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2012年2月

リヒター関連文献:日本語編

自分の記憶と記録のために,最近集中して読んだリヒター関係文献を整理しておこうと思う。かなり長くなってきたので,まずは日本語編から。

①杉田 敦 1998. 『リヒター,グールド,ベルンハルト』みすず書房.
単行本については,すでにこちらの読書日記に書いたが,私の関心に関わることはここで別途示しておこう。
著者は,書名につけた3人の芸術家に共通する作品生産の姿勢を「機械」と呼ぶ。リヒターはほぼ毎日白壁の無機質なアトリエのなかでカンヴァスに向かって絵画制作を行っている。下に示した林氏の記述によれば,そうして1960年代から制作された作品数は2000点を越えるという。そして,その多くを占める「フォト・ペインティング」という手法において,リヒターは写真の客観性に依存しているわけだが,杉田氏はそんなリヒターの作品は特別なメッセージや思想的意図を込めるようなものではなく,題材と手法を選択し,職人的に絵画作品を制作するだけで,その解釈は鑑賞者にゆだねられるという。芸術家のなかには日常性を強調する者もいるが,その場合の日常とは,芸術制作ではないプライヴェイトな部分に限定し,仕事と生活という二分法の後者に日常を当てはめる。しかし,リヒターにとっての日常とはまさに絵画を制作することであり,その日常性がリヒターの作品そのものにとって重要なのだという。それがリヒター自身が自らを「唯物主義者」と語る内容である(p.178)。そして風景画に関する記述。「何でもない風景を描いたものや,…作品までが,悪意に充ちたものに見えてくる。」(p.194)

②市原研太郎 2002. 『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』ワコウ・ワークス・オブ・アート.
リヒターの作品に興味を持ったのは数年前だったが,意外にも彼の作品に関する日本語の書籍は少なく,本書をどこかの書店で見つけた時に,とりあえず購入した記憶がある。昨年末から本格的にリヒターについて考えようとした時には,この本は読んだと思っていた。しかし,こうして中身をペラペラめくっていると,その内容は記憶にない。私はここ5,6年,このblogで読了した本は全て読書日記にしている。しかし,検索してみてもその記事が見当たらないということは読んでいないのかもしれない。まあ,どちらにせよ,読み直さなくては。

③ゲルハルト・リヒターほか著,清水 穣訳 2005. 『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』淡交社.
ということで,本書についてもこちらの読書日記を書いた。
ここでは,リヒター自身の言葉をいくつか引用しておくことにしよう。
「それは,対象の名前を知っているからにすぎません。それを忘れねばならないのです。」(p.27)
「だから死んだ都市や,アルプスが魅力的だった。コンクリートに岩壁だからね,無言の物質だ。」(p.56)
「その点,僕は極端に保守的なんだ。」「その点で僕は,あまりにもブルジョアなんで,これからもナイフとフォークを使って食事をするし,カンヴァスに油絵の具で描く。」(p.62)
「僕が芸術に求めるものは,まったく保守的ではない。」(p.69)
「だって,ほんとうは「風景画」なんかじゃないのに,そうとりちがえられるんだから。それが風景画やフォト・ペインティングの人気の一部だった。」(p.76)
「自然だけに関係している。我々には自然しかない。」(p.78)
「実に原始的です。原寸大です。」(p.88)
「作品が自己展開する」(p.117)
「C・D・フリードリヒが,あの美しい,打ち砕かれた希望の絵を描いたから…。」(p.134)
「絵画をおもしろいと思うのは,そこに見知ったなにかに似たものを探すからにほかなりません。なにかをみて,頭のなかのなにかとくらべ,なんに関連しているかをみいだそうとする。」(p.168)
「反権威主義はつねに私の一部でした。」(p.198)
「つまり,色,コンポジション,空間性など,とっくに考えられ知られていたことのすべてを忘れる。」(p.240)
「輪郭をぼかすのは,すべてを均等にするため,すべてを等しく重要で,あるいは等しく重要でなくするためにである。」(p.242)
「写真は現実の空間について伝えるが,映像としてはいかなる空間性ももたない。」(p.243)
「芸術家にとって,名前は存在してはならない。」(p.244)
「「アブストラクト・ペインティング」が私の現実を表現しているとすれば,風景や静物は私の憧憬を表している。」(p.246)
「私の風景画はたんに美しく,ノスタルジックで,ロマンティックでクラシックで,失われた楽園のような感じを与えるだけでなく,なによりもまず「虚偽」である(いつもうまくそのことを示すことができたわけではないが)。「虚偽」というわけは,我々は自然を眺めるとき美化するからである。」(p.256)→次ページにも風景に関する記述あり。
「根本的に私は唯物論者である。」(p.259)
「数えきれないほどの風景をみるが,写真に撮るのは10万分の1であり,作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。」(p.261)

