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リヒター関連文献:日本語編

自分の記憶と記録のために,最近集中して読んだリヒター関係文献を整理しておこうと思う。かなり長くなってきたので,まずは日本語編から。

①杉田 敦 1998. 『リヒター,グールド,ベルンハルト』みすず書房.
単行本については,すでにこちらの読書日記に書いたが,私の関心に関わることはここで別途示しておこう。
著者は,書名につけた3人の芸術家に共通する作品生産の姿勢を「機械」と呼ぶ。リヒターはほぼ毎日白壁の無機質なアトリエのなかでカンヴァスに向かって絵画制作を行っている。下に示した林氏の記述によれば,そうして1960年代から制作された作品数は2000点を越えるという。そして,その多くを占める「フォト・ペインティング」という手法において,リヒターは写真の客観性に依存しているわけだが,杉田氏はそんなリヒターの作品は特別なメッセージや思想的意図を込めるようなものではなく,題材と手法を選択し,職人的に絵画作品を制作するだけで,その解釈は鑑賞者にゆだねられるという。芸術家のなかには日常性を強調する者もいるが,その場合の日常とは,芸術制作ではないプライヴェイトな部分に限定し,仕事と生活という二分法の後者に日常を当てはめる。しかし,リヒターにとっての日常とはまさに絵画を制作することであり,その日常性がリヒターの作品そのものにとって重要なのだという。それがリヒター自身が自らを「唯物主義者」と語る内容である(p.178)。そして風景画に関する記述。「何でもない風景を描いたものや,…作品までが,悪意に充ちたものに見えてくる。」(p.194)

②市原研太郎 2002. 『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』ワコウ・ワークス・オブ・アート.
リヒターの作品に興味を持ったのは数年前だったが,意外にも彼の作品に関する日本語の書籍は少なく,本書をどこかの書店で見つけた時に,とりあえず購入した記憶がある。昨年末から本格的にリヒターについて考えようとした時には,この本は読んだと思っていた。しかし,こうして中身をペラペラめくっていると,その内容は記憶にない。私はここ5,6年,このblogで読了した本は全て読書日記にしている。しかし,検索してみてもその記事が見当たらないということは読んでいないのかもしれない。まあ,どちらにせよ,読み直さなくては。

③ゲルハルト・リヒターほか著,清水 穣訳 2005. 『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』淡交社.
ということで,本書についてもこちらの読書日記を書いた。
ここでは,リヒター自身の言葉をいくつか引用しておくことにしよう。
「それは,対象の名前を知っているからにすぎません。それを忘れねばならないのです。」(p.27)
「だから死んだ都市や,アルプスが魅力的だった。コンクリートに岩壁だからね,無言の物質だ。」(p.56)
「その点,僕は極端に保守的なんだ。」「その点で僕は,あまりにもブルジョアなんで,これからもナイフとフォークを使って食事をするし,カンヴァスに油絵の具で描く。」(p.62)
「僕が芸術に求めるものは,まったく保守的ではない。」(p.69)
「だって,ほんとうは「風景画」なんかじゃないのに,そうとりちがえられるんだから。それが風景画やフォト・ペインティングの人気の一部だった。」(p.76)
「自然だけに関係している。我々には自然しかない。」(p.78)
「実に原始的です。原寸大です。」(p.88)
「作品が自己展開する」(p.117)
「C・D・フリードリヒが,あの美しい,打ち砕かれた希望の絵を描いたから…。」(p.134)
「絵画をおもしろいと思うのは,そこに見知ったなにかに似たものを探すからにほかなりません。なにかをみて,頭のなかのなにかとくらべ,なんに関連しているかをみいだそうとする。」(p.168)
「反権威主義はつねに私の一部でした。」(p.198)
「つまり,色,コンポジション,空間性など,とっくに考えられ知られていたことのすべてを忘れる。」(p.240)
「輪郭をぼかすのは,すべてを均等にするため,すべてを等しく重要で,あるいは等しく重要でなくするためにである。」(p.242)
「写真は現実の空間について伝えるが,映像としてはいかなる空間性ももたない。」(p.243)
「芸術家にとって,名前は存在してはならない。」(p.244)
「「アブストラクト・ペインティング」が私の現実を表現しているとすれば,風景や静物は私の憧憬を表している。」(p.246)
「私の風景画はたんに美しく,ノスタルジックで,ロマンティックでクラシックで,失われた楽園のような感じを与えるだけでなく,なによりもまず「虚偽」である(いつもうまくそのことを示すことができたわけではないが)。「虚偽」というわけは,我々は自然を眺めるとき美化するからである。」(p.256)→次ページにも風景に関する記述あり。
「根本的に私は唯物論者である。」(p.259)
「数えきれないほどの風景をみるが,写真に撮るのは10万分の1であり,作品として描くのは写真に撮られた風景の100分の1である。」(p.261)

