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2012年3月

ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画

市原研太郎 2002. 『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』ワコウ・ワークス・オブ・アート,157p.,1800円.

こちらに書いたように、リヒター関係で始めて購入した本なのに、読んだつもりでいて読んでいなかった本。本書は1993年に『ゲルハルト・リヒター/ペインティング・オブ・シャイン』というタイトルで出版されたものの増補版・改訂版だということ。目次をみれば分かるように、同タイトルの章があり、他に書き足されている。

ゲルハルト・リヒターの過去、未来、そして現在
ゲルハルト・リヒター=ペインティング・オブ・シャイン=
希望のペインティング――ゲルハルト・リヒターとの対話
ゲルハルト・リヒターと「9.11」

以前から繰り返しているように、リヒターとはドイツの画家。彼の作品を解釈する著者のキーワードが「シャイン」ということだが、当然これはドイツ語のSchein。なのに、タイトルには英語のかな表記でってのはおかしい。そんなこともあって、新版ではそれを「光と仮象の絵画」と日本語にしたのだろうか。Scheinとは日本語にされているように、光と仮象という二つの意味合いを持ち、どちらもリヒターの芸術性を表現するのに相応しいと著者は考えている。しかし、私はリヒターの作品の現物を観たことがないからだろうか、彼の作品に「光」を強く感じることはない。
まあ、その点は置いておいても、本書はリヒターの芸術家人生の長い期間の作品を見渡し、一通りの説明をしている。これまで他の人が指摘した点(どちらが先かは分からないが)も含めて一通りの解釈も出揃っている感がある。これまでリヒター関係の文章を読んできて、総括するにはもってこいの本だった。彼独自の議論といえば、ルネサンス以降の絵画史をフーコーの『言葉と物』にそくして3つの時期に区分し、それらの時期の移行期の代表的な芸術家を挙げ、まさに現在進行形の時期の終わりにリヒターを位置づけるということ。もちろん、リヒターに関しては「絵画の終わり」ということと結び付けられているが、こうして長い絵画史のなかに位置づけられると面白い。しかも、一般的な近代理解ではなく、フーコーの表象論に従っているところがいい。
インタビューはこれまでのインタビューでなされた議論の繰り返しが多く、面白くない。最後の章「ゲルハルト・リヒターと「9.11」」で面白いのは、合衆国でのリヒター受容がかなり遅く、アメリカ人がリヒターを受容するには9.11のような事件が必要だったと指摘しているところ。

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C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》

仲間裕子 2007. 『C.D.フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》――視覚と思考の近代』三元社,258p.,3200円.

19世紀ドイツの画家,フリードリヒ。前にもリヒター関係の話で何度かこのblogにも登場している名前だが,本書でも最後の最後でリヒターの話が出てくる。リヒターの風景画について論じる人は必ずフリードリヒの名前を出すので,まずはこの画家のことを知らなければということで,Amazonで中古品がなかなか安値にならなかったものの,思い切って買ったのが本書。でも,なかなか素晴らしい研究書だった。まずは目次から。

第1部 「独自」のロマン主義
 第1章 《画家のアトリエからの眺め》
 第2章 フリードリヒの「抽象」
 第3章 リューゲン島の風景――自然,主体をめぐる言説
 第4章 北方の風景――トポグラフィーとアイデンティティ
 第5章 観照の美学から新しい美学へ
第2部 再発見と受容
 第6章 「ドイツ100年展」――フリードリヒの”再発見”とナショナル・ギャラリー(ベルリン)
 第7章 メランコリーとロマン的イロニー――フリードリヒから今日のドイツ美術へ

