« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月

日本において都市社会学はどう形成されてきたか

松尾浩一郎 2015. 『日本において都市社会学はどう形成されてきたか――社会調査史で読み解く学問の誕生』ミネルヴァ書房,396p.,7000円.

私は一時期日本都市学会の地方支部である関東都市学会に所属していた。まあ,私も都市研究者のはしくれなので,積極的に入ってもおかしくないのだが,その時はたまたま知人に誘われていった研究会が,関東都市学会の若手研究会だったのだ。結局,その後数年にわたってその研究会に顔を出すようになって,学会にも入会した。当時は皆,大学院生の身だった。数年活動するうちに就職する人が多くなり,地方にいったり,研究会に出れなくなったりで,ある意味自然消滅的になり,私も足が遠のいてしまった。

そんななかで知り合ったのが,慶応義塾大学出身の松尾さん。1972年生まれのようですね。当時から,抜き刷りなどをいただいて,本書のような研究をしていることは知っていた。本人もいつも穏やかで,目新しいものに飛びつくというよりは,確実なものを堅実に調べ上げていくという社会学者だと理解していた。本書はそんな人柄もにじみ出るような労作です。

第1章 学問形成過程からの再発見――視角と方法

第2章 日本都市社会学以前の都市社会調査――異質性への視点とその限界

第3章 黎明期の日本都市社会学とその周辺――アカデミズムと社会調査の接点

第4章 社会的実験室としての東京――奥井復太郎の都市研究とその時代

第5章 都市社会調査の戦前と戦後――奥井復太郎と近江哲男の鎌倉調査

第6章 戦後の都市研究と総合調査――社会調査ブームと日本都市学会

第7章 調査プログラムとしての人間生態学――磯村英一・矢崎武夫・鈴木栄太郎による再解釈

第8章 日本都市社会学の形成過程と市民――被調査者へのまなざしの転回とともに

第9章 あり得たかもしれない都市社会学――須崎稔の爆心地復元調査

第10章 日本都市社会学の確立とその後――市民・社会調査・ポジティビズムの変容

本書のタイトル自体が長く,さらに副題もついていますが,読み終えてみるとそれ以外のタイトルが思いつかないような内容。読み終えて本書の内容を思い出す際にも,各章の長いタイトルプラス副題できちんと思い起こすことができます。ともかく,どの章も論じる対象と主題がはっきりしていて,ある意味私が各論文とは対照的だ。なので,あまりここで私が詳しく本書の内容を説明する必要はない。

目次で内容については分かると思う。しかし,もちろんその意義は読んでみないと分からない。あえて加えることがあるとしたら,最後の第10章の副題につけられた「ポジティビズム」について。この語は旧来,「実証主義」と訳されてしまうことによって,矮小化している気がする。私もなぜ,実証主義がポジティブという語によって表現されているのか疑問だったが,本書の解釈はそこに一筋の道筋を示してくれている。そして,実証主義の生みの親であるコントがまた社会学という語の生みの親でもあるというところが,社会学者である著者がこだわった所以であろう。

個人で購入するにも愛蔵書となるが,多くの図書館に購入して欲しい本である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地図の歴史――日本編

織田武雄 1974. 『地図の歴史――日本編』講談社,188p.,740円.

私が非常勤で受け持っている地理学の講義ではよく地図の歴史の話をする。元ネタは久武・長谷川『地図の文化』だが,以前住んでいた近所の古書店で入手した『ブラウンとホーヘンベルフのヨーロッパ都市地図』を持っていたので,都市図の話も盛り込んでいた。その際に参考にしていたのが矢守一彦『都市図の歴史――世界編』だった。それは講談社のハードカバーだったが,織田武雄『地図の歴史』の存在は知っていた。こうして改めて注文して入手すると,日本編と世界編とが分冊されて講談社現代新書になっていたのは知らなかった。

第一章 古代および中世の地図

第二章 近世初頭の世界図の発達

第三章 鎖国下の江戸時代の地図

第四章 蘭学と世界図

第五章 伊能忠敬の実測日本図の完成

第六章 北辺地方の探検と地図の発達

第七章 ヨーロッパの地図にあらわれた日本図の変遷

第八章 明治以降における近代地図の発達

目次から分かるように,先日読んだ『地図から読む江戸時代』とは違い,対象範囲は広い。むしろ,日本で作成された世界地図,ないしはヨーロッパで作成された世界地図における日本の描写,というところが中心ともいえる。ただ,もちろん日本図の基本的な史実についても記載されている。地図史の研究は最近盛んのようだが,本書は長らくその基本文献であったのだろう。ある対象の歴史書の王道たる書き方である。

