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2017年3月

Remaking Human Geography

Kobayashi,A. and Mackenzie, S. eds. 1989. Remaking Human Geography. Winchestre: Union Hyman, 273p.

なんとなく懐古主義で、地理学でかつて出た論文集を少しずつ買い集め、読んでいこうと思っている。値段との相談もあるが、まず購入したのが本書と『Horizens in Human Geography』。本書は大学できちんと読んだ記憶はないが、編者であるコバヤシの書いた9章だけは強烈に記憶にあって、風景・景観論の重要文献として再読する必要を感じていた。

改めて、序章から読んでみると、この論文集がきちんと私の記憶に残っていた理由がわかった。この本は理論的、方法論的、認識論的な一貫性を持って編集されていて、寄稿者たちも編者の意図に沿った形で書かれた文章を寄せている、という理想的な論文集だからである。日本の地理学ではこういう論文集は皆無といってよい。編者が2人とも女性研究者だというのも本書の大きな魅力の一つである。

さて、その理論的云々については、要するに1970年前後に英語圏地理学の大きな転換点となって2つの潮流である、人文主義地理学とマルクス主義地理学が、1980年代になると主にマルクス主義の立場から人文主義地理学に対する批判がなされるわけだが、1980年代後半になると単なる批判ではなく、それを乗り越えて新しい段階へということになり、本書はそういう文脈で編集されている。

人文主義とマルクス主義は、この頃ギデンズの構造化理論の影響もあり、主意主義と決定論という別の二元論としても語られるようになる。また別の表現でいえば、行為主体と構造という言い方もあり、本書でもそちらに重点を置いた論考もあります。日本でも1993年に雑誌『地理』で「社会地理学とその周辺」という特集を組み、私も記録係として参加した座談会などもあり、この雑誌がアカデミアにも多少協力していた時代でもあった。

本書の内容、および執筆者は以下の通りである。

序章:最近の社会地理学における人文主義と史的唯物論(コバヤシ, A.・マッケンジー, S.)

第一部:問題

1 リストラクチュアリングにおける社会的・経済的要請:地理学的視角(ブラッドバリィ, J.)

2 仕事と生活の関係を再構築する:環境的行為主体としての女性、地理学分析としてのフェミニズム(マッケンジー, S.)

3 理論、仮説、説明と行為:都市計画の事例(ウルフ, J. M.)

4 人文地理学における統合:史的唯物論の展開(ハリス, R.)

第二部:方法

5 定量的技術と人文主義-史的唯物論の視角(プラット, G.)

6 史的唯物論の理論と測定(フット, S.・リグビィ, D.・ウェバー, M.)

7 経済地理学における構造と主体、そして経済的価値の理論(バーンズ, T.)

8 反応的方法、地理的想像力、そして景観の研究(レルフ, E.)

9 弁証法的景観の批判(コバヤシ, A.)

第三部:方向性

10 人文主義の歴史的考察、地理学における史的唯物論(コスグローヴ, D.)

11 地理学における人文主義と史的唯物論の対話(セイヤー, A.)

12 人文地理学における理論に対する断片、一貫性、限界(レイ, D.)

これまた、読み終わってから随分と時間が経ってしまったので、詳細な説明はできませんが、印象深かった章を中心に書いていきましょう。

1章は、ドリーン・マッシィが『空間的分業』を出版したのが1984年だったと思うが、リストラクチュアリングという言葉が英国ではやったのもこの時期です。日本ではその後バブルの崩壊とともに、非常に否定的な意味で「リストラ」って言葉が流行りましたが。ちなみに、1章の著者は本書の出版を見ることなく亡くなってしまったらしく、冒頭に置かれているようです。

