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2011年4月

生活のリズム

離乳食が始まって2週間。息子の生活リズムが少し変わってきた。以前から,朝起きて少し経つとウンチをするというのが恒例ではあったが,最近はウンチは朝の一回ということが多くなった。その分,一度に出る量が多くて,おむつカバーまで漏れていることがほとんどだが,布おむつの処理が随分楽になった。結局,いまだにおむつなし育児はできていないが,この朝のウンチ一回をおまるでキャッチできるようになればかなり楽になる。でも,それはそう簡単ではないけどね。
そして,夜の睡眠。以前は一晩に3回起きるのが普通だった。起きるたびにおっぱいを飲ませないと再び寝てくれないが,最近何日か,ほとんどおっぱいがなくても,泣き始めそうな時にうまくあやせば,そのまま寝てくれるようになったり。妻も思いのほかおっぱいが張ることなく,長時間眠れるようだ。だんだん親の生活リズムに合わせられるようになってきている様子。といっても,わたしたちの生活リズムも息子に合わせて変更しているわけだが。

4月22日(金)

さて,連休明けには大学も始まってしまうので,金曜日の休みはあと数回。この日はお昼から美容院で散髪し,その後新宿に移動して映画を観る。受付をした後,PRONTOで昼食を取るが,禁煙スペースと喫煙スペースが入れ替わり,禁煙スペースが広くなって嬉しい。

テアトル新宿 『婚前特急
劇場公開作品初監督だという前田弘二という人物による作品。これまでの短編ではけっこう受賞歴があるらしい。主演の吉高由里子は『紀子の部屋』でその存在感に驚かされた女優だが,注目されるようになってからはそれほどチェックはしていなかったが,本作は予告編を観て彼女にぴったりと思って選んだ次第。結論からいうと,タイトルの「特急」というのがラブコメというジャンルに不可欠な要素だし,予告編はまさにそんな感じだったので期待したわけだが,本編は意外にもゆったりとしたシーンもあってちょっと拍子抜け。これまで短編を作ってきた監督だから,ちょっと時間に余裕をとりすぎたか。でも,その点を除けばそれなりに楽しめる作品。
特に,SAKEROCKというバンドの浜野謙太も出演しているのだが,男優陣のなかでは主役級の出演で十分に楽しめた。むしろ,吉高演じるところの主人公チエよりも主人公っぽいかも。結局,チエの基本的な人間性はこの作品を通じても変化しない。それに対し,浜野演じる田無という人物は,出会う人一人ひとり,出来事一つ一つに影響を受け変わっていく,そしてなによりも愛すべきキャラクターとして,この作品には欠かせないし,それをハマケンが演じたということにこの作品の意義があると思う。他には,チエの友人役として,杏が新婚さんとして登場しているのだが,その結婚相手の男性を演じる俳優ってのがなかなか味があって良い。まさに期待通りのいい旦那さんなのだ。これは予告編でも使われているシーンだが,チエがかれらの家に泊まった翌朝,2人が仲睦まじく朝食の準備をするのを見て,「本当の相手っているんだね」とつぶやくシーンがあるが,ここで下手な配役だとそのつぶやきが嘘っぽく聞こえて一気に観る側のテンションが下がってしまうが,このシーンは見事。私も以前はチエのように,結婚を軽んじていた人だが,実際に結婚をして息子ができて,家族ってまんざらでもないなと実感している今日この頃なので,こうしたシーンでもひっそりと涙を流してしまう。もちろん,私の好みの石橋杏奈ちゃんの役どころも意外に謎めいていて面白かった。
ちなみにこの作品,冒頭のシーンでは京王線の東府中駅が使われていて,杏夫婦が住んでいる街はやはり京王線の仙川になっていて,嬉しい限り。こういう商業的な場で使われる鉄道が京王線になって随分長いが,監督も京王線沿線に住んでいるのだろうか。もうひとつちなみに,ハマケンと仲がいいからだろうか,劇中音楽ではチェロ奏者の橋本 歩さんが参加しています。でも,こういうのって,エンドロールで初めて気づくから,音楽を注意して聴いていないんだよな。

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星の処女神 エリザベス女王

フランシス・A.・イエイツ著,西澤龍生・正木 晃訳 1982. 『星の処女神 エリザベス女王』東海大学出版会,273p.,3000円.

