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ポスト戦後社会

吉見俊哉 2009. 『ポスト戦後社会』岩波書店,240p.,820円.

岩波新書の「シリーズ日本近現代史」10冊のうちの9冊目。10冊目は編集部による執筆なので,幕末から始まるシリーズの歴史的に一番新しいのが本書ということになる。4冊目の成田龍一『大正デモクラシー』に続いての読書。まあ,この2冊のチョイスは著者で選んでいるようなものです。とりあえず,目次を。

はじめに
第1章 左翼の終わり
第2章 豊かさの幻影のなかへ
第3章 家族は溶解したか
第4章 地域開発が遺したもの
第5章 「失われた10年」のなかで
第6章 アジアからのポスト戦後史
おわりに

本書の立場はわずか2ページのあとがきに集約されている。まずもって,社会科学の「空間論的転回」を主張する一人である著者だから,歴史社会学の立場からの現代史だが,歴史であると同時に空間の物語を紡ごうという意図が一つ。もう一つは「単一の「通史」は存在しない」(p.239)という立場。歴史の解釈は無数にあり,本書はその一つにすぎないという立場である。「だから本書は,通常よくある「ドル危機と石油ショック」「日中国交正常化」「高度成長から安定成長へ」「昭和から平成へ」「バブル経済と平成不況」「55年体制の崩壊」といった変化の時間的連続としては歴史を語らない」(p.240)と主張する。
この立場は私にとってはこのあとがきを読んではじめて「あ,そうなんだ」と理解し,この立場はいかにも吉見氏らしいと感じた。しかし,実際に読んでいる途中は「なんてつまらない平板な歴史既述なのか」と感じながら読み進めた。「まあ,岩波新書だから平易に誰でも知っている史実を軸に語っているのだろう」と私自身の常識獲得のために読んだようなものだ。しかし,あとがきを読んで,明らかに著者が覆そうとした常識をも私が持っていないことに気づかされる。私には本書がいかにも「通史」のように見えたのだ。
少し前に読んだ北田暁大『「嗤う」日本のナショナリズム』でも強く感じたのだが,東京大学社会学,あるいは情報学環出身の研究者は何か強制観念にかられたかのように,1980年代以降の日本の状況を理解しようとしている。吉見氏もその出世作である『都市のドラマトゥウルギー』が東京の近代史であったように,北田氏も広告の近代が最初のテーマだった。それが徐々に現代を語るように,あるいは語らねばならないかのようになっていく。わたしたちの知らない近代期については彼らの大胆な歴史解釈がいかにも説得的に,魅力的にみえるわけだが,とかくわたしたちが同時代的に経験している時代の解釈となると,本当にそうなのか,メディアが報じていることを基礎としすぎているような気もしないでもない。
歴史社会学という学問自体がそういうものかもしれないが,同時代的に起こっていることはすべてなにか「見えざる手」によって,一定の方向に導かれているように語ってしまうのは,著者があとがきで否定しようとしている「通史」ではないのだろうか。複雑化しているはずのこの社会にある種の理解可能な明快さを求めることは正しいのだろうか。

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