本書で勉強になったのは第六章。ヨーロッパの地図の発達にとって探検が大きな役割を果たしているのは常識だが,日本地図においても同様であったこと。そして,北海道を含む地域については,日本だけの問題ではなく,特にロシアと関わる国際問題であったこと,その過程でカラフトの全容が日本人の手によって明らかにされたことなど,知らないことが多かった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

新しい民族問題

梶田孝道 1993. 『新しい民族問題——EC統合とエスニシティ』中央公論社,290p,820円.

大学院に上がったころ、雑誌『世界』に掲載された梶田さんの文章を読んで、当時新刊で出ていた本書を購入した。雑誌記事の短さに比べて、新書とはいえ300ページほどある本書は、読み始めたものの、途中で投げ出してしまった記憶がある。

今年度からエスニシティに関する講義を担当し、真っ先に再読を思い立ったのが本書。読み始めたものの、秋学期の講義だったこともあり、またやめてしまった。なぜかすーっと頭に入ってこない、私にとっては読みにくい文章。しかし、講義も始まり、後半にはヨーロッパとEUの話もする予定なので、再度読むことにした。今回は民族問題や、近年話題の難民問題へと少し頭がシフトしていたせいか、何とか読み終えることができた。

序章 外国人たちのヨーロッパ

第一章 EC統合と「人の自由移動」

第二章 不透明な非EC諸国民の将来

第三章 「移植されたイスラム」のゆくえ

第四章 「東」から「西」への人の流れ

第五章 南欧をめぐる人の移動の変化

第六章 難民制限へと向かうEC諸国

第七章 ナショナリズムをめぐる問題

終章 EC統合と民族問題の変容

読み終えてみると、20年前の本であり、すでに「新しい」民族問題ではなくなってはいるが、とても有用な情報と見識が詰まった本であった。EC時代には目標でしかすぎなかったことが既にEUとして実現してはいるが、本書はあとがきに「199311日 EC単一市場発足の日に」と記されているように、ある意味で非常に重要な転換期に書かれた本でもある。

そして、拙い私の知識ではあるが、移住や難民の問題について、かなり広い見地から事例が集められている。目次からも分かるが、ヨーロッパ内移民の供給先の変化、イスラムの問題。東西対立から南北問題へ。

梶田さん自身はフランスの研究を中心としており、取り上げられる「スカーフ問題」などは古い気もするが、問題としてそうした問題はすでに過去のものかというとそうではない。タイトルの問題か、現在は増刷されていないようだが、今日でも価値を失っていない新書だと思う。ただ,副題に「エスニシティ」とある割には概念そのものに対する批判的検討はなく,本書における民族とは素朴な理解であるのは書かれた時代的な問題か。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地図から読む江戸時代

上杉和央 2015. 『地図から読む江戸時代』筑摩書房,234p.,940円.

著者は私より年下の地理学者。お会いしたことは何度かしかないのだが,律儀に抜き刷りを送ってくれたり,彼が京都大学総合博物館に在籍中に開催された企画展の冊子『地図出版の四百年』も送ってくれた。そんな彼がちくま新書で単著を出したというので,購入することにした。

ちなみに,なぜこういうテーマの本に今このタイミングで手を出したのかは一応理由がある。ここ最近の読書日記で書いているように,廃藩置県に端を発する明治期に形成された地方自治体制の勉強をしているわけだが,そもそも地図全体で日本を描くという行為がいつ頃から成立したのかということが素朴に気になった。地図の歴史といえば織田武雄という人がいて,その人の『都市図の歴史 世界編』は随分前に読んでいて,彼の著作に『地図の歴史 日本編』があることも知っていたので,これを手始めに読もうと購入したのだが,その直後に本書の存在を知った次第。まずは目次から。

第一章 伝統からの脱却

第二章 一七世紀前半の日本像――交差する流れ

第三章 江戸時代中期の日本図――流宣図インパクト

第四章 地図を正す

第五章 新たな日本像の展開

本書のタイトルだけでは私が求める内容が書かれているかどうかは分からないのだが,目次をみれば分かるように,本書の中心は「日本図」ないし「日本像」というものにある。つまり,本書は単に江戸時代の地図について考えるのではなく(素朴な知的好奇心だったらかつて読んだ山下和正『江戸時代古地図をめぐる』NTT出版,が満たしてくれる),江戸時代において「日本」という存在にどんな感心が向けられていたのかということについて,地図を通じて考えるものである。

