そうではないあり方を模索するようになってきたというストーリー。精神と身体を男性と女性の二分法で理解することの限界を述べ,フェミニズムは身体を強調することで,それと切り離して理解しがちな理性というものを問い直す。だからといって,女性らしさを本質主義的に捉えることは逆の意味で「ジェンダー・イデオロギー」となってしまう。性差をどう捉えるかというところに,新しい認識論とそれを広めていく戦略とが進められる。フェミニスト理論は新たな理論的規範を作り出すものではなく,新しい言説空間の可能性を示すものだという。

2章 フェミニズムの空間化:地理学的視野 リンダ・マクドウェル
近年の人文・社会科学の理論では空間的隠喩を用いることが多くなっているが,それはフェミニスト理論でもしかりである。地理学者のソジャが著作のタイトルに用いた「第三空間」はそもそもホミ・バーバが用いたものだし,地理学者マッシィが用いた「権力の幾何学」という表現は,ダナ・ハラウェイが用いた「差異の幾何学」からヒントを得ているらしい。ハラウェイの「状況に置かれた知」という表現もいたって空間的だが,それらは単なる隠喩として済ませるわけにもいかない。そもそも空間なんてカント的にいえばわたしたちの世界認識のあり方を支える枠組みにすぎないわけだから,その空間の捉え方が違ったものになれば,この空間的隠喩にも意義がある。そんなことで,フェミニストたちが用いるこの認識論は古い男性的なデカルト座標系に変更を加える,あるいはそれを揺るがす力を持っているというわけだ。

3章 主体性の再:地図化:地図学的視線と政治の限界 キャスリーン・M・カービィ
地図ほどの上から目線はないということで,基本的に地図というものは権力の象徴みたいなものだ。日常生活において,わたしたちは地図というのはわたしたちの空間的行動の案内役という側面しか気にならない。しかし,それは空間的な行動範囲が広がった現代社会に住む私たちだから思うこと。そもそも,非常に古い画像表現でありながら,これほど人間個々人の生活に関係ないものもない。すなわち,それはある特定の人物がその土地を支配するということになって登場するのが地図である。まあ,そんな権力と結びつくのが地図だが,もちろん,かつては(そして今でも)権力を握っているのは男性である。ということで,地図という表現をフェミニズムの立場から批判するのは当然だ。中ほどで取り上げられるのは17世紀フランスの探検家,シャンプラン。探検記の記述はよく読むと,身体とそこに備わった感覚(特に視覚)による体験記ではない。明らかにその視点は宙を舞い,俯瞰するように自らの行動を記述しているのだ。それこそまさに,マスキュリンな地図学的視点。しかし,後半ではいつの間にか,議論が現代の批評家,フレドリック・ジェイムスンの「認知地図」という文章に移行する(この文章は雑誌『10+1』に翻訳あり)。なにやら,分かったような,分からないような。

4章 もし鏡が出血したなら:男らしい住まい,マスキュリニズム理論とフェミニズム的虚構 ジリアン・ローズ
翻訳も出ている『フェミニズムと地理学』の著者,ジリアン・ローズは来日した際に,私が世話人の一人となってけっこう一緒にすごした。英語でのコミュニケーションは少ししかできなかったけど,息子を愛するとても優しいお母さんという印象。でも,研究者としての彼女の視点は非常に鋭く,厳しい。日常生活でも,研究上でも,マスキュリニズムが嫌いでありたいと思っている私の何気ない考え方にもそれが潜んでいることを気づかされてくれる。地理学者で難しい文章を書く人は少なくないけど,これほど説得的に刺激的な文章を書ける人はあまりいない。本章の内容はローズがとても好きで読んでいるというフランスのフェミニスト哲学者リュス・イリガライの議論を土台にしているのでとても難しい。ちなみに,私もイリガライは日本語で『性的差異のエチカ』と『基本的情念』を読んだ。その内容はとても難しいが,マスキュリンな男性哲学者の突き放すような難しさとは違って,親しみのある魅力を感じる。本章でも,2章と同様に,近年の思想における空間的隠喩をまず検討する。しかし,これらを論じる地理学者の論理が場合によっては,空間的隠喩とその外部にある実在空間とを二元論的にとらえているということを指摘し,隠喩的に語られる空間論がいかに実在の空間自体と関係しているかを論証している,ように私には思えた(理解できている自信はない)。そもそも,実在する空間というものを絶対視し,隠喩的なものを二次的なものとして捉えるという発想自体がマスキュリンである。

