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2011年2月

『心中天使』見逃した

昨年に引き続き,日本地理学会の春季学術大会で発表する予定なので,なかなかblogに時間が割けず,1週間ぶり以上になってしまいました。また,週1回の映画をどれにしようか吟味すべきなのに,前売り券のある作品を優先してしまったために,2月5日から渋谷のユーロスペースで公開していた,尾野真千子主演の『心中天使』を見逃してしまった。まさか,3週間の上映とは。今回はかなり悔やみきれない。しかも,優先させて観た『白夜行』がイマイチだっただけになおさら。
まあ,下高井戸シネマでの上映を期待しましょう。こちらのチェックは欠かさずにしたい。さて,そんな感じでここ2週間で観た映画のことを簡単に。

2月20日(日)

府中TOHOシネマズ 『白夜行
前の週に妻が観た朝一の時間で同じ劇場で観る。私が堀北真希目当てで,妻は高良健吾目当て。でも,妻は原作からして東野圭吾好きだし,私も彼の原作の映画はそれなりに観ている。しかし,テレビなし生活の私たちは当然テレビドラマ版は観ていない。そんなこの映画版は,『洋菓子店コアンドル』も公開中の深川栄洋監督によるもの。この2つの作品は明と暗の対照のような作品だが,彼は『真木栗ノ穴』の監督だと観た後で知る。そういえば,これにも出演していた粟田 麗も出演している。
さて,本作ですが,若き2人の俳優が,父親を殺害された息子とその容疑者を母親に持つ娘という役どころの物語ですが,実のところは当然子ども時代の配役は違うし,映画はその事件を担当した刑事を演じる船越英一郎を中心に展開する。そんな15年の時間の流れをたどる(原作は分厚い文庫本だから,パラパラめくっただけでも映画には登場しない数多くの人物とエピソードがある)。堀北も高良も高校生時代から自身が演じ,そういう意味では見所がないわけではないのだが,どちらも暗い過去をもつ人物を演じているだけに,身振りも表情も非常に控えめで観る者としてはちょっと物足りなさを感じる。
もちろん,だからこそ船越英一郎が一番の見所なのだが,もう一つ残念だったのが時代設定だ。『ノルウェーの森』や近日公開の『マイ・バック・ページ』など,まだ多くの人々の記憶にある時代の再現が最近の日本映画におけるブームだといえる。ちょっと前は,『Always』などのような,多くの人々の記憶にはない時代の再現によって,想像上の懐かしさを演じるのが流行ったこともあったが,今度は1970年代や1980年代だ。そういえば,仲 里依紗の実写版『時をかける少女』もそうだな。いっそ,『バブルへGO!!』くらいのネタとしての時代再現というのはいいのだけど,本作のような描き方は私はあまり好ましく思えない。まあ,2時間強の映画では描ききれない原作の存在というのもあるのだけど,確かにストーリーは魅力的ではある。だからこそ,ちょっと残念な映画ではあった。もう少し,経験豊富な監督だったらどうだろう,とあまりしてはいけない想像をしたくなる(ちなみに,深川監督は1976年生まれなり)。

2月27日(日)

新宿テアトル 『冷たい熱帯魚
なんと,驚いたことに,本編上映前に予告編で次回作が宣伝された園 子温。もちろん,以前から問題作続きで有名ではあったが(といいつつ,私が彼のことを知ったのは『紀子の食卓』か『気球クラブ,その後』だった。あ,でも『奇妙のサーカス』も観ています),『愛のむきだし』で注目されるようになり,調子に乗っているのか,非常に精力的に仕事をしていますね。そんな彼が注目したのが吹越 満という脇役中心で俳優活動をしている人物。確かに,多くの作品でいい夫を演じ,いい父親を演じる彼の優しい笑顔の奥に狂気を感じるというのはよく理解できます。まさに,園監督はそんな吹越氏の俳優人生を具現したような作品です。
そしてその相手役がでんでん。私の世代の人間にとって,でんでんはイッセー尾形や九十九一などと同世代で「お笑いスター誕生」の常連出演者として馴染みのある,ある意味で笑いのツボにくるコメディアン。その後お笑いブームでビートたけしや明石屋さんまだのが出てくるが,私の笑いの原点は「お笑いスター誕生」。ギャグ・シンセサイザーはこの番組では滅茶苦茶強かったけど,その後ブラウン管のなかで見ることは少なかった。まあ,そんなでんでんももう老人に近い年齢。滑舌はかなり悪くなってはいるが,ほとんど言葉を発しない吹越氏と対照的に,次々と言葉を畳み掛けるでんでんの存在感は抜群。その脇で支える2人の女優たちも魅力的。『六月の蛇』以降,すっかりこんな役どころが板についている黒沢あすかとグラビア時代は知らないが,神楽坂恵はあまり抵抗なく裸体を疲労してくれる女優としては貴重な存在なのかもしれない。
まあ,ともかくそんな感じで園 子温ワールド全開で,前半はとても楽しめる内容でしたが,後半に入ってちょっとそのシチュエーションに慣れてくると,意外に拡がりを感じないストーリーだなって思えてきてしまう。どうせだったら,殺人の方法とその描写に力を入れるよりも,熱帯魚という存在に現代のグローバル化と環境問題を絡めていったほうがよかったようにも思う。
まあ,エンターテイメントとして楽しませてくれるのは確かです。

