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2013年10月

ワインで考えるグローバリゼーション

山下範久 2009. 『ワインで考えるグローバリゼーション』NTT出版,258p.,1,785円.

久し振りに新刊で購入した本。といっても、発行はすでに4年前ですが、外出先で読んでいた論文コピーを読み終えてしまい、急遽書店で購入。でも、今回はこの本を買うと決めていました。というのも、購入したのが有楽町の三省堂だったのだが、本書を刊行語まもなく見つけたのがこの書店だったので、思い出して本書を探した。その頃からレイアウトが変更されてしまったが、NTT出版の「ライブラリー レゾナント」というシリーズの1冊だったので、比較的容易に見つかった。

著者である山下範久さんの本は『現代帝国論』(NHKブックス)以来2冊目。その読書日記にも書いたが、私より1つ年下の彼とは一応面識がある(あちらは忘れていると思うが)。あれはおそらくまだ20世紀だったと思うが、彼が世話人をしていた東大の研究会に何度かお邪魔していたのだ。一度は報告もさせてもらって、その打ち合わせと称し、調布駅からちょっと離れた小さな喫茶店で一緒の時間を過ごしたこともある。身なりにも気を遣うような男性だったので、彼がワイン通であると知っても驚くことはなかった。でも、その趣味を活かして1冊の本を書き上げるとはさすがだ。まずは目次から。

開講にあたって

第一部 ワインのグローバル・ヒストリー

 第一講 モノから見る歴史

 第二講 旧世界と新世界

 第三講 ワインにとってのヨーロッパ

 第四講 ワインにとって近代とは何か

 第五講 ワインの「長い20世紀」

第二部 ワインとグローバリゼーション

 第六講 フォーディズムとポスト・フォーディズム

 第七講 ワインとメディア――ロバート・パーカーの功罪

 第八講 テロワールの構築主義

 第九講 「テロワール」をひらく

第三部 ポスト・ワイン

 第十講 ワインのマクドナルド化?

 第十一講 ローカリティへの疑問

 第十二講 ツーリズムとしてのワイン

 第十三講 ワインの希望

本書の構成は講義録の様になっている。大学の半期の講義は15回程度なので、初回のイントロダクションも含めて14章に分かれているのはそのせいである。でも、書き振りは大学の講義というより一般市民講座。あとがきを読むと、確かに本書の内容は大学の講義やさまざまな市民を相手にした講演が基になっているようだが、本書自体は書き下ろしだそうだ。

ですます調で書かれ、社会科学者ならよく知っている学説についても丁寧に、そして端的に解説される。本書はワインという素材を親しみのあるとっかかりとして、グローバル化という難しい問題を考えるという趣旨で書かれているが、本書を通じてさまざまな新しい社会学理論のエッセンスを学ぶことができるようになっている。古いところではギデンズの近代論、アーリの観光論、新しいところではハーヴェイのポストモダン論、ラトゥールのアクター・ネットワーク理論、リッツァのマクドナルド化論など。目次にある「長い20世紀」ってのはアリギの著書のタイトルだし、「構築主義」はもちろん社会構築主義のこと。当然ウォーラーステインの弟子である著者だから、世界システム論についてはわざわざ語ることもなく、ネグり・ハートの『〈帝国〉論』やブローデル『地中海』なども思考の基礎にある。

私はそうした社会学理論も選り好みをしてしまい、リッツァの本なんて読もうとも思わない。その一方で気に入ったものがあれば、それに批判的に向き合えなくなってしまったりするが、山下さんの場合は前著を読んだ時も感じたことだが、そういうものに選り好みせずに向き合い、消化して自分なりの言葉で語ることができる。どんな理論でも長所と短所を見極めたうえで、短所はさらっと批判し、より長所を引き出す感じの書き方です。

さて、本書の内容ですが、もともとワイン好きということで、学生用の講義の素材に使ったりしていたようですが、本書執筆のためにさらに勉強を重ね、ソムリエの資格も取り、というところは本当に頭の下がる徹底ぶり。そして、本書を読む限り、グローバル化を考える上でワインという素材がまたマッチしています。それは単なる人間の営為ということだけではなく、人間が自然と向き合ってきたという歴史、そして土地に固定された自然環境というものが地域の特質を生む、という考えが生じ、変化し、利用されるということがよく理解できます。それが故に、ワインというモノが移動し、人々が移動し、観念が移動するというグローバル化の原動力となるという論理。それは、グローバル化によって世界が均質化するのではなく、より場所の個性というものが要求されるという、ハーヴェイのポストモダン論を例証しています。ともかく、いろんな意味でよく書けている本でした。

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場所

瀬戸内寂聴 2004. 『場所』新潮社,341p.514円.