書名と第1章のタイトルにある「画家のアトリエからの眺め」というのは,1805〜1806年にかけて描かれたフリードリヒの初期のセピア画。右窓と左窓という2枚の連作。フリードリヒの主要作品は1820年代から1830年代にかけてのものが多く,その頃に成熟期を迎えたというのが一般的な理解だという。フリードリヒは1774年生まれ,1840年没だから,まあ50歳前後に成熟期を迎えたという見方。それに対し,本書で著者はこのフリードリヒ30歳頃に描かれた作品のなかに,その後のフリードリヒ作品を理解するヒントが盛り込まれているというのが,書名に込められた本書の主たる意図。
といいつつも,基本的にはこの画家の生涯の作品について論じている。フリードリヒの作品はもちろんのこと,議論の引き合いに出される同時代の別の画家の作品も含め,文中に出てくる多くの作品が掲載されているのは嬉しい限り。この点,100年以上前だと著作権どうのこうのという面倒がないのだろうか。ただし,非常に綿密な資料に基づく研究書なので注釈が多いのは仕方がない。しかも,注は全て巻末に集められている。ちなみに,フリードリヒほどの画家であれば,ドイツ語圏以外でも研究がありそうだが,本書はその議論のほとんどをドイツ語文献から成り立たせている。まあ,美術史を専門とせず,ドイツ語も解さない私のような読者にはこうした本が日本語で読めるのは非常にありがたい。
さて,フリードリヒといえば,「ロマン主義」と「風景画家」という形容がよくつくが,この「ロマン主義」というのは曲者。それだけで分かったような気がするが,この語自体が曖昧で,ロマン主義といわれるものも多様である。
http://geopoliticalcritique.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-968f.html
この読書日記でも以前に紹介した,ケネス・クラークの『ロマン主義の反逆』なんて本もあったが,当時としては旧態依然の芸術界に新しい刺激をもたらした人たちが紹介されていた。フリードリヒもまさにそんな風景画家。英国の地理学者コスグローヴが論じるところによると,風景画というのは幾何学に基づく遠近法の成立にあって,デカルト的な意味における主体と客体の切り離しという思考法が前提となって成立するものである。時代的にはルネサンス以降であり,それは人間が世界を観る特殊な方法として獲得していくものとなる。それはすなわち,人間の視点が固定され,その視野から光学的に目に飛び込む映像ということだ。
それはわたしたち現代人も義務教育の図工や美術の時間に写生会と称し,野外に出かけ,特定の場所に落ち着いたらアングルを決めて風景を描くという訓練(?)をさせられる。静物画などと一緒に,それが絵画の初歩であるかのように。しかし,フリードリヒはこうした風景画の一般的な描き方をしないようだ。もちろん,野外に出かけてスケッチは数多くするものの,それらを持ち帰って組み合わせ,架空の風景を作ったりするという。もちろん,この頃すでに絵画の主要なジャンルとしての風景画の空間構成法には従いながら,しかし,それは画面全体を実在する視覚的風景の再現を最終目的とはしていない。
そして,分量的には第2部の方が小振りだが,こちらもけっこう魅力的。そもそもフリードリヒは現代ではドイツロマン主義絵画の代表格といえるほど有名だが,実は本国ドイツでも忘れ去られていた時期もあったという。そして,ドイツの国家統一がなされ,国力を高めて20世紀前半の二度の世界大戦へと突入しようという時代に注目されたのだという。
風景画が国民アイデンティティの形成に寄与する,という議論はよくあるが,ともするとそれは画家自身が国民アイデンティティの原因であるか結果であるかという主張に結びつくが,フリードリヒの場合にはむしろ利用されたというべきか。もちろん,フリードリヒの場合も,ヘルダーなどの同時代的なドイツの哲学者の思想と関連し,彼自身が愛国的な精神を持っていたこともある。
最後の現代ドイツ芸術家との関連においては,アンゼルム・キーファーという芸術家の考察がまた面白いし,リヒターについての議論は分量的には少ないが,なかなか鋭い考察がなされている。もちろん,本書はフリードリヒに深い思い入れがあり,基本的には批判的視点よりも彼の作品をよりよく評価するというのが根底にあるが,それでも非常に謙虚な筆運びで,綿密な調査に基づく考察はとても勉強になった。

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ヘアカット

わたしたち夫婦はなんとなく,いつも美容院に行くタイミングが同じ。どちらかが,相手に「もうそろそろ切った方がいいんじゃない?」というと,「そちらはどう?」みたいな。まあ,基本的にどちらも2ヶ月に一回というのが基本のペース。
今回も前日に妻が切って,私が翌日に。私の行っているお店は美容師が2人しかいないので,基本的に予約制。日曜日の都合の良い時間をメールで問い合わせると,13時との返事。この時間って,何かの用事に出かける前に切るか,帰りに切るか,という予定が決めにくい。ということで,近所の映画館で9:20からの回で観て,移動して,昼食を食べて美容院に向かうという行動に決定。

3月4日(日)

府中TOHOシネマズ 『ものすごくうるさくて,ありえないほど近い
選んだ作品はこちら。私は絶対に観るとは決めていなかった作品だが,妻が観たいといって一緒に私の分も前売り券を買ってきてくれた。ともかく,主役のトーマス・ホーンという子役俳優が素晴らしい。トム・ハンクスが父親役だが,すぐに死んでしまう設定。個人的に,トム・ハンクスは好きではないので,このくらいの出演時間の方が好ましい。でも,なくなった父親の存在の大きさに気づくという趣旨の映画なので,やはりトム・ハンクスの存在感は大きい。ちなみに,冒頭のシーンで,ニューヨークに行ったことのない私には馴染みのない話だが,かつてニューヨーク市にあった区の証拠を探すというゲーム(?)を父親と息子がやるシーンがあり,息子はセントラルパークにその痕跡を探しに行くという設定が面白い。他人と話がすることが苦手な息子は,その証拠探しという目的のためにホームレスたちと話をする。それはともかく,セントラルパークのゴミを集めるという設定といい,なんとなくポール・オースターの『ガラスの街』に影響を原作は受けているのであろうか。ちなみに,母親役はサンドラ・ブロック。前半はほとんど存在感がないが,それはきちんと後半に取ってあります。
正直いって,なかなか難しい作品だと思う。父親の死は2001年9月11日の世界貿易センターの倒壊という設定は直接的すぎて,そのニュース映像を引用したところなど,ちょっと映画という非現実世界から引き戻されてしまうし,父親の死を乗り越える息子というテーマもあまりシリアスにしすぎるとつまらない。でも,中盤で登場する向かいのアパートに住む謎の老人の存在が少しウィットを加えている。とにかく,私は涙の堰を自然に緩めることはなかったが,それなりに泣くことはできる作品だった。

3月11日(日)

翌週も結局,映画は1本だけになった。なんとなく,ばからしい映画が観たくなってこちらにしてみた。

渋谷シネマライズ 『荒川アンダー・ザ・ブリッジ
久し振りの林 遣都君主演映画を観ることにした。相手役の桐谷美玲は最近よく使われているが,実は個人的にあまり好きではない。彼女のことは多部未華子主演作『君に届け』で知った。確かに顔の作りはいいが,肌があまり奇麗でないのが気になったし,声もちょっとマイナスイメージ。だから,本作で彼女が映画のヒロインとしてどれだけ通用するのか見届けたいというのもちょっとした目的。しかし,「私は火星人だ」という強烈なキャラの役どころはなかなか適役だった。そして,榮倉奈々の時の印象も似ているのだが,彼女は手足がすらっと長い。これは実はけっこう映画映えする要素だったりする。ということで,本作で桐谷美玲をちょっと見直した次第。
そして,結局本作はまさにばからしい映画だったが,小栗 旬や山田孝之,安倍なつみ,そして私的に嬉しかったのが徳永えりなどが出演していて,この馬鹿さ加減を役者たちが本当に楽しんでいる様子がなによりもよかったと思う。たまにはこういうさくひんもいいね。