本書への寄稿者に女性が多いのは偶然ではない。もちろん、編者が女性ということもあるが、地理学における人文主義とマルクス主義が成熟するなかで欠けていたのがフェミニズムの視点であり、地理学でフェミニズムが盛り上がりを見せるようになったのも1980年代であり、本書ではフェミニズムが前面に強調されているわけではないが、重要である。まず、2章は編者の1人によるものだが、カナダでの調査事例に基づいた、家庭で仕事をする女性(子守から内職まで)の実態を報告している。

3章は打って変わって理論的な短い文章で、都市計画分野における人文主義-唯物論論争を取り上げている。まあ、都市計画をめぐっては、上からか下からか、専門家と地域住民、理論と実践など、最近は特に後者の重要性が強調されていますね。4章は「人文地理学の統合」なんてタイトルだから理論的なものかと思いきや、またこちらもカナダのキングストンが登場し、その新左翼運動の事例を通して考えるという内容。

第二部「方法」の冒頭論文である5章は、2004年に来日してお会いしたこともあるプラットさんの論文。人文主義もマルクス主義もどちらかというと、計量地理学に相対する形で質的な分析が強調されていたが、その両者における「量的技術」を取り上げるというのが彼女らしい。しかも、「技術」といいながらその根本思想に関わるもので、「原子論」や「還元」といった議論が展開されています。6章も続いて、史的唯物論における理論と計測ということで、カナダの産業、米国の鉄鋼業を事例に経済的な指標の計測を行っています。

7章は当時経済地理学における思想的な研究を進めていたバーンズによるもの。まさに「構造と主体」の問題をタイトルに掲げています。節のタイトルを列挙すると、「マルクスによる価値の労働理論」、「新古典派経済学」、「建築的および文脈的アプローチ」、「スラッファの無価値理論」と続く。スラッファという経済学者は知らなかった。

8章は『場所の現象学』などの著者として知られるレルフによる景観に関する論考。正直、邦訳されている2冊以外にきちんとレルフの文章を読んだことがないが、この章はかなり印象が違った。レルフの景観論は、美術史的な基礎を持つコスグローヴに対して、現象学に依拠する没歴史的な考えをするものだと思っていたが、この章では、コスグローヴも好んで取り上げるラスキンのほか、ハイデガーやヴィトゲンシュタインなども取り上げられる。芸術についてや、地理的想像力、「見る方法」などコスグローヴ的な用語が登場します。決してわかりやすい文章ではありませんが、新鮮でした。

9章が当初私の目当てだった、コバヤシによる論考。私は地理学における景観に関する理論的な論文をいくつか翻訳して本にできたらいいなあと密かに考えていますが、この文章を再読して強くその中に含みたいと思った次第。「弁証法的景観批判」というタイトルは、サルトルの『弁証法的理性批判』からきている。このサルトルのタイトルはもちろんカントの『純粋理性批判』からきているわけだが、その思想の系譜で景観も考える必要があるという短いながら、これまで地理学における景観論とはまた違った観点で非常に刺激的。

「方向性」と題された第三部に入りますが、10章も引き続き景観研究者のコスグローヴの執筆章。でも、景観がテーマではありません。コスグローヴはルネサンス期のイタリア研究者でもありますが、「人文主義」という概念の歴史的考察。なぜか1970年代の現象学に依拠した人文地理学に「人文主義」という呼称が使われたわけですが、そもそも「humanism」という言葉はウィキペディアによれば、「ルネサンス期において、ギリシア・ローマの古典文芸や聖書原典の研究を元に、神や人間の本質を考察した知識人のこと。」と説明される。フランス人が多かったことから「ユマニスト」とカナ表記されます。まあ、「人間の本質を考察する」という点からすれば、1970年代の人文主義地理学に当てはまりそうですが、時代的な特異性を主張していて面白い。

11章は地理学者でありながら『社会科学における方法』という主著を持つセイヤーの文章。まだ、この本は読んでいませんが、最近彼の文章を読む機会が多い(最近の文章ではありませんが)。どの論文も哲学的考察が深くて難しいが刺激的。本書はそろそろまとめに入っていて、このセイヤーの章と12章のレイによる章が総括的な内容になっています。抽象的な議論が中心で、ちょっと内容を詳しく思い出せません。人文主義やマルクス主義の盛り上がりを側で見ていたセイヤーと、人文主義地理学を、トゥアンやレルフとは別のルーツから推し進めた社会地理学者であった当事者であるレイによる回顧というところが面白い。

