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2012年6月

そして,また美術館

6月22日(金)

この日は雨ということで,私が一人で朝から映画。渋谷でもやっていたけど,TOHOシネマズのポイントがたまっていたので,無料で鑑賞できるということで,日比谷まで行くことにした。大体,チケット屋は10時以降の開店なので,10時前の回は直前に前売り券を買うことができない。今回観る会はなんと9:30。

日比谷TOHOシネマズ・シャンテ 『私が,生きる肌
選んだ映画はペドロ・アルモドバル監督作品。今回も衝撃的な予告編で,初めて観たときに「これも観るべき!」と思ったが,何度も予告編を観ているうちにちょっと観る気が失せてきてしまったが,やはり観て良かった。というのも,主演がアントニオ・バンデラス。名前も顔もどう見てもラテン系だが,アメリカ映画で活躍していた俳優。スペイン語がペラペラだというのもなぜか驚き。今回,バンデラス演じる主人公は皮膚の移植手術を得意とする外科医という設定。事故で亡くなってしまった妻を想い,自らが開発した人工皮膚の人体実験を兼ね,他人を妻の身代わりにするという物語。ここまでは予告編で分かってしまうので,これ以上どんな展開があるのかという気がするが,やはり本編はそこまでに至る複雑な事情が描かれ,緊張感を持って飽きさせません。さすが,アルモドバル監督。人体実験される女性を演じるエレナ・アヤナという女優も魅力的ですが,主人公の娘を演じたブランカ・スアレスという24歳の女優さんがこれまた奇麗。でも,確かに「衝撃」といえる内容ではあるのですが,作品自体がけっこううまくまとまっていて,あまり異質な感じはしませんね。

6月24日(日)

日曜日は家族で品川に出かけた。私が原美術館に行くのが目的。私が観たドキュメンタリー映画『はじまりの記憶 杉本博司』に併せて開催されていた杉本博司の展示を観るため。一人で品川まで往復すると,それだけで時間がかかってしまう。でも,原美術館は展示室がそれほど広くないし,芝生の中庭もあるので,息子を遊ばせているうちに私が鑑賞すればいいと思った。しかし,原美術館はそれほど声も響かない展示室だし,静かにしていないといけない雰囲気でもなかった。しかも,中庭に出るには鑑賞券を買わないといけなかったので,結局2人分の料金を支払う。

品川原美術館 杉本博司「ハダカから衣服へ」展
ひとまず,ゆっくり見たいので,妻に息子を預け,中庭で過ごしてもらい,私は鑑賞。後ほど交代して,私は息子と一緒に展示室でウロウロしたり。
さて,展示の内容ですが,そのドキュメンタリーにはなかった杉本氏の最近の仕事が中心。どうやら,モードファッションの歴史の記録をしているようだ。残されている衣装作品をマネキンに着させ,いつもどおりに精確に写真に撮影する。人間ではなくマネキンというのが杉本氏らしいが,その芸術的意味合いまでは瞬時に理解することはできていない。でも,その他に『ジオラマ』シリーズから数点と,『ポートレート』シリーズから数点のプリントが展示されていたし,関数模型も一点展示されていたので,それが観られただけでもとりあえず満足。

奇しくも,この週に観た映画と美術展は似たようなテーマの作品だったのかもしれない。

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きょうのできごと

柴崎友香 2004. 『きょうのできごと』河出書房新社,189p.,450円.

