« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月

記憶が語りはじめる

冨山一郎編 2006. 『記憶が語りはじめる』東京大学出版会,263p.,2500円.

以前から欲しくてAmazonの「ほしい物リスト」に入れていた本。たまたま古書店で見つけて購入。早速読みました。米山リサさんの翻訳はなるべく読んでおきたいと思っているし、本書には『天皇のページェント』の著者,タカシ・フジタニ氏も書いているし、きちんと読んでみたいと思っていたハルトゥーニアンも寄稿している。

本書は目次にも書いたように、ひろたまさきとキャロル・グラックによる編集による3巻本「歴史の描き方」シリーズの第三巻。単なる論文集ではなく、日米共同研究会の成果だという。第一巻『ナショナル・ヒストリーを学び捨てる』、第二巻『戦後という地政学』も本書を読み終えると俄然魅力的にみえる。

刊行に当たって(ひろたままさき,キャロル・グラック)

第三巻 小序 歴史が語りはじめる(冨山一郎)

Ⅰ 記憶とイメージ

 1 「証言」の時代の歴史学(成田龍一)

 2 植民地支配後期”朝鮮”映画における国民,血,自決/民族自決――今井正監督作品の分析(タカシ・フジタニ著,宜野座菜央見訳)

 3 間=文化的イマジナリーにおけるオリエンタリズム――D・クロネンバーグとW・ギブスンにおける蝶々伝説(ブレット ド・バリー著,村田泰子訳)

 4 構成的な両義性――日本近代史におけるモダニズムとファシズムの存続性(ハリー・ハルトゥーニアン著,樹本 健訳)

Ⅱ 記憶という主体

 5 二つの廃墟を越えて――広島,世界貿易センター,日本軍「慰安所」をめぐる記憶のポリティクス(米山リサ著,小澤洋子/小田島勝浩訳)

 6 虚構の記憶と真正性――「ヴィルコミルスキー事件」『少年H』,そして『母の遺したもの』についての一試論(岩崎 稔)

 7 言葉の在処と記憶における病の問題(冨山一郎)

座談会[岩崎 稔・冨山一郎・米山リサ]

久し振りに興奮をおぼえる読書だった。ハルトゥーニアンの章だけは私には難しくて消化不良だが、それ以外はどの章も素晴らしく、理想的な論文集である。

1章の著者、成田龍一氏も『「故郷」という物語』などで知っている歴史家。本書のテーマである「記憶」が歴史学周辺の近年の動向でも話題のトピックで、特に敗戦後の日本において、戦争についての言説が、時代とともに「体験」、「証言」、「記憶」と移行しているということを丁寧に分かりやすく解説している。本章の最後に検討されている家永三郎の『太平洋戦争』も読まねばならないと思った。

タカシ・フジタニは最近映画の研究を手がけているらしい。2章はタイトルどおり、日本が朝鮮半島を植民地化していた時代に、日本人映画監督が朝鮮を舞台に朝鮮人俳優を使って作製した映画作品を分析する。その事実だけでも勉強になる。また本章の副題に用いられている「自決/民族自決」だが、self-diterminationの訳語として本書では何度か登場する。私はこの言葉をナショナリズムを原動力とした独立運動に関わる言葉としてしか理解していなかったが、ここでは「集団自殺」のことを指している。このこともはっとさせられるものだった。

3章は副題に「蝶々伝説」とあるように、日本を含む東洋を舞台とした映画と文学作品における蝶のイメージをオリエンタリズムの関連から分析するもの。前半のオリエンタリズムをめぐる議論は込み入っていて難しい。後半で検討されるギブスンの『あいどる』という作品は日本を舞台にした1996年の作品。『ニューロマンサー』でも確か千葉がでてきたと記憶しているが、こんな新しい小説を書いていて日本語訳もされているとは知らなかった。

4章は上述したように私には難しかったが、本章で検討されている戸坂潤がカントの空間論を出発点として物質性の回復をめざしていたということは地理学に関わる問題で、一つのテーマになると考えた。

5章で米山リサはこれまで自ら研究してきた広島の問題と、『暴力・戦争・リドレス』でも取り上げられた日本軍「慰安所」の問題を、2001年の同時多発テロの標的となった世界貿易センターと関連付けて論じている。相変わらず魅力的な文章。

