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2014年1月

新しい文章が発表されました

成瀬 厚 2014. 学会誌のあり方についての緒論.地理学評論 87: 73-76.

学会誌には発表されていますが,「フォーラム」という種別で,査読論文ではありません。当然抜き刷りも作っていませんので,全文掲載します。

まあ,こういう文章も著作権的には学会に属するので,こういうことはしてはいけないかもしれませんが,某Y先生もやっているし,学会員に限らず,多くの人に読まれていい文章だと思いますので,いいこととしましょう。

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学会誌のあり方についての緒論

成瀬 厚

「学会誌は学会の顔である」(竹山 1988: 45)という言葉は日本地理学会に当てはまるだろうか.この比喩は学会員の属性によって異なるだろうが,学会の何の役職にもついていない筆者のような会員にとっては,本会への入会意義は自らの研究を投稿し,また他会員の研究に触れる媒体としての『地理学評論』の存在なくして考えられない.

この比喩表現が意味するところが多くの会員の思うところであるならば,より良い学会誌を目指して会員同士が議論すること,あるいは一会員が自らの経験から何かしらの提言を行うことは,より良い学会のあり方を目指す意味でも必要だと思われる.その議論の場として『地理学評論』誌上を用いることも適切だと考える.東京地学協会の『地学雑誌』は1999年に「21世紀の地学関連学会誌を考える」という特集を組み,47学会58誌に対してアンケート調査を行っている(地学雑誌編集委員会 1999).この特集で,当時の日本地理学会編集専門委員長が『地理学評論』の状況について詳しく報告している(杉浦 1999).それから十余年が経過する間に,新たなwebジャーナルとしてのE-Journal GEOが創刊され(2006年),『地理学評論』が月発行から隔月発行になり(2008年),英文誌がwebジャーナル化された(2008年).『地理学評論』の掲載論文も掲載から数年後にJ-STAGEからダウンロードできる状況になっている.

しかし,杉浦(1999)が指摘した『地理学評論』が抱えていた以下の状況は今日でも改善されていないように思われる.すなわち,一つは完成度の低い論文が投稿されるが故に投稿から掲載までの期間が長くなり,それが原稿不足につながるという.完成度が低いのは投稿者の多くが大学院生レベルの若手であることを指摘しているが,杉浦は投稿者に若手が多く中堅が少ないということは問題視していない.もう一つは,『地理学評論』の誌面が学会員の構成を反映していないという指摘である.前者は投稿者に帰せられる問題とされているが,後者については「地理評の改組を検討する時期を迎えている」(杉浦 1999: 704)という提言として主張された.上記のいくつかの変化は改組の一部といえるかもしれない.

筆者は何度かの投稿経験を踏まえ,『地理学評論』の編集のあり方に疑問を抱くようになった.そこで,筆者が考えるより良い学会誌のあり方についての提言をしていきたいと思う.本稿では,他学会におけるこうした議論を紹介し,筆者が賛同するいくつかの提言を示すこととしたい.今日ではJ-STAGEという便利なツールがあるため,関連キーワードで検索することによって,本稿の主題に関わる資料を集めることが容易であると同時に,本稿の読者が同文献を入手することもできる.

まず,学会誌の編集委員長が就任時に所信表明をすることを恒例とする学会は少なくない(大河内 2013; 三野 2004).また,過去の編集長からの意見が寄せられる場合もある(小山 2006; 杉山 2006).そうした学会誌では編集委員長の権限が比較的大きいといえる.『地理学評論』は毎巻最終号に「地理学評論編集専門委員会から」と題し,査読者の名前とともに編集に関わる事項が報告されているが,これはあくまでも事後報告であると同時に,委員長名ではなく委員会名であり,それはある種の匿名ともいえる.また,その内容は定式化しており,編集専門委員会のメンバーが変わっても大きな変更はない.『地理学評論』は編集委員長の権限がさほど大きくないという印象を受ける.このことは,特定の人物が主導するような編集方針というものが,『地理学評論』には明確にはされていないということである.

『地理学評論』の誌面が学会員の構成を反映していないと杉浦は指摘したが,これは必ずしも掲載論文著者の構成が学会員の構成と一致することを意味しないと思う.自身の執筆した論文が掲載されなくても,学会誌を読むことで有用な知見が得られることを期待して入会している会員もいるはずである.そういう場合には,読者としての会員が読みたい内容が『地理学評論』に掲載されるかということが重要だといえる.つまり,学会員の意見を反映した誌面にすることが望まれるのではないか.いくつかの学会では,読者の意見を汲み取るためのアンケート調査を行っている(「エレクトロニクス実装学会誌」編集委員会 2011; 電気学会誌編集委員会 1996).

いうまでもないことだが,学会誌の編集は書店に並ぶような雑誌の編集とは異なり,その主たる機能は論文の審査である.よって,論文審査に関わる議論もなされている.中村(2012)は自身の経験も踏まえているが,一般的な論文審査の理想が整理されている.こうした議論は,初めて投稿する者に投稿規程に書かれない暗黙の了解とされているような重要事項を教えてくれる.江口(2001)は査読者の役割について,主に特定の外国語論文に依拠しながら査読する側とされる側への注意を促している.その内容は10項目にも及ぶが,そのなかから3点ほど列挙しておこう.まず,自分が査読者として適切かどうかを自ら判断し,不適切だと判断したら原稿を送り返す勇気を持つこと.次に,査読者と編集者の役割を明確に区分している.査読者は投稿原稿の採択か否かを判断するのであって,文章の校正をするのではない.最後に,投稿原稿に対する否定的な意見については,査読者が投稿者に対して詳細な説明をすべきだという.