本書の議論は断片的に『地図出版の四百年』にもある。このカタログを読んだ際にも納得し,いろいろ学んだつもりだったが,この企画展自体は副題に「京都・日本・世界」とあるように,かなりテーマ的には広いから,きちんと頭に残っていない。そういう意味でも,本書を読み,他の本も読み直すと学ぶことは多いかもしれない。

本書は単なる地図の系譜ではなく,しっかりとしたテーマがあるため,多少単純化し過ぎではないかという議論の展開もあるが,その分しっかりと説明された内容が頭に残る。しかも,本題の江戸時代に入る前の話もかなり丁寧に押さえているので,私のような歴史に疎い人間に対してはありがたい(まあ,新書だからその辺の配慮は当たり前だが)。

結果的には,本書には私が求めていた問いにしっかりと応えてくれるものであった。私の拙い歴史的知識でも,おそらく江戸時代にも令制国を単位とする地図は作られただろうが,日本の国土を俯瞰するような地図がいつ頃から作られたかということが疑問となる。そして,その令制国と日本国との関係がどのように理解されていたのか,ということは地図史の分野が一つの答えを与えてくれるのではないかと期待したわけだ。

本書によれば,江戸時代以前からいわゆる日本全国を描く「日本図」が存在するという。その主たる系譜である「行基式日本図」は令制国(本書では「くに」と表記される)の積み重ねとして描かれるのだという。日本列島の海岸線を描き,その内部を「くに」の境界で区切るのではなく,「くに」の隣に別の「くに」を描いて,全ての「くに」の集合として日本ができあがるというのが「行基式日本図」である。そしてこの系譜は17世紀前半まで継続するという。

その後登場するのが石川流宣によって,あらたな日本図が登場するというのだが,そこで著者が着目しているのが木版画による地図の出版化である。本書ではアンダーソンの『想像の共同体』が参考文献に挙げられており,アンダーソンの主張する出版資本主義の議論を援用する形で,出版地図によって急速に普及した石川流宣による日本国全体を俯瞰するような日本図によって,日本という「想像の共同体」が形成されたのだという。まあ,この議論はちょっと飛躍がある気もしないではないが,もちろんそれを出版地図だけに帰するのではなく,当時の徳川幕府による政策との同時代性として把握している。

この辺りで私の知りたいことはほとんど得られたわけだが,その後の系譜として,流宣の美しさを優先した地図から,徐々に近代的な精確さを優先した地図への移行が語られ,次なる人物として長久保赤水が登場し,誰でも知っている伊能忠敬へと続く。本書では,幕府主導による政治的地図(それはまさに日本を司る支配者による視点であると同時に,製作された地図は一般には出回らない)と民間による出版地図の両方に目配りがされ,特に後者については版元についての考察などが他の地図史研究にはない著者の独自の視点である。しかも,これは恐らく単なる独自な視点ではなく,日本に留まらない世界的な地理学の動向を見据えたものであると想像できる。

かなり長くなったので,とりあえずこの辺にしておこう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明治地方自治体制の起源

松沢裕作 2009. 『明治地方自治体制の起源——近世社会の危機と制度変容』東京大学出版会,429p.9396円.

以前から廃藩置県の勉強をしていると書いていますが、新書や選書の類で勉強するなかで読んだ『町村合併から生まれた日本近代』が非常に印象的で、その著者の研究書に手を出すことになった。最近は4,000円以上になると買い渋り、Amazonの中古で安価になるまで買い控えている私だが、本書に限っては、このテーマに関する11月の報告までに読むべき本だと直感し、1万円近くする新刊で購入することとなった。結果としては、非常に刺激的かつ私が疑問に思っていたことに答えてくれる素晴らしい読書体験だった。

まずは目次から。

序章 移行期研究の視座と制度変容

I部 近世身分制社会におけるヘゲモニー危機

第一章 「組合村」から「大区小区制」へ

第二章 備荒貯蓄と村

第三章 勧業資金と蚕糸業

II部 近代的地方制度の形成

第四章 連合戸長役場から「行政村」へ

第五章 備荒貯蓄と府県会

第六章 地方税と道路

終章 近代社会における制度と権力

著者は歴史研究者である。近代という時代については歴史学者のみならず、現代に連続する時代であり、むしろ現代を逆照射してくれる素材として社会学者や地理学者も多くがその研究対象とする。