④金沢21世紀美術館・川村記念美術館 2005. 『ゲルハルト・リヒター』淡交社.
この本に関しても,すでにこちらの読書日記に書いたので,詳述はしない。
ただ,リヒターの風景画についてのエルガーの一文を引用しておこう。
「それでも,リヒターにとってアブストラクト・ペインティングは風景画なしには不可能である。」(p.134)

⑤林 寿美・ブクロー, B. H. D. 2010. 『ゲルハルト・リヒター《アトラス》』ワコウ・ワークス・オブ・アート.
本書についてもこちらの読書日記に書いた。
本書のなかに訳出されているブクローの元論文書誌情報は以下の通り。
Buchloh, B. H. D. 1999. Gerhart Richter's Atlas: the anomic archive. October 88: 117-145.

⑥田中 純 2001. 地図のメランコリー――地図製作(マッピング)の喪.10+1 23: 2-9.
『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』という著書をもつ田中 純は上記ブクローの文章に触発されたのか,廃刊してしまった『10+1』という雑誌に連載していた「都市表象分析」の一文をリヒターの『アトラス』に充てた。といっても,『アトラス』の詳細な分析ではなく,リヒターを出発点にヴァールブルクの『図像アトラス・ムネモシュネ』,ボルヘスによる1分の1の地図の寓話「学問の厳密さについて」,そしてそのボルヘスを論じたボードリヤールとどんどん話を展開し,最後に再びリヒターに戻ってきながら,連載のテーマである都市の問題に帰結するという変幻自在の文章はさすが。
10+1は廃刊後,ウェブ上でデータベース化され,この文章も読むことができます。こちら

⑦浅沼敬子 2004. もうひとつの「イデオロギー」――ゲアハルト・リヒター作『1977年10月18日』をめぐる考察。熊本大学文学部論叢 人間科学・コミュニケーション情報学篇 80: 1-27.
上述した展覧会カタログの類以外に書かれたリヒター論は意外に少ない。特に,批評という立場ではなく美術史研究という立場からリヒターにアプローチしている研究者は浅沼氏が唯一といっていいかもしれない。現在北海道大学の准教授である著者は早稲田大学の出身で,本論文発表当時は熊本大学にいたとのこと。この時期にリヒターの『1977年10月18日』という15枚の連作についての論考がまとめて発表されている。
まずはこの作品群についての説明が必要であろう。ドイツで1970年前後に活動したドイツ赤軍派と形容されるアンドレアス・バーダーとウルリーケ・マインホフという2人を中心とする「バーダー・マインホフ・グループ」という政治活動団体があった。その主要メンバーは1972年の6月に逮捕されるが,それ以降もかれらの解放を要求するさまざまな暴力テロが行われたが,この作品のタイトルの日に,獄中のメンバーたちが自殺を含むさまざまな形で死体として発見されたという事件。リヒターはその事件に関わる警察や報道が所有する写真を収集し,それをモノクロのフォト・ペインティングで描いたもの。発表されたのは1989年。
本論文ではまず,このリヒター作品についての解説と,その作品の内容とリヒター自身の言葉から,作者の意図を解釈する。本作の発表時は,この芸術作品を政治的出来事として捉える解釈が一般的だったという。芸術作品の題材としてはあまりにも政治的に生々しく,リヒター自身の政治的意図が強調された。実際,リヒターは自らの制作ノートや数々のインタビューのなかで「イデオロギー」という言葉を用いている。しかし,著者はこの言葉の意味を慎重に吟味し,それは右派や左派という具体的なものではなく,もっと人間存在の根本的なものであり,そのことを作品を通して観る者に問いかけるのだという。著者は引用していないが,私は本論文を読んで,イーグルトンの『文芸批評とイデオロギー』におけるイデオロギーの定義を思い出した。つまり,全般的イデオロギーと特殊イデオロギーの区別である。著者のいう「もうひとつのイデオロギー」とは全般的イデオロギーのことであろうか。