ということで,『その街の今は』に続いて柴崎友香もの2冊目。妻が持っていた文庫版を借りて読む。単行本初版は2000年発行。行定 勲によって映画化された作品が公開されたのが2003年。映画は昔から好きだったが年間に観る本数は2〜30本程度だったと思う。しかも,フランス映画を中心とした洋画よりだった。ということはもう10年前になるのか,さくさんという友人と知り合ったわけだが,彼がかなりの映画通で,特に邦画が好きなようだった。Wikipediaによると,行定監督が有名になったのは『GO』で公開は2001年。でも,映画通のなかではあの作品は商業路線をねらった駄作であり,行定監督の傑作は『贅沢な骨』(2001年)や『ロックンロールミシン』(2002年)だと聞かされていた。まあ,ちょうどその頃『Jam Films』(2002年)という当時流行ったオムニバス映画の一本を彼が監督していて,私も観ているのだが,本格的に観たのは『きょうのできごと』が初めてだった。ひょっとしたら,そのさくさんと一緒に観たのかもしれない。淡々と進む男1人女2人の夜中のドライヴのシーンや,女2人と男5人が集まった引っ越しパーティという名のただの飲み会や,男女2人の動物園のシーンなど,特にこれといって劇的な出来事が起こらない,それでいてタイトルが「きょうのできごと」というのだから,私にとってはかなり記憶に残る映画だった。はっきりとしないストーリーというのはフランス映画にもよくあったが,この雰囲気は日本映画独特のものなのかもしれない。結局,いまだに『贅沢な骨』と『ロックンロールミシン』は観てないし,行定監督が特にお気に入りというわけでもないが,それ以降,邦画を観る数は圧倒的に増え,会社を辞めて自営業になったさくさんよりも邦画には詳しくなってしまったのだ。
さて,すっかり前置きが長くなりましたが,やはり先に映画を観ていると,どうしても俳優を思い浮かべながら登場人物を想像してしまう。特に思い出して笑ってしまうのは,三浦誠己さんが演じていた西山が田中麗奈ちゃん演じる真紀に風呂場で散髪されるシーンと動物園で松尾敏伸さん演じるかわちがトイレに駆け込むシーン。まさに,原作でも同じように描かれているので余計に笑ってしまう。ある意味で,あの映画は原作をかなり忠実に再現しているようにも思うが,キャスティングではちょっと違うと思ってみたり。例えば,真紀と伊藤 歩演じるけいとという2人の仲の良い女性2人が中心に物語は展開するが,キャラクター的には逆の配役の方がよかったのではと思ったりする。しかし,それは単純な問題ではない。
つまり,映画ではわたしたち観る者は小説とは違って,それぞれが感情移入する人物はいるかもしれないが,誰の視点に立つわけでもなく,登場人物全ての姿を見ることができる。一方で,小説の場合は大抵「語り手」がいて,例えば『その街の今は』では歌という名の主人公の視点で語られる。それが,この『きょうのできごと』では,各章で視点が変化するのだ。「レッド,イエロー,オレンジ,オレンジ,ブルー」ではけいとが語り手。「ハニー・フラッシュ」では真紀,「オオワニカワアカガメ」では中沢,「十年後の動物園」ではかわち,そして,最後の「途中で」では正道,といった具合に,全て視点=語り手が異なっている。
この辺りのことは1999年の私の論文で,クンデラ『冗談』を分析する時に論じたが,人間というのは自分が思っているのと,他人が思っている姿とは違う。まあ,そんなことは当たり前なのだが,小説というのは顔や体が見えない分,それが顕著に現れる。そもそも,顔も体も見えない状態で,ある一人の人物を特定するというのはけっこう難しい。だからこそ小説は時に人間の性格を極端に描き,複数の登場人物はかなり異なったものとして設定されているのだ。そもそも,わたしたちが「キャラ」と呼ぶキャラクター=性格とは,小説の「登場人物」のこと,もっといってしまえば,AやBといった文字のことだ。他の文字と識別されることで意味をなすものを指し示すのがキャラクター。
なので,語り手となるか,語られる側として描くかで微妙にキャラを違えて小説を書くというのはさらに高度な技なのかもしれない。しかし,それをかなり意識的に行っているクンデラに対し,この作者である柴崎友香は無意識的に行っているような気がする。だからこそ,語られる側としての登場人物たちはかなり異なったキャラとして描かれるのに,語り手となるとどれも似てきてしまう。語り手はどうしても作者自身の心情が反映してしまうように私には思うのだ。その似ている側面というのは人間くささというか,人柄の良さというべきか。まさに作者が自らの言葉を代弁する人物としての語り手はどうしても作者自身に似てしまう。その作者の人の良さが作品に出てしまうように思われる。特に,真紀という人物は語られる側のキャラとしては可愛い女の子で少しわがまま。まさに田中麗奈が演じるのに相応しいように思うのだが,語り手となった途端,伊藤 歩でもいいのではないか,むしろけいとの方が田中麗奈のようにも思えてくる。しかし,けっして語り手とはならない西山はどうやっても三浦誠己なのだ。
これは作者の技法がクンデラよりも劣っているからだろうか,いやそうではなく作者が人間というものをそう信じているからではないだろうか。人間,よく知らずにいると外見や偏見から他人にあるキャラをあてはめてしまうけど,よく知れば知るほどその人の人間くささというか,そういうものが見えてくる。知れば知るほど普通の人や典型的な人物(性格)というのに当てはまる人ではなくなり,親しい人は皆どこか変って見えてしまう。そんな風に思う。
そして,本作には映画化の後に書かれた「きょうのできごとのつづきのできごと」という半分ノンフィクション,半分フィクションの文章が掲載されていて,これが非常に面白い。また,保坂和志という人物の解説文「ジャームッシュ以降の作家」という文章がこれまた素晴らしい。やはり玄人受けする作家ということか。

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その街の今は

柴崎友香 2009. 『その街の今は』新潮社,158p.,324円.