6章は集団自決を中心とする文章で、私の表象論文でもホロコーストの表象不可能性に関する議論を少しだけ紹介したが、まだまだ知らないことが多いと驚かせられる。

7章は編者として、各章における各論をまとめながら、総論について論じている。冨山一郎はあまりにも有名な研究者だが、これまできちんと文章を読む機械がなかったことを恥じる。

巻末に収録された座談会も非常に読んでいて面白い。こういう議論ができるような場に参加できるような研究者になりたいと思う。

さて、本書の魅力は翻訳論文が4編にもなるにもかかわらず、どの章も素晴らしい翻訳であるということも大きい。訳者の肩書きは書かれていないが、たまに英語の翻訳などをする私であるが、自分の翻訳文があまりにも稚拙に思えてしまう、美文によって翻訳されている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

欧州周縁の言語マイノリティと東アジア

寺尾智史 2014. 『欧州周縁の言語マイノリティと東アジア――言語多様性の継承は可能か』渓流社,267p.,3200円.

本書は初対面の著者からいただいた。昨年秋に人文地理学会の政治地理研究部会で報告した際,会場に来た本書の著者に声をかけられた(報告後にコメントも受けた)。彼は地理学とは直接関わりがないが,宮崎大学からこの報告のために来たのだという。

著者は社会言語学の分野に入るということだが,地名にも関心があるという。その際に本書ともう1本の論文抜き刷りをいただいたが,その論文は帰りの新幹線で読ませていただいた。本書も私の地名研究には直接関わらないが,明治学院大学で教えている講義に関連すると思い,ようやく読むことができた。

はじめに

第一章 ミランダ語――「むくつけき田舎なまり」から「ポルトガル唯一の少数言語」へ

第二章 アラゴン語――王室のことばから谷底の俚言(パトワ)へ

第三章 少数言語保全と言語多様性保全との相克――アイデンティティ・ポリティクスの末路としての少数言語保全は言語多様性保全につながるか

第四章 言語多様性は継承できるか――東アジアからことばのグローバリズムを照らし返す

第五章 液状化社会における言語多様性継承の可能性――その多層的舞台配置を母語環境から探る

おわりに

本書にも書かれているが,著者は東京外国語大学でポルトガル語を学び,企業に就職しポルトガル勤務になったという。10年ほど働いて,ポルトガルでの経験を活かして大学院に入り直し,研究者になったという。確かにポルトガル語とスペイン語は,それらをほとんど知らない私からみたら似ているが,第一章で扱われるポルトガルの少数言語に続き,第二章ではスペインの一言語であるアラゴン語が扱われる。かと思えば,ラテン・アメリカはボリビアの話も出てくる。確かに,ラテン・アメリカはかつてスペイン・ポルトガルの植民地で現在はそれら宗主国の言語が用いられてはいる。そして,書名にもあるように,徐々に東アジアへと視点を移していって,最後には著者の生まれ故郷の話になっていくのだが,その博学ぶりというか,世界を遍歴して培った経験の豊富さ,そんなものが本書を貫いている。

一応,本書は博士論文を基にしたものということだが,世界中に話が及んで,正直構成的には盛り込みすぎな感じがするが,著書ということではそれもいいのだろう。まあ,既に10年間で発表された40余りの既出論文が基になっているということのようですし。

私のような読者には,本書のなかの話題となっている言語の特徴を説明する言語学的な箇所は理解不能である。また,言語に関する説明は非常に細かいのだが,その少数言語を支える(支えられない)社会的背景の説明は空間スケールが大きくなればなるほど雑になる感じはあるが,本書の主題はあくまでも少数言語なので,その辺を細かく文献に基づいて記述するよりは大胆に描かれた世界の状況というのが本書では有効なのかもしれない。まあただ,社会の液状化に関する議論があるが,そこではジグモント・バウマンぐらい引くべきだと思う。

また,本書は単に少数言語の状況を把握するだけでなく,そうしたものをどのようにしたら保全でき,それによって世界における,あるいは一国における多言語状態を保全するような方策についても議論している。ただ,ここについては私はどうにも判断できません。そもそもそういうものを肌で感じたことはないし,この議論は景観保全の問題と少し似ている気もします。本書を読んでいて,少し前に読んだディクソン『言語の興亡』を思い出した。ディクソンが強調していた言語学者のフィールドワークをまさに著者が実践していると感じたのだ。にもかかわらず,この本も本書で言及されていないのを多少奇妙に思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本の風景・西欧の景観

オギュスタン・ベルク著,篠田勝英訳 1990. 『日本の風景・西欧の景観そして造形の時代』講談社,190p.,580円.