3月18日(日)

ここのところ,お客さんが来たり友人宅に遊びにいったりで,意外にお酒を飲む機会が多かったり,食べ過ぎる機会が多かったり。本当はこの日は珍しく献血の予約をして,その後映画の予定だったが,2日間ほど便通が良くなかったものが,この日の朝に一気に出たということだけだとは思うのだが,なにやら非常なる産みの苦しみ的な感じで,バタンキュー。せっかくの休日なのに,妻に息子の相手をさせてしまい,私は数時間布団で休む。午前中予約していた献血はキャンセル。でも,起きた後におかゆを食べても大丈夫そうなので外出する。

テアトル新宿 『セイジ 陸の魚
予定していた映画は伊勢谷友介監督作品。前週の作品とはうってかわってかなり重い作品だった。相変わらず最前列で観たのだが,これがデジタル映像。一昔前はデジタル映像といえば,カメラやプロジェクタの性能の悪さで肌理が荒かったり,奥行きが感じられなかったりだったが,やはりシネコンは数年内に総デジタル化するという話があるように,最近のデジタル映像の質の良さを思い知らされた。こうなると,最前列は厳しいかも。
さて,映画の内容。とある田舎町にあるバーに集う男たちの物語。その店のオーナーであり,離婚して親権も取られたという女を演じるのがなんと裕木奈江。久し振りの日本映画出演ですな。登場シーンから,ゆるいワンピースから胸元を覗かせたり,背中を見せるシーンがあったり。可愛くて妖艶な年上女性を演じています。タイトルの「セイジ」を演じるのは西島秀俊。今回もその引き締まった体を見せつけていますね。なんか方向性が変わってきたかな。そして,大学4年の夏休みに一人自転車旅行の途中でこの店に住み着くことになってしまった若者を森山未来が演じる。彼は顔で演じる俳優ですな。他にも新井浩文や渋川清彦,滝藤賢一など映画中心に活動する俳優たちが終結し,日本の文脈ではイマイチリアリティに欠ける設定のようにも思うが,独特の世界観は全く違和感がない。映画世界としてうまく出来上がっていると思う。結末が中途半端なのもけっこういいかな。

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新しい論文リリース第二弾

なぜか,『地理科学』と同じ時期に初稿の校正が届いたり,と結局発行も同じ時期になった論文がもう一本。こちらは,『コミュニケーション科学』といって,東京経済大学コミュニケーション学部の学会「コミュニケーション学会」の学会誌。しかし,表向きはレフェリー制をうたっているが,基本的には大学紀要。私は一応東京経済大学の非常勤講師だが,学会員ではない。でも,この雑誌の投稿規定には学会員でなくてはならないということは何も書いていないので,問い合わせてみた。基本的に学会の事務は大学の事務員が兼任しているらしく,はじめは非常に冷たい反応をされたが,最終的には掲載してくれるということになった。でも,一応私のような外部者には審査があるということを聞かされたが,最終的には何も修正なく掲載された。

成瀬 厚 2012. 歩きて街に文字を刻む――ポール・オースター『ガラスの街』の間テクスト分析.コミュニケーション科学 35: 153-177.

この内容は,このblogでも何度か書いているが,本来は書き下ろしの著作にするつもりで数年かけて書いてきたもの。しかし,一向に分量が増えず,あまり時間をかけてもモチベーションが下がるだけなので,とりあえず無条件で,しかもなるべく文字数を多く掲載してくれるところ,ということで,この雑誌が素晴らしく相応しかった。とりあえず,活字にしておけば,それを出版社に送ったり,オースター訳者の柴田元幸さんに送ったりすれば,何か先行きが見えてくるかもと希望的観測をしたり。
まあ,今回は地理学文献といったらソジャの『第三空間』しか引用していないし,地理学なんてことはほとんど一言も書いていない。そもそも,学術的書き方というよりは批評的書き方にあえてしているので,とても地理学雑誌に掲載してもらえるような代物ではなかった。

ということで,時間が経つとこちらでPDFダウンロードができるようになります。その前に読みたいという方はメールにて請求してください。また抜き刷りは入手していませんが,分厚い雑誌は手元に何冊かありますので,お送りいたします。

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学会発表あります

3月28日(水)と29日(木)に日本地理学会2012年春期学術大会が首都大学東京開催されます。

この大学は私の出身大学。前回の学会は私が大学院生で在籍していた時に開催され,スタッフとして働くと同時に,発表もしました。昨年秋に発表したばかりなので,新しいネタを作るのも急ぎ過ぎ感がありましたが,やはり久し振りに大学に行きたいということで,口頭発表に申し込みました。
タイトルは以下の通り。

成瀬 厚:塗り重ねられた風景――ゲルハルト・リヒターの風景芸術

スケジュールの詳細はこちらで確認できますが,私の発表は28日の水曜日,午前10:20からです。
今回は日本地理学会で初めて託児所が設置されるということで,息子を連れて2人で行きたいと思います。妻を連れて行くと大会参加費を取られかねないので。