⑧浅沼敬子 2006. ゲルハルト・リヒター作『1977年10月18日』の「歴史」性をめぐる諸言説.熊本大学文学部論叢 総合人間学篇 88: 1-14.
今度は,このリヒターの作品をめぐる批評家の解釈を整理したもの。やはりここでもブクローの存在が大きいようだ。著者は,ブクローを含む論者からは一線を引き,あくまでもいろんな人がリヒター作品をめぐって,こんなことやあんなことをいっているというスタンス。それによれば,歴史的事実を題材にしたリヒターのこの作品も,ある種の記録性を持つが,彼のフォト・ペンティングという手法やぼかしという技法が史実の伝達という意味においてどのような意義を持つのかというところが論点となる。彼の作品は絵画性と写真性のなかで,歴史性という意味においていくつかの解釈が可能となる。
こちらの論文は熊本大学のレポジトリからダウンロード可能。

⑨浅沼敬子 2006. ゲルハルト・リヒター作『1977年10月18日』における主題と技法.美学 56 (4): 55-68.
『美学』という雑誌は,日本美学会の学会誌。大学紀要という媒体はあまり読者を想定しないが,本論文は芸術研究に携わる読者たちを対象としているので,かなり洗練された印象がある文章。上記紀要論文のエッセンスを含み,イデオロギー論も歴史性の議論も踏まえながら,それらを著者なりの結論に導いていったもの。

⑩浅沼敬子 2008. ゲルハルト・リヒターのフォト・ペインティング作品(1962-67年)に使用された写真群について.北海道大学研究科紀要 125: 1-31.
浅沼さんはその後,北海道大学に移って,そちらで発表されたリヒター研究論文。これは研究論文というよりも,調査成果の報告。リヒターの作品は「フォト・ペインティング」というものとして知られる。現実の人物を目の前にして描く肖像画や,物を目の前にした静物画,現実の風景を目の前にした風景画というのが通常の絵画だが,リヒターの場合には現実を相手にしない。一枚の写真を油彩で複製するのだ。その写真には自ら撮影したものもあるが,多くの場合は雑誌などに掲載された写真を使用している。場合によってはその元の写真を入手することもあるらしいが,雑誌に掲載された写真をカメラで撮影して複製を作ることもあるらしい。そうした,フォト・ペインティングの元となる写真の多くは『アトラス』のパネルに組み込まれることになるのだが,それがそもそもどこから取られた写真なのかを特定するような研究者は少ないようだ。著者はその調査のためにドイツにおもむいて,4つの雑誌を調査し,60枚の写真の同定を行っている。もちろん,新聞記事や雑誌記事は写真だけではなく,その写真を用いて説明すべき出来事がある。どんな記事をリヒターが選んだのかということをたどることは,作者の感性や意図を探る重要な調査だと思われる。
こちらも北海道大学のレポジトリからダウンロード可能。

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週5日勤務は辛い

2月11日(土)

新宿K'sシネマ 『はさみ
『大阪ハムレット』の光石富士朗監督作品。池脇千鶴が主演ってことでチェックしてたけど,『大阪ハムレット』の雰囲気は大好きなので楽しみ。美容専門学校が舞台で,それが立地する街として中野が選ばれている。池脇千鶴はその講師。先輩講師としてなんと,竹下景子も出演している。問題のある学生として徳永えりや,『大阪ハムレット』で主演だった久野雅弘君もちょい役で出ている。『大阪ハムレット』も出演者の多くが部分的に主演になるような,オムニバス的な作品だったが,本作も幾人かの学生,そして講師自身,学生の恋人,主人公が入れ替わり立ち替わりといった感じの展開。『大阪ハムレット』はそれがいい味だったけど,本作はちょっと盛り込みすぎな感じもしなくない。でも,配役がとてもよく,個々の俳優さんが良さを発揮するような演出だったので,やはりこの監督らしいいい作品になっています。特に,『春との旅』を経た徳永えりの存在感はとてもいい。