瀬戸内寂聴の小説を読むのは初めて。というか、坊さんとしてメディアに登場する彼女の姿しか知らない私にとって、彼女の小説って所から新鮮だった。たまたま私が場所研究者であり、場所をテーマにしている大学の講義のレポート課題図書を探している中で、タイトルずばりの本書に出会ったわけである。といいつつも、映画好きの私は今年、小説家としての寂聴さんに出会っている。それは『夏の終り』という作品が満島ひかり主演で映画化されたからだ。しかも、この映画の原作もあの寂聴さんの実体験をもとにしているというのは私にとってちょっとした衝撃だった。

そんな縁もあり、本書を課題図書に決め、早速読み始めた。本書には下記14の章があり、それぞれ実在する場所の名前をタイトルにしている。本書は彼女自身の遍歴を再訪し、当時の記憶と現在の場所の変貌を書き綴った作品。

南山

多々羅川

中洲港

眉山

名古屋駅

油小路三条

三鷹下連雀

塔ノ沢

西荻窪

野方

練馬高松町

目白関口台町

中野本町通

本郷壱岐坂

と書きつつも、荒川洋治なる人物による巻末の開設には「『場所』に登場する「私」は、瀬戸内寂聴(晴美)その人と思われる。」と書かれており、実話とは断言していない。作品中にも「ウソ」と「ホント」の堺について、作家の情夫との会話が登場する。本作においても事実か創作かを議論することは意味がない。そもそも、彼女はノンフィクション作家ではなく小説家なのだから。

前半の地名は徳島県を中心としている。四国の地理感に疎いことと、話が戦中戦後の話なので、ちょっと読みにくい。主人公は戦中にお見合い結婚し、北京に渡り長女を産む。戦後帰国したものの、不在がちな夫に代わって、夫の教え子でもあった年下の男性に恋をし、夫に告白する。そのまま離婚はせずに上京するが、何度かその男に会うために家出をする。その男の名は「涼太」といい、映画『夏の終り』にもそのままの名前で登場するが、この小説はまさしくその関係を描いた作品。『夏の終り』ではもう一人の不倫相手として小林 薫演じる「仁」というのが登場するが、これも本書で実名で登場する人物。映画では「涼太」を綾野 剛が演じているが、やはり私が映画評で書いたように、実際は満島演じる女性の方が「涼太」よりも年上で、その三角関係にあった頃の年齢としては満島だけがちょっと若すぎる。

さて、話を勝手に進めてしまったが、私が映画を観ていたこともあるが、この三角関係が描かれるところからだんだん引き込まれるようになっていった。巻末の解説にも書かれていたように、彼女には独特の文体がある。この辺りで事実関係を確認しておくと、『夏の終り』が1962年に発表され、出家して瀬戸内寂聴になるのが1972年。つまり、彼女は坊さんになる前に小説家として有名だったのだ。そして、本書は2001年に単行本として出版されているが、その前から『新潮』で連載されていたとのこと。

上にも書いたが、本書はつまり、すでに『夏の終り』などでも小説化されている実体験をした思い出のある場所を40年以上たって再び訪れるという内容。にもかかわらず、過去を語るその書きぶりは非常に鮮明で生々しく描かれている。これこそが彼女が小説家たるゆえんであり、本書でも語られている通り、一時期は毎週雑誌にその名前が載らないことはないというほどの仕事をこなしていたのだ。

特に、彼女が登場で数多くの引越しを重ねて住んでいた場所に関する知識を私が持っているわけではないが、やはりそれなりにもっている東京の土地勘に照らし合わせると読みやすい。私の受講者がこのblogを読む可能性もあるので、肝心なことは書かないが、地理学研究の素材としても豊かな内容を有する作品でした。

