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2010年10月

現在,妻は陣痛中なり

ちょっと前の日記で、ライヴ納めみたいなことを書いたけど、前週もこの週もフリーライヴに行くことになった。何年か前、どこかの神社で開催されていた時いちど行ったことのあるもみじ市。ちょうどアコーディオンが上京したときだったな。その時もかなり混雑していたが、昨年までは狛江辺りの多摩川河川敷で開催していて、今年は調布の多摩川河川敷に移動した。
わざわざ電車に乗っていくほどではないが、今年の会場だったらわたしたちの散歩で行ける距離。ということで、久し振りにtico moonでも聴きにいくか、と行く予定にしていたのだが、数日前に湯川潮音メールマガジンで、彼女が出演することを知る。それはそれで嬉しいけど、お客が増えすぎて困るという気もする。まあともかく、お泊りにきた妻の台湾友だちと一緒に多摩川散歩がてら出かけることにした。思ったよりも遠く、途中では少年野球が試合をしています。京王線の陸橋を越えたところがもみじ市の会場だが、なにやら車がずらーっと並んでいるし、土手には、京王多摩川駅から流れてきたもみじ市目当てのお客たちがぞろぞろと来ている。なにやら恐ろしい雰囲気。

10月24日(日)

調布多摩川河川敷 もみじ市
確か,この辺はサッカーコートとして利用されているような場所で,サッカーコート一面に及ぶような広さでもみじ市会場が設置されていました。川を背にしたところにステージが設置され,今まさに湯川潮音ちゃんがリハーサルをやっています。思ったとおり,tico moonとの共演もあるようです。開演まで40分ほどありますが,ビニールシートがかなり埋め尽くされています。われわれはうっかり,シートを忘れてしまい後悔。とりあえず,昼食になりそうなものを探しに行くが,ちゃんとした食べ物はどこも数十人の行列ができていて,予想通りベーグル屋は完売で列が途切れています。ステージ向かって右側がフードスペース,左側はさまざまなモノを売っています。
前回来た時にもその盛り上がりぶりにちょっと驚くものがありましたが,その時はけっこう地元の家族連れみたいのも来ていたけど,今回はいかにも野外フェス好きな人たちの集団という感じで,似たファッションセンスの男女が,いかにもエコ好きですてな感じ。こういう,同属集団のなかに入るとどうにもテンションが下がる私。相変わらずひねくれものです。とりあえず,潮音ちゃんの演奏は楽しみ。
湯川潮音:2日前は吉祥寺の銭湯でのライヴがあったという。そして,この日は川のそば。「湯と川で湯川です。」という素晴らしい出だしで始まりました。前半は一人弾き語り。後半はtico moonの2人と。「演奏しに来たというよりは,もみじ市を楽しみに来たのです。なので,曲目は決めてません。やってもらいたい曲があればいってくださいね」というゆるい感じでライヴは進行。先日の明日館とは違って,11月に出る新しいアルバムからではなく,以前の曲中心でした。こういう広い場所でのびのびと歌う彼女の姿も素敵だ。弾き語りの最後の曲は,私たちの近くの男性の「明日になれば,やってください!」の一言で決まり。やはり男性一人客は大体潮音ちゃん目当てだったようです。しかし,最前列の子ども連れや,若い女子集団は何が目当てかわからず,熱心には聴いていませんでした。まあ,そんなもんでしょ。後半は「もみじ市の象徴ともいえる」と紹介されたtico moonの2人と一緒。tico moonの演奏は数年ぶりの気がします。友加さんの白いハープも大分いい色がついてきましたね。いやいや,こちらもこういうシチュエーション,気持ちいいです。
これだけ人がいるのに,CD購入してくれた方には本人がサインします,と粋な計らい。しかし,こちらは女子2人が寒さ対策を甘く見て辛くなってきたというので移動。そうそう,結局昼食も食べられなかったし。ということで,京王多摩川の駅前まで行って増田屋のそば。友人と一緒に調布駅まで乗って,妻はそのまま帰宅。私は調布で借りていた本を図書館に返したり,買い物をしたり。もみじ市ではそのあと,高野 寛のライヴがあったり,そのあとはtico moonがあったりでしたが,やはりあまり個人的には好きになれないイヴェントでした。

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『ブレードランナー』論序説

加藤幹郎 2004. 『『ブレードランナー』論序説――映画学特別講義』筑摩書房,243p.,2800円.

あとがきで自ら豪語しているように,「本書はいまのところ世界でもっとも網羅的な『ブレードランナー』論である」。一つの作品で1冊の本を書くのだから,この言葉は大袈裟ではない。こういう本は,私の蔵書のなかでも他には,工藤庸子『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』程度のものだ(もちろん新書レベルであれば,加藤氏も既にヒッチコック『裏窓』で一冊書いているが)。
ともかく,冒頭から刺激的な本である。「網羅的」というのは単に,『ブレードランナー』の始めから最後までを詳細に論じているだけではなく,映像面,音楽・音響面,演技面,演出面,映像技術面,大道具・小道具面,そのあらゆる側面に関して,テクスト内的・外的の両方向から解説を加えているところに本書のすごさがある。久し振りの刺激で楽しくて読み始めたものの,内容が濃すぎて,途中からは読むのが苦痛になってきたほどだ。というのも,ご存知のようにこの映画はかなりディープなもので,映画だからこそその作品世界に浸るのは2時間足らずで済むのだが,本書を読みながらその映像世界がよみがえり,そこに浸るのだが,1冊の本を読み終わるのは到底数時間ではすまなく,その作品世界をずっと引きずってしまう,ということもある。それにしても,この著者はすごい。前に彼の著書を紹介した時からの繰り返しで申し訳ないが,本当に稀有な研究者だ。普通,何かを論じるにしても得手不得手があって,このように網羅的な分析をしようと思えば,必ずどこかにほころびがあって,とんでもない陳腐なものがあるものだが,少なくとも私が読む限りにおいて,そういう箇所は本書にほとんどない。まあ,一つだけ気になるのは,地理学者のデイヴィッド・ハーヴェイが『ポストモダニティの条件』のなかで,『ブレードランナー』について論じている箇所があるのだが,私には説得的だと思われるハーヴェイの分析について加藤氏は言及していない。また,当該場面をハーヴェイのような視点からはみていない。『ポストモダニティの条件』は日本語でも地理学者以外の人が翻訳しているくらい,地理学以外でも有名で,恐らく加藤氏も読んでいるはずだが,ハーヴェイ的な分析をどう捉えているのか。ちょっと気になるところである。
というのも,本書のなかではジジェクの『ブレードランナー』解釈がコテンパに批判されているからだ。まあ,ヒッチコック論を始めとして映画はジジェクが得意とする分野なのだが,それをかなり根本的に否定している。ジジェクは自分が論じようとしている精神分析理論にあてはまるように,映画作品の解釈をねじ曲げるだけではなく,より広いコンテクストとしての映画史自体を誤解しているのだという。他にも,ファンサイトでのさまざまな解釈が飛び交い,そのいくつかは誤った解釈があまりにも流布してしまい,職業評論家までもがその解釈を採用することにまでなっている,というネットの弊害にまで言及している。まあ,無数の『ブレードランナー』論の全てを検討して誤りを正そうなんて意図は本書にはない。むしろ,作品には一つの真実なんてものはなく,鑑賞者の数だけ解釈があるべきで,そのうちの一つとして自身の解釈を提示している,というのが本書の意図である。
しかし,もちろん映画研究者であるわけだから,その解釈は徹底的な調査に基づいており,特に映像技術的な側面に関しては,昔の映画をほとんど知らない私にはほとんどついていけないくらいだ。そういう意味でも,この著者はどれだけの時間を映画を観るのに費やしているのか想像もつかない。しかも,こういう形で言及するには1度観ただけではだめで,1度はきちんと筋を追うように観,2度目以降は映像技術面やさまざまな観点から観ているに違いないのだと思うし,またその内容をきちんと記憶しておかないと意味がない。まあ,ともかく驚くばかり。
このように,映画史的,映像史的考察を加えながらも,基本的にはテクスト分析を中核に本書は進められていくのだが,そうした綿密な分析によって提示されたいくつかの結論もまた,説得的で魅力的なものである。まず,加藤氏は本作の主人公はハリソン・フォード演じる元ブレードランナーのデッカードではないという。確かに,彼は表見向きの主人公であるが,それはあくまでもメロドラマ的主人公であり,フィルム・ノワールとしての本作においては真なる主人公にはなり得ない。悲劇たる本作の真の主人公とは最後にデッカードとの対決の相手である,レプリカントのリーダーである,ロイであるという。確かに,デッカードは敵を不意打ちにしたり,武器を持っていない女性レプリカントを逃げるその後ろから撃ち殺したりして,決して信用のおけるヒーローとはいえない。ましてや,最後の決闘においてはデッカードはロイに命を助けられるのだから。表向きはロイを主人公とできない理由は明白である。それは観るものが,生物学的人間-人造人間という二元論を本作の前提とし,もちろん鑑賞者自身と同じ生物学的身体を持つ前者を味方とみなし,後者を敵とみなしている。もちろん,主人公は味方のなかにいるという図式だ。しかし,著者によれば,本作はそもそもこの二元論を越えるところに,その映画史に名を残すべき所以であるという。しかも,それは決して監督であるリドリー・スコットの意図するところではない。著者は,監督自身が劇場公開から10年後に手を加えて再上映した「ディレクターズ・カット」版よりも,オリジナルの「プロデューサーズ・カット」版を評価するのだ。本作の意義をより理解していたのは監督ではなく,プロデューサーだったのだという。「ディレクターズ・カット」版DVDを購入してそれしか観ていない私は,落胆するのだ。
そして,私も「ディレクターズ・カット」版を観て思っていたことではあったが,結局デッカードが生身の人間なのか,レプリカントなのかという問いは著者によれば愚問だという。まあ,それもそのはず。そもそも,デッカードがレプリカントだとすれば,先ほど書いたデッカードを主人公とみなす論理がくずれてしまうからだ。本作では,肉体的にはレプリカントであるロイが,デッカードのような堕落した生身の人間よりも精神的な高みに立っているのだから。
本作は彼が集中講義で行った内容だという。午前中に映画を観て,午後はその解説が行われるという,ハードではあろうが非常に魅力的な講義を受けた学生たちを羨ましく思う。加藤氏の講義など聴いてみたいものだ。

