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2011年5月

幻想の東洋

彌永信美 1987. 『幻想の東洋――オリエンタリズムの系譜』青土社,569p.,3600円.

副題を見ると,サイードの『オリエンタリズム』を追随した研究だと思ってしまうがそうではない。ちょうど,『オリエンタリズム』の日本語訳が出版されたのが1986年だし,日本人研究者から見た日本を含む東洋を論じるという研究計画は容易に思いつく。しかし,本書の副題は恐らく,『オリエンタリズム』の翻訳を受けて,出版社が売り上げのためにつけたものだと思われる。といっても,サイード人気に便乗したような内容ではない。もちろん本書でもチラッとサイードは参照されるが,ある意味では『オリエンタリズム』よりもスケールが大きい。
本書は同名のタイトルで,『現代思想』に1985年1月から1986年5月まで連載されていたものである。370ページの本文は連載時のほぼそのまま収録されていたのに対し,160ページもの注は新たに書き換えたものであるという。また,それに伴って,26ページにも及ぶ文献表がつけられている。実際の執筆期間は分からないが,連載期間1年半にしてこの内容はすごいと思う。しかも,この人は大学に勤める職業研究者ではないという。いったいどうやって執筆活動をしているのだろうか。まずは目次を見てみよう。

序 旅への誘い
1 最古の民・最果ての怪異
2 遍歴する賢者たち
3 秘境の解釈学
4 隠喩としての歴史
5 世界の終わりと帝国の興り
6 東の黎明・西の夕映え
7 終末のエルサレム
8 楽園の地理・インドの地理
9 秘境のキリスト教インド帝国
10 ――そして大海へ……
11 新世界の楽園
12 反キリストの星
13 追放の夜・法悦の夜
14 東洋の使徒と「理性的日本」の発見
15 天使教皇の夢
16 アレゴリーとしての「ジアパン島」
エピローグ

目次では分かりにくいが,本書は副題の「オリエンタリズムの系譜」というよりはサイードの『オリエンタリズム』前史といったところだろうか。サイードは基本的に「オリエント」という地理的区分の定義についてはさほど自覚的ではないし,その歴史的起源にもそれほど注意を払っていない(ように私は記憶している)。むしろ,18世紀以降の言説に限定することで,論点を拡散しないようにしているようにも思える。
それに対し,本書は古代から始まり,逆に18世紀で終了してしまう。あとがきによれば,当初は全歴史を書くつもりだったらしいが,力尽きたとのこと。でも,十分楽しめます。古代における東方とはアジアを意味せず,場合によってはギリシアやエジプトを指していたという。確かに,本書にも出てくるが,古い絵画のモチーフとしての「東方の三博士」がなぜ東方なのか,という疑問は私も持っていた。博士たちはどうみてもアジア人じゃないし,そもそも博士とは知識人のことであるから異邦人的なものではないと思う。この東方が「日のいずる方」であり,博士がギリシア哲学者だといえば納得。ちなみに,ここでいう博士とはマギというが,これは魔術=マジックの語源でもあるらしい。そして,ヨーロッパにおける東方の典型とはインドであるが,当時のヨーロッパにおける「インド」とは特定の地理的地域というよりはやはりかなり抽象的な「他所」を意味するものだったようだ。もちろん,本書には多木浩二が『眼の隠喩』などで論じたような「怪物」の話もある。そして,本書にはフランセス・イエイツにも何度も言及する。直接的なかかわりがあるところはそれほど多くないが,私も先日読んだ『星の処女神』と同様に,ヨーロッパにおける歴史的な帝国における専制君主たちが神のように振る舞い,またかれらを神とみなし,聖書や神話の抽象的な事柄を現世に当てはめて政治を行うという,政治と宗教の結びつきは,イエイツの扱うルネサンスのみならず,それ以前のいつの時代にも存在していたようだ。その一つで面白かったのが終末論的な話。この手の話は高山 宏も大好きだが,本書ではテーマどおりにそれを東方,ないしは東洋と結びつける。
コロンブスの話もたっぷりあるし,ルネサンス期のネオ・プラトニズムの話などはイエイツの研究と重なり合うが,それらも東洋との関係があるというのだから,東洋人著者としてはイエイツとは一味違った視点。もちろん,マルコ・ポーロから始まる「黄金の国ジパング」,すなわち日本へのこだわりも日本人研究者ならでは。最後の2章は16世紀のフランス人,ギョーム・ポステルという名前も聞いたことのない人物が登場する。なんでも,本書の始まりは著者がこの人物に興味を持ったことにあるらしい。しかし,ほとんど知っている史実が出てこないので,残念ながらその2章の理解度はかなり低いが,とも書く面白い本であることは間違いない。また,本書出版に際して丹念に書き直してくれた注は今後の読書にも役立つことでしょう。日本語訳のある文献や,日本人の文献についても十二分なほど情報があります。さすがに厚くて上下巻に分かれますが,ちくま学芸文庫でも出ているそうなので,多くの人にお薦めしたい本ですね。

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頑張った女優2人

息子は今週で7ヶ月を迎える。けっこう苦戦していた寝返りも最近ではお手の物。横方向は寝返りで,縦方向はまだハイハイはできないものの,仰向けになって頭をのけぞり,足を踏ん張って,上のほうに進む。途中でひねりを加えれば,彼が居ることの多い和室はけっこう動き回るのが可能になってきた。そのせいか,体重の増加も落ち着いてきて,少し顔周りがほっそりしたように見えるときもある。
離乳食はけっこう慎重で,まだ一日一回だが,いろんな種類の食材を食べるようになった。今のところアレルギー的な反応はない。でも,やっぱり味の好みはあるようです。そして,ウンチの質はかなり変化してきた。布おむつでしたときには,その布おむつをトイレに漬けておくと,ぽろっと取れるようになった。雑誌などに書いてあった情報はこのことだったのだと納得。夜もよく寝るようになって,相変わらず2回ほどは起きそうになるが,以前とは違って,ちょこっと乳を吸わせればまた寝てしまうようだ。寝ながら布団をはだけてしまうのは,妻と一緒で,その姿を見るたび笑ってしまう。
平日は私が6時起きで,そのまま放っておくと,7時前に息子が目を覚まし,少したって妻が起きるという感じだったが,最近は6時前後に先に息子が起きてしまうこともある。