5章 再-身体化された視線 ハイディ・J・ナッシュ,オードリィ・コバヤシ
3章の副題にも「視線vision」が含まれていたように,視線も極めてジェンダー論と相性がよいのはローズが証明済み。確か,景観に関する論文も書いていたコバヤシだから,彼女が取り上げたのは美術史家のジョナサン・クレーリー。翻訳もある『観察者の系譜』と,私は知らないキャロライン・マーチャントという人の『自然の死』(1983)という著作が検討される。前半はクレーリーに関する議論。クレーリーは視覚を近代に特有の感覚と捉えていて,デカルト哲学によって観察者と対象を切り離し,視覚を他の感覚と別格にすることで近代的主体と近代合理性の誕生に関わるものとする。つまり,ここで視線の脱-身体化がなされるということだ。しかし,時代が下ってその視覚を利用したさまざまな装置や資本主義文化における娯楽(写真以降の映画やパノラマ館)が登場すると,その視線というのが観察者の身体へと再び関連性を持つようになる。そして,後半ではマーチャントの『自然の死』の検討に移行し,クレーリーと同様の関心を持つが,女性であるマーチャントはその身体における男女の差に関心を持っているという。まあ,近代科学の理性や合理性が男性性と結びつき,科学の対象である自然が女性と結びつくという議論は本書のこれまでのものと共通しているが,意外と面白い身体論・ジェンダー論には進展せず,また話はクレーリーに戻る。そもそも,クレーリーの議論も難解ではないが複雑で分かりにくいので,本章も多少分かりにくいが,3つのイラストで示された図式は面白い。

Ⅱ部 (再)交渉

6章 ジェンダー化された国民性:国民アイデンティティとのフェミニズム契約 ジョアンヌ・P・シャープ
冒頭にも書いたように,本書を買った当時に真っ先に読んだのが本章。今回改めて読んだのに,それから時間が経ってしまって,また詳細を忘れる。まあ,ナショナリズムに関する論考で,冒頭にはルナンの「国民とは何か?」やアンダーソンの『想像の共同体』が登場する。しかし,事例としては東欧の旧共産主義諸国を扱っている。まあ,国民アイデンティティと男女の関わり方の違いは容易に想像はできる。特に,東欧の場合にも『サラエボの花』という映画が描いていたように,戦時期に一部の女性が辱めを受けることは,国土を侵略されたり略奪されたりすることと象徴的に一致する。日本語の「国家」という言葉が,まさに「家」という語を使っているように,国民を擬似家族的に論じるのがナショナリズムであり,家父長制においてその家を守るのが母親の役目であるように,精神的な拠り所としての女性というのは,近年日本で製作された戦争映画の常套手段でもある。

7章 男らしさ,二元論,そして高度技術 ドリーン・マッシィ
本章の素材は,私が大学講義で使っていたオープン・ユニバーシティの教科書でも用いているケンブリッジで彼女が行った共同調査の結果を利用している。まあ,日本でいうところの筑波学園都市のようなものでしょうか。大学と政府系研究所と一般企業の開発部門が隣接しているような,そんなケンブリッジのハイテク産業の従業員に対する調査である。その教科書で論じられた内容とは異なり,本章ではその企業の男性従業者の仕事に対する熱意についての議論がある。それは私の勤める会社でも経験していることだが,仕事に熱中し,いつまでも残業していることが,男同士の妙な共同意識を生み出し,そのことが男らしさの表出となる。

8章 ジェンダーの再交渉と公共空間および私的空間におけるセクシュアリティ ナンシー・ダンカン
編者自身による章。やはり本書に共通してみられる公共空間と私的空間との関係が議論の中心。彼女の単独の文章を読んだのは初めてだが,なかなか読みやすい。本章の前半ではこの問題を家庭内暴力の側面から論じていて興味深いが,私的空間が抵抗の場になるという議論,そして続いてホモセクシュアルや性労働者の話など転々としてちょっと散漫な印象。