先週からは会社の仕事が忙しくなってきて,金曜日も出勤するようになった。土曜日は友人がわが家に遊びにきて,日曜日は以下の通りなので,映画はおあずけ。

2月19日(日)

競馬好きのTOPSさんとわが家族で遊ぶ日。府中東京競馬場の近くにはサントリー武蔵のビール工場があるということで,一度ビール工場見学をしたかった。TOPSさんはよく競馬場の前に寄るそうで,この日は事前に予約をしてもらっていた。10:30から40分の工場見学,その後に試飲タイムがあります。恵比寿のサッポロビールは工場見学ではなく,博物館のようになっている館内を通過すると,有料のビール試飲室があるが,こちらはガイドさんがついてのきちんとした見学。途中で麦芽を食べさせてもらったり,というのはあるが,見学というほど生々しい体験はできない。でも,試飲は20分弱というタイムリミットはあるが,お代わりが2杯まで許されている。やはりこちらでいただくプレミアムモルツはうまかった。2杯目は普通のモルツを選んで,呑み比べもできた(さすがに私はその短時間で3杯は呑めません。2杯目も妻と半分こです)。ちょっとしたおつまみもついているし,予約時のクーポンを持参するとビアグラスもお土産にもらえる。子どものために「なっちゃん」もいただけるし,子ども用ビスケットももらった。わが家は近所なので,たまにくるのもいいかもしれない。
ビール工場から歩いて15分ほどで東京競馬場。といっても,地元住人のための裏手の入り口から。ちょうど昼休みの時間で,持参したいなり寿司を食べて,息子と一緒にミニ新幹線に乗って。TOPSさんは徐々に競馬にはまってきそうだったので,早い時間にわれわれは退散。寒くなる前に帰宅できました。

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ゲルハルト・リヒター《アトラス》

林 寿美・ブクロー, B. H. D. 2010. 『ゲルハルト・リヒター《アトラス》』ワコウ・ワークス・オブ・アート,93p.,1500円.

ゲルハルト・リヒターの有名な『アトラス』は日本でも2001年に川村記念美術館で開催されたらしい。そして,どうやらその際の日本語カタログがあるということを知って,探してみたら現在でも入手可能なものとしてあるのが本書。でも,本書に実際の作品はあまり掲載されていない。『アトラス』は1972年に初めて公開されてから現在までふくれあがり,今日ではそのパネル数は600枚を越えるらしいが,11.7×19cmの大きさで90ページあまりの本書に収められたのは16のパネルにすぎない。
そして,文章として本書に収められたのは,『Gerhart Richter, Text』から,インタビューやノートから『アトラス』に関する部分の抜粋。一応,『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』には収録されていない新しいインタビューも一つ収録されている。そして,川村記念美術館の学芸員である林 寿美氏の文章と,『October』という雑誌に1999年に掲載されたベンジャミン・ブクローの論文の翻訳。林氏の解説文は,日本で『アトラス』展が開催された際のカタログに掲載した文章を加筆・修正したものとのこと。この文章は私が今まで読んだ『アトラス』に関する文章で一番分かりやすくて詳しい。
そして,ブクローの文章は実は原文で既に読んでいた。リヒターについて書かれている文章をネットで検索し始めた最初の頃に発見し,しかもPDFファイルがダウンロードできたのがこのブクローの文章だった。そして,リヒターについて調べるにつれ,このブクローという人物がリヒターに最も近しい批評家の一人だということが分かった。この論文は,この『アトラス』という名前が,16世紀の地図学者メルカトールによる地図帳の名前に起因することをきちんと指摘している。しかも,それから議論は20世紀前半の美術史家アヴィ・ヴァールブルクの話へと展開する。ヴァールブルクはエルンスト・カッシーラーやエルヴィン・パノフスキー,フランセス・イエィツなどの今日でも大きな影響力をもつ人々がヴァールブルク学派などと呼ばれたりして,非常に重要な人物である。そんなヴァールブルクが晩年に手がけたのが『図像アトラス・ムネモシュネ』であるといい,数多くの写真を組み合わせてパネルにし,それを蒐集するという意味で,リヒターの『アトラス』の歴史的起源の一つだという。管見の限りではリヒター自身がヴァールブルクに言及しているかどうかは不明だが,リヒターが自身の作品素材アーカイヴに「アトラス」という名前を付けたのは,ヴァールブルクと同じ想像力のなかにあることが間違いなく,両者に批評家が連続性を見出すのは当然だと思う。日本でも,ヴァールブルクについての著書もある田中 純氏が,『10+1』での連載「都市表象分析」の一文でリヒターの『アトラス』とヴァールブルク『ムネモシュネ』に言及している。
リヒターは現代芸術家として,いくつもその創造力の起源を有しているが,この系譜はかなり重要だと思う。