5月20日(金)

最近,土日に妻が撮影の仕事をいくつか引き受けるようになり,私の映画鑑賞はもっぱら金曜日になっている。この日は,講義終了後,仙川で妻と落ち合ってランチ。この日は,以前から私も何度か会ったことのある妻の友人と一緒。妻が栃木に住んでいたころにスターバックスでのバイト友だちとのことだが,このたび結婚して東京に住むようになったとのこと。
食事が終わってフラフラ散歩がてら,西松屋が入っている新しくできたショッピングビルで授乳する前におむつ替えをしようと抱っこ紐からおろしてみると,なんと紙おむつからウンチがもれていた。最近,ウンチのリズムが不規則になることも多く,この日は朝のウンチがなかったのだ。外出先で服を汚してしまうのは初めて。妻が西松屋で服を買い,私はおむつ交換。友人がいてくれて助かる。
その後,私は彼女たちと別れて,調布に移動して映画。

調布パルコ・キネマ 『
わが家にはテレビがないので,もっぱらニュースはネットだけだが,なぜかネットで叩かれる長澤まさみ。太ったり痩せたりするのをいつも仕事の不振のせいにされる。ここ数年の彼女の出演映画やドラマの受けが芳しくないのだという。まあ,正直なところ彼女の演技がどうかってのは私には判断できないが,出演映画をチェックしたくなるような存在感のある女優であることは間違いがないと思う。個人的には,あの喋り方をどうにかするべき後思うのだ。
さて,本作は『ロボコン』で共演した小栗 旬との再共演。といっても,私は『ロボコン』を観ていない。観ていないことを公開している作品はいくつかあるが,これもその一本。まあ,それはそれとして。小栗 旬も初監督映画が話題にはなったものの,集客はいまいちだったようだ(私も観ていない)。そんな2人の主演だったが,ひとまず公開後の滑り出しはいいようです。
ということで,けっこう宣伝費もかけている様子の本作。漫画を原作にする山岳救助の物語。長野県警の一つの勤務先としての日本アルプスでの遭難者の捜索という任務に就いたのが長澤まさみ演じる女性警官。表向きは「婦人警官のミニスカート制服とはおさらばしたい」という消極的な理由をつけているが,実は彼女には山岳救助隊に入りたいという強い意志があった。一方,小栗 旬演じる男性は警官ではない。ただ,一年中日本アルプスで山とともに生活をしている「山バカ」で,山岳救助ボランティアとして活動している。でも,映画のなかで登場する救助の場面の多くに彼が関わっていたり,単独で救助をしたりという物語展開。
詳しい説明は要りませんね。ともかく,長澤演じる女性は,小栗演じる男性と出会って,成長していくという物語です。山岳救助隊長を佐々木蔵之助,同僚に石田卓也,山荘の食堂のおばさんに市毛良枝,救助ヘリのパイロットに渡部篤郎,遭難して救助される青年に尾上寛之と豪華なキャストだが,それぞれがこれまで演じてきた得意とする役どころをそつなく演じている,そんな印象の映画。小栗氏もそんな感じ。もちろん,雪山のシーンなどに苦労はあっただろうが。そして,長澤まさみ。本作ではいつも鼻につくいやらしい喋り方は少なかった。役どころからして,男勝りに頑張る女性だから当然といえば当然。何とか認められたいと成長しようとする女性を演じたことで,一皮剥けたとまではいえないが,よかったのではないかと思う。映画自体はお涙頂戴的なところ満載だったが,基本は漫画だからこんなものでしょう。

5月22日(日)

土曜日,日曜日と妻が撮影の仕事が入り,撮影場所が近所だったものの,数時間は息子を私が世話することになった。思いのほか,いい天気で始まった日曜日。撮影が終わった午後,私は比較的近所で映画を1本観る許可をもらってでかけることにした。

府中TOHOシネマズ 『ブラック・スワン
ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞を獲得した作品。これも散々宣伝をしているので詳しい説明は必要ないが,長い間同じバレエ団に属していたナタリー演じるミナ。トップダンサー演じるのはウィナノ・ライダー。年齢的なことから退団となって,次なる新たな演目が「白鳥の湖」で,この主演を誰が演じるのかはこのバレエ団にとっても重要事項。ミナはすでに優等生的な踊りで長い間このバレエ団に貢献してきたのだが,主役を獲得するまでには至らず,次々と若手のダンサーが登場してくる。
ヴァンサン・カッセル演じる演出家とのやり取りで何とか主役をもぎ取るものの,その後のプレッシャーは大きく,そのなかで彼女は無事初日を迎えられるのか,という感じの展開。いろいろ書きたいことはありますが,これから観る人も多いと思うので,ネタバレは避けておきましょう。ナタリー・ポートマンは役者としてのキャリアが,ある意味でニナと重なっている。いつも頭脳明晰な役どころで,女の色気を売りにするような作品はあまりない。もちろん,『クローサー』などの演技は私はとても好きだし,アカデミー賞を受賞しなくても彼女は一流の女優だと思っているが,多分アカデミー賞はノミネートもあまりないと思う。まあ,バレエダンサーとは違って,女優に年齢的な制約はないが,もちろん年齢によってできる役柄という制限はある。
とにかく,何がいいたいかというと,本作はこれまでのナタリー自身の女優人生と重ね合わせてみないわけにはいかない作品なのだ。ニナにとって,この舞台が自らの命もかけるようなものであったように,ナタリーにとって本作は女優としての転換期にあたる作品なのだと。まあ,こういう演技に主演女優賞を与えるのが,この国際的でない映画祭の慣習となっている。まあ,へんな言い方だが,だからこそ彼女が受賞できたのではないだろうか。でも,個人的にはいつもどおりの力の入りすぎないナタリーをスクリーンで観るほうが私は好きだが。