何気に歴史的作品をよく出版している東海大学。本書は歴史学的作品だが,歴史的古典としては,プトレマイオスの『地理学』や,ヴィトルヴィウスの『建築書』などを発行している。さて,イエイツ作品として,本書は原著が1975年に出版されたものだが,中身が書かれたのは1950年代だという。『星の処女神:16世紀における帝国の主題』というタイトルの本を日本語訳では上下巻に分け,本書はその上巻に当たる。イエイツといえば,最近ついに『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』が翻訳されたばかりだが,イエイツの研究史的にはその前段に当たる研究。冒頭の序言には,本書が『16世紀フランスのアカデミー』(1947年)と『ヴァロワ・タピスリーの謎』(1959年)の中間にあたるという。両方とも翻訳があるが,残念ながら『16世紀フランスのアカデミー』はまだ読んでいない。
いきなり訳者はまえがきで,「本書は難解」と書く。確かにその印象は否めない。ブルーノ研究から,ヘルメス教やオカルト哲学などの集中してきて,独特のイエイツ的文体に慣れれば多少なりとも読みやすいが,本書はなかなか私のように歴史に疎い読者にはとっかかりが掴みにくい。ちなみに,訳者の2人は,一人が西洋史,一人が日本史を専攻していることもあって,翻訳の文体に凝っている。原著にある史料からの引用はほとんどが16世紀のものなので,古い英語で書かれていると思う。その雰囲気を伝えるかのように,史料からの引用文は全て古い日本語で訳されているのだ。確かに,文学作品を読むのであれば意味が多少分からなくても雰囲気を味わえばいいけど,本書は歴史研究書であるので,ちょっと日本語自体の意味が読み取れないと困ります。
さて,難しいながらも本書は非常に読み応えがあります。タイトルどおり,本書はエリザベス女王に関する研究だが,実際にエリザベス女王が何をしたかということはほとんど出てこない。巻末に印刷されたエリザベス女王を描いた15の肖像画や彼女のことを詠った数々の詩篇などが主な分析対象。しかし,文化的表象を素材にしながらもその考察は至って政治的。それがいかにもイエイツ的であり,今日の人文・社会科学においても流行しているやり方である。当時は今日的政教分離などとんでもなく,宗教と政治が,そして政治家による文化的振る舞いが一般的な時代である。そんななか,エリザベス女王は映画でケイト・ブランシェットが演じてお馴染みであるが,生涯独身(処女?)で貫き,常に美しく装うことを忘れない君主であった。そして,天文学と地理学が盛り上がりをみせる時代において,彼女は天文学的意味における処女神であり,地理学的な意味における世界を征服する帝国の長であったというわけだ。
「テューダー帝国の宗教改革」と題された第二部に対して,第一部は「カール五世と帝国理念」と題し,中世から引き続くルネサンス前史が語られる。神聖ローマ帝国という名の下にヨーロッパが統一化されてきた時代,もちろんその政治的勢力もあるが,重要なのはキリスト教。まさに,政治(皇帝)と宗教(教皇)が拮抗する時代であり,それが徐々に政治の支配力が強くなってくるということが論じられる。この辺りではダンテがよく登場します。そして,アクィナスやマキャベルリ。
第二部で登場するのはジョン・ディー。イエイツのオカルト哲学論でも登場する人物で,ユークリッド幾何学原論の英語訳に長い序文をつけ,ルネサンス的解釈を説いたとして知られる。そして,ディーはエリザベス女王の助言役でもあり,映画にも登場します。映画では,まさにスペイン艦隊を打ち負かすシーンにおいて,ディーの気象学的予測が勝利へと導いた,そんなことだったと記憶しています。しかし,ディーの天文学はもちろん,イエイツが関心を持つような占星術的で怪しげなもの。当時はイタリアでガリレオが投獄され,ブルーノは処刑されたような時代ですから,まだ近代的な天文学が支配していたわけではないですね。だからこそ,占星術的な意味におけるエリザベス女王の象徴が政治的にも役割を果たしたというわけです。もちろん,ブルーノは本書にも登場します。特に,彼が英国に滞在した時のこと。そして,シェイクスピアも登場します。第二部後半の「エリザベス朝の騎士道」というところは,もっとつかみどころがない話に展開していきますが,私はなんとか『ヴァロワ・タペスリーの謎』を読んでいたので雰囲気は分かります。ブノワ・マジメル主演の映画『王は踊る』も,17世紀のフランスだったが,その雰囲気は伝わるだろう。そして,本書の下巻『星の処女神とガリアのヘラクレス』はフランスの話らしい。
広大な宮廷を用いた,こうした文化的催しは,もちろん権力の誇示という政治的意味合いを持っていた。日本の近代史でも『天皇のページェント』というタカシ・フジタニの本があったが,まさにページェントのことである。『ヴァロワ・タペスリーの謎』で分析された綴れ織りも,まさにそうした豪華絢爛な祝祭だった。まあ,多少難しいとはいえ,1950年代にこんな研究がなされていたとは驚きである。下巻や『16世紀フランスのアカデミー』,そして分厚くて1万円もする『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』も,今後読むのを楽しみにしておこう。

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新築お呼ばれ2件

4月15日(金)

