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きょうのできごと

柴崎友香 2004. 『きょうのできごと』河出書房新社,189p.,450円.

ということで,『その街の今は』に続いて柴崎友香もの2冊目。妻が持っていた文庫版を借りて読む。単行本初版は2000年発行。行定 勲によって映画化された作品が公開されたのが2003年。映画は昔から好きだったが年間に観る本数は2〜30本程度だったと思う。しかも,フランス映画を中心とした洋画よりだった。ということはもう10年前になるのか,さくさんという友人と知り合ったわけだが,彼がかなりの映画通で,特に邦画が好きなようだった。Wikipediaによると,行定監督が有名になったのは『GO』で公開は2001年。でも,映画通のなかではあの作品は商業路線をねらった駄作であり,行定監督の傑作は『贅沢な骨』(2001年)や『ロックンロールミシン』(2002年)だと聞かされていた。まあ,ちょうどその頃『Jam Films』(2002年)という当時流行ったオムニバス映画の一本を彼が監督していて,私も観ているのだが,本格的に観たのは『きょうのできごと』が初めてだった。ひょっとしたら,そのさくさんと一緒に観たのかもしれない。淡々と進む男1人女2人の夜中のドライヴのシーンや,女2人と男5人が集まった引っ越しパーティという名のただの飲み会や,男女2人の動物園のシーンなど,特にこれといって劇的な出来事が起こらない,それでいてタイトルが「きょうのできごと」というのだから,私にとってはかなり記憶に残る映画だった。はっきりとしないストーリーというのはフランス映画にもよくあったが,この雰囲気は日本映画独特のものなのかもしれない。結局,いまだに『贅沢な骨』と『ロックンロールミシン』は観てないし,行定監督が特にお気に入りというわけでもないが,それ以降,邦画を観る数は圧倒的に増え,会社を辞めて自営業になったさくさんよりも邦画には詳しくなってしまったのだ。
さて,すっかり前置きが長くなりましたが,やはり先に映画を観ていると,どうしても俳優を思い浮かべながら登場人物を想像してしまう。特に思い出して笑ってしまうのは,三浦誠己さんが演じていた西山が田中麗奈ちゃん演じる真紀に風呂場で散髪されるシーンと動物園で松尾敏伸さん演じるかわちがトイレに駆け込むシーン。まさに,原作でも同じように描かれているので余計に笑ってしまう。ある意味で,あの映画は原作をかなり忠実に再現しているようにも思うが,キャスティングではちょっと違うと思ってみたり。例えば,真紀と伊藤 歩演じるけいとという2人の仲の良い女性2人が中心に物語は展開するが,キャラクター的には逆の配役の方がよかったのではと思ったりする。しかし,それは単純な問題ではない。
つまり,映画ではわたしたち観る者は小説とは違って,それぞれが感情移入する人物はいるかもしれないが,誰の視点に立つわけでもなく,登場人物全ての姿を見ることができる。一方で,小説の場合は大抵「語り手」がいて,例えば『その街の今は』では歌という名の主人公の視点で語られる。それが,この『きょうのできごと』では,各章で視点が変化するのだ。「レッド,イエロー,オレンジ,オレンジ,ブルー」ではけいとが語り手。「ハニー・フラッシュ」では真紀,「オオワニカワアカガメ」では中沢,「十年後の動物園」ではかわち,そして,最後の「途中で」では正道,といった具合に,全て視点=語り手が異なっている。
この辺りのことは1999年の私の論文で,クンデラ『冗談』を分析する時に論じたが,人間というのは自分が思っているのと,他人が思っている姿とは違う。まあ,そんなことは当たり前なのだが,小説というのは顔や体が見えない分,それが顕著に現れる。そもそも,顔も体も見えない状態で,ある一人の人物を特定するというのはけっこう難しい。だからこそ小説は時に人間の性格を極端に描き,複数の登場人物はかなり異なったものとして設定されているのだ。そもそも,わたしたちが「キャラ」と呼ぶキャラクター=性格とは,小説の「登場人物」のこと,もっといってしまえば,AやBといった文字のことだ。他の文字と識別されることで意味をなすものを指し示すのがキャラクター。
なので,語り手となるか,語られる側として描くかで微妙にキャラを違えて小説を書くというのはさらに高度な技なのかもしれない。しかし,それをかなり意識的に行っているクンデラに対し,この作者である柴崎友香は無意識的に行っているような気がする。だからこそ,語られる側としての登場人物たちはかなり異なったキャラとして描かれるのに,語り手となるとどれも似てきてしまう。語り手はどうしても作者自身の心情が反映してしまうように私には思うのだ。その似ている側面というのは人間くささというか,人柄の良さというべきか。まさに作者が自らの言葉を代弁する人物としての語り手はどうしても作者自身に似てしまう。その作者の人の良さが作品に出てしまうように思われる。特に,真紀という人物は語られる側のキャラとしては可愛い女の子で少しわがまま。まさに田中麗奈が演じるのに相応しいように思うのだが,語り手となった途端,伊藤 歩でもいいのではないか,むしろけいとの方が田中麗奈のようにも思えてくる。しかし,けっして語り手とはならない西山はどうやっても三浦誠己なのだ。
これは作者の技法がクンデラよりも劣っているからだろうか,いやそうではなく作者が人間というものをそう信じているからではないだろうか。人間,よく知らずにいると外見や偏見から他人にあるキャラをあてはめてしまうけど,よく知れば知るほどその人の人間くささというか,そういうものが見えてくる。知れば知るほど普通の人や典型的な人物(性格)というのに当てはまる人ではなくなり,親しい人は皆どこか変って見えてしまう。そんな風に思う。
そして,本作には映画化の後に書かれた「きょうのできごとのつづきのできごと」という半分ノンフィクション,半分フィクションの文章が掲載されていて,これが非常に面白い。また,保坂和志という人物の解説文「ジャームッシュ以降の作家」という文章がこれまた素晴らしい。やはり玄人受けする作家ということか。

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