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物の本質について

ルクレーティウス著,樋口勝彦訳 1961. 『物の本質について』岩波書店,330p.,660円.

ルクレーティウスは古代ローマの詩人哲学者ということになっている。訳者の巻末解説によると,著者については残された情報がほとんどなく,紀元前94年ころから55年頃まで生きていたといわれているそうだ。岩波文庫に納められた本書のことは,古書店でよく見かけたので知っていたが,いつの時代の人かもよく知らず,目次を見ても,第一巻~第六巻までと記されているだけなので,特に買う気は起きなかったのだが,先日読んだ,コスグローヴの『Geography & vision』のなかにルクレーティウスが登場したので,読んでみようと思った次第。予想したとおり,古書店で容易に入手できた。ちなみに,原著は詩作だが(ウェルギリウスは後輩にあたるとのこと),中身は自然学なので,訳者は散文で翻訳している。それはまさしく正解だ。
これがまたまた驚きの読書体験であった。アリストテレスやプラトンを読んでいるので,古代の哲学者がその後の著作家よりも神に対して忠誠心はないことは知っていたが,本書には「この世界の不完全さをみれば,この世界の創造者が完全たる神であるはずがない」と断言するのには驚く。そして,プラトンやアリストテレスが,中世よりも自由な発想で素晴らしい哲学的思索をなしているのも驚きではあるのだが,彼らは一応,万物を四大要素(火,水,土,空気)から成っていると考えていたのに対し,ルクレーティウスは基本的な構成要素を原子と考えているのだ。確かに,四大要素説とは別に原子論も古くからあるということは知っていたが,実際に読んでみるとなかなかの驚きである。
といっても,本書はあくまでも詩篇なので,アリストテレスのように,当時の学説を採用したり批判したりして論を進めるようなものではない。だからこそ,本書が書かれた時期を特定するのも難しいのかもしれない。でも,一応原子論者ということで,エピクロス派だということは間違いないらしい。でも,私はそうした原子論学派といえるような作品を読んだことはなかったので,非常に刺激的だったということです。前半はこの日本語タイトルのように,万物が原子からなるということの説明に当てられていますが,だんだん大きな話に移行します。まずは雨や雷のような地上現象の説明,そして無機物だけでなく,有機物の話もあります。動植物の話がどれだけあったかは忘れてしまいましたが,人間の生殖行為の記述もあったりして面白い。人間については,視覚や味覚などの感覚についても原子論の立場から説明がされます。これらはプラトンが『ティマイオス』で書いていたこととも似ていますが,なかなか面白い。
その後,創世記的な話に移り,一気に天文学的な次元に達し,月や太陽,そして太陽については地球上に降り注ぐ熱量にも話が及びます。そういう意味では,ミクロ物理学から宇宙論まで,非常に広範な考察を含みながらもそれを常に人間生活との関係において考察しているといえるのかもしれない。だから,再び人間の話の戻って,人間の生死,そして人間の精神と魂の話に移行します。基本的に創世を神の業とはしないのが,著者の思想の特徴ですが,創世記のバベルの塔的な内容があったりして。
ともかく,アリストテレスを読んでいても,現代の学術論文よりも素朴だが非常に論理的な筋道がしっかりしているのに驚きますが,本書はそれ以上に,自然を観察する態度が近代的で違和感がなかったりします。

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ジュリアン・ムーア

5月13日(金)

日比谷シャンテ・シネ 『キッズ・オールライト
『ハイ・アート』(1998年)や『しあわせの法則』(2002年)という小ぶりで良質な,記憶に残る作品を撮るリサ・チョドレンコ監督による共同脚本による作品。この監督の作品,2004年のものは日本非公開だったらしい。残念。本作はジュリアン・ムーアとアネット・ベニングをレズビアンカップルとし,彼女たちがお互い精子の提供を受け産んだ子どもが一人ずつ。18歳の姉を演じるのが『アリス・イン・ワンダーランド』でアリス役を演じた,ミア・ワシコウスカ,15歳の弟を演じるのが,『テラビシアにかける橋』に出演したジョシュ・ハッチャーソン,そして精子提供者を演じるのはマーク・ラファロというキャスティングは映画ファンにはたまらない。当然原題は「The kids are alright」。
脚本も魅力なのでストーリーを書いてしまってはつまらない。まあ,いうことなしで楽しめる作品です。一言だけ書くならば,ジュリアン・ムーアはさすがだということ。私が彼女を知ったのはチェーホフの『ワーニャ伯父さん』を映画化したものだと思っていたが,調べてみると,『42丁目のワーニャ』という作品で,映画のなかで『ワーニャ伯父さん』が劇中劇として使われているということらしい。当時,『ショート・カッツ』にも出ていたというから,そこで名前は知られていたようだ。しかし,私にとっては,非常に透明感のある,不思議な魅力に溢れた女優さんだった。その場では名前も覚えなかった。どちらも1994年の作品だから,1960年生まれのジュリアンは当時すでに34歳。遅咲きの女優だといえる。しかし,その後『SAFE』(1995年)という謎の映画も観ているし,『ブギーナイツ』(1997年)で前編裸で出演したかと思えば,『ハンニバル』(2001年では『羊たちの沈黙』のジョディ・フォスター演じた女性捜査官を引き継いだりしている。とにかく,知的な役も,おバカなセクシーも,哀れなおばさん役も何でもこなす。そして,50歳になった本作でも大胆な濡れ場を惜しげもなく披露しているのだ。

『シングルマン』は観なかったけど,『クロエ』は超楽しみ。

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遠い風景

滝波章弘 2005. 『遠い風景――ツーリズムの視線』京都大学学術出版会,311p.,3800円.

