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2011年8月

夏休みの宿題

夏休みといっても,平日勤めている会社は私のようなアルバイトだと休みを取ればその分,給料が減るだけなので,夏休みの期間だからって1日2日程度しか休みは取らない。でも,普段その会社を休んで通っている金曜日と土曜日の大学は約2ヶ月の夏期休暇があるので,その期間は毎週週休3日。春休みは会社が忙しいので,金曜日も出勤したりするが,今会社はすっかり暇なので,週休3日。でも,学問活動の方では,この期間にけっこうやることがあって,それを夏休みの宿題と見なすことにした。そして,それらはもうじき終わってしまう8月中にほぼ終わらすことができた。

1.大学教員公募の応募書類の作成
最近また人文地理学の教員募集が立て続けに出ている。7月から8月にかけて私が作成した応募書類は4大学におよんだ。最近の応募書類は非常に複雑化していて,1つの書類を作るのも面倒くさくてしょうがないが,今回は比較的書類作成が楽な大学が続いたので,応募締め切りを前に出せるものは全て出すことができた。ずいぶん前に提出して審査待ちのも含めて5大学だ。今度こそ,どこか雇ってくれないかな。

2.『地理科学』投稿論文の修正
4月に投稿したものが引っ越し前に返却されたのだが,修正要求も厳しく,多くの資料を段ボールに詰めてしまったので,それらが一通り片付いた8月に入ってようやく手を付けた。そちらもなんとか終了。

3.東京経済大学『コミュニケーション科学』投稿論文の作成
東京経済大学で非常勤講師をはじめて10年が経ったが,未だそこの紀要であるこの雑誌に論文は書いたことがなかった。数年前から書いていたオースターの『ガラスの街』に関する研究だが,なかなか単行本にするほどの分量にならないので,ひとまず掲載してくれないかと問い合わせたら,掲載の約束はできないけど,投稿は歓迎する,ということで9月の締め切りに間に合わせて,ようやく先日送付した。

4.英文教科書の分担翻訳
突然,以前お世話になったとある大学教授から翻訳の依頼がきた。とある分野の英文教科書を複数人で分担して翻訳して出版するという企画。ちょうど原著の改訂版が今年末に出版されるのに併せて日本語版も出版してしまおうというなかなか面白い企画に声をかけてもらった。こちらは会社の昼休みを使って,こつこつと翻訳。9月の締め切りまでにまだまだ手直しは必要だが,とりあえず一通りは日本語になった。

ということで,後は11月に立教大学で開催予定の人文地理学会大会の内容を詰めることに集中できます。ほとんど構想だけでエントリーしてしまったが,9月中に発表要旨を提出しなくてはならないはずだ。それがけっこう難解なテーマなので,ちょっと大変かな。

8月27日(土)
渋谷シアターN 『スーパー!
『インセプション』にも起用されたエレン・ペイジが出演しているし,主人公の妻役でリヴ・タイラー,そして悪役でケヴィン・ベーコンという非常に豪華なキャストなのに,なぜホラーやスプラッターに特化したシアターNでの上映なのだろうか。観始めるといろんなところで納得する。まず,冒頭。アメリカ映画は基本的に関わった映画会社のロゴが冒頭に全部出てくる。本作で出てきたのは2つ。しかも,全く観たことのないものばかり。私はアメリカの映画会社に詳しいわけではないが,それなりに映画の本数を観ていれば,日本で配給される作品を製作した会社のロゴくらいは覚えるし,やはり有名どころは決まっていると思う。つまり,本作はかなりインディペンデントな作品であるということ。
そして,これはネタバレだが,予告編でもけっこう出てくるのでいいでしょう。やはりシアターNが好むような血なまぐさいシーンがけっこうあるのだ。といっても,それはシリアスな演出としてではなくパロディー的な要素が大きい。さて,主演はなんとレイン・ウィルソン。といっても,私もまだ名前も覚えていない。しかし,数週間前に同じシアターNで観た『メタルヘッド』にも出演していたのだから,その情けない顔はよく覚えている。『メタルヘッド』では妻を亡くして生きる気力をなくした男。そして,本作ではこれまでの人生で誇れることは2つしかないと言い張る不運な中年男。その誇れることの一つが,リヴ・タイラー演じる女性と結婚したことであるが,かつてドラッグ中毒の過去を持った妻を,ケヴィン・ベーコン演じる陰で役の売人をしているその街のやくざ男に寝取られてしまうという役どころ。本作では主人公が奮起して自らスーパーヒーローになるという物語。そのために,アメリカン・コミックの専門店で情報収集するのだが,そこに勤めるヒーローものオタクの女の子を演じるのがエレン・ペイジ。またまた,ぶっ飛んだ演技を見せてくれます。
でも,残念ながら後半は予想外の展開になってしまい,残念。まあ,いかにもB級なてんかいだといえないこともないが,もう少し情けないヒーローのままで終わらせてほしかった気もします。