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映画を観貯めです

どうやら、職場での日記更新が明日からはできなくなるようなので、義務的な日記はごく簡単にするようにします。書きたいことがある時や、きちんと論じたい映画などがある時は家でじっくり書きます。

10月20日(水)

ぼちぼち妻もいつ産まれるか分からない状況になってきたので、観ておきたい映画をレディースデイに。

府中TOHOシネマズ 『ナイト&デイ

別に、いまさらハリウッド系の俳優の出演しているアクション映画なんて、という気分ではありますが、この作品は圧倒的に予告編が面白かったので、夫婦で観ることにした。まあ、いわずとしれたキャメロン・ディアスとトム・クルーズの共演映画。結論からいうと、この映画はアクション映画ではあるけど、スパイものではなく、ラヴコメディですね。トム・クルーズが自分のことをパロディー化しているような演技と、その横であたふたしているキャメロン・ディアズという図式。そして、それが最後には...
という感じで最後の展開がこの映画の見所でもあるので、ネタバレはやめておきましょう。ちなみに、スペインでの闘牛祭のシーンは予告編そのままの映像がなかったな。ちょっと気になります。

10月22日(金)

子どもが生まれてから数ヶ月は一人で映画を観るために家を空けるというわけにもいかないので、私も前売り券を買ってしまった映画は早めに観ておく。ということで、講義と映画の合間に下北沢で妻と待ち合わせてランチ。本当はmona recordsでランチを食べたかったのだけど、12時開店ということで、近くの韓国食堂で食べることにした。その後、mona recordsに立ち寄ったけど、目当てのCDはなし。CDスペースも縮小しましたね。それより、数年前にハイラインレコーズが閉店していたのには驚いた。

渋谷ヒューマントラストシネマ 『君に届け
ということで、一人で渋谷に映画を観に来た。平日の午後早い時間だというのに、他のお客はほとんど女子高生。原作は少女漫画のようです。『おとなり』以来の熊澤尚人監督作品。まあ、この監督も好きだけど、今回はもちろん多部未華子ちゃんがお目当て。映画中心に活動してきた彼女だが、NHK朝ドラあたりから、活動の比重がテレビに偏ってきて寂しかったのだ。まあ、最近でもチョイ役では出演していたが、主演は久し振り。お相手は三浦春馬君。新垣結衣との『恋空』で爽やかに登場した春馬君だが、最近はそのイメージを払拭するように、汚れ役が多かった気がしますが(もちろん、テレビは観られませんが)、本作は高校生役。しかも、1年生なんですよね。他の出演者も含めてちょっと厳しい気もしますが、まあその辺はもう我慢するしかありませんな。
漫画は非常に人気があるようなので、ここで私が粗筋を説明する必要はありませんが、とにかくこういう恋物語に私は弱いのです。いちいち用意された泣きポイントで泣いてしまう私。久し振りの多部ちゃんもよかったなあ。他の出演者もなかなかいいのです。多部ちゃん頑張れ!

10月23日(土)

この日は妻の台湾の友だちが日本に来ていて、銀座で買い物をしたいというので妻が付き合う。私は講義を終えて銀座で映画。映画後に落ち合うことに。

銀座シネスイッチ 『スープ・オペラ
坂井真紀主演作。原作は阿川佐和子。英語ではいわゆるメロドラマのことを、ソープ・オペラというが、スープが重要な役どころで登場するメロドラマってことでそんなタイトルがついている(?)。これも基本的に予告編どおりなので物語の説明は省略。坂井真紀演じる主人公が大学図書館で働いているって設定が私的にはいい。肉屋で鶏がらを譲ってもらって,余った野菜とコトコト煮て作るコンソメスープが主人公と,加賀まりこ演じる叔母の2人暮らし家庭の定番メニュー。ああ,やってみたい!と思ったけど,そういえば私の近所の肉屋はいい感じの若夫婦がやっていて,たまにいくけど,鶏肉は自分のところでさばいている感じじゃないなあ。などと,ほのぼのといろんなことを考えながらゆったりと進んでいく映画。読んだことはないけど,いかにも阿川佐和子ワールドだななんて勝手に思ったり。共演は藤 竜也や『愛のむきだし』の西島隆弘君。2つ残念だったのは,作中何度もバンドネオンとヴァイオリン,クラリネット奏者の演奏シーンが出てくるんだけど,どうにも本当のミュージシャンには見えない。けど,ホームページで調べるとどうやら演奏しているのは本人のようなんだよな。どうせ出るんだったら音とあわせればいいのに,と思う。そして,最後のシーンの冗長さ。まあ,不満はそれだけ。

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ジョン・ボールの夢

ウィリアム・モリス著,生地竹郎訳 1973. 『ジョン・ボールの夢』未来社,212p.,1200円.

本書には1886年から翌年にかけて書かれた小説『ジョン・ボールの夢』の他,1886年の「王様の教訓」という短編と,1894年に書かれた「余はいかにして社会主義者となりしか」という文章が収録されている。
1890年に書かれた『ユートピアだより』は既に読んでいる。こちらは主人公がふと目が覚めると未来にタイムスリップしていたという設定ですが、こちら『ジョン・ボールの夢』はその逆。中世の頃に逆戻りという設定。ジョン・ボールというのは実在した人物らしく、この物語のなかでも彼は社会改革の主導者なのですが、彼の生きた時代にも一揆のような社会運動が起こったという。そういう史実を想像で膨らましている物語。分量的には『ユートピアだより』よりも随分少なく、そのユートピア的要素も分かりにくい。基本的にモリスが理想とする社会主義社会像はノスタルジックなものではあるが、無条件に過去をいいと思っているわけではない。もちろん、過去にもさまざまな時代があるし、実際に本作で設定されている時代は、封建社会からの脱却を志す人たちが描かれるわけで、当然モリスが封建社会を望んでいるわけではない。
ということで、本作におけるジョン・ボールと、現代から過去にタイムスリップしてしまった主人公との会話は非常に興味深い。作者の理想郷を読者に押し付けるのではなく、読者に考えさせる作品。でも、正直なところでいえば、その会話はかなり単調で、ドラマティックな展開を望む読者には退屈な作品なのかもしれません。でも、モリスは別に娯楽目的でフィクションを描いているのではないですね。

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鷹の台Bossa

10月17日(日)