妻が急に鶏排(チーパイ)を食べたくなったというので,急遽秋葉鶏排に行くことにする。鶏排とは台湾風の鶏のから揚げ。鶏の胸肉を1枚丸ごと薄く伸ばし,スパイスたっぷりタピオカ粉の衣で揚げたもの。昨年の台湾旅行でも食べたが,スーパーの前に出ている小さな屋台でも揚げたてを売っているような,ファストフードの一つ。土日の秋葉原は混んでいるので,金曜日にしたのだが,お店の定休日を調べようとホームページを開くと,なんとこの日で閉店。今回の地震の影響で秋葉原を訪れる台湾や中国の観光客が激減し,売り上げが減ったとのこと。妻は非常に残念がる。今のところ,東京で鶏排を食べられるお店は他にないようだ。久し振りに電話をかけてきたという妻の友人と待ち合わせる。1年ぶりの秋葉原はまたよく分からない。携帯電話で調べてなんとか店に向かう。お店は賑わっていたが,それは最終日だからだろうか。ちょうどお昼時なので,店内で食べている台湾人たちや,ランチをテイクアウトで買いに来る日本人たち。最近,イートイン用に3階にも店舗を拡張したとあったが,やってなくて,1階で空き席が出るのを待ち,なんとかランチにありつく。おなかいっぱい。
続いて,初めてヨドバシカメラの秋葉原店に入る。なんと,3階から7階まで全て授乳室つき。とりあえず,息子のランチタイム。私は店内をウロウロ。やはり元々の秋葉原は電気街といっても,今みたいなゲームやパソコンではなく,オーディオが主流だった。なぜか,私の兄はわざわざ秋葉原の石丸電気によく洋楽のLPを買いに行っていたな。まあ,そんなこともあってか,このフロアはオーディオ機器が充実しています。視聴できるコーナーも広くて数も多い。店内はそれなりの人の入りだが,店内の喫茶店は空いています。一休み。
その後,妻が金を下ろすというので程近いATMに入ると,何と前の人が忘れていった現金6万円を発見。直前に出て行った人を呼び止めるが違うという。しょうがないので,近くの交番に届けようとすると,最寄が警察署だった。なにやら面倒な手続きをして預けてくる。でも,3ヶ月受取人が現れなければ,妻のものになるらしい。まあ,現金だから本人の申告がないと誰のものだとはいえないし。

4月16日(土)

昼間,映画を観に渋谷に行く。受付をして,PARCO地下の本屋へ。そこで比較的大きな地震。地下で今回の一連の地震を感じたのは初めて。カフェ「人間関係」で早いランチ。

渋谷シネクイント 『ランナウェイズ
選んだ映画はこちら。1975年に結成された実在するガールズ・ロック・バンド「ランナウェイズ」を題材としたもの。まあ,この手のは大抵想像できるので,必見という感じではなかったのだが,『アイ・アム・サム』のダコタ・ファニングと『パニック・ルーム』のクリステン・スチュワートの共演ということで,成長した2人を見守るべく,観に行った。
映画館には実物のCDも売っていたが,きちんと日本版も出ているし,映画のなかでもあったように,日本公演もしていて,「ライブ・イン・ジャパン」というCDも発売されている。当時,主演の2人が演じるヴォーカルとギターは15歳か16歳くらいだったようだが,ジャケット写真ではそうは見えない。当時のミドルティーンは老けてますね。
そして,酒とドラッグ浸りな日々。ダコタ演じるヴォーカルの女の子が,「普通の生活を取り戻したい」と脱退して解散,そんな展開。しかし,クリステン演じるギターの子は,音楽活動を続け,今でもやっているとのこと。まあ,それなりには楽しめる作品。

さて,映画の後は妻のママ友であるご近所さんの家にお邪魔する。友人が来て手巻き寿司をするからといって,わが家にも声を掛けてくれた。うちを除いて,それぞれ5歳の男の子がいて,その下に女の子がいる。女の子たちはそれぞれわが家の息子と1ヶ月ずつ年上。そんな,大人の女性3人,大人の男性2人,男の子2人,赤ちゃん3人という大人数。新築の一軒家だが,狭く感じる。約束の時間にうかがうと,まだまだ準備はこれからだという。結局,なんだかんだで長居してしまって,お腹いっぱい,息子は眠れず騒ぎすぎて疲れてしまう。いつもより相当遅い時間に急いでお風呂に入って就寝。

4月17日(日)

この日は妻の友人宅を訪ねる。私も以前2回ほど会ったことがあるが,5歳と1歳の2人の息子がいて,昨年マイホームを新築したというので,わが子お披露目も含めて遊びに行くことにした。実は,前にもblogで書いたが,数ヶ月前に行く予定だったのだが,息子の鼻風邪が直らず,延期。すると,今度は地震で余震だの停電だので,訪問が延びていた。
電車を乗り継いで埼玉まで。3階建ての新築は素敵でした。1階はガレージと仕事場(夫婦ともにミュージシャン)ということで,キッチンとリビングは2階。前回引っ越す前に訪れた時も私は長男の遊び相手になったのだが,今回も活発な長男のいいなり。次男は帰宅するなり寝てしまって,息子は妻に抱かれたままママトーク。私は3階に連れて行かれ,大量のおもちゃと遊び,それに飽きると隣の公園に出てサッカーだの自転車だの。気づけばあっという間に3時間が経過。帰りも家族で駅まで送ってくれましたが,その間もずーっと走って競争。楽しかったと同時に翌日は全身そこらじゅう痛し。

Photoこちらは別のママ友のお宅にお邪魔して衣装をお借りして妻が撮影。

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昭和旅行誌

森 正人 2010. 『昭和旅行誌――雑誌『旅』を読む』中央公論新社,278p,2310円.

