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2016年7月

日本文化私観

ブルーノ・タウト著,森 儁郎訳 1992. 『日本文化私観』講談社,344p.,932円.

本書も今回日本文化論を読むということで読んだわけだが,もちろん本書の存在はよく知っていた。特に,西川長夫『地球時代の民族=文化理論』で,本書と同名のエッセイでタウト批判を繰り広げた坂口安吾について詳しく論じられていたので,そのうち読まなくてはと思っていた。

原本序(黒田 清)

訳者の詞(森 儁郎)

床の間とその裏側

あきらめ

メランコリイ

芸術

神道―単純性のもつ豊富性

絵画

彫刻

工芸

芸術稼業

建築

第三日本

解説(佐渡谷重信)

正直,読み終わってから随分経ってしまい,本書の内容はあまり頭に残っていない。西川の著書で理解している限りでは,タウトは数ヶ月の日本滞在で,日本文化の本質を発見した。むしろ,文明開化に沸き立って日本古来のものを蔑ろにして西洋文明を積極的に取り込もうとしてきた日本が,日本文化の良さに気づかされるのが本書を含むタウトによる発見だという。タウト自身も本書のなかで,日本人は独自の豊かな感性を持っているのに,西洋文化の真似事に興じていてもったいない,といった趣旨の内容を書いている。

しかし,他の外国人が書いた日本論・日本人論・日本文化論のように腹立たしい気持ちにはならなかった(腹立たしい気持ちになること自体が,自らに日本人アイデンティティのある証拠であり,また日本なるものの実体をどこかで認めているということだが)。少なくともこれだけのページ数を費やして論じているわけだから,その詳細な記述には屈服せざるを得ない。そして,日本に関する事柄の知識の量はとてもかなわない。まあ,そこが本書の影響力の強さなのであろう。

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人間を幸福にしない日本というシステム

カレル・ヴァン・ウォルフレン著,鈴木主税訳 2000. 『人間を幸福にしない日本というシステム【新訳決定版】』新潮社,380p.,771円.

本書には明確な書誌情報が記されていないが,ともかく日本では1994年に出版されたもので,私が読んだのは2000年の新訳。1994年版では篠原 勝氏による翻訳で,ウォルフレンの著書の翻訳を多く手がけている人物。今回の訳者である鈴木主税氏は私も名前を知っているくらい,多くの翻訳を手がけている翻訳家。そして,私は初めて買う「新潮OH!文庫」の1冊。

本書のことは1994年の訳書出版当時に知っていたが,基本的に日本論の類は読まない。今回大学講義のレポートの課題図書に指定して,私も読むことにした。

第一部 よい人生を妨げるもの

 第一章 偽りの現実と閉ざされた社会

 第二章 巨大な生産マシーン

 第三章 無力化した社会の犠牲者たち

 第四章 民主主義に隠された官僚独裁主義

第二部 日本の悲劇的な使命

 第一章 日本の奇妙な現実

 第二章 バブルの真犯人

 第三章 日本の不確実性の時代

第三部 日本はみずからを救えるか?

 第一章 個人のもつ力

 第二章 思想との戦い

 第三章 制度との戦い

 第四章 恐怖の報酬

 第五章 成熟の報酬

暴かれた日本の「素顔」(志摩和生)

本書を含め,著者による日本論は数多く出版され,その多くが日本語訳もされている。1989年に出版された『日本/権力構造の謎』が大きな反響を呼んだという。その本と本書の違いはよく分からないが,恐らく同じような論調で同じようなキーワードを使っているのだろう。確かに,そういわれてみると,本書のキーワードである「説明責任」という言葉は,昨今の選挙戦でもよく使われる言葉のように思う。本書を読んでいても,どこかで聞いたことのあるような話のようにも思う。

本書は日本の政治経済の実態を論じたものだが,やはり基本的な日本論の特徴を兼ね備えていると思う。確かに論じられていることは説得的なものかもしれないが,学術的な意味ではそうではない。事実を述べていると思われる一つ一つの記述が何の根拠に基づいているのか全く不明なのだ。その事実がどこに書いてあって,あるいはどのような調査や取材から得られたものかも判然としない。