④金沢21世紀美術館・川村記念美術館 2005. 『ゲルハルト・リヒター』淡交社.
この本に関しても,すでにこちらの読書日記に書いたので,詳述はしない。
ただ,リヒターの風景画についてのエルガーの一文を引用しておこう。
「それでも,リヒターにとってアブストラクト・ペインティングは風景画なしには不可能である。」(p.134)

⑤林 寿美・ブクロー, B. H. D. 2010. 『ゲルハルト・リヒター《アトラス》』ワコウ・ワークス・オブ・アート.
本書についてもこちらの読書日記に書いた。
本書のなかに訳出されているブクローの元論文書誌情報は以下の通り。
Buchloh, B. H. D. 1999. Gerhart Richter's Atlas: the anomic archive. October 88: 117-145.

⑥田中 純 2001. 地図のメランコリー――地図製作(マッピング)の喪.10+1 23: 2-9.
『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』という著書をもつ田中 純は上記ブクローの文章に触発されたのか,廃刊してしまった『10+1』という雑誌に連載していた「都市表象分析」の一文をリヒターの『アトラス』に充てた。といっても,『アトラス』の詳細な分析ではなく,リヒターを出発点にヴァールブルクの『図像アトラス・ムネモシュネ』,ボルヘスによる1分の1の地図の寓話「学問の厳密さについて」,そしてそのボルヘスを論じたボードリヤールとどんどん話を展開し,最後に再びリヒターに戻ってきながら,連載のテーマである都市の問題に帰結するという変幻自在の文章はさすが。
10+1は廃刊後,ウェブ上でデータベース化され,この文章も読むことができます。こちら

⑦浅沼敬子 2004. もうひとつの「イデオロギー」――ゲアハルト・リヒター作『1977年10月18日』をめぐる考察。熊本大学文学部論叢 人間科学・コミュニケーション情報学篇 80: 1-27.
上述した展覧会カタログの類以外に書かれたリヒター論は意外に少ない。特に,批評という立場ではなく美術史研究という立場からリヒターにアプローチしている研究者は浅沼氏が唯一といっていいかもしれない。現在北海道大学の准教授である著者は早稲田大学の出身で,本論文発表当時は熊本大学にいたとのこと。この時期にリヒターの『1977年10月18日』という15枚の連作についての論考がまとめて発表されている。
まずはこの作品群についての説明が必要であろう。ドイツで1970年前後に活動したドイツ赤軍派と形容されるアンドレアス・バーダーとウルリーケ・マインホフという2人を中心とする「バーダー・マインホフ・グループ」という政治活動団体があった。その主要メンバーは1972年の6月に逮捕されるが,それ以降もかれらの解放を要求するさまざまな暴力テロが行われたが,この作品のタイトルの日に,獄中のメンバーたちが自殺を含むさまざまな形で死体として発見されたという事件。リヒターはその事件に関わる警察や報道が所有する写真を収集し,それをモノクロのフォト・ペインティングで描いたもの。発表されたのは1989年。
本論文ではまず,このリヒター作品についての解説と,その作品の内容とリヒター自身の言葉から,作者の意図を解釈する。本作の発表時は,この芸術作品を政治的出来事として捉える解釈が一般的だったという。芸術作品の題材としてはあまりにも政治的に生々しく,リヒター自身の政治的意図が強調された。実際,リヒターは自らの制作ノートや数々のインタビューのなかで「イデオロギー」という言葉を用いている。しかし,著者はこの言葉の意味を慎重に吟味し,それは右派や左派という具体的なものではなく,もっと人間存在の根本的なものであり,そのことを作品を通して観る者に問いかけるのだという。著者は引用していないが,私は本論文を読んで,イーグルトンの『文芸批評とイデオロギー』におけるイデオロギーの定義を思い出した。つまり,全般的イデオロギーと特殊イデオロギーの区別である。著者のいう「もうひとつのイデオロギー」とは全般的イデオロギーのことであろうか。