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初3D映画

9月22日(日)

渋谷シアター・イメージ・フォーラム 『ジンジャーの朝

原題は「ジンジャーとローズ」。エル・ファニング主演で、ジンジャーとローズという、広島に原爆が落とされた日に生まれた2人の少女の物語。主演も魅力的だが、監督がサリー・ポッターということで、観ることにした。

舞台は英国。近所に住む2人は同じ病院で産声を上げる。ローズは色気を増し、おませな少女へ。ファニング演じるジンジャーは父親がジャーナリストということも手伝ってか、社会に敏感な少女に成長する。おりしも1960年代に入るとさまざまな社会問題に対して民衆たちが立ち上がるようになってきた。まだ冷戦という時代には早いような気もするが、米ソを中心にヨーロッパ各国が保有する核兵器の脅威が声高に叫ばれ、3度目の世界大戦に突入しようものなら、この世界は吹き飛ぶという話が流布する時代。ジンジャーはその恐怖に執拗にとらわれていく。

少女が主演の映画ってのは基本的に好きなのだが、写真家でもある監督だから映像的に問題なし、この時代の雰囲気も好きだし、いい映画でした。

10月12日(土)

有楽町ヒューマントラストシネマ 『スーサイド・ショップ

パトリス・ルコントによる初アニメーション作品。そして、私の3D映画デビューでした。この映画館ではかなりごっつい3Dメガネをレンタルで貸し出しています。レンタル料というか追加料金が400円。3D映画は基本的にあまり歓迎しませんが、アニメであれば許容できます。冒頭はパリの街中を飛び回る鳩を追いかけていくという映像ですが、3D効果は想像以上にすごいですね。でも、まあすぐに慣れてしまいます。

近未来なのか一つの可能世界なのか、パリに住むほとんど人が毎日憂鬱に暮していて、いつ死ねるかということばかり考えているというディストピア的設定。主人公の家族が営む店が自殺用品専門店。公共の場で自殺することが禁じられているという設定で、自宅で失敗することなく自殺を可能にする道具を取り揃えているという家業。その家の3人目の子どもとして生まれたアランが飛び切り明るくて、家族、そして社会を変えていくというストーリー。

90分弱の上映時間ということもあり、非常に濃密な映像で、うまくまとまっていました。子どもに見せるにはちょっと過激だし、DVDで繰り返し観るという作品ではありませんが、さすがルコント監督という作品でした。

10月14日(月,祝)

府中TOHOシネマズ 『陽だまりの彼女

観たい映画はけっこうあるけど、引越しも迫ってきているので、なかなか観に行く時間が取れません。ちょっと無理いって近所の映画館で、しかもTOHOシネマズデー1000円均一ということで観に行った作品。正直、あまり期待はしていなかったのですが、NHK大河ドラマ以降ちょっと目にすることが少なくなった上野樹里ちゃんは個人的に好きなので、応援するつもりで観ることにした。結末的にはちょっといただけない(といっても原作にとってはここが肝なんでしょうけど)のですが、共同脚本に向井康介、そして主題歌が山下達郎ということで、なかなかいい映画に仕上がっていました。特にエンドロールで流れる主題歌は名曲。

脇役もいいですね。松本君の上司役の大倉孝二、弟役の菅田将暉、チョイ役だったのが残念ですが同僚役で谷村美月ちゃん。上野樹里ちゃんの中学生時代の役を演じた葵わかなって子は、雰囲気がそっくりではまり役でした。鉄道マニアの主人公が、鉄道広告会社に勤めているという設定も面白いが、一つ残念だったのはキスシーン。上野樹里ちゃんといえば、『ジョゼと虎と魚たち』でいきなり妻夫木聡とディープなキスシーンを披露して驚いたものですが、本作では大人になっても中学生のようなチューしかしません。やはり相手がジャニーズだから仕方がないのでしょうか。

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わが家ができるまで

引渡しが終わりました

わが家の話。設計がひと段落してからさっぱり家の話題を書かなくなってしまいましたが、当初の予定よりも1ヶ月近く早く工事は終わり、先日引渡しをしてきました。といっても、外構工事がまだ残っていて、引越しは今月末。まあ、当初の引渡し日に近いところでしょうか。

以前も書いたように、わが家は2階玄関なので、道路から玄関に入るのに橋を作らなければなりません。引渡しの段階ではまだ骨組みだけで、それを仕上げてもらわないと引越しはできません。ということで、ここでわが家の工事工程を簡単に説明しておきましょう。

1.基礎工事

わが家の工事に入る前、どの範囲に家を建てるのかということを確認する地縄立会いというのをしました。それが6月はじめくらいだったでしょうか。わが家の基礎工事は梅雨の時期に当っていたのですが、今年の梅雨はあまり雨が降らなかったので、この工程が予定よりも短く済んだということですね。

昔の家といえば、1階の床下は土むき出しの地面だったわけですが、最近は違います。床下からの湿気が上がってこないように、地面に砂利を敷き、防水シートを張り、その上にコンクリートを全面にわたって流してしまいます。確かにこれで家には湿気がきませんが、そのコンクリートの下はどうなるのだろうと素朴に疑問を抱いてしまいます。

全面に流し込んだコンプリートはベタ基礎と呼ばれ、そこから立ち上がりといって1階の壁の部分に垂直な仕切りを入れます。基礎自体の高さは40cmくらいになるようです。つまり、ベタ基礎から床下までにできた空間に排水などの管を通すわけですね。1階の床には床下点検口が設けられ、配水管などに損傷などがあれば、そこに人が入って修復するという感じです。

2.木工工事

立ち上がりの基礎の上に柱を入れます。この辺はあまり見学しないうちに工事が進んでしまったので、よく分かりません。ともかく、在来工法と呼ばれる柱の組合せで家を建てていく工法ではなく、わが家は2×4なので、かなり違うようですね。2×4というのは、通常より太い(?)2インチ×4インチの柱を有効に使って強度を確保するということらしいですが、床や壁が工場であらかじめ作られていて、それを運んで設置し、畳まれていた壁を立ち上げていくという工法のようです。ということで、基本的に壁の厚さは4インチ+α(その外側に石膏ボードを貼っていく)ということになります。もちろん、外壁はもっと厚いです。なので、従来工法では骨組みが出来上がった段階を「上棟」といいますが、わが家はその段階はあっという間に過ぎてしまいました。

この段階での立会いがありましたが、2×4といえど、屋内の壁はまだ柱でスカスカです。壁がないので広く見えるような、柱ばかりで狭く見えるような、なかなか広さの間隔がつかめません。この日の立会いは電気工事に関するものでした。電気は当然床や天井、壁にコードが埋め込まれ、コンセントやスイッチが壁に配置され、照明器具の接続器が天井につけられます。

3.外壁・屋根工事

わが家は外断熱とのこと。ですので、電気工事立会いのときに内側から見た外側の壁の内部に断熱材は入りません。石膏ボードを内側に貼って、中は空洞のようです。外側にはモルタルを塗り込むための細い針金のようなものでできたものが貼られていました。私はモルタル工事の現場も、その状態での仕上がりも直接は見ませんでしたが、妻は何度も現場に立ち寄っていたので、写真を撮ってくれていました。非常にきれいにモルタルが塗られています。そして、最終的にそこにまた材質としてはモルタルのようですが、わが家が選んだのはJストンコートという製品(標準仕様です)が吹き付けられます。住友林業の場合はオーナーサイトがあって、パスワードでログインすると、現場写真が見られるようになっています。どうやら、この吹き付けには非常にシンプルな道具が使われているようです。これで家全体に吹き付けるのは大変そうだ。

屋根についてはわが家は標準仕様のスレート瓦です。瓦が貼られる前の状態も一応見ましたが、屋根はやはり近くでは見られないので、正直よく分からない。ただ、何度か書いているように、わが家は2階玄関なので、比較的屋根は近くで見られます。そして出来上がってみると、屋根の存在感はけっこうありますね。

2.内装工事

内装工事も私が行けていない間にどんどん進み、電気工事立会いの次に訪れた時には石膏ボードが全て貼られていました。これで全体の広さの感じが分かりましたが、やはり壁紙を貼るかどうかで明るさの印象も違いますね。床板も既に張られていましたが、工事中は大工さんが傷つけないように養生されていて、床板はほとんど見られません。順序は前後しますが、最終的に壁紙が貼られます。今住んでいるマンションは私たちが入居する前にリフォームされて、壁紙などは全て貼り直されたものですが、いくつか気になる点があったんですよね。もちろん、新居では全て石膏ボードの上に貼られ、今のマンションは鉄筋コンクリートなので、一部は直接コンクリートの上に貼られているようで、施工の状態も違います。しかし、やっぱり新築の仕上がりは大分違います。素晴らしい仕上がりでした。

3.ユニットバス、システムキッチン、トイレなど

ユニットバスは大分早い段階で取り付けられました。その名の通り、出来合いのものがはめ込まれるものなので、途中の段階は見られませんでしたね。ただし、今回は念願のお風呂に窓がついています。システムキッチンは本来壁側に取り付けるタイプのI型をアイランド的に設置してもらっています。よくありがちな上の棚はやめてもらって、換気扇のところには壁をつけ、シンクの手前にはカウンターをつけてもらいました。システムキッチンといいながらもいろいろ融通は利くようです。トイレの設置はかなり遅い段階だったようです。こちらは特筆することなし。

4.建具

やはり一戸建てとなるとドアの数も多いですね。2階からいきますと、当然玄関ドアがあります。玄関を入ったところにはトイレと収納があります。トイレの開き戸と、収納は奥行きが小さいので折り畳んで開くタイプ。どちらも標準仕様ですが、白いものにしてもらいました。玄関からダイニングキッチンに入るドアは別のメーカーの商品を取り寄せてもらい、しかも床にレールが付かない釣り戸にしてもらいました。ダイニングキッチンから和室に入る戸襖は、ダイニング側はダイニングと同じ壁紙を貼り、和室側も和室と同じ壁紙を貼っています。なぜか、この戸襖の取り付けはかなり遅かったです。そして和室には押入れ襖。こちらも別の柄の壁紙を貼ってもらいました。

1階に下りるとすぐに水回りがあります。そこに入る引き戸は標準仕様。中にはお風呂のドア。こちらも引き戸にしたかったのですが、標準仕様の折り畳み戸。1階には夫婦の寝室になる和室への入口の引き戸と子ども部屋になる洋室の開き戸があります。洋室のものはウォールナット色にしました。

まあ、そんなところでしょうか。出来上がりに関しては、今後気が向いたらウェブ内覧会などもやるかもしれません。

922日に竣工立会いがありました。事前に無料の講習会を受け、チェック項目を確認しておきましたが、やはり新築の家に入ると感激してしまいますね。粗探しはなかなかできません。といいつつ、やはり図面からでは分からない細かな指示が現場には伝わっておらず、施工しなおしてもらった箇所がいくつかありました。しかも、その中の1点は引渡しの時に気づいたのです。不幸なことにそれは壁紙の貼り替えも伴うもので、その壁紙は使い切ってしまっていました。結局、工事用の鍵を預けたまま、私たちも工事用の鍵で当分は出入するということになりました。

写真もありますが,今引っ越し作業でいろんなものを段ボール詰めしてしまい,カメラからデータをパソコンに取り込めないので,写真が引っ越し後のお楽しみ。

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大衆音楽史

森 正人 2008. 『大衆音楽史――ジャズ,ロックから」ヒップホップまで』中央公論新社,276p.,820円.

私の2012年に『地理科学』に書いた論文で言及しながら,実は通読していなかった。私がこのblogで日本の地理学者について何か書くと,いちいちそれを本人に伝えてくれる人がいるらしく,この著者の別の本の読書日記を書いた際にも,そのおかげでわざわざ著者本人がコメントを入れてくれた。そういうのは面倒くさいので,あまり細かい点まで書かないことにしよう。まずは目次から。

第1章 ポピュラー・ミュージックの登場

第2章 黒人音楽――ジャズとブルース

第3章 ロックンロールと若者文化

第4章 パンク・ロックの抵抗

第5章 レゲエ

第6章 モータウンとヒップ・ホップ

本書には目次に入る前に少し長目の「はじめに」があって,なぜ地理学を専門とする著者が新書で音楽の本を書くに至ったのかという経緯が丁寧に書いてある。それによれば,そもそも大衆音楽というものを定義づけること自体が難しいという。その上で,本書は目次にも明確なように,対象を定め,それを章毎にまとめていて,論旨は明快そして読みやすい。

本書に対しては,各ジャンルの音楽ファンからAmazonのレビューなどでいろんな突っ込みがあったらしいが,私自身は音楽研究をやりながらも音楽にそれほど詳しくはないので,そういう突っ込みはできないし,著者もそれを望んでいないことも分かる。彼が主張したいのはそういう次元の話ではない。

例えば,ロックンロールだって,本書で出てくるミュージシャンの名前はごく限られている。ボブ・ディランの名前は出てくるけど,彼についてはほとんど論じられないし(まあ目次に「フォーク」がないから当たり前だが),それぞれのジャンルの日本での展開の話もない。

しかし,新書という限られた紙幅のなかで,と考えれば本書はそれなりにバランスよくまとめられていると思う。しかし,個人的にはあまり興味を持って読んだ本ではなかった。もちろん,それは読者の音楽の関わり方によるのだろうが,私の場合は第4章と第6章については楽しく読むことができた。その他はそれまで知らなかった事実を知ったことは多かったが,決して知的刺激を受けたわけではない。

逆にいうと,著者が楽しく書いたのは何章だったのか,ってところが気になる。音楽の専門家ではないと書きながらも,やはり好きなジャンルがあるはずだ。あとがきに家でギターを弾いていた父とあるが,どんなジャンルの音楽を奏でていたのか,その辺も関係するのだろう。

まあ,ともかく本書を読んで,ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』は読まねばなと思った。

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美と崇高との感情性に関する観察

イマヌエル・カント著,上野直昭訳 1948. 『美と崇高との感情性に関する観察』岩波書店,82p.,100円.

実はカントの本をきちんと1冊読むのは初めて。2010年に『人文地理』に書いた論文では崇高論を展開しているにもかかわらず,必読書の本書は読んでいなかった。恥ずかしい限り。いつも通り目次から。

第1章 崇高と美との感情性の別々の対象について
第2章 一般人類に於ける崇高と美との性状について
第3章 両性相互関係に於ける崇高と美との区別について
第4章 崇高と美との異なる感情性に基づく限りに於ての国民性について

訳者あとがきにも書いてあるが,読んでみればすぐに分かる。本書がカント特有の(といっても他の主著をきちんと読んでいない私だから,カントは一般的にそういわれているという次元ではあるが)綿密な哲学的論考ではない。美と崇高の考え方はエドモンド・バークを薄めたようなものだし,それを頼りに男女の性別とか国民性とかの性質の区別にあてはめていくという,現代の日本人論とか文化論とかでよく使われる論法。

読みやすくはあるが,決してこの読書から何かが得られるわけではない。しかし,訳者あとがきに書いてあるように,カントはほとんど旅行もせずにドイツの一都市で生涯を終えたということを考え併せると,日本人の国民性についても論じているというのは,当時としては非常に優れた情報収集能力であることは確かだ。

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君主論

マキアヴェッリ著,河島英昭訳 1998. 『君主論』岩波書店,387p.,900円.

読み終わったのはちょっと前。仕事で羽田空港に行った時、途中で持参した論文コピーが読み終わってしまったので、川崎で京急から南武線に乗り換える途中に駅ビルに入っていた有隣堂に寄って購入した。『君主論』は以前から読んでみたいと思っていた。この手の本は、複数の出版社が訳者を違えて出しているため、どれを読んだらいいのか悩む。中公クラシックス版がいいかなと思っていたのだが、結局岩波文庫を買ってしまった。まずは目次から。

第1章 君主政体にはどれほどの種類があるか、またどのようにして獲得されるか
第2章 世襲の君主政体について
第3章 複合の君主主体について
第4章 アレクサンドロスに征服されたダレイオス王国で、アレクサンドロスの死後にも、その後継者たちに対して反乱がおきなかったのは、なぜか
第5章 征服される以前に、固有の法によって暮していた都市や君主政体を、どのようにして統治すべきか
第6章 自己の軍備と力量で獲得した新しい君主政体について
第7章 他者の軍備と運命で獲得した新しい君主政体について
第8章 極悪非道によって君主の座に達した者たちについて
第9章 市民による君主政体について
第10章 どのようにしてあらゆる君主政体の戦力を推し量るべきか
第11章 聖職者による君主政体について
第12章 軍隊にはどれほどの種類はあるか、また傭兵隊について
第13章 援軍、混成軍、および自軍について
第14章 軍隊のために君主は何をすべきか
第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて
第16章 気前の良さとケチについて
第17章 冷酷と慈悲について。また怒られるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か
第18章 どのようにして君主は信義を守るべきか
第19章 どのようにして軽蔑と憎悪を逃れるべきか
第20章 城砦その他、君主が日々、政体の維持のために、行っていることは、役に立つのか否か
第21章 尊敬され名声を得るために君主は何をすべきか
第22章 君主が身近に置く秘書官について
第23章 どのようにして追従者を逃れるべきか
第24章 イタリアの君主たちが政体を失ったのは、なぜか
第25章 運命は人事においてどれほどの力をもつのか、またどのようにしてこれに逆らうべきか
第26章 イタリアを防衛し蛮族から解放せよとの勧告

結局、私が手に取った岩波文庫版はかなり新しいものであり、読みやすさよりも学術的な精確さを重視しているものだといえる。先に読んだ非常に注釈の多い『ドイツ・イデオロギー』と似ている。といっても、本書は訳者が追加した注釈は少ない。しかし、注自体は多く、それらのほとんどは外国のこれまでの版につけられた注釈から、訳者の判断でより正しい、あるいは著者マキアヴェッリの執筆意図にかなったものを掲載しているといえる。

本書の原著は1532年に出版された。ヨーロッパにおける出版事情が大きく変容する時期だといえる。これまでの、手書きで写す「写本」というものから、活字が発明されることによる印刷というものに移行する時期である。訳者の解説によれば、本書の著者原稿は存在せず、多くの写本が残されているという。1532年の出版自体はマキアヴェッリの死後5年後に出版されたということで、本書の編集自体も他人がやっていることになる。こういう状況だから、現代にさまざまな言語で本書を出版するという行為自体が一種の歴史解釈だといえる。なので、訳者はそこのところを非常に慎重に訳出作業を行っている。

さて、訳者によれば、本書は前半と後半に分けることができるという。目次をみても分かるように、前半は本書のタイトル「君主論」というよりは、「君主政体論」だという。君主そのもののあり方よりも、国の政治的あり方について論じたもので、15章辺りから君主そのものに焦点を当てていく。その以降として、政体のなかの軍事という側面に集中している。

訳者も基本的に本書の構成を、著者本人の意思に沿うものだと評価している。そのせいか、時代的な理解しにくさはあるものの、また本書が歴史的な精確さを重視しているが故の読みにくさもあるものの、基本的には論旨を理解することは難しいことではなかった。そして、現代は君主的政治よりも民主的政治が歓迎されているわけだが、決して本書に独りよがり的な暴君や独裁的な政治を感じ取ることはない。確かに、例えばある政体が別の政体を戦争などの手段を経て吸収したとしたら、その新しい君主は古い政体のあり方を残さずに主要な人物を一掃しなくてはならない、みたいな主張は現代的には残酷ではあるが、それは当時としてはやむをえない気もする。後半では特に君主の人間としてのあり方を論じていて、現代のビジネス界のリーダー論としても利用されるような内容を含んでいる。

私が本書に関心を持ったのは、よく「マキャベリズム」という言葉を目にするのだが、その言葉について説明している文章はあまり読んでいなかったからだ。あたかも自明のようにその言葉が使われる。ということで、Wikipediaで調べてみたが、日本語版では『君主論』の内容を都合のよいように解釈していると明確に書いており、その意味する内容は「目的のためには手段を選ばず」ということらしい。まあ、他人を踏み台にしてのし上がるリーダーといったところだろうか。マゾッホとサドの小説とは無関係な次元でSMという言葉が使われているのと似たようなものなのだろう。まあ、ともかく「マキャベリズム」という言葉が私のなかで自明なものになる前に本書を読んでおいてよかった。

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地理学方法論

リチャード・ハーツホーン著,野村正七訳 1957. 『地理学方法論——地理学の性格』朝倉書店,583p.,4800円.

20世紀前半の地理学の大著、ようやく読みました。今投稿中の論文で思いがけず地誌学=コログラフィについて知らなければならなくなり、当然コロロジーを主張していたハーツホーンを無視することはできなくなった。以前にもこの読書日記で書いたように、ひとまずは入手しやすい『』を先に読んだのだが、その後本書がAmazonで比較的安く出ていたので購入。早速読むことになった。しかし、ともかく長い。特に後半はあまり私の興味を引くものではなく、読了するまでにかなりの月日を費やしました。

ちなみに地理学者には有名な話ですが、日本語訳にして600ページ近い本書、初めて印刷されたのは学術雑誌。普通、学術雑誌といえば1冊に論文が何本も掲載されるものですが、なんとこの文章が2冊分を全て費やして掲載されたというから驚き。まずは目次から。

第I章 序論

第II章 歴史的発展からみた地理学の性格

第III章 歴史的発展コースからの偏向

第IV章 地理学はコログラフィ的科学であるという歴史的概念の証明

第V章 景観——”Landschaft”と”Landscape”

第VI章 史学と地理学との関係

第VII章 地理学の取扱う事象を感覚によってつかまれる事物に限定すること

第VIII章 地理学においてデータを選択する場合の理論的基礎

第IX章 具体的単位体としての地域概念

第X章 世界を地域わけする方法

第XI章 地理学はいかなる科学か

第XII章 結論——地理学の性格

ということで、地理学者にとっては有名な本書ですが、1939年に原著が発表され、その後シェーファーという人物による批判論文が発表されるのと平行して、1950年代からはハーツホーンの主張する個性記述的な地理学とは相反する、法則定率的な地理学が米国で登場します。それを「計量革命」と呼び、計量地理学と称します。もちろん、それが日本に輸入されるのは時間がかかりますが、そのなかでも統計学的手法を駆使した研究は日本にもけっこう根付き、私が大学に入学した1980年代にはその手の論文がけっこう掲載され、私の大学時代は1990年代に入っていますが、授業でもかなり読まされました。

つまり、私が地理学の教育を受けた時代は、ハーツホーン地理学の批判の上に成り立っていた計量地理学もがすっかり勢いを失って、もちろんそれに対してなされた批判も一昔前という状況でした。なので、計量地理学については多少学ぶものの、それ以前の地理学はほとんど学ばなかったという始末。本書の存在は知っていたが、その中身はほとんど知らず、逆に新鮮な気持ちで読み始めたわけです。

冒頭は数世紀前の地理学の歴史が語られます。日本にも野間三郎という地理学史の研究者がいて、私も修士課程に入ったころはけっこう読んだものです。そこで学んだ知識はほとんど本書に含まれていて驚く。まあ、ハーツホーンの地理学の基礎はヘットナーというドイツの地理学者の影響を大きく受けているということは知っていたが、ドイツに限らず19世紀のヨーロッパ地理学を丹念に検討しています。そして、米国でハーツホーンと同様にドイツ地理学の影響を受け、ドイツ地理学の主要概念「景観」を使いながら研究を行っていたサウアーを目の敵にするように、景観概念を徹底的に批判します。ここは面白かったので、最近発表した私の論文の中でも使わせてもらいました。

ハーツホーンが主張する地理学的主題は「地域的相違areal differentiation」であり、彼が強調する地理学は系統地理学に対する地域地理学、あるいは地誌学、コロロジーであるわけですが、これまで漠然としていた地域地理学、地誌学(コログラフィ)、コロロジーの関係がなんとなく分かってきます。

そして、当時の地理学ですから驚くべきことではありませんが、人文地理学者でありながら、自然地理学および自然に対する洞察がとても深く、近年の自然に関心を持つ人文地理学のあり方において、再びハーツホーンを参照する必要があるのかもしれません。

ともかく、非常に得るところの多かった読書でした。

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