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銃・病原菌・鉄(下巻)

ジャレド・ダイアモンド著,倉骨 彰訳 2000. 『銃・病原菌・鉄(下)――13,000年にわたる人類史の謎』草思社,332p.,1900円.

以前にもこちらで上巻を紹介したが,その下巻。上巻は第3部に入って,本のタイトルにもある病原菌の話で終わってしまった。下巻も引き続き病原菌の話かと思いきや,話は一転してしまう。まずは目次を。

第3部 銃・病原菌・鉄の謎
 第12章 文字を作った人と借りた人
 第13章 発明は必要の母である
 第14章 平等な社会から集権的な社会へ
第4部 世界に横たわる謎
 第15章 オーストラリアとニューギニアのミステリー
 第16章 中国はいかにして中国になったのか
 第17章 太平洋に広がっていった人びと
 第18章 旧世界と新世界の遭遇
 第19章 アフリカはいかにして黒人の世界になったのか
エピローグ 科学としての人類史

こうして上巻同様,目次を書いてきてなんだが,原文と大きく違うタイトルとほぼ直訳に近いタイトルがある。前にも書いたが,著者のジャレド・ダイヤモンドはニューギニアの鳥類研究を専門とする,進化生物学などを肩書きとしているが,現在は地理学に籍を置いている。そんなこともあって,日本での紹介ではほとんど地理学というのは前面に出てこないが非常に広く受けいられているようで,その一方で地理学者はほとんど彼のことを無視しているという状況で,地理学者として本書に関して何か発言するべきだということで,昨年まで英語の文献を集まって読んできた4人で,本書を検討することにした次第。4人のなかで米国居住経験を持つ二村君が原著との突き合わせ担当で,先日原著を持って集まった。それによれば,日本語訳と,その後加筆された原著とではいくつかの相違があるのが分かった。一つは上にみたように,章のタイトルの変更。ちなみに,節のタイトルは日本語訳にしかないもの。また,原著にはついている,各章の文献案内は日本語訳では訳出されてない。もともと,原著は一般読者向けの出版社から出ているが,日本語版は本書のテーマについてさらに学びたいという人や,著者の学術的根拠を知りたい人には何も情報を与えてくれない。また,原著ではその後,日本に関する短い章が追加されている。ちなみに,2000年に出版された日本語訳はそれなりに売れているようで,増刷を重ねている。もうそれなりに稼いでいるのだから,そうした著者による加筆も含め,改訂版を出してもいいかと思うが,訳者は専門分野とは全く関係ない職業翻訳家のようなので,同じ訳者による改訂は難しいのだろう。
さて,前書きが長くなったが,内容に移ろう。目次に書いたように,病原菌の話から一転して文字の話に移る。続いて,世界中の不平等状態を生み出したものであると同時にその結果でもあるさまざまな技術であるが,それがある社会で独自に発明されたものなのか,それが伝播したものなのかということを理解することは,本書のテーマにとって重要である。よく「必要は発明の母である」というが,著者はそれを逆さにする。彼の主張によれば,発明は必要から生まれることよりも偶然によるものが多いということと,発明された技術が伝播すると,これまでなかった必要が新たに生まれるという論法。続いての社会組織の話は,社会学者が長年にわたって詳細に研究していることを非常に単純化し,社会組織とその支配の仕方は社会の人口規模によって決まるという非常に大胆なもの。まあ,これはこれで面白い。
第4部は日本語訳でなにかと「謎」や「ミステリー」という語が好まれ,バミューダトライアングルとか,ナスカの地上絵とか,モアイ像とか,そんなもの好きな読者を想定しているような書きぶりのようにみえる。まあ,実際はそんなことないのだが,本書の流れからいうと総論に対する各論的な,なにやら付け足しのようにも思える。第4部には,これまでも登場してきたニューギニアや中国などの議論があり,逆にこれまでほとんど登場しなかったアフリカの話もあり,重要ではあるのだが,本書の構成はやっぱりちぐはぐ感が否めません。
そして,エピローグ。突如,ダイヤモンドは「歴史科学」という言葉をもちだす。人類の歴史は旧来の人文科学としての歴史学ではだめなのだという。歴史学も他の自然科学と同様の方法で論証されるべきだという。それが彼が本書で行った方法論であり,大きな時空間スケールにおける人間の歴史を自然環境から説明していこうという立場である。もともと自然科学者としてのダイヤモンドはもちろん,フェルナン・ブローデルの歴史学などにはまったく言及していない。でも,このエピローグに含まれている「なぜ中国ではなくヨーロッパが主導権を握ったのか」という説明には人為的な歴史的偶然性が決定的な要因となるという。
本書は読者をぐいぐいと引き込む文体が魅力であるといろんなところに書かれているが,私にはその魅力は全く理解できない。苦痛で読み進めないほどではないが,全般的に記述は退屈で,かといって私にとっては画期的な歴史解釈が提示されているわけでもないので,あまり刺激的な読書とはいえない。
にもかかわらず,日本でもかなり好意的に受け入れられているのはなぜなのだろうか。これから考えたいと思う。