この日は特に予定もないので、夫婦でフリーライヴに行くことにした。昨年は一人で行き、会場でTOPSさんに会った「鷹の台Bossa」。昨年は1日限りのイヴェントで、小平市立中央公園の一角を会場に行われたが、今年は協賛もついたらしく、10月10日から11月23日にわたって行われるとのこと。主催は鷹の台駅近くにある「すうぷ屋Hygge」だが、今年は鷹の台地区と、一橋学園地区と2つに分かれている。鷹の台は西武国分寺線、一橋学園は同じく国分寺から出ているけど、西武多摩湖線。
このイヴェント、拡張したのはいいけど、基本的に地元の人向けに企画しているのか、ネットでの情報が分かりやすく作られていないのが難点。この日のcasaライヴはすうぷ屋Hyggeで夜のみと思っていたら、14時と16時とそれぞれ一橋学園地区の別のお店でやるというので、早い時間のに行くことにした。会場はカフェだからランチを食べられるものだと思っていったら、とても狭い店で、ライヴ用にテーブルがなくなっていて、食事はできないとのこと。おつまみは無料で用意しているといって、タイ風ヤキソバなどもあったのだが、お昼ご飯代わりにバクバク食べてしまうのも失礼かと思い、開演までの時間で商店街の中華料理屋で食べる。これまた満腹なり。

一橋学園NGUYN VAN KAFE casa
お店に戻ると、ちょうど予定時刻で演奏が始まるところ。casaファンの男性を除いては、皆地元の人のようです。ちなみに、一橋学園駅から北に続く商店街には数箇所にこのイヴェントの立て看板が立っていて、お店でもらったチラシがあれば、詳細なスケジュールが記載されている。この版元をどこかのサイトにアップしておけばいいだけの気がするが、あえて地元優先にしているイヴェントなのだろうか。ちなみに、最終日の公園でのライヴにはなんと、あの杉山清貴がゲストで出演するらしい。11月23日です。何を隠そう、私が本格的にレコードを購入し始めたのは杉山清貴&オメガトライブなのだ。
さて、久し振りのcasaのライヴ。あまりにも狭い空間ではじめは歌いにくそうでしたが、総勢10人のお客さんは、1曲目が終わった途端、歓声も含めた大拍手でとても反応がいい。それで、夕紀子さんもリラックスできたのだと思います。いつも通りの非常に私的なMCと、それに加わるお客さん、という感じで和んだ雰囲気で40分ほどのステージ。なかなかいいイヴェントですね。しかも、投げ銭のほかはドリンク1杯300円。それでビールもワインも呑めるし、ワインにいたってはお変わり自由。それに先ほどのヤキソバやチーズ・オン・クラッカーなど。私たちは満腹ですぐにお店を離れましたが、午後と夜のライヴも盛況だったことでしょう。

私たちは電車で一駅でもけっこう距離のあった、国分寺駅までの道のりを歩き始めます。とてもいい雰囲気の界隈。夫婦揃って以前から歩くのは好きでしたが、妊娠して助産婦さんに歩くことを勧められて(半ば強要されて)、もっと好きになったかもしれません。個人的には自然のなかよりも街なかが好きですが。

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『ミレニアム』の2と3を連続で観た

10月15日(金)

先日お会いしたばかりの今井雅子さんに今度はベビー布団をいただけるということで、彼女の自宅の最寄駅で待ち合わせる。しかし、彼女は現在放映中のNHK朝ドラ『てっぱん』の脚本執筆中で多忙なため、私は改札の中、今井さんは改札の外で受け渡し。ほんの1分ほどのご対面で、今井さんも足早に去っていきました。私も急いで新宿三丁目へ。観る予定にしている映画の時間が迫っています。

新宿テアトル 『乱暴と待機
『パビリオン山椒魚』の冨永昌敬監督の最新作。なんといっても、今回は美波ちゃんが出演しているのです。出演者は基本的に4人だけ。美波と浅野忠信が2人暮らしをしている。一軒家ではあるが、簡素な平屋建てが並ぶ、長屋のような一角。そこに小池栄子と山田孝之演じる夫婦が引っ越してくる。妻は妊娠中で夫は無職。美波は浅野のことを「おにいちゃん」と呼ぶが、小池によって2人は兄妹でないことが暴かれる。小池と美波は高校の同級生だったのだ。まあ、想像しやすいように、精力と暇をもてあましている山田が、やはり自宅に監禁状態になっている美波に興味を抱き接近するのだが、ここまでは予告編でも描かれていますね。まあ、ストーリーは大したことありませんが、ネタバレはやめておきましょう。ともかく、ジャージ姿に伊達めがね、髪の毛は2つに結ってノーメイクという美波ちゃんの姿、素晴らしいです。そして、演技もハチャメチャ。冒頭で、山田が引越しの挨拶に訪れるのだが、相手に気を遣ってトイレに行くのを我慢した結果、もらしてしまう、なんてシーンもある。これも予告編以上ではないが、お尻や背中も見せているし、単に外見的なタイプとして好きなのではなく、役者としての彼女が好きなんですよね。そして、本作においてはこの4人のバランスがとてもいい。まあ、後は基本的に好きではないのですが、相対性理論の主題歌もこの作品にはとてもあってますね。

この日は急いで帰宅。妻が外出している間にいろんな人がやってきます。まずは工務店の人がやってきて洗面所の蛍光灯の修理。そして、パナソニックの技術屋さんが来て、生ゴミ処理機の修理。蛍光灯は当然ですが大家さんもち。生ゴミ処理機は既に買って5年も経つのに、なぜか「保証期間が延長になりまして」といって、全くの無料だった。生ゴミ処理機を使っている家庭は多くないと思うが、一度使うと手放せません。洗濯機や冷蔵庫、炊飯器などが急に壊れると困るように、これも困るんですよね。さすがに5年も使ってもう寿命かなと思ったのですが、直ってよかった。生ゴミ処理機はけっこう重く、購入するにしても炊飯器のように持っては帰れないし。まあ、ともかくそんな一日。

10月16日(土)

講義を終えて一時帰宅。自宅でランチを夫婦で食べて、少しゆっくりして散歩がてら図書館まで。京王線は調布駅付近の地下化工事をしているが、その辺りの踏み切りは本当に空かずだ。この日も10分ほど待たされた結果、時間がなくなって借りる本を借りたら、妻を置いて渋谷に移動。

今年観たばかりのスウェーデン映画『ミレニアム ドラゴンタトゥーの女』の続編が立て続けに2本上映されるというので、かなり以前に前売り券を買っておいた。上演館である渋谷のシネマライズはまたまたスクリーンが減ってしまい、そのせいか、ここでしかやらない作品の前売り券はあまり出回っていないのだ。でも、この前売り券は2枚つづりになっていて、2か3を2人でも観れるし、1人で2と3を観ることもできる。しかも、1日で両作品を観られるスケジュールになっているのだ。でも、1本の上映時間もちょっと長くてなかなか観に来る時間が取れなかった。ということで、この日は妻に留守番してもらって、2作品を続けて観ることにした。

渋谷シネマライズ 『ミレニアム2 火と戯れる女』『ミレニアム3 眠れぬ女と狂卓の騎士
原作が超長編にもかかわらず、日本でも売れているくらい込み合ったストーリーなので、ここでそれを説明するのは諦めましょう。ただし、基本的に1本目とはほとんど関係ないので、2から観始めてもあまり問題はありません。ただし、2と3は連続しているので、私のように続けて観たほうがストレスがなくていいかもしれません。実際に私の同じ時間帯に続けて観ていたお客さんは多く、しかも私と同様に同じ席で観ていました。まあ、一般受けするミステリーにはありがちな、人間関係の無理な結びつきがあるのは確かですが、どっぷりその世界に浸ってしまえばそんなことは気になりません。確かに上映時間は長いですが、ほとんど飽きさせることなく、一気に2本を見せ、しかも3できちんと完結します。
でも、気になるのは1での事件との結びつき。まあ、確かに1だけを観るとその事件は解決したように思われるのだが、せっかく2,3と続くのだからまだ裏があるのかと思いきや、原作も3までなんですね。ああ、勝手に4以降があるのだと期待したのに。それにしても、「火と戯れる女」とか「眠れる女と狂卓の騎士」とかの副題がいまいちよく分かりません。

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ゲゲゲの調布

10月9日(土)