私が手にしたのは新潮文庫版で,単行本の初版は2006年とのこと。実はつい最近までこの作家の名前は知らなかった。映画好きの私は当然『きょうのできごと』は公開当時劇場で観ていたが,妻の書棚にその原作本が置いてあり,「ああ,あれって原作あるんだ」という程度でその場で読まなかったし,名前も覚えなかった。
さて,最近の私の会社の仕事はムラがある。そして,大半はいたって暇である。そんな時にサボってみられないのは,ネットでの検索。私の場合は当然遊びではなく,研究関連のネット利用だが,そんなときに引っかかったのが,この作者,柴崎友香氏のインタビュー記事。こんな2009年のものである。そう,検索ワードは「地理学」で引っかかったのだ。彼女は私より年が3つ下で大阪府立大学(こちらはWikipedia情報)での専攻は「地理学」だったらしい。大阪府立大学には福田珠己さんという優秀な地理学者が勤めているが,私が彼女に初めて接触したのは,私が1994年に『地理科学』に掲載した論文の抜き刷りを送ったときで,その返信の手紙が残っていた。彼女は学部卒が修士修了後に徳島県立博物館に勤め,その後出身大学の関西学院大学の大学院に入り直した。その後大阪府立大学に就職するが,柴崎友香さんが在籍した時にいたかどうかは不明。ともかく,柴崎さんはインタビューに書いているように,卒業論文を「写真による都市のイメージの考察」というタイトルで書いていたらしい。私の卒論は1993年に『人文地理』に掲載され,都市イメージの言葉はあえて用いていないが,このタイトルで卒論を書くんだったら私の論文を読んでいる可能性は十分にある,と勝手に嬉しくなってしまったり。
そんなこんなで,その卒業論文をいかして書いたという『その街の今は』という作品を早速書店で購入して読むことにした。少なくとも,映画の『きょうのできごと』は非常に好きな雰囲気だし,私もその後写真を研究テーマに用いたり,インタビューのなかに出てくるポール・オースターも当然好きだし。
ということで,読み始めましたが,さすが都市と写真をテーマにした卒論を書いた人だけのことはある。非常に緻密な観察眼から成り立っている小説です。というのも,主人公に自分自身を重ね,古い大阪の写真を集めるのが趣味だという設定。昔の写真を集め,それを手に同じ場所を訪れることを密かな趣味にしている主人公。単に見た目の風景の新旧比較というだけではなく,上の世代の人たちにさりげなく昔の大阪について話を聞くという徹底振り。その代わり,ドラマティックな物語展開はありません。まあ,それは映画版『きょうのできごと』を観ていれば分かることではありますが。しかし,確かになかなか魅力的な作品を書く作家ではありますね。単に風景に対して鋭い観察眼をしているだけではなく,人物描写についてもいえます。
ところで,文庫版には川上弘美さんが解説文を寄せています。これがなかなかコンパクトながら鋭いところをついています。といっても,私はまだ柴崎さんの作品を2冊しか読んでいないのに対し,川上さんはこの解説のために,読んだものは読み返し,読んでいないものも読むという徹底ぶりで柴崎さんの作品世界の特徴を捉えたというから当たり前か。その解説文で,川上さんは柴崎さんを唯一無二の存在と表現していますが,これは有り体の表現としてではなく,柴崎さんであっても,ちょっとした日常の出来事の展開の違いで作品は変ってくるという。つまり,さまざまな偶然性がもたらすものが柴崎作品の特徴だという。柴崎友香という確固たるアイデンティティを有した作家としてではなく,自分の周囲に起こる日常のさまざまな出来事の影響のなかで,彼女はコンテクスチュアルに作品を生産するとでも言い換えることができましょうか。地理学的にもなかなか興味深い作品です。ちなみに,この作品は関西地区限定放映でドラマ化もされたようですね。

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芸術鑑賞2つ

6月10日(日)