編者たちによるあとがきなどはありませんが、本当によく編集されている論文集だと改めて思う。これは編者の力量によるところも大きいですが、やはり編者の求めに応じてこれだけの文章を寄せられる英語圏地理学の層の厚さを改めて実感する読書でした。

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近代フランスの歴史

谷川 稔・渡辺和行編 2006. 『近代フランスの歴史――国民国家形成の彼方に』ミネルヴァ書房,366p.,3200円.

先日、宮島 喬さんの本を紹介したが、同じ講義の昨年度の同じ時期に購入したのが本書。エスニシティの話をするのにやはりEUの話をしなくてはならないと思ったが、ヨーロッパ全体となると範囲が広すぎるので、一つに国に絞ろうと思った結果思いついたのがフランス。しかし、本書を購入したものの、冬休みに読もうと思っていたものの、結局読めずじまいで、1年後に読むことになった。

本書は1993年に出版された服部春彦・谷川 稔編『フランス近代史』の全面改訂新版ということのようだ。

序章 「近代フランスの歴史」が投げかけるもの(谷川 稔)

第Ⅰ部 国民国家の成立と展開

第一章 〈アンシアン・レジーム〉のフランスとヨーロッパ(高澤紀恵)

第二章 フランス革命とナポレオン帝政(谷川 稔/上垣 豊)

第三章 カトリック王政からブルジョワ王政へ(上垣 豊)

第四章 社会共和国の夢から産業帝政へ(谷川 稔)

第五章 対独敗戦から急進共和国へ(長井伸仁)

第六章 ふたつの世界大戦とフランス社会(渡辺和行)

第七章 第二次世界大戦後の政治と社会(中山洋平)

第Ⅱ部 もうひとつの近代フランス

第八章 女・男・子どもの関係史(長谷川まゆ帆)

第九章 植民地帝国フランス(平野千菓子)

第十章 移民と外国人のフランス(渡辺和行)

第十一章 フランス「国民経済」の発展と変容(中島俊克)

終章 二一世紀のフランス(渡辺和行)

以前にイスラーム史の概説書も紹介したが、こちらも各章を異なる著者が分担してはいるが、一冊読むとフランスの通史がわかるという意味では非常に堅い教科書的な本であり、読み終えるまでに時間がかかった。

もちろん、こういう本は一読して全て頭に入るわけではなく、必要に応じてまた読み返すといった辞書的な意味もあるのだと思うが、得るところは大きかった。読み終えてからだいぶ時間が経ってしまって、具体的なことはあまり書けないが。

近代期のフランスの話は文化史的な研究書で結構触れてきたつもりだが、政治史となるとなかなかすっと頭に入ってこない。そもそも、フランス革命という世界史的に大きな歴史の舞台となったフランスなのにすぐに王政復古だの、ナポレオン帝政だのがやってきて、本当にフランス革命が民主革命なのかと思ってしまう。まあ、ただ単にブルジョワ革命だということかもしれないが。ともかく、複雑すぎて簡単には理解できない。イギリスとの関係、ドイツとの関係、二度の世界大戦におけるフランスの立ち位置ということに関しても、本書でその複雑さを知るたびに余計スッキリとは理解できなくなってくる。

アブー=ルゴド『ヨーロッパ派遣以前』を読んでから、ヨーロッパの歴史だけ学んでもしょうがないと思う一方で、こういう本を読むと、ヨーロッパだけでもなかなか十分な理解にたどり着けない、と思ってしまう。もう私も50歳を間近にして、こんなことでよいのだろうかと思ってしまう次第。

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多文化であることとは

宮島 崇 2014. 『多文化であることとは――新しい市民社会の条件』岩波書店,279p.,2300円.

