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ベンヤミンの迷宮都市

近森高明 2007. 『ベンヤミンの迷宮都市――都市のモダニティと陶酔経験』現代思想社,275p.,2800円.

私にしては珍しく新刊で購入した本。近森氏は最近『自動車と移動の社会学』の訳者として知ったくらいで,以前から着目していた研究者だというわけではなく,かといってベンヤミンものは読むようにしているというわけでもない。前から宣伝していて一向に書き上がらないオースター『ガラスの街』論に対して重要なヒントを与えてくれると期待して購入したのだ。
確かに私もベンヤミンには興味がある。といっても,晶文社の『ベンヤミン著作集』を12巻までと,『教育としての遊び』くらいしか持っていない。ベンヤミン本も,アドルノの『ヴァルター・ベンヤミン』と好村冨士彦『遊歩者の視線』くらいしか読んでいない。後は『ユリイカ』と『現代思想』のベンヤミン特集を持っているくらいか。地理学者にしては『パサージュ論』すら持っていない。『10+1』に書いた泉 麻人論では偉そうにベンヤミンを冒頭に使ってみたが,その理解は本書の著者の足元にも及ばないと思う。というのも,翻訳されたベンヤミンの文章は,部分的に面白いと思うことはあっても,その多くは苦痛にすぎないからである。難解といってもデリダのようなわけがわからなくても面白いとか,もうちょっと知識が増えれば理解できるといった感触があまりなく,単に活字を追っているだけということも少なくないのだ。でも,一つだけいえることは,ベンヤミンのいうところの「遊歩=フラヌール」という概念が重要だということがわかるのだが,それがどう重要なのかは,好村氏の著作を読んでもはっきりとはしなかった。そういう意味では,従来のベンヤミン研究における遊歩者論に違和感と不満を持っていたという著者の出発点の一部は共有していたといえようか。といっても,ベンヤミンを原語のドイツ語で読み,ベンヤミンの英文研究書も読みこなしている著者とはその問題関心は雲泥の差であるわけだが。また,「遊歩者」は近代特有の主体像の一つだというのが定説なのだが,ベンヤミンはその近代理解も複雑にした一人だと思うので,近代特有のといってもイマイチピンとしないのもベンヤミンを読みにくくしている原因の一つだと思う。一昔前のポストモダン論は,その批判対象としてのモダン=近代を仮想的として分かりやすく理解させようとしていたし,ギデンズが『近代とはいかなる時代か?』で前近代と対比させて説明する近代もとても分かりやすい。しかし,「古典主義時代」という時代区分を持ち出すフーコー『言葉と物』などとともに,ベンヤミンなどを読むと,近代とはいったいなんなのか,明確ではなくなっていく。
まあ,ともかくこれだけ徹底したベンヤミン研究はなかなかないと思う。とても理解し易く読み応えのある本だった。本書は彼が京都大学に提出した博士論文をもとにしたもので,初めての単著だという。徹底したベンヤミン研究と書いたが,それは網羅的なものではなく,都市研究に関連する論稿だけに限定して,深く解読したものである。以下のような構成で論は展開する。

序章 観察者から陶酔者へ――遊歩者と都市のモダニティ
I 都市・テクスト・迷宮――ベンヤミンの都市論テクスト
II 陶酔・夢・無意識――フロイトとベンヤミンをつなぐ継承線
III 街路名の理論のために――ベンヤミンにおける言語・記憶・都市
IV 〈ガス灯〉の神話学――過渡期の技術をめぐるアウラとノスタルジー
V 人形の街――商品フェティシズムとフロイト的読解
VI 〈迷宮〉の解読――痕跡・古代神話・致死的反復
付論

全体的な印象は,自らが本書を「理論的考察」と呼ぶように,非常に緻密で,気になったところは徹底的に突き詰めるという非常にストイックなもの。それが本書の最大の魅力であるが,ちょっとした難点であるともいえる。そもそも,私がベンヤミンにどっぷり浸かれないのは,彼の関心が多岐にわたるのと同時に,自身の思想・主張・文体にそれほど一貫性を追及していないからではないかと勝手に想像している。だからこそ,ベンヤミンへの関心は現時点でも長い間継続的に行われ,各研究者が独自のやりかたでベンヤミン論を展開しているのだと思う。そもそもにして,未完の『パサージュ論』は断片たる文章の寄せ集めだというし。本人が自らに一貫した人物像を与えられることには抵抗するのではないかと。でも,本書ではそのベンヤミンの文章を,フロイトの学説と関連付け,もちろんそのなかで無意識にも言及するわけだから,本書の著者が無意識によって人間主体は一貫性を保つと仮定してるのかもしれない。
まぁ,私がそんな指摘をしてみたところで,本書の魅力は一向に失われないし,むしろまだ本を一冊も出していない私の負け惜しみにすぎない。本書はベンヤミンの遊歩論がこれまで観察者としての側面ばかりが強調されるのに対し,章の表題にあるように「陶酔者」としての側面からアプローチしようという試みである。観察者というのはある意味典型的な近代的主体で,男性の有閑階級という特権的な立場を強調するものであった。それに対し,陶酔者というのは近代的な理性とは程遠い,歩くという行為に陶酔し,それは同時によく知った都市のなかで迷子になるような経験(迷宮としての都市)をも,遊歩者というベンヤミン的概念には含まれると著者はいう。まあ,ベンヤミンの日本語訳には『陶酔論』(晶文社)という論集もあるくらいだから,陶酔という概念でベンヤミンを捉えるのは決して突飛なことではない。しかし,再三書いてきたように,著者はそうした発想を単なる思い付きとして終わらすのではなく,そこにフロイトの議論を挟み込むことによってベンヤミンの記述の断片を一つの一貫した論理によって結びつける。しかも,フロイトの議論は単なる精神分析的なものでなく,フロイト自身が様々なものに関心を持っていたように,考古学的な古代への関心へと結びつけ,古代の迷宮神話へと議論は展開する。
こうした本書の全体的な論の展開の見事さに加え,私のオースター研究にも関係するヒントがいくつもあった。街路名の話や,デリダ的概念だと思っていた「痕跡」のフロイト的意味合いなど。ついでに,さきほど挙げた好村氏のベンヤミン本のなかにも使えそうな箇所を発見する。ということで,かなり収穫のある読書だった。
ちなみに,付論は本書で論じたベンヤミンの都市論を概観する前半と,都市研究で参照されることの多いド・セルトーとルフェーヴルの議論と関連付けようというものだが,本論に比べあまりにも著者のメモ的書き方だし,言い訳がましいところがあるので,いらなかったかもしれない。

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