この日は妻が一人の用事があるというので,息子と2人で出かけた。リヒター論文はひとまず終わりに近くなっているが,一つだけ確認したいことがあり恵比寿へ。リヒターの絵画はフォト・ペインティングという技法を用いており,元となった写真がある。その写真は新聞や雑誌からの切り抜きだったり,家族写真だったりするのだが,そうした作品にまつわる情報を整理したカタログ・レゾネというものの第1巻が昨年発行されたという。第1巻は1962年から1968年までで,私が対象としている風景画はまだあまり描かれていない時期ではあるが,どういうものか確認したかった。調べてみると,東京都写真美術館の図書室にあるというのだ。ということで,久し振りに恵比寿を訪れる。またまた,私の体力不足解消に渋谷からベビーカーを押して歩いていく。息子も狭い空間である電車での移動よりも,風景がゆっくりと過ぎ去るのを観ることができる方がいいのだと思う。久し振りにリキッドルームの脇を通り過ぎると,壁面に「ジャズ&オルタナティブ」などと書かれている。ジャンルの専門化をはかっているのだろうか。
図書室は写真美術館の4階にあり,意外にも初めて入る。日曜日だったが,利用者は3名のみで,息子も比較的おとなしかったので,助かった。といっても,じっくり閲覧するほどの余裕はなかったが,観るだけでも価値はあった。Amazonでも2万円しない価格で出回っているが,リヒター研究者なら手元に置いておきたい1冊。印刷なども含め,非常によくできています。しかし,既に600ページもあるリヒターの『テクスト』と,860ページある『アトラス』,それに2冊の画集がわが家にはあり,さすがにこれを買うのはためらいます。せっかく写真美術館まできたので,一つだけ展示を観ていくことにした。

東京都写真美術館 川内倫子展 照度 あめつち 影を見る
ちょうどやっていたのは,妻も好きでわが家には写真集も数冊ある,川内倫子。数年前にも私は一人で写真展にいったことがある。知名度でいえば彼女はかなり高い写真家だと思うが,当時は青山通り沿いのギャラリーで無料で展示をしていた。今思うと不思議に思う。写真美術館も1フロアでは決して広い展示室というわけではないが,彼女にははやりこのくらいの規模があっているようにも思う。写真美術館はベビーカーの貸し出しもしているくらいで,子連れもOKだが,さすがにゆっくりは観られない。でも,なかなかいい展示でした。

6月14日(木)

最近,京王線のホームの広告スペースに神奈川県立近代美術館葉山の展示のポスターが貼ってあり,目についていた。しかも,それは日本人画家であったが風景画であった。今回のリヒター研究のなかでいくつか日本の風景画についての論文も読んでいたので,ちょっと気になった。神奈川県立近代美術館といえば,私の友人が働いている。彼女はアクセサリーのデザイナー(制作も自分でします)であり,わたしたち夫婦の結婚指輪も彼女の作品。昨年,調布の多摩川河川敷で開催された「もみじ市」に出店していたので遊びに行き,久し振りに会った。その時に妻がアクセサリーを注文していたので,その引き渡しも併せて遊びに行くことにした。当然息子も連れて行くので,行き帰りの電車のことを考えて平日にしようと決めたが,翌週は天気が悪そうなので,急遽今週の金曜日の休みを木曜日と交換した。おかげでいい天気。
川崎で乗り換えて京浜急行で新逗子まで。葉山までの公共交通はバスしかないが,逗子マリーナにあるレストランで昼食をとるために途中下車。海辺の素敵なレストランで,量は控えめだが,味はなかなかのランチセット。再度バスに乗って美術館まで。

神奈川県立近代美術館葉山 松本竣介展 生誕100年
松本竣介という名前は聞いたことがなかったが,生誕100年ということは,今年100歳で亡くなった進藤兼人監督と同い年ということか。とりあえず,前知識なしに展示を観始める。さすがに,いつもは眠くなる時間の息子を連れて3人での鑑賞は断念し,息子を妻に預け,まずは私が一人で鑑賞。
生誕100年ということで,1912年生まれということになるが,けっこう作品数が多く,みょうに1940年前後の作品が多いことに気づく。途中まできて,ようやく彼がわずか36歳で亡くなってしまったことを知る。思ったよりも風景画がけっこう多く,最初期の頃は田舎の風景(彼は岩手県出身とのこと),17歳で上京して都市の風景に関心を持ったようで,写真を撮ると同時に都市風景を描く。展示のタイトルを用いれば,その後「郊外:蒼い面」という全面青いトーンの郊外風景を,「街と人:モンタージュ」という街の断片と人間とを自由な大きさで組み合わせるといった,ある意味反遠近法的な風景画をよく描いている。風景画を好む多くの芸術家は大抵,初期の頃に写実的な絵画を描き,成熟するにつれ,遠近法に縛られない創造性溢れる作品へと移行するが,彼の場合は後期の方が写実的になっていく。そして,風景のなかには人物が描かれない。なかなか研究上興味深い画家だった。しかも,センスもなかなかいい。
それに加え,今回の展示のために作られたカタログも作品が267ページ,解説や論考を含めると400ページを越える立派なもので,しかも値段は2600円と非常にお得。岩手から始まって,葉山の次は宮城,島根と回って,11月23日から来年1月14日までは世田谷美術館で開催されるということですので,よろしければ足をお運びください。

