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『ブレードランナー』論序説

加藤幹郎 2004. 『『ブレードランナー』論序説――映画学特別講義』筑摩書房,243p.,2800円.

あとがきで自ら豪語しているように,「本書はいまのところ世界でもっとも網羅的な『ブレードランナー』論である」。一つの作品で1冊の本を書くのだから,この言葉は大袈裟ではない。こういう本は,私の蔵書のなかでも他には,工藤庸子『恋愛小説のレトリック――『ボヴァリー夫人』を読む』程度のものだ(もちろん新書レベルであれば,加藤氏も既にヒッチコック『裏窓』で一冊書いているが)。
ともかく,冒頭から刺激的な本である。「網羅的」というのは単に,『ブレードランナー』の始めから最後までを詳細に論じているだけではなく,映像面,音楽・音響面,演技面,演出面,映像技術面,大道具・小道具面,そのあらゆる側面に関して,テクスト内的・外的の両方向から解説を加えているところに本書のすごさがある。久し振りの刺激で楽しくて読み始めたものの,内容が濃すぎて,途中からは読むのが苦痛になってきたほどだ。というのも,ご存知のようにこの映画はかなりディープなもので,映画だからこそその作品世界に浸るのは2時間足らずで済むのだが,本書を読みながらその映像世界がよみがえり,そこに浸るのだが,1冊の本を読み終わるのは到底数時間ではすまなく,その作品世界をずっと引きずってしまう,ということもある。それにしても,この著者はすごい。前に彼の著書を紹介した時からの繰り返しで申し訳ないが,本当に稀有な研究者だ。普通,何かを論じるにしても得手不得手があって,このように網羅的な分析をしようと思えば,必ずどこかにほころびがあって,とんでもない陳腐なものがあるものだが,少なくとも私が読む限りにおいて,そういう箇所は本書にほとんどない。まあ,一つだけ気になるのは,地理学者のデイヴィッド・ハーヴェイが『ポストモダニティの条件』のなかで,『ブレードランナー』について論じている箇所があるのだが,私には説得的だと思われるハーヴェイの分析について加藤氏は言及していない。また,当該場面をハーヴェイのような視点からはみていない。『ポストモダニティの条件』は日本語でも地理学者以外の人が翻訳しているくらい,地理学以外でも有名で,恐らく加藤氏も読んでいるはずだが,ハーヴェイ的な分析をどう捉えているのか。ちょっと気になるところである。
というのも,本書のなかではジジェクの『ブレードランナー』解釈がコテンパに批判されているからだ。まあ,ヒッチコック論を始めとして映画はジジェクが得意とする分野なのだが,それをかなり根本的に否定している。ジジェクは自分が論じようとしている精神分析理論にあてはまるように,映画作品の解釈をねじ曲げるだけではなく,より広いコンテクストとしての映画史自体を誤解しているのだという。他にも,ファンサイトでのさまざまな解釈が飛び交い,そのいくつかは誤った解釈があまりにも流布してしまい,職業評論家までもがその解釈を採用することにまでなっている,というネットの弊害にまで言及している。まあ,無数の『ブレードランナー』論の全てを検討して誤りを正そうなんて意図は本書にはない。むしろ,作品には一つの真実なんてものはなく,鑑賞者の数だけ解釈があるべきで,そのうちの一つとして自身の解釈を提示している,というのが本書の意図である。
しかし,もちろん映画研究者であるわけだから,その解釈は徹底的な調査に基づいており,特に映像技術的な側面に関しては,昔の映画をほとんど知らない私にはほとんどついていけないくらいだ。そういう意味でも,この著者はどれだけの時間を映画を観るのに費やしているのか想像もつかない。しかも,こういう形で言及するには1度観ただけではだめで,1度はきちんと筋を追うように観,2度目以降は映像技術面やさまざまな観点から観ているに違いないのだと思うし,またその内容をきちんと記憶しておかないと意味がない。まあ,ともかく驚くばかり。
このように,映画史的,映像史的考察を加えながらも,基本的にはテクスト分析を中核に本書は進められていくのだが,そうした綿密な分析によって提示されたいくつかの結論もまた,説得的で魅力的なものである。まず,加藤氏は本作の主人公はハリソン・フォード演じる元ブレードランナーのデッカードではないという。確かに,彼は表見向きの主人公であるが,それはあくまでもメロドラマ的主人公であり,フィルム・ノワールとしての本作においては真なる主人公にはなり得ない。悲劇たる本作の真の主人公とは最後にデッカードとの対決の相手である,レプリカントのリーダーである,ロイであるという。確かに,デッカードは敵を不意打ちにしたり,武器を持っていない女性レプリカントを逃げるその後ろから撃ち殺したりして,決して信用のおけるヒーローとはいえない。ましてや,最後の決闘においてはデッカードはロイに命を助けられるのだから。表向きはロイを主人公とできない理由は明白である。それは観るものが,生物学的人間-人造人間という二元論を本作の前提とし,もちろん鑑賞者自身と同じ生物学的身体を持つ前者を味方とみなし,後者を敵とみなしている。もちろん,主人公は味方のなかにいるという図式だ。しかし,著者によれば,本作はそもそもこの二元論を越えるところに,その映画史に名を残すべき所以であるという。しかも,それは決して監督であるリドリー・スコットの意図するところではない。著者は,監督自身が劇場公開から10年後に手を加えて再上映した「ディレクターズ・カット」版よりも,オリジナルの「プロデューサーズ・カット」版を評価するのだ。本作の意義をより理解していたのは監督ではなく,プロデューサーだったのだという。「ディレクターズ・カット」版DVDを購入してそれしか観ていない私は,落胆するのだ。
そして,私も「ディレクターズ・カット」版を観て思っていたことではあったが,結局デッカードが生身の人間なのか,レプリカントなのかという問いは著者によれば愚問だという。まあ,それもそのはず。そもそも,デッカードがレプリカントだとすれば,先ほど書いたデッカードを主人公とみなす論理がくずれてしまうからだ。本作では,肉体的にはレプリカントであるロイが,デッカードのような堕落した生身の人間よりも精神的な高みに立っているのだから。
本作は彼が集中講義で行った内容だという。午前中に映画を観て,午後はその解説が行われるという,ハードではあろうが非常に魅力的な講義を受けた学生たちを羨ましく思う。加藤氏の講義など聴いてみたいものだ。

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