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涼しくなりましたね

先日の日記で,私が使うパソコンがWindowsのノートから,マッキントッシュに変わった話は書いた。他にも引っ越しを機に変わったものがある。結婚前に妻との2人生活を始めてから,処分されてしまった私の私物がけっこうあった。まだまだ現役で使えていた2層式洗濯機に,1ドア冷蔵庫はしかたないにしても,1人暮らしを始めた頃につきあっていた女性が電話を買い替えたときに譲り受けた,電源を必要としない電話。やはり同じ女性のお兄さんが引っ越しのときに不要になって譲り受けたトースターは今回の引っ越しで処分された。ハンディの掃除機はかろうじて処分されていないが,妻のママ友の家が新築したついでに購入した自動掃除機によって使われなくなったサイクロン掃除機がわが家にやってきて,妻は主にそれを使うことになった。私はハンディがすっかり使い慣れているので,自分の部屋や細かいところの掃除に役立てるつもり。引っ越す前に故障してしまった炊飯器は修理代が思ったよりもかなり高かったので,処分し,妻の妹の引っ越しによって使わなくなったものを譲ってもらった。そんな感じで,他にも妻の母親からトースターとホームベーカリーをもらってしまった。ホームベーカリーは私自身が妻の誕生日におねだりされていたのだが,妻が母親と一緒に家電量販店にいたときに,欲しいといったら買ってくれたという。私は導入についてさんざんいろいろ考えていたのに。
まあ,そんなことで私が長年愛用してきたモノたちは,家族生活のなかで次々と姿を消していく運命にある。

8月19日(金)
府中TOHOシネマズ 『ロック〜わんこの島〜
三宅島噴火の話をテーマにした映画。撮影はおそらく1年前とかに終わっていたのだろうが,今回の震災後の公開となったため,いろいろと話題になっていた作品。三宅島は会社の仕事で若干携わったことがあったし,主演の佐藤隆太はともかく,その妻役の麻生久美子という配役が気になって観ておきたいと思った作品。でも,2人の子どもを演じた子役の土師野隆之介がすごい良かったし,主役の母親役が倍賞美津子ってのも嬉しいところ。他にも脇役がけっこう豪華です。思ったよりもとても良くできた映画だったと思う。噴火災害の様子も実際のところはよくわからないが,かなり違和感なく復元されていたと思う。そして,個人的には麻生久美子の役どころがとても良かった。やはり彼女はすばらしい映画俳優だと思う。ただ,この映画の一つだけ残念なことは,事実に基づいて,噴火があって避難してから4年後に島に戻るという設定で,小学校2年生だった子どもが小学校6年生になるので,当然俳優は変わるのだが,いい演技をしてきた隆之介君に変わって,顔にはほとんど面影を感じることができない子どもが出てきて「ロックー」と犬の名前を呼んでも,あまり感動的ではなかった,というところぐらいだろうか。