滝波氏は地理学者であり,それ以前にも論文は発表しているが,私にとっては1995年の『地理学評論』の掲載論文「ギド・ブルーにみるパリのツーリズム空間記述――雰囲気とモニュメントの対比」の衝撃が大きい。その後も,『人文地理』に掲載されるツーリズム関係の論文は読んでいたが,2005年に本書が発行された際,その存在は知っていたが,読む機会を失っていた。ここでも紹介したが,先日森 正人氏による旅行誌『旅』の研究書である『昭和旅行誌』を読んだところだったので,同じく『旅』の紀行文を分析した1章のある本書を読んでみたくなったのだ。ちなみに,本書には「Faraway places: poetics and politics in the age of tourism」という英文タイトルがついている。和文では風景だが,英文では場所である。また,和書名にはない,「詩学と政治学」というのは,本書を貫く基本的な認識論的でもある。実際,本文では「ジオ・ポリティックとジオ・ポエティック」と,著者が地理学者であることを強調した表現にはなっているが。
まずは目次を確認しておこう。

 プロローグ 旅,伝統,幼年期……
第1部 旅は語られる――ジオ・ポリティックな態度
 第1章 雑誌『旅』1964~1997
 第2章 『オートル・ボワイヤージュ』
第2部 伝統は創られる――ジオ・ポリティックとジオ・ポエティックの狭間
 第3章 和歌浦・不老橋の景観論争
 第4章 能登,低く鳴り高く響く太鼓
第3部 幼年期は現れる――ジオ・ポエティックの作用
 第5章 南の国のファンタジー
 第6章 都会の子ども,山村の子ども
 エピローグ ジオ・ポリティック/ジオ・ポエティック

この時期,私と同年代の地理学者の単著の刊行が続いた。影山穂波さんが2004年,今里悟之君が2006年,濱田琢司君が2006年,山口 覚君が2008年,村田陽平君が2009年に出している。既に複数冊出版している加藤政洋君と森 正人君はちょっと別格な感じだが,もし漏れている人がいたらごめんなさい。それはともかく,これらの単行本は博士論文を基にしたもので,これまで雑誌論文として掲載されたものも少なくなく,ハードカバーで大きく高価であることもあって,買わなかったり,買っても読まなかったり(著者からいただいたものもあります)。
場合によって,それは勘違いなのだが,まさに滝波さんの本書はその通り。彼はいち早く高知大学に就職して,研究だけでなく教育でも実績を積んでいたのだが,そんな高知時代の研究成果がまとめられた感のある1冊。その後,彼は私の出身大学である東京都立大学(現,首都大学東京)の准教授となるわけだが,実はいまだ面と向かってお話をしたことはない。ということで,本書は第1章と第6章の一部は既に発表された資料を用いているが,それらも大きく書き直されている。第2章は彼がフランスの研究もしているということで想像のつく内容だが,第2部の内容は,彼がそんな研究をしていたなんて全く知らなかったので,嬉しい驚きであった。私の所属している学会の雑誌で本書を紹介する書評記事は記憶にないが,私が出版当時に書くべきだったと後悔。今里君の著書と同じ出版社ながら,装丁や本文のフォント使いなど,デザイン的にもとても素敵だし,文字数の割には数日で読みきれるような内容だった。さて,順に内容を紹介していこう。
第1部の第1章は既に雑誌論文にもなっていたネタで,旅行雑誌『旅』に掲載された読者の旅行文を分析したものである。創刊時から記事も含めて分析した森氏とは違って,読者の旅行文だけに限って,30余年分を分析したもの。第2章は同じような資料をフランスの雑誌で探した結果,見つかったのが『オートル・ボワイヤージュ』という雑誌に掲載されたいくつかの読者旅行文。でも,わずか2年間の7号までの刊行で,著者の手元にあるのは3冊,そのなかの旅行文は6編だという。まあ,本のなかの1章であればよいが,これだけではちょっと論文1本にはならないような内容。でも,日本との比較の意味では面白い。
第2部はとても面白い。最近,『法社会学』という雑誌がjournal@rchiveというネット上で論文前文をpdfファイルでダウンロードできるサイトで公表されていることを知り,国立のマンション問題などの論文を読んだのだが,第3章は和歌山県の和歌浦における新橋建設をめぐる裁判を取り上げたもの。不老橋という古い橋を中心とする昔ながらの景観が保たれているということで建設反対をする地元住民の原告で,建設を進める和歌山県が被告となった裁判。面白いのが,原告側の景観の理解が非常に専門的であること。原告の代表がどんな人なのかというのが素朴な疑問だが,さすがに基本的に終わった裁判を文字資料から研究する場合にそこまでは分からないようだ。まあ,それはないものねだりだとしても,とてもよくまとまっています。
そして,第4章はちょっと驚きのテーマ。というのも,和太鼓に関しては,八木康幸さんが一連の研究を残しているのだが,著者の言葉を使えばそれは創作太鼓を対象としたジオ・ポリティックな研究といえる。それに対し,本章は伝統太鼓を対象とした,ジオ・ポエティックな研究だという。それは正直いって,私には理解しがたい,太鼓の音についての研究だ。なぜ,そんな分析が可能だというと,滝波氏自身が和太鼓奏者だというのだ。なので,ある意味で本章は趣味と実益を兼ねる研究だといえる。精確な楽譜に沿って演奏をするクラシック音楽などと違って,和太鼓には楽譜なるものはない。それを復元するために,能登の伝統太鼓の演奏を自分でも叩けるほど体にしみこませてそれを記号化して表現している。私も音楽の研究を多少なりとも手がけているが,こういうのが音楽で一番重要でありながら研究としては難しい側面であるので,そこに踏み込んだ著者に拍手。
第3部のごく一部はおそらく,既出の論文で用いられた資料だと思うが,ほとんどは高知県在住の人に調査したものなので,やはり高知大学時代に手がけた研究のようだ。特に面白いのは第5章の後半。著者が被調査者に対して,「風景日記」を書いてもらったというのだ。6人の被験者に1年間,風景を題材とする日記を書かせて,それを分析するという,なかなか素敵な発想。私では思いついたとしてもなかなか実行はできないが,これはきっと被験者も喜ぶ調査だと思う。そして,この風景日記という資料そのものがとても魅力的なのだ。まさに,ポエティックそのもの。地理学者でも寺本 潔という人が子どもに対してこういう調査を多くしていて,一昔前に魅力的な研究を良く発表していたが,大人が子どもの頃を思い出して書く「私の好きな風景」という文章の分析である第5章の前半もなかなか興味深い。
さて,ポリティックとポエティックというのは,ストリブラス&ホワイトの『境界侵犯』でも用いられているもので,カルチュラル・スタディーズなどではよく使われる組み合わせ。私もこの組み合わせは常に意識しているが,やはりどうしてもポリティクスの方に重心がいってしまう。しかし,著者はむしろポエティックの方に重心があって,私のようなあらかじめ書かれた資料の分析では捉えることのできない,市井の人々の想像力や創造性を汲み取ろうという姿勢がいいと思う。本書はツーリズム研究ということで位置づけられるのは第1部のみだが,そこにおいても,「ツーリスト経験」なるものを積極的に評価していこうというのが彼の立場のようだ。
そのうちじっくりと研究の話題ができるような関係を築きたいものだが,それは難しいのかもしれない。