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今年初ライヴ

2月13日(日)

出産後,初めてのライヴは昼間のインストアライヴ。たまには私だけ一人夜に外出してもかまわないんだけど,やはり20時台にお風呂に入って21時台に寝るリズムになっているので,なかなか難しい。夜のライヴに行くと,早くても帰宅は22時。冷め切ったお風呂に入ることや,妻が息子を一人でお風呂に入れる大変さを考えると,やはり躊躇してしまう。そんなことで,気楽に行けるライヴとしてようやく相応しいのがやってきた。タワーレコード渋谷店での昼間のインストアライヴだ。

タワーレコード渋谷店 コーコーヤ
1月26日にハピネス・レコードから2枚目のアルバム『Frevo!』を発売したコーコーヤ。ヴァイオリンの江藤有希さんには妊娠のこととか,出産のこととかメールで報告するとすぐに返信をくれたので,息子を見せるのも楽しみ。ということで,家族三人で出かけました。息子にとっては初めての渋谷です。
5階のライヴ会場に到着すると,すでに江藤さんと黒川さんがセッティング中。いつもは床に直でステージにするんだけど,この日はかなり高い台を作り,そこがステージ。ハピネス・レコードの人がPAとビラ配りをやっている。中央にパイプ椅子が並べられている。妻はいきなりセッティング中の2人に挨拶。黒川さんには出産の報告メールはしていなかったので,「えー,本当?全然知らなかった。見せてー」と息子を見せる。「触っていい?」といって,ほっぺをツンツン。私たちが結婚して間もなく黒川さんも結婚したので,わが家が妊娠,出産と順調に人生の段階を進んでいるのにビックリした様子。でも,黒川さんはまだまだやることが多そうだからそう簡単に妊娠,出産とはいかないでしょう。最前列の椅子が空いていたので,息子を抱っこしていた私がそこに座る。すると間もなく,息子がぐずりだす。まあ,それもそのはず。店内は暑すぎますね。抱っこ紐から救出し,上着を脱がせる。ご機嫌になって開演を待ちます。
しかし,家でもそれほどの音量でCDは聴いていないので,初っ端からびっくり。そもそも,開演前の音出しでもクラリネットの音にビックリしていた息子。当然,1分も持たずに,大音量の迫力に泣き出します。すかさず,妻が近寄ってきて抱っこしてその場を立ち去ります。演奏は5曲かな?もちろん,新譜からの曲でしたが,最近ライヴにも行けていないので,ほとんど知らない曲ばかり。まあ,彼女たちも初めてのインストアライヴで張り切っていたし,お客さんもかなり集まっていましたが,個人的にはやはり生音に近いお店での演奏がいいかな。CD発売記念ライヴは4月に都立大学のパーシモンホールで行うそうです。

さて,その後PARCOで授乳。授乳室はなんと,かなり年齢層の低いパート3にあるのだというのでビックリ。しかし,そのおかげで空いています。妻もゆっくり授乳&おむつ替え。その後,妻の友人の結婚祝いの品などを物色している間にすっかり遅くなってしまいました。息子も騒がしい渋谷の街を連れまわされて,心身ともにかなり疲労した様子。その夜は大変でした。やはり彼に渋谷はまだ数年早かったようです。気をつけないと。

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死と歴史

フィリップ・アリエス著,伊藤 晃・成瀬駒男訳 1983. 『死と歴史――西欧中世から現代へ』みすず書房,285p.,2000円.

アリエスの本は『〈子供〉の誕生』に続いて2冊目。『日曜歴史家』という著書を持つ著者は,大学の勤める歴史学者ではないところが共感を覚えるが,もちろん共感を覚えるのも失礼なくらいで,日曜歴史家でありながら,歴史に名を残す歴史学者である。そんな彼の大著の一つ,『死を前にした人間』(1977年)は15年来,著者が取り組んできたテーマの集大成。同じテーマで1975年に発表されたのが本書。でも,前半の英語版は前年に刊行されていたようだ。そもそもが,その内容は米国のジョンズ・ホプキンス大学での連続講演であり,フランス語版の本書では,その講演に加え,このテーマに関するそれまでに発表された論文や書評原稿などを収録したもの。
テーマはいたって分かりやすい。アリエスは精確にはアナール学派に属していたとはいえないが,その後流行ることになる心性の歴史と位置づけられるようなもので,西欧世界における死に対する観念の歴史をたどったもの。しかし,もちろん『〈子供〉の誕生』もそうであったように,現代の私たちが自明視している意識がかつてはそうでなかったという史実を示すことによって,現代の私たちの意識を改善しようという意図を持っている。本書が書かれた1970年代からはもちろん,死に対する人間の意識は変わってきていてはいるが,本書の意義はまだ色褪せてはいないと思う。
先日,ネットで面白い記事を読んだ。最近の日本人は癌に対する不安の第一位は「死」ではなく,「治療にかかる費用」だという。癌=死という意識から,早期の発見と治療によって克服すべき病であるとの認識が広まる一方で,治療のために仕事ができなくなり,その上に高額の治療費がかかるということによる家計の逼迫が大きな不安だというのだ。ちなみに,私の父は20年前に癌で亡くなった。結局は本人には告知せずに亡くなってしまった。まさに,この風潮がアリエスが現代社会における死に対する意識として出発点としたものだ。死は恐れられ,なるべく覆い隠される。もちろん,医学は進歩し,医者は死期を知り,親族にはそれを伝えるのだが,一昔前はそれを本人に伝えるのは「酷すぎる」といって,見送られてきた。その点に関しては21世紀の今日では事情は異なり,本人に告知することで積極的に治療に立ち向かわせるということになっているが,瀕死者が病室のベッドで,管に繋がれながら,一日一日と延命されるという状態は変わっていない。
アリエスによれば,こういう状態というのはほんのここ数百年で現れたものだという。アリエスが挙げている事例の多くで,西欧の人々は自らの死期を誰よりも早く察知し,それを迎える準備をするのだという。つまり,多くの事象は近代以降に自然な状態から飼い慣らされるのだが(子どももその典型),死に関しては歴史を遡った方が,人間によって飼い慣らされていたというのだ。むしろ,現代の方が予測不能な自然として死は恐れられるようになったという。飼い慣らされていた時代の死は恐れられるものではなく,喜んで向かい入れるものだったという。ただし,本書は70ページ程度の講演録に,さまざまな形でこの説が発表される短文からなるので,この辺の歴史の推移が分かりにくい。やはりきちんとこのテーマを学ぶには『死を前にした人間』を読むべきだというのだろう。