本書は2010年12月20日を発行日としているが、私が知ったのはつい最近。やられた、と思いすぐさまAmazonで注文、購入し4日間で読了した。著者は私より年下の地理学者。個人のホームページを持っているので詳しい説明は必要ないが、2001年から毎年論文を複数本発表しながら、2005年には四国遍路に関する研究書を、2006年には近しい研究者3人で文化地理学の教科書を、2008年には中公新書から大衆音楽の概説書を発表してきている。2006年には英国に行ったこともあって、今年はそれをネタにした本も既に発行予定だとか。翻訳も毎年のように『空間・社会・地理思想』に複数本掲載されているが、今年にはマッシーの『空間のために』を単独訳で出版するらしい。そうそう、書き忘れるところだが、2008年と2009年には英文雑誌にも論文を掲載している。毎年複数本発表される論文も、学会誌から各種紀要、本の1章など、内容的にも多岐に富んでいる。まさに、この世代では一番生産力と発信力のある地理学者だといえる。
私も大学院生時代にはそれなりに頑張っていたつもりだが、結局いまだに大学に定職を得ず、平日企業での勤務時間に追われていることを理由に、研究活動から逃げているような状態。まさに森氏の活躍は輝かしく、沸き起こる嫉妬心さえ、自分の対抗する力のなさに空しくさえ思える。そう、私とて、書き下ろしの本を書こうとここ数年はそれなりに頑張ってきた。まあ、途中で別の論文を書いたり、学会発表の準備をしたりで中断はしているわけだが、結局5年間くらいかけても大学紀要の許容文字数に納まってしまうほどしか書けておらず、とても単行本にはならない。一方で、森氏は本書を5ヶ月で書いたのだという。私もかつて女性週刊誌『Hanako』の創刊後6年間300冊を分析対象にして論文を書いたが、本書の場合は1924年に発行され、2004年に休刊されるこの月刊誌『旅』に全て目を通し、まとめたのである。全部で何冊に及ぶのだろうか。ちなみに、入手できないものは図書館で複写した、とあとがきに書かれているが、ということは分析した全てが手元にあるということだろうか。私の場合、手元にある『Hanako』はせいぜい数十冊だが、想像しがたい資料の量だ。ちなみに、その5ヶ月間の中で、特に夏休みは「深夜から早朝まで」が執筆時間であったという。まあ、これだけの人は1日数時間しか寝ないのだろう。私のように、毎日9時間も布団に入っていたら生まれるものも生まれまい。
ちょっと自虐的な前置きが長くなりましたが、私なりに本書の書評をどこかの学会誌に掲載して、この悔しい気持ちを解消し、敵に賞賛を贈ろうじゃないかと読み始めたわけですが、読み終わった今、学会誌に掲載するような書評原稿が書けるかどうか自信がなくなった。もちろん、難癖をつけることは簡単でそういう意味では書くことは多い。でも、あくまでも本書は一般書であって学術書ではない。かといって、著者は根拠もないことを書き連ねているわけではなく、最低限の学術的スタイルを保持している堅実な本である。そして、堅実なだけではなくあまり工夫はない構成である。雑誌『旅』を時間順に読んでいき、時代時代で特徴的なトピックについて論じていくというスタイル。簡単に目次を示そう。

第1章 『旅』の創刊
第2章 観光を啓蒙する、観光で啓蒙する
第3章 戦争による国内旅行統制
第4章 終戦と国内観光の再出発
第5章 多様化する国内観光と海外への一歩
第6章 世界とふるさとを旅する
第7章 昭和の旅の終わり