といっても,今回は平日の午前中ということで,地理学者以外のこのblogの読者に来ることは勧めませんが,地理学者で私の発表を聴く人のために予稿集の原稿をアップしておきましょう。

「2012100006.pdf」をダウンロード

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リヒター関連文献:英語編

リヒターはドイツ人だから,ドイツ語の文献も多いと思うが,私はドイツ語は読めないので,英語だけ。しかも,英語に限定してもかなり出てくると思うので,私の関心事である風景に関連するもので,入手可能な文献だけに限定されています。まあ,読んだ結果風景にはあまり関係なくても,せっかく読んだので,記録しておくことにしましょう。以下,論文が発表された年代順に並べています。

① Gandy, M. 1997. Contradictory modernities: conceptions of nature in the art of Joseph Beuys and Gerhart Richter. Annals of the Association of American Geographers 87: 636-659.
一番始めに地理学者の論文を紹介できるのは喜ばしいことだ。私自身,リヒターの研究をしてみようということで,手っ取り早く検索でひっかかり,しかも本文がPDFでダウンロードできた初めての論文がこれだったのに驚いた。この雑誌は米国地理学会の学会誌で,通常は無料でダウンロードはできないが,この英国の地理学者ギャンディは,こちらの自身のサイトで自分の書いた文章をPDFでダウンロードできるようにしている。なんとオープンな研究者だ。しかも,その研究は多岐におよび,非常に魅力的。
さて,1997年というかなり早い時期に発表されたリヒター論だが,タイトル通り,リヒターとともにドイツの現代芸術家,ヨーゼフ・ボイスが取り上げられる。しかも,分量的にはかなりボイスに割かれた分が多い。そして,タイトル通り,かつ地理学的主題ということで,この2人の芸術家に共通するテーマは「自然の表象」だ。しかも,その表象の仕方はボイスとリヒターでは非常に対照的だという。それが,タイトルに込められたもので,近代性というのが複数になっている。どちらの芸術家もいわゆる近代的な自然概念(ヨーロッパ的な支配的意識)に挑戦するような自然表象を,その芸術作品のなかでしているという議論。リヒターは『アトラス』を中心に分析され,膨大な画像を何かしらの観点から統制することのないこの作品は,全ての対象を並列に扱うという意味において近代的な思考の代替的なものとなりうる。著者は地理学者だから,『アトラス』のなかから風景的なものを選び出すが,著者は風景論よりも自然表象を主題にしたがっている。

② Elger, D. 1998. Landscape as a model. Elger, D. (ed.) Gerhart Richter Landscapes. Hatje Cantz Verlag: New York, 8-23.
この文章が収録されているのはリヒターの図録。1998年4月から1999年の3月まで,ドイツのハノーファのスプレンゲル美術館で開催された展示の図録である。リヒターの展覧会は自ら企画したものは「アトラス」くらいで,大抵は誰かがテーマを決めて,作品を集め開催するということのようだ。この辺りの事情にはもう少し詳しくならなくては。まあ,ともかく,この展覧会はこの文章を書いたエルガーという人物によって企画されたものであり,文章の冒頭では,上記のギャンディも書いていたように,これまでのリヒターに対する批評では取り上げられることの少なかった風景関係の作品を一堂に集めた展示。リヒターのテーマは時代によって異なるが,風景的作品は1960年代から継続的に制作されているという。しかし,批評の対象にならないのは,他のテーマに比べてリヒターの風景画はなにか画期的な手法が試されたり,政治的含意がないということかもしれない。多くの批評家は,ある意味過激なリヒター作品のなかで,風景画はいかにも因習的でロマン主義的な例外的なものと看做してきたという。しかし,エルガーはリヒターの抽象画と風景画の関係性を強調している。それは,この図録に収録された作品群を観てもよく分かる。そして,私が「リヒター関連文献・日本語編」でも書いたように,リヒター自身が風景がについてもいろいろ発言をしている。この文章ではそうしたリヒターの風景に関する記述を引用しながら,リヒターの作品世界における風景画の重要性を主張している。
上述したロマン主義的な風景画として,リヒターの風景がについて語るとき必ず引き合いに出されるのが19世紀初頭のドイツの風景画家,カスパー・ダーヴィト・フリードリヒである。それは,単なるドイツの風景画家というだけでなく,フリードリヒがその人生の多くを過ごしたのが,リヒターが生まれたドレスデンという都市だったということも,何かしらの共通性を批評家が求めるのかもしれない。これについては,今私が読んでいる仲間裕子『C・D・フリードリヒ《画家のアトリエからの眺め》――視角と思考の近代』の読書日記で補足することにしよう。

③ Batschmann, O. 1998. Landscape at one remove. Elger, D. (ed.) Gerhart Richter Landscapes. Hatje Cantz Verlag: New York, 24-38.
②の画集にもう一つ寄せられた文章がこちら。エルガーによる文章がかなり正統派だとすると,こちらはかなり独特な論の展開。なかなか風景画の話にならず,前半はリヒターのガラスを使った作品や,リヒターにしては珍しい彫刻作品などについて論じ,5ページ目でようやく風景画の話に移る。やはりフリードリヒとの対比があり,両者の風景画が低いアングル,何もない空,焦点の定まらない前景,地平線へと幾重もの層があり,そこに立つ建築物,といった共通する画面構成を指摘している。しかし,それは単なる共通性ではなく,明らかにリヒターがフリードリヒを意識し,模倣し,その行為自体がアイロニーに満ちたものである。この議論は,リヒターのグレイ・ペインティング(キャンバスを灰色に塗りつぶしただけの作品)にも拡張し,リヒターのグレイはある種,因習的な風景画に対するアンチテーゼだという。そして,最後はリヒター特有の「ぼかし」について,騙し絵との関連からその機能を論じる。