前著のタイトルにもなっているように,本書の内容な日本の社会の構造がいかに政治権力・経済権力によって歪められているかを明らかにすることにある。その端的な表現は「官僚制度」である。しかし,ここで官僚というものを私が理解しているかというとそうではない。いわゆる分かったつもりになっている言葉の典型的なものかもしれない。私の理解では官僚とは政治家である。ただ,いわゆる政治家は名前を前面に出して選挙戦を行うことによって選出されるが,官僚は名もなき政治家という印象がある。いわゆる役人のお偉方であり,名のある政治家たちの公約を具体的な政策とし,行政の仕事として翻訳し,実行する人たち。総理大臣が代わっても基本的な政府の政策に大きな違いがないのは,実際にはそうした人たちが政策や行政を担っているからと考える際に重要な役割を果たす人たちのこと。

しかし,本書ではそういう人たちを「政治官僚」と呼び,それ以外の存在の重要性を指摘する。それは「経済官僚」とも呼べるようなものなのだろうか。財閥など大企業が政治家たちに圧力をかけ,自分たちの経済活動に都合のよい社会構造にしたてるというように理解できる。しかし,本書ではけっしてそういう人たちが影で政治を操っているというような言い方はしていない。そういう人たちですら,自分たちは自分たちの金儲けのためではなく,国のために尽くしているのだということを主張しているのだという。しかし,それがいったいどういうことなのか,はっきりとは書いていない。

ともかく,本書は一般論である。抽象論ではない。著者はどのような形で得たものか分からないが,日本に関する知識の寄せ集めの中から著者の頭のなかに構築されたシステムがあり,それを著書としてまとめているのだ。まさに,確たるものとしては実在しない「日本人」や「日本文化」というものを都合のよい素材によって実在物にしたてあげる日本人論,日本文化論と共通するものだと思う。もっといえば,血液型で人間の性格を判断するようなこととも共通する側面を有するともいってもいいと思う。

ただ,本書は学術書ではないので,こういう言語活動は表現の自由の観点からも十分ありえると思うし,読者に対する意識改革という意味ではむしろ歓迎すべき著書である。しかし,著者の真意が必ずしもきちんと伝わるわけではなく,間接的な情報を通じ,また別の日本のステレオタイプを生み出すことにもなるという意味では,やはり本書のようなものに対抗する言説も必要となろう。

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Fields of vision

Stephen Daniels 1993. Fields of vision: Landscape imagery & national identity in England & United States. London: Polity Press, 257p.

地理学者にはいわずとしれた風景研究の古典。意外に思われるかもしれないが(知っている人は知っていると思う),私は読むべき本を意外に読んでいない。コスグローブの『象徴的風景と社会構成体』も読んだのは比較的最近だし。

でも,なるべくなら手元に持っていたいと思い,いくつかの主要な本はAmazonの「ほしい物リスト」に入れておいて,安い中古が出たら買うようにしている。本書もそんな具合に購入したものだが,安いだけあって何色ものボールペンで傍線が引いてあり,鉛筆で英語の書き込みがあったりしている。

最近,会社の仕事で何度か新幹線に乗って大阪に行く機会があり,本書を持参し,車中で読むことにした。その際は半分も読むことができなかったが,やはり毎日往復2時間の通勤時間があるため,混雑する車内で読むのは大変だが,比較的早く読み終えることができた。

1 プリンス・オブ・ウェールズとセント・ポールの影

2 ジョセフ・ライトと権力の光景

3 ハンフリー・レプトンと地所の改良

4 J. M. W. ターナーと国家の循環

5 トーマス・コールと帝国の進路

6 フランシス・パルマーと大陸の合体

7 ジョン・コンスタブルとコンスタブル・カントリーの創造

とはいいながら,あまり内容を理解できたとはいえない。コスグローブの文章も難しいと感じていたが,ダニエルズの文章はそれ以上だった。これまで彼の文章を読んだのは,場所に関する人文主義批判と,景観研究とマルクス主義に関する論文だったため,私にも比較的理解しやすかった。英語では日常会話はできず,英語圏への海外旅行経験のない私にとって,抽象的な英文は比較的読めるようになっているが,より日常的なというか,その土地の歴史や社会に関わる具体的な記述になると知らない単語や言い回しが多くなり,理解が難しくなる。コスグローブの文章は論理展開の難しさなどもあるが,ダニエルズのはそうではない。明らかに私の知識不足での理解不足である。とはいえ,『象徴的風景と社会構成体』の時もそうだったが,ひとまず何が書かれているか,全体を把握しておいて,今後関連することを考察する上でまた部分的に再読すればいい。どっちにしろ,一度で理解するなど都合の良いはなしだ。