某大学の非常勤で、エスニシティをテーマにした社会学の講義をしているが、今年度のまとめの話をどうしようかということで、選んだ本が本書。社会学の講義ということで、ブルデューの話はあまりしていないが、デュルケームの話はしているし、書店で見かけた時にシティズンシップの話など、重要な論点を話していないし、ヨーロッパの事例についても話はしていないので、本書は丁度良いと思った。

岩波現代全書の1冊ということで、著者もはしがきで「本書は研究書ではないので、自分の認識や訴えたいことを少し自由に書かせてもらった」とある。しかし、長年研究書を書いてきた著者だから自由な記述はほんの「少し」に過ぎなかった印象。私自身はあまり宮島社会学を読んでこなかったが、本書は彼のこれまでの研究のエッセンスが詰まっているようにも感じた。

序章 多文化であることとは

第1章 多文化あるいは差異の社会学

第2章 多文化シティズンシップへ――国籍を相対化する

第3章 マイノリティと差異の承認

第4章 多文化アプローチの行方とヨーロッパの移民マイノリティ

第5章 ジェンダーと文化

第6章 マイグレーションと子ども――「子どもの権利」の視点から

第7章 日本社会の国際化、多文化化

第8章 「多文化」の現在――共生が進むか、ナショナリズムへの反転か

エスニシティに関する議論というものは近年理論的な議論が進展していて、○○人や△△民族というカテゴリーを所与のものとはできない状況にある。しかし、いざ具体的な事例となると結局は○○人や△△民族という語が当たり前のように出てきてしまい、その複雑な状況をできるだけわかりやすく説明することに終始しがちのように感じる。

本書でも事例は多く登場するが、その歴史的な経緯を詳しく説明することより、将来的にどうすれば解決できるのかという糸口を探そうというスタンスなので、認識論的な立場がしっかりしている。そして、自身の研究としてはヨーロッパを基礎としながらもその経験を活かして、日本での状況を将来を見据えて理解し、解決していこうという著者の姿勢は素晴らしいと思う。

シティズンシップとは、私が最近読んだテッサ・モーリス=スズキのいくつかの著書にも登場したが、いわゆる市民権civil rightsとは違うようだ。ヨーロッパでいうところの市民権は、日本でいう国籍と近い概念だと思うが、シティズンシップとは生活者の権利である。もちろんそれは政治的権利であるが、狭い意味での政治ではなく、広い意味での政治。国政でいうと、よく納税の義務と参政の権利というが、多くの国で外国人は納税の義務は課せられるが、参政権は与えられていない。それは国家というのが国民のものである限り、国の行く末を決める議決権を外国人にも与えるということ自体が国民国家という理念に合わないからだと思う。

しかし、国政ではなく、地方政治ということを考えると、労働移民であっても、かれらは労働者であるだけでなく、生活者でもある。国の行く末に意見する必要性は感じなくても、地方行政に外国人の意見が反映されるべきといいう考えは、国民国家の理念と相容れないものではないと思う。まあ、この辺のことは私の理解の範囲で書いていることだが、近年シティズンシップが注目されるというのはそういうことらしい。

ともかく、学ぶことの多い読書でした。宮島社会学もきちんと学ばなくてはと思った次第。しかし、デュルケームからブルデューまで、フランス社会学に半生を捧げ、フィールドとしてもヨーロッパと向き合ってきた著者ですから、その枠組みから抜け出ることが難しいのは確か。本書でも、ヨーロッパ至上主義的な立場は取らないといいながらも、ここかしこに先進的なヨーロッパの思想や実践から日本が学ぶことは多いといった類の記述がみられる。もちろん、著者は漠然としたヨーロッパ思想の信仰者ではなく、具体的なヨーロッパ人研究者の学説を検討してきたわけだから、話は単純ではなく、自身が最も精通している観点から物事をみるというのは決して間違ったことではない。ただ、読者がそうした著者の立場を少しでも理解した上で、本書の主張も単純化せずに捉えることが必要なのかもしれない。

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キャラクター文化入門

暮沢剛巳 2010. 『キャラクター文化入門』NTT出版,226p.,1800円.