④ Hawker, R. 2002. The idiom in photography as the truth in painting. The South Atlantic Quarterly 101 (3): 541-554.
この論文はリヒターの風景作品を特別扱っているわけではない。ジャック・デリダの『絵画における真理』の「固有言語(イディオム)」という概念を頼りにリヒターのフォト・ペインティングを理解しようという試み。写真と絵画というメディアの特性を念頭に置きながら,それぞれが持つ固有言語を利用して,リヒターはどんな真実に辿り着こうというのか。
ちょっと辞書なしで読むには理解しにくい文章だったが,最後に杉本博司という日本人写真家の名前が出てくる。私は知らなかったので,早速調べてみると,2001年にニューヨークで開催された個展「ポートレイツ」はなんと蝋人形を被写体にした肖像写真だという。1970年代の有名な作品はアメリカ自然史博物館の展示を被写体にした『ジオラマ』だという。確かに,そうした説明を読むとリヒターのフォト・ペインティングの実践と近いかもしれない。いやいや,いろいろ面白いことをしている人がいるものだ。
一つだけ,下線を引いたところを引用しておこう。「リヒターは写真の固有言語を引用する。絵画において,写真の固有言語のこの引用は写真によるものとして,真理を表象することができるだけでなく,より一般的に,双方のメディアの,全てのメディアにおける表象の限界の真理を表象することができる。」(p.553)

⑤ Foster, H. 2003. Semblance according to Gerhart Richter. Raritan 22 (3): 159-177.
ハル・フォスターといえば,『反美学』や『視覚論』など編著で知られる人物だが,彼のリヒター論があるということで驚いた。博学の彼らしく(?),アドルノやデリダ,ラカン,ジンメル,バルト,クラカウアーといった思想家とか,フリードリヒやデュシャン,ウォーホール,ジャン=リュック・ゴダール,ジョン・ケージ,パウル・クレーなどの芸術家の名前が次々と出てきて,その関係性が論じられるが,あまり印象に残るものはなかったかな。

⑥ Rapaport, H. 2004. Gerhart Richter and the death of poignancy. parallax 10 (3): 99-112.
私が読んだ雑誌掲載論文としては,本論文がリヒターの風景作品を論じた最良のものである。といっても,風景作品のみを論じたものでもないし,辞書なしで一読しただけではあまり理解できたとはいえない。タイトルからして,「poignancy」とは英和辞典では「辛辣さ」と出てくるが,「辛辣さの死」といわれてもなんのことやら。本論文はいくつかの節から構成されていて,いくつかの立場からリヒター作品に接近しようというもの。2ページ半におよぶ前書きの後の節のタイトルは「脱構築テーゼ」と題し,デリダの名前も登場する。引用されている文献は,『テロルの時代と哲学の使命』に収録されている「自己免疫:現実的自殺と象徴的自殺」という対話であり,岩波書店から翻訳も出ているとのこと。確かに,リヒター作品を改めて脱構築とかポストモダンとかいう人はいないが,まあそういえないこともない。次の節が「辛辣さの死」と題されている。リヒターは『1977年10月18日』で有名になったこともあって,どちらかというと政治的メッセージが込められた作品と捉えられがちだが,彼自身の言葉には具体的な政治批判はほとんどない。むしろ,彼の膨大な作品群のなかではそうしたものはごくわずかであり,何の面白みのない肖像画や風景画,ただグレイのキャンバスや何もないガラス,意味を汲み取りにくい抽象画などのなかに,偶然的に政治的含意を読み取りやすい主題が同じような手法で制作されている。つまり,彼自身の制作活動は表向きとは違って,辛辣さというものとは無縁である,そんなことを著者はいいたいのだろうか。そして,最後の節には「屈辱のテーゼ」と題され,精神分析的立場から論じられる。後半に下線を引いた箇所を読み返すとどうやらこういうことらしい。リヒターの芸術は,脱構築という意味において,かつての芸術が最優先目標としていた「美」というものをリヒターは放棄している。また,ピカソの「ゲルニカ」のような政治的意図というものもリヒターは放棄している。それは精神分析を社会全体に敷衍するならば,現代ドイツが経験したさまざまな「消滅」と関わりがあるのだという。ナチス時代のユダヤ人の消滅,ヒトラーを含む戦犯の戦後の消滅,空爆による都市の消滅,統一後の東ドイツの消滅,などなど。つまり,歴史上ドイツという国が被ってきた屈辱の一端がリヒター作品に投影されている,という解釈。少し引用してみよう。リヒターが多用する「ぼかしは単なる概念的・美的装置ではなく,攻撃的で両義的な心理学的防衛以上のものかもしれない」(p.109)。ちょっと正確な引用ではありませんが,そんな感じ。ともかく,再読が必要。

⑦ Hell, J. and von Moltke, J. 2005. Unification effects: imaginary landscapes of the Berlin Republic. The Germanic Review 80 (1): 74-95.
landscapeの語がタイトルについているから期待して読んだけど,風景画という意味合いはほとんどなし。まあ,タイトルにリヒターの名がないので仕方がないけど,リヒター作品のみを論じるものではない。冒頭で『1977年10月18日』が登場するけど,映画や小説に関する議論にも紙幅を費やしている。日本でも公開された2003年の『グッバイ・レーニン』も登場するのは面白いけど。そして,タイトル。ベルリン共和国ってのが私にはよく分からなかった。まあ,要はドイツ統一前後のベルリンを描いた文化作品を検討することで,その想像的風景が政治的にどんな含意があるのか,ということを考察するような論文。