とはいえ,本書の目的は非常に分かりやすい。目次をみても分かるように,7つの事例について,それぞれのテーマが論じられる。本書は風景芸術に限定されないが,ともかく風景に関する絵画表現に限定し,1章に1人,人物を取り上げる。本書にほとんど抽象的な議論はないといっていい。

1章は現代の話から始まる。プリンス・オブ・ウェールズってのが私には馴染みがないわけだが,これまで一般的に「皇太子」と訳すように理解していたが,Wikipediaではそれは誤訳だとしている。確かに,英国はUnited Kingdomであり,イングランドがその中心であるはずだが,ウェールズとなっている。しかし,実際にこの名称で呼ばれる人物はイングランド国王の王子のことだし,まあともかく英国の皇室のことがよく分かっていないと正確に理解できないということだ。まあ,そのことはおいておいて,1章ではプリンス・オブ・ウェールズが1989年に発表したという「英国のビジョン」に関する話から始まって,ロンドンにあるセント・ポール寺院がいかにロンドンの象徴的存在であるかということを,17世紀における設計段階まで遡り,第二次世界大戦化における象徴的役割といった現代まで辿る。

第2章でとりあげられるジョセフ・ライトについては,著者が1988年にコスグローブと共に編集した『風景の図像学』のなかで,別の著者が論じている。この本は私が関わって翻訳が出ているので,該当章を読み直した。取り上げられる作品がほとんど同じで,私の理解はほとんど翻訳論文のみの印象になってしまった。ただ,英国風景における産業(革命)の象徴的意味は著者の風景研究の主たるテーマの一つでもある。地質学者とも親交のあった画家ライトは,科学技術がもたらす日常生活の変化を,人工的な光を用いて表現している。

第3章で論じられるハンフリー・レプトンについては,著者がかなり専門的に取り組んでいる人物で,上述した『風景の図像学』における著者自身の章にも登場するため,比較的理解しやすかった。風景を中心とした土地改良家として知られる人物。当然,ここに英国独特の風景美学であるピクチャレスクの感覚が組み込まれます。

第4章はいわずと知れた英国の風景画家J. M. W. ターナーに関する章だが,1844年の作品「雨,蒸気,速度」を中心に論じられる。やはりここにも蒸気機関車という産業の象徴が登場し,ロンドンという都市のテムズ川を鉄橋で渡るという場面だが,この章の国家権力という側面はイマイチ良く理解できなかった。

第5章からアメリカ合衆国が舞台になる。コスグローブの『象徴的風景と社会構成体』もイタリアとともにアメリカが登場するが,どちらも両国の関連性が考慮されている。本書においてはまあ分かりやすいが,英国領としての北米である。米国の風景に関しては,最近バーバラ・ノヴァック『自然と文化』を読んだところだが,本書を読むと風景画や風景をテーマにしたアメリカ研究というのがかなり多数行われていることを知る。本章でとりあげられるトマス・コールは章のタイトルにもなっている「帝国の進路」という連作があり,これ自体非常に興味深い。確かに風景画には春夏秋冬をテーマとした連作というのがよくあるが,コールは米国の風景にアルカディアやローマ的な古代の都市帝国の風景を投じたりしている。

第6章も米国が舞台で,取り上げられるフランシス・パルマーは企業のために要求される図像イメージを提供するような画家。ここでも米国の大陸横断鉄道がテーマとなっている。

第7章では再び英国に戻り,またまたいわずと知れた英国の風景画家コンスタブルが登場し,こちらは画家そのものというよりはその後の時代の作品の流用やコンスタブルが描いた農村風景につけられた名称「コンスタブル・カントリー」の系譜を辿る。日本でも広重的風景の研究なんてのができそうだ(すでにあるのかもしれない)。

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森林の思考・砂漠の思考

鈴木秀夫 1978. 『森林の思考・砂漠の思考』日本放送出版協会,222p.,700円.