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文化と帝国主義2

エドワード・W・サイード著,大橋洋一訳 2001. 『文化と帝国主義2』みすず書房,271+xlivp.,4200円.

『文化と帝国主義1』が出版されたのが1998年。原著は1冊だが,日本語訳は上下巻になった。上巻は出版されてから新刊で間もなく購入し,読んだものの,なかなか下巻が出版されない。忘れた頃に出版されたが,私のなかでのサイード熱も冷めてしまい,新刊では購入しなかった。そのうち古書で安くなるだろうと思いきや,やはり古書で下巻だけというのはなかなかない。結局,Amazonで安くなるのを待って,出版後10年してようやく読んだという次第。
ちなみに,本書の原著は1993年に出版されている。ちょうど私が大学院に入学した年。修士1年の時にアルバイトをしていたとある財団法人に,とある大学院の修士課程を地理学専攻で修了した人がいて,サイードの『オリエンタリズム』の存在を教えてくれた。翻訳は1986年に出版されているから,随分経っていたが,現代思想関係は卒業論文執筆時から独学で読み始めたので,私は全くその存在を知らなかった。そんななか,読んだ『オリエンタリズム』は衝撃的で,修士論文の枠組みにサイードは随分役立った。『オリエンタリズム』に続いて,『始まりの現象』,『世界・テキスト・批評家』,『イスラム報道』,『音楽のエラボレーション』,『知識人とは何か』と,当時日本語訳が出版されていたものは立て続けに読んだ。『パレスチナとは何か』については1996年に書評も書いている。そんな頃,神保町の北沢書店で見つけたのがすでにどこかの普及版ペーパーバックだったが,本書の原著であった。結局,サイードの本をいくつか訳している大橋洋一氏によって,5年後に訳出されたわけだが,私は無謀にもそれを翻訳しようと読み始め,すぐに挫折したのだ。そんな昔のことを懐かしく思い出す。
さて,そんな感じで,上巻を読んでから下巻を読み始めるまで数年空いてしまったのだが,訳者の大橋氏もあとがきに書いているように,上下巻に分けたことがまさに本書の特徴をあぶりだしている。上巻はオースティンやキプリング,カミュといった現代まで読み継がれる古典文学を帝国主義時代の時代背景とともに,その政治性を読み解くといった『オリエンタリズム』の続編的内容。それに対し,下巻では『オリエンタリズム』への批判に答えるように,「抵抗」といったものが前面に押し出されている。目次をみてみよう。

第3章 抵抗と対立
 1 ふたつの側がある
 2 抵抗文化の諸テーマ
 3 イェイツと脱植民地化
 4 遡航そして抵抗の台頭
 5 協力,独立,解放
第4章 支配からの自由な未来
 1 アメリカの優勢――公共空間の闘争
 2 正統思想と権威に挑戦する
 3 移動と移住

本書の内容については,珍しく長い大橋氏による訳者あとがきが非常に端的に解説していて,それを繰り返すことしか私にはできないのでやめておくが,前半は20世紀前半の植民地支配に抵抗する思想家の著作がいくつか検討される。フランツ・ファノンに費やされたページも多いが,私の知らなかったC.L.R.ジェイムズの『ブラック・ジャコバン』とジョージ・アントニウスの『アラブの目覚め』という2つの著作についての解説が印象的だった。そして,この2冊は日本語にもなっているので,そのうち読んでおきたい。
そして,第4章に入ると,単なる批評家・研究者としてではなく,よりよい未来を見据えたサイード本人が登場してくる。はっきりいって,サイードの本は1979年に出版された『パレスチナ問題』が2004年に翻訳されるのを待つだけで,1990年代後半に原著が出版されたようなものはあまり読まなくなっていた。しかし,やはり本書は素晴らしい読書体験であった。

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リヒター,グールド,ベルンハルト

杉田 敦 1998. 『リヒター,グールド,ベルンハルト』みすず書房,246p.,2400円.