講義を終えて急いで府中へ移動。ここでも妻と待ち合わせて映画。こちらも妻が観たいといっていた作品をチョイス。

府中TOHOシネマズ 『食べて,祈って,恋をして
ジュリア・ロバーツ主演作。こういう形で、彼女が終始登場している映画って久し振りのような気がします。お相手にはジェイムズ・フランコやハビエル・バルデムが登場。まあ、予告編でほとんど分かってしまう内容なので、詳しい説明は不要だと思います。ジュリアもかなり歳をとってきたわけですが、そんな彼女のいろんな側面を観ることのできる作品。映画そのものはどうかなあと思いますが、イタリア、インド、バリとさまざまなシーンがあって、そういう興味がある人にはいい作品かも。ちなみに、個人的にはイタリアのシーンが一番面白かった。結局、最後のお相手がハビエル・バルデムなのだが、これまでも女たらしの役が多く、プライベートでもペネロペ・クルスと結婚してしまうなどの彼だから、この作品で離婚10年経っても新しい恋に踏み込めないという役どころはどうにも信用ならん。

10月10日(日)

この日は久し振りに下北沢へ。最近ライヴに行く機会が減ってすっかり行かなくなってしまった街だが、ある人と会うことになって、曽我部恵一のお店である「city country city」に初めて行くことになった。さて、それは突然届いた1通のメールから始まる。なんでも、第一住宅建設協会とい団体の広報誌『city & life』という雑誌への原稿執筆を依頼されたのだ。ということで、下北沢にオフィスがあるという出版社の編集長さんとお会いすることに。このお店もその方の指定である。別に、私のライヴフリークぶりを知っていて依頼してきたわけではないのだが、結局そんな音楽的な話題で文章を書く予定だ。打ち合わせと称して、私より少し年配の編集長さんに面白い話をいっぱいうかがった。
打ち合わせは1時間程度で終了。せっかく下北沢まで来たので、映画を観ることにした。

下北沢トリウッド 『バカがウラヤマシイ
今回の上映作品は東京ヴィジュアルアーツとトリウッドが共同して、映画専攻の学生に取らせた作品。でも、俳優もそれなりの人を使っているし、上映時間も1時間。この企画、前にも観に来たんですよね。
主演は安藤 聖というミムラ似の女優。就職活動を始めた大学生。これまで特に挫折もなく歩んできた人生のなかで、就職も余裕とタカをくくっていたものの、活動は失敗で不本意な会社に入社。毎日退屈な仕事でもてあましている。そんな時、その会社の地下にある社史編纂室にこもっている古館寛治演じるおじさんに出会う。彼がなにやら怪しげなアルバイトを紹介するという。はじめは怪しがっていたが、詐欺にあってお金に困り、仕事内容も知らないままそのアルバイトに参加することになる。仕事内容は、最近話題になっている結婚披露宴などにお金をもらって出席する代行業務。他の言葉を使えば、サクラ、あるいはエキストラ。やはりここでもこの仕事を甘くみていて失敗もするが、このアルバイトを通じ、どんな仕事でも本人次第でやりがいがあり、またどんな人生でも本人なりの生きがいはあるのだと教えてもらう。まあ、そんな成長物語。
この脚本は監督、鋤崎智哉の実体験を基にしているということで、彼自身もなんだかんだで自分のやりたかった映画監督を本格的に目指すとのことです。

10月11日(月,祝)

翌日の祝日はいよいよ出産準備ということで、マザリーズ助産院を訪れる。陣痛はなぜ痛いのかというメカニズムのお話など、今後の具体的なお話を聞く。最後には実際の出産シーンの無修正ビデオも鑑賞。もう38週に入り、いつ産まれても大丈夫とのことですが、胎児は今でも活発に動いている。産まれる前には胎児は骨盤の中に頭をすっぽりとはめて、動きが鈍くなるとのこと。なので、ちょっとまだかな。でも予定日まではまだちょっとあります。

10月14日(木)

この日は私の仕事の後、調布で待ち合わせて夫婦で映画。

調布グリーンホール 『ゲゲゲの女房
全国公開は11月20日ですが、水木しげる夫妻は現在でもここ調布市在住ということで、先行上映会がありました。チケットはまだ若干残っていた様子。さて、NHKの朝ドラですっかり人気になったこの作品ですが、当然わたしたち夫婦は観ていません。この映画版は、やはり夫婦で観た『私は猫ストーカー』の監督、鈴木卓爾の手によるもの。出演は、宮藤官九郎と吹石一恵が水木夫婦を演じます。当然、上映前にこの3人の舞台挨拶がありました。吹石一恵はかなり細い。宮藤官九郎はやはりというか挙動不審ですな。まあ、そこそこの挨拶で本編上映。
全編、セピアがかった色調で進行します。お金のかかっているNHKドラマは主にセットでの撮影でとても明るいですが,映画版はロケ地が埼玉県の西部の方で,水木家も実在する民家を使っている様子で(それにしても台所などの古さはすごい),なるべく自然光に頼った撮影でとても暗いです。でもその色調で一貫しているので,東京駅前のシーンと,調布駅前のシーンは現在のそのままの光景を映し出していますが,特に違和感はありません。他にもいろんな人が出演していますが,『私は猫ストーカー』に続いて宮崎 将君が出演していました。またまた幸薄き青年の役です。まあ,淡々と2人の貧乏生活を描くだけの映画ですが,そんななかに監督がこめた現代社会へのメッセージがあるのかもしれません。

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早くも今年のライヴ納めか

10月5日(火)

この日は一人で会社帰りにライヴに出かけた。とりあえず、これが出産前の最後のライヴになるかもしれないので、いろいろ思うところを書いておこう。私が積極的にライヴに行き始め、その記録を取るようになったのは2003年頃から。確か、2004年に年間100本を越え、それからあれよあれよと年間200本、250本、そして最高は300本を越えたこともあった。そんな6年以上の日々だから、おそらくその間に1000本のライヴには行ったと思う。
まあ、そのことはいいとして、本数が少なくなった最近だが、かつては当たり前のように思っていたことが最近はそうでもなくなった。待ち時間は辛いし、スタンディングなど耐えられない。確かに、ミュージシャンの生の演奏を聴くのは至上の歓びである。しかし、それはいくつもの代価を支払って得られるものである。私が他に楽しんでいるもの、映画やたまにの演劇、そしてちょっと次元は違うが読書。それらは多少の代価はあるが、音楽ライヴほどではない。映画館や劇場はほとんど禁煙だし、ほぼ定刻に始まるのが常識。しかし、音楽ライヴはそうではない。まあ、このことは何度もこのblogで書いているが、ともかく待たされるのが嫌いな私がこれまでよくこんな時間を耐えてきたものだ。そして、他のお客の煙草、うるさいおしゃべりの声、立ち位置で他人の迷惑を考えない人、などなど、他人との接触におけるストレスも大きかった。もちろん、たまには嬉しい出会いがあったりもするが、それはごく稀な出来事である。
そして、もちろんライヴを通して知り合った多くのミュージシャンとの関係はこの6年間で得たかけがえのない財産だが、それゆえのストレスもある。まあ、それは仕方がない。そのミュージシャンを目当てに多くのお客が来ているのだから、いくら親しいといってもいつでも自由に話ができるわけではない。でも、やはり親しくなるにも限度があり、もちろんそれをそれで割り切ってもいるのだが、はやりもどかしい人間関係でもある。
今後、ライヴに行かなくなって、そういう人たちとの距離ができてしまうのが残念ではあるが、一方ではほっと安心するところがなくもない。そもそも私の友だち付き合いもそんなところがあるから、いたし方がないことなのだが。

渋谷duo music exchange

ということで、その年内最後かもしれないライヴに選んだのは、そういう人間関係は全くない人気者の2人。残念なことにこの日はオープニングアクトがあったのだが、開演予定時刻より前にステージに立ったので(結局、本編は遅れることになったが)、勘弁してあげよう。
熊木杏里:私が記録しているライヴ記録をたどっても、熊木杏里のライヴを聴いた記録は出てこなかったが、私の記憶の中では一度だけある。Wikipediaで調べると、けっこう以前からドラマなどで起用されているが、私の記憶のなかでの彼女は垢抜けなくて、自信なさげな女性だった。しかし、その後テレビのない私でも彼女の姿をポスターなどで見たり、どこからか流れてくる楽曲を聴くことも多くなった。そんなことで、今回竹仲絵里との2組ライヴというので楽しみにしていたのだ。意外にもこちらが先発。キーボードとチェロのサポートをつけ、ハンドマイクで歌います。MCなどはかなりゆるい感じで親しみを持てますが、演奏はしっかり気合入っています。プロですね。楽曲も歌詞も、歌い方もなかなか魅力的。サポートもそんな彼女の魅力を引き出すいい感じでした。途中、竹仲絵里ちゃんをステージに呼んで、熊木杏里の曲を1曲一緒に歌います。最後の1曲はサポートミュージシャンを舞台から下ろし、一人でキーボード弾き語り。
竹仲絵里:今年念願のフルアルバム『Garden』を発売してから初めて聴くライヴ。レコード会社が代わってからはシングル先行で、今回のアルバムもそれらに収録された曲が多かったが、とにかくCDで長時間彼女の曲を聴けるというのは嬉しいのだ。今回のライヴはいつもどおり、キーボードの小林健樹さんとの2人。はじめ数曲はギターで弾き語ります。会場には熊木ファンが多かったであろうにも関わらず、この日の選曲はディープな感じの私好み。そして、ちょっと古めの曲も多かったです。こちらのステージでも熊木杏里を呼んで歌ったのは「話そうよ」だったかな。ニューアルバムからは「光のゆくえ」が生で聴けるのを期待していたが、やはり2人では無理か。
ともかく、これで当分ライヴに行けなくてもいいやと思えるとてもいいライヴだった。アンコールがなかったのも私的にはよかった。竹仲絵里がニューアルバムのラストソングを最後に持ってきたのだから、それにアンコールを加えるのは邪道というものだ。