私も雑誌研究をしていて、1970年くらいの雑誌を手にすることがあった。それは検索して発見した1つの記事をみることが本来の目的なのだが、40年前の1冊の雑誌は素直に面白い。文体、写真、広告、何をとっても私たちが同時代的に目にしているものとは違うのだ。『旅』創刊時の戦前のものであれば、漢字や仮名遣いも古くて訓練を積んだ者でないと読みにくさはあると思うが、その調査の楽しみは容易に想像することができる。そして、著者は地理学者でありながら、一般書である本書執筆に関しては学術的な意義や、地理学的な主題にこだわる必要はないのだから、まさに自分が面白いと思ったことを他人に説明するように綴っていけば必然的に筆は進むだろう。実際に、本書の前半は非常に面白い。しかし、著者も次第に疲れを感じてきたはずだ。もちろん、長い間発行されている雑誌ならば編集方針は徐々に変化していくものだが、それを何十年にもわたって読み続け、それについて説明をしていくというのはある意味で苦痛だったのかもしれない。読み手の方も徐々にマンネリ化していくと同時に、だんだん現代に近づくにつれ、馴染みのある事実になっていく。なので、残念ながら読後感はあまり刺激的でないというのが正直なところ。
先ほど,本書は一般書であり研究書ではない,と書いた。しかし,あとがきで著者は「近代以降の風景や,場所の価値や審美性を成り立たせている観光という仕組みを,『旅』をとおして考えてみる本書は,文化地理学的な研究だと言うことができるだろう。」(p.275)と書かれている。よって,多少なりとも本書の研究的価値を考えてみることも悪くはないと思う。私は一人の研究者の論理的一貫性を求めるわけではないが,森氏はうまいこと立場を使い分けているようにも思う。ここ数年の『空間・社会・地理思想』に翻訳してきた論文や,2009年に『人文地理』に掲載した自身の論文「言葉と物」では,近年の英語圏人文地理学における物質性の強調に同調している。それは,私も含む一昔前の人文地理学者たちがあまりにも表象を強調しすぎたことに対する批判である。しかし,本書はまさに表象分析であり,しかもかなりオーソドックスなものだ。例えば,本書には『旅』の編集裏話についても書いているが,それは独自の調査をして得られたものではなく,あくまでも紙面に書かれていることにすぎない。また,度々一般的な社会的背景についても記述があるが,その元資料は示されていないので,一般的な知識として書かれているのか,でも場合によっては明らかに紙面に書かれていたものである場合もある。まあ,ともかく本書はあくまでも『旅』というデータベースから復元された,昭和という時代の旅行ということに関する姿ということになる。つまり,森氏が批判していた地理学における表象分析研究はそれなりに表象批判を含んでいたが,本書はほとんど批判的なものは含まれていない。まあ,強いていえば第二次大戦前後の国民動員や社会統制にこの雑誌が一役買ったということくらいであろうか。あとがきにはあまりにも素朴に,この雑誌が単なる歴史的資料であるばかりでなく,事象や時代を作り上げた「行為者」であることが分かった,と述べる。しかし,メディア研究などを含む表象研究は,そうしたメディア制作者の「行為者」的立場を強調しすぎたところが批判点だったのではないだろうか。
確かに,『旅』という雑誌は,早くから読者投稿欄を設け,旅行者の経験を知る重要な資料として,観光研究のなかで用いられてきた。にもかかわらず,本書のような『旅』の包括的検討というのはなかったようだ。なので,これから観光研究のなかで『旅』を資料として用いる場合の検索用としても使えるし,また本書で検討されたいくつものテーマを,きちんとした形で事例研究として深めていくことも可能だと思う。しかし一方では,一般書であることを優先させてか,最低限に絞った参考文献は,この種の研究を始めてみようという初学者には不親切である。個人的には,『旅』の投稿欄を主たる資料とした研究をしている滝波章弘氏の諸研究や,『旅』の前史としての旅行案内書の研究をしていた中川浩一の研究は,同じ地理学者としてぜひとも参考文献に含めて欲しかった。

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離乳食開始

離乳食は6ヶ月目に入ってから始めるつもりだったが,妻が急に思い立って,先週から始めることになった。離乳食を始めるタイミングはいろいろあるようだ。授乳と違って,しっかり座って食べる必要があるので,一人座りが大体できるようになってというのはわかりやすい目安。残念ながら息子は一人座りはまだまだできないが,歯も2本生えてきたし,そのせいで,なんでも口に入れたがる時期。わたしたちの食事には毎回興味津々で,朝食時には私が毎朝食べているキウイの汁をスプーンで飲ませたり,妻がみかんなどの柑橘類をチュウチュウ吸わせたりしていた。ということで,離乳食開始の条件はいくつか揃っているので,とりあえず始めてみることに。はじめは10倍粥。小さじ1杯のお米を10倍の水と一緒に炊飯器に入れ,わたしたちのご飯と一緒に炊く。炊けたらそれをすりつぶす。わが家にはなんと乳鉢ってのがあるけど,最近はすり鉢の方が主流らしい。実際に乳鉢でやってみると,水分が多すぎてつぶせない。
Photo
小さじ一杯分の米だが,出来上がりは息子にとって10回分の食事となる。始めは一日一回スプーン一杯のみ。なので,できた粥を製氷機に一回ずつキューブ上に凍らせる。解凍も電子レンジで10秒ほど。われわれの食事量とは比べ物にならない。まあ,要は胃腸が母乳以外を消化する能力をまだ持っていないということ。幸い,初日からもっとくれというくらい,息子は上手に粥を口の中に入れ,ごっくんと飲み込む。おっぱいを難なく飲めるようになるまで二ヶ月もかかったのに,これは嬉しい限り。しかも,一口食べるごとに,本当に嬉しそうな笑顔を私たちに見せるのだ。問題なのは,口のなかにうまく入れて飲み込むところではなく,胃腸がうまく消化してくれるかだ。今のところウンチに多少の変化は見られるものの,痛がったり吐き戻したりしていないので,順調というところだろうか。