著者は地理学者。とはいえ,その後言語学者としても広く名を知られることになる。著者の本をきちんと読むのは今回が初めて。大学院生時代に環境地理学を専攻する同級生の書棚に,著者の『超越者と風土』と『風土の構造』があり,その存在は知っていたが,当時は環境決定論に対する拒否反応のようなものがあり,この著者もそのレッテルをつけていた。

しかし,著者の言語研究はきちんと読んでみたいと思うようになったし,彼の議論がどのように環境決定論なのかも見極める必要がある。今回は「日本文化論」の1冊として本書を読むことにした。NHKブックスの1冊。

第一章 日本文化の森林的性格

第二章 変化する森林と砂漠

第三章 東西の差を生ぜしめたもの

第四章 日本における「砂漠化」の進行

第五章 日本の森林とその意味

第六章 砂漠的思考技術としての分布図

巻頭の「はしがき」によれば,本書は学術書として書かれた『超越者と風土』を一般向けに書き直したものだとのこと。そして,その一部はNHK教育テレビの「みんなの科学」という番組で放映された内容でもあるという。

著者の前著でどちらも「風土」という言葉が使われているように,そこには和辻哲郎の『風土』の影響がある。『風土』は副題に「人間学的考察」とあるように,自然科学の書ではない。あくまでも人間の性質について論じる名目で,世界を「モンスーン」「沙漠」「牧場」と分類し,モンスーンを日本を含むアジアとして,牧場をヨーロッパとして論じている。本書もそれに近い形で,洋の東西に分け,東洋を森林に,西洋を砂漠に分類する。そして,前著の「超越者」が「神」なのであろう。本書では超越者の概念は登場しないが,第三章では,宗教の違いと神の違いについて論じられている。

なぜ,和辻が牧場としたヨーロッパを砂漠としているかというと,そもそもヨーロッパを支配することになるユダヤ教およびキリスト教の発祥の地が砂漠にあるからだという。砂漠で産まれた宗教だからこそ,二者択一(生きるか死ぬか)の厳しい選択が人間に要求され,多神教ではなく一神教に辿り着くのだという。

第四章のタイトルにあるように,本書中盤では,日本で「砂漠化」が進行していると主張する。しかし,これは自然地理的な意味ではない。要するに,明治維新以降顕著に進んだヨーロッパ化。ヨーロッパ文明は砂漠で産まれたキリスト教に基づくものであり,著しく砂漠的な特徴を持つもので,それが日本に浸透するさまを「砂漠化」と呼んでいるのだ。

本書を読むと,内村鑑三『地人論』やジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』などを思い出す。これらは十把一絡げにいえば「環境決定論」といえるが,要は,自然と人間に関するさまざまな知識を持つ者が,「同じ場所にあること」を理由にその関連性を検討し始めると,それがかなり自由度を持って説得的な物語を作ることを可能にするということなのかもしれない。ともかく本書はある程度説得力を持ちながらも,冷静に考えると「そんなバカな」と思える内容が多く,どこからが科学的根拠に基づくのか,判断できなくなる。

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風景の事典

千田 稔・前田良一・内田忠賢編 2001. 『風景の事典』古今書院321p.,2600円.

この年は,本書と同じ編者の2人,千田氏と内田氏の監訳によって,地人書房から『風景の図像学』が出版された。私も2章ほど参加している。古今書院は東京の,地人書房は京都の地理学専門出版社だ。『風景の図像学』は今でも地理学における風景・景観研究の代表的な研究論文集だが,本書は地理学者が多く執筆に参加しているものの,学術的な側面よりも「読み物」として楽しいというものを目指したもの。321ページで110項目だから,辞書と論文集の間くらいか。1項目に3-4ページがあてられている。