恐らく,修士課程に入学した頃に読んだ,講談社現代新書の1冊。ベルクはフランスの地理学者だが,日本通で日本では地理学以外の人が翻訳をしているし,日仏会館などで講演していたりする人物。通常,こうした翻訳文献というのは原語での出版物があり,翻訳される。日本語版には原著の書誌情報や訳者あとがきなどでの解説などがあるが,本書はそれが一切ない。日本語出版のために書き下ろして,翻訳したのだろうか。

序論

第一章 人類学的共通基盤

第二章 視線とその変化

第三章 発見と再発見

第四章 野生の空間から自然の風景へ

第五章 田園から田園風景へ

第六章 都市から都市風景へ

第七章 風景の彼方へ――造形の時代

大学院生時代に読んだ頃はひどく難しかった気がする。その一方では,風景=日本,アジア的なもの,風景=西欧的なものというかなり単純な二項対立の印象を与えるようなタイトルは本質主義的だ。日本は自然と共存し,西欧は自然を支配してきたという神話にもつながりかねない。春になって,早稲田大学でまた景観・風景に関する講義が始まったこともあって,改めて読み直してみた次第。

今回読んでみると,難解に思われる箇所はほとんどない。しかし一方では,本文の語り口は非常に慎重で(といってもある意味大胆だが),本質主義的な側面はあまりない。日本の自然観や風景観は明治期以降,西欧の影響を大きく受けているし,かといって一方的に西欧的なものに置き換わっただけではなく,逆に日本的なものが芸術分野を中心に「ジャポニズム」として西欧に新しい風景観をもたらしたことも指摘されている。

第四章,第五章の主題の語り方もけっこう社会構築主義的なものだったりする。多方面にめくばりしていて,さすがこの人は抜け目ない。私は2013年に景観・風景に関する論文を書いているが,本書を再読しなかったことは片手落ちだったかもしれない。まあ,そういいながらも字数の関係でベルクの他の著書に関する言及部分は最終的に全て削除したのだが。まさに本書も彼の他の著書に劣らず(分量は少ないが)博学的で,読者にものをいわせない雰囲気がある。とはいえ,あくまでも話を日本と西欧に絞っているため,通読すると両者を対立的に描いている感じは残ってしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

カフカ論

ジャック・デリダ著,三浦信孝訳 1986. 『カフカ論――「掟の門前」をめぐって』朝日出版社,100p.,1500円.

ドゥルーズの次はというわけではないが,未読だったデリダを読むことにした。本書はポストモダン叢書に収録された1冊で,デリダの日本講演の内容だとのこと。とても短い文章で,目次もありません。

デリダにしてはとても分かりやすい一冊。そして,よく知られるカフカ理解を繰り返しているだけのような気がします。私の読みが甘いのかもしれませんが,デリダにしてはちょっと物足りない。1983年の講演ということですが,1980年代のデリダという雰囲気ではないですね。どんな主題を扱っても,デリダ独自のというか,デリダ的なという単純さでは理解できない奥深さを感じるものですが,まあ本書のようなものもあるんですね,と少し安心させてくれる一冊。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニーチェと哲学

ジル・ドゥルーズ著,足立和浩訳 1982. 『ニーチェと哲学』358p.,3500円.

私はデリダをそれなりに読んでいるが,ドゥルーズは初めて。朝日出版社のエピステーメー叢書に収録された『ヒュームあるいは人間的自然』も持っているが,まだ読んでいない。最近の地理学においては(人文・社会科学全般でか)デリダよりもドゥルーズの方がよく参照されるために読んでおくべきかとは思うが,なんとなく引かれない。とはいえということで,随分以前に古書店で安かったので(1,500円)購入しておいた次第。最近は通勤中に読む本が蔵書からどんどんなくなっているので,未読書の一冊として読んだ。読んでいない蔵書には分厚い本もいくつかあるが,通勤電車で立って読むのはかなりきつい。

まずはいつもどおり目次。

第一章 悲劇的なもの

第二章 能動と反応

第三章 批判

第四章 怨根からやましい良心へ

第五章 超人。弁証法との対立

訳者の解説によれば,ドゥルーズは独自の議論を展開する哲学者として知られるが,本書が出版された1962年頃は哲学的古典を詳細に検討する堅実な研究が多いという。確かに,上で挙げた『ヒュームあるいは人間的自然』も1953年の出版だ。