論文審査について実名を挙げながら非常に厳しい議論を掲載しているのが『心の諸問題論叢』である.2009年のVol.4では「論文審査を検査する」という特集が組まれた(酒木 2009).この特集については,後半で詳しく紹介したい.『地理学評論』は論文著者に査読者名を知らせていないが,上述の地学雑誌によるアンケートによれば54誌中10誌は査読者名を著者に知らせている(地学雑誌編集委員会 1999: 747).恐らく,査読者名を知らせないというのは,実名では批判的な意見を出しにくいという風潮から,特定の個人同士の利害関係を生まない形での公正な審査を目指すものだと思われる.また,著者名が査読者に知らされる場合は公正とはいえないとも考えられ,『地理学評論』でも杉浦編集長の時期は投稿者名を外部査読者に伏せていた(杉浦 1999: 698).しかし,明らかにこれは名目上の公正であり,実質的には多くの場合投稿者名は文献表等から分かってしまう.近年のネット社会でも明らかになっている通り,時には人間は匿名の場合により凶暴性を増す.

以上,他学会における学会誌編集に関わる議論を紹介してきたが,それらから筆者は以下の3点について指摘したい.1点目は学会員によって学会誌とはどのような意義を持っているのかを学会が把握すること.2点目は1点目を把握した上で果たすべき編集委員会の役割についてである.3点目は論文審査についてである.

1点目は詳しく論じる必要はない.早急に学会員が望む学会のあり方を把握する必要がある.学会誌に限定しないところでいえば,年に2回行われる学術大会への参加者の動向を把握することなどは今すぐにでもできる作業だが,その情報は学会(集会専門委員会)に属する.学術大会参加者と発表者の関係,発表者の属性,学術大会で発表された内容のうちどの程度が『地理学評論』に投稿され,どの程度が掲載されるのか.後半に列挙したことは学会誌があれば誰でも集計できる.2点目については紙幅の関係上別稿に譲るものとし,本稿では3点目について『心の諸問題論叢』で提示された意見を詳しくみることにしたい.

この特集は心の諸問題考究会で開催されたシンポジウムで報告された内容である.多くの報告者が自らの投稿経験,そして査読者としての経験を提示しながら論を進めている.ただし,ここで提示されている事例は当該学会誌におけるものではなく,心理学を中心としたいくつかの学会誌におけるものである.報告者の多くが提言していることの一つが,「学会の責任において査読者の名前と査読内容を公表するべきである」(酒木 2009: 2)というものである.このことは,「誰に査読されているのか分からない不気味感」(田澤 2009: 14)を解消することとなるが,決して投稿者と査読者が対等な立場になるわけではない.「査読する側が優位にあり,される側が劣位にあるという権力的構造は,揺るぎのないものである」(田澤 2009: 15).つまり,投稿者と査読者は根本的に公正ではありえない.その上でお互いが責任を持った言動を行うことを可能にするのが,査読者の氏名と内容の公開ということになる.

別の観点では,「当該の論文が,その学会の対象としている学問領域の論文であるか否かの判定」(麻生 2009: 62)が論文の採択の大きな理由とされるという.この点は,心理学と地理学の類似点といえるかもしれない.『地理学評論』においても特に「論説」において,投稿論文にはオリジナリティが要求される.オリジナリティの定義については個々の査読者の理解に依存しており問題が多いが,オリジナリティとはいわばこれまでの地理学研究になかった何かを有するということである.よって,オリジナリティとは捉え方によっては「その論文は地理学ではない」という不採択理由にもなりかねない.

この特集のなかで,本学会の編集専門委員にも是非一読していただきたいのは實川(2009)である.タイトルにあるように,心理学関係学会誌に投稿されて不採択となった2編の論文について,その内容と審査資料とを約9万字を費やして詳細に検討している.實川の信念は明確で,「論文の発表は学会員の基本的な権利なのだから,〈研究成果を発表したいという投稿者の願いの実現〉こそが編集者の使命であり,〈平等に会費を負担する学会員の委託に応える〉仕事なのである」(實川 2009: 38-39)というものである.より具体的には,「疑わしきは投稿者の利益に」(實川 2009: 56)という審査の原則の確立が提示されるが,実際の審査では「疑わしきは投稿者の不利益に」(實川 2009: 55)という原則が確立しているという.實川が検討した審査資料における「不採択をはじめ,不利な結論の所見には,不満,非難,要求があふれている.しかし,その根拠はきわめて薄弱であったし,一貫性がなく,矛盾さえ見受けられた」(實川 2009: 53)という.本文には用いられていないものの,キーワードには「アカデミックハラスメント」の語が含まれているように,こうした論文審査の現状を支えている背景には根深いものがあることを實川は指摘している.学会誌に掲載された論文が論文著者の「業績」となり,大学教員の採用基準に用いられる一方で,掲載されてしまえば内容は問われないという風潮があるという.

こうした検討を受けた實川の提言も明確である.「投稿論文の原則的な全編公開と公開での査読を,すべての学会が行えばよいだけである.(中略)これによって,論文の質は確実に向上する」(實川 2009: 55).実は2つ目の事例として検討された論文は2誌への投稿が不採択になったものだが,この『心の諸問題論叢』の当該号に4編の査読論文とともに掲載されている.この『心の諸問題論叢』はまさに實川の提言を実践している学会誌なのだ.

『地理学評論』の審査過程は比較的細かく規定され,明文化されている.しかし,筆者の投稿経験およびわずかな査読経験によれば,査読者(および担当編集委員)は採択を5段階で示すことになっているが,投稿者にはそれは通達されない.また,筆者は同一論文を複数回査読したことはないし,實川が審査途中から査読を依頼された時のように,他の査読者および担当委員の査読結果は通知されたことがないし,最終的な採択結果も知らされていない.

投稿者としての経験では,査読者からの修正意見に対して修正できない理由を細かく説明しても(編集委員会所見ではそれが要求されている),それに対して返答がなされることはあまりない.あったとしてもただ「それでは不十分ですから再度修正を要求します」といった類の意見である.つまり,『地理学評論』の査読審査の過程は細かく規定されているようでいて不明瞭な部分は多く,また「閲読に関する内規」の3項に示されているような,具体的な検討項目は挙げられているものの,その審査の原則については明文化されておらず,個々の査読者の裁量に任されているといえる.