⑧浅沼敬子 2006. ゲルハルト・リヒター作『1977年10月18日』の「歴史」性をめぐる諸言説.熊本大学文学部論叢 総合人間学篇 88: 1-14.
今度は,このリヒターの作品をめぐる批評家の解釈を整理したもの。やはりここでもブクローの存在が大きいようだ。著者は,ブクローを含む論者からは一線を引き,あくまでもいろんな人がリヒター作品をめぐって,こんなことやあんなことをいっているというスタンス。それによれば,歴史的事実を題材にしたリヒターのこの作品も,ある種の記録性を持つが,彼のフォト・ペンティングという手法やぼかしという技法が史実の伝達という意味においてどのような意義を持つのかというところが論点となる。彼の作品は絵画性と写真性のなかで,歴史性という意味においていくつかの解釈が可能となる。
こちらの論文は熊本大学のレポジトリからダウンロード可能。

⑨浅沼敬子 2006. ゲルハルト・リヒター作『1977年10月18日』における主題と技法.美学 56 (4): 55-68.
『美学』という雑誌は,日本美学会の学会誌。大学紀要という媒体はあまり読者を想定しないが,本論文は芸術研究に携わる読者たちを対象としているので,かなり洗練された印象がある文章。上記紀要論文のエッセンスを含み,イデオロギー論も歴史性の議論も踏まえながら,それらを著者なりの結論に導いていったもの。

⑩浅沼敬子 2008. ゲルハルト・リヒターのフォト・ペインティング作品(1962-67年)に使用された写真群について.北海道大学研究科紀要 125: 1-31.
浅沼さんはその後,北海道大学に移って,そちらで発表されたリヒター研究論文。これは研究論文というよりも,調査成果の報告。リヒターの作品は「フォト・ペインティング」というものとして知られる。現実の人物を目の前にして描く肖像画や,物を目の前にした静物画,現実の風景を目の前にした風景画というのが通常の絵画だが,リヒターの場合には現実を相手にしない。一枚の写真を油彩で複製するのだ。その写真には自ら撮影したものもあるが,多くの場合は雑誌などに掲載された写真を使用している。場合によってはその元の写真を入手することもあるらしいが,雑誌に掲載された写真をカメラで撮影して複製を作ることもあるらしい。そうした,フォト・ペインティングの元となる写真の多くは『アトラス』のパネルに組み込まれることになるのだが,それがそもそもどこから取られた写真なのかを特定するような研究者は少ないようだ。著者はその調査のためにドイツにおもむいて,4つの雑誌を調査し,60枚の写真の同定を行っている。もちろん,新聞記事や雑誌記事は写真だけではなく,その写真を用いて説明すべき出来事がある。どんな記事をリヒターが選んだのかということをたどることは,作者の感性や意図を探る重要な調査だと思われる。
こちらも北海道大学のレポジトリからダウンロード可能。

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