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認識論

ヘルベルト・シュネーデルバッハ著,加藤篤子・中川明博訳 2006. 『認識論――知の諸形式への案内』晃洋書房,219p.,2900円.

昨年人文地理学会の政治地理研究部会で発表させてもらったタイトルに「地名の認識論序説」とつけた。その内容は発表後,まだ投稿するには内容が詰められていないと考えていたが,後日読み直し,現段階でも投稿の価値はあるのではと考えるようになった。

でも,そこでふと考え,これまでなんとなく気に入って使ってきた「認識論」という言葉についてきちんと調べたことがなかったと思い,とりあえず表題に用いている書籍を検索したところ見つかったのが本書。章立てだけでは分かりにくいので,詳細目次を。

はじめに

序論

 1 認識論小史

 2 認識論に対する二つの異議

 3 認識論の諸課題

第一章 知識

 1 〈知識〉――分析的提案

第二章 知の諸形式

 1 表象

 2 知覚

 3 記憶と想像(表象2)

 4 学/学問/科学

 6 知識の諸形式の小史

第三章 妥当

 1 懐疑

 2 真理

 3 正当化

第四章 展望――認識の現実

○○論というのは一律には捉えられない。先日『社会の新たな哲学』の読書日記で書いたように,実在論や観念論における「論」は「ism」だが,認識論の「論」は「logy」である。現象学と一般的に訳されるphenomenologyをかつて地理学者竹内啓一は「現象論」と表記していた。まあ,logyがついているからといって「学」にまで昇格するほどのものではないという意味だと思うが。

私は認識論を自動的にepistemologyの翻訳だと考えていたが,そうでもないらしい。この語源はやはりフランス起源のエピステーメーであり,epistemologyは科学的認識論という限定付きで用いることもあるという。といっても,各分野の科学史ではなく,フーコーが『言葉と物』で行ったような,分野を越えて通底する「知」のあり方,ということだろうか。

しかし,ドイツ人によって書かれた本書はそうした限定付きの捉え方には限定していない。もちろん,クーン以降の科学史についての議論もあるが,デカルトのコギトについても論じ,プラトン,アリストテレスにまで遡る。もちろん,カント,ヘーゲル,ハイデガーといったドイツ哲学者の検討にも多くのページが割かれ,認識論というものは哲学という概念とオーバーラップするような広さを感じさせる。

認識(recognition)と類似した語として知覚(perception),認知(cognition)などがあるが,一般的には,人間による物事の理解には段階があって,まず外界を感覚を用いて知覚し,その物事が何であるかを区別し(認知),それに価値判断を与える(認識),そしてその物事の経験を記憶としてストックしていく,といった具合に。しかし,本書によれば人間の物事の理解はそう単純ではなく,純粋な知覚というのはありえないという。

心理学もそうした一連の認識過程を扱うが,それとはまた異なった形で扱うのが哲学であり,哲学のそうした主題に関する議論を認識論という,という理解でいいのであろうか。もう少し他の本も読んで見極めたいと思う。

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