『地理学評論』において審査内容をウェブ公開することは求めないまでも,査読者の氏名および判定結果を投稿者に通知することや,査読者が修正意見に対する投稿者の回答に真摯に対応し,採択が決定されるまでは査読者にもその経緯を報告するというような改善が審議されることを筆者は要求したい.

文 献

麻生 武 2009. “良い論文というものは査読つき学会誌に掲載されるものなのだろうか?心の諸問題論叢 4 (1): 62-65

江口和洋 2001. レフリーの役割について.日本鳥学会誌 50 (1): 46-50

「エレクトロニクス実装学会誌」編集委員会 2011. エレクトロニクス実装学会誌の今後の編集方針について――読者アンケート結果(実装誌Vol.13, No.7, 2010)を受けて.エレクトロニクス実装学会誌 14: 73

大河内 博 2013. 有益な情報提供と新たな発見につながる学会誌をめざして.大気環境学会誌 48 (1): i

小山 修 2006. 学会誌への期待.日本健康教育学会誌 14: 1

酒木 保 2009. 投稿論文審査を〈検査〉する――論文審査に際して起こっていることと体質.心の諸問題論叢 4 (1): 1-4

實川幹朗 2009. どんな論文がどのように不採択となるのか――二つの事例研究から.心の諸問題論叢 4 (1): 27-61

杉浦芳夫 1999. 地理学評論Ser.Aの現状と課題.地学雑誌 108: 696-705

杉山幸丸 2006. 学会機関誌の編集方針についての提言.霊長類研究 22: 29-36

竹山和彦 1988. 学会誌のあり方.図学研究 43: 45-48

田澤安弘 2009. 論文査読の政治学.心の諸問題論叢 4 (1): 11-16

地学雑誌編集委員会 1999. 地学関連学会誌に関するアンケートの結果から.地学雑誌 108: 746-750

電気学会誌編集委員会 1996. 電気学会誌はこう読まれている――13月号読者モニタ調査の結果.電気学会誌 116: 614-615

中村好一 2012. 公衆衛生分野の学術誌における査読のあり方:査読に対する一つの私見.日本健康教育学会誌20: 131-137

三野 徹 2004. 学会誌のあり方の点検と編集の活性化に向けて.農業土木学会誌 72: 273-274

(東京経済大学非常勤講師)

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自然の社会地理

以下は投稿予定の書評原稿です。

淺野敏久・中島弘二編著:自然の社会地理

海青社,2013315p.3,800円(本体)

ISBN978-4-86099-275-0

本書は日本地理学会の「ネイチャー・アンド・ソサエティ研究グループ」から出版された全5巻本のシリーズのなかの1冊である。第5巻でありながら第1回配本で,以降予定通りの配本にはなっていないが,第3回配本分までは出版されている。

同研究グループは2007年設立となっているが,評者は一度もその会合に参加したことはない。成瀬(2001)では自然の表象をテーマの一部とし,その分野に関わる地理学文献もいくつか紹介しており,本書の編者の一人である中島弘二氏とは研究関心を共有していると考えている。本研究グループの発起人は人類学や民族学に近い立場から,海外にフィールドをもつ研究者も少なくなく,評者には遠い存在に感じていた。

本書に収録された論文のなかで,評者がイメージするこの研究グループの研究内容に合致するような海外フィールドの事例研究は第8章および第9章のみであった。また,中島(2005)に続き,序章では私が関心を寄せる研究領域のレビューがなされており,本書に期待を込めて読み始めた次第である。

 序章 自然の地理学(淺野・中島)

I部 自然と環境をめぐるポリティクス

 第1章 大地は誰のものか?(小野有五)

 第2章 原生自然の保全・保護と人種(石山徳子)

 第3章 ヨーロッパにおける広域自然保護地区と観光レクリエーション(フンク・カロリン)

II部 自然の社会的公正と地域

 第4章 環境運動における場所と空間(淺野)

 第5章 基地問題をめぐる人々と環境の関わり(中島)

 第6章 大型鳥類保全を軸にした地域づくり(菊地直樹)

III部 グローバル化のもとでの食と環境

 第7章 食のグローバル化とローカル食糧供給体系(伊賀聖屋)

 第8章 スリランカの有機農業にみる世界の「南北問題」とそれへの挑戦(河本大地)

 第9章 ベトナムのエビ養殖と漁村コミュニティの変化(金 枓哲,グエン・フ・ヌー)

 第10章 大都市近郊における廃棄物の堆肥化とその活用システム(佐々木 緑)

 索引・用語解説

編者2名による序章は,評者たちによるレビュー論文(成瀬ほか,2007)の目的と類似している。評者たちは特に英語圏の地理学で過剰視され批判が起こっていた言説分析研究の状況に対して,日本の地理学では素朴に言語資料を対象とする研究の増加を指摘した。編者の言葉を借りれば,日本の地理学研究は「英語圏の「自然の地理学」のように社会化された自然を主題とする研究はそれほど多くない」が,「自然と社会に関する研究は様々な分野にわたり多くの蓄積がなされてきた」(p.26)という。

つまり,編者たちは日本の地理学の状況を好意的に捉え,自然に関わりのある人文地理学研究を,自然をより意識した批判的研究へと導く方向性を,本書の編集をもって示していると思われる。ここでは評者なりに,編者の意図がどれだけ達成されているか,どういう点が課題として残されるのかを各章に沿って論じていきたい。

1章は非常にアクチュアリティに富んだ,発言力のある文章である。福島第一原発事故の例から始まり,北海道という大地を植民地化の観点から論じることを通じ,さまざまな問題を提起している。ただし,章の副題にも用いられ,本文でも多用されている「ポリティクス」という語については,カナ表記にしていながら明確な定義がなく,評者の理解とも異なっているように思われる。この語は著者の主張を理解するキーワードであるため,丁寧な概念規定が求められる。また,北海道は観光産業や農産物流通において「自然」が記号として用いられており,個人的には小野が論じる歴史を通して「北海道の自然」がいかなる社会的意味を獲得し,利用されているのかという議論への拡張を期待したい。