観賞後,今度は妻の番で,私が息子とともに美術館を一周する。この美術館は周囲に散策路があって高台から海も見下ろせます。この日は雲一つなく,美しい水平線が臨めました。妻が出てきて一緒に息子の海岸砂浜デビューと思いきや,もう限界。私におんぶされて寝てしまいました。
帰りはちょっと川崎に寄る。ヨドバシカメラが別のビルに移動していたり,かなりキレイになっていますね。

6月16日(土)

土用日は講義の後に新宿まで出て映画を一本。もうすぐ上映終了してしまう作品。

新宿シネマート 『さあ帰ろう,ペダルをこいで
『アンダーグラウンド』などで知られる東欧の俳優ミキ・マノイロヴィッチ出演ということで観ることにした。予告編ではコメディと思いきや,けっこうシリアスの割合も大きい。舞台はブルガリア。常に社会主義とソ連の影がつきまとう社会。権力を握るものはちょっとしたことで機嫌を損ねるとその人の人生を狂わせることまでしてしまうという理不尽な社会。そんな一昔まえのヨーロッパの状況を描きながらもミキさん特有のユーモア溢れたシーンも多く,やはり観て良かったと思える作品。
ところで,この日はシネマートでも非常に狭いスクリーンでの上映だったのですが,1時間前に受付すると,前から4列は全て埋まっていると告げられる。いつも前列で鑑賞の私ですが,仕方がなく5列目の中央を確保。劇場に到着してみると,なんと団体さん。しかも,多くの人が視覚障害者のようで,盲導犬もいたりします。皆さん,イヤホンを渡され,音声ガイド付きでの鑑賞。恐らく,同時通訳みたいな感じでリアルタイムで解説している人がいるんでしょう。こういう作品でもやるんだから,いいですね。映画鑑賞後には食事会もあったようです。

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思考のフロンティア ナショナリズム

姜 尚中 2001. 『ナショナリズム』岩波書店,161p.,1500円.

前にもちょっと書いたが,今非常勤先の講義でベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を教科書にしている。このblogの読書日記でも改めて読んだ定本版について書いたが,人に説明しようと思ってじっくり読むと学ぶことが多く,やはり名著であることを改めて実感。
その講義の中間レポートとして課題図書ということで,決まったのが本書。実は私自身読んだことがなかったのだが,比較的薄くて読みやすいもの,そして著者が信用できるものをと思ったのが間違いだった。そういえば,この岩波書店の《思考のフロンティア》シリーズは他に1冊だけ持っている。岡 真理の『記憶/物語』だ。改めて考えれば,フロンティアなのだから,その分野の最先端という意味。とても学生に読ませるレベルではなかったのだ。
でも,それに気づいたのはもうレポートの告知をした後だったし,まあ学生ではとても歯が立たない難しい本を読ませるのもある意味で面白いかなと思い,変更はなし。ともかく私自身も読むことになった。とりあえず,目次を。

はじめに
I ナショナリズムの近代
II 「国体」ナショナリズムの思想とその変容
第1章 基本的な視座
第2章 「国体」思想のアルケオロジー
第3章 「国体」の近代
第4章 「国体」の弁証法
第5章 戦後「国体」のパラドクス
むすびにかえて
III 基本文献案内

レポートの課題図書として相応しくなかったのは,単に難解だからではなく,本書はけっしてナショナリズムを論じていないからだ。確かに,それらしい主題の周縁をめぐってはいるけど,ナショナリズムらしきものが登場するのはIのみである。目次を読めば分かるように,本書は日本の「国体」論だ。
2冊しか読んでいないが,やはりこのシリーズはコンセプトがイマイチな気がする。ある主題の最前線の議論をこれほどコンパクトにまとめられるものであろうか。すでにそれらについて精通している読者にとっては,分かりやすい見取り図を提供しているかもしれないが,議論が非常に粗く,私のような読者でも読み飛ばしてしまうような書きぶりである。
そもそも,私は姜氏の文章をあまり読んだことがなかった。小文字の政治学(=ポリティクス)は私の研究テーマのなかに含めたいと思っているものだが,政治学の専門書というものもほとんど読んだことがない。姜氏が政治学界のなかでどんなポジションなのかも分からないので,私が単に彼が属する読書共同体とは馴染みがないのかもしれないが,かなり読みにくい本であった。
ただ,アンダーソンの『想像の共同体』のなかにも日本の近代化についての記述がけっこうあることを改めて認識し,日本については西川長夫『国境の越え方』でそれなりに学んだつもりだったが,アンダーソンはかなり視点が違って再認識させてくれるものだった。そういう意味では,本書もそれにそれなりの知識を追加してくれたと思う。

