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2010年12月

読まず嫌いは治らない

12月28日(火)

会社は前日で仕事納め。私の通う会社は夏休みは各自でとり,決まっていないため,アルバイト契約の私はほとんど取らない(給料が減るだけだから)。なので,年末年始がいちばん長い休みで,今回は8日間ある。
この日は妻が『バーレスク』を観たいというので,子どもの世話を請け負って午前中に一人で観に行った。その代わりじゃないけど,比較的近所でやっている『ノルウェーの森』を私が夕方から一人で観に行く。

府中TOHOシネマズ 『ノルウェイの森
いわずと知れた村上春樹の原作の映画化。原作は意外に新しく,1987年の出版なんですね。そして,この作品のタイトルは1965年のビートルズの楽曲からきている。ちなみに,私は村上春樹を読まず嫌いなのだが,まあ映画なら観てみようという気軽な気持ちで観に行った。というのも,高良健吾君ファンの妻が,「これ私観るけど観る?」と聞かれ,一緒に前売り券を買った次第。まぁ,共通の話題にもいいでしょう。
映画化の監督はトラン・アン・ユン。前作は木村拓哉も出演した『アイ・カム・ウィズ・ア・レイン』。監督はベトナム系フランス人で,私も観た『青いパパイヤの香り』はベトナム撮影の映画。本作はそのことを強く思い出す映像が前半で印象的だった。舞台は前編日本なのだが,雨のシーンが多い。といっても,ハードボイルド的な雨の使い方ではなく,日本がアジアの一部であり,モンスーン気候に属することを印象付けている。そう,映画作家としては常にアジアを志向しているフランス人監督にとって,日本もアジアの一部であるという意識を反映しているのか,あるいは日本の鑑賞者が多いことを見越して,日本は経済的・文化的には欧米に近いと勘違いしているかもしれないけど,本来はアジアの一部であることを思い出させるための演出かもしれないと思った。
そして,撮影監督はホウ・シャオシェンやウォン・カーウァイなどの作品を手がける台湾の李 屏賓。最近日本的映画(日本人俳優を使った外国人監督を含むという意味)では,『珈琲時光』や『空気人形』,『トロッコ』なども彼の撮影だったらしい。なので,各場面でのロケーションが素晴らしく,登場人物を取り囲む風景はどこも美しい。ちなみに,私がピンと来たのは,松山ケンイチ演じる主人公のワタナベが,菊池凛子演じる直子と久し振りに再会するシーン。これは鎌倉の鶴岡八幡宮境内にある,神奈川県立近代美術館であることがすぐに分かった。あともう一点,映像的に面白いなと思ったのは,登場人物2人が語るシーンの多くが静止した状態ではなく,歩いているということ。しかも,ワタナベと直子の2人のシーンはしゃべりもせずに,黙々と歩くシーンもある。それは単なる映像における美的問題だけではなく,作品としての歩くということに対する省察でもあるところに意味がある。原作でもこの哲学は貫かれているのだろうか。
しかし,それ以外は全般的に私はこの作品の価値を評価できない。原作を読んでいないのでなんともいえないが,原作自体が舞台となっている1960年代後半の日本とはかけ離れた20年後のヨーロッパで執筆されたという。もちろん,その時代を生きていた作者の記憶によって再現されたといえ,1980年代後半に原作を読む読者と,21世紀に入って映像化された映画を観る鑑賞者(そして,私も含め1960年代を生きていない)にとって,このファッションと学生運動の盛りの大学の風景を見ることはノスタルジー以外のどんな意味があるのか。そして,本作のワタナベを始めとする人物の描写を通して,読者・鑑賞者は何を得るのか。あるいは,人間の生など無意味で,小説を通して何かを学ぶなどばかげたことであるというメッセージが1980年代後半としては斬新だったのだろうか。まあ,それは訳者の決まり文句のようなものではあるが,松山ケンイチがこの作品に出演できて誇りに思うとか,訳者人生の転機になるとかいったり(実際に言ったかどうかは分かりません),菊池凛子が役者になる前に原作を読んで,この作品が映画化されるのであれば直子役は絶対に私がやるとかいう思い入れは私には理解できない。特に,この思い入れから,監督に直訴してこの役を勝ち取ったという菊池凛子という配役はどうだったのだろうか。確かに,彼女自身はその思い入れを成し遂げるような迫真の演技をした。それはそれで評価はできるだろうし,彼女自身は満足だろう。しかし,それを観る人はどうなのか?正直,私は他の女優さんで観たかったと思う。具体的に誰が良かったとはいわないが,少なくとも彼女はちょっと...
それから,細かいことだが,直子が亡くなった後,ワタナベは放浪の旅に出る。そこでの髭面の松山ケンイチ。何かおかしい。彼は髭が薄いほうではないと思うので,きちんと無精ひげは生えると思うのだが,なにやら付け髭のように見える。『ヘヴンズ・ストーリー』でも,忍成修吾君が付け髭をしていたが,彼の場合は恐らく髭がもともと薄いのだと思う。それに対し,恐らく今回はタイトな撮影スケジュールか,松山ケンイチが他の作品との同時進行の関係か,ともかくそんな事情ではないだろうか。そんな些細なところでも,残念に思うことはある。また,ビートルズの楽曲である「ノルウェイの森」は本作とは何の接点もない。一応,取ってつけたように一人の登場人物がギターでこの曲を弾き語るシーンがあるのと,これは話題になったがビートルズによるオリジナル録音をエンディングで使用しているほかは何もない。そもそも,原作にこの曲に関する言及はあったのだろうか。
まぁ,他にも書きたい文句はあるが,生産的ではないのでこの辺にしておこう。正直なところは,この映画を観て,「やはり村上春樹くらい読んでおかないといけないか」と思わせてくれることを期待したのだが,私の村上春樹に対する読まず嫌いは治らないようだ。

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息子の笑顔

12月23日(木,祝)

この日は祝日だが,翌日の金曜日は講義後に家族3人でちょっと出かける予定があったので,「映画はこの日にしてください」ということで,一人で新宿に出かける。選んだ映画は1日1回しか上映していないこちらの作品。

新宿K's cinema 『信さん 炭鉱町のセレナーデ
なんと,今年『必死剣鳥刺し』を観たばかりの平山秀幸監督作品。なにやら『ぴあ』でも初日に観た人の評価が一番高かった作品。昭和38年,九州のどこかの炭鉱町が舞台。作品中では「衣島」となっているが,炭鉱のためだけに栄えた島といえば,長崎県の高島町の軍艦島が知られる。でも,ネットで軍艦島の写真を探してみると,映画のなかで映し出された島とは異なっている。まあ,ともかく炭鉱があるというだけで人が集まって,炭鉱が縮小されれば人が離れていく。そんな一時代の出来事を描いた作品。かつての『ALWAYS三丁目の夕日』と似た雰囲気を持つ作品だが,町の様子などもどのくらいCGを使ったかも分からないくらい,あの映画よりも進んでいる。
主演は小雪。駆け落ちして東京に行き,子どももできたものの,しばらくして離婚して故郷の衣島に戻ってくるという設定。息子が地元の小学生にいじめられそうになっているところを助けたのが「信さん」。そこに偶然小雪演じる母親が居合わせたのだが,その姿を見てすっかり一目惚れしてしまったという,淡い恋心の物語。その出会いが昭和38年だったのだが,そこから急に時代は大阪万博の年,つまり私の生まれた1970年になるのだが,ここで子役は役者交替。小雪の息子を演じるのは池松壮亮で,信さんを演じるのは石田卓也。一時期妙にスクリーンで観ることの多かった彼ですが,ちょっと久し振りです。そして,信さんには妹がいるのだが(正確には姪),成長した妹を演じるのが金澤美穂で,どこかで観たことがあると思ったら,『容疑者Xの献身』で松雪泰子の娘役の子だった。他にもその母親を大竹しのぶ,父親を光石 研が演じる。ちょっとした役でも大竹しのぶの存在感は素晴らしく,九州ものといえば必ず出演する光石 研。そういえば,同じように,村上 淳や江口のりこも出演しています。中尾ミエの役どころも最高だったし,岸辺一徳の息子を柄本時生が演じるというのは妙にしっくりくる。
という感じで,もちろん小雪の魅力満載の映画ではあるのだが,作品としては私の評価はイマイチ。まあ,こういうのが今広く求められているということでしょうか。といっても,上映状況は寂しいものがありますが。