4月9日(土)
日比谷シャンテ 『わたしを離さないで
ここ数年観た映画の中では、ほぼ完璧な作品。といっても、映画として優れているという意味ではない。まさに、私が観たかった映画なのだ。といっても、私が欲する映画にもいくつかの種類がある。奇抜な発想で知的刺激を与えてくれるもの。胸をキュンとさせてくれるラヴストーリー、思いっきり泣かせてくれる感動ものなど。しかし、本作はそのどれでもない。カズオ・イシグロによる原作は、ストーリー的な前知識をまったく入れずに観た私にとっては驚くべき展開だったが、かといって今までになかったような奇抜な設定やストーリーだったわけではない。どちらかといえば、本作は涙を誘う悲しい物語ではあるが、私は全く泣かなかった。驚きもしないし、何か私の頭のなかで思考がうずめいたわけでもない。
しかし、私はなるべく瞬きをしたくないほどにスクリーンを見つめていた。一枚一枚の愛おしい画像が次々へと移り変わる、そんな映画。ネタばれを含むのでご注意ください。映画の冒頭、「1952年に画期的な医療技術が発明され、人々の寿命は100歳を越えた」という字幕でこの映画は始まる。一番新しい設定年は1994年。そして、主人公は27歳。なので、生まれ年は1967年で、私と近い。大抵の小説ではこうした設定は近未来を想定するが、この原作は一つの可能世界を描く。ドラえもんのいうところのもしもボックスの世界だ。そして、1978年時点から物語は進展する。シャーロット・ランプリング演じる校長先生がいる寄宿学校。冒頭の字幕と何の関係もないような一昔前の片田舎の小学生の生活が淡々と描かれる。本作を完璧にしているのは、キャシーという主人公を演じる女優2人のキャスティングだ。大人になってからのキャシーは、『17歳の肖像』で心に残る演技をしたキャリー・マリガン。髪の色が違うのでよくわからなかったくらい、本作の役どころに染まっていた。そして、その幼少の頃を演じる若き女優がまさに、キャリーそっくりなのだ。本作には、大人を演じるアンドリュー・ガーランドとキーラ・ナイトレイという3人が主役級だが、さすがにこの2人は幼少の頃を演じる俳優とを連続させるには鑑賞者の想像力を必要とするが、キャシーはまさに連続体だった。そして、もちろん3人のなかでもキャシーは常にスクリーンに映し出される存在だったので、この連続性はかなり重要である。そして、キャリー・マリガンの演技。まあ、はまり役の嫉妬深いルースを演じるキーラと、『ソーシャル・ネットワーク』に続いての出演であるアンドリューは創造力豊かだが落ち着きのないトミーを演じる。喜怒哀楽の激しい2人とは対照的に、常に冷静に正しい道を行く女性を演じるキャシーを演じるキャリーは素晴らしかった。
主役級の3人が見知った俳優であるにもかかわらず、私はまったく本作の作品世界に没頭することができたのだ。それは、無理なく作られた英国の一昔前の田園風景であり、上述したように、原作の設定はちょっと近未来的なのだが、それは現実世界にない新しい技術を導入するのではなく、同時代的な技術で可能となる延命法なのである。そう、この寄宿舎で育った子どもたちは、なんと不通に生活する人々が難病にかかった場合に臓器を提供するドナーとして生かされている存在なのだ。まあ、一つ非現実的だと思うのは、子どもたちは18歳になる頃に寄宿舎から別の施設に移動するのだが、その頃には自分がドナーであることを知らされる。その時に、子どもたちは反抗しないのか。18歳ともなれば集団になってなにか運動を起こせばどうにかなるようにも思う。しかし、そういう展開はこのストーリーにはそぐわない。まあ、多少の非現実性は、この作品の美学のために犠牲になってもいいだろう。ともかく、大人になったかれらはひっそりと生活しながら、臓器提供の時を待つ。人によっては1度目で、丈夫な人は3度、4度と残された臓器を提供するのを待ち、それは命が絶えるまで続けられるという。もちろん、この設定だけでは映画にはならないので、恋物語的結末があるのだが、それについては私からは語らずにおこう。
ともかく、数年後、10年後にまた観たくなる作品である。その頃、キャリー・マリガンはどんな女優になっていることか。

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快楽の館

アラン・ロブ=グリエ著,若林 真訳 1969. 『快楽の館』河出書房新社,229p.,550円.