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ひとつではない女の性

リュース・イリガライ著,棚沢直子・小野ゆり子・中嶋公子訳 19. 『ひとつではない女の性』勁草書房,p.,2700円.

前に紹介した『差異の文化のために』が1980年代に書かれたものだったが,本書は1977年に刊行されたイリガライ初期の作品。本書は1974年の『検視鏡,他の女について』(日本語訳なし)の反響下で書かれたものといえる。1982年の『基本的情念』と1984年の『性的差異のエチカ』は難しいながらも,理解しようとする努力がなんとか意味を成すようなものだが,本書は『差異の文化のために』と同様に,努力ではどうにもならず意味が私の思考をすり抜けていくような文章も少なくなかった。といっても,いくつかの文章からは学ぶことも多かった。
そんな本書は以下の11つの文章から成っている。

鏡,その向こう側から
ひとつではない女の性
精神分析理論再考
言説の権力,女性的なものの従属
コジ・ファン・トゥティ
流体《力学》
質問録
女の市場
商品たちの間の商品
《フランスの女たちよ》,もう何の努力もしないで……
わたしたちの唇が語りあうとき

「鏡,その向こう側から」は『測量士たち』という映画を『鏡の国のアリス』と関連付けながら綴った文章で,その映画を知らない私には意味不明。「質問録」はそのタイトルどおり,『検視鏡』にまつわるさまざまな質問に答えるもので,これも『検視鏡』を呼んでいない読者にはちょっと理解しがたい。「わたしたちの唇が語りあうとき」は本書における精神分析批判の実践版といえようか。このテーマは『差異の文化のために』でもあったが,基本的に言語というものは男性が作り上げたもので,特に科学的言説や文体がそうである。その同じ言語を用いて男性性の批判をするだけでは,言語を,そしてひいては社会を女性のもとに取り戻すことができない。ということで,論理一貫性とか,主体の固定的なアイデンティティなどを前提としない文章を綴っているのがこれ。
こうした特殊な文章を除けば,前半は精神分析批判に当てられ,「流体《力学》」を中間に挟む形で,後半はマルクス『資本論』における商品論の枠組みで女性の性の商品化批判を行っているといえる。「流体《力学》」は物理学における剛体力学に対する流体力学の関係を,男性的なものに対する女性的なもののアナロジーとして用いている。前者は支配的で,明瞭な唯一解に導かれるのに対し,後者は従属的で複雑で唯一解にはたどり着かない。
全体的にそんな論調だから,精神分析批判も,精神分析という説明原理がそもそも女性的なものの存在を認めていないという根本的なところを出発点としている。特に,訳者もあとがきで書いているように,「精神分析理論再考」は前半でそうしたフロイト理論を批判して,後半でフロイトに反して女性的なものを精神分析理論に取り入れようとしてきた著者たちの議論を丁寧に解説している。比較的分かりやすい文章である。そして,批判はフロイトからラカンへと移行します。「流体《力学》」にもラカン批判が随所に挿入されています。
「女の市場」は実はけっこう以前に『現代思想』に訳出されていたのを読んでいる。それがイリガライの名前を知った初めてであり,訳者の一人が山崎カヲル氏だったから恐らくコピーして読んだのだと思う。しかし,その内容はすっかり覚えていない。だから,本書で読むのも新鮮だったのだが,この文章は次の「商品たちの間の商品」を読むことでより理解されやすくなると思う。つまり,狭義の性産業だけでなく,女性は男性の間の商品として機能しているのであり,社会全体が男性の同性愛関係によって成立しており,見かけ上の異性愛はあくまでも,男性同士の関係を成り立たせる媒介にすぎないのだ。こんな理解でいいのだろうか。「《フランスの女たちよ》,もう何の努力もしないで……」の前半はその具体例というか,ポルノグラフィ分析である。ポルノを消費する男性は,女性そのものの性を消費するのではない。そこでは,男性に支配されている女性の姿を見るのである。