さて,今日は息子のことなど。以前はさんざんうまくいかないと書いた妻の授乳ですが,またいろいろありました。母乳と粉ミルクの混合でやっていこうと決めて数日。またネットからよからぬ情報を入手した妻でした。「混合でやると,そのうち母乳が出なくなり,最終的には完全に粉ミルクになる」というもの。また,思案と試行の数日。妻は「もう粉ミルクでいい?」と私に提案したが,私はその妻の決断がコロコロ換わるのにちょっと愛想を尽かしたら,数日後にはなるべく粉ミルクに頼らずにいく方向性になったようです。それも軌道に乗ると,今度は息子の体重が気になります。確かに,毎日それなりのウンチとおしっこがあるので,心配はしていなかったのですが,出かけた帰りに市の施設に寄って体重を量るとこの10日間くらいで体重は微増。またまた心配になり,先輩ママさんに電話。ここ数日は息子の求めに応じて,なるべく母乳を与えるようになったようです。しかし,幸いなことに以前は重要事項だった,乳首の痛みというのはかなり減ってきているようで,なんとか,ようやく落ち着いてくるのでしょうか。
しかし,息子の方は相変わらず夜中でも2時間おきに起きる毎日です。まあ,多少訳のわからない泣き叫びというのは減っているし,昼間など3時間以上連続で寝ることも増えてきたような気もします。毎日見ているからドラスティックには気づきませんが,やはり日々成長しているんですね。そして,徐々に増やしている布おむつですが,新生児用のおむつカバーはすでにきつくなってきたので,一回り大きいものに替えました。当然,紙おむつもSサイズを使っています。

さて,赤ちゃんは産まれた時はある意味で野生状態です。まあ,厳密にいうとお腹にいるときから何か学習していることがあるのかもしれませんが,ここでは産まれた段階でできることは産まれつきできること,という前提にたちましょう。産まれてからできること。呼吸,乳を吸う,手足をバタバタ。漠然と見る,聴く。泣く。
これから成長するにしたがって,ここに何が追加されていくのでしょうか。つまり,何を学習していくのでしょうか。そんな観察が大きな楽しみでもあります。上で書き忘れたことがいくつかありますね。仕草でいうと,くしゃみ,あくび,伸び,これらはかなり早い段階からできます。産まれつきといってもいいかもしれません。わたしたち大人もくしゃみ,あくび,伸びをしますが,それらの仕草は産まれつきのままとはいえないように思います。くしゃみは随分長年やっている間に見についた個性というものがあるように思います。そして,あくびや伸びというのは他人に「眠い」や「疲れた」とかを伝える象徴交換の役割が大きく,純粋な酸素の欠乏や筋肉の緊張をほぐすという役割以上のものがあるように思えます。なので,赤ちゃんのくしゃみやあくびや伸びというのを大人が見ると微笑ましい気持ちになってしまうのは,同じ仕草でも大人は既に失ってしまった何かをそこに見出すからかもしれません。
ちなみに,生後2ヶ月を前に,息子は笑顔を覚えました。これは明らかに産まれつきのものではなく,われわれの表情を模倣して学習したものです。明らかに,私たちが微笑む理由を彼は知らない。もちろん,機嫌がよいときしか笑わないけど,笑うということが最上級に気分がいい時かどうかは不明。ただ,笑顔を見てある種の象徴体系を理解するわたしたち大人は,そこに彼が「喜んでいる」という心情を読み取ってしまうのだった。まあ,それはそれでいいと思う。

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差異の文化のために

リュス・イリガライ著,浜名優美訳 1993. 『差異の文化のために』法政大学出版局,138p.,1600円.

イリガライの著作は,『性的差異のエチカ』,『基本的情念』に続いて3冊目。『性的差異のエチカ』が講義録集であると同時にかなりディープな哲学論。『基本的情念』がかなり詩的な文体だったのに対し,本作は1つ1つの文章が非常に短いエッセイ集。なかにはインタビューもいくつかあります。このページ数にして,目次は以下の通り。

ささやかな宣言――平等を要求する女たちか,それとも差異を主張する女たちか
女の系譜の忘却
宗教的ならびに世俗的神話
女の言説と男の言説
母性の秩序について
差異の文化
女として書くこと
「わたしはエイズにかからない」
性と言語の性
生命の権利
なぜ性別のある権利を規定しなければならないか
「男よりも女」
あなたの健康とは何か,誰のことか
わたしたちの美をどのようにして創造すべきか
年はいくつですか
言葉の代価
それでは――いつになったらわたしたちは女になるのか

『性的差異のエチカ』も同じ浜名さんの訳なのに,そんな具合で随分読み応えが違う。本書は1987年から1989年にかけて書かれたエッセイやインタビューが収録され,原著は1990年に出版されているが,かなり古臭く感じる。本書はエッセイであると同時に理論より実践的なもの。古臭く感じるというのは女性の立場が云々という記述が1960年代くらいに感じてしまうが,でもこの21世紀に女性の立場は確実に向上したかと問われると,多少古臭く感じられるものであっても繰り返し主張することが大切なのかもしれない。
そして,それはイリガライの運動家(もちろん理論家としても)としての立場を明確に示しているのが,彼女は性の平等を求めるのではなく,「性的差異」を強調しているということだ。「女の系譜」や「母性の秩序」というのはそのことであり,世界の多くの地域を支配している家父長制に対して,つまり父系家族に対して,母系の系譜を重視し,それを積極的に記録し,つむいでいくことを提案している。そして,父系に対して劣位に見られがちな母系についてもその秩序を強調する。
そして,もう一点,これこそが私にとって重要だったのは言葉の問題。日本語には明確な女性名詞と男性名詞の区別はないが,フランス語は他のヨーロッパ言語よりも明白な言葉の性別があるようで,いくつかの事例を挙げながら論じている。多くの言語学者は言語の性別については偶然としているらしいが,イリガライは明らかに男性中心の社会構造の一部として言語があり,そこにおける性別はそれを反映しているという。そして,少なからず女性の立場が変化した現代社会において,時にその言葉上での性別は実情にそぐわない状況が生じている。だからこそ,言葉の性別そのものを問い直す必要があるのだという。
イリガライは集団としても女性のための運動に参加しているようだが,彼女の女性のための社会改革の提案は独特で面白い。ということで,少なからず勉強になる読書でした。

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今年はあまりクリスマスを感じない

12月17日(金)

いつもどおり,金曜日は映画の日。講義を終えて新宿三丁目に急ぐ。朝から遅れていた都営新宿線のダイヤ乱れはまだ続いている。映画館で受付してローソンへ。ちょっとお店で昼飯を食べている時間はないので,パンと缶コーヒーを買って映画館に戻る。それにしても,接客態度はマニュアルどおりで立派だが,パンを投げるように袋に入れる神経,さすがだ。でも,食べ物を大切に扱わない人はけっこう多くて驚く。スーパーに買い物に行っても,買い物籠に選んだ商品を次々投げ入れる人は珍しくない。
開場がまだだったのでロビーでいただく。ピカデリーは10分前開場なのだが,上映スクリーンは11階。3階の入り口からエスカレータをのぼっていくと,座席に座るまでに5分以上はかかる。

新宿ピカデリー 『武士の家計簿
妻が観たいといって,一緒に前売り券を購入した。当然一緒には観られないので別々に。『ノルウェイの森』は妻が一人で公開初日に観てしまったが,この作品は私が先に観る。本作は森田芳光監督作品。彼の作品は『39刑法第三十九条』(1999年)以来,『海猫』(2004年),『間宮兄弟』(2006年),『サウスバウンド』(2007年),『わたし出すわ』(2009年)とコンスタントに観てはいる。多様な作品をいまひとつってところで仕上げるところがなんともいえない。
さて,本作には原作があるが,新潮新書から出ているので一般向けではあるが,列記とした歴史研究書である。著者は茨城大学に勤める,私と同い年の研究者。こういうことは滅多にないと思うが,映画化されたことで原作も売れるし,相当儲けられると思う。その原作を立ち読みで冒頭だけ読んだが,確かダンボール一箱の古文書を購入するのに16万円の現金を持って神保町の古書店を訪れた,ようなことが書いてあったし,その資金はどこからか入手した研究費によるものだとも書いてあった。大抵,文系の研究者はそんな感じで万円単位のお金を何とか捻出しているのに,今回の映画化によって百万単位のお金が個人のものとして入るのかもしれない。世界の違いは面白い。
さて,映画の方は,堺 雅人主演。これまでもいろんな役どころをやってきているが,本作もまさにはまり役。タイトルどおり,武士でありながら剣術はからっきし。その代わり,加賀藩猪山家代々のお家芸であるそろばんで身を立てる。ちなみに,映画での語り手は堺演じる男の息子。堺の相手役には仲間由紀恵。正直,『TRICK』屋『ごくせん』などのキャラクタが定着してしまったこの女優に期待するところはない。しかし,江戸の終わりから明治初期にかけての時代を生きる女性ですから,全般的に控えめなんですね。台詞が少なくしかも,あの美しい黒髪ですから役どころ的にヴィジュアルでははまり役です。そして,台詞が少ない分,多少大袈裟とは思いますが表情で演じるところはさすが。この作品世界ではなかなかの存在感でした。それから,放蕩息子ならぬ,堺の両親役に中村雅俊(『レオニー』に続いての出演)と松坂慶子という,猪山家の財産を散財し家計を逼迫させる役どころもまたいい。やはりこの辺は森田芳光監督の力量といえようか。

息子のこともいろいろ書きたいことがあるが,家にいる時間は長いのになかなか落ち着いてパソコンに向かう時間がないので,またの機会に。今回はこの辺で。

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政治・空間・場所

山﨑孝史 2010. 『政治・空間・場所――「政治の地理学」にむけて』ナカニシヤ出版,210p.,2400円.

出版社から著者謹呈本として送られてきた。早速,講義で使えると思って読み,ブクログに登録しようと思ったら見つからない。奥付をみたら,発行日が2010年12月20日。先日奈良で開催された人文地理学会学術大会の折にも先行販売されたとは思うが,書店に並ぶ前に読み終えたという優越感。そして,山﨑さんとは実はあまりきちんとお話したこともないのだが,送ってくれて感謝。実は一度だけディープな交流があった。1999年の『現代思想』に,オートゥーホール『批判地政学』の一部を翻訳することになっていた。本来ならば,先に『人文地理』に書評を書いた山﨑さんが翻訳すべきところだが,コロラド大学留学中のため,私にお鉢が回ってきたのだ。当時,山﨑さんとは面識がなかったので,この仕事は日本の政治地理学の第一人者である高木彰彦さんを通じて話がきたのだが,私に丸投げするのも不安に感じたのか,翻訳は山﨑さんとのメールのやり取りによって進めることになった。結局,かなり細かいところまで修正していただいて申し訳なかった記憶がある。ちなみに,この時,オートゥーホールという難しい読み方は定着しておらず,本人もつけていた略称の「トール」となっている。また,翻訳が理論編の2章になったのは,当初予定されていた現代米国の時事問題を扱った章は私には翻訳できないと判断したため,変更してもらったのだ。その後,山﨑さんが帰国して,学会などで大勢集まったなかで顔を合わせることもあったのだが,なんとなく私の存在など気にも留めていないような気がしてその時のお礼は未だいえていない。ちなみに,私は政治地理学にはあまり関心がないのだが,「地政学」にだけは妙に関心があったのだ。1997年に論文も書いているし,オートゥーホールの本は私も『地理科学』に書評を書いた。
本書は著者自身が書いているように,「戦後初めての単著による政治地理学研究書」である。もちろん,その前の世代では高木彰彦さんの業績を忘れてはならないが,彼は翻訳書と編著はあるものの,単著はない。また,戦後日本で盛り上がりのない政治地理学を研究者レベルで盛り立てる役割を担っていたといえる。それに対し,本書で著者は自らの研究に基づく箇所が多いものの,基本的には学生レベルでの関心を高めるために本書を執筆したという。地理学の教科書としては,著者の同年代でもある大城直樹氏や私の同年代である加藤政洋氏によって数冊比較的良質なものが作られてはいるが,正直複数の執筆者によるそれらの教科書を一人の教員が半期,ないし通年をかけて講義の教科書とするには適していないと思う。
さて,前置きが長くなったが,本書は半期での教科書を意識しているのか,半期の授業回数と等しい14章から成っている。

第1部 政治地理学がたどってきた道
1 政治地理学の起源と地政学の盛衰
2 戦後の政治地理学――その日本的展開
3 政治地理学の展開と課題
第2部 空間・場所・領域
4 空間分析批判
5 場所の政治的意味
6 人間の領域性
7 グローバル化とナショナリズム
第3部 コンテクスト/スケール/言説の政治
8 コンテクストの政治
9 スケールの政治
10 言説の政治
第4部 事例研究にむけて
11 大都市圏行政と公共選択論
12 政党の編成と対立
13 領域と社会運動
14 安全と安心のまちづくり