ということで,本書はニーチェを取り上げて,その哲学的異議を検討するという内容。では,私がニーチェを読んでいるかというと,『善悪の悲願』を非常に面白く読んだのだが,続いて『道徳の系譜学』を読み始めたらまったく意味不明で投げ出し,それ以来手を付けていないという状態。

ニーチェをそれなりに読み込んでいる人でないと目次を見てもよく分からないだろうし,まあ,本文の理解も十分なものにはならないのでしょうね。正直いって私にはあまり理解できない本でした。それでも,ニーチェの有名な「力への意思」についてはかなり詳しく解説されていて,訳者の思い入れも含めてそれなりに知ることは多かった。それから,訳書では「能動と反動」という章にもなっていますが,能動=action,反動=reactionという二項対立はなかなか新鮮でした。

ドゥルーズ哲学にとってのニーチェの哲学とは,というような箇所の引用で終わりにしましょう。「多,生成,偶然が肯定の対象だということ。これがニーチェ哲学の意味である」(p.280)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

認識論

ヘルベルト・シュネーデルバッハ著,加藤篤子・中川明博訳 2006. 『認識論――知の諸形式への案内』晃洋書房,219p.,2900円.

昨年人文地理学会の政治地理研究部会で発表させてもらったタイトルに「地名の認識論序説」とつけた。その内容は発表後,まだ投稿するには内容が詰められていないと考えていたが,後日読み直し,現段階でも投稿の価値はあるのではと考えるようになった。

でも,そこでふと考え,これまでなんとなく気に入って使ってきた「認識論」という言葉についてきちんと調べたことがなかったと思い,とりあえず表題に用いている書籍を検索したところ見つかったのが本書。章立てだけでは分かりにくいので,詳細目次を。

はじめに

序論

 1 認識論小史

 2 認識論に対する二つの異議

 3 認識論の諸課題

第一章 知識

 1 〈知識〉――分析的提案

第二章 知の諸形式

 1 表象

 2 知覚

 3 記憶と想像(表象2)

 4 学/学問/科学

 6 知識の諸形式の小史

第三章 妥当

 1 懐疑

 2 真理

 3 正当化

第四章 展望――認識の現実

○○論というのは一律には捉えられない。先日『社会の新たな哲学』の読書日記で書いたように,実在論や観念論における「論」は「ism」だが,認識論の「論」は「logy」である。現象学と一般的に訳されるphenomenologyをかつて地理学者竹内啓一は「現象論」と表記していた。まあ,logyがついているからといって「学」にまで昇格するほどのものではないという意味だと思うが。

私は認識論を自動的にepistemologyの翻訳だと考えていたが,そうでもないらしい。この語源はやはりフランス起源のエピステーメーであり,epistemologyは科学的認識論という限定付きで用いることもあるという。といっても,各分野の科学史ではなく,フーコーが『言葉と物』で行ったような,分野を越えて通底する「知」のあり方,ということだろうか。

しかし,ドイツ人によって書かれた本書はそうした限定付きの捉え方には限定していない。もちろん,クーン以降の科学史についての議論もあるが,デカルトのコギトについても論じ,プラトン,アリストテレスにまで遡る。もちろん,カント,ヘーゲル,ハイデガーといったドイツ哲学者の検討にも多くのページが割かれ,認識論というものは哲学という概念とオーバーラップするような広さを感じさせる。

認識(recognition)と類似した語として知覚(perception),認知(cognition)などがあるが,一般的には,人間による物事の理解には段階があって,まず外界を感覚を用いて知覚し,その物事が何であるかを区別し(認知),それに価値判断を与える(認識),そしてその物事の経験を記憶としてストックしていく,といった具合に。しかし,本書によれば人間の物事の理解はそう単純ではなく,純粋な知覚というのはありえないという。

心理学もそうした一連の認識過程を扱うが,それとはまた異なった形で扱うのが哲学であり,哲学のそうした主題に関する議論を認識論という,という理解でいいのであろうか。もう少し他の本も読んで見極めたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2時間越え日本映画3本

2016年3月26日(土)

立川シネマシティ 『リップヴァンウィンクルの花嫁

リップヴァンウィンクルという語は米国の小説家,アーヴィングの小説のタイトルということだが,そういう文学的センスを持った岩井俊二の最新作。監督映画を観るのは『花とアリス』以来,12年ぶりということか。3時間の大作。

でも,あまり長く感じさせません。黒木 華演じる主人公の半生を描いた作品。半生というのは大げさな表現だが,人生時として,特定の数年間に出来事がめまぐるしく起こるような転換期がある。そういう数年間を描いた,あるいは長い一生の出来事を数年間に凝縮した作品。