またまた,ロブ=グリエの作品。1960年代前後に翻訳されたロブ=グリエに決まった訳者がいたわけでもないようで,私が読んだものもほとんどが別々の訳者によるものなので,どうか分からないが,そんなに私の好む文体ではないが,なんとなく古書店で見かけると買ってしまう。
ということで,手元にある彼の作品としては最後になります。いかにも怪しげなタイトルになっていますが,原題を直訳すれば『淫売宿』といった具合だと訳者解説に書かれているので,このタイトルはあくまでも訳者の解釈を含んだもの。でも,確かに作品の中心的な舞台となる「青い館」は売春も斡旋しているようなことを仄めかしてはいるがそれだけではない,人々をひきつける何かがある場所である。この館にはレディ・アーヴィなる女主人がいて,そのパトロンというか,エドゥアール・マヌレという老人がいるという設定。一応「ぼく」という一人称の語り手がいるが,本文は全て一人称で書かれているわけではなく,事態の進行を報告する第三者的語り手も並存している。でも,この「ぼく」自体はレディ・アーヴィとちょっとしたやり取りがあるだけで,基本的には傍観者だといえる。
訳者解説には作者自身の言葉が引用され,『去年マリエンバートで』のような映画のために書かれたシナリオとは違って,本作は映像的なものを描いたものではないとされている。でも,私はこの不可思議な物語をいかにもフランス映画的なものとして読んだ。本作には分かりやすいストーリーはない。といっても,滅茶苦茶なのではなくきちんとした設定は存在する。その「青い館」では毎晩のように怪しげなパーティが開催されている。そして,そこに「ぼく」がいて,その状況を事細かに説明しているのだ。しかし,実際の出来事かと思って読んでいると,それはこの館で頻繁に開催される余興であり,演劇なのだという。そして,その一方ではその館の常連たちが,その演劇に出演している女優たちをお金を払って抱くという取引もなされている。そして,そんな客の一人としてラルフ・ジョンソンという「アメリカ人」も登場する。
そうそう,書き忘れたが舞台は香港で,しかし登場するのは欧米人が中心で,登場する中国系の女性と日本人女性はこの館に勤める侍女だけである。香港に九竜,マカオなど,アジアにありながら当時は欧米諸国の植民地であった場所が舞台。そして,後半ではそのマヌレという老人が殺害される,あるいは自殺するという事件が起こり,その顛末がいく人かの人物を中心に論じられる。しかし,実際にその老人が死んだのかどうなのか,それは劇の上でのことなのか,そして死んだとしたらその死因は。自殺なのか,他殺だとしたら誰がどんな目的で殺したのか,絶対的な回答は作品中に用意されていない。まあ,ともかく多様な解釈が可能である作品であるといえると同時に,そもそも確実なことなどなにもないのだという哲学なのかもしれない。私たちのいる現実界はそうであるのに,私たちは確実な根拠を知りたくて小説を読むのかもしれない。人間のアイデンティティの確実さ,物事の確実さが,陳腐な小説には揃っている。そんな小説のあり方に抵抗しようというのが,こういう小説家の試みなのかもしれない。

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フェルメール「地理学者」

4月1日(金)

3月は地震の月ではあったが,私にとってはけっこう働いた月だった。普段,私は週4日勤務なのだが,大学が長期期間中は休みの予定の金曜日でもお願いされれば出勤する。2月からはけっこう私のするべき作業がたまっていて,何かない限りは出勤していたのだが,3月は皆勤。かなり3月に集中してやっていた業務が一段落したということで,久し振りに金曜日に休ませてもらう。そして,この日はなんといっても「映画の日」。

渋谷ヒューマントラストシネマ 『お家をさがそう
選んだのは『アメリカン・ビューティー』のサム・メンデス監督最新作。妊娠発覚をきっかけに新居探しの旅に出るという一風変わったロードムーヴィ。こういう素朴な作品好きなんですよね。妻も観たがっていたので,とりあえず私だけでも見逃さないように。
予想通りの素朴さと面白さ。主人公カップルは女性側の主義で結婚はしないが,お互い唯一の存在として愛し合っている。なので,妊娠も望んでいなかったわけではないが,女性がフリーのイラストレーター,男性が保険関係のオペレーター(よく分からんがオフィス勤務ではなくいつどきでもかかってくる顧客からの電話に応対するという業務),という不安定さから,女性は人生について思い悩む。
女性側の昔の職場の上司に始まって,知り合いのいる街を訪れて合衆国を北から南,東から西へ,カナダのモントリオールまで行きます。結局,このロードムーヴィはさまざまな土地のさまざまな風景や人々と出会うという一般的なものではなく,女性の上司,女性の妹,とここまではごく親しい人に会いに行ったのだが,それからは男性の幼馴染とか,久し振りに会う人や,数度しか会ったことのないような人も含めて,あまり親しくない人と,初めてその家族と会い,ゆっくりと食事をすることで,主人公たちと鑑賞者がさまざまな家族のあり方を考えるという映画。どこの夫婦にも問題があって,それらに立ち向かって人々は生きています。
そんなさまざまな家族を演じるのもけっこう顔に見覚えのある俳優たちです。パッと名前が思い出せるのはマギー・ギレンホールくらいですが,彼女が演じる大学教授という役どころもなかなか癖があって面白い。登場する家族だけではなく,移動中の空港や宿泊しているホテルなどでも面白い人たちとの出会いがあります。面白いといっても過度に演出されたようなものではなく,ありそうなところがよい。主人公を演じる2人の俳優もとても魅力的でした。ただ,一つだけどうかなあと思ったのは,この2人がお互いへの愛を非常に強く信じて疑っていないこと。もうちょっと主人公たちに何かあっても面白かったかな。

