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アウシュヴィッツと表象の限界

フリードランダー, S.編,上村忠男・小沢弘明・岩崎 稔訳 1994. 『アウシュヴィッツと表象の限界』未來社,260p.,3200円.

本書が日本語で出版され,書店にならんでいた当時,雑誌『現代思想』や『思想』を通して頻繁に目にしていた歴史家たちの名前が列挙されているのを見て読みたいと思ったが,アウシュヴィッツというテーマが私には重すぎたのと,小さい本ながら価格が高かったので見送っていた本。

今回,表象をテーマに小文を書こうと思っていて,『文化批評としての人類学』に引き続き「表象の限界」をテーマにしているということで思い出して購入した次第。まずは目次から。

「序論」ソール・フリードランダー

「歴史のプロット化と真実の問題」ヘイドン・ホワイト

「ジャスト・ワン・ウィットネス」カルロ・ギンズブルグ

「プロット化について――ふたつの崩壊」ペリー・アンダーソン

「ホロコーストを表象する――歴史家論争の省察」ドミニク・ラカプラ

「ホロコーストと歴史の終焉――映画にみるポストモダン的歴史記述」アントン・カエス

「限界の表象」ペレル・ラング

訳者まえがきによれば,本書は1990年に開催された「〈最終解決〉と表象の限界」という研究会議の記録という。この記録はそれに先んじて行われたギンズブルグとホワイトの間で交わされた「歴史・事件・言述」をめぐる討論だという。また,それに先んじて行われた「歴史家論争」とを併せて,名だたる歴史研究者を登壇させ,主催者の専門であった「アウシュヴィッツ」をテーマに選んだとのこと。

ちょうど1990年前後には『アナール』が「表象」に関する特集を組んだり,歴史学のなかで表象が話題だったらしい。

ヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』は一時期翻訳が出るという情報があったが,なかなか実現しない。この本については富山太佳夫氏などの紹介によって内容は日本でもよく知られているが,私も2004年に『地理科学』に書いた論文のために部分的に読んでいた(全部は断念)。ホワイトの議論を簡単にまとめると,歴史を記述する際にも,小説を書くように,プロットや物語,修辞法などというものが不可欠で,どういう類の歴史を選んでいるか,どういうイデオロギー的立場から書くのかによって,歴史家はかなり自動的にプロットや物語の種別を選ぶのだという。まあ,歴史記述が,歴史的事実をそのまま伝える透明な媒体であるという考えを真っ向から否定する考えで,ある種歴史学におけるポストモダンだといえる。

一方で,ギンズブルグも人類学的な歴史学という新しい方向性を示してきた歴史学者だが,わずかながら残された歴史の断片から糸を紡ぐように,当時ひっそりと暮らしてきた民衆の姿を復元するという仕事をしてきた人だから,ホワイトのような上から目線でその努力を無化するような主張が気に入らないのでしょう。

本書に収められた論文では,ホワイトの研究的起源をさかのぼり,そこにギンズブルグの本国であるイタリアの著作家が多く含まれていることもあり,詳細に検討することで矛盾を暴きだす作業をしています。まあ,これだけ誠実に批判してくれれば気持ちがいいものです。

他にもいろんな立場から歴史的事実に立ち向かう歴史家の立場が論じられていますが,どれも説得的で1つの立場が1つの立場を無効になるようなものではありません。そして,論題に選んだアウシュヴィッツ,あるいはホロコーストという歴史的出来事が複雑にさまざまな問題を絡んでいて,歴史に立ち向かう者の道徳,デオロギー,情念などさまざまな立場が問われるということも明らかになります。そもそも「アウシュヴィッツ」や「ホロコースト」といった名前による表象で,私たちは分かった気になる(知らないでは済まされない)一方で,実は何も分かってはいない,というある意味捉えどころのない歴史的出来事だということもあります。

ともかく,どの章も短い文章で,なかなか理解できないところもありますが,出発点としては読むべき本。

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