9章 「異性愛街路」と(再)交渉する:レズビアン的空間の生産 ジル・ヴァレンタイン
私たちが普段何気なく歩いている街路=通り。大多数の異性愛者は配偶者や恋人と手を組んだり,場合によっては公共の場でキスをしたりしている。しかし,そこに例えばレズビアンのカップルがやってきて,腕を組んだりキスをしたりすると,一気に空気が変わる。つまり,何気ない街路=通りがいかに異性愛的な空間であるかが分かるのだ。そんななかでレズビアンたちがどのようにして普通に振舞える権利を獲得していけるのだろうか。

10章 場所の社会的/性的アイデンティティの再交渉:ゲイ・コミュニティは安全な天国か?抵抗の場か? ウェイン・D・ミスリク
本書の寄稿者17人のうちのわずか2人の男性のうちの1人。ワシントンDC近くにあるゲイ・コミュニティであるデュポン・サークルによる調査がもとになっている。著者は博士課程の大学院生らしく,その調査結果を利用しているのだろう。多くのゲイの発言が引用されている。ここデュポン・サークルではゲイ・カップルが比較的平然といられる場所ではあるが,それがゆえにそうしたゲイたちを暴力の対象として選ぶ人たちもいる。そこにいれば,暴力とその恐怖がいつも付きまとうが,米国全土でいうとゲイたちが市民権を得ている地区も多くはないので,異性愛的空間のなかでさまざまな行動の制約を受けるか,暴力の恐怖におびえるか,やはり後者を選ぶゲイたちは多いとのこと。どちらにしろ,まだまだかれらは肩身の狭い思いをしているようだ。

11章 「その計画」のどこにも居場所はない:青写真にわたしたち自身を置く方法 ヴェラ・チョイナード,アリ・グラント
この章はけっこう難しい。本章は2人の共著だが,ヴェラさんが視覚障害者,アリさんはレズビアン。レズビアンの話はこれまでも出てきたが,障害者の話は本章のみ。もちろん,2人とも女性。まずは,ヴェラさんが,大学教員として,いかに大学という施設が物理的に健常者向けにできていて,大学という組織も健常者が前提になっているのかを告発する。人種差別主義racismなどの言葉はよく出てくるが,本章で出てくるのは健常者主義とでも訳すべきか,ablismというもの。辞書なしで読んでいるので細部までは分からないのだが,ずいぶん卑屈な記述が多く,「だったら,どうすればいいの?」と正直現実的な困難さが先行してしまい,それを学術的にどうするべきかは難しい。結局この「The project」というのも具体的に何を示しているのか不明。

Ⅲ部 (再)発見=調査

12章 人種調査を生み出すこと:自己-他者の二元論を不安定なものにする ケイ・アンダーソン
著者であるアンダーソンは中華街の研究で有名である。本章は自らの『バンクーバーの中華街』という1991年の著作の要約から始まる。その歴史的内容は,イギリスとフランスの植民地からの独立,建国という時代的背景において少数派の移民であった中国人たちが自らの生活を守るために集住して暮らしていたのが中華街。もちろん,そうしたマイノリティに対しては差別の眼が上から横から向けられるわけで,そこで大きく問題となるのは人種と民族。しかし,もちろん本書の主たるテーマはジェンダーやセクシュアリティだから,その辺りに焦点を当ててまとめ直したもの。

13章 野外調査における現地を置き換える:男らしさ,隠喩,そして空間 マシュー・スパーク
本章の著者も本書では数少ない男性。私的にはけっこう面白かった。私自身はいわゆるフィールドワーク的なことはしていない,というか密かに観察するくらいならできるが,それではきちんとした調査にはならないので,要はできないのでしないのだ。でも,なんとかこのフィールワークが苦手ということを逆手にとって,フィールドワーク批判をしたいものだが,本章はまさにそんな内容。以前も,本書にも書いているオードリィ・コバヤシが「カラーリング・ザ・フィールド」という論文を書き(『社会・空間・地理思想』の2号に翻訳されている),人種・民族・性差という問題からフィールドワーク批判を行っているが,それを読んだ当時の私には難しすぎた。まあ,簡単にいうと,一般的に野外調査というのは男性的なものだというのだ。知る者と知られる者の不均等な関係のなかで,調査者は我が物顔で調査地に土足で入り込み,自らの目的のために知をもぎ取っていくのだ。まあ,本章もそんな分かりやすいことばかり書いてあるわけではなく,辞書なしで読むには難しいのだが,後でゆっくりと単語を調べながら読んでみたい。それでも面白かったら翻訳してみようか。フェミニスト理論に依拠した前半の議論に対して,後半は自らの経験を語る。彼が男として派遣社員として働くという参与観察である。自分でも引用しているが,彼はこの時期にまとめて4本も論文を出していて(調べたら2005年に著書を出版),かなり興味を引かれた。