bunkamuraザ・ミュージアム フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画展
渋谷に行ったついでに久し振りに美術鑑賞。私たち地理学者にとって,17世紀の画家,フェルメールが描いた「地理学者」という作品は有名です。17世紀オランダ・フランドル絵画に関する研究は多いが,スヴェトラーナ・アルパースの『描写の芸術――17世紀のオランダ絵画』(邦訳ありな書房,1995年)は「オランダ絵画における地図作成的衝動」という1章でこの辺の事情を詳しく論じている。といっても,この章の導入はフェルメールではあるが,登場するのは「地理学者」ではなく「絵画芸術の寓意」である。それはこの本の日本語訳表紙にもなっているのだが,フェルメールが得意とする室内画に女性を配した肖像画でもある。タイトルとなっているのはその画面に画家自身が描きこまれているということ。そして,その背後に壁掛け地図が大きく描かれているのだ。1世紀前,16世紀のオランダ,精確には現在のベルギーも含むネーデルラントでは地図製作が盛んだった。有名なメルカトルもいたし,オルテリウスは世界で初めての世界地図帳を作った。都市景観図ってのが流行ったのもこの時代。もちろん,風景画も。そもそも「風景」という語は風景画を意味する言葉としてこのころこの辺りで生まれたのだ。
それにしても,いくら東京には初めてやってくるからといって,この「地理学者」が目玉になるなんてどうなの?って思ったけど,観てみてちょっと納得。他に目玉になりそうな作品はなかった。この頃の代表的なジャンルとして,まず肖像画があり,静物画があり,風景画がある。総称して北欧ルネサンス芸術の特徴としての「細密画」のもろもろといってところか。この展覧会で学んだことは,こうしたジャンルがまさしく流行として,同じような構図,筆遣いで大量生産されたということが分かったこと。そして,静物画でも魚だの海老だの,兎だのというのは貴族たちの趣味としてのハンティングの流行と大きな関係があることと,風景画でも海上画が多いのは,海上覇権国としてのオランダと関係があること。と,教科書的な意味では分かりやすい展示でしたが,個々の作品をどう観るのかってのはやはり難しく,美術史研究はけっこう読んでいるつもりだが,そこで得た詳細な知識はなかなか出てこないってことだ。

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哲学者の危機

アンリ・ルフェーヴル著,森本和夫訳 1959. 『哲学者の危機 総和と剰余 第一部』現代思潮社,242p.,300円.

この『総和と剰余』という大著は全六部からなるらしく,以下の構成になっているという。

第一部『哲学者の危機』
第二部『証人』
第三部『哲学生活』
第四部『道程』
第五部『目録』
第六部『哲学者とはなにか?』

私が本書を古書店で購入した時は,『歴史の証人』と題された第二部と一緒に購入したのだが,果たして第三部以降の翻訳が出ているのかは知らない(今,Amazonで検索してみたが,どうやら出ているらしい)。購入した当時は,全部揃ってから読もうと思っていたのだが,全部揃う見込みもないので読み始めた次第。やはり最近Amazonで『弁証法的唯物論』を入手したのだが,これがなんと1953年の出版なのでそれほど古い漢字は使われてなさそうだがちょっと気軽には読めない感じ。一方,本書にも第三章に「弁証法的唯物論(公認の)」とあったので,読み始めたのだが,この(公認の)ってところが曲者で,本書を読んで弁証法的唯物論が何か分かるようなものではなかった。
正直いってこの薄い一冊を読んで私は何を学んだのだろう。とてもこの読書日記で本書の内容を的確に説明する自信が全くない。ともかく,ルフェーヴルは前著『マルクス主義の現実的諸問題』がかなり批判されたらしい。しかも,もちろんルフェーヴルは全面的にマルクス主義者を名乗っているのに,この本によってフランスの共産党から除名されたというのだ。よって,本書はそのことに関する抗議であり,自身のマルクス主義の弁明である,といえようか。よって,本書で論じられる弁証法的唯物論とは,公認の=世間一般に信じられているものであり,それがマルクス自身の議論といかに乖離しているかということも含めた批判である。他にも「疎外」という概念など,現代のマルクス主義がいかにマルクスを理解し損ねているのか,あるいは場合によってマルクスの論を現代の社会に活かすことなど全く関心がなく,聖書のようにマルクスの著作を研究する,マルクス主義ならぬマルクス学が多いのかを批判している。まあ,私が理解できたのはこの程度であろうか。

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