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2015年6月

ニッポンの思想

佐々木 敦 2009. 『ニッポンの思想』講談社,349p.,800円.

私が投稿した論文が返却されてきていろんな要求があるなか,それの対応としてふと思いついて購入した本。著者の佐々木 敦氏は音楽批評家で以前から名前は知っていたし,講談社現代新書として出版された本書のことも知っていた。

そんなことで,初めて佐々木 敦氏の著作を読んだわけだが,期待した以上の得るものがあった読書だった。

プロローグ 「ゼロ年代の思想」の風景

第一章 「ニューアカ」とは何だったのか?

第二章 浅田彰と中沢新一――「差異化」の果て

第三章 蓮實重彦と柄谷行人――「テクスト」と「作品」

第四章 「ポストモダン」という「問題」

第五章 「九○年代」の三人――福田和也,大塚英志,宮台真司

第六章 ニッポンという「悪い場所」

第七章 東浩紀の登場

第八章 「動物化」する「ゼロ年代」

講談社現代新書の帯は表紙の7割ほどを占める大きなものだが,その真ん中に大きく「この一冊で,思想と批評がわかる入門書」と書いてある。それはある意味正しくてある意味では間違っている。著者は本書で自分は思想の当事者ではなく,あくまで読者にすぎないというし,本書で検討されている作品群についても,場合によっては自分にはこれ以上理解できないと正直に書いている。本書は思想そのものを論じるものではなく,あくまでもそういう思想書が社会のなかでどのように生まれ,また受容されていったのかという,特定の時代に生まれた作品を出来事として捉えている。

私は正直,本書で取り上げられる作品をほとんど読んでいない。地理学者のなかでは思想系にはまっている部類に入る私だが,翻訳ではあるがなるべく原著を読むようにしている。浅田彰と中沢新一は雑誌『現代思想』に掲載された論文を1,2本読んだだけ,蓮實重彦と柄谷行人に至っては全く読んだことはない。九○年代の重要人物として挙げられている福田和也は名前すら知らなかったし,宮台真司も翻訳のスペンサー=ブラウン『形式の法則』と雑誌論文をいくつか。むしろ,『形式の法則』を共訳している大澤真幸はけっこう読んだ。クリプキやジジェクについては彼の影響で読み始めたといってよい。本書で出てくる主要な本として読んだことがあるのは東浩紀『存在論的,郵便的』のみだ。

私は本書を通して,本書で出てくる思想家の思想を知ることを目的としていないし,さらに進んで本書に登場する作品を読む気もない。知りたかったのは,彼らの作品が出版界を通して社会でどのような役割を果たし,どのように受け止められてきたのか,ということである。もちろん,それをきちんと調べるのは大変な作業だが,本書ではそれを可能な限り明らかにしている。

浅田彰の『構造の力』が本人が驚くほど売れ,出版界がそれらに飛びついて「ニューアカデミズム」という流行をつくり出したこと。ニュー「アカデミズム」とは名付けられたが,学術界ではむしろ冷ややかな目でみられたこと(浅田彰と中沢新一の大学就職事情にまで言及している)。表面上はお互いが批判し合っているけど,内実はそんなに変わらないこと。そして,これは私の印象にすぎなかったが,当初は積極的にフランス等の思想を取り込むことで自説を組み立てていたように,外向きの力が働いていたが,それが徐々に内向きの力を持つようになり,日本国内で充足する思想になっていくということ。そんなことを明らかにしています。

ただやっぱり気になるのは,あくまでも読者の視点で,冷めた目で本書が書かれているとはいえ,そういうものを読んでこなかった私とは違って,著者は好んで読んできたとう違いがある。そのせいか,あるいは新書であるが故の分かりやすさを重視したためか,八〇年代から始まって,九〇年代,そしてゼロ年代と,そういうように時代区分を明確に論じるのは,まさに内向きになったゼロ年代の研究者と同じやり方である。時折厳しい論調で書いてはいるが,あくまで批評であって,批判ではない。

まあ,それはともかく佐々木氏の本業の著書も読まなくてはと思った次第。

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〈持ち場〉の希望学

東大社研・中村尚史・玄田有史編 2014. 『〈持ち場〉の希望学――釜石と震災,もう一つの記憶』東京大学出版会,405p.,2800円.

