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ネオリベラリズムの精神分析

樫村愛子 2007. 『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるのか』光文社,328p.,890円.

最近読んだ2つの文章で高く評価されていた本。新宿の紀伊国屋書店(高島屋の隣)で探しても見つからないので,店内の検索機で探すとなんと光文社新書の一冊。これだったら近所の本屋でも見つかったかも。この手のタイトルはきちんと手にとって内容を確認しないと買わないが,新書くらいならと新刊で購入。他に読んでいた本もあったが,とりあえず読み始める。
最近,地理学者のハーヴェイもネオリベラリズムに関する本を書いているが,正直なところ私にはそれがなんだかよく分からない。まあ,大枠は分かるのだが細かいところが。先に読んだ毛利嘉孝『ストリートの思想』がなにやらこの時代をなんでも「ネオリベラリズム」という大きな力で説明してしまうのが気に入らなかったのだ。本書は,それをもう少し丁寧に解きほぐしてくれるのではないかと期待した。
確かに目次を見るだけでも,ボードリヤール,ヴィリリオ,ドゥルーズ,ブルデューといったフランス系を中心に,ネグリとハートの〈帝国〉論,ギデンズ,リッツァの「マクドナルド化」,バウマン,などなど日本語になっている現代思想系の名前が出てくる一方で,どうやら著者はフランス思想に精通しているらしく,日本語になっていないフランス人研究者の名前もよく出てくる。本書の特徴は,著者が精神分析理論に通じていて,こうした現代社会批評的な議論を精神分析の観点から読み解くというところにあるようだ。
しかし,やはり購入する前にもう少し目次を吟味するべきだった。後半に入ると,いかにも現代社会を問題的に捉えたがるワードが次々と出てきます。自己啓発セミナー,スピリチュアリズム,オタク,ひきこもり,若者のコミュニケーションなど。結論からいうと,私の苦手なタイプの本。辛うじて,読み終える前に我慢がならないほどではなく,一応は読み終えました。
前半はけっこうよかったんです。私が読まず嫌いな最近の論考を手際よく紹介し、単なる紹介というより関連付けながら議論を進めるという感じ。しかし、それがだんだん気に障るようになる。だれだれがこういう概念を使って説明していることは、他のだれだれが違う概念を使って説明していることと一致する。みたいなことが次々と出てきて、じゃあみんな同じこと言っているんかよ!と突っ込みたくなってくる。また、一応著者は精神分析を基軸にしている社会学者ということで、中ほどにはフロイトからラカン、そしてじじぇくに至る議論のエッセンスを分かりやすく説明している箇所もあり、少し面白い。しかし、そこを過ぎると今度はオタクだの、ニューエイジ宗教だのが登場し、それらをこれまでの枠組みで解釈していく。しまいには「若者のコミュニケーション」という言葉で議論が展開したりする。「若者」っていったい誰なんだ。若者は全て携帯メールによる画一的なコミュニケーションしか行わないのか。という素朴な疑問でイライラしてくる。結局、重厚な社会理論たちで武装しても、そうしたメディアが報じるような社会の表層のみを勝手に解釈して、それを批判すれば社会が良くなるみたいな幻想を読者は抱くのだろうか。本書のなかには、最近の新書の類の売れ行きについてもネオリベラリズムの帰結としての知の形骸化みたいな論があるが、自分自身の本はどうなんだよ、と突っ込みたくなる。で、結局本書では「ネオリベラリズム」なるものが、最近のさまざまな社会問題を生み出す大きな力としてとらえられているだけで、なぜ、ネオリベラリズムからそうしたさまざまな現象が生じるのかについては、自明とされている。そもそも、じゃあかつてのリベラリズムに対して何が「ネオ」なのか、私の素朴な問いには何一つ回答をくれない。
まあ、書きたい不満はまだたくさんあるが、ともかく久し振りに怒りの読書でした。

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