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映画 あるいは想像上の人間

エドガール・モラン著,渡辺 淳訳 1983. 『映画 あるいは想像上の人間――人類学的試論』法政大学出版局,285p.

モランの著作の多くは法政大学出版局から邦訳が出ているが,実は読むのは初めてのようだ。原著は1956年に出たもので,本書に登場する映画作品のほとんどは,名前こそ知っているものはあるが,ほとんど全てが観たことない。だから映画論として本書に期待して購入したわけではなく,たまたま古書店で安かったし,モランの本は読んでみたいと思っていたからだ。しかも,購入してかから長い間は私の法政大学出版局コレクションのなかに納まったままであった。
時代が時代だし,フランスの思想家だし,思いもよらぬ素朴で奇抜な映画論を期待してページを開いた。しかし,いい意味かどうかは分からないが,その期待は裏切られた。本書の冒頭は写真論である。しかも,かなり古臭いもの。まぁ,それはそれで逆に新鮮ではあったが。そして,モランの論の進め方は奇抜どころか,映画に関する言説分析といってもいいほど,多くの文献資料への参照から成り立っている。逆の意味で,当たり前といえばそうなのだが,映画というものは誕生してから,数多くの人が映画についての数多くの言葉を残しているということを本書で確認できる。しかし,本書は決して読みにくいものではない。登場するのが私が知らない作品ばかりだからといっても,本書は作品論が中心ではなく,写真からシネマトグラフを通じて映画へと議論を進めているように,ある点では技術史的な観点から,そして表現形態の変容という観点から。映画の時代においても,サイレントからトーキーへ,モノクロからカラーへと,ある意味分かりやすい変容過程のなかで,映画なるものの本質を捉えようとするものだ。
しかし一方で,本書のタイトルには「想像上の人間」という言葉が「映画」と対置され,副題には「人類学的試論」とあるように,本書はあくまでも映画を通じた人間の考察であり,社会の考察であるという。その辺りが1978年につけられた新版への序文によく書かれている。モランは本書の後,『スター』という本も書くが,このとき映画の研究に取り組んだのはほんの偶然であったという。先に,映画を通して人間を考察すると書いたが,モランは同時に人間あるいは社会を通じて映画を理解する,ともいっている。この辺の感覚がなかなかいいですな。

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