本書の著者はあとがきにも書いているように、史料どっぷりの実証史家というよりは、大きな話、抽象的な議論をしたがる性質のようです。しかし、いわゆる近代論としてのフーコーなどではなく、社会思想としてグラムシからヘゲモニー概念を導入し、それをラクラウ・ムフで徹底させる。さすがに歴史研究者であるが故に、歴史に対する態度は真摯です。

私がこれまで読んだ廃藩置県本はもっぱらその制度の成立までの経緯を説明し、この制度を持って明治日本が徐々に中央集権化されていくという論調だった。しかし、著者は『町村合併から生まれた日本近代』でもそうした廃藩置県本にはほとんど言及せず、その後の町村合併によって、現代へと連続する日本の近代社会が作り上げられていくことを主張している。廃藩置県という制度改革はあくまでも日本政府という上からの権力の行使であり、その権力が地域の末端の庶民たちに届かなければ意味がない。権力自体が社会の末端の個人にまで内面化することがヘゲモニーという状態である。

よって、本書はそうした上からの権力がどのような過程を経て、いわば近世には身分制社会であった村民たちに届いたのかということを検証している。その枠組みとして、序章では既存の歴史研究における「地域社会論」が検討される。もちろん、地域や場所という概念は地理学の中心テーマであるし、社会学においても地域社会学が存在する。にもかかわらず、ここで登場する地域社会論は歴史学の内部で議論されているもので、その到達点が非常に高く、驚く。まあ、例えば社会学においても前近代と近代の比較というのは社会制度について考察する常套手段のようなものですから、特に日本の歴史学において江戸から明治への移行という問題に関しては社会学や地理学よりも知見が深いので当然か。

本書では、廃藩置県を含む明治初期のいくつかの政策から、最終的に府県制、郡制が制定される明治231890)年までが議論の中心で、その途中にいくつかあった制度改革によって、段階的にヘゲモニー状態が達成されると論じる。第一章で登場するのは「大区小区制」。地名も伴わない、番号で名づけられたこの地域区分は確かに近代的ではあるが、その意義については私が読んだなかでも疑問視するものが多かった。そもそも、この制度が成立していた時期は短いし、『角川地名大事典』の各県の状況を読む限りにおいても、採用していない県も多い。しかし、本書では基本的に関東地方の事例を用いて、その辺りが詳細に議論される。上から強制される小区という単位と、近世からの継続である組合村(村連合)の関係を探る。大区小区制とは戸籍法の成立に伴ってできたものであり、五箇条の御誓文で表面的には版籍奉還によって領主から政府に返還された戸籍は政府が一括して把握するものとされた。よって、大区小区の戸長とはその名の通り、戸籍を管理する役人のこと。一方で、その当時の村という組織は現代の市町村のような明確な行政単位ではないため、様々な生活にそくした個別の課題に対して関係を結ぶような組織だったという。よって、旧来の近世的な村組織と、この近代的な大区小区というのがローカルレベルでどのような関係にあったかが問題となる。

このあたりについては具体的な史料に基づき、第二章と第三章で議論される。第二章では備荒貯蓄を事例とし、天候不良などでもたらされる飢饉などの際にどのような形で被災者を救済するのかということにおいて、近代の新しい制度を検討している。第二章では江戸時代からの連続性の中で捉えられ、地租改正(明治6年)以前の状況(村請制)が論じられ、基本的に村内の富裕層が救済金を負担するという実態が把握される。第三章では蚕糸業を事例とした企業活動について議論される。今日では私企業による経済活動は基本的に政治とは独立しているが、当時は国をあげての近代産業化が目指されていたため、外貨獲得の手段としても輸出できる製造業に公的資金を投入するということは理解できる。ただ、第三章は比較的短く、何が議論されていたかイマイチ思い出せない。ただ、『町村合併から生まれた日本近代』でも領域的な政治権力と、領域に限定されない経済権力という議論があったが、本書でもこの時期の市場経済の発達を重視している。今日でも、これまで公的なサービスとして位置づけられていたものが次々と民営化されている。鉄道、電信電話、郵便に続いて、最近は空港の民営化も話題になっている。そうしたものは、やはりある種のインフラストラクチャーとして、国家による先行投資的な意味合いがあったが、整備が終わればそれらの管理やさらなる展開は民間資本に移行できるのだ。よって、市場経済が領域横断的なものとして構築されれば、領域に限定された行政の手が届かないところでも市場経済が補ってくれる、ということらしい。