14章 ポストモダン・フェミニスト社会調査への反省 J・K・ギブソン-グラハム
ギブソン-グラハムとは2人の女性の共著ペンネーム。キャサリン・ギブソンとジュリー・グラハムが,それぞれ個人でも執筆するが,共著の場合は分担執筆ではなく,ドゥルーズとガタリのように完全なる共同執筆ということでペンネームで活動している。論文会のなかで二村太郎君が彼女たちの論文を紹介してくれた。最近,このうちの1人が亡くなってしまったらしい。太郎君が紹介してくれた論文は経済地理学の新しい動向を紹介するものだったが,単なるアカデミックということだけでなく社会に,そして世界に積極的にコミットしていこうという立場が明確だった。本書も同様に,社会調査ということについて,単に研究者が社会に入り込んで事実を収集するのではなく,オルタナティヴなあり方を模索しようとしたもの。本章は『Gender, Place and Culture』に掲載されたものの短縮版であるらしい。そもそも,調査者と被調査者が明確に区別され,知る主体だけが得をし,知られる対象には何も還元されないというこれまでの社会調査のあり方はいかにも男性的だ。具体的に彼女たちはとある鉱業の町に入り込んで,そこの女性たちを調査するのだが,調査者と被調査者という区分を設けず,チームとして地元の女性たちと活動をし,その活動を通して住人たちは意見を変え,また社会組織自体が変わっていくという社会調査のあり方。詳細はイマイチ分からないが,結語において,この政治的企図を,「発見」や「暴露」といった社会調査における従来の隠喩ではなく,「会話」や「パフォーマンス」という隠喩が適切だといっており,これで私はかなり理解することができた。

結語 ナンシー・ダンカン
編者によるわずか2ページ強に過ぎない文章だが,分かりやすくうまくまとめている。本書では,基本的にフェミニズムの立場から,単一なものより多様性を,共通なものよりも差異を,普遍的なものより特殊なものを強調してきたといえる。しかし,それらを単純に理解していると陥ってしまう問題を指摘している。本書への寄稿者の多くは女性であるが,女性しかフェミニストにはなれない,と考えることは,女性なるものを絶対視し,またその場合の「女性しか」といった場合に,では個々人をどのように女性と区別するのかという根本的な問題を棚上げすることにもなる。ともかく,本書では女性や同性愛者,障害者,民族的マイノリティ,貧者などの社会的に弱い立場を強調してきたのだが,それですら単純化して理解した途端にさらなる問題を生み出すことになる。まあ,こうした問いは非常に複雑で単純な解答などないのだが,いつでも忘れないようにしたいものだ。

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そして,舞台

9月6日(月)