まあ,ともかく相変わらずイリガライの文章はそう簡単に理解をさせてくれない。それは巻末につけられた「訳者解題」にも明瞭にあらわれている。そもそも自著の翻訳に対して,訳者による解説の掲載をイリガライは認めていないのだそうだ。その代わりに本書では「日本語版への著者あとがき」が掲載され,第三者的視点で自らのプロフィールを紹介している。しかし,日本語訳者たちは解題をつけた。そのなかで,「すみません。努力しましたが,これ以上よい日本語にはなりませんでした。」と告白する。

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大学始まる

5月6日(金)

震災の影響で講義開始が遅れた法政大学。ようやくこの日が初日。ここ数年受講者が低迷していて,私の担当は今年度いっぱいで打ち切りだが,初日の受講者は20人程度。でも,熱心に聴いてくれそうな学生もいて,私的には何とか安泰といったところか。前期の授業回数が減っているので,初日だけど時間きっちりやって,有楽町に移動。妻は近所のママ友と買い物の予定があるとのことで,私は一人で映画を観てから帰る予定。

日比谷シャンテ・シネ 『ブルーバレンタイン
シャンテ・シネで公開中の2本のうちどちらかを観ようということで,時間的に間に合ったこちらを選択。昼食を取る時間がないので,近くのコンビニエンスストアで缶コーヒーとパンを買って,予告編までに急いで食べ終わる。
さて,本作は若手で活躍中のライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズのラヴ・ストーリー。なにやら出会ってから数年間のかれらの関係を,時間を行ったり来たりしながら進行するという前情報だけ仕入れて望む。コメディではなく,むしろ悲劇的なものを予想していたので,冒頭のシーンにはちょっと戸惑う。冒頭のシーンは可愛い娘と髪の毛を抜いて加齢を表現したライアン演じる父親との朝のシーン。恐らくこれが物語上では,後の方の時間だと思われる。悲劇を予想していたので,子どもがいるということにはちょっと驚くが,この子どもが悲劇の根源になる可能性も捨てきれない。そして,いまだ母親が登場していないのが悲劇なのかと想像しながら観ていると,父娘2人で,まだ寝ている母親のベッドに侵入するということで,なにやら幸せな家族像が描かれる。
そして,そこからは前知識どおり,ライアン以前の恋人とのセックスシーンなど,2人が出会う前の場面や,まだ髪がふさふさのライアンが引っ越し業者に雇われ,その先輩に女の軟派の仕方を聞いたりというシーン。それにしても,ミシェルの脱ぎっぷりの良さは気持ちいい。1980年生まれ,30歳のミシェルだから,日本人女優で似たようなところを探すと誰だろうか。何度か脱いだことはあるが主役はさほど多くない映画中心の女優,江口のりこか。まあ,ともかく日本人女優(あるいは日本映画)は出し惜しみしすぎるような気もしないでもない。
そこからいろいろ前後しながら映画は進行します。まあ,よくありがちな愛し合いながら傷つけあってしまう2人の物語。でも,ちょっとこの作品の2人は腑に落ちないところがある。それが本作の魅力なのか,あるいは評価を落としてしまう点なのか,それは観る者によると思うが,そういう意味では解釈を鑑賞者に委ねる開かれた作品だと思う。

5月7日(土)

翌日は東京経済大学の初日。やはり受講者は昨年度と同じで30人程度。なぜか,ここ数年は教員免許のために私の講義をとる人が減っている。社会科免許では必須科目だと思うのだが,ちょっと気になる。

この日は地理学者仲間の杉山和明氏の新居にお招きされた(私が一方的に行きたいといったのだが)ので,国分寺から電車を乗り継いで1時間移動する。妻と息子も自宅から1時間半かけて移動してくる。最寄り駅で私たちは遅めの昼食を取ってから待ち合わせし,彼の自宅に向かう。うちの息子が杉山氏に会うのも初めてだし,うちより3ヶ月前に産まれた杉山家の長女にわたしたちが会うのも初めて。私をすっかり遊び友だちだと思っている杉山家の長男に会うのも久し振り。身長も1mを越え,体重も19kgという成長ぶりに驚く。長女もうちの息子より3ヶ月お姉さんだが,体重はちょっと息子の方が重い。でも,やはり身体能力はかなり違う。さすが3ヶ月の違い。そんなこんなで,地元ならではのお菓子を買ってきてくれていて,その他にもフルーツやお茶などいただきながら,母親同士は子育て談義。じゃあ,父親同士は研究話といきたいところだったが,私は予想通り長男につかまり,老体に鞭を打って遊び相手になる。でも,杉山家にも導入されていたWiiでゴルフやボーリングをやったのは楽しかった。ポケットモンスターのカードゲームも無理やりやらされたが,われわれの時代の人生ゲームなどより複雑で難しい。でも,電子ゲームは一度に30分以上やらないという家庭内ルールを作ってしっかり実行している長男の様には成長のあとをみせつけられた。
なんだかんだで,すぐに18時近くになってしまい,お暇する。わが家も息子が本格的に活動を始める前に,もうちょっと広い家に転居することを検討せねば。