2章は米国デス・バレー国立公園を事例に,「原生自然を守るという国立公園の大義は,その場所を生活空間として使用する先住民族の排除を意味した」(p.70)ことから生じるさまざまな問題を論じている。ある意味では,第1章の事例である北海道におけるアイヌ民族と類似した事例ではあるが,アプローチの仕方は大きく異なる。この章は,これまでの研究成果と著者による聴き取り調査に基づいて,事実関係の丁寧な整理が中心となっている。評者としては,公園管理者と先住民族との間のやりとりの過程でなされた「原生自然の概念を再解釈」(p.83)するという事態についてより詳しい考察を期待したい。

3章は第2章に続いて国立公園について,ヨーロッパからその自然保護管理のさまざまな事例を紹介している。英国,ドイツの事例を紹介した後,近年の動向としてのヨーロッパ内の自然保護地区ネットワークやジオパークについて論じている。こうした動向に精通していない評者のような読者が学ぶことは多く,浅く広い知識を得ることはできるが,やはりそのような状況をどのように解釈するべきかという指針が求められよう。そして,観光レクリエーションの一環としての自然保護という場合に,自然に対する観念・思想の変容についての考察を期待したい。

「自然の地理学」における重要な研究視角の一つが社会構築主義であるが,そのことを意識しているように,第II部のタイトルには「社会的構成」という言葉が選ばれている。第4章は編者の一人である淺野が参加している韓国をフィールドにした共同研究の内容が報告されている。事例は韓国西南海岸におけるセマングム干拓事業である。1970年代から周辺地域で行われてきた干拓事業の一環として1991年にセマングム干拓が着工されたという。淡水湖も含め4haにも及ぶ広い空間と,20年以上にわたり続いている開発期間において,開発側の思想も開発反対派の主張も時間・空間的に異なることを明らかにしている。地理学の立場から長年にわたり環境問題に取り組んできた著者だけに,空間スケールの問題を明らかにして意義は大きい。ただそのことを「人と自然の関わりにはスケールの差がある」(p.140)と指摘するだけでなく,人間の言語認識における抽象化のレベルと結びつけて論じることで,より深い考察ができるのではないか。それは同時に自然という概念の多義性を理解することにもつながり,その多義性と地理空間との関連性にも興味が広がる。

続く第5章も,編者の一人である中島が近年フィールドとしてきた沖縄県の米軍基地の事例を報告している。本書のタイトル「社会地理」というよりは明らかに政治地理学的なアプローチではあるが,米軍基地をその開発が自然破壊をもたらすといったような意味における環境問題としてではなく,「地元住民の日常的な生活がこのような生命の危険と隣り合わせの環境において営まれている」(p.147)という意味における環境問題として捉えているところに重要な意義を見出すことができる。また,基地誘致から得られた税収入を財源とする地域復興策の詳細な分析は興味深い。最後に提起された「外的自然」と「内的自然」に関する詳細な議論が今後期待されるが,評者は筆者が地元住民の生命を強調していることに関心を抱いた。保護される自然とは一般的に人間の外部に想定されるが,生命という人間そのものの自然についても議論は拡張可能である。

6章は環境社会学を専攻し,兵庫県立コウノトリの郷公園の研究員としての活動も行っている著者によるものである。タイトルどおり,純粋な学術研究というよりも自らが携わってきた実践が詳しく報告されている。その実践は希少動物の保護であると同時に地域づくりであるという意味において重要なものだと評価できる。本章で事例となっているコウノトリとタンチョウはいずれも空港名の愛称として使用されているもので,本章の内容は成瀬(2013)に反映すべきものであった。こうした実践は自然と人間という二元論を複雑化するものであり,学術的な立場からも「自然の地理学」に相応しい事例を提供してくれるだろう。

III部は「食」をテーマとし,各章が興味深い事例を提供している。英語圏における自然をテーマとした人文地理学研究の盛り上がりは,その少し前に流行した「食べること」や「欲望」,「肉体」といったテーマの研究の存在が大きいと評者は考えている。「食」は人間の根源的欲求の一つであると同時に,必要以上のものを求める欲望の対象でもある。人工甘味料や遺伝子組み換えなど,食品材料にも人間の手が入り込むが,いまだに多くの食品は自然からとられており,また人間自体の自然の一部である肉体は食することなしには維持されない。さらに肉体から排出される排泄物は自然の一部となりえる物質である。食をめぐる地理学研究は第一次産業に関する研究として,日本でも以前から数多くなされてきており,「自然の地理学」にとっても貴重な研究蓄積となるはずである。そういう意味においても,第7章はまさに本書の目的に沿った形で議論が展開され,日本におけるローカルな食品生産として金沢市の味噌生産の事例が提示されている。二村(2013)と併せて読まれたい。

スリランカ産の紅茶は日本に多く輸入されているという。第III部は食とともにグローバル化をテーマに掲げているが,第8章はグローバル化の基礎をなす過去の植民地化と深く関わるスリランカにおける茶を含む農業生産の事例を報告している。英国の植民地として,宗主国の嗜好品だった紅茶の原料としての茶がプランテーションで生産されていたのが基礎となり現在に至るわけだが,世界規模での競争のなかで有機栽培という付加価値が導入される。もちろん,有機という価値は先進国のものであり,その導入は一筋縄ではない。本章は非常に丹念な調査に基づき,決して広くないスリランカ国土ではあるが,その生産地と企業の立地の差異など,詳しい実態が報告されている。