8月21日(日)
新宿シネマスクエアとうきゅう 『大鹿村騒動記
原田芳雄さんが亡くなったということで,最後の作品である本作は是非観ておきたかった。本当につい先日『奇跡』での出演を観たばかりだったので,本作の完成披露試写会のニュースでの痩せ細った彼の姿はかなり衝撃的だったが,案の定数日後に他界されてしまった。原田芳雄氏は実物を見たことはないが,なぜか非常に親しみを感じていた俳優。しかも,その親しみはよくスクリーンで観るということだけではなく,なぜか下北沢の街角で見かけても不思議ではないという意味合いでの親しみだった。
監督は坂本順治。有名な大作が多い監督だが,つい最近地味な作品も撮ることを知って,毛嫌いはしないようになった。ちなみに,この映画館では原田氏の死と関係するかしないかは分からないが,90分以上ある作品なのに,当日券が一律1000円であった。
本作は実在する田舎町の民衆歌舞伎を舞台にする。多くの人に観てもらいたいので詳しい説明はしませんが,ともかくいろんな意味ですばらしい作品。瑛太や松たか子,そして助演級で出演している冨浦智嗣などの若い俳優から,原田氏と同世代も多く出演し,三国連太郎は佐藤浩市との親子出演も果たしている。ともかく今の時代に観るべき映画。

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エバリスト・カリエゴ

ボルヘス, J. L.著,岸本静江訳 1987. 『エバリスト・カリエゴ』国書刊行会,200p.,2000円.

私はどうにも分かりにくい本に固執する傾向がある。まあ,それは致し方がない。自分にとって理解しやすいものというのは自分の理解の範疇にあるということで,そこから新しい思考は生まれにくいと思ってしまうからだ。日本ではボルヘスはビッグ・ネームの作家だと思うが,決して分かりやすい作品を書く人だとは思えない。難解だというのではなく,とらえどころがないといった方がいい。
そんなボルヘスの本も少しずつ収集しては読んでいる。しかも,早めに日本語訳された本の方が装丁などが素敵だったりするので,ある意味ではコレクションとして所有しているだけで一種の悦びがある。さて,ボルヘスがなぜとらえどころがないかというと,彼にとってはジャンルというものが無意味だからだ。本書もタイトルだけからすると意味不明。それもそのはず,「エバリスト・カリエゴ」とは彼の祖国アルゼンチンのほとんど無名の詩人の名前だからだ。
しかも,中身を読んでいても,それが詩人の伝記だなんてことはまったく忘れてしまうような記述も少なくない。「なぜ私はこんな本を読んでいるんだろう」と思ったりしながらも,この本のどこかに何かが隠れているはずだ,あるいはこの本を読むことで,何か自分でも予測できないような思考が現れるかもしれない,とひたすら活字を目で辿る。そんな読書。
ちなみに,ボルヘスが本書で取り上げたこのカリエゴという詩人は若くしてなくなって,ブエノスアイレスの(おそらく下層階級の集まるような)地区で過ごしたという。本書でもカリエゴの詩がその「場末」な雰囲気をよく表現していることが評価されている。訳者の解説のなかでも,カリエゴの作品が,そしてボルヘスの本書がある種のブエノスアイレスという都市を記述したものだという。都市研究,そのなかでも都市の記述というのは私の研究領域でもあるが,私にはとても本書を都市誌であるとは読めなかった。それは基本的に東京という都市しか経験していない私にとってはあまりにもブエノスアイレスは異質だからだろうか。

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学問の方法

ヴィーコ著,上村忠男・佐々木 力訳 1987. 『学問の方法』岩波書店,229p,660円.