これまで,黒木 華の作品を全て観たわけではないが,どちらかというと落ち着いていて賢明でという役どころが多かった気がしますが,本作は特に人生の目的も見出せず,なんとなくで周りに合わせて振る舞っているうちに流されてしまうという人物を演じる。原日出子やりりぃといった配役も素晴らしい。綾野 剛との共演は以前にもありましたが,本作の綾野は彼らしさが前面に出ていてとても良いと思う。

前売り券を入手できず,当日券で鑑賞したが,単純に上映時間も普通の映画の1.5倍だし,内容も満足だったので値段相応でした。

2016年3月30日(水)

新宿シネマカリテ 『無伴奏

成海璃子ちゃんは以前から出演映画をよく観ている女優さん。本作は監督が矢崎仁司監督ということで,前売り券を購入してのぞむ。『太陽の坐る場所』はなんだかんだで観れなかったし。そういえば,彼の映画はいつも女性が中心な気がする。

予告編でも璃子ちゃんがいきなり下着姿になるシーンが魅力的だったし。本作は小池真理子。彼女の作品の映画化はけっこうあるようですが,どれも観ていない。本作は学生運動の時代を背景にしている。ファッションとタバコの煙がこもる喫茶店というのはその時代をうまく表現していると思うが,学生運動の時代精神みたいなものはあまり感じられなかった。まあ,璃子ちゃんは頑張っているし,2時間を越える上映時間で退屈することはなかったが,まあまあというところでしょうか。

2016年4月6日(水)

府中TOHOシネマズ 『あやしい彼女

なんだかんだで日本映画ばかり観てしまっていますが,本作は韓国映画のリメイク。その事実を観る時は知らなかったが,この記事を書くために検索したら分かりました。韓国映画は2004年に公開されたものですが,そのヴィジュアル・イメージは何となく覚えています。

本作も私が以前から出演作をよく観ている多部未華子主演。彼女は一般受けする感じではないと以前から思っているが,少し前にはテレビドラマによく出演していた。まあ,そんなことがそんなに続くはずはないと思ったが,次から次へと出てくる若い女優に入れ替わって,ドラマの出演は減っているようですね。その代わり,映画に戻ってきているようで嬉しい。

本作は公開前のプロモーションで,未華子ちゃんの歌声が随分話題になっていた。よくある話ではあるが,共演者が絶賛したという。まあ,あまり期待しすぎないように期待しましょう。ストーリーはある老女がいきなり20歳に若返りという展開。まあ,確かに『8月のクリスマス』も日本でリメイクされましたが,なんとなく同じような雰囲気を感じます。老女は倍賞美津子が演じ,その娘を小林聡美が演じているところが本作の魅力。もちろん未華子ちゃんも頑張っていたし,確かに美しい歌声も聴かせてくれました。なお,劇中歌は小林武史。ここは納得。そつない仕事をこなしています。韓国版は観ていないが,一つ気になるのは,主人公が戦争孤児として苦労してきたということがベースになっていて日本と韓国では戦後の意味合いが異なるし,また韓国の設定を日本で置き換えるというところが気になってしまう。

でも,とにかく本作は泣かされるシーンが多く,かなり満足な1本でした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

思考と行動における言語

ハヤカワ, S. I.著,大久保忠利訳 1974. 『思考と行動における言語 原著第三版』岩波書店,339p.,1100円.

本書は修士課程に入った頃読んで非常に刺激的だった一冊で,私がそれまでぼんやりと考えていたことを明確に理解させてくれると同時に,その後の私の研究の方向性を示してくれた。

私の研究はそれから多方面に及んでいるような気もするが,本書を読み返すと発想の源泉は20年前と変わっていないようにも感じる。

第一部 言語の機能

 意味論的寓話――赤目と女の問題

 1 言語と生存

 2 記号

 3 報告,推論,断定

 4 文脈

 5 言語の二重の仕事

 6 社会的結びつきの言語

 7 社会的制御の言語

 8 感化的コミュニケーションの言語

 9 芸術と緊張

第二部 言語と思考

 第二の意味論的寓話――A町とB市の物語

 10 われわれはどうやって知るか

 11 居なかった小人

 12 分類

 13 二値的考え方

 14 多値的考え方

 15 詩と広告

 16 ジューク・ボックスの中の10セント銀貨

 17 ネズミと人間

 18 内の秩序と外の秩序

今私が考えているのは,地理空間の認知の問題である。単に空間認知というと,実験に依拠する心理学では,目の前の机上空間だけでことが済んでしまうことがあるが,地理学者の場合はそうではない。実際に自分が身体を移動して覚える「土地勘」のようなものから,世界地図で国の名前や位置を覚えるようなことまでを含む。まさに,身体経験に基づくものから世界地図までを対象にする地理学はそのミクロからマクロまでのスケールの大小が問題となり,地理学者なるものは大小を連続的に認識できなければならないわけだが,一般の人々,そして成長する子どもたちがそうした能力をいかに獲得していくのか,あるいは成人しても獲得しないのか,というところがもっぱら気になるところ。

経験に基づくボトムアップ的な知識と地図というメディアによるトップダウン的な知識,それは本書の表題の行動と思考に対応するし,その際に言語の果たす役割は大きいと思う。ということで,今の私の思考にもってこいの本。また,本書は「言葉は物ではない」という主張を繰り返すが,その際に用いられる比喩表現が「地図と現地」である。つまり,物が現地だとすれば,言葉は地図であり,地図は現地の情報から得られたものだが,現地そのものではない。というところも,言葉の問題を地理の問題に準えて考えやすい。

読み直してみると,やはりくどいというか,あまりにも単純化しているという感覚が否めない箇所も少なくないが,それはある意味では非常に大胆で,そして初学者に分かりやすいという側面もある。また,今読み直したからこそよく理解できることも多かった。最近ようやく私もエスニシティについて考えることが多くなったが,本書で登場するユダヤ人のたとえ話や,また日系人である著者自身の話も非常に興味深い。また,著者がヨーロッパ大陸ではなく北米の研究者であることもあり,本書が広い意味でのプラグマティズム的であることも,やはり同時代のマクルーハンやケネス・バーク,ブーアスティンなどの著作家と共通する特徴かもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

認知心理学

箱田裕司・都筑誉史・川畑秀明・萩原 滋 2010. 『認知心理学』有斐閣,521p.,3400円.

今回,学会で発表した内容ではいくつかの日本の心理学研究を参照していた。それらはウェブで入手できるという制限もあったが,けっこう『教育心理学研究』という雑誌に掲載されたものが多く,幼児や児童を対象にしていることから,発達心理学の研究者もいたようだ。しかし,心理学の下位分野はよく分からず,でも学会発表ではその辺を少し単純化してでも分かりやすく表現したいので,なんとなく認知心理学と表現した。

そのことが気になって,一応その名のついた教科書を探してみて,Amazonの評価がよかったものを購入。普段,教科書的なものを好まないので,こんなにページ数のある教科書を通読するのは初めてに近い。とりあえず,目次で気になるのは「カテゴリー化」と「言語理解」。

はしがき

第Ⅰ部 認知心理学の基礎――感性・注意・記憶

 第1章 認知心理学の歴史とテーマ

 第2章 視角認知

 第3章 感性認知

 第4章 注意

 第5章 ワーキングメモリ

 第6章 長期記憶

 第7章 日常認知

 第8章 カテゴリー化

第Ⅱ部 高次の認知心理学

 第9章 知識の表象と構造

 第10章 言語理解

 第11章 問題解決と推論

 第12章 判断と意思決定

 第13章 認知と感情

第Ⅲ部 認知心理学の展開

 第14章 認知進化と脳

 第15章 認知発達

 第16章 社会的認知

 第17章 文化と認知

 第18章 メディア情報と社会認識

評価通り,なかなか読み応えのある教科書でした。知りたかったこともそこそこ知ることができ,それ以上になんとなく心理学全体の見取図が分かったような気がします。

ただ,いくつかの心理学論文を読んでいる時から感じていたのは,本筋の心理学は特に一昔前は実験による実証を行うのが当たり前で,実験結果を数値で示すのが基本のようです。実験を必ず介すというその辺の論理構成がなかなか不慣れで理解を促進しないという側面はありました。また,脳科学との結びつきも強いようで,その辺りも私の研究上の信念からついていけないところもありました。また,やはりというか,欧米の研究の紹介が主で,日本の研究については世界的にみて意義のあるもののみに限定しているようなところがあり(まあ,そうでもしないと文献表が膨大になりすぎるのでしょう),私のようになるべく日本語で読みたい,あるいはこれまで読んだ文献を位置づけたいという希望には応えてくれませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »