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バベルの謎

長谷川三千子 2007. 『バベルの謎――ヤハウェストの冒険』中央公論新社,437p.,1300円.

本書は1996年に出版された単行本の文庫版。単なる文庫版ではなく、現代仮名づかいに変更されたもの。もともとの単行本は旧仮名づかいだったらしい。以前から書いているように、私はオースターの『ガラスの街』をきっかけに、旧約聖書のなかの「バベルの塔」の物語について気にかけている。有名なところではボルヘスの「バベルの図書館」があるように、多くの思想家がこの問題に取り組んでいる。しかし、それは塔の物語としてではなく、言語の物語として。なぜ、世界中に多様な民族が存在し、それぞれ別の言語体系を有しているのか、そのことの神話的起源が「バベルの塔」の物語にあるのだ。この物語の有体の解釈を知らないと、実際に『創世記』を読んでみてもよくわからないというのが実情である。バベルというのは塔の名前であると同時に町の名前でもある。さらには、神ヤハウェが人間が有していた一つの言葉をバラバラに解体するという行為に用いられる「乱れ」というのもバベルらしい。そして、この物語はブリューゲルをはじめとする画家たちがそのイメージを残している。それによれば螺旋状の階段を周囲に有した天にも昇る塔が上方から破壊されて朽ちているというもの。しかし、実際の聖書の記述にはヤハウェが塔を破壊したということは具体的に書かれていない。あまりにも言葉数が少なく、聖書の記述だけでは語り継がれているような物語を復元することはできない。私はそもそも聖書というものをこれまでの人生で読んでこなかったし、最近読んだのも『創世記』のみ。だから、聖書というのはそういうもので、一般的にいわれているような物語は、その後の時代によって肉づけされたものだと理解していたのだ。
そこで、著者はまさにそういう素朴な疑問から出発し、神学や聖書学などを専門とするわけでもないのに、創世記の謎に切り込んでいこうというのが本書。またまた刺激的な読書体験でした。本書の主張がどれほどの正当性を持っているかは分からないが、ともかく面白いのは確か。そして、相手が聖書となれば、ある意味で何を論じてもありだと思う。さて、著者は創世記の最初の部分、ちょうど彼女が疑問を持った「バベルの塔」の物語で終わるまでの部分を「原初史」と呼び、それがどういう性格のものかを明らかにすることを目的とする。聖書学によれば、この部分はヤハウェストと呼ばれる人物によって書かれたと考えられるJ資料と、その後誰かが書き加えたと考えられるP資料の組み合わせからなるという。現在私たちが手にすることのできる『創世記』の冒頭、あまりにも有名な創世の七日間はP資料によるという。そして、「バベルの塔」はそのほとんどがJ資料、といった具合に、著者は聖書の原初史にあたる部分が誰によってどんな情報源から書かれたのかという、近代文学史的な関心から、その作者性とそれによって書かれた作品性とを問題にしようとするのだ。これはいかにも冒険的な試みではないか。確かに、昔読んでチンプンカンプンだったが、ノースラップ・フライも聖書をテクストとして読むという試みをしていたが、そこでいうテクストとはバルト的「作者の死」以降のものであり、著者の意図とはまったく違っている。本書は文学研究としても素朴な立場を貫いており,聖書といえど,作者がいて,その作者はいろんな文書や自分自身の経験を下にして文章を書き,しかもその文章には一貫したまとまりがあるはずだ,との前提に立つ。ルネサンス以前を対象とする正当な歴史家であれば,その前提はおかしいと思われようが,先ほども書いたように,聖書を対象とする限りは一つの正しいあり方だと思う。
実際に,彼女が根拠とした資料がどうかは分からないが,本書はタイトルどおり,ある種のノンフィクションミステリーのような,それでいていわゆる歴史小説のような取ってつけたようなドラマティックはなく,ある意味で真摯な姿勢に貫かれている。「バベル」とは実在するメソポタミアに実在する都市であるが,ヤハウェストはメソポタミアの事情にも詳しく「バベルの塔」はこの地方に実在した「ジグラト」という神殿をモデルにしているといい,一方で創世記の記述はこの地方の神話『エヌマ・エリシュ』を参考にしている。まあ,この辺の事実は彼女の発見ではなく,ある程度の常識のようだが,そんなことも含め,知るべき情報とその情報を利用した斬新な解釈とが読者を楽しませてくれる。

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