ヴィーコは17世紀から18世紀を生きたイタリアの哲学者(?)。『新しい学』という著作で有名。私も中央公論社の「世界の名著」シリーズで読んだが,かなり意味不明だった。最近は法政大学出版局から本書の訳者,上村氏による新訳が出版されたが,なんと5巻におよぶ。「世界の名著」版は抄訳だったのだろうか。ヴィーコはサイードが再び脚光を当てられているようだが,日本ではこの上村氏がいくつか関連書を出している。ヴィーコはこの時代にデカルト批判などをして「新しい学」を提示したということから,科学における転換期における現代だからこそ,見直されているのだとは理解できるのだが,なかなかヴィーコ自身の文章は読んでいても頭に入ってこない。この時代のことは結構好きで勉強しているつもりではいるのだが,まだまだだ。
ということで,『新しい学』の新訳を読む前に,かなり軽い本書を上村氏の訳で読んでみたかった。本書は原題を「われらの時代の学問方法について」と題した講演である。内容は以下のように15からなる。

1 講演の構成
2 諸科学の道具から得られるわれわれの学問方法の利点
3 新しいクリティカの不都合
4 幾何学の方法が自然学に導入されることによる不都合
5 解析について(機械学との関連における)
6 われわれの学問方法は医事にいかなる不都合をもたらすか
7 われわれの学問方法がそれの目的と関連して道徳と政治の学および雄弁にもたらす不都合
8 詩作について
9 キリスト教神学について
10 賢慮に属する諸主題について技法集が編まれていることの不都合
11 法賢慮について
12 芸術作品の最良の手本について
13 印刷について
14 大学について
15 講演の結論

結論からいうと,やはり上村氏の訳であろうが,どうにもヴィーコの文章は頭にはいってこないことがわかった。そもそも,学問の方法についての講演なのに,詩やら法やら芸術,印刷,大学とずいぶん関係ない話のような気もするが,まあ要はこれらが当時のイタリアにおいては全て学問に関係するということでしょうか。訳者の解説が一番頭に入ったかな。

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引っ越しから2週間

引っ越した翌日にネットは開通していたのですが,読書日記以外の日記を更新していませんでした。そして,この日記はマッキントッシュで書く初めてのもの。私は5,6年前に購入したDELLのノートパソコンをずーっと使っていたのですが,最近は何をするにもスピードが遅くなってしまっている。もちろん,本人はまだまだ使うつもり。
一方で,前にも書いたように妻のマッキントッシュは最近新調した。こちらも私のと同じ時期に購入したものだが,ネットの通信速度など問題ない。ただし,撮影した画像データの処理などの関係でOSの古い機種では対応できなくなり,購入した。ということで,この古いマッキントッシュは下取りにでも出す予定だったのだが,引っ越して部屋も広くなったし,机の上でディスクトップのパソコンで作業した方がいいということになり,私がお下がりで使うことになった。
まあ,パソコンの話はおいておいて,私の書棚の整理には一週間かかった。妻の仕事スペースや息子の遊びスペースなども買い足すものが多く,私の書斎に残された大量の段ボール以外はようやくほぼ片付いた状態。引っ越し業者の段ボールは引き取ってもらったのだが,CDなどを先に詰めるのに,近所のコープからけっこう小さな段ボールをもらっていたのだ。しかも,府中市は段ボールの回収が月に1度しかないということで,書斎がすっきりするのはまだ2週間後。
新居の話はまた書くとして,そんな忙しく過ごすなかでも,多少映画は観ているので,それについて書くことにしましょう。

8月5日(金)
銀座シネスイッチ 『海洋天堂
ジェット・リーが脚本に惚れ込んで,ノーギャラでも出演するといっていたと予告編で宣伝されていた作品。まあ,私はジェット・リーというよりは,台湾人女優グイ・ルンメイが出演しているということで,観ようかなと思ったら,音楽は久石 譲,撮影監督がクリストファー・ドイルということで,観ることにした。確かに脚本もいいし,音楽はちょっとマンネリ化しているような気もしないでもないが,自閉症の青年を演じた俳優の演技もそこそこだし,グイちゃんの役どころはイマイチだったが,それなりにいい映画だと思う。しかし,なんとなく編集で損をしているようなちぐはぐさが否めない。まあ,私は映画製作に関しては素人でもないので,こんなことは滅多に書かないのだが,そんな印象を持った作品。


