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2012年8月

古代地中海を巡るゲオグラフィア

ステファノ・マニャーニ著,久保耕司訳 2006. 『古代地中海を巡るゲオグラフィア』シーライトパブリッシング,253p.,2200円.

前の読書日記にも書いたように,今私は地理学の歴史を断片的に辿っている。そんななか,たまたまAmazonで引っかかったのが本書。古代の地理学といえば,プトレマイオスの『地理学』程度の知識しか知らなかった私。これは東海大学出版会から翻訳が1986年に出ていて,講義の中で地図の歴史の話をするために,非常勤先の大学図書館でコピーを部分的にとっていた。しかし,最近岩波書店からもパガーニという人の解説が寄せられた『プトレマイオス世界図――大航海時代への序章』という本が1978年に出版されているのを知った。イタリア語の解説文を翻訳しているのは竹内啓一。
本書の著者もイタリア人で歴史家だということだが,本書の原著タイトルは『古代世界の歴史地理学』という。訳者も地理学には無関係の翻訳家ということで,聞いたことのない出版社だが,無視するわけにはいかない。とりあえず,目次をみておこう。

はじめに
第一部 地中海
 第一章 海と大陸のインターフェイス
 第二章 環境と資源
 第三章 都市と領土:風景
 第四章 コミュニケーション
 第五章 神話,認識,地中間の空間の現れ
第二部 ゲア。陸地の認識とその表現
 第六章 陸地の探検
 第七章 世界のモデル:ホメロスの円盤から契約の箱まで

本書は古代の地理学史であると同時に歴史地理学である。つまり,はじめにと第七章で古代ギリシア・ローマ時代の学問としての地理学が語られ,それ以外はその時代の地中海を中心とする世界がどうだったのかということの地誌学的記述である。かといって,それらは切り離し得ない。そもそもが,当時の歴史地理を復元するのは,当時の地理学的著作,あるいは後年の歴史的記述によるしかないからだ。
日本語訳の本書は帯に「休日に読む一冊!」と題し,専門家ではなく一般読書を想定しており,ですます調が用いられている。また,原注が元々なかったかどうかは不明だが,訳注のみがつけられ,引用文に対する訳注は翻訳文献のみに限られている。しかし,思いの外翻訳文献が多いことにも驚かされる。名前しか知らなかったストラボンも『ギリシア・ローマ世界地誌』として1994年に翻訳が出ているし,その他有名なところではヘロドトス『歴史』,ホメロス『オデュッセイア』,ヘーシオドス『仕事と日』,プリニウス『博物誌』の他,マニリウス『占星術または天の聖なる学』,タキトゥス『年代記』やトゥーキュディデース『戦史』などもよく引用されている。
本書によれば,最古の地理学者はアナクシマンドロスだとされる。この説はエラストテネスによるものだとされるが,エラストテネスは『地理学について』と題した著書の最初の著者であるという。ストラボンによる17巻に及ぶ『地理誌』によって「ストラボンはアウグストゥスのイデオロギーを世に広めるスポークスマンになっていました。」(p.234)と,本書はよくありがちな古い地理学をノスタルジー的関心からのみ扱うのではなく,その政治性もしっかりと認識している。しかし,本書が全面的に批判的な論調であるのではなく,やはり古い地理学的なあり方に敬意を表しているともいえる。
それが,第一章や第二章の内容であり,地中海世界の自然地理学がしっかりと把握されているということである。そして,政治性といえば古代ギリシア人とフェニキア人の植民地化の話も詳しいし,第四章は現代的な意味でのコミュニケーションではもちろんなく,交通の問題である。そして,交通に関しては道路や運河が大きな政治権力を用いて建設されたこともきちんと説明されている。
といっても,訳文のせいか,全般的に優しい口調で語られるために,いろんな要素が平板的な印象を与えるため,あまり刺激的な読書ではなかったが,基礎的な知識としては地理学者にとって必須だと思われる。

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地理学の本質

ハーツホーン, R.著,山岡政喜訳 1975. 『地理学の本質』古今書院,240p.,3500円.