10月8日(金)

講義後、有楽町で妻と待ち合わせて映画を一緒に観る。いかにも私好みのイラン映画だが、なぜか妻も評判を聞いて観たがったのだ。公開終了の心配までして。

有楽町ヒューマントラストシネマ 『彼女が消えた浜辺
ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した作品。なんとも不思議な物語です。イランを舞台にした登場人物がイスラム教徒たちだが、ちょっとした日常を描き、イスラム教徒でもちょっとした風習の違い以外は何も変わらないことを教えてくれる。ともかく、登場する女優さんが美しいのだ。タイトルの彼女というのは、「エリ」と呼ばれる女性。仲のよい数組の若い家族でカスピ海岸の別荘を借り、3泊の旅行に来た。そこに誘われたのがエリという女性。波打ち際で遊んでいた一人の男の子が溺れてしまったのと同時にエリの姿が見えなくなった。1泊の予定で参加していたエリはその直前に帰りたがっていたため、男の子を助けるために溺れ、流されてしまったのか、それとも一人で自宅に帰ってしまったのか。そんな憶測の中でこの旅行の参加者たちは右往左往する。後半は室内劇のような感じで大きな動きもなく、各々の心理状態を描いていく展開になるが、個々人の人間関係に基づく心理状態が繊細に描かれている。とにかく、観るべき作品。

その後は、有楽町献血ルームで成分献血。知らない間にすっかりリニューアルしてキレイになっていた。最近、どんどん献血ルームがリニューアルしているが、なんだかあまり歓迎できない傾向だ。献血する人など一部に偏っているのだから、そういう人たちに親しみのある施設であればいいと思う。誰でも彼でも受け入れるようなよそ行きのサービスは要らないと思う。やはりshibu2が一番かな。

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子どもにはモテル

10月2日(土)

この日は講義が終わった後、急いで有楽町に向かう。この日は有楽町の朝日ホールで日本写真家協会主催のフォトフォーラムが開催される。現在、日本写真家協会の会長を務めるのが、私が研究している田沼武能氏で、今回のフォーラムのテーマ「行動する写真家3人」でも講演する。といっても、今回4回目で毎年開催されているフォトフォーラムだが、田沼氏は必ず講演者の1人なのだが。ちなみに私は初めての参加。朝日ホールも初めて。
有楽町に着いたのはもうフォーラムが始まっている13時を過ぎていたが、昼食を食べる機会がないので、ちょこっと食べてから入る。すると、裕に600人くらいは入りそうな大きなホールで、満席とはいわないが、ポツポツ1席が空いているくらいでかなりの盛況(事前申し込みが必要で、定員は500人だったようです)。しかも、ほとんどが高齢の男性。自らが写真を撮るアマチュアカメラマンたちだと思われる。ロビーには写真関係各社のブースがありました。協賛もしているようですね。せっかくなので、空席を探して前の方へ。すでに、1人目の野町さんの話が始まっていました。田沼氏を除いてはきちんと作品を観るのは初めての写真家たち。

野町和嘉:1946年生まれ。人間が精神的に裸になる瞬間を追い求めている写真家。私は後れて入ったので、途中からになってしまったが、スライドに映し出されたのはイスラム教の聖地、メッカの写真。普通はイスラム教徒以外は立ち入れないし、ましてや写真撮影などもってのほか。さまざまな事情はともかく、最終的に野町氏はイスラム教徒になったとのこと。続いてはガンジス川でお祈りすると同時に日常的な生活の風景、そして死者を川へ流す儀式などを捕らえる。もう一つ覚えているのはダライ・ラマの姿も収めたチベットの仏教。砂漠や高山などの厳しい環境へと挑む彼の試みは信者たちの修行に近いのかもしれない。野町氏は非常に言葉少なで、被写体に向かうその真摯な姿は彼という人間そのものであり、それは写真に現れている。

水越 武:1938年生まれ。野町氏や田沼氏とは対照的に、水越氏は人間は撮らない。そもそもが登山家としてのスタートであり、自らが目にしたものを撮影するということで同時に写真家にもなったとのこと。モノクロフィルムで山の上の厳しい自然景観を映し出す。かと思うと、今度は熱帯雨林へと分け入り、カラーフィルムで美しい植物の姿へと迫る。といっても、何か美しい映像を求めて彼は旅をするのではない。途中で旅費がそこを尽きてしまった場合など、カメラを売ってまで計画した旅を貫徹させたという。彼も言葉少なだが、一つ一つの言葉はウィットに富んでいて(しかし、それは狙ったものではなく素朴な面白さ)、聴いていて非常に楽しい。こちらも人物自体が魅力的。

田沼武能:1929年生まれ。田沼氏はこれまでの2人とは対照的。下町生まれということもあり、かなりお調子者なのだ。やはり先日読んだ彼の自伝『真像残像』で読んだことのある話が多かったが、彼の写真家人生はかなり行き当たりばったりのところがある。しかし、そんな性格らしい作品生産と、そして日本写真家協会の会長を長きに渡って務めながら、日本における写真家の、そして写真媒体の地位向上に貢献してきた。

しかし、やはりこうして3人の作品を観て驚かされたのは、1枚1枚の写真がどれも完成された美しさを有していることだ。まあ、そうでないとこの歳まで一線で活躍できるはずがない。ということを改めて感じさせられた。

10月3日(日)

この日は2歳になる息子のいる友人宅を夫婦で訪れた。ここまで、知人の子どもには必ずといっていいほどなつかれる私ですが、今回はどうなることやら。この子どもとは、まだ寝返りができるかどうかの時に一度会ったことがあるが、当然覚えているはずはない。駅前まで迎えに来てくれた車に乗り込むと、それまで大騒ぎだったらしいが、チャイルドシートの中でおとなしくなってしまう。さすがに知らない人との対面は緊張しますよね。
でも、家に帰ると大はしゃぎ。私からしつこくかまっていると、徐々に慣れてきます。早くも彼の遊び場である畳部屋に招待され、一緒に遊ぶ。子どもって本当に散らかすのは得意なんですね。このお宅は一軒家でとても広く、うらやましい限り。ランチは楽しくお好み焼き。ご主人の要望でひき割り納豆入りです。私だけビールをいただいて顔を赤くする。それにしても、私の知人の子どもたちはみんないい子。賢くて活発で、両親の愛に溢れていて。見習うことがたくさんあります。なんだかんだで、3時間以上滞在し、最後は親子3人で一緒に駅までお散歩。この子どもはちょうど片言言葉がしゃべれるようになってきたところで、とても面白い。しゃべれる言葉は少ないけど、聞き取る方はほとんど問題ないようですね。何気なく発している言葉もきちんと聴いて、理解しています。なんでも彼はバナナ好きで、バナナが初めて発した言葉ではないかというほど。そして、バスが好き。青いバスや赤いバス、それぞれの好みもあります。本当に子どもって凄い。

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風景という虚構

暮沢剛巳 2005. 『「風景」という虚構――美術/建築/戦争から考える』ブリュッケ,237p.,2600円.