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歯磨き開始

息子も生後6ヶ月を過ぎた。先日栃木のおばあさんたちに話を聞いて,おまるを活用しようと思い立つ。といっても,おむつなし育児ほど大袈裟なものではなく,おむつを替えるついでに,おまるに座らせてみたのだ。おまるといっても,おまるそのものではなく,雑貨屋で売っていたホーロー製のボウル。これが今の息子の大きさにちょうどよい。で,座らせると,ほどなくして息子は下半身に軽く力を入れると,おちんちんがむくっと膨らみ,シャーとおしっこをするではないか!この日はなんと2回成功。しかし,その後は2日間成功なし。簡単なのか,難しいのか。
そして,もう一つ始めたのは歯磨き。一応,親が磨いてあげる用の普通の歯ブラシも買ってあるのだが,先日佐野アウトレットのcombiショップで見つけた,子どもが自分でカミカミ遊びをしながら磨くという歯ブラシを購入。本当に磨けているかどうかは分からないが,ともかく気に入った様子。

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5月4日(水,祝)

この日は妻が午前中『八日目の蝉』を観,府中で待ち合わせ,息子を渡してその後私が別の映画を観るというスケジュール。その途中,授乳で立ち寄った府中伊勢丹で,先日うちにも遊びに来てくれた友人にばったり。

府中TOHOシネマズ 『阪急電車 片道15分の奇跡
私が選んだのはこちら。私的には戸田恵梨香が目当てで,谷村美月も出ているし。最近の戸田恵梨香はテレビ中心だし,なにやらネットニュースでは第二のエリカ様などと撮影中の態度が悪いだのといわれていたりしますが,テレビなし生活の私はこうしてスクリーンで彼女の姿を観たかったわけです。しかも,神戸出身の彼女ですから,舞台が地元でしかもローカル色の強い作品だといえば尚更。主演は一応,中谷美紀ということになっていますが,オムニバス的この作品の中心は宮本信子演じる老女。
一昔前に流行ったオムニバス形式の作品は,観るたびにいろいろ書いていますが,本作品は片道15分という短い路線の沿線物語という非常に限定しているので,それぞれのエピソードに関わる登場人物たちの関わりについてもそれほど不自然に感じずに観ることができる。でも,まあ単に乗り合わせた人たちが関わっていくってことはそう多くはないとは思うけど。しかも,作品に登場する関西学院大学は私の知り合いの地理学者で卒業生がけっこういるので親しみも湧きます。ちなみに,ここの大学生役で登場する谷村美月ちゃんと勝地 涼君の関係もちょっと漫画っぽいけど,微笑ましいです。そしてTOMさんのmixi日記で情報を得ていた,戸田恵梨香の親友役で登場するシークレットゲストにはけっこう驚いた。でも,その俳優さんも大阪出身ということで,本人同士も友人同士なのかもしれません。
中谷美紀のエピソードは,婚約相手を会社の後輩に寝取られるという設定ですが,その後輩を演じるのが安めぐみ。中谷美紀はどんな役をしても中谷美紀ですが,スクリーン上にたまに出てくる安めぐみは毎回印象が違って,意外に名脇役なのかもしれないと思ったり。まあ,ともかく細かいところではツッコミどころや面白いところがいっぱいある作品。これといった主軸となる物語がなく,ちょっと物足りないなあと思いながらも,あっという間に2時間が経ってしまう。そんな不思議な魅力に溢れた作品ですね。かつて,泉 麻人のコラム集で,地下鉄の1駅で読める程度のものと『夕刊フジ』に連載された『地下鉄の友』という作品がありましたが,本作の原作も毎日の通勤・通学で気軽に読めるような作品なのかもしれない。

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子どもの日

4月30日(土)

館林から鷲宮まで,意外と近い。駅から母の家までかなり距離があるので今回はベビーカーを持っていったのだが,あまり活躍する場面がなかった。結局,この駅から20分の道のりもベビーカーに乗っていられたのは10分ほど。あまりに泣きわめくので,途中からは抱っこひもに変更。
到着すると,なんと五月人形が出してありました。そういえば,子どもの頃に見覚えがあるもの。兄と私は2歳違いなので,どっちに買ってもらったというわけではないと思うが,祖父から買ってもらったもののようだ。ガラス箱の中に飾るような兜ではなく,小さいながら鎧一式。まあ,和紙やプラスティック,アルミなどで作られたものだが,妻は大喜び。最近遊びに行ったどの家にも立派な兜があったりして,日本人でもないのに(だからかも)欲しがっていた。私はそういういかにもなものは欲しくないし,大体狭い我が家に飾る所も,しまう場所もない。まあ,ということで,鎧を私が組み立て,もっていった一眼レフデジカメで撮影会。数年前に母に買ってあげたコンパクトデジカメもこういう時に役に立ちます。母はそのほかに,趣味でやっている押し花で兜を作成。これがなかなか素敵で,これだけ持ち帰らせてもらいました。

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最近,母の一番上の姉が亡くなったということで,しばらく大阪に滞在していたとのこと。暇なのでやってもらったというネールアートだったり,ちょっと若々しいパーマのヘアスタイルだったり,かなり元気そうで安心。ということで,4人で父の墓参りも歩いていけました。そんな感じで,1泊させてもらう。しかし,この日の夜が大変だった。既に,前日も外泊していたし,栃木では慣れない人が周りに多かったせいか,この夜は夜泣きが激しくなかなか寝てくれない。外泊だと離乳食も面倒ということで,母乳だけの2日間だったが,そんなこともあって,ウンチや睡眠などの一日のリズムがすっかりくずれてしまう。
翌日は雨の予報でしたが,何とか持ちこたえて帰宅。やはりなんだかんだで旅は消耗しますね。