ハーツホーンは20世紀半ばの地理学者。雑誌『地理』の連載「20世紀の地理学者」(後に,竹内・杉浦編で単行本化される)に竹内啓一氏が「ハートショーン」という表記にしてからはその表記も用いられるようになった。ちなみに,私は竹内氏本人が「彼に会った時に名前の読み方を聞いたら,「角」のホーンではないと説明してくれた」といっていたことを記憶しています。
まあ,名前の呼び方はともかく,私の世代だと,ハーツホーン地理学というのは実際に読むことのない過去のものだった。一般的な説明をすれば,シェーファーという人がハーツホーン流の地理学に「例外主義」というレッテルを貼り,その個性記述的な方法論に対し,これからの時代は地理学が法則定立的な空間科学となるべきだと主張して,地理学の計量革命が始まったということになる。そして,わたしたちが教育を受ける頃には計量地理学もすっかり勢いを失い,計量地理学的な認識論や方法論を批判する地理学が台頭して数十年が経過していた。つまり,自分が依って立つ立場が批判する相手のことはある程度知っても損はないが,批判する相手が批判していた相手まで遡る必要はないように思われていた。
しかし,だからこそ神保町の古書店「明倫館」で本書を見つけたとき,恐らく1500円くらいだったと思うが,私は読まないまでも手元に持っていてもいいかな,という思いで購入していた。それが,なんと意外に早く読む時期がやって来たのだ。私は今(といっても,学会発表したのは昨年の11月のことだが),20世紀前半はおろか,紀元前にまで遡ってプラトンやアリストテレスと格闘している。私のライフワークの一つに場所研究があるが,プラトンの『ティマイオス』やアリストテレスの『自然学』に場所的なものの議論があるということを,現代の哲学者ケーシーの『場所の運命』という大著が教えてくれたのだ。場所の概念に当たるものは,プラトンの「コーラ」,アリストテレスの「トポス」というギリシア語であるわけだが,なんとこれらは「地理学geography」と深く関係する学問として,「地誌学chorography, chorology」,「地勢学topography, topology」として連綿と現代まで続いているというのだ。これはケーシーが教えてくれなかったこと。
つまり,紀元前の地理学者ストラボンからプトレマイオスが議論していた「地誌学chorography」はルネサンスの時代に復活し,17世紀のワレニウス,18世紀の哲学者カントから近代地理学の父フンボルトを経て,19世紀のドイツ地理学でChorologieとして隆盛を極め,ドイツ地理学を取り込むことでアメリカ地理学をもり立てたハーツホーンが自らの地理学をchorologyと呼んでいた,という歴史がある。シェーファーが批判し,その論争を簡素化して教育の場で伝えられる頃にはchorologyという分かりにくい表現ではなく,計量地理学の「空間」に対して,ハーツホーンが「地域」概念を強調していたこともあり,地誌学は「地域地理学regional geography」と呼び代えられていたのだ。

前置きがすっかり長くなったが,ハーツホーンは1939年に「The nature of geography」という論文を発表した。それは後に単行本化されるのだが,驚くべきことに,米国地理学会の学会誌を2号分占拠して,この論文は掲載されたのだ。タイトルだけ見ると,本書はこの論文の翻訳だと思われるが,実はそうではない。上述したハーツホーンを批判したシェーファーの論文が掲載されたのが1953年。ハーツホーンはそうした批判に答えるべく,新たな本を1959年に出版する。これも出版元は米国地理学会であり,タイトルは『Perspective on the nature of geography』というものであり,本書はその翻訳となる。なお,原著の書誌情報は訳書にかならず記載するものだが,なぜか本書には原著タイトルさえ記載されていない。早速目次をみてみよう。

