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パリ神話と都市景観

荒又美陽 2011. 『パリ神話と都市景観――マレ保全地区における浄化と排除の論理』明石書店,246p.,3800円.

著者は地理学者で,私の地理学者の知人のなかではここ最近一番頻繁に会う一人。ということで,本書は著者に直接いただいたもの。著者にとっても単著としては一冊目となる。本人によると,やはり本を1冊仕上げるということは1本の論文とは違って,さまざまな苦労があるとのことで,自身としてはその出来にまだ満足できていないという。本書の内容は彼女が2009年に提出した博士論文を元にしているという。まずは目次を示しておこう。

序 パリ神話と都市景観
I 歴史主義と衛生主義の相克
II 「保全地区」マレの成立
III 神話に基づいた景観の形成

副題にもII章にもあるように,本書は「マレ」という地区にまつわる話に限定している。パリに疎い私のようなものにはちょっとピンとこないが,本書をいただいた直後にフランス映画『サラの鍵』を観ていたので,かなりイメージがしやすかった。この映画についてはこちらでも書いたが,現代と第二次世界大戦期のシーンとがあり,戦時期はマレ地区がユダヤ人の集住地区として描かれ,フランス当局がドイツ・ナチス政権に協力する形で,この地区からユダヤ人を集め収容所送りにするという物語。そうしてユダヤ人が抜けた後に住むことになった主人公の義父がその歴史に葛藤する。
本書の最後でもこの作品は登場する。日本では昨年末の公開だったが,本国フランスでは著者が本書執筆中に公開されていたということだ。まあ,この映画が描いているのはマレ地区のごく一部にすぎないが,パリを一枚岩的に描くのではなく,都心に近いこの一角が特定の性格を持っているという知識は本書をより読みやすくしてくれた。
そして,本書はタイトルにパリとしか示していないが,基本的にはこのマレ地区に焦点を絞っている点において,なかなか貴重な社会学的・地理学的研究になっていると思う。著者から読む前にあまりよい出来ではないと聞いていたこともあるが,逆に私には非常に優れた研究書だと思った。確かに,序文は初めての単書だということで,どこかぎこちなさがある。著者の母校である一橋大学社会学部には地理学を専攻する教員は以前からいるが,地理学科はない。著者は地理学者の指導を受けているが,同時に教育環境的には社会学者だともいえる。実際,明石書店はあまり地理学書を出版する出版社ではない。本書は自らを特定の分野を主張しているわけではない。ということもあって,序文はちょっと中途半端な気がする。全般的に地理学を主張するわけではなく,かといって社会学に徹しているわけではない。むしろ,いかにも社会学的な文献はあまり登場しないように思われる。実は私の論文も1つ登場するのだが,それは私の文学研究であり,なぜかここで文学作品を取り扱う口実として用いられている。しかし,私の読書経験によればフランスの歴史学書では文学作品を資料として用いたり,表象分析として用いるのはごく当たり前のことでことさら断るまでもない。残念ながら,フランスの社会学研究というのはあまり読んだことがないので,そちらはどうだか分からないが。
また,タイトルに用いている「神話」についても,フランス流にするならばロラン・バルトやジャン・ボードリヤール,あるいはレヴィ=ストロースなどの名前が私の頭には思い浮かぶが,これらは一切登場しない。また,タイトルに用いられているもう一つの用語である景観についても,地理学の議論が紹介されてはいるが,これまた中途半端な気がする。英語圏の議論については私も現在少しまとめているところなので,その困難さは理解しているが,逆に開き直ってフランス語圏地理学に限定したら良かったのかもしれない。なお,英語では景観をlandscapeというが,フランス語ではpaysageという。その語源的な差異については興味があるところでもある。
さて,序文をさらりとやりすごせば,一気に面白くなる。文学作品を資料として用いることの説明は言い訳がましくても,実際の文学作品の用い方はかなり手慣れている。そして,「マレ地区」という言葉が指示するところの地理的範囲と意味内容とが時代によって変化するさまが,単なる表象としてではなく,実際の都市計画という実践とともに語られます。私はこの種の研究はあまり読み込んではいないけど,場合によってはそうした表象や思想の抽象的な部分が強調され,実際の地理空間における差異がみえにくかったり,逆に地図化できるような側面ばかりに終始していたり,とその具体と抽象のバランスで不満を抱くことがあるけど,本書はそのバランスがなかなかいい。著者が作成したと思われる地図はちょっと印刷の質も悪く,デザイン的にも工夫してほしかったが,まあその辺りは我慢しましょう。また,冒頭には古い絵はがきを掲載し,同じ構図で現在撮影した写真を併置している。しかし,これも本書を読む前に視覚的イメージを与えるだけでなく,読んだ後に本書の説明で理解したマレ地区に具体性を与えるために,本文の最後にもこれらの絵はがきの考察が欲しかった。
私は正直,海外調査をやるくらいの時間と費用,そして現地の言葉を学ぶ余裕があったら手近にあるものでできる研究を構想してしまう質である。しかし,本書を読んで,本文にも書いてあるが,現地でしか手に入らない資料を用いた研究というのはこうして出来上がるんだな,と妙に納得させられた。そして,なぜ日本人がわざわざパリに調査に,とも思うのだが,あまりに身近だと意外と調査がなされていなかったり,わざわざ調べるまでもないと思ったりするのかもしれず,こうして他者の目から素朴な疑問に端を発した研究というのも貴重なのかなと思ったりした読書でした。

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