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遠い風景

滝波章弘 2005. 『遠い風景――ツーリズムの視線』京都大学学術出版会,311p.,3800円.

滝波氏は地理学者であり,それ以前にも論文は発表しているが,私にとっては1995年の『地理学評論』の掲載論文「ギド・ブルーにみるパリのツーリズム空間記述――雰囲気とモニュメントの対比」の衝撃が大きい。その後も,『人文地理』に掲載されるツーリズム関係の論文は読んでいたが,2005年に本書が発行された際,その存在は知っていたが,読む機会を失っていた。ここでも紹介したが,先日森 正人氏による旅行誌『旅』の研究書である『昭和旅行誌』を読んだところだったので,同じく『旅』の紀行文を分析した1章のある本書を読んでみたくなったのだ。ちなみに,本書には「Faraway places: poetics and politics in the age of tourism」という英文タイトルがついている。和文では風景だが,英文では場所である。また,和書名にはない,「詩学と政治学」というのは,本書を貫く基本的な認識論的でもある。実際,本文では「ジオ・ポリティックとジオ・ポエティック」と,著者が地理学者であることを強調した表現にはなっているが。
まずは目次を確認しておこう。

 プロローグ 旅,伝統,幼年期……
第1部 旅は語られる――ジオ・ポリティックな態度
 第1章 雑誌『旅』1964~1997
 第2章 『オートル・ボワイヤージュ』
第2部 伝統は創られる――ジオ・ポリティックとジオ・ポエティックの狭間
 第3章 和歌浦・不老橋の景観論争
 第4章 能登,低く鳴り高く響く太鼓
第3部 幼年期は現れる――ジオ・ポエティックの作用
 第5章 南の国のファンタジー
 第6章 都会の子ども,山村の子ども
 エピローグ ジオ・ポリティック/ジオ・ポエティック

この時期,私と同年代の地理学者の単著の刊行が続いた。影山穂波さんが2004年,今里悟之君が2006年,濱田琢司君が2006年,山口 覚君が2008年,村田陽平君が2009年に出している。既に複数冊出版している加藤政洋君と森 正人君はちょっと別格な感じだが,もし漏れている人がいたらごめんなさい。それはともかく,これらの単行本は博士論文を基にしたもので,これまで雑誌論文として掲載されたものも少なくなく,ハードカバーで大きく高価であることもあって,買わなかったり,買っても読まなかったり(著者からいただいたものもあります)。
場合によって,それは勘違いなのだが,まさに滝波さんの本書はその通り。彼はいち早く高知大学に就職して,研究だけでなく教育でも実績を積んでいたのだが,そんな高知時代の研究成果がまとめられた感のある1冊。その後,彼は私の出身大学である東京都立大学(現,首都大学東京)の准教授となるわけだが,実はいまだ面と向かってお話をしたことはない。ということで,本書は第1章と第6章の一部は既に発表された資料を用いているが,それらも大きく書き直されている。第2章は彼がフランスの研究もしているということで想像のつく内容だが,第2部の内容は,彼がそんな研究をしていたなんて全く知らなかったので,嬉しい驚きであった。私の所属している学会の雑誌で本書を紹介する書評記事は記憶にないが,私が出版当時に書くべきだったと後悔。今里君の著書と同じ出版社ながら,装丁や本文のフォント使いなど,デザイン的にもとても素敵だし,文字数の割には数日で読みきれるような内容だった。さて,順に内容を紹介していこう。
第1部の第1章は既に雑誌論文にもなっていたネタで,旅行雑誌『旅』に掲載された読者の旅行文を分析したものである。創刊時から記事も含めて分析した森氏とは違って,読者の旅行文だけに限って,30余年分を分析したもの。第2章は同じような資料をフランスの雑誌で探した結果,見つかったのが『オートル・ボワイヤージュ』という雑誌に掲載されたいくつかの読者旅行文。でも,わずか2年間の7号までの刊行で,著者の手元にあるのは3冊,そのなかの旅行文は6編だという。まあ,本のなかの1章であればよいが,これだけではちょっと論文1本にはならないような内容。でも,日本との比較の意味では面白い。
第2部はとても面白い。最近,『法社会学』という雑誌がjournal@rchiveというネット上で論文前文をpdfファイルでダウンロードできるサイトで公表されていることを知り,国立のマンション問題などの論文を読んだのだが,第3章は和歌山県の和歌浦における新橋建設をめぐる裁判を取り上げたもの。不老橋という古い橋を中心とする昔ながらの景観が保たれているということで建設反対をする地元住民の原告で,建設を進める和歌山県が被告となった裁判。面白いのが,原告側の景観の理解が非常に専門的であること。原告の代表がどんな人なのかというのが素朴な疑問だが,さすがに基本的に終わった裁判を文字資料から研究する場合にそこまでは分からないようだ。まあ,それはないものねだりだとしても,とてもよくまとまっています。
そして,第4章はちょっと驚きのテーマ。というのも,和太鼓に関しては,八木康幸さんが一連の研究を残しているのだが,著者の言葉を使えばそれは創作太鼓を対象としたジオ・ポリティックな研究といえる。それに対し,本章は伝統太鼓を対象とした,ジオ・ポエティックな研究だという。それは正直いって,私には理解しがたい,太鼓の音についての研究だ。なぜ,そんな分析が可能だというと,滝波氏自身が和太鼓奏者だというのだ。なので,ある意味で本章は趣味と実益を兼ねる研究だといえる。精確な楽譜に沿って演奏をするクラシック音楽などと違って,和太鼓には楽譜なるものはない。それを復元するために,能登の伝統太鼓の演奏を自分でも叩けるほど体にしみこませてそれを記号化して表現している。私も音楽の研究を多少なりとも手がけているが,こういうのが音楽で一番重要でありながら研究としては難しい側面であるので,そこに踏み込んだ著者に拍手。
第3部のごく一部はおそらく,既出の論文で用いられた資料だと思うが,ほとんどは高知県在住の人に調査したものなので,やはり高知大学時代に手がけた研究のようだ。特に面白いのは第5章の後半。著者が被調査者に対して,「風景日記」を書いてもらったというのだ。6人の被験者に1年間,風景を題材とする日記を書かせて,それを分析するという,なかなか素敵な発想。私では思いついたとしてもなかなか実行はできないが,これはきっと被験者も喜ぶ調査だと思う。そして,この風景日記という資料そのものがとても魅力的なのだ。まさに,ポエティックそのもの。地理学者でも寺本 潔という人が子どもに対してこういう調査を多くしていて,一昔前に魅力的な研究を良く発表していたが,大人が子どもの頃を思い出して書く「私の好きな風景」という文章の分析である第5章の前半もなかなか興味深い。
さて,ポリティックとポエティックというのは,ストリブラス&ホワイトの『境界侵犯』でも用いられているもので,カルチュラル・スタディーズなどではよく使われる組み合わせ。私もこの組み合わせは常に意識しているが,やはりどうしてもポリティクスの方に重心がいってしまう。しかし,著者はむしろポエティックの方に重心があって,私のようなあらかじめ書かれた資料の分析では捉えることのできない,市井の人々の想像力や創造性を汲み取ろうという姿勢がいいと思う。本書はツーリズム研究ということで位置づけられるのは第1部のみだが,そこにおいても,「ツーリスト経験」なるものを積極的に評価していこうというのが彼の立場のようだ。
そのうちじっくりと研究の話題ができるような関係を築きたいものだが,それは難しいのかもしれない。

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