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お食い初め

2月4日(金)

昭はめでたくこの日で100日を迎えた。金曜日は最近出勤日になっているが,翌日にお客さんを招くということもあって,予定通りお休みをする。すっかり妻が張り切ってしまって,事前に調布PARCO地下の魚屋で,尾頭付きの鯛を注文。小ぶりなものだが,一尾1000円する。もちろん赤飯も炊き,そのために初めてもち米を購入。そういえば,赤飯にはごま塩と決まっているが,そのことを忘れているくらい,久しく赤飯を食べていなかった。その他は,これも初めて作ったなます,菜の花のおひたし。そして根菜の煮物。おすましは市販の練り物を入れた。本当は海老から作りたかったようだが,いい海老が売ってなくて断念。鯛はオーブンで低めの温度でじっくりと。下処理は魚屋さんがやってくれていたので,焼くだけ。しかも,けっこううまく焼けました。小ぶりでも2人でお腹いっぱい。

Photo

そして,この美しい器を見よ。はじめ,妻はいただきもののベビー用食器を出していたのだが,その形を見て私はあるものを思い出す。そう,福井の漆器屋の友だちからお祝いにいただいた漆塗りプレートがあるではないですか。また,同じ人からその前にいただいていたお椀もセットにして盛り付ける。やはりお祝いごとはこうでなくちゃ。
しかし,一方で本人はおめかしもせず,普段着のまま。まあ,これが我が家流なり。

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昭君の近影はこんな感じ。少し前から,「ウーウー」と唸るようになってきていますが,ここ数日は「アー」とか「ウー」 とか,「ギャッ」とか,発する声にもヴァリエーションが出てきました。

2月12日(土)

新宿シネマート 『ワラライフ!!
木村祐一監督映画は『ニセ札』も観たが,初監督らしい出来だったし,本作にも監督として本作に期待していたわけではない。そもそも主演の村上 純の他,お笑い芸人を多数使用しているのも気に入らない(まあ,制作によしもとが関わっているので仕方がないが)。でも,香椎由宇が準主役級で出演しているのは貴重だし,主人公の両親が吉川晃司と鈴木杏樹ってのはなかなか面白そうだ。大きな出来事もなく,日常の小さなエピソードに幸せを感じるというテーマは「ポストモダン時代の日常の審美化」と呼ぶべき最近はありふれたものではあるが,その映画的描き方も観ておきたいという理由。
しかし,正直なところ,このテーマはまだ新米監督には難しいと思う。本作は村上 純演じる男の半生を描いているが本人は高校生からを演じるが,なんとそのお姉さんを演じるのが田畑智子。しかも彼女は高校生役のみ。彼女の体育着姿にちょっとドキッとしますが,ちょっと無理がありますよね。そして,小学6年生の主人公をもちろん別の男の子が演じるのだが,村上 純には似ても似つかない。一昔前の小学生なので当然半ズボンなのだが,村上 純がどちらかというと香椎由宇と並んでもとても大柄だといえないのに,この小学生役の男の子は半ズボンから筋肉質の両足がむき出しになっている。性格的にもこの小学生がこの青年にはならないよな,という感じ。一方で,やはり私が期待したとおり,靴職人で一風変わった父親を演じる吉川晃司と,その隣でいつも微笑んでいる鈴木杏樹は素敵だし,そんな主人公を愛し,思ったことをはっきりといえる恋人を演じる香椎由宇もやっぱりいいですね。こんな男にこんないい両親とこんなにいい恋人はもったない,といったところでしょうか。でも,もしかして観る者にそう思わせようとしている映画だとしたらよくできているのかもしれない。そして,最後のシーンはまったくもって蛇足。あそこは鑑賞者が想像するべきものです。

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アリストテレス全集5

アリストテレス著,泉 治典・村治能就訳 1969. 『アリストテレス全集5 気象論 宇宙論』岩波書店,331p.,4000円.