先日,この著者の最新刊『アートピック・サイト』を読んだのだが,その著者が風景をタイトルに冠した本も書いているということで,読むことにした。風景,景観,ランドスケープは地理学の中心概念でもあるので,それなりに風景論を読んでいるつもりだが,本書の目次をざっとみてみても,いまいち論旨を想像することができない。まあ,ともかく読んでみよう。こんな構成である。

第1章 「風景」とは何か
第2章 美術のなかの「風景」
第3章 都市と建築のなかの「風景」
第4章 戦争のなかの「風景」
第5章 音と光の「風景」

読み終わって,再びこうして目次を打ち込んでいると,やはり『アートピック・サイト』と同じ著者の本だな,と納得。『アートピック・サイト』と同様,本書も著者が8年間のあいだにいろんなところに発表した批評文を集めた評論集である。美術批評家らしく,『BT/美術手帖』に掲載されたものは本書にもいくつかあるが,その他やはりテーマ的に『10+1』や『建築文化』に掲載された文章が多い。
私は地理学者だから,作品集や展覧会を観る時は「風景」というものを意識する。一方で芸術家たちも風景を意識する人は意外に多い。最近気になっているドイツの画家,ゲルハルト・リヒターにも『Landscapes』という画集があるし(彼の作品集は高価なので手が出ないが,これは思わず買ってしまった),昨年国立新美術館に展覧会を観に行ってすっかり気に入ってしまった画家,松本陽子の作品タイトルにもよく「風景」が用いられる。もちろん,今日では風景画や風景写真はジャンルとしてあまりにもありふれたものなので,画家や写真家で特にテーマもなく,何気ない素描やスナップの作品タイトルに「風景」を使う場合は多い。しかし,リヒターや松本の場合,かなり具体的に風景概念に対する何かしらの想いがこめられていると思っていて,かれらの作品を風景論として論じてみたいと密かに思っていたのだ。なので,本書がそんな私の導きになればという密かな期待があった。
第1章では,最近ようやく私も読んだ志賀重昂の『日本風景論』が論じられる。しかも,冒頭ではやたらと日本に造詣の深いフランス人地理学者オギュスタン・ベルクが登場する。しかし,『日本風景論』をナショナリズムと結びつける従来の議論をなぞっていてあまり面白くはない。しいていえば,『日本風景論』の挿絵画家に焦点を当てた議論はとても面白く,さすが美術評論家的視点だといえる。
第1章は書き下ろしの割合が多く,議論に一貫性があるが,第2章以降はやはり短い文章のつなぎ合わせという感じは否めない。著者もあとがきで弁明しているが,個々の文章は大抵が依頼であって,特に美術関連の第2章と建築関連の第3章は,特定の展覧会や作品に関する紹介文であるといえる。紹介文である限りにおいて,それは特定の作品を詳細に分析するものではありえず,短い文章のなかでその作品に関わる以下に多くの情報とリンクさせるのか,という文体に必然的になってしまっているような気がする。それらの情報はさまざまな方向を向いたベクトルなのだが,その種の知識のない私にとっては消化不良に陥ってしまう他ない。しかし,意外にも(失礼)著者は思想家に造詣が深く,私はまだ足を踏み込んでいないし,読んでいたとしてもとても理解にいたっていないような著者まで,アーティストの名前と同列に登場するのにはちょっと驚いた。私は『速度と政治』以上に足を踏み込めないポール・ヴィリリオにあっては,彼自身がちょっとした文章を翻訳しているくらいだし,それに関連してドゥルーズ・ガタリも登場する。デリダやソンタグも登場し,日本語訳も利用しているが,日本語訳のないものは原著でも読んで紹介している。そういえば,私も日本語で読んだポール・ドゥ・ゲイの『実践カルチュラル・スタディーズ』を翻訳したのは本書の著者であった。ということで,本書を読んで著者の関心の広さには驚かされたというのが一番のところだろうか。そして,本書の副題にあるように,その関心が風景,建築ときて,最後に戦争へと向かうところ,すなわち戦争と風景を結び付けようとするところは,多少なりとも美術や建築にも関心がある私は全く踏み込めない領域なので,ある意味で読み応えがあったといってよい。
そして最終章には柳田國男まで登場する。まあ,ともかくさまざまな雑誌からの依頼原稿を自分の関心に任せていろんな方向にアンテナを伸ばしていく著者の精力的な批評活動には敬服するが,やはりあとがきで自己弁明しているように,じゃあ独自の風景論が深化しているのかということについては評価はできない。まあ,そもそも評論集である以上,そこを求めるべきではないかもしれないが,本書のタイトルが潜在的読者に期待させるものは大きいので,それに応えるべき続編は著者自身が書くべきなのかもしれない。でも,本書で提起されたさまざまな問いかけを,読者が各々の考えに基づいて論じていくきっかけにはなる本だと思う。

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映画の日

10月1日(金)

この日は久し振りに予定がいっぱい。まずは朝から講義をし、そこから急いで新宿三丁目へ。この日は映画の日。観たい映画はけっこう溜まっているけど、時間的な制約もあって、『君に届け』も観たいけど、これは前売り券を買って正規料金で観ることにしよう。バルト9の入った丸井の地下のヴェローチェでサンドイッチを急いで食べて上階へ。映画の日は事前にネットで予約しておけばラクチンなり。

新宿バルト9 『ラブコメ
選んだ映画はこちら。香里奈はテレビなし生活の私は映画『深呼吸の必要』で初めて知った。長澤まさみを引き篭もりのジャージ女で脇役にして彼女が主演。モデル出身のようだが、なかなかはじめから映画には恵まれている。まあ、その時の演技は「もうちょっと頑張って」という感じだったが、その後の『しゃべれどもしゃべれども』ではかなり頑張った演技を見せてくれた。個人的な好みの顔というわけではないのだが、彼女の存在はけっこう好き。といっても、もちろん基本的に映画でしかちゃんとした姿を観ていないのだが、たまに母親の家のテレビなどで、HARCOが歌う賃貸住宅のCMや雑誌の広告などで、いまだにめちゃくちゃモデルしつつも、映画ではけっこう大胆な演技をしていると思う。『しゃべれどもしゃべれども』の大泣きのシーンではほぼノーメイクで鼻の頭の毛穴も見えてるし(今回の映画ではきれいに写っていましたが、私の想像では彼女は美肌ではない)。とにかく、彼女自身自分の美しさにどれだけ自信を持っているのかは分かりませんが、常に最善の美しさで人前に出るということに固執していないように私には思われる。あるいは、ひょっとしたら自分の容姿のどこかにコンプレックスを持っているのかもしれない。ともかく、白人女優でいえばシャーリーズ・セロンのような思い切りの良さ(それでいて彼女はいまだに有名化粧品会社のモデルも務めている)があるのだと思う。いい作品に出会えば脱いだり、役作りで太ったりもするのではないかと勝手に期待しているし、現在26歳の彼女だが、30歳前後に女優としてそんなことを経験し、より飛躍していくのではないだろうか。とにかく、本作は男勝りの下町女を演じ、もじもじした田中 圭演じる幼馴染の男性との関係を描く、タイトル通りのラヴコメディなのだが、他にも渡部篤郎や北乃きい、中越典子、辺見えみりなどもでているし、なんと佐藤二郎まで出ているのは嬉しい。ともかく、素直に楽しめる映画です。香里奈の魅力満載。

さて、この日はある意味で運命の日だった。なんていうのは大げさだが、2週間前の妊婦健診で、GBSという膣内の寄生する細菌の検査をしたのだが、その結果がこの日報告される。出産1ヶ月前になってこの菌が認められると、産道を通って出てくる赤ちゃんに感染して大変なことになるらしい。それを避けるために、分娩は点滴を打ちながら行われるため、必然的に病院出産となる。私たちは助産師さんの自宅での自然出産を望んでいるため、その結果で不安の2週間だった。
で、結果は陰性。妻は嬉しくて両手を上げてヤッターのポーズ。この日は助産師さんも同席してくれた。しかし、前回同様、頭の大きさは順調に成長しているものの、胴回りが細く、体重が標準を下回っている。出産時に赤ちゃんの体重が2300g以下だと保育器のお世話になるので、これまた病院出産にならざるをえない。ということで、当初の予定ではこの日が病院での最後の健診だったが、とりあえず2300gを上回るまでは病院での検診が続く。検診が終わって一時帰宅。この日は夜もまた夫婦で出かけます。