5月2日(月)

翌日は前にも書いたように,平日だけど会社はお休み。私は一人で映画を観に行かせてもらう。

渋谷TOEI 『抱きたいカンケイ
渋谷のチケット屋を回るが,この作品の前売り券はどこも売り切れ。さほどヒットしているわけではないと思うが,配給ですっかり東宝に遅れを取っている東映だから,元々発行部数が少ないのかも。後で調べたことですが,監督はなんと『ゴースト・バスターズ』シリーズのアイヴァン・ライトマンだという。『バラフライ・エフェクト』や『バレンタインデー』で見たことのあるアシュトン・カッチャーとナタリー・ポートマンのラブコメディ。まあ,基本的にはナタリー・ポートマン出演作品はなるべく観ることにしているが,なんといっても,セックス・フレンドから始まる恋,というナタリーには似つかわしくない設定というのが興味を惹きます。
しかし,結論からいうとやはりちょっと通常当日料金1800円を払ってまで観る作品ではない。ナタリーもそれなりに加齢しているし,この手の作品には中途半端な年齢か。でも,アカデミー主演女優章を取るほどの女優が出演するこうした準B級映画ってのもそれはそれで存在としては面白かったりする。

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脱稿

3月30日に日本地理学会春季学術大会で発表するはずだったネタを書き終え,某学会に郵送しました。我ながら早いな。というか,この手のものはある意味で文字数をかせぐのは簡単。説明すべきことが多いので,一つ一つの文章を思い悩んで搾り出したり,言葉を選んだりする必要がほとんどない。あるとしたら,どの事実を書き込んで,どの事実は書かないのかを選別することくらい。
そのネタってのは下北沢を中心とした音楽の話なんだけど,私にとっては初めての地域調査もの。なんて偉そうにいっても,調査のつもりで調査したわけではない。ここ数年遊び歩いていたことを論文調にまとめただけだ。なので,こんなこと論文に書いていいのだろうかという線引きが意外と難しい。ある意味では,日記に書いているような調子で書いちゃっていることもけっこうある。ある意味で,査読されて戻ってくるのが楽しみだったりする。
そして一つの気がかりが著作権料。今回は著者や出版社にお願いをするだけではすまない。私の過去の論文では女性雑誌のイラストマップや,写真集の写真作品など,著作権を取って,再掲したものがあるが,著作権料という形でお金を払ったのは一度だけ。それも音楽ネタでしたね。15年前の甲斐バンドアルバムの分析。それは月刊『地理』に掲載されたものなので,著作権料は原稿料から天引きという形で私が払ったのだが,諸々の手続きは発行元である古今書院がやってくれた。音楽というジャンルは日本音楽著作権協会(JASRAC)が一手に管理しているので,ミュージシャンに直接お願いしても意味はない。非常に機械的に料金設定がされているようだ。ちょっとホームページで確認したら,最低の発行部数でも1曲あたり5000円強するそうだ。今回2曲引用しているから,1万円強なり。まあ,今後のやりとりで引用をなくす方向になるかもしれないが。

4月29日(金,祝)

さて,ゴールデンウィーク到来。5月2日の月曜日は連休の合間の平日だが,私の行っている会社は,ファイルサーバのメンテナンスをするとかで,半強制的に休暇を取らされる。5月6日の金曜日からはようやく大学の講義が開始されるということで,会社の方はなんと10連休。後半は友達が遊びにきたり,新居を購入した友人の家を訪ねたりなどの予定があるので,前半に実家を訪れることにした。今回は私たち夫婦の母親2人,すなわち息子にとっては2人の祖母に会いに行くという予定。
まずは,妻の母親が住む栃木県佐野市まで。今回は歩くことも多いことを想定して,ベビーカーで行くことにする。乗換えが多いと電車もけっこう大変なので,新宿から佐野行きの高速バスに乗ることにする。しかし,私たちは普段車に乗ることが少ないこともあって,ゴールデンウィーク初日というのを甘く見ていた。この高速道路は首都高速から東北自動車道へと乗り継ぐわけだが,ほとんど全区間で渋滞にあってしまった。予定では1時間半強で到着の予定が,予定よりもプラス1時間かかった。でも,お昼時に乗ったので,空腹はあったが,特に急ぐ旅ではないので,それほど苦にならず。乗車中に息子のおむつを変えたりして,車内はそれほど混雑していなかったので,ほぼ快適な旅。到着は佐野プレミアム・アウトレットの近くにバスターミナルがあるので,アウトレットのなかのベーグル&ベーグルで食事。ちょこっとcombiなどのショップも覗いたりして,妻の母親夫婦が車で迎えに来てくれた。なんと,この日のためにチャイルドシートを購入してくれたのだが,息子はこのなかで大泣き。座る方も座らせる方も慣れていないので仕方がありません。
ここでは妻の子どものころの写真を見たり,近所をお散歩したり,お隣さんに息子を見せに行ったり。ここでおばあさん2人にいろんな話を聞く。昔の育児のこととか,息子夫婦の子どもの躾のこととか,意外に勉強になりましたね。夕食はマグロのカマだの,天ぷらだので満腹。この日はこの家に泊まらせてもらって,翌日は近所のラーメン屋で昼食を取る。そうそう,宇都宮といえば餃子だが,佐野といえばラーメン。でも,なにかローカル色のある独特なものではなく,いたってシンプルなラーメン。帰りは群馬県の館林まで送ってもらって,東武伊勢崎線にて鷲宮まで。

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