I 序章――地理学の必要性とその目的
II 空間異相の岳としての地理学とは何か?
III ”地表”とは何であるか?
IV 異質現象の総合は地理学の特殊性であるか?
V 地理学における”意味”の尺度は何をもってするか?
VI 人文的要素と自然的要素の間に区別をつけねばならないか?
VII トピカルな問題の分野における地理学の分け方――自然地理学と人文地理学の二重構造
VIII 地理学における時間と発生
IX 地理学は”系統的”と”地域的”の2つにわけられるであろうか?
X 地理学は科学法則を樹立しようとするものか,あるいは個々のケースの記載をするものであるか?
XI 科学の分類からみた地理学の位置
XII あとがき

ちなみに,1939年の「The nature of geography」は『地理学方法論』として翻訳されているが,私はそちらはまだ読んでいない。しかし,当時の日本の地理学における反響とかを調べてみると,この本が相当のインパクトを持って迎えられたことは間違いない。近年では,この手の文献研究の成果というのは珍しくはないが,当時は地理学者がこの種の方法論的な議論に専念して一冊の本にまとめるということ自体が珍しかったようだ。おそらく,地理学史研究というのも一般的でなかったと思われる。なので,日本語訳のタイトルはその本の特徴をよくとらえているものだといえる。
実は,私は大学院に入学した頃,地理学史研究に一時期はまった。今では地理学史研究者といえば岡田俊裕さんくらいしかいないが,数十年前に書かれた竹内啓一,野澤秀樹,山野正彦などの論文が面白くて読みあさっていた。もちろん,古いところでは野間三郎さんの本もあったし,手塚 章さんの『地理学の古典』シリーズも持っている。地理学史にはロマンがあるなんていいかたもあるけど,私にとってはそれこそ国も時代も違う地理学研究から学ぶことは非常に抽象的な方法論であったり認識論であったりするということが,魅力的だったのだと思う。といっても,最近は地理学史研究が下火だし,そういうものを読む余裕もなくなってきたこともあって,久し振り。

でも,このハーツホーンの本はなかなか魅力的だった。しかし,実際私が知りたかったハーツホーン流のコロロジカルな地理学がどういうものかというのは,イマイチつかめなかった。やはり1939年の本も読まなくてはならないということだ。
ちなみに,索引では「コロロジー」の項目があり,15ページと35ページが示されているのだが,「地誌」と訳されているのがそうなのだろうか。でも,一方では「万有に関する知識獲得へのコロロヂカルな研究方法は,理論的にはさらに経験的知識の全分野にわたって拡大されることになる」(p.215)や「しかし,リヒトホーフェンにはじまる地理学の概念を地表の空間的な相異として復活したことから,再び(場所的に追求する)コロロジカルな接近としての考え方の必要が生まれたのである」(pp.217-218)という箇所もある。
また,VII章のタイトルにもあるが「トピカル」という表現を,ハーツホーンは単なる話題や主題としてだけではなく,アリストテレスの「トポス」,つまり場所的な概念でもあることを指摘しているのは素晴らしい。

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帰省したりもしたけれど

とりあえず,映画レポート。

8月15日(水)