今,私は早稲田大学で非常勤講師をやっているが,そこの社会学専任教員の石倉義博さん,そして以前関東都市学会の研究会で頻繁にお会いしていた東洋大学の西野淑美さんが執筆者として参加している本です。

謹呈本として私に送られてきましたが,手にした瞬間は「あ,震災関連本か」という目で見てしまいました。しかし実際に読み始めると,希望学とは東大社研(東京大学社会科学研究所)のプロジェクトで,すでに5冊が出版されているとのこと。そして,今回の釜石についても,震災以前の2006年からこのプロジェクトで訪れていたという。なので,もともとは研究ということではなく,以前からお世話になっていた人の安否を気遣う形で,震災後の釜石を訪れていたという。話を聞く間に,マスコミにも上がらないかれらの声を記録して行く必要があると感じ,プロジェクトが再始動したという。

序 釜石の希望学――震災前,そして震災後:玄田有史

第1章 釜石における震災の記憶:中村尚史

第2章 褒められない人たち:中村圭介

第3章 「持ち場」と家族:竹村祥子

第4章 釜石のある消防関係者の記憶:佐藤慶一

第5章 調査船の避難行動を担う――県職員(船員と一般職員)の場合:加瀬和俊

第6章 市職員へのサポート――復興過程における「補完性の原理」:塩沢健一

第7章 そのとき,政治は:宇野重槻

第8章 震災から避難所閉鎖までの5か月間の市民と市職員の奮闘:吉野英岐

第9章 「住まいの見通し」はなぜ語りづらいのか:西野織美

第10章 「住まいの選択」をめぐる困難さ:石倉義博

第11章 点と点,そして点――地域住民の希望:佐藤由紀

第12章 「ねおす」から「さんつな」へ:大堀 研

第13章 東日本大震災と釜石市――1年間のあゆみ:佐々木守

第14章 鉄の絆の震災支援――北九州市の活動:東 義浩

第15章 釜石と共に生きる製鉄所として,地域支援と事業の復旧に取り組む――新日本製鉄釜石製鉄所:(編集・解説)中村尚史

震災ものを本として1冊読むのは初めての経験。私自身,東日本大震災もテレビなしの経験だったので,正直知らないことが多い。そういう意味でも,本書の読書は事実を知るということだけでも引き込まれるものであった。400ページに及ぶ本だが,読書期間は短かった。

本書のタイトルで「持ち場」という言葉を用いているのは,マスコミなどでもあまり報道していない,地方公共団体の職員についてその実態を知らせることに重点を置いているからだと思う。市職員などがインタビューの対象として多かったのは偶然によるところが多かったようだが,想像すればある程度分かることではあるが,当事者たちの声を読むと想像とは違った生々しさを感じることができます。

本書から学んだことは大きく2つあります。一つが本書のタイトルに関わるもので,恐らく編者たちが訴えたかったことでもあると思いますが,被災後の市職員をはじめとする公務員の活動についてです。被災後,公務員たちは勤務時間という枠を外し,自らがやるべきことを「持ち場」として認識しながら,かなり長い時間そこから離れることができなかった。自らの家族よりも優先してその場にいた被災者たちの対応をする。なかには三日三晩眠らず,家族の安否を確認したのが1週間後などという人が当たり前のようにいたという。その一方で,かれらはその対応の遅さを住民に責められ,マスコミに叩かれ,ひたすら謝罪しながら任務を全うしたという。

もう一つは上記の私の知り合い2人が携わった,住居に関する報告から。震災で自宅を失った人が自宅をどのように再建するかという問題。こちらに関しては,私の想像力が及ばず,初めて知ることが多かった。ミクロなスケールでは震災復興というものがいかに解決しなくてはならない問題が多いのかを知った。