第四章からは第二部に入る。それは明治111878)年に制定されたいわゆる「三新法」(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)によって次なる段階へと移行する。このあたりは法律が制定された以降の法改正に関わる細かい話が多く、なかなか一読では理解できないが、要は新たな法律ができればそれで一気に物事が変わるわけではないということ。特に、新しい明治政府が作る法律は試行錯誤的なところが多く、施行後に生じるさまざまな問題に対処しながら上から下からの意見によってそれらに修正が加えられるということ。ともかく、郡区町村編制法により、「行政村」として自然発生的な小さなスケールの社会集団が行政単位となるということだ。といいながらも、大規模な町村合併がなされ、その行政単位は近世のものとは大きく異なるものとなる。第四章の後半では、他の文献でも出てきたモッセという人物が登場し、そもそも「自治」というものをどうとらえるかということや、「村」という社会集団のあり方、そして地方自治という考え方自体は多くの明治政府の政策と同様に欧米からの輸入であったわけだが、それを日本の状況に移植する際の問題をいかに解消していくかが詳細に論じられている。

第五章と第六章は第一部の第二章と第三章とセットになっている。明治期における地方自治政策の前半と後半で、天災時の村人たちを救済する方法としての備荒貯蓄と今度はインフラ整備としての道路に関わる問題が取り上げられる。道路の事例は第三章よりかなり理解しやすかった。このあたりの議論は私が会社の業務で携わっている空港整備とも共通する話で興味深かった。もちろん、空港というものは現代的な土木施設だが、それより身近な道路という存在でも、県の予算を使って整備する道路がどこを走るのかということで、受益権の問題が議論され、その公共性を人々が理解していく過程がこの時期にあったということは私にとっても大きな発見だった。

本書は、『町村合併から生まれた日本近代』の執筆動機としても書いてあったように、ある意味でかなり難解だが、できるだけ共通のワードで語るようにし、さらに各章のさいごにはまとめの文章がついている。当然、終章では全体をまとめていて、読書中はとてもよく分かった気になる。しかし、議論されている内容はとても繊細なものであり、思い出そうと思うと自分の記憶、理解が正しいものかどうかがよく分からなくなる。まあ、ともかく何度か読み返す必要があるのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

1968年の世界史

バディウ, A.他著,藤原書店編集部編 2009. 1968年の世界史』藤原書店,326p.3456円.

非常勤先の「人文地理学」の教科書としてまたウォーラーステイン『ポスト・アメリカ』をひっぱりだしている。なるべく補足しながら話をしオたのが本書だとのこと。アラン・バディウの文章も読んでみたかった。

雑誌の特集号ということで、執筆者は多いが、藤原書店のサイトで目次を公開していたので、ちょっと拝借。

はじめに 

部 世界史のなかの68

68年とフランス現代思想(アラン・バディウ)

パリの68年(西川長夫)

フランスの68年【685月の残光】(西山雄二)

アメリカの68年【リベラルな社会におけるラディカルな知識人】(イマニュエル・ウォーラーステイン)

アメリカの68年【確信から行動へ】(ステファン・ヴラストス)

メキシコの68年【オリンピックとトラテロルコ】(オクタビオ・パス)

メキシコの68年【ピュロスの敗北】(カルロス・フエンテス)

女性から見た68年(古田睦美)

ソ連・東欧圏の68年【改革共産主義の興隆と終焉】(伊東孝之)

中国の68年【世界における造反運動の退潮】(金観濤+劉青峰)

68年革命と朝鮮半島【過去になった未来】(林志弦)

日本の68年【「全共闘」・「美共闘」 の可能性と問題点】(針生一郎)

沖縄の68年【私的視野から】(川満信一)

もう一つの68年【テロと右傾化の原点】(岡田明憲)

アフリカ・68年の死角【カメルーンのもう1人のエルネスト】(谷口 侑)

68年の世界史【67年の中東から見る】(板垣雄三)

部 わたしの68

転回(竹内敏晴)

政治の季節から文化革命へ(青木やよひ)

ゲート前坐りこみ(河野信子)

68年と科学(中山 茂)

不可逆な68年(吉川勇一)

遅れてきた署名者(子安宣邦)