ベトナムにおけるエビ生産の変遷を辿った第9章も,19世紀半ばのグエン王朝時代からフランス統治時代,ベトナム戦争期,1975年のベトナム統一後の社会主義革命時代を経,現在までの経緯が辿られている。著者たちの観点は,調査地域であるタムジャン・ラグーンにおける船上生活を行う伝統的な漁民コミュニティの解体を悲観的に論じるものである。漁民の生活の場が大規模なエビ養殖場と化し,ベトナム政府が西洋的国民国家形成のなかで陸地での定住を前提とすることで,漁民コミュニティが消滅したという。類似した事態は日本も含め多くの地域で起こっており,評者としては対象地域であるベトナム中部東海岸という場所ののグローバル経済における位置および自然地理学的位置に関する考察を期待したい。

最終章である第10章は日本の関東地域を対象とした食品廃棄物の事例が提示される。スリランカの紅茶やベトナムのエビもわれわれの日常の食卓にあがるものではあるが,本章の事例はより身近な出来事の知らない側面を明らかにしてくれている。しかし,本書の文脈で明らかにすべきは,図10-13p.297)に示されるような空間構造よりも,都市社会における食品廃棄物の意味を論じることではないだろうか。都市生活者にとって「自然」はある意味見えづらくなってくるものだが,食を通して自然との関わり合いは想像できるはずである。本章の調査対象である産業廃棄物の運搬・再生処理業者E社が扱う有機廃棄物は主に清涼飲料メーカーが排出する茶葉粕とコーヒー粕である。自宅で茶葉やコーヒー豆から抽出してお茶やコーヒーを飲み,生ごみを出すよりも,ペットボトルで購入した方が消費者は自然との関わり合いを感じない。しかし,その代替として大量に抽出処理を行って排出される有機廃棄物はまさにわれわれの生活空間を移動し,場合によっては再度われわれの食卓に上る野菜の肥料となる。

本書の文中のキーワードには印がつけられ,巻末の13ページに及ぶ用語解説へと導いている。モノクロ印刷ではあるが写真や図版も綺麗に仕上がっていて,とても読みやすい。編者による「はじめに」では各章での事例が世界地図および日本地図で示されているなど,丁寧な編集作業によるものだと分かる。体裁的にも内容的にも学術論文集としての本書の完成度はかなり高いといえる。そのことを踏まえたうえで,評者の高望みな要望を最後に示しておきたい。

本書に収録された論文の多くが,著者が継続的に取り組んでいる事例研究の報告を中心としている。本文中で著者自らの既出論文に言及する章も少なくない。とはいえ,各章に十分なページ数が与えられているため,以前評者が評した論文集のように既出論文の概要版という縮小再生産ではなく,むしろ過去の論文では書ききらなかった,あるいはその後の調査で明らかになった事柄が加えられているように思う。しかし,序章で一定の方向性を示した論文集であるのだから,事例の紹介は別の論文への参照を促すことで,本文での解説は最小限にし,編者が求める方向性に沿った形での考察に紙幅を費やすべきではないだろうか。序章で提示される,「自然の地理学」という研究動向における重要文献を共有し,事例は異なっても著者同士で共通の議論ができるような,そうした学術論文集であることを望みたい。もちろん,すべての著者が同じ方向性を有する必要はなく,一定の方向性に疑義を呈するような考察もあってしかるべきである。

編者が序文で書かれているように,「自然の地理学」という研究動向に資する事例研究は日本の地理学でも多く蓄積されている。恐らく,このシリーズの別の巻もあわせれば十分にすぎるのではないだろうか。自然という概念は,人間の外部に想定された「外的自然」と定義する限りはその対象は限定されるが,別の意味に捉えればどこにでもあるものである。そうした意味において,「自然」という対象は地理学に限定されたり,学術研究者に限定されるべきものではなく,「ジェンダー」のようにさまざまな形で誰もが論じることのできる対象である。古くから自然を扱ってきた地理学だからこそ,現代の地理学者は人文地理学,自然地理学の別を問わず,各人が自然の何を扱っているのか,自然に対してどのような観念を抱いているのかを自覚しながら研究対象に向き合うことが必要ではないだろうか。

英語圏の地理学では,こうした動向が人文地理学と自然地理学の区分を問い直すべき,両者の対話をもたらす場へと発展もしている(Castree, Rogers and Sherman,2005)。その試みは必ずしもうまくいっているとは限らないが,同じ学問領域に所属しながら共通の議論の場となるのはやはり「自然」の概念が相応しい。

文献

中島弘二(2005):自然の地理学.水内俊雄編『政治と空間』朝倉書店,85-108

成瀬 厚(2001):東京・武蔵野・江戸写真による地理的表象と自我探求—.地理学評論,74470-486

成瀬 厚(2013):地名を用いた公共施設のプロモーション空港名の愛称化を事例として—.E-Journal GEO8(1)78-95

成瀬 厚・杉山和明・香川雄一(2007): 日本の地理学における言語資料分析の現状と課題地理空間における言葉の発散と収束—.地理学評論,80567-590

二村太郎(2013):「グローバリゼーションと食の権利」.内藤正典・岡野八代編『グローバル・ジャスティス―新たな正義論への招待―』ミネルヴァ書房,117-129,

Castree, N., Rogers, A. and Sherman, D.(2005):Questioning Geography.Blackwell.

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今更ながらスギ花粉アレルギー

年末咽を痛めたことは既に書いた。日中は特に気にならないのだが,夜お風呂に入って布団に入ると咳き込むようになり,寝られない。そんな日が数日続いて,仕方がなく,大晦日に休日診療をしていた隣駅の医院まで出かける。

当然激込みで1時間以上待たされたのだが,そこの先生は東洋医学を取り入れたお腹で診察をする人で,処方されたのも漢方薬。多くの薬が食後で,けっこう忘れがちだけど,漢方は食前。しかも,お湯に溶かして飲んでもいいので,食前のお茶のつもりで飲みやすかった。とりあえず,寝付けないという症状は軽くなって,でも「体質改善にもなりますから」と1週間出された薬は習慣的に飲みきった。

それで安心したのか,薬が切れるとまた少しずつ咳が出るようになり,今度は耳鼻咽喉科を探して職場近くの医院に仕事後に寄った。咳が出るなんてよくある症状かと思っていたが,高齢の先生はなにやら考え込んで。「原因を考えましょう」としばし考え,「何かアレルギーはありますか」と聞き,アレルギーテストをすることになった。右の腕に10箇所軽く傷をつけ,そこに10種類の液体をつけていきます。しばし待つこと15分。

見事に出ました,スギ花粉,ヨモギ,カビ。といっても,実際に花粉が喉のどのあたりまで侵入するかは分かっていないらしい。なにやら外国の研究成果の話をし,それを引用した日本のアレルギー研究者の本の話,やはり学術雑誌に公表されたスギ花粉の飛来時期のデータ。よぼよぼのじいさんかと思いきや,医学研究のことになると少年のように目を輝かせ語ります。一町医者でも研究熱心な人っているんですね。

ということで,処方された薬は効果覿面。すっかり良くなりました。

まあ,私は幼い頃から鼻や喉や敏感で,一時期は花粉症の症状と思われるものも10年ほど経験していたし,何かしらのアレルギーはあると思っていましたが,なかなかテストをする機会ってないんですね。

やはりどうやら春先鼻水で苦しそうにしていた息子もあれらしい。

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大学は春休み

18日(水)

2013年度の講義も最終日。受講者は多く、授業の感想を書かせるといいことを書いてはくれるが、3ヶ月間で名前と顔を覚えたのはほんの数人。いまいち手ごたえのなかった学期でした。公然と会社を休めるのは最後なので、仕事はたまっていたが休むことにする。でも、観たい映画もそれほどないので、水曜日がサービスデーの吉祥寺に行くことにする。

吉祥寺バウスシアター 『ブリングリング

選んだ映画はこちら。ソフィア・コッポラの作品も取り立てて好きなわけではないが、1000円だったら観ておいてもいいかなという感じ。先日『ウォールフラワー』での演技をみたエマ・ワトソンも出演しているし、綺麗な女の子が多数出演しているので、目の保養にはなるでしょう。

本作は米国で実際に起きた事件を基にしている。ブリングリングというのもメディアがかれら窃盗団につけた名前のようです。ロサンゼルスのセレブリティの自宅の空き巣を重ね、クラブやパーティで遊びほうけていた若者たちの話。まあ、ソフィア・コッポラらしい作品。とりたてて、社会的なメッセージがあるわけでもなく、まとまりのよい物語展開でもない。まさに、退屈しのぎに窃盗を繰り返していた若者そのものを象徴するような映画。

本作のエマ・ワトソンは美しくない。とにかく表情がひどい。もちろん、役どころとして良心的な人間ではないので、彼女が演技として共感を得ることができないような人物を表現しているのであれば、その演技を評価すべき。個人的にはレベッカ役のケイティ・チャンに魅力を感じた。今後に期待したい。まあ、さほど言葉を重ねるだけの価値があるとは思えない映画。

113日(月、祝)

この日は妻が息子を連れてママ友の家に遊びに行くということで、早く帰る約束で一人行動をとらせてもらった。映画2本は厳しいが、せっかくなので献血とセットにしようと思ったが、献血ルームのある街で観たい映画がいい時間にやっていないので、献血は断念。そして、下高井戸で再映の作品を観ることにした。

下高井戸シネマ 『ベニシアさんの四季の庭

ロードショー上映の時から夫婦で気になっていた作品だったが、結局見逃していた。英国貴族生まれの女性が単身で日本にやってきて、京都大原に住み着くというお話。予告編では、子どもが重度の病気を抱えているということだけは知らされていたが、さすがドキュメンタリーになる(制作はHNK)だけの人物はあり、壮絶な人生を送ってきた人だった。

予告編では京都の田舎の古い一軒家の広大な庭を趣味のガーデニングで満たし、それらをすべて日々の生活に活かすようなエコロジー的生活の紹介、と適当に理解していた。しかし、出身が貴族なだけで、その生活が肌に合わないベニシアさんはお金もほとんど持たずにアジアを旅し、日本にたどり着いたという。

一つ面白かったのは、東京で出会った白人男性の友人が出てくるのだが、当時欧米から日本にたどり着いた人がまず行くべきところは銀座の特定の喫茶店で、そこに行くと同士に会えるというのだ。それはもう40年ほど前の話だが、地理学的に興味深い。

さて、その友人から京都に行くことを薦められ、そのまま京都に移り住む。結婚し、3児をもうけ、13年で離婚。英会話学校を創設し、家計のやりくりをする。40歳で9歳年下の山岳写真家と結婚し、1児をもうけるが、夫が浮気で出て行きそうになる。戻ってはきたものの、登山中の事故で生死をさまよう。前夫との娘の1人が未婚の母となるが、その直後精神を病む。

そんな壮絶な人生を歩みながら、彼女の心を癒したのが、決して広くはない古民家。夫婦で少しずつリフォームをし、庭を作っていく。いいお話でした。

ただ、映像が素朴なドキュメンタリー映画というよりは、やはりNHKっぽい美しい映像が多かったのが個人的には残念。

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自然の諸相

フンボルト著,木村直司編訳 2012. 『自然の諸相――熱帯自然の絵画的記述』筑摩書房,349p.1300円.

古書店で本書を見つけ、驚いてその場で購入した。フンボルトとは地理学者には「近代地理学の父」として知られている18世紀から19世紀にドイツで生きた博物学者である。フンボルトのいわゆる熱帯旅行記の一部も岩波書店の「1718世紀大旅行記叢書」に2巻本で訳出されたのが2001年から。その後も伝記が訳されたりと、地理学以外で最近注目が高いようだ。

ちなみに訳者はゲーテ研究で知られる人物ということで、ゲーテとの交流が深かったフンボルトの翻訳にも手を伸ばし始めた、というところだろうか。

本書の一部はすでに地理学者、手塚 章氏によって翻訳されている(『続・地理学の古典』古今書院,1997年)。しかし、今回一冊丸ごと翻訳されたことで、学んだことは多い。まずは目次から。

草原と砂漠について

オリノコ川の滝について――アトゥレスとマイプレスの急流地帯

原始林における動物の夜間生活

植物観相学試論

さまざまな地帯における火山の構造と作用の仕方

生命力あるいはロードス島の守護神物語

カハマルカの高地――インカ皇帝アタウァルパの旧首都

手塚氏の翻訳もある「草原と砂漠について」(手塚氏は「ステップと砂漠」とした)は手塚氏の訳を読んだときの印象が強く、本文より分量の多い脚注により、本文=文学的、脚注=科学的というゲーテ的な芸術と科学の融合という試みを強く印象付けた。手塚氏の解説文を再読はしていないが、恐らく1808年の初版からの訳出だったと思う。初版ではこの文章の他に2,3の文章しか収録されてない、小冊子であったという。

しかし、本書はその後も改定を重ね、1826年に増補再販、1849年には「事実上の第二巻」(p.24)が出版され、本訳書はそれらを1冊の作品とみなし、上記の7つの文章を収録している。こういう事実は知らなかった。しかも、第二版、第三版と長い間隔がそれぞれ空いており、フンボルトの作品の中では長く愛読された本であることも分かる。

さて、そういう史実を知るという意味では、本書の読書から学ぶことは多かったが、本文はなかなか頭に入ってこないものだった。旅行記的な文章から、自然地理学のトピック的な各論、そして方法論的な文章まで含んでいるのに、どれも活字が私の目の前をさらさらと流れていく感じがした。

やはり、一応地理学者としての私には、地理学的な観点からの翻訳である手塚氏の翻訳の方が、ゲーテ的要素に着目している木村氏の翻訳よりも読みやすかったのかもしれない。そして、手塚氏があえて本書を丸ごと翻訳しなかったのかということも説明できるのかもしれない。

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久し振りにCDまとめ買い

新宿に映画を観に行った際に、ちょっと時間に余裕があったので久し振りにタワーレコーズに寄る。J-POPのコーナーがK-POPなどとともに8階に移動していてちょっと戸惑う。今でもインストアライヴなどは行われているのだろうか。

今回のお目当ては湯川潮音の新譜。最近は音楽関係の出費はかなり少ないのだが、以前よく利用していたイープラスやローソンチケットといったチケット関係、そしてHMVや新星堂などからメールが届く。そのなかに、昨年11月に潮音ちゃんの新譜が発売されるとの情報があったのだ。ついでに気になるアーティストのコーナーを見ると、やはり私が音楽から遠ざかっている数年間の間に皆が新譜を出していたので、まとめて購入。

まだあまり聴き込んではいませんが、第一印象をつづってみましょう。

湯川潮音『濡れない音符』Pヴァイン・レコード,2,780

3年ぶりのアルバムということでメジャーのEMIから離れ、違ったレーベルから鈴木惣一郎プロデュース。自らギターは演奏せずに(ギター自体の録音なし)、いつものミュージシャンの演奏で、自ら作詞作曲した作品を録音しています。この3年の間はあまりライヴもやっていなかったようで、30歳になる彼女のいろんな感情が詰まった作品になったのではないでしょうか。

竹仲絵里meleBounDEE by SSNW2,940

彼女も一時期よしもとの音楽レーベルからCDを出していましたが、そこから離れたようです。今回はハワイな感じのようですね。リラックスしてやりたい音楽をやっている感じでいいですね。

広沢タダシ『ジャメヴ』Atomic Monster Records3,000

彼は精力的に音楽活動を続けています。とりあえず、2011年発売のオリジナルアルバムを購入しましたが、ライヴCDやトリオでの録音など、かなりにCDが出ていました。普段ライヴで頻繁に聴いている状態でCDが出るのと、全くライヴには行かずに新しいCDを聴くのとではその新鮮味というか、印象が違いますが、本作は素直に耳に入ってくる音でした。ほとばしる音楽への情熱を感じます。

岩崎 愛『東京LIFEonly in dreams1,600

岩崎 愛ちゃんも着々とCDを出しているようで、この前にも私の持っていない6曲入りアルバムがあるようです。私が彼女の演奏を初めて聴いた頃はまだ20歳になるかならないかの頃でしたが、頑張ってもらいたいです。

14日(土)

府中TOHOシネマズ 『麦子さんと

私は実は堀北真希のファン。妻は目が死んでるなどというし、俳優の演技にうるさい母もあまり評価していないようですが、私はひそかに映画女優としての彼女に期待をしている。最近の彼女は確かに非の打ち所のないような美しさで、また周囲もそこを気にしてしまうからなかなか本格的な演技というものを期待できないのは確かだが、朝ドラヒロインを経た今後の彼女に期待したい。

本作は『机のなかみ』、『純喫茶磯辺』、『さんかく』とちょっとマニアックな秀作の続く吉田恵輔監督作品。3月公開予定の『銀の匙』は原作がある作品のようですが、これまではオリジナル脚本で勝負する数少ない映画監督の一人。今回は堀北真希と松田龍平という有名どころ俳優の起用で、テアトル新宿でも上映されていますが、映画自体にも期待が高まります。

あまりにも多くの映画に出演している余貴美子さんの主人公の母親役としての起用はどうかなあと思ったけど、急死してしまう役どころなので、比較的出番も少なかった。温水洋一氏も以前はけっこう好きだったけど、最近はテレビのバラエティなどにも出すぎでちょっとおなかいっぱい。個人的には麻生祐未さんの役どころが良かった。それこそ以前はトレンディドラマのヒロイン役をよく演じていた彼女が地方のバツ一出戻り独身中年女性を演じさせるってのはいいですね。ふせえりさんも出番は少なかったけど、いつもの持ち味を出していて嬉しい。

ともかく、これまでの吉田監督作品ほど癖はなかったけど、いい映画でした。私は好きです。堀北真希ちゃんにもこんな感じでがんばって欲しい。吉田監督も次回作『銀の匙』が楽しみ。

新宿シネマカリテ 『セッションズ

身体障害者の反省を描く実話に基づく映画は以前にも『潜水服は蝶の夢を見る』というのがありましたが、設定としてはよく似ています。ただし、本作の主人公はポリオといううちの息子も予防接種を受けた、子どもがかかりやすい病気にかかって、首から下が麻痺した男性。麻痺といっても筋肉が自力で動かせないだけで感覚はあるとのこと。38歳のある時、思い立ってセックス・セラピーを受ける。ヘレン・ハント演じるセラピストの言葉では「体を意識するエクササイズ」とのこと。なお、驚くべきことに主人公を演じるのは『ウィンターズ・ボーン』と『マーサ、あるいはマーシー・メイ』で似たいような悪党の役どころを演じたジョン・ホークス。そして、彼の友人神父を演じるのが、コーエン兄弟作品『ファーゴ』などに出演しているウィリアム・メイシー。

確かにいい映画だったし、ヘレン・ハントの脱ぎっぷりもすごかったが、ちょっとヘレンの顔の硬さが気になった。傍目には自然体の演技を売りにしているように思えるが、顔のしわを伸ばす手術かなんかして顔の皮が突っ張っている感じがして不自然だった。そういうところをあまり気にしてもいけませんが、気になりますよね。それ以外はいい作品でした。

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謹賀新年

今年最初のblogになります。昨年中に書くつもりでしたが,間に合わず。普通だったら積極的に起きている年明けですが,今は喉をいためていて,妻子が寝ている中,咳き込んで眠れず,1人で起きたまま年を越してしまいました。

昨年観た映画は71本。一昨年とほぼ同じ数でしたね。昨年は家作りに明け暮れた1年でしたから,合間を縫って,よく観た方だといえるでしょう。

1227日(金)

妻より一足先に仕事納めをし,この日はフリー。ただし,家での作業を残していたので,それを一つ片付けます。先日,新しい書棚を組み立てたことを書きましたが,それでもきれいに収まらず,一人暮らしをした頃に購入した高さ90cmの書棚を分解して,高さ180cmの書棚の上に積み重ね,天井までの空間を有効利用することに。書棚の側板を半分に切り,金具で接続します。この日は上映最終日を迎えているレイトショーのみ上映の映画があったので,妻子の帰宅を待って,外出。お目当ての作品は40分程度の中編だったので,その前に1本。

渋谷ユーロスペース 『楽隊のうさぎ

『私は猫ストーカー』『ゲゲゲの女房』となぜか観ている鈴木卓爾監督作品。特にこの監督が好きというわけではないのですが,本作は予告編で観たいと思いました。『私は猫ストーカー』に続いて出演の宮﨑 将君ですが,今回は主役の中学吹奏楽部の顧問として,比較的普通の役で出演しています。

こういう作品はまあちょっとずるいですよね。演技未経験の若者を,音楽未経験の中学生として演じさせて,その音楽の上達ぶりを撮影の進行にともなう演技の上達(というかカメラ慣れ)とも平行して記録していくという映画ですから。ある意味でドキュメンタリーですよね。でも,結果的に主演の男の子がそれほどめざましく演奏がうまくなっていないというのがこの作品のいいところ。そして,恐らくこの監督のこだわりなんでしょうが,恐らく俳優にマイクをつけておらず,多くの雑音が入っているということ。この辺もドキュメンタリー志向であります。

ちなみに,主人公は最終的にティンパニという打楽器パートのなかでもかなり重要な役割を任されるのですが,実は私もティンパニ経験者なんです。といっても,小学6年生の時に学内でクラス対抗で行われた演奏会でなぜか私がティンパニを演奏したのです。演奏曲の1つはなんとYMOの「ライディーン」でした。これがけっこう好評で,地区代表に選出され,最終的に埼玉県のコンクールにも出場したのです。でも,私のわずかな記憶によると,遠い場所の会場での演奏だったため,ティンパニは学校のを持参せずに,会場のものを借りることになったせいか,まったくひどい演奏だったということ。といっても,私がティンパニを決してうまく演奏していたという記憶もないのですが。

渋谷ユーロスペース 『りんごのうかの少女

上映最終日に観たのは横浜聡子監督最新作。ここユーロスペースで予告編を初めて観た時に「ようやく横浜監督の最新作か」と思い,前売り券を買い求めようとしたが,前売り券はなく当日券1000円均一とのこと。上映時間も40分ほどの短いもの。

予告編では,主人公の少女の両親を演じるのが工藤夕貴と永瀬正敏ということで,かなり期待させる内容でしたが,冒頭でちょっとした疑問が。「企画・制作 弘前市」とあります。「おっと,これは地元PR映画か」という疑念を抱きながら,予告編通りの展開を楽しんではいたが,結末としては,抱いていた疑念が納得に変るものだった。横浜監督らしからぬハッピー(?)エンド。

最終日ということで,(恐らく)監督自ら観客に弘前産のりんごを配るサービス。でも,やっぱりPR映画だったのか...

1230日(月)

新宿武蔵野館 『鑑定士と顔のない依頼人

2013年最後の鑑賞となった映画はこちら。後から知ったのですが,なんとこの映画。『ニュー・シネマ・パラダイス』のジュゼッペ・トルナトーレ監督作品だったそうで。ジェフリー・ラッシュ主演だし,舞台もさほどイタリアを意識させるものではなかったのですが,エンドロールでのロケ地がどれもイタリアの都市で,本作はイタリア映画とのこと。英国の若手俳優ジム・スタージェスも重要な役どころで出ているし,イタリア映画も変りますね。

さて,内容はかなり楽しめるものではありましたが,ちょっとずるい感じのストーリーでもあります。最後に驚く展開が待っているわけですが,その詳細は語られないし,多くの観客に予想させる展開も,どうしたらそれが可能になるのかは怪しいところもある。まあ,といいつつも純粋に楽しめる作品です。

本年もよろしくお願いいたします。

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