アリストテレス全集は,3巻,4巻に続いて3冊目。気象論といっても,現代の気象学がカヴァーする範囲とはかなり異なる。まずは宇宙の話から始まる。というのも,その前段における四元素論があり,第五の要素としてのアイテールの話になり,そして全宇宙におけるアイテールの位置の説明から,流星や彗星,銀河の説明へと移るのだ。それがひと段落すると大気圏内の話になり(もちろん,アリストテレスの時代に大気圏などという概念はないが),雲や雨,霧や霜,など気象学的な話題が続く。そして第二部では地上における水や空気(どちらも四元素)の大きな流れを説明するなかで,海の役割や海水の塩辛い理由の説明,風の原因や地震や雷の原理などが説明される。
ここまでが第3巻だが,最後の第4巻になると,四元素についての詳しい説明が展開される。解説でも,この第4巻の位置づけは一貫性がないものとして諸説が説明される。ともかく,アリストテレスの自然学はこの四元素が基礎となり,しかもその原理である熱と冷,乾と湿とが物事を理解する根源にあることが理解できる。それほど徹底的にこの原理で全てを説明しようとしているから面白い。
さて,続く「宇宙論」だが,これは比較的短い。そして,なんと現代は「宇宙論」をアリストテレスの真作としては見做さないのが通説らしい。なので,「宇宙論」は本文を読むよりも解説文を読んだほうが面白いのだが,確かにそういわれると,これまで『自然学』,『生成消滅論』とアリストテレスの自然哲学を読んできた私にとっても,その矛盾というか首尾一貫しないところとかが本文には散見されるし,「気象論」からの繰り返しも少なくない。しかし,これまで私が読んだアリストテレスにはあまりなかった,神に関する記述はなかなか面白い。解説文によれば,この神の捉え方はやはりアリストテレス的というよりはプラトン的らしい。まあ,ともかくアリストテレス全集はその解説文が大きなもう一つの魅力で,分量的にも読み応えがあるのだが,今回の解説文からは,歴代の哲学史家たちが,この作品をどう捉えてきたのかが垣間見れて面白い。

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親になった実感

わが家の息子は生後100日を迎えた。ということは,私たち夫婦も親になって100日ということになるが,未だに確たる実感がないというのが正直なところだろうか。といっても,息子がいる生活に慣れないというとそういうわけでもない。何かと手がかかる息子を中心に私たちの日常生活が一変したことは確かだ。逆にいうと,私はあまりにもすんなりとそういう生活に順応しているのかもしれない。もちろん,ここでも再三書いているように,子育てに何も問題がないわけではない。いろいろ大変なこともあるが,それもひっくるめて受け入れている自分がいる。
振り返れば,私は順応しやすい人間なのかもしれない。大学院時代は自分の机を与えられ,共用のパソコンも自分専用の本棚もあって,自分のペースで仕事をして,大学院を追い出されたらどうやって生きていけるのだろうか,と本気で悩んでいた。一番理想的な解決は大学に就職することだったが,それもかなわず,とりあえず自宅に本棚を買い足し,大学に置いていた本を全て自宅に引き取って,自分のパソコンを買い,それまでやっていた週3日のアルバイトを週5日に変えてもらった。そこから擬似サラリーマン時代がしばしあったのだが,それもそれなりにすぐ慣れる。毎日ネクタイをして出勤し,あの頃は富山だの沖縄だの,高知だの,仙台だのとよく出張をしていた。
しばらくすると,立て続けに2つの大学非常勤の話をいただき,今考えると恐ろしく忙しい時期があったようだ。多い時には週4コマくらいの講義があり,しかし平日の講義は夜か夕方にしてもらって,会社には週1回早退するだけで5日勤務は変わらずにいた。今よりも受講者は多く,毎日講義の準備をしたり,レポートがあれば採点に追われたり。私がまだライヴ通いをする前の話です。
数年非常勤をやっていると,講義内容は前年の使い回しをすることで随分楽になる。また,いつの間にか平日の講義の日には会社を休ませてもらうようになって,空いた時間でなぜかライヴ通いをするようになった。それも多い年は年間300回を越えていたから(それに加え,映画も150本くらい観ていた),その頃は恋人がいなかったということもあるが,それなりに忙しい日々だった。