⑧ Godfrey, M. 2011. Damaged landscapes. Godfrey, M., Serota, N., Brill, D. and Morineau, C. (eds.) Gerhart Richter Panorama: a retrospective. Distributed Art Publishers Inc.: New York, 73-89.
これは最近の回顧展のカタログに掲載された一文。この著者はこの回顧展でも主要な人物で,テート・モダン美術館の館長らしい。リヒターの風景作品について総括的に書かれていて,非常に有用な文章。著者によれば,リヒターの風景作品は以下の四つに分類できる。
1.都市景観図
2.風景画と海洋画
3.雲と細部
4.新たな道筋
まずは都市景観図。これは矢守一彦『都市図の歴史』に詳しいが,ヨーロッパにおいては歴史が長く,ブラウンとホーヘンベルフの『世界都市図帳』が出版されるのが1570年。そして,この辺は私は詳しくないが,20世紀前半にも都市鳥瞰図の流行があり,ニューヨークの摩天楼などをイラスト的に描いたものなど見たことがある。そうした系譜のなかでリヒター作品を解釈するのも面白そうだ。ただし,リヒターの場合は図像的に20世紀の流行と似ているわけではない。リヒターの場合は航空写真を用いたフォト・ペインティングと,都市模型を撮影したもののフォト・ペインティングがある。しかも,それらに「ぼかし」が適用される作品も多い。リヒターには初期の作品に戦闘機を描いたものもあり,この「ぼかし」が空爆による都市の破壊を意図していると解釈されることも多い。また,戦時期の空爆後の垂直航空写真を忠実にガラス板に模写した作品なども存在する。
次に風景画。この文章のなかにもフリードリヒ作品の図版を再録し,両者の風景画の間の視点や画面構成などの共通性を論じている。そして,海洋画。これはあまりこなれた日本語ではないが,Seascapeのこと。海岸ではなく,画面の下半分が荒波の海,上半分が空という絵画。しかも,上半分にも海を上下に反転した「Sea-Sea」という作品もある。この作品には,ドイツ人抽象画家のブリンキー・パレルモとの関連性が指摘されているが,この解釈は面白い。
続いて雲だが,これは写真家,スティーグリッツがストレート・フォトグラフィの被写体としたものとしても知られるものだが,いわゆる自然風景のなかでもその図像はほとんど偶然性が支配するということで,抽象画にも近い。また,「ストロンチウム」など,物質の電子顕微鏡写真を拡大した原子配列の像なども,ある種の自然表象でありながら限りなく抽象画に近い,という極めて興味深い作品生産。

とりあえず,こんなところにしておきましょうか。

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同じ映画館で3本連続

2月25日(土)

前週は映画を1本も観られなかったので,この日は2本立てにしてやろうと思っていた。前週わが家に遊びにきた友人が観たという『人生はビギナーズ』。これは私も絶対に観るといったら,妻が前売り券を買ってきてくれた。友人は新宿バルト9で観たとのことだが,日比谷シャンテ・シネでもやっていた。シャンテならば,他にも観たい作品があるはずだと思い,調べてみると,上映中の3本とも観たい作品だった。しかも,朝9:30から観始めれば,3本終わっても17時だ。さらに,それぞれの合間の時間が1時間前後ある。1回目の合間はお昼時だし,2回目はティータイム。ということで,タンブラーを持ってスターバックスでお昼もティータイムも過ごすという計画を立てる。そう,スターバックスはドリップコーヒーであればその日中の2杯目以降は100円になる。シャンテ・シネも随分前からTOHOシネマズ系列に組み込まれてしまった。そういうTOHOシネマズの戦略が気に喰わなくて,TOHOシネマズ・マイレージカードは頑に作らずにいたが,近所の映画館もTOHOシネマズなので,ついに入会することとしよう。ちなみに,入会金が200円で,年会費が300円。6本鑑賞につき1本無料,1分で1マイルたまり,1000マイルでポップコーンなどと交換,6000マイルで1ヶ月無料パスポートとのこと。マイルの方は有効期限が1年間なので,単純に1本120分としても,6000マイルに達するには年間50本をTOHOシネマズで観なくてはならない。今の私にはけっこう大変だ。

日比谷TOHOシネマズ・シャンテ 『おとなのけんか
1本目はロマン・ポランスキー監督作品。なにやらもともと舞台だった作品をアカデミー賞受賞歴のある俳優4人で映画化。2組の夫婦がそれぞれの子どもの喧嘩をきっかけに話し合いの場を設けたという設定。いかにも舞台的だ。ということは,身体的動きよりも会話が中心。3本立ての3本目とかだとけっこうきついので,1本目でちょうどよい。
ジョディ・フォスターとジョン・C・ライリー演じる夫婦が喧嘩で怪我を負った少年の両親。ケイト・ウィンスレットとクリストフ・ヴァルツ演じる夫婦が怪我を負わせた少年の両親。こういう作品は,肝心の子どもたちが登場しないところが面白いと思うが,残念ながら冒頭のシーンでちょっと距離を置いた固定カメラから,喧嘩の様子が映し出されている。まあ,幸いなことに子どもたちの顔までは確認できない映像だし,喧嘩の原因も分からない。ちなみに,エンド・クレジットを見ていると,子どもの一人の名前がポランスキーとなっている。監督のお孫さんか。
さて,本編は全編一室で繰り広げられる登場人物4人のみの展開だが,私が期待したような脚本が魅力なのではない。そこは意外だったが,むしろ4人の表情を中心とする細かな身体的運動が面白いのだ。このネタはばらしては面白くないが,ケイト・ウィンスレットがやってしまう「アレ」とか,クリストフ・ヴォルツのデザートの食べ方とか,ジョディ・フォスターの後半の顔なんて,これまで知的な役どころの多かった彼女のイメージとはかけ離れて,しかも加齢を隠しもせずの演技はなかなかです。意外にもジョン・C・ライリーがこの点では一番つまらなかったかも。まあ,ともかくこういう映画は好きですね。