この著者は,どこかで翻訳文を読んだことがある気がするが,本人の文章を読むのは初めて。もちろん,リヒター関係の本であることが読んだ理由。タイトル通り,画家ゲルハルト・リヒター,音楽家グレン・グールド,小説家トマス・ベルンハルトというジャンルが異なる芸術家について書かれた批評書。そういえば,『ゲーデル,エッシャー,バッハ』という本があったな,と未読ながら思い出す。違う分野の表現に共通のものを見出すというのも批評の面白いところ。
著者によれば,本書の中心にはリヒターがいるとのこと。書名では一番最初にくるが,章としては3人のうちの最後。リヒターが好んで用いる音楽にグールドがあり,とある小説でグールドがちょこっと登場する物語の作者がベルンハルト。グールドはきちんと聴いたことがなくても私は存在を知っていたが,ベルンハルトはいくつかの作品が日本語になっているようだが,私は知らなかった。著者はリヒターから始まって芋づる式にこの3人の作品世界にのめり込み,それらに共通する主題を見出したというが,リヒターが1932年のドイツ生まれ,グールドは1932年カナダ生まれ,ベルンハルトは1931年にオランダで生まれるという同時代性もそこにはある。本書の構成は分かりやすく,以下の通りである。

表現の原子 0
音の粒子 1 グレン・グールド
言葉の粒子 2 トマス・ベルンハルト
イメージの粒子 3 ゲルハルト・リヒター
絶望のマシーン 4

なかにサンドイッチ状に挟まれた各芸術家に関する批評文はある意味で分かりやすい。いちいち参考文献を示したり,特定の作品を詳細に分析したりという学術的な側面はほとんどなく,あくまでも著者自身の捉え方,解釈をその内的論理で展開する。といっても,短いながら内省的な序文に対して,かなり素朴な記述もあるし,繰り返しも少なくない。でも,1章から3章までで著者がいわんとする3人の作品世界の共通性というのは十分理解できる。
その上で,最後の4章はどういう意味があるのだろうか。冒頭からプラトンの話が出てきて,批評や科学,モダンとポスト・モダン,その上で芸術の役割などの大きな話が展開し,いまいちついていけない。しまいには,批評というものの多くが芸術を駄目にするみたいな議論もあり,本書そのものの意義を無にしてしまうような記述もあったり。まあ,でも批評ってのはこれくらい自由であっていいと思うし,リヒターについての解釈も学ぶことがけっこうありました。

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最近の息子

息子や私自身の子育てのことをあまり書かなくなってしまったが,相変わらず残業もせずに直帰し,映画は週に1,2本観させてもらってはいるものの,今年に入ってライヴはまだなし。2月9日にariさんの単独ライヴを予定していたが,本人の体調不良で延期になってしまった。妻が授乳をしなくなってから3ヶ月が経ち,もちろん子育ては妻が中心だが,やることはほぼ対等になってきたように思う。爪切りだけはまだちゃんとしたことないが。
息子は1歳3ヶ月になり,歩くのもかなり上手になった。先日,サイズが12.5cmの2足目の靴を買ったところである。言葉はまだはっきりしないが,もとかくしゃべる。ハイハイを始めた頃に引っ越しをして,彼の遊び空間をそこから出られないような仕切りをつけて作ったのだが,歩行が上達してからはそこに閉じ込められるのが嫌になったようなので,仕切りは取り外した。それにも随分慣れてきて,今ではわたしたち両親ともに相手ができないことを悟ると自らそのスペースにいって一人で遊んだりもする。以前はともかく棚にあるものを落としたり,中に入っているものを出したりする一方だったが,最近は棚に戻したり,出したものをきちんと積んだり,何かを容れ物に入れたりするようになった。以前はわたしたちが積み上げた積み木を崩す一方だったが,最近は自ら積み上げたりする。やはり確実に成長しているようです。
20120210
最近は動きが激しいので,写真を撮るのも難しくなりました。