渋谷PARCO劇場 ハーパー・リーガン
常盤貴子と結婚し、1年間英国へ留学(?)していた長塚圭史の演出作品。彼の作品は2年前にも同じPARCO劇場で『sisters』を観た。それは松たか子と鈴木 杏が姉妹役を演じるということで観に行ったものだが、長塚氏演出作品も一度観たかったのだ。それはかなり迫力のあるいい舞台だったので、今回も期待。主演は小林聡美だが、私の好きな美波ちゃんも出ているというのも大きな要因だが。7500円といい値段がするが、駄目で元々、イープラスで申し込んだらすんなりと取れてしまった。
ちなみに、長塚圭史を知ったのは俳優としてだった。2003年の山下敦弘監督作品『リアリズムの宿』に出演していた。すでに、『ばかのハコ舟』などで評価の高かった山下監督だが、当時は洋画中心に観ていた私。そのころよく遊んでいたさくさんが邦画好きで、一緒に観に行ったかどうかは分からないが、シブヤ・シネマ・ソサエティ(現シネマ・アンジェリカ)に観に行った記憶がある。『リアリズムの宿』はつげ義春原作の短編をいくつか組み合わせたもので、長塚氏と山本浩司の2人が鄙びた温泉街を旅するという内容。当時はぱっとしなかったが、山本氏もその後は映画に引っ張りだこ。『萌の孔雀』で知ってはいたが、尾野真千子ちゃんもそれから第一線の女優さんへと成長しました。それに、音楽はくるり。かなり画期的な映画だったのかもしれない。機会があればもう一度観たい。
さて、わき道にそれましたが、『リアリズムの宿』の凄いところは、主演2人がともに不細工だということ。それからも、悪人を中心に映画でちょくちょく見かける長塚氏。以前から演劇人ではありましたが、ここ近年の評価は高い。英国留学を経て、どんな舞台を見せてくれるのか。本作『ハーパー・リーガン』はそんなことで、英国が舞台の英国人による原作を翻訳し、舞台設定もそのままに日本人役者が演じるもの。ロンドン郊外に住む女性が、父親の病気を機に、故郷のマンチェスターに帰るかどうか、というところから始まる。夫役には山崎 一。先日観た『農業少女』にも出ていましたね。そして、娘役が美波ちゃん。その他、大河内 浩、福田転球、間宮祥太朗、木野花という出演者。小林聡美は出ずっぱりですが、それ以外のキャストは皆2役しています。まだ始まったばかりなので、詳しいことは書きませんが、私の期待に十分応えるものではありませんでした。それは原作によるところが大きいのかもしれない。私にとってはあまり魅力的な原作ではなかった。
しかし、中央に据えられた箱型のセットはとても面白かった。基本は壁なのだが、ただの壁であったり、階段がついていて、橋のたもとになったり、家になったり、バーになったり。クルクル回りながら4面をうまく活用した舞台セットは見事。もちろん、各キャストの演技はいいです。特に美波ちゃん、頑張ってますね。台詞は彼女が一番多かったのではないか。そして、彼女の声が一番通ります。まあ、作品自体はそこそこだったとはいえ、やはり1800円で映画を観るのとは違った体験をそこではすることになる。前半70分、15分の休憩を挟んで後半も70分あるのだが、真っ暗な客席には異様な緊張感があるんですよね。でも、それでいて映画館とは違い誰も飲み食いをしないので、清潔な空気が漂い、不思議な穏やかさがあり、目と耳からは刺激を受けるのだが、それ以外の身体はまるでここにないような感覚を覚えます。

さて、作品についてもまだまだ書きたいような気もしますが、この劇場という空間も魅力的ですね。なんといっても、客席に役者が多い。始めにビックリしたのは若村麻由美さん。地味な装いでしたけど、やはり漂う空気が違います。そして、大泉 洋。こちらは無愛想な感じでいたって普通に一人できていました。そして、開演前と休憩中に長塚氏が客席の人たちに挨拶しにきています。彼は長身でとても目立ちますが、さすがに普通の観客は声もかけないし、特に気にしないんですね。
やはり、たまに舞台はいいものです。

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3日連続映画

9月3日(金)

この日は妻の妊婦健診。今通っている病院は、予約が午後しか入れられないので、診察は午後。その前に近場で映画を観ようと提案。朝9時の回を観る。

府中TOHOシネマズ 『カラフル
選んだのは「クレヨンしんちゃん」シリーズ劇場版を手がけるアニメ監督、原 恵一。1999年の森 絵都の原作があり、2000年には実写でテレビドラマ化もされていたらしい。この作品のホームページのどこかにあった言葉だが、確かにこの原作(読んでいないけど)は実写でも無理なく可能な内容。でもそれをあえてアニメで表現することに意味があるように思う。主人公のコバヤシマコトの周囲の人々は皆有名俳優が声優を務めている。母親は麻生久美子、父親は高橋克実、兄は中尾明慶、同級生に宮崎あおいと南 明奈。個人的には本職の人の仕事を奪うのはどうかなと思うし、やはり俳優のアフレコには違和感があるという人もいると思うけど、私はそれほど気にならない。でも、宮崎あおいは今回もさすがの存在感をみせつけてくれました。最後まで彼女だとは気がつきませんよ。
まあ、それはそれとして、なぜかこの手のアニメ映画って本当によくできている。多分、私がアニメで育ったからだとは思うのだが、本当に引き込まれるんだよね。ほとんど無駄なシーンがないというか、いい作品です。これだったら、人寄せパンダのように有名俳優を声優で使わなくても十分勝負できるはずなのに、それを許さない状況ってあるんでしょうね。日本はアニメ大国のはずなのに、観客動員のための工夫が必要になるとは。
確かに、素晴らしい作品ではありますが、意外だったのは原作が比較的新しいこと。もっと1980年代のものかと思いました。テーマは古風で、目新しいものはあまりない。ただ、非常に面白かったのは、主人公が初めて友だちになった同級生に連れられて、「玉電」と呼ばれた路面電車「東急玉川線」の跡地を二子玉川からめぐるシーン。また、主人公の住む街が等々力に設定されていて、等々力渓谷や、街の風景がよく出てくること。現在リニューアル中の二子玉川駅周辺の工事現場も丁寧に描かれていること。
たまたま、翌日はこの辺りに行く予定なので、そんな楽しみがありました。