地理学者仲間、杉山和明、二村太郎、荒又美陽と私の4人で進めていた論文購読会。二村君が同志社大学に赴任してから前ほど頻繁には行えなくなったが、最近はそれに二村君の身内の不幸が重なって、当分の運営未開催期間。ちょうど報告担当者が二村君ということもあって3人でやるわけにもいかなかったが、この日は3人+私の妻の4人で会うことにした。というのも、わが家はたくさんのベビー服をもらったのだが、ベビー服は大抵数ヶ月しか着れない。その大量の服のなかに、6~12ヶ月用の女の子用の冬着があり、ちょうど7月に第二子が生まれたばかりの杉山家に譲ろうということで、そもそもは私と杉山君とがちょこっと落ち合って渡すつもりだったが、せっかくなので私の妻も出産前に会わせたかったし、そうなるとフランス帰りの荒又さんにも声をかけようということになり、さらに杉山君の帰宅ルートに都合のよい品川にしようと考えていたのだが、たまたまこの日に品川ではトランスファーというレストランで松下美千代さんがBGM演奏をする予定ではないですか。美千代さんにも3月以来会っていないし、ちょうどいいということで予約を入れる。
人と外で会食というのも久し振りで新鮮。杉山君には逆に、やはり季節的に着られないベビー肌着をもらってしまう。それぞれ翌日も予定があるので、アルコールは控えめで程よく食べておしゃべりして解散。美千代さんも久し振りの対面を喜んでくれたし、この日はたまたま隣のトライベッカというお店で、ヤマカミヒトミさんも演奏していたらしい。残念ながらお会いできなかったけど、こういう人間関係、いいですね。

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文体練習

レーモン・クノー著,朝比奈弘治訳 1996. 『文体練習』朝日出版社,195p.,3398円.

最近『さまざまな空間』で知って,すっかり好きになってしまったフランスの作家,ジョルジュ・ペレック。ペレックと一緒に「ウリポ」という名前で活動していたのがレイモン・クノー。実は映画を観たことがあるルイ・マルの有名な『地下鉄のザジ』の原作者でもあったということを後から知って驚いた。映画としてもかなり奇異な作品だが,それの原作があるとは。
まあ,フランスといえば,シュルレアリスムのお国柄だし,文学においてもアラン・ロブ=グリエなど前衛的,実験的作家が多いので驚くべきことではないが,本作の試みもなんともユーモアがきいていて思わず笑ってしまうのだ。本書はその名の通り,文体の練習をしているだけ。とても小説とはいいがたいもので,むしろメタ小説といえるのかもしれない。本書は99の断章から成っている。そして,その99の文章は全て同じ出来事を記述しているのだ。一応,語り手がいる。
その語り手が乗り合わせたバスのなかに,首が長く奇妙な帽子をがぶった若者がいる。とても混みあった車内で,彼はある乗客に文句を言う。何度も足を踏みつけていることに対して。しかし,文句をいったきり,彼は空席を見つけて逃げるように座ってしまう。ここまでが第一の場面。それから2時間後,第二の場面でやはり語り手はバスに乗っているのだが,バスの外にまたその若者を見つけるのだ。今度は似たような男と一緒にいて,その男に若者は着ているコートのボタンの位置がおかしいから付け直した方がいいと意見されている。という2つの場面だけ。
この出来事について99種類の文体で記述をするという試み。99の書き方にどんなものがあるかは説明するのが大変なのでやめておくが,本書を読み終えると,フランス語から日本語へと翻訳した訳者の苦労が身にしみる。でも,日本語そのものも面白く,日本語を読みながらフランス語ではどんな表現だったのかを想像するのも面白い。そして,訳者はそれらのことを言い訳も含むように,60ページ弱も費やして「訳者あとがき」を書いているのだ。例えば,原著では「ギリシア語法」と題した断章は,「古典的」と題して,枕草子風な文体で書いているのだ。これは翻訳というより解釈である。
小説というのは一般的に,物語そのものを楽しむものである。文体というのは,ビュフォンの「文は人なり」という言葉にあるように,また英語ではstyleという語を使うように,個人が身につけたものだとされる。小説における文体とはその作家の個性であり,ミュージシャンの歌声の質のように,読者が感覚的にその作家を好きかどうか判断するものであるともいえる。音楽は他人の作った歌を唄ったり,独自のアレンジをすることで別の表現を生むが,文学では同じストーリーを別の作家が別の文体で描くということはそう多くない。そういう意味でも,本書の試みはいろんな意味合いを含んでいる。
その意味合いは,もちろん文学批評としても極めて真面目に論じることができる。しかし,それをこうして創作の場で,パロディたっぷりでやっているところがいいのかもしれない。そして,それを日本語に翻訳した朝比奈氏に感謝を。

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東京の音景観図

9月29日(水)

ずっと観たいと思っていたイザベル・コイシェ監督の新作映画。『死ぬまでにしたい10のこと』はけっこう日本でもヒットし、前作『エレジー』はペネロペ・クルス主演でそれなりに上映していた。今回は主演に菊池凛子を迎え、全編日本で撮影した作品なのに、気がついたら一日2回上映になっていた。しかも、午前中と夜。本当は前日に1人で前日に観るつもりだったけど、雨模様で妻もそのことを忘れていて、夕食の時間が遅くなってしまった。妻はそのことを悔いて、水曜日だったらレディースデイだし、一緒に行ってもいい、ということになり、この日になった。早めの夕食を家で済ませて、20時過ぎに夫婦で外出。たまにはこういうのもいいね。ちなみに、レイトショーのために出かけるときには前売り券を買えるかどうかという不安があるのだが、武蔵野館はなんとレイトショーは一律1300円。当然女性は1000円です。

新宿武蔵野館 『ナイト・トーキョー・デイ
ちょっと意味不明なタイトルだが、原題は「map of the sounds of Tokyo」で映画の内容と関わりがある。冒頭は女体盛りのシーン。お店は日本のようだが、刺身を盛られている裸の女性は白人。日本の企業が取引のために来日した外国企業のお偉いさんたちを接待している。まあ、全然似たところはないのだが、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』を思い出す。まあ、外国人監督から観た東京の姿を描いているという意味では同類だ。ネタバレなのでご注意を。
そこからシーンは変わり、その後一貫して登場人物でありながらナレーションでもある田中 泯の目線になる。田中 泯とは『メゾン・ド・ヒミコ』にも出演しているが、『ウミヒコヤマヒコマイヒコ』で独自の踊りを見せてくれた舞踏家でもある。彼の役どころは、やはり外国人監督ホウ・シャオシェンが東京を描いた『珈琲時光』の浅野忠信演じる男を髣髴とさせる。彼は東京でいろんな音を録音し、映画やテレビ、ラジオなどの効果音として提供している音響技師である。菊池凛子演じる「リュウ」とはラーメン屋で出会い、彼女の啜る音に惹かれて声をかけたという関係で、親しくなるという設定。しかし、必要以上には親しくなることができず、彼はそのかすかなつながりでもそれを失うのを恐れるように彼女に寄り添う。『珈琲時光』もその浅野の役どころが好きだったが、本作も冒頭で原題を知り、田中 泯の存在で一気に興味を惹かれる。登場人物や、かれらがいる街の雑踏の音に敏感な映画なために、BGMはとても控えめ。そういう意味ではレイトショーで観るのに相応しい映画。
築地魚河岸で働くリュウ。自宅と築地の移動は一般の人たちと昼夜逆転なのだが、彼女は常にヘッドフォンをしてクラシック音楽を聴いている。彼女の自宅の最寄駅ではいつも怪しげな集会がなされていて、そのなかを全く何も見えず、何も聴こえないように歩いていくリュウ。そんな演出も素敵。魚河岸で働く女性は仕事終わりにシャワーを浴びるのだが、魚臭さを取り除くために石鹸の代わりにレモンで体を洗い流す。そんなシーンもあったり。とにかく、周囲の人間と交友関係を持とうとしないリュウには別の顔がある。それは暗殺者。彼女に依頼をする男を演じるのは榊 英雄。いいですね、こういうところに好きな俳優(監督としても)がでてくるのは。彼の会社の上司が冒頭のシーンの会社の社長なのだが、その娘の恋人を殺害するように依頼するのだ。その恋人を演じるのが『パンズ・ラビリンス』にも出演していたスペイン人俳優セルジ・ロペス。しかし、リュウはワインセラーで働くこの男と接触し、恋に落ちてしまう。いつ殺すのか、という興味で観客はスクリーンを見守るのだが、結局殺すことはできない。
この2人の情事のシチュエーションと大胆な濡れ場は見所の一つではあるが、私的には菊池凛子演じる女性の心理的描写はなんかイマイチだった。脚本の詰めが甘いのか、演技に深みがないのかは分からないが、正直なところやはり『死ぬまでにしたい10のこと』と『あなたになら言える秘密のこと』主演のサラ・ポーリーにはかなわないと思ってしまう(彼女は監督もしているし)。でも、忘れた頃に出てくる田中 泯の存在がなんともいえず、やはり素晴らしい作品には違いないといえる。ちなみに、『あなたになら言える秘密のこと』のシーンで英国の美術批評家ジョン・バージャーの『ways of seeing』が登場して驚いたものだが、本作でも菊池凛子が暗殺の準備として銃をセットしている時にテーブルに同じくバージャーの『見るということ』の日本語訳が置いてあったのはまたまた驚いた。本作の美術担当は日本人。ひょっとすると、この小道具は監督の意図ではなく、美術担当の仕業かもしれない。というのも、『あなたになら言える秘密のこと』の日本語パンフレットには実はバージャーの件についても記述があって、本当は『ways of seeing』の翻訳本は『イメージ』というタイトルで出版されているのに、それを『見るということ』と勘違いしていたからだ。まあ、ともかく本作はバージャーがテーマにしていた視覚の問題よりも聴覚の方を意識しているので、ちょっとこの小道具は的外れないような気もします。それだったらサウンドスケープという概念を唱えたシェーファーの『世界の調律』の方が良かったと思う。ともかく、田中 泯演じる老人が、リュウに会えない時に自宅で彼女の音を聴くシーンなど、たまらなく素敵です。その音とは、魚河岸で長靴で歩く音なのだが、そのリズムが非常に音楽的。
意外にも本作の映像は妻も気に入ってくれて、一緒にこれてよかったし、やはりこの監督の作品は今後も見逃さずにチェックしたいものだ。