あ,なんか忙しい自慢になってきましたが,要はここ15年くらいの間に生活は次々と変化しているのだが,うまく対応しているというか,まあそれが生きているということなんですな。しかし,そんな私でも自分が結婚するとか子どもを持つということは想像しえなかったことである。この歳になれば,結婚式に呼ばれることもほとんどなくなって,子どもの写真をこれ見よがしに送ってくる年賀状などを冷ややかに見ていたものだが,徐々にそういうものを素直に受け入れる年齢になるもんなんですね。ライヴ通いや研究者仲間,インターネットのつながりによって下の世代の人と知り合ったりすると,やはり結婚や出産というのが間近にあるものですが,数年前からはそういうことを素直に祝福できるようになってきていた。
そんなこともあってか,現在の妻と付き合い始めた頃には,私は結婚というものを現実的なものとして考えられないと相手にいっていたが,最終的には籍を入れてしまった。それは別に子どもが生まれた時に備えてというわけではなく,結婚というものに抵抗していた自分の考え方が自分自身にとって正当なものではなくなってきていた,ということだろうか。妻が子どもを欲しいということも聞いていたが,なぜか私には変な確信があって,自分の精子では子どもはできないのではないかと勝手に思い込んでいたのだ。恋人との付き合いの仲で,望まざる妊娠をしてしまった人というのがどれだけの割合でいるのかは知らないが,少なくとも私にはそういうものがなかった。
だから,妻が子どもが欲しいと継続的にいうにしたがって,じゃぁ本当にできるかどうか試してみようという気にもなった。そんなこんなで,避妊にそれほど真面目にならなくなった途端に妊娠が分かり,「あら,私の精子,ちゃんと役割果たすんだ」という変な驚きだった。実は,妻の方も事前に簡単に妊娠できない体質というのを聞いていて,きちんと子作りをするのであればそれなりの準備をして,といっていた。なので,子どもを作るかどうかというのは2人できちんと話し合った上でと思っていたのだが,意外にもその時はやってきたのです。そして,なんのためらいもなく,私はそれを受け入れる準備ができたようです。
まあ,そこからはそれなりに予定通りに予定日2日前に出産し,産まれたら産まれたで,標準どおりの月齢で成長している息子。もちろん,うまくいかないこともあるけど,それは仕事でも研究でも講義でも一緒。うまくいかないなりに毎日乗り切っているわけです。産まれた子どもは当然産まれた日から毎日一緒にいていなくなったりしないけど,イマイチ父親になったという実感がない。そもそも,父親になるってことはなんなのか。自分の精子が受精し,成長し産まれ出ることなのか。産まれ出た子どもを育てることなのか。その辺がイマイチ実感としてよく分かっていないというところ。

2月6日(日)

銀座シネパトス 『ブローン・アパート
そんな私がこの日選んだ作品は,「若い母親」とだけ称される主人公が自爆テロによって,夫と4歳になる息子をなくすという物語。『ブリジット・ジョーンズの日記』の監督シャロン・マグアイアの最新作。テロをテーマにした物語ということで,オサマ・ビン・ラディンに宛てた手紙という体裁をとって話題になった小説が原作らしい。その若き母親にミシェル・ウィリアムズが扮し,彼女と関わりを持つ新聞記者役にユアン・マクレガーが扮する。ちょうど,ミシェルは妻と同い年で,ユアンは私と同じ学年。前にも書いたかもしれないが,ユアン・マクレガーはその存在感がかなり好きな俳優。ミシェル・ウィリアムズは『ブロークバック・マウンテン』~すっかり大人の女を演じているけど,私の記憶のなかでは『ランド・オブ・プレンティ』でのボーイッシュな少女としての彼女だ。
ちなみに,原題は「Incendiary」といって,火をつけるものという原意から扇動者などの意味もあるらしい。本作はもちろん,前半の息子との楽しい思い出と,息子を失ってからの悲しみの日々,そして単なるゴシップ記者が彼女のためにテロの真相を探っていくという展開。それほど斬新な展開が待っているわけでもないが,そして上映時間が100分という手ごろなこともあって,ほどよくまとまっている。そして,ユアン・マクレガーの控えめな演技と,ミシェル・ウィリアムズの頑張り過ぎない演技が英国らしい良質な作品に仕上げられています。

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Geography & vision

Denis Cosgrove 2008. Geography & vision: seeing, imagining and
representing the world. I. B. Tauris: London, 256p.

コスグローヴは英国の文化地理学者だが、本書が出版された年に60歳で亡くなった。最期は米国のUCLAにいたらしい。しかし、本書は生前に編集は終えていたようで、彼の最後の著書となる。彼の教え子のヴェロニカ・デラ・ドラという女性地理学者が本書の編集にもかかわっていたようだが、2人の共著書『High places: cultural geographies of mountains, ice and science』という本も出版していたりする。ちなみに、コスグローヴがもっぱら歴史研究による景観表象を扱っていたのに対し、デラ・ドラは私も読んだ最近の論文で、景観の物質性を強調している。近年の文化地理学では、一昔の表象や言説への過度の強調の反省として、やたらと物質性を訴えがちだが、デラ・ドラは表象にだって物質性はあると、私がしたい主張を代弁していて嬉しかった。
さて、本書は本人が書いているように、基本的に晩年の講義録的な意味合いが強く、新しい学的探求は希薄だといってよい。しかし、それはそれでありがたい。1994年の論文を拡張させた2003年の著書『Appollo's eye』を当時読み始めたのだが、あまりのディープさに冒頭だけでやめてしまった。本書はその本のテーマであるコスモロジーから、若かりし頃の研究対象であったジョン・ラスキン、そしてその後のパラーディオの話など、まさにミクロ・スケールからマクロ・スケールまで、コスグローヴの研究歴を通じて知ることができる。

序文:景観、地図、視野
I 地理学的・宇宙論的視野
1 地理学と視野
2 地球圏外の地理学
II 景観視野:ヨーロッパ
3 ルネサンス世界を造園する
4 楽園の地図化
III 景観視野:アメリカ
5 アメリカの測量
6 野性、住むべき地球、国民
IV ジョン・ラスキン:視野、景観、地図
7 形態学的視点
8 ラスキンのヨーロッパ的視野
V 地図学的視野
9 移動する地図
10 地図-都市
VI メタ地理学的視野
11 太平洋を見る
12 赤道を見る

目次で分かるように、本書で主に扱われているのは景観と地図である。序文では、景観と地図という視覚的表現がいかに地理学のなかで重要で(あった)かを論じている。しかし、現代は素朴に地図や景観を地理学の表現手段として用いることは難しく,内省的な批判が付きまとう。著者であるコスグローヴは1988年の編著である『風景の図像学』の翻訳に私は参加したが,その本などによって,地理学における批判的な図像研究を牽引してきた人物である。そんな彼が最期に残した本書をじっくり読んでいきたいと思う。
本当は雑誌に書評原稿でも書こうと,1章ずつ丁寧に内容を記録するつもりだったが,かなわなかった。いくつか面白かったことと全体的な印象を書き残すことにしよう。コスグローヴの研究はジョン・ラスキン研究に始まる。そして,ルネッサンス期のイタリア研究,特にヴェネツィアについて。そして,1990年代からグローバルな文化地理学を目指し,歴史的なコスモス(宇宙)の表象というテーマに向かった。私がアメリカ地理学会誌に発表されて間もなく読んだのが,米国の宇宙船アポロが撮影した地球の写真に関する論考だった。そして,その後私もきちんと彼の研究動向を追っていなかったのだが,その後は『Mappings』という論集も発表するなど,その関心を地図に向けていたらしい。
そんな感じで,著者は死期が迫っていたのを知っていたのか,若かりし頃の研究テーマから最近のものまで,研究者的伝記のような著作になっている。かといって,それは自らの研究暦の順番に章構成を決めているわけではないし,かつての研究結果がそのまま記録されているのではなく,かつてのテーマの新たな展開をきちんと残している。そして,上にも書いたが,各章はそれぞれ講演のような形で完結しているので(各章の最後に「Conclusion」がついている)読みやすくもある。
第Ⅰ部のテーマはコスモロジーである。現代的に考えれば,グローバル化を越えた大きなテーマであるが,時代を遡るとそれは宇宙観の問題となる。歴史と現在,観念上の宇宙と現実の世界とを結びつけて考えようとするのがコスグローヴの魅力かもしれない。コスグローヴの最終的な肩書きはUCLAのアレクサンダー・フォン・フンボルト地理学教授ってことになっているが,本書では近代地理学創始者の一人であるフンボルトがよく登場する。フンボルトの晩年の著作といえば,そのタイトルは『コスモス』だから,第Ⅰ部にはフンボルト『コスモス』の考察も含まれている。19世紀初頭まで活躍したフンボルトはまだ,秩序だった宇宙としてのコスモスを信じていたが,近代という時代が進むにしたがって,宇宙観なるものが消滅していくという。
第Ⅱ部のテーマは彼お得意のルネッサンスのヨーロッパだが,本書ではそれを「Gardening」という言葉で捉えようとする。といっても,それは単なる造園とか庭園のデザインという特定の狭い分野に限定していない。この時代のヨーロッパにおける宇宙観ともいえる世界観の一つをガーデニングとして捉えようとする。もちろん,当時の絵画も登場するし,本書で何度か登場するのが,1570年にアントウェルペンで世界で初めての地図帳を作ったオルテリウスである。そして,図像表現だけでなく,古代の詩人ウェルギリウスも登場するし,4章ではアルカディアの話題になる。しかも,それを米国の自然公園から始めているというのも面白い。
そして,第Ⅲ部はアメリカの話になる。そういえば,1986年の著作『社会構成体と象徴的景観』でも「景観としてのアメリカ」と題した章がある。5章はヨーロッパからの移住者は広大なる台地であるアメリカをいかに幾何学的な原理で手を加えていったのかという歴史を,そして6章の「野性」をテーマにした議論は個人的にとても面白かった。特に後半には「野性としての子ども」といった議論もあって,一つまとめたいと思っている論文に大きなヒントを与えてくれた。
第Ⅳ部はジョン・ラスキンの話だが,実はコスグローヴのラスキンに関する1979年の論文を読んでもイマイチピンとこなかった。ラスキンは『近代画家論』の風景編である『風景の思想とモラル』も日本語で読んだし,『建築の七燈』も読んだのだが,どうにもなぜコスグローヴがそんなにもラスキンに夢中になるのかは理解できないでいる。しかし,今回のラスキン論では,彼がオックスフォード大学にいた同じ時代のオックスフォード大学の地理学の状況と関連付けていて,地理学者としては面白い。ちょうど,マッキンダーという有名な地理学者がいた時代で,その教育のあり方や,地理学独自の「巡検」の話など。細かくは読み取れなかったが,そうしたものはラスキンの地理学的想像力と関係してくるのだとか。
第Ⅴ部は地図の話だが,日本の地理教育でも使われているメルカトル図法の地図の意味とか,国によってどこを中心に置くとかといってありがちが話もあるし,オルテリウスの話もあり,また初等・中等教育の地理教育ではお馴染みの気候区分を提示したケッペンの話もある。10章では,単なる地図から,やはりオルテリウスの時代に流行った都市景観図という鳥瞰図(日本語にもなっているブラウンとホーヘンベルフの『世界都市図帳』も登場する),さらには現代のニューヨークの摩天楼を3Dで描いたものまで。そのタイトル「地図-都市」とは,私たちの想像力が,都市というものを地図的なもので描写されるべきものとして捉えているということが論じられる。これは,ルイ・マランが『ユートピア的なもの』で論じていたことととても近い(けど引用はされていない)。
最後の第Ⅵ部は今後のコスグローヴの研究の方向性をうかがわせるものでなかなか興味深い。私がかつて関心を持っていた「地政学」的な議論が展開されるのだ。といっても,1990年代半ばに流行った批判地政学に対する言及はないのだが,11章では太平洋戦争における「太平洋」の表象について論じられる。もちろん,古くはマッキンダーのハートランド理論の世界地図から,太平洋戦争時の米国による日本に向けた戦術において地図のもたらす意義を捉えている。著者が存命だったら,最期に文化の問題からより政治の問題へと考察を深めたのかもしれない。
そして,最終章は続いて「赤道」が取り上げられる。フンボルトが南米はアンデス山脈のチンボラソ山での調査についての考察あり,17世紀の赤道探検旅行の話あり,そしてそれらはフィクショナルな理想郷としてのトマス・モア『ユートピア』などとも関連付けられ,それは第Ⅴ部のテーマとも接続する。
まあ,今回も辞書なしで読んだので精確なところや,その議論の深みまでは理解できていないのだが,ともかく1冊読み続けるのが苦ではない,読み物としてすぐれた作品だったと思う。しかも,本書が興味深いだけでなく,参照されている文献の一つ一つが非常に魅力的に思われるものばかりで,本書は文末脚注という形での文献参照だったのだが,注があるたびにわくわくして巻末のページをめくるという,洋書にしては珍しい読書体験だった。最近はできもしないのに,1冊くらい翻訳出版をしなくてはと思ったりして,自分にできて,その価値のある洋書を探しているが,本書は読む前に直感的に思ったように,翻訳するにはいいかもしれない。でも,やっぱりコスグローヴにしては一般向けだといえる本書ではあるが,私の知識があまりに足りていないことを痛感する。とりあえず,本書で登場したルクレーティウスの『物の本質について』(岩波文庫)を購入したので,読んでみることにしよう。

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ストリートの思想

毛利嘉孝 2009. 『ストリートの思想――転換期としての1990年代』日本放送協会出版会,270p.,1070円.

毛利氏の著作は初めて読む。いくつか、単発の論文は読んだことあると思うが、上野俊哉氏との共著の新書も含め、今まで読んだことはなかった。実際に本人を見たことはあるかないか、記憶は定かでないが、いつしかのカルチュラル・タイフーンで見たことがあるような気もする。
毛利氏はカルチュラル・スタディーズを日本で牽引してきた一人ではあるが、なんとなく吉見俊哉氏や上野俊哉氏と違って読まず嫌いであった。吉見氏はかつて演劇青年であったにせよ、あくまでも現在は大学人としての理論派である。実のところは理論派といっても、難しい議論は得意ではなく、歴史的事実で根拠づける実証派と呼ぶべきか。現代の問題を扱うのは若干苦手だと勝手に解釈している。難解な議論はあまりしないが、かといって彼の文章は非常に真面目で本当の意味での大衆には難しいと思う。一方、上野氏は外見からしても実践派であり、しかしお硬い文章も書ける。お硬いのに題材は現代的で極めてポピュラー。この人もあまり難解な文章は書かないが、大衆に向けた文章も書ける人だと思う。どちらも、私にとってはある意味で憧れる存在である。
その一方で、彼らよりも若干若く、どちらかというと上野氏にシンパシーを持っているようだが、毛利氏は人間としてではなく、同業者としてとっつきにくい印象を持っていた。しかし、今回私が下北沢のことを研究しようと思うようになって、彼の本書の中にSAVE the下北沢という、下北沢の再開発計画に反対する団体に関する記述があることを知って、急遽読むことにした。NHKブックスの一冊だし、軽く書かれたものだろうとたかをくくっていたが、意外としっかりと書かれていて読み応えがある。それと同時に、彼の立ち位置が良く分かるものであった。まず彼は、大学を卒業して西武系の広告会社に入社したらしい。しかも、世間は西武バブルで盛り上がってはいるものの、会社自体はその過渡期で業務は縮小傾向。そんななか、彼は退職し、ロンドンに留学する。学部は経済学部だったらしいが、広告業界にいたこともあって、文化やメディアを研究できる大学院に進んだことで、それがカルチュラル・スタディーズとの出会いになったという。日本ではまだその動向をきちんと紹介していなかった1990年代初めのころのこと。また、彼は若い頃から内外の音楽に精通していたらしい。
そのこともあって、カルチュラル・スタディーズが扱いがちなカウンター・カルチャーやアンダーグラウンド・カルチャーにも強かったとのこと。かといって、正統派政治運動に参加するような若者ではなく、研究者になってからもかなりどっちつかずの立場を有していたようだ。まあ、そのことが私にはとらえどころがなく映っていたのかもしれない。まあ、ともかく本書ではそんな微妙な立場を正当化するというのが主たる目的になっていると思う。一方で、読者としての私はもちろん政治運動には参加しない傍観者だし、極めてポピュラーな文化に関する知識しかない。テレビも新聞も持たないので、同時代的な社会の動向にも疎い。大学人でもなければ理論派でもないし、自分の研究実践においてもアクチュアリティを有しない、ある意味では非常にオーソドックスな文化研究者だといえる。そんな私にとっては、本書は非常に魅力的なものであると同時に、私のような研究者の立場を全否定されているような気分にもさせられる。
本書は文化的実践によるある意味での政治活動家たちを「ストリートの思想家」と呼び、賞賛する。具体的な個人を取り上げながらも、彼らの活動の意義を評価する際には、大きな視点に立つ。これも私にとっては読まず嫌いのネグリとハート『〈帝国〉』を根拠にし、日本で起こっている様々な問題を全てこの大きな理論によって解釈しようとする立場は非常にすっきりと分かりやすくありながらも、本当にそれでよいのかという疑問を拭いきれない。1995年というターニングポイントがあるのは分かるが、社会は、あるいは世界は時代によって決定されるのだろうか。そして、この時代の文化研究者は彼のようにあらねばならない、ある意味ではそんな押しつけがましさもなくはない。彼が取り上げる「ストリートの思想家」はネグリとハートによる「マルチチュード」にあたるようだが、その言葉の意味するところは多様性である。しかし、一方で彼が理想とする研究者の姿(しかし決して彼は彼自身をストリートの思想家の仲間であると自認しているかどうかは不明)はあまり多様ではないように思われる。はたして研究者は何をするべきなのか。彼のようにこの時代を変革へと導いていく「ストリートの思想家」を支援し、それを理論的に正当化していくことなのか。
まあ、ともかくいろいろ考えさせられる一冊ではある。

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講義のネタになる映画

最近,息子の話題が出ていませんが,妻の母乳も快調で,一時期頼りにしていた粉ミルクも最近は妻が一人で3時間以上外出するときのみ使用で,消費期限が気になる減りぶり。体重も妻が5kgを越えるのを今か今かと待ちわびていたと思ったらあっという間に6kgを越えました。お風呂に入れるのに,風呂場の隣にあるトイレの便座のうえにバスタオルなど何枚か敷いて服を脱がせているのだが,そちらもそろそろ狭くなってきた。
赤ちゃんは当分医療費がかからないので,最近は鼻づまりで耳鼻科に行ったり,ちょっとした肌荒れで皮膚科に行ったり。まぁ,多分気をつけていれば大丈夫な程度だが,無料なら活用しない理由もない。そんな感じで順調にみえたここ数日。どうやら本格的な「夜泣き」というのが始まったようだ。まあ,夜泣くということは以前からあったのだが,今回のは前とは違うような気がする。明らかに彼自身が「夜」ということを意識した泣き方だ。

29日の土曜日は,東京経済大学に成績を提出に行く。その帰り,府中で妻と待ち合わせ,私が息子を引き取って帰宅し,妻は一人で映画。『僕と妻の1778の物語』は彼女にとってかなりイマイチだったらしい。

1月30日(日)

そんなことで,日曜日は私が映画。映画のだめだけに夕方に有楽町まで出かけると,なんと雪が降っていました。

ヒューマントラストシネマ有楽町 『君を想って海をゆく
私が選択したのは,移民問題を扱ったフランス映画。以前も『イン・ディス・ワールド』という,ドキュメンタリータッチの映画があった。アラブのある国から少年がイギリスまで国境をいくつも越えていくという話だ。それに比べて,本作はストーリー性のあるフィクションではあるが,現実にあるであろう問題をいくつも含んでいる。主人公はフランスの都市カレに住む水泳コーチ。意に沿わぬ離婚に直面している。そこに登場するのが,イラクから国境をいくつも越え,やってきた17歳の少年。友人家族が移住の許可を得て,合法的にロンドンに暮らしているが,その妹が彼の恋人なのだ。少年には移住の許可は下りないため,彼は陸づたいにフランスまでやってくる。カレという都市は,フランス北西にあり,ドーヴァー海峡を挟んでブリテン島に面した都市である。ここからのフェリーを利用して不法入国者が後を立たない。かれらは物資輸送用のトレーラー車の荷台に入り込み,フェリーに乗って国境を越える。しかし,港の警備も厳重だ。トレーラーの荷台にセンサーを挿入し,二酸化炭素濃度を測定し,なかに不法入国者が潜んでいないか検査を行う。かれらはこの検査の際,ビニール袋を顔に被り,二酸化炭素が漏れないように工夫するのだ。しかし,少年はトルコ国境を越える際に捕まり,顔に袋を被されたまま数日放置された経験から,袋を被ることはできず,一度失敗しやはり捕まってしまう。
そこは,文明国フランスであるから,未成年で初犯ということで釈放される。そこで彼が思いついたのが,水泳でドーヴァー海峡を渡るというものだ。主人公の勤めるプールで泳ぎの練習をするが,そのうち,主人公にコーチをしてもらうことになる。
きちんとストーリーを紹介したくなる作品ですが,ここまで書いてきてけっこう疲れる。それなりに込み入った設定です。でも,このクルド人の少年は恋人に会えるのか,そして主人公の離婚調停の結末は,などと観る者の関心をきちんと引き寄せるところはよくできているフィクションです。しかし一方で,私はこの映画を講義の素材として観ている側面もあります。グローバル化を論じるにあたって,なかなかそれに適した素材を自身の経験で語ることは難しい。かといって,ニュース報道の次元というのも分かりにくい。映画はフィクションとはいえ,格好の素材なのです。そして,本作でも不法入国者が多数滞在するこのカレの港で炊き出しをするボランティアの姿が描かれたり,主人公がクルド人の少年たちを泊めたことに対して,隣人が通報し,主人公は捕まってしまう。不法入国出国の多いこの都市では,地域の住民がそうした人々を支援していないか,厳しく見張っているのだ。
まあ,そんな感じでいろいろな面白さの詰まった作品でした。

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