著者が冒頭で,日本の政治地理学が戦後なぜ盛り上がらないのかを,戦時中に盛り上がった「日本地政学」との関連で論じる。といっても,決して戦争への加担ともみなされかねない日本地政学へのタブー視だけが,政治地理学の不人気だとはみなしていない。そこで,に本の地政学から戦後の政治地理学を丁寧にたどる。しかし,やはり1章に当てた分量を,1回分の講義を念頭においているためか,ある事実は単純化され,もう少し突っ込んで理解したい事項があっさりと結論付けられたりと,物足りなさも感じる。しかし,そこは教科書だけあって,戦後の英語圏政治地理学で話題になった論点をほぼ網羅しているように思う。
地政学の話は第1部で触れられている他,第3部の言説に関する議論としてもう一度登場する。そこでは,私が杉山氏と香川氏と共同執筆した2007年の論文も取り上げてくれている(しかし,その他の私の地政学関連の文章は全く無視されています)。アグニューが論じた「場所の政治」についても,新しい地誌学からの流れとしてしっかり説明されているし(だからこそ本書のタイトルに「場所」が入っている),最近著者自身が『空間・社会・地理思想』に翻訳したサックの『人間の領域性』(1986)も,サックによる1970年代からの空間分析批判もとりあげながら,なかなかうまい話の展開でつなげていると思う。
後半,若干「これって本当に政治地理学なの?」って思わないこともない。そもそも,人文地理学全般に「政治性」を問題にしてきており,かつては社会地理学(そもそもサックも政治地理学を標榜していたわけではない)や文化地理学と呼ばれていたような研究が,本書の事例のなかにも登場する。本書は事例にも気を配っていて,かなり豊富な身近な事例が登場する。これまた,安易なものから説明不足のものまであるが,まあ教科書における事例は語りすぎな方がいいかもしれない。それから,私のような読者にはくどいような基本的な用語説明の注があるが,当該ページの下部に印刷されているのは嬉しい。
本書は冒頭で妙に日本の独自性にこだわっている。あくまでも米国留学していた経験上,英語圏の理論を紹介しているが,日本の政治地理学が英語圏の理論の適用だけになってはいけないという。また,本文でも何度か登場する地理学の独自性は場所志向的に物事をみる能力だという。そういう意味では著者はかなりナイーヴで古風な地理学者だともいえる。人種,民族,ジェンダー,セクシュアリティに関する議論をまとめて「ポストモダン論」と括ってしまうのもちょっと強引な気がするが,まあ,著者の志向が外向けのアクチュアリティにあるのであって,内向的に政治について考えがちな私とは思考の方向性がかなり違っているというだけで,まさに彼のような人物がこれからの日本の政治地理学を牽引していってくれると思う。

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新しい論文リリース

私が初めて発表した論文が1993年の『人文地理』。その雑誌になんと13年ぶりに論文が掲載されました。

成瀬 厚 2010. 他所と同一化する――写真家が旅で発見した故郷.人文地理 62: 478-492.

今年3月に日本地理学会で発表した内容がこんなに早く印刷されるとは。こんなにスムースに掲載されたのは1993年以来かもしれません。
まだ,別刷りは届いていませんが,また希望者にはお送りします。ちなみに,別刷りとは雑誌の自分の論文の箇所だけ別途印刷して製本してくれるもので,著者に限って購入することができるのです。研究者はそれを読んでもらいたい研究者に送ったり,大学教員応募書類として入れたりします。
ご希望の方は,このblogの左下にある「メール送信」をポチっとクリックして,その旨と送付先をお知らせください。なお,別刷り送付は人文地理学会会員以外と限らせていただきます。

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週1本の映画

授乳もかなり軌道に乗ってきました。もう乳頭補助器を使う必要もないほど,息子の口が大きくなったのか,とにかく吸引力も強くなった。相変わらず,授乳を始める時には落ち着かず,飲み始めるまでに時間がかかる時もあるが,その点は問題なし。しかし,寝つきが悪いのは相変わらず。一時期,妻が添い寝乳をするのを覚えて,それを頻繁にやっていたら今度は,寝る前にお乳をチュパチュパしないと寝れなくなったり。その一方で,ただでさえ強い吸引力で吸われ,時には吸ったまま首を曲げたりして,妻の乳首はかなり痛い様子。
最終的に,わが家では完全母乳育児をとりあえず諦め,必要な時は粉ミルクを飲ませることに決定。それによって,体重増加も順調だし,妻のストレスもある程度は解消された様子。

ところで,息子は生後3週間辺りから,にきびのような湿疹ができています。mixiで子育て経験のある友人に「脂漏性湿疹」であることを教えてもらう。ちょっと調べると,それがアトピーの前兆であることもあるらしいが,息子は数日後にキレイになったり,また後日別の場所に出てきたり。けっこう,母乳の質にも敏感に反応するようですね。母乳を与え始めたはじめのほうは私が気を使って肉料理を控えめにし,妻も甘いものの摂取を控えていたのだが,最近はさほど気を遣わなくなってきた。なので,ちょっと油っぽい食事を食べた後など,若干それが息子の体調にも影響するのかも。といっても,わが家はそんなにひどい食生活をしているわけではないので,心配しすぎる必要はないと思う。
体重も先日妻が国領駅前にある市の施設に行って測った時に4390gに達していたということで,かなり肉付きもよくなってきました。しかし,不思議なのはほっぺたや首などにはかなり肉がついているものの,パッチリお目めは相変わらずです。髪の毛はあまり伸びず,特に頭の上と前髪はほとんど産まれた時のまま。脚力が強いというのは妊娠中から思っていたことだが,今ではかなりたくましい太ももをしている。首も座ってなく,背骨もしっかりしていないのに,足だけは既に全身の体重を裕に支えている。でも,幼い時から足の筋肉が発達すると,短足になってしまうのではないかと心配している。ちなみに,既にけっこう笑顔を見せています。寝つきが悪く,泣き止まないことも多いですが,日々成長しているのは間違いないですね。

12月10日(金)

さて,この日は妻の元同僚を介して某家電量販店に年賀状の印刷をお願いしていたのができているということで,それを取りに行くついでに映画を観る許可を与えられた。まあ,毎週金曜日だけは午前中の講義後に映画を観て帰るというのが定番になりつつあるが。

新宿角川シネマ 『レオニー
選んだ作品はこちら。主演のエミリー・モーティマーが観たかったのだ。彼女の存在はユアン・マクレガー主演の『猟人日記』と『ディア・フランキー』という2005年に続けて公開された英国映画でその愛くるしい瞳と豊満な肉体で魅了されたが,その前に『エリザベス』や『ノッティングヒルの恋人』,『恋の骨折り損』に出てた頃に私が意識していたかどうかは不明。その後も『マッチポイント』や『パリ,ジュテーム』,『ラースと,その彼女』観てきたが,けっこう様々な年齢を演じていて実年齢が不明だったが,改めて調べると私の一つ下で,ユアン・マクレガーと同い年だったらしい。いつもけっこう不幸な役どころが多いんですよね。
ということで,本作も同様。イサム・ノグチの母親役ということで,その父親であるヨネ・ノグチに振り回される役どころ。そのヨネ・ノグチを演じるのが中村獅童。まさにはまり役ですな。ニューヨークでレオニーと出会い,結婚を約束して体を重ねる(実際に法的に結婚したかどうかは不明)。しかし,時代は19世紀から20世紀へと代わるころ。日本で日露戦争に勝利し,軍国主義化していく。米国人から差別を受け始めたヨネはレオニーの妊娠を知るなり,一人で日本に帰ってしまう。しかし,その後レオニーと産まれたイサム(レオニーは父親が名前をつけることを望んで息子に名前をつけずにいる。)を日本に呼び寄せる。しかし,そこでも彼女に家を与えて,都合がよいときだけ体を求めるような関係。とにかく,レオニーの不幸なる一生が描かれている映画です。一応,実在する人物とその史実に基づきながらも,脚色を含んでいるという,松井久子なる人物の脚本・監督作品。エミリー・モーティマーはこういう不幸な境遇がよく似合う女優さんです。しかし,自分の不幸をばねにして,息子にはとことん愛情と期待を寄せるというのが本作のテーマでしょうか。

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久し振り吉祥寺

12月5日(日)

息子のお風呂上りには,ベビーオイルを使って毎日マッサージをしている。使用しているベビーオイルは助産院で購入したものだが,「生活の木」のもの。一ヶ月でなくなってしまったので,買いに行くことに。本当は私が一人で買いに行くつもりだったが,天気もいいので息子をスリングに入れて,「生活の木」のショップがある吉祥寺まで出かけた。幸い,調布からはバスが出ているので,それに乗ってのんびりと。結局,休日のバスどおりは混雑していて,家を出てから1時間かかってしまったが,息子は相変わらず眠ったまま。
今回はかなりの長距離移動なので,途中で授乳することも考え,あえて哺乳瓶と粉ミルクは持たずに,吉祥寺にある授乳室をあらかじめ調べてから臨む。まずは生活の木が入っているPARCOへ。ベビーオイルはなぜか助産院で買った値段より高く,生後一ヶ月から使えるというベビーローションがあったので,そちらを購入。早速,授乳室のある7階へ。その階はベビー服などのショップもあり,子ども連れで賑わっています。そして,授乳室を私が覗くわけにはいかないですが,個室になっているようです。その前にはちょっとした子どもの遊び場もあります。そして,ちょっと嬉しくて思わず使ってしまったのが,乳児用体重計。一時期は体重が伸び悩んでいた息子ですが,もう4kgを越えたようです。まだまだ眠そうなので,ちょろっと廻って次のお店へ。

次は伊勢丹が撤退した後に入ったcoppiceへ。ここの3階も「for Mum & Kids」と称し,かなり広い子どもの遊び場と授乳室,そしてキッズを対象としたショップが展開しています。「for Mum」ってのはやめてくれよな,という気もしますが,おそらく平日はまさしくそんな空間なのでしょう。ここはかなり混み合っていたので,授乳は諦め,とりあえず私たちはそのフロアにあるカフェで一休み。特に子連れを意識したわけではないオーガニック食材のお店でしたが,すっかり子連れのたまり場になっています。

なにをしているわけではないが,いつの間にか時間が経っている。本当はベビーオイルだけ買って帰ってくるはずが...最後の授乳室を確認しに今度は東急百貨店へ。ここはベビーショップ中心のフロアも落ち着いたものですが,おむつ換え&授乳室はなかなかの盛り上がりだった。結局,こちらでまずおむつを替える。隣では1歳近い男の子でしたが,やはりこのくらいになるとウンチがかなり強烈な匂いです。そして,抵抗の仕方が半端じゃない。ギャーギャー泣いたりはしないものの,レスリングの寝技を交わしているような体の反りで抵抗しています。わが息子はおむつ換えでも大抵は泣くのだが,このときばかりは周囲に圧倒されておとなしいもの。息子と妻はこちらで授乳室へ。そして,なんとここでは,以前妊娠中に行った,市が開催している「もうすぐパパママ教室」で出会った女性と再会したそうです。しかも,その女性はうちと予定日がいっしょで,実際に産まれたのも1日違いだったとのこと。妻がいうにはうちの息子より格段大きな顔をしていたというその男の子も見たかった。
それにしても,赤ちゃんて千差万別。見ていて飽きないというわけではありませんが,悩みも人それぞれなんだろうな,と納得する。それでも,やはりわが子はいちばん美しい。

という訳で,授乳を外で待つのもけっこう辛いものがありますね。まあ,慣れていかなくては。思ったよりも遅くなってしまったので,吉祥寺駅アトレの食料品街で一品だけ惣菜を購入していく。そのお店のおばちゃんが息子に興味ありありでめちゃくちゃ話し掛けてきます。まあ,たまには嬉しいですが,こういうのけっこうあるみたいですね。
授乳後はけっこう起きていて,バスに乗る前後はちょっと泣かれましたが,わが家の室内では響く彼の泣き声も雑踏では大したことないことを確認。本人も諦めてすぐに寝てしまいました。そして,帰りのバスは順調に到着。

Blog20101209 こんな渋い表情もします。

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バベルの謎

長谷川三千子 2007. 『バベルの謎――ヤハウェストの冒険』中央公論新社,437p.,1300円.

本書は1996年に出版された単行本の文庫版。単なる文庫版ではなく、現代仮名づかいに変更されたもの。もともとの単行本は旧仮名づかいだったらしい。以前から書いているように、私はオースターの『ガラスの街』をきっかけに、旧約聖書のなかの「バベルの塔」の物語について気にかけている。有名なところではボルヘスの「バベルの図書館」があるように、多くの思想家がこの問題に取り組んでいる。しかし、それは塔の物語としてではなく、言語の物語として。なぜ、世界中に多様な民族が存在し、それぞれ別の言語体系を有しているのか、そのことの神話的起源が「バベルの塔」の物語にあるのだ。この物語の有体の解釈を知らないと、実際に『創世記』を読んでみてもよくわからないというのが実情である。バベルというのは塔の名前であると同時に町の名前でもある。さらには、神ヤハウェが人間が有していた一つの言葉をバラバラに解体するという行為に用いられる「乱れ」というのもバベルらしい。そして、この物語はブリューゲルをはじめとする画家たちがそのイメージを残している。それによれば螺旋状の階段を周囲に有した天にも昇る塔が上方から破壊されて朽ちているというもの。しかし、実際の聖書の記述にはヤハウェが塔を破壊したということは具体的に書かれていない。あまりにも言葉数が少なく、聖書の記述だけでは語り継がれているような物語を復元することはできない。私はそもそも聖書というものをこれまでの人生で読んでこなかったし、最近読んだのも『創世記』のみ。だから、聖書というのはそういうもので、一般的にいわれているような物語は、その後の時代によって肉づけされたものだと理解していたのだ。
そこで、著者はまさにそういう素朴な疑問から出発し、神学や聖書学などを専門とするわけでもないのに、創世記の謎に切り込んでいこうというのが本書。またまた刺激的な読書体験でした。本書の主張がどれほどの正当性を持っているかは分からないが、ともかく面白いのは確か。そして、相手が聖書となれば、ある意味で何を論じてもありだと思う。さて、著者は創世記の最初の部分、ちょうど彼女が疑問を持った「バベルの塔」の物語で終わるまでの部分を「原初史」と呼び、それがどういう性格のものかを明らかにすることを目的とする。聖書学によれば、この部分はヤハウェストと呼ばれる人物によって書かれたと考えられるJ資料と、その後誰かが書き加えたと考えられるP資料の組み合わせからなるという。現在私たちが手にすることのできる『創世記』の冒頭、あまりにも有名な創世の七日間はP資料によるという。そして、「バベルの塔」はそのほとんどがJ資料、といった具合に、著者は聖書の原初史にあたる部分が誰によってどんな情報源から書かれたのかという、近代文学史的な関心から、その作者性とそれによって書かれた作品性とを問題にしようとするのだ。これはいかにも冒険的な試みではないか。確かに、昔読んでチンプンカンプンだったが、ノースラップ・フライも聖書をテクストとして読むという試みをしていたが、そこでいうテクストとはバルト的「作者の死」以降のものであり、著者の意図とはまったく違っている。本書は文学研究としても素朴な立場を貫いており,聖書といえど,作者がいて,その作者はいろんな文書や自分自身の経験を下にして文章を書き,しかもその文章には一貫したまとまりがあるはずだ,との前提に立つ。ルネサンス以前を対象とする正当な歴史家であれば,その前提はおかしいと思われようが,先ほども書いたように,聖書を対象とする限りは一つの正しいあり方だと思う。
実際に,彼女が根拠とした資料がどうかは分からないが,本書はタイトルどおり,ある種のノンフィクションミステリーのような,それでいていわゆる歴史小説のような取ってつけたようなドラマティックはなく,ある意味で真摯な姿勢に貫かれている。「バベル」とは実在するメソポタミアに実在する都市であるが,ヤハウェストはメソポタミアの事情にも詳しく「バベルの塔」はこの地方に実在した「ジグラト」という神殿をモデルにしているといい,一方で創世記の記述はこの地方の神話『エヌマ・エリシュ』を参考にしている。まあ,この辺の事実は彼女の発見ではなく,ある程度の常識のようだが,そんなことも含め,知るべき情報とその情報を利用した斬新な解釈とが読者を楽しませてくれる。

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自然の諸原理について

トマス・アクィナス著,長倉久子・松村良祐訳 2008. 『自然の諸原理について――兄弟シルヴェストゥルに』知泉書館,100p.,3000円.

トマス・アクィナスといえば,『神学大全』で,それは何巻にもわたって大きな書店には並んでいるが,とても買う気にもならなければ,もし手に入ったとしても読む気にはなれない。しかし,中世ヨーロッパの重要な思想家として押さえたいのがトマス・アクィナス。でも,私はお手軽な入門書の類は嫌い。やはりその思想家を知るには,その人が書いた文章を読まないと(といっても,所詮は日本語でしか読めないけど)。ということで,たまたま書店で見つけて購入したのが本書。ラテン語の原文が左ページに,その日本語訳が右ページにという印刷で,注と解説を除けば30ページにしかならない。しかも,表題がこのようなものであれば,地理学者としてのアクィナス入門としては申し分ない。
ということで,一気に読み終わってしまった。本作は1252~1254年の間に書かれたと考えられている。これよりちょっと後の時代にネオ・プラトン主義というのが登場し,ルネッサンスで大きな役割を果たすわけだが,古代ギリシャ思想としてのプラトンとアリストテレスのうち,中世の時代を生き抜いたのがアリストテレスであるとの単純な理解が私にはあったのだが,それが誤りだということが本書で分かった。アリストテレス哲学もヨーロッパには中世に逆輸入という形で再発見されたものだという。それはイスラム世界を経由して再びヨーロッパにもたらされたわけだが,その際にアクィナスという人物が大きな役割を果たしたという。
そのなかでも本書は,アリストテレスの『自然学』を解説するものだ。『自然学』は私も読んでいる。プラトンの『ティマイオス』よりは分かりやすいが,それでも理解度はそれほど高くない。しかし,本書はそのかなり分かりやすい解説書となっている。しかも,私はまだ読んでいないアリストテレスの『形而上学』における形相と質料の解説から,可能態と現実態へと議論が進み,自然における原因・原理へと結論付けられる。でも,ちょっとうがった見方をすると,こんなにわかりやすい解説で果たして正しいのかと思えてしまう。本書だけ読んで偉そうなことはいえないが,アリストテレス哲学をかなり矮小化しているのではないかと。
でも,また違った見方をすると,これだけ分かりやすくなっているのは,翻訳者の労によるものでもある。読者は訳者の一人である長倉氏が本書の完成を前に亡くなってしまったということを知る。巻末にはアクィナス研究文献の一覧がつけられているが,長倉氏はこの方面のアクィナス研究の第一人者だと分かる。機会があれば彼女の論文でも読んでみることにしよう。

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スリングで外出

22時すぎに床に着く。風呂をあがった後,十分に授乳してもすっきり寝れない息子のために,妻が添い乳をするが,寝たかと思うと起きを1時間近く繰り返してもまだ不満な様子。妻もその乳首も限界なので,粉ミルクを40ml飲ませても泣き止む気配なし。もう打つ手段なしということで,妻には寝てもらって(この泣き声のなか眠れるかどうかは分からないが),ともかくスリングに入れたまま私が付き合うことにする。生後一ヶ月の乳児は何時間泣き続けられるのか。

さて,そんな現在の状況はともかく,近況など。
先日,一ヶ月検診として出産した助産院を訪れたということを書いたが,一応これでこの助産院を訪れるのは最後。もちろん,その後の相談も受けてくれるし,その助産師さんがやっている「調布おっぱいの会」や,この助産院で出産した家族たちの集まり「OG会」なるものもある。それはともかく,その家の息子さんも見送ってくれて,私たちはこの助産院を卒業した。いちばん大変だといわれている生後一ヶ月の育児を終え,いくつか次の段階に移行していいとのお墨付きをいただく。
まず,一つ目がお風呂。これまでは「沐浴」といって,低めの温度調節(40℃前後)で,ベビーバスなるものを使う。それは生後一ヶ月程度しか使わないのでレンタルという手もあるのだが,tubtrugsの深さの浅いものを使おうと決めた。実際,これの深いタイプの中サイズのものを洗濯物入れ,および洗濯機に水を運ぶのに利用している。これだったら,沐浴に使わなくなっても(使っている途中でも)ベビー服の手洗い洗濯に使えるということで購入。しかし,実はこれ,直径が40cmしかなく,実際には48cmで生まれてきた息子には小さすぎた。でも,結局一ヶ月間はこれで沐浴をした。5cmほど身長が伸びた一ヶ月目にはかなり厳しくなっていたが,おとなしく足を曲げていてくれればなんとか用は足していたのだ。
ということで,一ヶ月を過ぎ,始めたのが,一緒にお風呂に入ること。沐浴は卒業です。脱衣場にも電気ヒーターを持ち込み,浴室はシャワーを使ってお湯をためたりと,室内の気温をできるだけ上げます。沐浴はもっぱら私の仕事でしたが,これからは交替でお風呂に入れます。先に入る方が一人でなるべく室内の温度を上げるようにして,浴室の湯温が適温になるようにしてあがります。で,次の人が子どもと一緒に入り,まずは沐浴と同じ要領で子どもの体を洗い,一緒に浴槽に浸かるといった具合。まあ,子どもの体温が下がらないように気をつけるだけですが,寒い時には遠慮なく泣き叫ぶので分かりやすい。浴槽の湯温が高すぎる場合も泣くようなので,それほど難しくはないですね。私の周りでもベビーバスなど使わず,はじめから一緒に入っている人もいるようですから。