2月5日(日)

この日選んだ映画はこちら。なんとなく,久し振りに青山ブックセンターに行きたいなと思い,その近くのシアターイメージフォーラムにも久しく行ってないということで,上映作品をチェックしたら魅力的な予告編をやっていたので,即決定。久し振りの青山ブックセンターもゲルハルト・リヒターのアーティストブックなど豊富に揃っていてさすが(高価なので購入とまではいたりませんでしたが)。
久し振りのイメージフォーラムもやはりなんだかいいですね。まさに映画ファンの巣窟(?)という感じで,マナーの悪いお客にいらついたりすることはありません。

渋谷イメージフォーラム 『果てなき路
私は知りませんが,この作品の監督モンテ・ヘルマンは本作を21年ぶりに手がけたという。その20年前はかなり影響力を持っていた人物だったとのこと。米国のとある田舎町で起こった事件を元に映画撮影をする映画監督と主演女優の物語。しかも,職業ジャーナリストの原作本があるのではなく,素人ジャーナリストのブログ記事を元にしている,といういかにも現代的な側面も含んでいる。いろいろ場面と時間とが錯綜し,非常に分かりにくい展開になっている。しかも,どこが実際の事件の再現なのか,映画撮影の過程なのか,登場人物も多く,混乱させられる。
そういえば,10年前くらいにも米国の映画でこういうタイプのサスペンス(?)が流行ったことがある。いわゆるどんでん返し系とでも呼べようか。確かに,本作はそういうものに似てないこともない。でも,それとはちょっと違うのは,最後にいわゆるどんでん返し的なものはないところ。ある意味ではあるともいえるが,それですっきり事が収まるわけではない。まあ,その辺がこの監督のらしいところなのか,映画ファンを引きつける要素なのか。まあ,面白い事に間違いはない。でも,素晴らしい名作家というとどうだろうか。ちなみに,その劇中映画の脚本のネタとなったブログ記事の作者の女性を演じたドミニク・スウェインという女優,なんと1997年の『ロリータ』で演じた少女だったという。確かに面影がありますね。ナボコフの有名小説の映画化ということで,原作を読んでから観たものの,肝心の少女があまり魅力的でなかったのが残念な記憶がある。

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〈象徴形式〉としての遠近法

エルウイン・パノフスキー著,木田 元・川戸れい子・上林清雄訳 2003. 『〈象徴形式〉としての遠近法』哲学書房,236p.,2400円.

ヴァーブルク学派のパノフスキーの著書は,『ゴシック建築とスコラ学』『イコノロジー研究』『視覚芸術の意味』についで4冊目。といっても,本書は本文は74ページあまりで,原著は論文といった方がふさわしいかもしれない。ただし,注釈が本文より長く124ページあり,図版も多い。なので,翻訳では立派な1冊となる。
この辺りの文献は,10年前に日本語訳が出版された『風景の図像学』という本の翻訳に参加した時に読んだ,英国の地理学者コスグローヴの論文から学んだことが大きい。もちろん,そのなかでこのパノフスキーの本も知っていた。
『風景の図像学』は1988年に原著が出版された論文集で,コスグローヴはその共編者だったが,その後彼の単著『象徴的風景と社会構成体』という1984年に出版されたものを読み,読み直して私の2010年の論文に大いに利用させてもらった。そして,現在彼の確立した風景研究の流れに沿った研究を進めていて,彼の1985年の雑誌論文を改めて読み直している。そんななかで,本書はこの機会に是非読まなくてはならないと思った次第。実は,初版は1993年にハードカバーが出ており,またこのペーパーバック版の後にはちくま学芸文庫にも収録された。しかし,私は図版のことも考え,この版を購入することにした。
前半は難しい。コスグローヴはもっぱらルネサンスから遠近法と風景画の話を始めるが,本書は古代から始める。遠近法の技術は数学の一分野の幾何学の応用でもあるが,ユークリッドの『幾何学原論』は古代に書かれているから,その時代にある種の遠近法的な技術が生まれても不思議ではない。しかし,もちろんそれはルネサンスを経由した近代的な様式とは異なったものである。そして,著者はその後の中世における絵画の空間表現についても詳細に検討する。二次元の絵画空間における室内の表現において,奥行きを持たせるためのさまざまな工夫がなされているのだ。そして,いよいよ本格的な遠近法の技術は15世紀にやってくる。図版も多く,後半に向けて段々面白くなる本です。
ただ,やはり本文以上に長い注釈が読みにくさの原因となっているのは否めませんな。ともかく,期待以上に刺激的な本でした。