映画が終わり外に出ると、やはり猛暑。最近は朝晩が過ごしやすくなってきたものの、まだまだ日中散歩するのは厳しい。本当は散歩して帰宅する予定だったけど、予定変更。とりあえず東府中まで歩き、先日お茶をした、「カフェ・ジェノワーズ」でランチ。その後、休み休み武蔵野台まで歩いて一旦帰宅。その後、妊婦検診に行き、市役所や図書館を経由して帰宅。

9月4日(土)

この日はうさぎさんに誘われてカメラ部の第二回。集合はなんと等々力です。集合が15時なので、私は妻を置いて一足先に渋谷に出かけ、映画を一本。

渋谷ユーロスペース 『ペルシャ猫を誰も知らない
イランを舞台にした、半分ドキュメンタリーのような作品。実際はフィクションですが、事実を下にして、俳優ではない人たちを使い、ゲリラ撮影などもした作品。イランはイスラムの国ですから、さまざまなことが宗教的に規制されている。もちろん、全世界共通で若者の一部はロックに夢中になるものだが、そんな感じで音楽に夢中になっている青年たちの物語。ネガルという女性と、アシュカンという男性がインディー・ロックというジャンルの音楽をやりたいがために、国外脱出を手配し、バンド仲間を探し、テヘラン中を駆け巡る。
以前ならあまり観たいとは思わない作品だったが、イランの現状を多少なりとも知れると思い、観ることにした。結果的には観て良かったと思える作品。フィクションとしても十分楽しめる内容です。国内には解決しなくてはいけない政治的な問題が山積みのはずなのに、警察が若者が好きでやっている音楽に目くじら立てている場合じゃないだろう、と思ったりするが、まあ日本にもそんな時代はあったんですよね。ちなみに、このタイトルは冒頭に英語表記されていたものの直訳。その意味するところは分からなかったけど、お国の事情が分かっている人には理解できるのでしょうか。まあ、ともかくいいタイトルです。

渋谷から東横線に乗り、自由が丘で乗り換えて等々力まで。この駅は20年前に一度降りたことがある。20年前といえば私は大学生。私の通っていた東京都立大学も名前も変わらず、また東横線の都立大学駅にありました。当時受けていた授業「考古学」のなかで、遺跡発掘の見学という野外授業があったのだ。その講義はけっこう面白かったな。

さて、今回は大幅な遅刻者もいず、前回と同様6人が集合し、撮影散策へと出かけたわけです。日中の散策は暑いので、涼が取れる場所ということで、等々力渓谷が選ばれました。しかし、残念ながら私はモノクロのISO100で来てしまったので、木陰では撮影困難。そして、ショートパンツで来てしまったため、蚊に刺されまくり。そもそも自然風景よりも人工的な風景を被写体として好む私ですし、あまり撮影には集中できませんでしたね。
再び等々力駅に戻って、二子玉川へ移動。前日に観た『カラフル』で描かれていたよりも工事はかなり進んでいるようです。わたしたちが目指すは河川敷に期間限定でオープンしているというカフェ。なんとなく想像はできましたが、近頃海の家も小洒落た雰囲気のものが多くなっていますが、ここもそんな感じ。これまた、こういうお店によくいる感じの若い男女たちが大勢働いています。妻が飲んだ500mlの炭酸水など、後日KALDIで750ml入りのが200円未満で売っていたが、それが600円くらい。また、同じくKALDIで83円で売っていたウィルキンソンのジンジャエールも同じような値段。そこで浮いたお金がかれらの遊び代になるのかと思うと、どうなの?と思えるお店。まあ、こういう場でカフェをやろうという発想と、さまざまな許可を取ってそれを実現するかれらの勝利ということでしょうか。遅い時間になるにつれてけっこう繁盛していました。
今度は高島屋に移動してちょっとお店を冷やかし、わたしたち夫婦はお先にかれらと別れました。そのカフェではちょっとしか食べなかったので、帰りの溝の口で「餃子の王将」。お腹いっぱいになりました。