せっかくなので,110の項目を全て書き写してみた。

はじめに

第一章 風景の周辺

風景/景観/原風景/『風土』/景観生態学/スケッチ/絵図/心象風景/人工環境/名所図会/『日本風景論』

第二章 風景の見方・とらえ方

遠近法/歌枕/絶景/遠景/幻影/国見/洛中洛外図/金沢八景/ナショナルトラスト/サウンドスケープ/『作庭記』/風土記/戦場/初雪/総合設計制度/近江八景/横浜絵

第三章 シンボルとしての風景

奥/夢/雲/銀座/一等地/山の手/都市/下町/田舎/リゾート/トンネル/塔/丸屋根/川/旗

第四章 自然と生きる風景

海/半島/浜辺/湖/沼/湿地/滝/山/坂/森/熱帯雨林/照葉樹林/丘/砂丘・砂漠/原野/花畑/里山/水郷

第五章 風景となった歴史

歴史的景観/歴史街道/城下町/門前町/寺町/環濠集落/旧市街/跡地/条里制/条坊制/遺跡/古墳/ごみ/散村

第六章 非日常の風景

神仙郷/巡礼/地獄/無縁の地(場所)/魔所/異界/不思議の場所/神奈備山/神社/境内/広場/辻/墓地

第七章 暮らしの中の風景

別荘地/果樹園/病院/ワンルーム/顔/家族/散歩/張り紙/おんぶ/灯/ロードサイド/ニュータウン

第八章 集いの風景

盛り場/百貨店/スーパーマーケット/ホテル/渡し場/酒場/祭り/港(町)/レジャーランド

執筆陣は以下の通り。肩書きは当時。

内田忠賢(地理学教員)/内山哲久(会社員)/右梅恵津子(フリーライター)/小田匡保(地理学教員)/佐野静代(地理学教員)/杉谷 隆(地理学教員)/千田 稔(地理学教員)/土居 浩(地理学教員)/廣重友子(地理学大学院生)/前田良一(ジャーナリスト)/松田隆典(地理学教員)/山田志乃布(地理学教員)/山近久美子(地理学教員)/山近博義(地理学教員)

編者の千田 稔氏は地理学のなかの出世頭。地理学専門出版社以外にも多くの著作があり,最終的には国際日本文化研究センターの教授を勤めた。学術的な内容から一般書まで著作は多岐にわたる。内田氏も学術的な論文よりはくだけた文章を書くのが得意な人物。その地理学者2人にジャーナリストという肩書きの前田氏が加わり,執筆陣にもフリーライターが含まれている。

確かに,本書は堅苦しい議論は抜きに読み物として編集されている。私のような読者でもいくつかの項目は楽しく読めた。しかし,「読み物として楽しい」というのはどのような読者を想定しているのであろうか。この出版社の読者であれば,やはり学校の地理の教員だろうか。まあ,そういうことにしておきましょう。

項目は多岐にわたるが,同じ章に自然地理学的項目が集中したり,歴史地理学的項目が集中したりして,執筆陣のなかの唯一の自然地理学者である杉谷氏の文章が続いたりする。杉谷氏は人文地理学の領域にもある程度精通していて本書の執筆者としては適していると思うが,文体がちょっと皮肉っぽいところがあり,鼻につくところもある。

本書は丁寧に項目が選ばれたり,それに適した執筆陣を選んだりという編集作業にさほど重きを置いていないように思う。むしろ,編者の知り合いの中から,本書の目的に賛同してくれる執筆陣に声をかけ,ある程度項目の選出と内容は執筆者に任されている,そんな印象を受ける。まあ,少なくとも私のような読者にはあまり「読んで楽しめる」本ではなかった。個人的には廣重さんの文章はけっこう楽しめた。

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マンダラ国家から国民国家へ

早瀬晋三 2012. 『マンダラ国家から国民国家へ――東南アジア史のなかの第一次世界大戦』人文書院,170p.,1600円.

本書は,京都大学の共同研究の成果として「レクチャー 第一次世界大戦を考える」というシリーズの一冊。第一次世界大戦といえば,どうしてもヨーロッパが中心になり,このシリーズでもヨーロッパ関連のものが多いが,日本のものが1冊と,そして東南アジアを中心にした本書がある。

第一次世界大戦と東南アジアの状況という歴史学的テーマはちょっとピンと来ないが,著者によれば,それは歴史学においてもそうらしく,あまり研究が進んでおらず,まとまった資料がないという。という意味においては,小冊子ながら本書の意義は大きいという。

第1章 マンダラ国家の近代植民地化

第2章 東南アジアと第一次世界大戦

第3章 戦後の民族運動と国民国家の形成

第4章 歴史教科書のなかの第一次世界対戦

おわりに

ちょっと読み終わってから時間が経ってしまい,詳細をうまく説明できないが,私にとってもとても有意義な読書だった。本書は日本の歴史家による執筆であり,当然日本との関係の上で第一次世界大戦という時代の東南アジアを考えている。

第一次世界大戦中の日本についてはこのシリーズの山室信一『複合戦争と総力戦の断層――日本にとっての第一次世界大戦』を読みたいところだが,日本は直接は第一次世界大戦に参加しないものの,日清戦争,日露戦争を経て,周辺諸国への軍事侵攻を進め,軍国主義として太平洋戦争へと突入していく頃である。軍事侵攻という意味では,東南アジアとも関係性を深めるが,そこに第一次世界大戦が大きく関わっているというのが本書のテーマ。

タイ(当時はシャム)は欧米諸国からの植民地化を逃れているが,かといって周囲が植民地化されるなかで,その勢力から無縁でいられたわけではない。自国が近代化を遂げ,また領土のいくらかを交換条件として差し出したりしている。ともかく,東南アジア諸国はオランダ,イギリス,フランスを中心に,かつてスペインの植民地だったフィリピンも米国の数少ない植民地になっていき,そこに日本が侵攻してくるという非常に複雑な状況があった。

第一次世界大戦はヨーロッパの戦争ではあるが,ヨーロッパ諸国の支配下にあった東南アジアにとっては,支配力が弱まることが想定される絶好の機会である。ということで,東南アジア各地で独立に向けた運動が活発化し,その際に日本の侵攻をもうまく利用しようとしたということだ。

まあ,以上は私の勝手な解釈であり,本書の記述はいずれも史実に基づいて進められ,そこから確実にいえる以上のことは書かないという慎重な態度で貫かれている。そういう意味では少し物足りなさも感じるが,著者の真摯な姿勢も感じることのできる本でした。

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あいまいな日本の私

大江健三郎 1995. 『あいまいな日本の私』岩波書店,232p.,660円.

今期,大学の非常勤でテッサ・モーリス=スズキの『日本を再発明する』を教科書として使っている。今回はとてもいい選択だったと思う。とても授業がやりやすいし,学生の反応もまずまず。もちろん,理解が浅い部分もあるが,そのくらいの難しさを兼ね備えているところも理想的。

ということで,レポートのテーマとして「日本論・日本人論・日本文化論を読む」という課題を設定した。この件については,西川長夫『地球時代の民族=文化理論』を読んだ時にも,主要な日本論については読んでおかなくてはと思ったが,今回そのいくつかをレポートの課題図書として設定することで自らも読むことにした。

まず,読み始めたのがこちら。ノーベル文学賞を受賞したときの公演が書名となっているように,1994年の受賞前後の公演の内容を収録したもの。岩波新書の一冊です。

あいまいな日本の私(1994年12月,ストックホルム・ノーベル賞授賞式)

癒される者(1994年10月,東京・国際医療フォーラム)

新しい光の音楽と深まりについて(1994年10月,東京・サントリーホール)

「家族のきずな」の両義性(1994年11月,東京・上智大学)

井伏さんの祈りとリアリズム(1994年11月,広島)

日米の新しい文化関係のために(1992年5月,シカゴ大学)

北欧で日本文化を語る(1992年10月,北欧諸国)

回路を閉じた日本人ではなく(1993年5月,ニューヨーク)

世界文学は日本文学たりうるか?(1994年10月,京都・国際日本文化研究センター)

こうして目次を見ると,公演がかなり多いことに驚きます。ノーベル賞を受賞するくらいの作家になると公演も主な収入源になるんですかね。大江健三郎の作品はきちんと読んだことがない。以前,母の家に泊まった時に,暇を持て余して書棚にあった日本文学全集の大江の巻をちょっと読んだが,非常に驚いて,今度改めて読もうと思った以来,岩波現代選書の『小説の方法』は読んだが,小説作品には手を出せていない。しかも,『小説の方法』を読んで,彼がミラン・クンデラやバフチンを読んでいることを知って,やはりノーベル賞を受賞するくらいだから,日本の小説家としては珍しく批評もしっかりしている人だという認識は持っていた。

目次からも分かるが,講演先でその場にあったテーマを選んで素晴らしい話をしている。しかし,ノーベル賞受賞が決まってからはあまりにも頻繁に公演があったので,やはり内容が重複しているのは仕方がない。また,彼には障害を持つ息子さんがいて,そのこと自体を作品に書いているということは知っていたが,その息子さんが音楽家としてCDも出しているという話は初めて知って,しかもその話をいろんなところでしているということだ。

まあともかく,大江健三郎という作家は国内外にさまざまな目を向けている世界的視野に立った人であるということが再認識できる一冊です。一度きちんと彼の作品を読まなくてはと思いました。

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