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カール・マルクス

アンリ・ルフェーヴル著,吉田静一訳 1960. 『カール・マルクス――その思想形成史』ミネルヴァ書房,342p.,620円.

一時期,古書店でルフェーヴルの訳本を見つけたら買っていた時期があった。ルフェーヴルはフランスのマルクス主義者だが,マルクス主義の歴史は日本の方が早いので,フランスでは先駆的なマルクス主義者だったルフェーヴルは日本でも早いうちから紹介されていたようだ。最近では1974年の『空間の生産』が1991年に英訳されたことで,地理学や社会学でルフェーヴル人気が高まり,2000年には日本語訳が出た。しかも,私が持っているルフェーヴルの翻訳書はせいぜいB6版で300ページ台だったのに,『空間の生産』はA5版で600ページ強もある。ルフェーヴルの単行本としては異例の分量だといえる。まあ,それはともかくルフェーヴルの本で手元にあるのは以下の通り。

『カール・マルクス』(原著1947,邦訳1960,本書)
『マルクス主義』(原著1948,邦訳1952)
『美学入門』(原著1953,邦訳1955)
『日常生活批判序説』(原著1957,邦訳1978)
『哲学者の危機――総和と余剰 第一部』(原著1959,邦訳1959,未読)
『歴史の証人――総和と余剰 第二部』(原著1959,邦訳1960,未読)
『都市への権利』(原著1968,邦訳1969)
『日常生活批判1』(原著1961,邦訳1969)
『日常生活批判2』(原著1962,邦訳1970,未読)
『言語と社会』(原著1966,邦訳1971)
『都市革命』(原著1970,邦訳1974)
『空間の生産』(原著1974,邦訳2000)

まだ『空間と政治』とか,『弁証法的唯物論』など読みたいけどまだ入手していないものもある。しかし,けっこう持っていると思いきや,それ以上にまだまだ翻訳本があったというのも驚きだが,それも『空間の生産』を除くほとんどが1970年以前の翻訳であるというのも驚きだ。
そんな,以前買ったが数年読まずに置いておいた本書を何気なく手にとって読み始めたのだが,なかなかいいタイミングだったような気もする。というのも,ずいぶん前に『哲学の貧困』を読んだものの,イマイチその意味するところが読み取れず,最近ようやく『ドイツ・イデオロギー』を読んだが,続いて『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読もうとしながらも断念。マルクスの本を読むにもなんからの指南が必要だと思っていたので,本書はとても勉強になった。本書は,

序論
第一部 誕生から『宣言』までのマルクスの生活と著作
第二部 『共産党宣言』から『資本論』へ
第三部 『資本論』
結論

てな具合に,マルクスの主要な著作をマルクス自身の個人誌とともに理解するという,まあある意味ではオーソドックな試み。
序論では,まずフランスにおいてもマルクス主義というものがかなり矮小化されて誤解されたたまま批判されているという事実を確認し,真なるマルクス主義とは何かを問う。とにかく,マルクス主義者になるためにはマルクスを読まなければならないという当たり前だが,ちょっと私には耳が痛い。
第一部では,私がほとんど知らなかったマルクスの個人誌について書かれている。学生時代から活動家であり,若くして結婚。エンゲルスとの出会い,エンゲルスとの関係が支えた貧しい時代のマルクスの生活。そして,学問においては理論と実践という区別だが,彼自身においては学問と政治活動という両者を行き来しながら(まさに弁証法的に),マルクスの著作は出来上がってきたということ。そして,第一部では史的唯物論に関する説明もあり,それほど詳しい説明ではないが,私がこれまで読んだ本の中でもかなり史的唯物論についてその本質を理解できたような気がする。そして,それを理解するにはやはり『ドイツ・イデオロギー』が重要らしい。
第二部は『共産党宣言』についての説明に充てられているが,マルクスの学説にとって,1848年が重要であるという。そして,もちろんこの書は彼の政治活動家としてのあり方と,もちろん当時のヨーロッパにおける政治状況とが大きく関係しているという。そして,『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』についても説明がある。
第三部は『資本論』の概説からその後のマルクス主義政治活動について。『資本論』の概説を読むのも初めてだったが,これもとても分かりやすかった。著者ははじめから『資本論』の全体を概説することは無理なので,要点のみ主要なところだけを解説するように努めているところがいいのだと思う。しかし,マルクスが資本主義がこの先どうなると考えているのかというところまで議論を進めているところは興味深い。そして,マルクスの晩年についてや,そのころの政治運動についても説明されている。
さほど分量の多くない本でありながら,大量の文章を残し,波乱に満ちたマルクスという人物についてコンパクトにまとめているのはさすが。

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あなたに,大切な香りの記憶はありますか?

阿川佐和子・石田衣良・角田光代・熊谷達也・小池真理子・重松 清・朱川湊人・高樹のぶ子 2008. 『あなたに,大切な香りの記憶はありますか?』文藝春秋,221p.,952円.

キーコーヒーに勤める友人某T氏からいただいたもの。もらってすぐに妻は読んでいたが,私はようやく読んだ。というのも,妻の足踏みマッサージをしてあげている間の気軽な読み物としてちょうどよかったからだ。200ページちょっとで8人の短編。1話は10分程度で読めてしまう気軽さ。なぜ,キーコーヒー関係者から本書をもらったかというと,そもそもこの短編たちはキーコーヒーのwebサイト「書茶」に掲載されていたものだからだ。実際にコーヒーが出てくるものもあるが,そこまでテーマを限定しておらず,もっと広く「香り」をテーマにしている。
収録されている短編は以下の通り。

石田衣良「夢の香り」
角田光代「父とガムと彼女」
朱川湊人「いちば童子」
阿川佐和子「アンタさん」
熊谷達也「ロックとブルースに還る夜」
小池真理子「スワン・レイク」
重松 清「コーヒーをもう一杯」
高樹のぶ子「何も起きなかった」

私は基本的に日本の現代作家の作品は読まない。特に,すぐに映画化されるようなベストセラー作家のは。なので,映画を観てその作品を知っている作家はこの8人のなかにもそれなりにいるが,活字で読んだことがあるのは角田光代の『Present』くらいだ。しかし,短編だったらこの手の文体も苦にはならない。とても楽しく読むことができた。やはり最近は日本映画が好きでよく観ているから,この手のストーリー展開も素直に楽しむことができるようになったし,そもそもこうした小説でも作中人物の設定とか,ともかく私自身が小説を書いたことがないから,その職人技には驚く他ない。
まあ,そもそもがweb公開用に書かれたものだからということがあるのかどうか分からないが,正直いうと,この8編の短編を同じ人が書いたといわれても特に疑問を感じなかったかもしれない。それくらい独自の文体を持った作品もなかったし,この程度の作品の違いであれば,一人の作家の作品の違い程度であるようにも思える。それが良いことなのか悪いことなのかをいいたいわけではないが,そんな印象。

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