府中TOHOシネマズ 『ダークナイト ライジング
クリストファー・ノーラン監督によるバットマン三部作の最後の作品。ちなみに、ノーラン監督は私と同い年。しかも、誕生日が4日違いで私より年下。2000年の『メメント』は渋谷のシネクイントで非常に人気でロングランしていて、最終的に観ることになったが、私にはイマイチだった。なので2005年の『バットマン ビギンズ』は観なかったが、2006年の『プレステージ』は観ている。これは監督で選んだというより、スカーレット・ヨハンソンが目当てだったと思う。『ダークナイト』の2008年には恐らく妻と知り合っていたのだと思うが、その影響で観たのだと思う。それ以来、『インセプション』も良かったし、『ダークナイト ライジング』も楽しみにしていた。もちろん、夫婦揃って好きなジョゼフ・ゴードン=レヴィットが『インセプション』に続いて出ていて、私個人としてはキャットウーマンとして出演しているアン・ハサウェイも大きな目的の一つ。
さすがに、前作の衝撃以上のものを得ることはできなかった。確かに、アン・ハサウェイは非常に魅力的だったが、マリヨン・コティヤールはちょっと期待はずれだった。なによりも、何度もバットマンを殺し損なって、最終的にやられてしまうという展開はアメコミの常套手段であり、あまりその手の映画を観ない私にとってもちょっと飽き飽きしている展開。今回の悪役はそれほど観る者に恐怖を与えるような迫力がなかったようにも思う。核爆弾の処理の仕方も、最後にオチがあるものの、あれは『鉄腕アトム』と同じではないか。まあ、でもそんな衝撃的な映画を頻繁に作れるはずもないし、全体的には良くできている作品だと思う。まあ、逆にいうとこじんまりとまとまりすぎていたという気もしないでもない。でも、改めて『バットマン ビギンズ』を観て、『ダークナイト』を見直す楽しみはできたと思う。

8月18日(土)

新宿バルト9 『桐島,部活やめるってよ
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』、『クヒオ大佐』、『パーマネント野ばら』とWikipediaに乗っていた監督作品は全て観ている吉田大八監督最新作。といっても、別に監督で選んでみているわけでもないし、オリジナル脚本ではなく、みな原作があるようだが、そのチョイスがけっこう面白い監督だと、振り返ると思える。そして、私のなかでは今年一番期待していた映画。朝の回がやっていた新宿バルト9で私が観て、その日の午後に妻が近所のTOHOシネマズで観るという一日。バルト9では、本編の前に素人高校生が撮影したと思われるショートフィルムが上映された。テーマは本作タイトルと同じ。シチュエーションは全く違っていてよく分からないところもあったが、このショートフィルムの冒頭のナレーションにあった「高校には優秀な一握りの集団とその他大勢とがいる」というような内容が印象的だった。
さて、本編。事前にウェブのニュースで、出演者の橋本 愛と東出昌大のインタビュー記事を目にしていた。橋本 愛は『告白』でやたら目立っていたが、最近映画出演に引っ張りだこ。そんな彼女は俳優という職業を続けていこうと自発的に思っていなかったが、本作出演でかなり目覚めたらしいというもの。東出昌大の本職はモデルだったようだが、本作で監督に役者という仕事について厳しくいわれたらしい。基本的に先生以外は高校生しか出てこない映画ではあるが、かれらに刺激を与えたのが、表向きの主演の神木隆之介と大後寿々花の存在らしい。この2人は2007年の行定 勲監督作品『遠くの空に消えた』で共演しているが、どちらも子役時代から映画にも多数出演し、芸暦は長い。もちろん、実年齢では出演者の年齢差はけっこうあるようだが、一応同世代といっておくと、同世代でありながら役者としての経験はだいぶ違う。ということで、個々人の演技を見るという意味でも面白い作品。
まあ、宣伝でも予告編でも本作の概略は既に伝えられているが、実際に映画にはほとんど登場しない「桐島」というバレー部のキャプテンが部活をやめるという話が学校中を駆け巡る数日間の様子をさまざまな視点から描く作品。日本の高校らしく、ここでいう「優秀」とは成績であることはなく、部活でいえば運動部>文化部>帰宅部(場合によっては帰宅部>文化部)であり、ルックスと異性間の交友という価値観が強い。
それにしても、中学や高校の学園ものってのは演技に関してその評価はなかなか難しい。小学生は基本的に自然に振舞うので、自然な演技が評価されるが、中学生や高校生は社会におけるさまざまな葛藤から自然に振舞えない。だから、未熟な演技で不自然に見えるようなものが逆に自然だったり、妙に自然に見せるような技術が逆に不自然に思えたりするからだ。そういった意味でも、やはり神木君と大後さんはそこまで理解した上での演技が光る作品。一方で、実年齢26歳ながら神木君の映画部の同級生として出演している前野朋哉はなんと映画監督もやっている人物らしい。なかなか彼の存在も重要。脚本としては期待したほどの驚きはなかったが、ともかくこういう日常の繊細な感情を描く作品というのは観ていて飽きません。最後の屋上のシーンもいいですね。
米国産の『アベンジャーズ』が「日本よ、これが映画だ」というコピーで宣伝を行っているが、私は本作のような映画こそ、「これが映画だ!」といいたい。そして、この手の作品で上映時間4時間とかやってほしいですね。

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邦画2本立て

8月5日(日)

新宿バルト9 『苦役列車
芥川賞作家西村賢太原作の映画化ということだが、私的には監督が山下敦弘だから観ることにした、というところだろうか。といっても、私の山下監督作品暦は『リアリズムの宿』からだし、それからはけっこうメジャーな作品も撮ることになってしまっていて、私のなかでは特別重要な監督というわけではないが、映画ファンとしては彼の作品はチェックし続けなくてはならない、そんな感じ。
原作にはないヒロイン役に前田敦子を起用したものの、興行成績はイマイチのようだ。7月14日公開なのに、既に終了してしまっている映画館もあり、ここバルト9でも朝8:50から1日1回のみ。当然観客もまばら。でも、主演の森山未来の演技には注目すべきだ。唯一の友人役として出演している高良健吾君はいつもどおりの役どころでこれといったことはないし、前田敦子も思ったよりも出番は少ない。まあ、面白くはないこともないけど、脚本のいまおかしんじさんは監督としても知られるが、これまで作品を観たことはなかった。今回は脚本での参加ということだったが、私が楽しめた要素の多くは彼の存在だったのかもしれない。最後のシーンは良かったね。

新宿バルト9 『おおかみこどもの雪と雨
『サマーウォーズ』の細田 守監督作品。彼の作品はいつも夏休みの公開だ。でも、私も妻も今作はあまり乗り気ではない。ただ、『苦役列車』が11時前に終わる回だったし、翌週は帰省の予定で映画は観られないから、同じ映画館で続く時間で観ることにした。予告編で予想させる内容とはかなり違っていてやはり見応えのある作品であったことは確か。しかし、これまでの細田作品のように、爽快な感じがするものではない。かなり嫌な後味を残す作品だ。でも、『苦役列車』とは違って、ほぼ満席だった。これを観た小学生たちは何を思うのか。
ある意味では現代社会の問題をいくつも取り上げているようにも思う。おおかみという動物的要素を含んでいるのはある種の比喩表現であり、生まれ持った人間の性質という風に解釈すると、学校でのいじめの問題や田舎と都会の問題、幼児虐待の問題などなど。登場人物たちの描き方も複雑なのか、微妙なのか、判断つきにくい。少なくとも、無条件にこの作品を好きといえる人は少数派であるように思う。それが、監督自身の挑戦なのか、一つの試みなのか、次回作はどんな感じでしょう。

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わにのだんす

7月28日(土)

脚本家の今井雅子さんが,川越で今年出版した絵本『わにのだんす』のサイン会をするというので,家族で出かけた。なぜ川越なのかということはややこしいが,こんな事情。今井さんはNHKの朝の連続テレビ小説『てっぱん』の脚本家の一人だった。しかし,実はその前の『つばさ』でも脚本協力していたのだ。その縁で,つばさファンクラブなる人たちとつながりができたらしい。
『つばさ』の舞台は川越。ということで,ファンクラブメンバーの多くは川越在住者。川越はこの土日でお祭りを開催。このファンクラブの人たちは「ラジオぽてと」という活動もしていて,この日も祭り会場で公開放送をしているという。そのゲストとして今井さんが招かれた。ついでだから出版したばかりの『わにのだんす』を引っさげて,近くの書店でサイン会を開催,ということでした。
その前に調布に用事があったので,新宿,池袋を経由し,東武東上線で川越まで。思ったよりもスムーズに到着したものの,祭り会場まで歩いて行くか,バスを使うかと悩んだ挙げ句,バスを選択したが,バス停が分からず,乗ったら祭りのため迂回ルートを通り,ついでに道路も混雑していたりで,サイン会場に到着したのは,サイン会予定時刻直前。とあるお店の前でフランクフルトを焼いているお兄さんに「太陽堂はどこですか?」と尋ねると,まさにそのお店だった。店主はのんきに「15時半からだよ」というので,一旦外に出て来る途中に気になっていた「地ビールが生で飲めます」という酒屋さんに戻って,妻が一杯。「COEDO」という東京の酒屋でもよく見る瓶入りのビールはなんと,ここ川越の地ビールだったのだ。そういえば,川越は小江戸でしたね。とりあえずかき氷などを店内で食べられるお店を物色していると,まさに今井さんがいつもの緑のワンピースで太陽堂に入って行くところを発見。どうやら到着が遅れていただけで,やはり15時からだったらしい。サイン会に並ぶ人が数名いて,一人一人とお話ししていたので,わたしたちは店内でしばし涼む。息子は子ども用の音のなる玩具にすっかり夢中。ときおり,今井さんの娘さん「たまちゃん」もこちらに遊びに来たりして,母親の前に娘に接触。サインを求める人が途切れる前にわたしたちの存在に気づく。実物のたまちゃんを見るのは2009年8月の『ぼくとママの黄色い自転車』の公開初日以来2度目。その間,写真などでは見ていたので,あまり驚きはないけど,わたしたちの息子と並ぶとやはり大きい。手足がすらっと伸びてすっかりお姉さんといった感じ。今井さんともうちの出産前に会った以来なので,ちょうど2年ぶり。あまりこれといったお話はできなかったけど,『わにのだんす』を購入し,今井さんと絵を担当した島袋千栄さんとたまちゃんの3人のサインをいただき,お店にも長居して冷たいお茶までいただいてしまう。
お祭りということもあり,川越の街はとっても活気に満ち,また素敵なお店も多く,思ったよりも長居してしまう。帰り途中の朝霞台と北朝霞の乗り換え時にちょこっと飲み屋で夕食を済まし,帰宅。
Wanizurari

7月29日(日)

新宿シネマート 『スープ〜生まれ変わりの物語〜
生瀬勝久主演映画ということでチェックしていた作品。こういう名脇役が主演を務める作品を見逃してはいけません。相手役は小西真奈美。といっても,会社の同僚でたまたま出張に同行した際に雷にうたれて死んでしまうという設定なので,2人の恋の進展などない(実はこう断言はできないのだが)。死ぬ直前に仲違いしてしまった娘を想う主人公が生まれ変わって再会できるかというお涙頂戴物語なのだが,実は3分の1くらいはコメディである。死後の世界で再会するのがかつての仕事の取引相手の社長さん。演じるのは松方弘樹で,彼が登場するとどうにもコメディに傾いてしまう。
主演といっても,あのくどい顔の生瀬さんの顔を2時間見続けるのは厳しい。ということもあって,後半3分の1は生まれ変わってからのお話。出演者がまったく若返って,高校生です。あの橋本 愛ちゃんも登場するが,ともかく最近の若い女優さんたちは皆奇麗。特に,広瀬アリスって子がすごい。主人公の生まれ変わりを演じた野村周平って子も初々しくてなかなかいいです。他にもこの作品にはいろんな俳優さんが出ています。ほんのちょこっと谷村美月ちゃんとか,けっこう重要な役で大後寿々花などなど。久し振りに一杯泣きました。それとは関係ありませんが,いい映画だと思います。

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