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映画レポのみ

6月2日(土)

講義の後,府中市立図書館へ。この日は図書館の北側の公園でフリーマーケットをやっているということで,妻がママ友たちを誘って観に行くことにした。私は駅近くのサブウェイでサンドイッチを買って合流。図書館のフリースペースで皆で昼食。ひとしきり見たところで用事がある人は帰ったりして,わが家は息子の靴を2足格安でゲット。けっこう早い時間だったので,私は府中で映画を観て帰ることになった。

府中TOHOシネマズ 『外事警察 その男に騙されるな
選んだのは,この日が初日の日本映画。渡部篤郎主演の刑事ものといえば,私がまだテレビを見ていた時代にやっていた『ケイゾク』が印象的だった。まあ,この作品はNHKのドラマだったし(私は観ていないが),宣伝もよくやっているようなので,ストーリーの説明は不要でしょう。真木よう子や尾野真千子など魅力的な女性陣に加え,ひときわ異色を放っていたのが田中 泯。その存在感はさすがです。

6月8日(金)

この日はお休みということで,午前中妻が映画に行って,午後は3人で過ごすつもりだったが,土日に映画を何観ようかと探しているうちに,この日が最終日の映画をみつけてしまった。府中で昼ご飯だけ家族3人で食べた後,私は有楽町へ。

有楽町スバル座 『この空の花――長岡花火物語
その作品はこちら。東京ではここでしか上映していません。4月に寺島 咲ちゃんのトークショーの際,しったこの作品。大林宣彦監督の秘蔵っ子と表現される咲ちゃんですから,本作品にも出演しています。まだ先の公開と思っていたのに,最終日になんとか観ることになるとは。
大林監督の作品は、『22歳の別れ』(2007年)と『その日のまえに』(2008年)を観てきているが、その頃はかなり異質に見えた映像演出がこの作品で完成形にたどり着いたような気がする。それは単に私の目が慣れてきただけかもしれないが。松雪泰子演じる主人公は熊本県天草に住んでいる設定だが、彼女の室内のシーンは窓枠に別撮りした風景をはめ込む。それはかつて恋人同士(あるいは夫婦?)だったという設定の高嶋政宏演じる男が山古志村に住んでいる設定だが、その窓枠も同じである。主人公はその男からの手紙で長岡の花火を観に旅行をするが、そのタクシーの車窓もはめ込みである。それだけではなく、最新のCGを用いて違和感なく合成映像を作るような努力とは全く一線を画し、カレル・ゼマンのアニメーションか、横尾忠則のコラージュ作品化というような映画映像の製作が最近の大林作品の特徴である。まさに、彼の映像がさまざまなものの組み合わせから成立しているように、人間社会もさまざまな時代の、さまざまな地域に暮らす人々の物質的な関係や精神的な関係、その複雑な組み合わせから、一個人の人生が成立している、あるいは長岡という場所がさまざまな複雑な組み合わせから成立しているという、地理学者マッシーが主張しているようなメッセージが本作には込められている。
物語は2011年の8月の長岡花火を中心に展開される。3月に震災があり、東京圏でも多くの花火大会が中止になったなか、長岡ではむしろ追悼の意を込めて大会を実施する。それは中越地震の際に受けた支援に対する恩返しでもあり、またこの花火自体が1945年8月1日の長岡空襲の戦災復興を祈願したところが始まりであるという。ともかく、この映画は歴史物語のように、戦争の事実が次々と矢継ぎ早に語られる。2時間40分という長い上映時間ではあるが、だらだらしたシーンなど全くない。むしろ、急ぎすぎな感があるくらいだ。劇中では地元の新聞記者による取材ということになっているが、最後にはモデルとなった戦争体験者が登場するが、本編では俳優がかれらを演じ、戦争の記憶を語る。筧 利夫や寺島 咲、森田直幸、蓮佛美沙子などなど、大林作品の常連もたくさん出演しています。