日比谷TOHOシネマズ・シャンテ 『ヤング≒アダルト
この日の3本のなかでは一番期待していなかった作品だが,『マイレージ,マイライフ』のジェイソン・ライトマン監督ということで,直前で少し期待が高まる。私的には一応シャーリーズ・セロンの作品はチェックしておきたいというのが本心。まあ,全体的にはそれほどでもない作品なのだが,本職はコメディアンだというバットン・オズワルドという人物が演じる役どころの存在があって,本作はまとまりがよくなっている。そこが,やはり監督の技量だといえようか。シャーリーズ・セロンの存在感と演技もさすがだった。彼女の大学時代の恋人を演じるパトリック・ウィルソンはケヴィン・コスナー似だが,この手の役どころから抜け出せない感がある。でも,それがまたよかったりする。『ハード・キャンディ』で14歳の少女に翻弄される姿はなかなかだった。

日比谷TOHOシネマズ・シャンテ 『人生はビギナーズ
主人公はユアン・マクレガー演じる30歳過ぎの男性。恋愛は数年続くが,結婚となると消極的になってしまう。母親が亡くなり,クリストファー・プラマー演じる年老いた父が「ゲイ」であることを告白するという物語。主人公の相手役を『イングロリアス・バスターズ』のメラニー・ロランが演じる。ちょっとこの2人の出会いとお互いが不可欠な存在になるという恋愛関係の展開がちょっと不自然だが,映像的にいくつかの工夫がなされていて面白い。一つは主人公がイラストレータ役で,彼自身の心情をそのイラストで表現するという手法。このイラストのタッチはどこかで見たことがあるから,けっこう有名な人のイラストだと思う。主人公は独特のタッチでミュージシャンの想像画を描き,CDジャケットにするという仕事で知られ,そんな仕事が繰り返し舞い込む。父を亡くした頃はそうした仕事に意欲を失い,ちょうど依頼のあったThe SADというバンドのジャケットと歌詞カードを依頼通りの肖像画ではなく,自らの創作による人類の悲しみの歴史物語で制作してしまう,といったシーンがあったり。また,家族の過去の出来事を語るのに,この時代の男はこうだった,女はこうだった,男女関係はこうだった,とその時代の雑誌のピンナップなどを次々写したり,この年の大統領は,とか,ゲイの話でもあるので,ハーヴェイ・ミルクの映像も出てきたり。こういう演出も好きなんですよね。
ちなみに,メラニー・ロランは英語圏の映画でしか知らなかったけど,やはり元はフランス女優なんですね。すごく奇麗な割には映画のなかでイマイチの役どころが多かったけど,本作では彼女の魅力にやられます。ちょっと横乳が見えるシーンなどあったり,美しい女優さんです。米国アカデミー賞ではクリストファー・プラマーが助演男優賞も受賞したりして,こういう小ぶりの秀作が注目されるのは嬉しい限り。

久し振りの3本立てで疲れるかと思いきや,選んだ作品のせいもあって,全て集中して観られました。やはり映画は素晴らしい。

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嗤う日本の「ナショナリズム」

北田暁大 2005. 『嗤う日本の「ナショナリズム」』日本放送出版協会,269p.,1020円.

最近はすっかりリヒター関係の読書に専念していたので,ちょっと気分転換で手にしたのがこちら。といっても,古書店で購入した未読図書がいくつかたまってきていたが,そのなかでもとりあえず2,3日で読めそうなものを。
著者の北田氏は,岩波書店の雑誌『思想』に1998年に掲載された論文「広告の誕生」に衝撃を受けた。東京大学の社会学専攻はちょくちょく学術出版で活躍するような研究者を排出する。大抵が修士論文の一部をこの『思想』に発表し,評判が良ければ単行本になる。北田氏の場合も修士論文を元にした『広告の誕生』が岩波書店から2000年に発行された。副題に「近代メディア文化の歴史社会学」とあるように,メディア研究でありながら,歴史研究によって現代社会批判であろうとするところは,吉見俊哉や佐藤健二といった東大社会学の系譜に位置づけられる。単なる歴史研究ではなくより抽象的な議論を展開しているところも,小さな本でありながら非常に魅力的だった。しかし,その後2002年に創刊された廣済堂ライブラリーというシリーズの1冊として出版された『広告都市・東京』あたりでおかしくなってきてしまった。吉見俊哉の名著『都市のドラマトゥルギー』の続編たろうとする本書は,自らの広告研究を1980年代以降の東京論として展開するものだが,いかんせん1980年代自体がそうであったように,薄っぺらな都市記述となっている。そして,彼は他の東大出身社会学者の一部と同じ運命を辿ることになるのだろうか。多くの人が知っている宮台真司。彼もかつては理論派の社会学者だったのだ。しかし,いつの間にやらへらへらテレビに出て,ブルセラだの現代社会評論家のようになってしまった。北田氏もさまざまな雇われ仕事をこなすようになり,出版される本は対談集などが増えてくる。
それでも,実際は私は宮台氏の本も読んでいないし,テレビでの発言も聴いていないし,北田氏の対談集も読んでいない。こうして批判めいたことを書くのは単なるひがみなのだが,例えば,もう一人の東大出身の社会学者,大澤真幸氏がいるが,彼の場合は未だに理論研究を進めているが,やはり彼もオウム真理教の研究などがある。出版界で活躍する研究者ほど,歴史研究や理論研究がだんだん現代評論のようなものに移行してくるように思われる。もちろん,それはメディア産業の側が彼らに現代の迷える市民たちに生きる指針を与えてくれるような発言を求めるのかもしれない。私はそういうものを「読む気もしない」と拒絶する一方で,本当のところは彼らが何を語っているのか知りたくもある。ということで,前置きが長くなったが,本書を実際に読んでみたわけである。
実は私は何度か書店で本書を手に取ってパラパラめくったことがある。冒頭は『電車男』の話から2ちゃんねるに展開している。北田氏もやはり歴史研究を捨てて現代社会論か,と呆れる一方で,私が知ろうともしない世界に彼は乗り込んで,何を理解して戻ってくるのか,こないのか,やはり興味は引かれる。しかし,実際は現代社会論だけではなく,一応形式的には歴史社会学としても位置づけられる本で,1970年代から1990年代までを分析して,その先の2ちゃんねる的現代を理解するという内容であった。目次を簡単に示しておこう。

序章 『電車男』と憂国の徒――「2ちゃんねる化する社会」「クボヅカ化する日常」
第1章 ゾンビたちの連合赤軍――総括と「60年代的なるもの」
第2章 コピーライターの思想とメタ広告――消費社会のアイロニズム
第3章 パロディの終焉と純粋テレビ――消費社会的シニシズム
第4章 ポスト80年代のゾンビたち
終章 スノッブの帝国――総括と補遺

「あとがき」で謙虚に断り書きを入れているのが救いではあるが,全般的に本書は1960年代の雰囲気を引きずった1970年代の出来事から,1980年代的なものを論じ,その流れで1990年代を分析し,現代に対処しようとする。
それでも,前半はさすがの爽快な語り口で展開していく。しかし,第1章に入ると,私が馴染みのない歴史的事実が続くせいか,どうにも読みにくくなってくる。最近何本か映画化されたあさま山荘ものを1本でも観ていればちょっと分かりやすかったかもしれない。しかも,この1970年代の出来事は,1960年代的なものの延長のなかで位置づけられているために私にはよけい分かりにくい。そして,その後はやたらと時代精神的なものが強調されるため,面白くなくなっていく。
確かに,1980年代を経て,変容していくテレビの話は,著者が私の1歳下であるためか,ちょうどその頃テレビ漬けだった私には説得的だった。しかし,それですらテレビの一側面をうまく捉えているだけで,それを時代の共通性に結びつけたり,テレビの多様性を無視するのも強引だと思う。そして,その変容を通じてテレビ批判が内在化していくという変化を,ナンシー関を中心に論じ,その傾向が2ちゃんねる的なものへと引き継がれていくという論理展開は面白い。私は実際,テレビの内側にいてテレビを受容しながら批判していくようなナンシー関や現在の2ちゃんねらーたちと違って,私は1990年以降,ほとんどテレビは見ていない。だから,この議論は私がテレビを見なくなった理由をうまく説明しているともいえる。

それにしても,この「○○年代的なるもの」というのはいったいなんなのか?一応,本書は表立って主張はしていないが,言説分析の一種だ。言説作用として,多くの者の思考が同じ方向を向くという不自然な権力のことを,この時代精神的な概念によって示そうとしているのか。その辺は判然としない。
そして,同時に本書の言葉そのものが2ちゃんねる化しているともいえる。本書で参照されるのは,先ほど書いた東大系の人ばかりだ。宮台真司,大澤真幸,東 浩紀,そして世代は少し上だが,北田氏とともに広告研究を進める難波功士,小熊英二,上野千鶴子など。まあ,多様な研究者を一緒くたにするのはよくないが,あまり売れない学術出版物ではなく,多少は売れる学術的出版物の読者たちの間で流通しやすい意味がいっぱい込められている本といえるのかもしれない。

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新しい論文リリース第一弾

さんざんお世話になっている地理科学学会の学会誌『地理科学』に8年ぶりに論文が掲載されました。今回の内容は昨年3月の日本地理学会春期学術大会で発表する予定が,震災の影響で中止になったもの。今回は音楽がテーマということで,パワーポイントのファイルを作成し,音楽を流したり,プロモーション・ヴィデオを流したりする,私にしては画期的な発表になる予定だった。しかし,学会は中止。残念だったような,内心ほっとしたような。
さて,今回の内容は私がさんざんライヴ通いしていた頃のことを研究テーマとして利用しています。そういえば,年間100本以上のライヴに行っていた2004年から2009年という6年間は,共著で『地理学評論』に論文を1本書いたきりで,ほとんど研究活動らしきものはしていなかったと思う。
そういう意味でも,この日記のタイトルに「第一弾」と書いたように,今年はいろいろ成果物が出てくると思います。楽しみにしている人は少ないと思いますが,楽しみにしていてください。

成瀬 厚 2012. 街で音を奏でること――2005年あたりの下北沢.地理科学 67: 1-23.

今回は私の音楽関係の知人でも読んでもらえるような内容になっていると思います。早速抜き刷りを送ってきたので,読んでみたいという方は私宛にメールでお知らせください。お送りいたします。

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