学術研究者によるこういう仕事って本当に必要なんだなあと,こういう研究ができない私は素直に感じた。しかし,その一方では,こういう仕事さえすれば,無条件に評価されるのではないかと穿った見方をしてしまう自分もいる。オーラル・ヒストリーとは最近また注目されている社会学的手法ではあるが,本書には方法論的な議論や学術的な抽象的議論(理論のようなもの)はあえて排除されているようにも感じる。このての深刻な問題を扱うにはあまりにも学術的な側面はむしろそぐわないとでもいうように。やはり学術研究って難しいです。

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レイトショーで地震

2015524日(日)

新宿武蔵野館 『追憶と,踊りながら

公開を前に監督が来日したりして,随分宣伝しているなと思ったけど,上映館は東京で1館のみ。公開2日目の朝一だったので,少し早めに行ったが余裕だった。武蔵野館も指定席制になっていてビックリ。

出演者の名前は6人。ベン・ウィショー演じるゲイの主人公とその恋人。恋人の母親は介護施設に入所しており,そこで親しくしている老人男性,その介護士。そして,後半で主人公と恋人の母との通訳として登場する女性。

場面も介護施設と主人公の自宅以外には,主人公が何度か利用したカフェぐらいしか出てこない。英国が舞台で,恋人の母親はカンボジア系中国人という設定で,英語はしゃべれない。場面も登場人物も最小限で,会話が中心の映画なのにその会話がうまく伝わらないというところがもどかしく,その分役者の表情にかかっている。主役のベン・ウィショーは『パフューム ある人殺しの物語』の主演だったんですね。とにかく,彼の演技に惹き込まれる作品。こういうミニマルな作品大好きです。いうことなし。

2015530日(土)

下高井戸シネマ 『深夜食堂

ロードショー中に観たかったんだけど,時間が取れずに断念した作品。よくよく調べてみたら多部未華子ちゃんが重要な役どころで出演しているということで,観たくなった。調べてみると下高井戸シネマで再映しているというので,『深夜食堂』をレイトショーで観ることにした。

もちろん,私は観ていないが,もともとテレビドラマだった作品。コメディタッチでいかにもテレビドラマ的だが,主演の小林薫と,それぞれのトピックでの準主役はいたって真面目な役どころというコントラストが面白い。そして,配役がなかなか豪華。横浜聡子監督作品の常連女優野嵜好美さんも出ています。そういえば,多部未華子も横浜監督作品に出ていましたね。といっても,監督は横浜さんではありません。松岡錠司さんという監督ですが,なんと『バタアシ金魚』がデビュー作とのこと。観てよかった作品。

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哲学における最近の黙示録的語調について

ジャック・デリダ著,白井健三郎訳 1984. 『哲学における最近の黙示録的語調について』朝日出版社,157p.,1800円.

久し振りにデリダの意味不明な講演録を読みました。前にも書いたような気もしますが,私はインタビュー集とか講演録を本で読むのが苦手です。しかし,デリダについては対談集である『ポジシオン』をはじめ,そういう苦手意識を払拭してくれます(まあ,全般的には苦手なのですが,デリダについては平気ってこと)。

本書も,フィリップ・ラクー=ラバルトとジャン=リュック・ナンシー主催による合宿討論の基調講演とのこと。デリダの講演録がなぜ読み物としての読みにくさがないのかというと,その難解さは聴衆に対して分かりやすくしようという配慮がほとんどないということ,そしてそのことは翻って,綿密に準備された原稿に基づいていること,ということだと思う。いくらデリダでも,アドリブであんな話はできないと思う。

さて,本書には目次がありません。本書はカント論のようです。そのタイトルは1796年にカントが書いた「哲学における最近の尊大な語調について」から借りているようです。その表題を「様式において変容し,ついでパロディ化し,方向をそらし,変形しようともまたのぞんだのです」(p.22)とあります。

一方で,冒頭にはベンヤミンの「翻訳者の使命」についての議論があり,「黙示録的な」という語についての執拗な議論が繰り広げられます。次々と論点が移り,よく分からないうちに読み終えてしまい,最後には何も記憶に残らない。そんな読書体験。デリダのこういう小冊子は,一方ではさらっと読め,場合によっては立ち止まっていろいろと考える。自由な読み方ができますね。そして,哲学書でありながら詩であるような読むことの心地よさを感じもします。

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