9月5日(日)

この日は妻が家でいろいろしたいというので、私は一人で映画でも観ようと思っていたが、ランチは外で一緒に食べようということで、程近い仙川駅でお店を物色。この街はとても贅沢です。いろんなものがあります。しかし、やはり昼時は予想以上の暑さで、あまり歩き回ることもできず、焼肉屋でランチ。私の焼肉御膳は良かったけど、妻が選んだ冷麺ならぬ温麺は量が多く、塩分が強かった。やはり外食は量も味も調節できないので厳しいですね。

渋谷ル・シネマ 『華麗なるアリバイ
アガサ・クリスティー生誕100周年記念とかで、なぜかフランスで製作された作品。ヴァレリア・ブルーニ=テデスキやミュウ・ミュウなど、それなりの俳優を配しているものの、正直期待はずれだった。何が華麗なのか、アガサ・クリスティー原作にしてはオチがお粗末だった。特筆することはなし。

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ライヴの本数

前回の日記をパクったタイトルだが、当然ライヴの本数も減っています。なんと、8月は0本。月に1度もライヴに行かなかったなんて何年ぶりだろうか。ということで、今年はまだ40本台。久し振りに私のこの日記を遡って読んだ妻が、「昔のは事実報告のみで冷たい感じ」という感想をポツリ。
確かに、月に20本以上のライヴに行っていた時期はそれを報告するだけで精一杯だった。逆にいうと、それがほとんどなくなった今、このblogには何を書けばいいのだろうか。まあ、必要なことだけ書くことにするというのでもいいのだが、基本的にblog執筆の時間は、会社で過ごす昼休みの時間つぶしでもあるのだ。私が昼食をパンのみにするようになったのは高校生の頃。高校生の時は学食があり、その定食+ドリンク代として、親から毎日500円が支給されていた。しかし、それを私は学食の入口に売りに来ていたパン屋のパンを2つとブリックパックのドリンクで済ませていた。毎日200円弱の貯金をして、2~3ヶ月貯めると洋服が買えるという計算。当時はお金もないのに「DCブランド」などという響きに憧れを持っていて、阿部 寛や田辺誠一が登場していた頃の『メンズ・ノンノ』をたまに買って読んでいたのだ。
大学に入学して、同級生との付き合いで一時期は昼食を学食にしたこともあったけど、大学に入ると当然昼食代というのは支給されなくなり、福武書店(現ベネッセ)の赤ペン先生のアルバイトはしていたけど、苦労の割りにお金にならず、貧しい生活により、またパンでの昼食に戻った。
大学院の博士課程から現在の会社でアルバイトして働くようになったのだが、はじめは社員の人が連れて行ってくれる昼食に付き合っていたこともあったが、基本はパンを買ってきてデスクで食べる。その頃は週3日の私には固定の席はなく、当然パソコンもなく、昼休みは読書タイムだった。それがいつの間にかホームページを開設し、いつしかライヴ通いをするようになり、blogに移行し、そんな日常を昼休みに綴るようになったのだ。

まあ、だから再び昼休みは読書タイムにして、映画を観たり、ライヴに行ったり、出産・育児がらみで書きたいことがある時に書くようにしてもよいのだが、まあせっかくだから書けることだけ書いていくのもいいかもしれない。気張らずにやっていきましょう。

9月1日(水)

ということで、久し振りに夫婦揃ってコンサート。以前は2人でよく通った池袋明日館講堂での湯川潮音コンサート。彼女自身も1年ぶりにこのステージに立つという。前日で仕事を辞めて産休に入った妻とはコンサート会場で待ち合わせる予定だったが、急遽途中駅で待ち合わせて同じ電車で行くことに。時間に少し余裕があったので、新宿駅にあるおにぎり屋さんで軽い夕食。

池袋明日館講堂 湯川潮音
ここでの潮音ちゃんコンサートはいつも100番より後の整理番号だが、今回は34,35ということで、なんと最前列をゲット。チケット自体は売り切れたようですが、いつもよりはお客さんが少ないような気もします。
この日はギターの山本タカシさんと、パーカッションの千住宗臣さんという3人編成。打つスタイルはドラムスなんだけど、使っている楽器はパーカッション的。カホンを横にして持ち上げてセットしたり、けっこう面白いスタイルで私はけっこう好きです。山本タカシ氏はleyonaでおなじみなのでいうことなし。この日は11月に発売予定のニューアルバムからの曲をけっこう演奏しました。でも、なぜかあまり新曲っぽく聴こえないのは、前のアルバムもそれほど聴き込んでないからでしょうか。不思議と2人とも好きなのに、家で潮音ちゃんのCDがかかる機会は多くないのです。
この日は最前列だったせいか、妙な親しみがありました。まあ、九段会館のような大きなホールの時とMCもさほど変わりはないのですが、そして、バックのミュージシャンが若くて少ないというのもあったのでしょう。なので、演奏そのものにグッときたり、新曲に感心したり、という場面は少なかったのですが、潮音ちゃんは今回もいい曲作っていますし、順調にミュージシャン人生を進んでいるな、と安心し、ホッコリとしたコンサートでした。さすがにあのベンチのような椅子で2時間弱は妻には辛かったようです。

帰る前に池袋駅前でお茶で一服してから帰るのでした。

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映画の本数

今年の映画の本数。7月までは73本で,月10本ペースは守ってきたのに,8月はなんと5本。出産が近づいて,どんどん減ってくるかな。

8月28日(土)

午前中から外出して、bunkamuraザ・ミュージアムでブリューゲル展でも観ようかと思っていたが、妻の調子がちょこっと悪くなり、午前中の予定はキャンセル。もう30週を越え、かなりお腹も重たくなってきているので、ここまで大きなトラブルなしに比較的健康に過ごしてきた妻もたまにこういうこともあるようです。1時間ほど横になっていたら「もう大丈夫」ということなので、その後予定していた映画は観ることにした。

渋谷ヒューマントラストシネマ 『ベスト・キッド
1984年の映画『The Karate Kid』のリメイク版。テレビでは観た記憶があるが、そんなに覚えていない。今回は主人公の少年を、ウィル・スミスの息子、ジェイデン・スミスが演じ、彼にカンフーを教えるじいさんをジャッキー・チェンが演じる。オリジナル版の原題は「空手」だが、こちらはジャッキーが演じるのでカンフー。リメイクということで原題は一緒。でも、劇中では、主人公が母親に対して「空手じゃなくてカンフー」などというシーンもあり、どうなの?って感じ。でも、邦題はどちらも「ベスト・キッド」なのでよしとするか。久し振りに観るジャッキーはとてもいい感じだった。私が観ていたジャッキーは初期の頃の作品をテレビで、そしてちょうど映画館で観るようになった頃に『プロジェクトA』などで全盛期だった。でも、その後ハリウッドに進出して以降の作品はあまり観ていなかった。彼が中心になって香港的大作映画を作るのは歓迎だが、アメリカ的アクション大作に組み込まれるのはどうかと思ったし、歳をとってきたジャッキーにはちょっと無理があるのでは、と観ず嫌いなところもあったが、本作はその加齢をうまく活かした、控えめな演技がよかったと思う。彼得意の笑顔はほとんどなかったのも、年齢相応の役どころだったと思う。一方の、ジェイデン・スミスはこの役どころにしっかりはまっていた。映画自体のできはどうかなってところですが(そもそもそんなに期待はしていない)、素敵なシーンはけっこうありました。でも、いろいろ設定には無理があるので、現代的に脚本も少し改良した方がよかったかな。

8月29日(日)

この日ものんびり昼から外出。谷中ボッサで、なんと出産予定日がわが家と一日違いという某ミュージシャンとお茶をすることになった。そして、この谷中ボッサの奥さんも出産予定日が3日違いの妊婦さん。この某ミュージシャンもここ谷中ボッサでライヴがしたいということで紹介したいというのもあったし、お2人に台湾土産も渡したいというのもあって、お茶会が開かれた次第。やはり妊婦さんたちは共通の苦しみや喜びで話が盛り上がりますな。私は多少ついていけなかったけど、楽しかった。
なんだかんだで2時間滞在。後から入ってきたお客さんが「煙草を吸っていいか?」と訪ねた時、店主が「あ、今日は禁煙でお願いします」というと、「あ、日曜日は禁煙?」とお客。店主「その辺は臨機応変に」。このやりとりがなんとも嬉しかった。

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