6月9日(土)
渋谷TOHOシネマズ 『ファミリー・ツリー
秀作『アバウト・シュミット』のアレクサンダー・ペイン監督最新作。アカデミー脚色賞を受賞した割には日本ではうけがイマイチなのか。早々と前売り券を購入していたのに、あっという間に上映終了。ということで急いで観に行ったが、どこも1日フルで上映しているわけではなく、時間的に都合がよいということで渋谷になった。客席はけっこう埋まっていたが、やはり私と同様なのか、渋谷には似つかわしくない中年夫婦などが多かった。
さて、予告編はかなりコメディータッチ。ジョージ・クルーニー演じる主人公の妻が事故に遭い、これまでほとんど接触がなかった娘2人と向き合うことになる。しかし、長女から妻の不倫を告げられるという展開。コメディタッチだったら、ハッピーエンドかと思いきや、実際はかなりシリアスタッチ。ハッピーエンド的なものはあまりありません。それにしても、長女を演じるシャイリーン・ウッドリーという女優がかなり美形。役どころは17歳の高校生だが、実際は20歳とのこと。ハワイが舞台ということで、水着シーンも多いです。ハワイの雰囲気がしっかり味わえる作品でもありますね。

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那覇:戦後の都市復興と歓楽街

加藤政洋 2011. 『那覇――戦後の都市復興と歓楽街』フォレスト,240p.,1800円.

久し振りの読書日記。最近はリヒター論文の執筆中につき,単行本ではなく学術論文ばかり読んでいる。昨年の今頃も下北沢論文を書いていたが,関連文献の量は圧倒的に増えてしまった。なぜそんなことが思いつかなかったのか分からないが,ともかく最近は国内外に限らず,論文がPDFファイルでインターネット上に溢れているのだ。関連するキーワードに「PDF」などを付ければ,全く知らなかった学会誌や,聞いたこともない大学の紀要の類がいろいろ出てくる。もちろん,そうなるとそれが価値のある論文なのかどうかはある程度読んでみないと分からないのだが,ともかく際限がない。日本では書籍の電子化はまだまだ進んでいないようだが,洋書ではすでに何冊かPDFで入手してしまった。正規のルートで購入すれば4000円前後してしまうもの。研究がしやすくなったのか,しにくくなったのか。
さて,本書は著者からいただいたもの。こちらから抜き刷りを1本送ったら著書を送ってきてくれた。申し訳のない不等価交換だ。といっても,こちらはこの3年間で3本の論文しか書いていないのに,あちらは3年間で4冊の本を執筆しているのだから仕方がない。ありがたいので,すぐに読むことにした。といっても,歯磨きの時間を中心に自宅で読んでいるだけなので,けっして厚い本ではないが,1ヶ月以上かかってしまった。
「はしがき」に「小さな驚きや発見,ちょっとしたコトやモノに対して覚える戸惑いをきっかけに」(p.5)と書かれているが,これは彼が翻訳したソジャ『第三空間』の最終章のタイトル「ちょっとした戸惑いを刺激として」(これは雑誌『10+1』の24号,2001年に先行で訳出された)を明らかに意識している。それに加え,加藤氏は昨年『空間・社会・地理思想』(14号)にもマッシーの「ウィゼンショウに住まう」を訳出している。どちらも著者の生活に関わりの深い場所を,学術的な決まり事にとらわれずに書かれた地理学的記述だといえる。加藤氏の言葉を使えば「空間誌」ということになるようだ。たしかに,「はしがき」では彼の昼間の那覇の散歩コースが,そして「あとがき」では夜の飲み歩きコースが描かれており,ソジャやマッシーを積極的に日本に紹介している彼ならではの新しい都市のモノグラフィが期待できる。
しかし,序章から読み進めるにつれて,その期待は変っていく。そう,もちろん本書の書名にあるように,あくまでも本書は那覇の歴史地理学なのだ。この直球的なタイトルの付け方は,彼の先輩方が翻訳したハーヴェイの『パリ』(青土社,2006年)を意識しているのか。といっても,この本を私は読んでいないが,本書『那覇』がそうした様々な地理学者の影響下にあることは間違いない。
ところで,加藤氏自身が書いているように,本書は彼のこれまでのフィールド,大学院を過ごした大阪(『大阪のスラムと盛り場』),はじめに就職した大学があった神戸(『神戸の花街・盛り場考』),そして現在の職場である京都(『京の花街ものがたり』)と馴染みのある都市について研究してきているが,そうではない都市について一冊の本を書くのは初めてだという。研究者が馴染みのない土地で研究を始めるのはもちろん大変だが,読者も馴染みのない場所について書かれた一冊の本を読むのもなかなか大変だ。しかし,私はもう10年前になると思うが,那覇にはけっこう通ったことがあった。といっても,会社の仕事の関係だが,一度は那覇空港の夜間工事の立ち会いで延べ1週間ほど滞在したこともある。夜間の仕事ということで,昼間はフリー。といっても,夜間に起きているために大部分は睡眠に当てなければならないのだが,意外と那覇の街は歩いた。といっても,何か目当てがあるわけではないので,迷わない程度にあてどなく歩いただけで,那覇の土地勘ができたわけでもないのだが。ちなみに,まだモノレールができる前の話である。その他にも那覇には打ち合わせと称して他の社員の方と一緒に行ったことがある。今ではなくなってしまったが,その頃は継続的に那覇空港をはじめとした沖縄内空港の業務があって,社員の方が一人は空港事務所に出向していたのだ。なので,出向経験のある社員は那覇に詳しく,1泊だけでも訪れると皆で行きつけの店に飲みに行くのだ。一度は女性がお酌をしてくれるような店にも行ったことがある(決して性風俗店ではありません)。しかも,その日はたまたま旧盆にあたっていて,その街ではお祭りが催されていた。なので,本書で描かれる歓楽街というものもなんとなく想像できるほどには知識があった。ということで,読みやすかった次第である。とりあえず,目次を示しておこう。

序章 那覇の空間誌へ
第1章 歓楽街の設置問題とビジネスセンター構想
第2章 遊郭から料亭街へ
第3章 都市計画と歓楽街(1)―《栄町》の誕生をめぐって―
第4章 忘れられた最初の商店街―《神里原》の盛衰をめぐって―
第5章 変容する遊興文化―《桜坂》誕生の意味―
第6章 《ハーバービュー》の地理学
第7章 都市計画と歓楽街(2)―《辻》の再興をめぐって―
終章 「都市動態の研究」へ

読み終わって,荒又美陽さんの『パリ神話と都市景観』と比較したくなった。もちろん,都市にはそれぞれの事情があり,歴史がある。パリと那覇では全く事情は違うのだが,ある意味で都市の陰の部分を研究として扱うと同時に,その陰の部分を行政の側がどう対処しようとしたのかということも研究対象としている,という点でこの2冊は共通しているように思う。しかし,すでに何冊も著作を書いている加藤氏と,博士論文を基礎として初めて単行本としてまとめた荒又氏。そんな違いも明白にある。物語としての話の展開にはぎこちなさがあるものの,実直に,そして徹底的に学術的なものであろうとする荒又氏の本に対し,加藤氏のものは読み始めは明らかに読者を意識した,読み手を飽きさせない展開を心得ている。第7章まで読み進めて,私は那覇の地元の出版社から出しているということと,1800円という値段に押さえていることから,地理学とは関係ないが那覇という都市の歴史に興味を持つような読者に対して書かれたものだと想像した。資料の出典なども明示はされているが,詳細な情報は与えられていない。そして,その資料のほとんどは新聞(『琉球新報』と『うるま新報』)であり,当事者が書き残した伝記の類である。第7章までは学術的な文献にはほとんど言及がない。この時点では,比較するのであればむしろ,雑誌『旅』に徹底的にこだわって書かれた森 正人氏の『昭和旅行誌』だと思っていたが,終章で突然学術的な議論が登場するのだ。
都市研究のシカゴ学派と,その同時代人としての日本の都市計画家「石川栄耀」。そして,ロラン・バルトを経由して,最終的には加藤氏の好きなアンリ・ルフェーヴル(多くの翻訳がルフェーヴルと表記しているのに,加藤氏はルフェーブルという表記にこだわるのはなぜか?)に落ち着く。
今更告白するが,実は加藤氏の著作は1冊目の『大阪のスラムと盛り場』(2002年)以来読んでいなかったのだ。なので,他の著作がどんな書き方をしているのか分からないのだが,本書がどんな狙いなのかイマイチよく分からなくなった。まあ,上に書いたように,すでに冒頭からソジャとかマッシーとかハーヴェイとか,読む人が読めば分かるような記述があったので,そういう地理学者読者が楽しめる要素と,そういうこと抜きで楽しめる,両方の要素を取り込んでいるのかもしれない。学術的な立場からいえば,突っ込みどころはたくさんあるが,そういう風に理解しておくことにしよう。ともかく,加藤氏の他の本も読んでみたくなった次第である。

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