フランスとベトナムと(海老坂武)

ほんとうの私への回帰(黒田杏子)

成り上がり者がつくった時代(西舘好子)

揺れる電気傘と「三億円」(窪島誠一郎)

右も左もない(新元博文)

実存主義の種(鶴田静)

68年の赤い糸(加藤登紀子)

40年、抱えてきた宿題(佐々木愛)

あの冬の記憶(永田和宏)

目覚め、 そして屈折(宮迫千鶴)

ターニングポイント(渡辺 眸)

見てのとおり、非常に多岐にわたっています。1968年といえばもちろんフランスの5月革命なのですが、さまざまな方面、側面からいろんな人が文章を書いています。実は1970年生まれの私は研究を始めて、この時代のことを研究しようと思ったこともあります。1970年の日本といえば、1 968年以降の批判的精神が失われつつあり、大阪万博などで盛り上がり、『anan』や『non-no』の創刊によって一気に消費社会へと突入するわけですが、私は1980年代の雰囲気が嫌なまま10代を過ごしたこともあり、1960年代後半の批判的精神にあこがれていたわけです。

まあ、それはともかく本書を読むと、1968年という世界史におけるターニングポイントはまさにグローバル化の加速化のまっただなかということが分かります。前半は欧米の話が中心ですが、チェ・ゲバラの存在もありますが、続いては中南米、そして「プラハの春」に象徴され 82驍謔、な東欧、文化大革命の中国、そこから朝鮮、日本、沖縄へと展開します。当然、米国や沖縄の話のなかではベトナム戦争が重要です。そこまでは私でもこの時代の重要な出来事として想像できますが、本書で学んだのはアフリカの状況、そして板垣雄三さんが書いている中東の問題。やはり板垣さんの文章はもっと読まなくてはと思う次第。

部は名前の知らない人が多いですが、特に後半は詩人などの芸術家が書いていますが、これまた第部と対照的で面白い。まあ、この読書体験をどう研究や講義に活かすかは難しいところですが、なかなか面白かった。加藤登紀子さんが東大出身でまさに1968年の洗礼を受けているというのは初めて知り,現在のスタイルにつながっているんだなと納得。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

エスニシティの社会学

マルコ・マルティニエッロ著,宮島 喬訳 2002. 『エスニシティの社会学』白水社,169p.1027円.

今年度は明治学院大学で社会学の講義を担当している。私が担当する「社会学6」はテーマが「エスニシティ,地域,境界」というもの。とりあえず,境界については翻訳に参加したフリントの『現代地政学』で境界に関する章を担当したし,最近勉強している廃藩置県に伴う都道府県の確定の話題も使えるので引き受けた。

私の講義では1セメスターに2回のレポートを課し、そのうちの1つは小レポートとしてちょっとした本を読んでもらっている。そんな課題図書の候補として読んでみたのが本書。まずは目次から。

第一章 概念の生成

第二章 エスニシティの三つのレヴェル

第三章 エスニシティへの主要な理論的アプローチ

第四章 エスニシティと社会階級

第五章 エスニシティと性

第六章 エスニシティ,政治,紛争

結論

やはり宮島さんが訳しているだけあって、入門書的に書かれてはいるけど、ちょっと日本の学部学生には難しい気がする。私自身が素直に勉強になったので、課題図書にしたところで、読書感想文しか書かせられない。

イタリア系のベルギー人でフランス語で執筆する著者によれば、フランス社会学におけるエスニシティ研究は最近まで盛んではなかったらしい。そもそも英語のエスニシティの語も新しい造語であり、特に米国の文脈で研究が盛んになったという。

本書の構成は非常に入門書的で、目次は明確である。第二章の三つのレベルとは、微視(ミクロ)-中間(メソ)-マクロ(巨視)であり、それが必ずしも空間スケールを意味しないのは社会学だ。

第三章ではいくつかの二項対立でさまざまな理論を整理している。最初に登場するのは自然主義ということで、これも最近読み直したハラウェイの『猿と女とサイボーグ』で登場する社会生物学の議論も出てくる。セックスとジェンダーの関係に似た関係が人種と民族にはある。

第四章以降は他の社会的属性との関係、あるいは社会学におけるさまざまなテーマ間との関係が論じられる。本書はあくまでも入門書ということですが,クセジュ文庫の一冊ですから各章があっさりと終わって次に行ってしまうのは難点。ただ,まさに入門者の私にとっては適切な読書でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »