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文化としての他者

ガヤトリ・C・スピヴァック著,鈴木 聡・大野雅子・鵜飼信光・片岡 信訳 1990. 『文化としての他者』紀伊国屋書店,438p.,3996円.

おそらく20年くらい前に購入し,読み始めてみたものの,途中で断念した本。社会学の講義でちょっとフェミニズムの話をするのを機会に読み直すことを決意。ようやく読み終えることができた。

第一部

1 刃としての文字=手紙

2 フェミニズム的な読みの発見――ダンテ-イェイツ

3 フェミニズムと批評理論

第二部

4 説明と文化――雑考

5 解釈の政治学

6 国際的枠組みにおけるフランス・フェミニズム

7 〈価値〉の問題をめぐる雑駁な考察

第三部

8 マハスウェータ・デヴィ作「ドラウパーディ」

9 マハスウェータ・デヴィ作「乳を与える女」

10 副次的なものの文学的表象――第三世界の女性のテクスト

再読し始めて,なぜ断念してしまったかが分かった。第一部は批評理論に関するもので,私にとっては比較的馴染みのあるはずだった。しかし,予想に反しその内容は親しみがなく,再読しても結局理解には達しなかった。むしろ第二部の方が読みやすく,なんとか読み終えることができた。

それにしても,スピヴァックの文体はやはり率直さという意味でフェミニズム的なのだろうか。議論の本題に入る前に,なぜその本題について語る必要があるのか,またシンポジウムの場での報告だったりすると,その場の雰囲気や自分の役回りなどについて詳細に報告しているのだ。場合によってはその本題がなんだったのか分からなくなり,それに付随する事項の方が重要になったりする。

訳者あとがきにも書いてあったが,本書はスピヴァックの思想的源泉を明確に意識しながら読むことができる。スピヴァクはデリダの『グラマトロジーについて』の英語翻訳者だが,その訳者による序文は『デリダ論』として平凡社ライブラリーから翻訳出版されている。それから,フロイト−ラカンの精神分析。こちらは直接というよりは精神分析派フェミニズムの検討からきているように思われる。

7章では思いの外,マルクスの概説のような記述が続く。私がこれまで読んできたような思想家は,マルクス,フロイトといったビッグネームに対しては一定の距離を置いて,彼らの思想を現代においてどう乗り越えていくかという批判的観点が常にあるような気がする。あるいは,マルクスとフロイトというある意味相容れない思想をどう結び付けていくかというのを現代的な論点としているが,スピヴァクはこうした思想家に対する批判的な態度はあまりみられない。逆に現代社会の女性の扱いや自分が参加している学術会議のあり方に対しては非常に厳しい批判的態度で臨んでいる。まあ,そういう意味でも独特な文体となっている。

第三部は10章で「副次的なもの」と訳されているが,これは「サバルタン」のことである。8章と9章はベンガーリー語(訳本ではこう表記されているが,ベンガル語のことか?)という,スピヴァク自身の母国語の小説が翻訳されている。また,10章はそうした文学作品をポストコロニアルな文脈で解釈する方策をいくつか検討している。

原文で読んでいない私が偉そうにはいえないが,1990年に翻訳された本書には訳語に問題がありそうだ。フランス語の単語の最後の子音を発音しないってのは私でも知っているが,エレーヌ・シクスーの名前を「シクスース」と表記していたり,多くの日本語訳文献を示してくれてはいるが,ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が抜けていたり(弟であるペリー・アンダーソンの『古代から封建へ』は挙がっている)。それから,本書は全訳ではなく,いくつかの章が文章の問題から訳出されていません。

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