さて,続いて新しく始めたのが布おむつ。これは夫婦で出産前から布おむつ宣言をしていたため,譲っていただいたものや,新しい頂き物など,用意はすでにしてありましたが,なかなか余裕がなくこれまでは紙おむつ。とりあえず,余裕がある私が試しに使ってみる。実は紙おむつはよく考えて作られているものの,たまに漏れてしまう。恐らく紙おむつといいながらも化学繊維を使っていて,水分の吸収はその擬似紙本体ではなく,その内部に組み込まれた吸収剤だから,それにうまく吸収される前に水分が横滑りを起こすのだと思う。それに対し布の吸収は分かりやすい。男のこの場合は,おちんちんに当てる部分を厚めに折っておけば,まず一回のオシッコで漏れることはない。しかも,紙おむつと違って,肌に密着しているからずれることはないのだ。ちなみに,ちょっとどうなるのか恐れていたウンチの方も意外にいい感じ。余分な水分を布が吸ってくれるので,ウンチそのものはキレイに留まっていてずれることはありません。問題は洗濯です。購入した布おむつ育児の本によると,ウンチの場合はトイレにそのまま漬け,流しながらジャボジャボすると,ウンチが流れますと書いてあったけど,意外にウンチがこびりついて流れません。それから,新生児のウンチは黄色いのが特徴ですが,その黄色は白いシャツにカレーをこぼしてしまった時のように色素が落ちませんな。かつてはトイレの水なんていくら清潔な状態でも触りたくなかったものですが,随分平気になりました。ウンチの場合そういう下処理をした後,オシッコのみのものと一緒に洗剤を溶かした水に半日くらい漬けておきます。そして,翌朝大人の洗濯物と一緒に洗濯機で洗う,という感じ。まあ,一日中やるとおむつだけで10枚以上になってしまうので,今のところは試用期間ということで1日3枚まで。

始めたことの三番目は外出。わが家には知人から譲ってもらった抱っこ紐が2種類ある。一つは頭をカバーするものまでついていて,首の座らないうちから使用できるが,やはり体に密着している方が子どもも落ち着けるということで,妻がネットで探してきたminimonkeyというスリングを購入。まずは近くの薬局まで。この薬局は古臭い店構えのせいか,これまであまり利用していなかったが,意外にもベビー用品が充実していることが分かり,最近では週に一度は必ず行く。というのも,駅前のミネドラッグだと,なんと新生児用の紙おむつすらろくに置いていないのだ。ということで,本人を連れて,紙おむつと粉ミルクを買いに行く。
スリングは基本的に窮屈。元気な時は首を反らせ,足を伸ばすわが息子だから,体をくの字に曲げた体勢が快適なわけがない。基本的にスリングに入れた時はまずギャーギャー泣く。でも肩にかけたままいろいろ活動しているうちに諦めて寝てしまう。あるいは外出するときは不思議と玄関から一歩外に出れば泣き止んですぐ寝てしまう。静かな家のなかでは,物音一つで反応して起きてしまうのだが(自分のおならですらも!),屋外では圧倒的な音と光の洪水のなかで,膨大な刺激と情報量から自らの身を守るために,感覚をシャットダウンするのかもしれない。

12月3日(金)

ということで,午前中の講義を終えて直帰し,家で昼食を食べたから,調布駅北口にある布多天神社に家族三人でお参りに行く。散歩がてら徒歩で。30分ほどの道のりだが,息子は寝通し。続いて調布PARCO内のタルト屋でお茶。先客にも生後半年くらいの子どもを連れた人がいてちょっと安心。金曜日の昼間ということでほとんどが女性客。初めて入るお店だったが,思ったよりも店内は広く,客席も多いのに,かなり埋まっていました。スリングに入れたまま椅子の上に下ろしても起きそうになかったので,そのままお茶。でも,妻はお乳が張るということで,トイレに行って絞ってくる。お店を出る頃から起きそうな雰囲気になってきたので,電車を使って急いで帰宅。
結局,友人からプレゼントされたママズ・バッグを使って,替えのおむつや授乳ケーブ,粉ミルクセットなどを持参したのに,のべ2時間ほどの外出で,息子はほとんど寝たまま。用意したものは待った無用でした。でも,夫婦で一緒に飲食店に入ったのはけっこう久し振り。まぁ,近場だったらこんなことが可能になってきて嬉しい外出でした。

Blognudeちょっと前の写真ですが(今は大分ムチムチです),上半身ヌード。

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息子,生後一ヶ月

ただいま午前4時。
最近は寝不足がたたっていたので,妻が横で授乳に奮闘するなか,寝させてもらっていたが,妻のイライラも最高潮。急遽,私が息子を預かり,スリングに入れてブラブラ。お米を砥いだり,息子の肌着を洗濯したり。スリングのなかで寝付いたので,寝室に下ろすと5分も経たずに泣き出す。ということで,当分スリングのなかで寝かせることにして,私は台所でこうして日記を書いています。外は本格的な雨ですね。

11月28日(日)

息子は10月28日生まれなので,この日がちょうど一ヶ月。一ヶ月検診は家族3人で来てくださいと助産師さんにいわれていたので,ちょうど日曜日のこの日にする。当初は電車とバスを乗り継いでと思っていたが,助産師さんに確認してはやり大事を取ってタクシーを呼ぶことにする。呼んでもなかなか来てくれないこともあるので,早めに呼ぶと,すぐ来てくれてしかも,今回は道に詳しい運転手さんですぐに着いてしまう。10時の予定がまだ9時半。
時間を潰す場所もないので,ピンポンする。なんと助産師さんは起き抜け。「あれー,9時半だったっけ?」といいながらも,「ちょっと待ってて,準備するから」といってしばし待つ。この日は移動がタクシーだったので,抱っこ紐を使わずそのまま抱きかかえてきた。タクシーに乗るなり熟睡で,いまだ熟睡。診察のお部屋に通され,まずは母親のことなど。その後,どうやらおむつも替え時なので,息子を起こし,おむつを取って服も脱がす。体重を量って,その他もろもろ。こういう時は褒め上手の助産師さん。体重も日割り計算で27gずつ増えていて(退院時からだと30g越え),「何の問題もありません。順調に育っています」とのこと。育児中は苦労も多く,心配事も多いが,こういう言葉を聞くと,「どうしたらいいですか?」と用意した質問も忘れてしまうほど嬉しくなる。
逆に問題は妻の体。体重は妊娠前から10kg以上減ったのだが,まだ骨盤が戻っていないらしい。寝ること中心の生活で足腰も弱まり,なかなか回復のしようがない。ということで,骨盤を引き締める体操など,いろいろ教わっている間に,再度服を着させた息子を腕に抱いている私。どうやら,自分の家から出ると大人しくなる。

順調に育っているし,とりあえず大人しいので,帰りはバスと電車で帰ることにする。まずは,腹ごしらえ。まだ11時を過ぎたところだったが,「ガッツリ食べたい」という妻の要望で,近くの深大寺そばのお店へ。こんな時間から男性一人客で賑わっています。おそらく,朝食は取らずに朝からそばなんでしょうね。しかも,けっこう寒いのに皆ざるそば。こういう食生活だからか,皆醜い感じで肉付きがよいです。私たちは温かいそばをつけた丼セット。妻はカツ丼で私はマグロ丼。満腹になって店を出ると,ちょうどバスが来る時間です。バス停で前に並ぶ年配の女性に子どもを見てもらって,褒めてもらう。こういうの,いいですね。
息子は相変わらず私の腕のなかでスヤスヤ。吉祥寺から調布駅北口行きのこのバスは布田駅前を通るので,そこで下車。わが家のコーヒー豆も残り少なくなっていたので,南蛮屋で3種類400gを買って帰る。1ヶ月すぎて外出許可も出たので,これからは妻が一人で家にいても気晴らしに散歩にも出かけられます。検案していた年末年始の埼玉への帰省も実行予定。母親に初孫と初めて年を越してもらいましょう。

自宅では布おむつも始めました。洗濯が大変なので,まずは休日私もいるときに1日3枚のペースで。しかし,思ったよりもこれが快適。紙おむつといいながらも,素材は紙ではなく化学繊維。つけ方を誤るとオシッコがするーってもれてくるんですよね。しかし,布おむつは思ったよりも吸収力がよく,限度を越さない限りは漏れてこない。むしろ,おちんちんにフィットしていい感じ。ウンチも心配でしたが,ウンチ中の水分も程よく吸ってくれて,頻繁にチェックして替えてあげれば漏れる心配はまずなし。1日3枚くらいだと洗濯も楽だし。ウンチをしてしまった場合はそのまま,便器につけて流すとある程度モノは落ちます。その後,おむつをまとめて洗剤に漬けておいて,翌朝軽く手洗いして,われわれの衣類とともに洗濯機へ。そんな感じです。

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昭,口唇期

私たちの息子は泣き虫である。育児といっても,寝ている時は何もする必要がないし,機嫌よく起きている時は放っておくか,適当に一緒に遊んでやればよい。面倒でいちばん時間が長い(長く感じられる)のが,泣いている彼をいかに泣きやませるかである。
まあ,誰でも知っているように,泣いている理由は三つ。お腹が空いておっぱいが欲しい時,おむつが濡れて不快な時,そして眠たいのだが何かが原因で寝れない時。一番目はおっぱいをあげればよい。二番目は息子の場合,それといって分かる時はない。しかし,それに近いものとして,胃腸が活動し,これから排泄するという時の違和を感じ,泣いている時がある。これについては後述しよう。
ということで,いちばん苦労するのが最後の点だ。といっても,これは勝手に想像しているだけで,本当にそうかどうかは分からない。ただ,何をやっても泣きやまない原因を考えるとしたらそんなことしか思いつかない。実際に,この状態になるのは起床時間が継続している時である。そんな時はどうやってあやしているのか。ここで列挙してみよう。まずは普通に抱きかかえてよしよしとなだめる。生まれたての頃はこれで泣き止むことが多かったけど,最近はほとんどない。二番目は「高い高い」などで,垂直の運動をする。これは前回書いたように,あまり激しい動きは脳に損傷を与えるので気をつけなくてはならないが,私たちが遊園地で垂直落下のマシーンを楽しむように,子どもにとっては泣いているのを忘れるような衝撃らしい(だから,やりすぎは禁物)。三番目は私自身が揺り篭のようになり,水平の移動を与える。これも極度な移動は加速度がかかった状態になって泣き止むが,やりすぎはよくない。ここ数日はもっと遅い速度でも落ち着いてくれることを発見。最近は自動でスイングする商品もあるが,やはり揺り篭は偉大だ。もちろん,抱っこしてあやしながら,リズミカルに背中などを軽く叩いたり,話し掛けたり唄ったりするのは効果的。

そして,もう一つ私がよくやるのが,指をしゃぶらせること。妻の知人にいただいたベビーグッズのなかに,シリコン製のおしゃぶりが入っていたが,これを加えたのはほんの一時期だけ。最近では,口に入れた瞬間にプイと外に出す。その仕草が可愛くて,最近ではしつこく何度も入れて出させてを繰り返したりする。
そんな感じでシリコンおしゃぶりは役に立たないが,私の指は吸ってくれる。特に右手の薬指。爪の側を舌で舐めるような形で入れてやると,はじめは「何だこのまずいものは」という感じの顔をすることもあるが,慣れてくるとチュパチュパと強い吸引力で吸う。この時,左腕一本で抱きながら指をしゃぶらせているのだが,左手の手のひらを彼の背中に当てていると,飲んだ母乳が胃腸で消化されているのがよく分かる。私の指をしゃぶっている時は,これから眠りにつくときと,胃腸で消化されたものが排泄される時とが多い。そのどちらもなかなか面白い体験だ。前者は,しゃぶっている間にまぶたが重たくなって目が細くなってくる。そしてチュウチュウと吸う回数と力が弱くなってくる。でも,すぐにはやめない。休み休みで何度も思い出したように吸い,最後に眠りに落ちる瞬間にプイとちゃんと指を吐き出すのだ。そして,後者だが,こちらは打って変わって大騒ぎ。無自覚のうちに排泄することも多いが,排泄するという自らの内臓の運動を自覚している場合ものある。その際が大騒ぎなのだが,指をくわえるという行為によってその訳が分からない自分の体の動きに向けられた神経を指を加えるという行為に向けてそらしているように思われる。ウギャウギャ騒ぎながらも必死で指にすがりつくという感じ。

Blog20101201

さて,フロイトの性的発達段階説の最初の2つの段階が,口唇期と肛門期である。といっても,私はきちんとその説をフロイトの原文で読んだことがない。ちょちょっとネットで調べてみると,乳首をチュパチュパ吸うことへの快楽と,肛門から排泄する時の快楽を感じるか感じないか,それに執着するかしないかでその子どもの成長後の性格が決まってくるというもの。しかし,私は勝手にこれは根本的な自己と他者の問題,あるいは内部と外部の問題ではないかと想像している。
よくいわれるように,新生児が自らの身体を自らの所有物だと認識すること,そして,自分自身の精神が他者とは独立した存在であると認識するまでには時間がかかる。そもそもが出産前は母親の身体の一部であった胎児が,産道を通って外界へと出,へその緒を切ることによって独立した物理的存在になる。しかし,もちろん何から何まで新生児の生命は母親(これはあくまでも理念的な存在としての母親です)に依存している。確かに新生児の身体能力は意外に高く,首をのけぞる力や,泣く時の腹筋,そしてわが子の場合は特に足をバタバタする時の力はかなりなものだ。しかし,足をバタバタさせたり,手をブルブル回してみたりというのは,私たち大人のように,歩いたり,手で何かを掴んだりという機能を果たすことができるような制御されたものではない。まあ,そうした将来の機能的運動に向けての訓練だということもできるが,いわば自覚的運動ではない。身体運動を自らのものとして意識はしていないということだ。機能的に意味があるのは泣くことと乳を吸うこと。この二つは明らかに自らの身体を維持するための機能を果たしているが,それはある意味で生まれもってプログラミングされた無自覚のものともいえる。

つまり,彼はどこまでが自分でどこからが自分外なのかという境界を持ち得ない。そもそも境界などという概念が存在しない。私たち大人の境界の概念によれば,子どもの身体の外部に母親の身体はあり,その外部から母乳が内部へとやってくる。そしてそれを自らの体内に導き,栄養に変換して自らの身体と成す。しかし,子どもは外部なる乳首はいつでも欲しい時に目の前にあると思い込んでいるために,それがない時にないことを自覚し,諦めることはできない。つまり,口唇は内部と外部の境界である。その境界を自己と他者の境界だと自覚していく時期が口唇期ではないだろうか。
一方,肛門はその逆である。肛門を通って,自らの内部にあった物質が外部へと排出される。もちろん,その前には胃腸の働きが少なからず子どもには感覚されるわけだが,その感覚は手足や顔,胴体などを外部たる私たちの手が触るのと同じように,子どもには外部から持たされる不快感に感じるのかもしれない。だから,避けられないその胃腸が運動する感覚を我慢できずに大泣きすることがある。そして,排出した便もそれが不快だとは考えないのかもしれない。といっても,肛門という内外の境界を意識するのは,まだまだ先なのかもしれない。トイレを覚えてきた子どもが,水洗トイレで流されるウンチに向かってバイバイするのはよく知られている。

まあ,ともかくそんな具合に,息子は境界という概念を学び,自らの内部と外部に境界線を引いていく時期がそのうちくるのだろう。

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