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寒い日が続きますね

1月21日(土)

ここのところ,夫婦間での些細なもめごと(?)が多かった。この日は東京経済大学今年度最後の授業で出かけたが,その後の予定は何も告げずに吉祥寺へ。映画を1本観る。

吉祥寺バウス・シアター 『ブリューゲルの動く絵
ブリューゲルとは16世紀の画家。「バベルの塔」や「イカロスの堕落のある風景」など有名な作品が多いが,そんな彼の作品「十字架を担うキリスト」という作品が出来上がるまでの過程を描く作品。テレビ東京に「美の巨人たち」という番組があるが,そんな感じ。予告編から,私はかつてあったような素朴なヨーロッパの歴史映画を期待したが,どうやらデジタル上映らしい。そして,ブリューゲルを演じるルドガー・ハウアーという俳優はなんと『ブレードランナー』のレプリカントを演じたということだ。シャーロット・ランプリングも出演しているが,クレジットを見ているとどうやら劇場映画として作られたというよりはテレビ映画のような雰囲気。といっても,けっしてチャチな作りではないが,やはりCGを多用しているのは気になる。作品全体としてはけっこう退屈なシーンも多いが,子沢山のブルーゲル家の子どもたちが好き勝手に遊んでいるシーンなど,些細なところが楽しめます。

1月28日(土)

1週間後には夫婦間の仲もかなり改善し(前日に夫婦が知り合う前からの共通の友人の家を訪れたのがよかったようです),この日は東京経済大学に成績を提出しにいく予定だったが,ついでに映画と献血を許される。できるだけ早く帰るように,朝9時に家を出,国分寺の大学に成績を提出したら,すぐに渋谷に移動。まずは献血ルームに行く。前からあるSHIBU2献血ルームは事前に調べたら午前中は予約で埋まっていたが,新しくできたハチ公前献血ルームは程よく空いていて,特に待ち時間もなしにできた。献血後にドーナツ(ここはミスタードーナツのではないが)とハーゲンダッツアイスクリームをいただく。
昼食はシネマライズに行く途中の「人間関係」というよく利用するカフェ。ここはヴァラエティ豊富なスコーンが100円で,チーズ味など甘くないものがある。その他にも普通のパン屋と同じくらいの値段の総菜パンもあり,ホットコーヒーは200円なので,パンとスコーンとコーヒーでも450円と格安。古くからある店だけど,喫茶店ではない。まだカフェという言葉が定着する前からそれらしい雰囲気でやっている貴重なお店。

渋谷シネマライズ 『永遠の僕たち
選んだ映画はガス・ヴァン・サント最新作。この監督はあまり好きではないけど,何となく観てしまう。といっても,社会のダークな側面を描いたり,ストーリーがはっきりせずに難解な彼の作品のなかでは,本作はかなり分かりやすそう。しかも,加瀬 亮君がかなり重要な役どころで出演しているので,観ておいてあげたい。主演のヘンリー・ポッパーはデニス・ホッパーの息子だという。本作の撮影後に亡くなった。相手役のミア・ワシコウスカは『アリス・イン・ワンダーランド』のアリス役。『アリス』は台湾行きの飛行機のなかでちょこっと観ただけで,あまり好きではないが,髪をバッサリ切ったミアちゃんはなかなか魅力的。本作の原題は「Restless」というが,どちらにしても,内容をうまく表現しているのかどうか。意外にも主人公2人は普通の恋愛関係へと進展してしまうのだが,まあそれはそれで非常に分かりやすく,普通に楽しめる映画。ガス・ヴァン・サントらしくないといえばらしくない。

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