8月14日(日)
渋谷シアターN 『メタルヘッド
またもやナタリー・ポートマン出演映画。なにやら彼女がプロデュースもしている作品。彼女の出演作だから観たいってのもあるけど,純粋に予告編で観たくなる作品。交通事故で母親を失った少年が主人公。父親は事故以後,すっかり生きる気力を失ってしまう。ナタリー演じるのはなにをやってもうまくいかない独身女性役。ちょっとしたことで,主人公の少年と出会う。そんな少年の前に突如現れたのが,ジョセフ・ゴードン=レヴィット演じる長髪の怪しげな男。少年がいく先々で黒いバンに乗った彼が現れる。そのバンではいつもハードロックを爆音でかけているので,邦題が「メタルヘッド」とついたが,原題はこの男の名前「ヘッシャー」。ついには,この少年の家に住み着いてしまう。予告編で想像したほどハチャメチャではないが,薄汚れた白いブリーフ一枚で歩くジョセフの姿はなかなかいい。『(500)日のサマー』の好青年ぶりと比べると笑えます。そして,本作では主人公の少年を演じるデヴィン・ブロシューの存在がいい。将来有望です。そして,その父親も情けない顔が非常によく似合う。こういうマイナー映画,好きです。そして,あえてこの作品を上映する「シアターN」。もう一つのスクリーンで上映中の『スーパー』もやはり観たい。

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大正デモクラシー

成田龍一 2007. 『大正デモクラシー』岩波書店,244p.,780円.

岩波新書の「シリーズ日本近現代史」のなかの1冊。以前、『ネオ・リベラリズムの精神分析』で著者の言葉として紹介したように、近年はマクドナルドや吉野家、ユニクロといった安値競争が激化しているなか、アカデミズム出版業界も単価が安い新書への充実が図られている。そんななか、岩波新書でもこのシリーズが全10巻で企画されていたことを最近知った。
私事だが、最近引越しをした。未読の本も含めほとんどをダンボールに積めてしまい、読書中の本も引越し当日前に読み終えてしまい、あまり大きくない本をということで、急遽購入したもの。本当は同じシリーズの吉見俊哉『ポスト戦後社会』が欲しかったのだが、職場近くの書店にあったのは本書だった。もちろん、成田龍一は『「故郷」という物語』で知っていたし、西川長夫『国境の越え方』の日本近現代史の解釈を読むにつれ、「大正デモクラシー」については教科書レベル以下の知識しかなく理解不足だったので、ちょうど良かった。一応目次を示しておこう。

はじめに
第1章 民本主義と都市民衆
第2章 第一次世界大戦と社会の変容
第3章 米騒動・政党政治・改造の運動
第4章 植民地の光景
第5章 モダニズムの社会空間
第6章 恐慌下の既成政党と無産勢力
おわりに

目次で分かるように、本書は大正デモクラシーの解説書ではない。大正史概説といったところか。冒頭に「「大正デモクラシー」の語は、時期や内容、指し示す対象、あるいは歴史的な評価にいたるまで、論者によってさまざまに用いられている」(p.vi)と書かれているが、本書では著者なりの大正デモクラシーの定義が示されるわけでもなければ、さまざまな論者の用法が検討されるわけでもない。かといって、大正時代に起こった出来事を全て「大正デモクラシー的なもの」として解釈するほど大胆でもない。まあ、とにかく大正時代について知りたいという素朴な動機で読むのが一番いいのかもしれない。
そういう意味では、私も本書の読書を通して、大正デモクラシーとは何ぞやという問いに対して明白な答えができるような知識を得たわけではないが、いくつか知らなかったこと、知識が曖昧だったことを知ることができた。第4章や第5章の内容もそれなりに知っているつもりではいたが、大正時代ということを意識して、他の出来事と関連付けることで理解が深まる。なんといっても、都市民衆史を専門とする著者ですから、米騒動などの社会運動の高まりと、そこから市民の政治参加(といいながら、当時の政治家がどれだけ一般市民と近い立場にあったのかは不明)としての政党のあり方に関する記述は学ぶことが多かった。
でも、やはり史実が次々と説明される本書は私にとっては非常に読みにくく、改めて私の歴史的知識の足りなさを思い知らされる読書でもあった。ちなみに、あとがきによれば、成田氏は卒業論文以降、大正デモクラシーに関する研究をしていたらしい。30年以上たって、昔のテーマについてまとめるってのも素敵です。

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