このblogでもお知らせしましたが、今年に入ってとある研究会で一度報告する機会があった。その報告内容は自主的に決めたものではなく、研究者の知人との飲み会のなかでなぜか一方的に決められたもの。私がアニメを題材に話をすることになったのだ。もちろん、このblogで書いているように、個人的な趣味として映画は好きだし、アニメ作品を避けるような人間ではない。しかし、アニメ作品を積極的に観るわけではない。ただ、その飲み会の席で上映前の『君の名は。』の話で盛り上がり、新海 誠作品はこれまで比較的観ていたので、その研究会は『言の葉の庭』の上映会+私の話少しということになった。

上映を主とするにしても、その後の議論として何も題材がないのではしょうがないので、新海作品のクラウドスケープを論じた加藤幹郎『表象と批評』はすでに抑えてあったが、他にいくつか事前に読もうと思って、思いついたのが本書。

著者の暮沢さんは現代美術の批評家として名高い。私もたまたま彼を知っていくつか著書も読んだことがある。『アートピック・サイト』という2010年の著作は芸術(アート)を場所(トポス)と関連づけたもの。『「風景」という虚構』という2005年の著作はタイトル通り風景論、ということで非常に地理学に親和性のある批評家ということで、一方的に親近感を持っている。

そういえば、彼がキャラクターに関する本を書いていたなと思い出し、Amazonで調べると、「なか見!検索⤵︎」があったので、確認するとやはり「セカイ系」についても論じられていた、ということで迷わず購入。私自身は「セカイ系」なることばんも知らなかったのだが、上述した飲み会の席で、私にアニメ論を進めた人物が新海作品を「セカイ系」と表現していて、気になっていた言葉。

第一章 キャラクターとは何か

第二章 キミとセカイの戦いでは、世界を支援せよ――セカイ系とキャラクター

第三章 インターフェイスとしてにのキャラクター――オタク文化とヤンキー文化

第四章 現在のキャラクターたち

おわりに

本書は当然現代美術批評ではない。そして単なるアニメ論ではない。著者はどうやらこの領域にかなり精通しているようで、取り上げられるのはアニメだけでなく、マンガ、ライトノベル、ゲームまでが中心であり、第二章で論じられる。この個人的趣味を、単なる評論ではなく、ある意味学術的な論証に耐えうる議論にまで高めようとする評論とするべく、第一章がある。そこでは、大塚英志や東 浩紀などの議論を丁寧に辿っている。そこで一つ納得したのは、「キャラ」と「キャラクター」とを分ける伊藤剛の議論。その著書『テヅカ・イズ・デッド』という書名は知っていたけど、そのなかの議論らしい。「キャラ」というのはいつから巷に流通している言葉か分からないが、確かに「キャラクター」という本来の意味が形骸化して、それだけで独立した語として成立しているという感覚はあった。例えば、ディズニーのミッキーマウスなどは本来はアニメの中できちんとした人格を持ったネズミだ。日本でもかつては輸入アニメとして放映され、それを通して人々はミッキーの魅力に惹かれていたのだと思う。しかし、私たち以降の世代はアニメをきちんと観ることもなく、ディズニーランドや各種商品に登場する図像だけのミッキーを愛している(私は愛していませんが)。その日本製といえばサンリオのキャラクターだ。こちらもおそらくかつてはアニメのようなストーリーがあったのだろうが、ともかく表情がないその図像は多様な人格を表現するのに適しているとは言い難い。

第二章がセカイ系の解説に当てられる。まあ、この言葉を聞いた時に『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発するものだという想像はできていたが、世間ではその通りらしい。私の場合、『エヴァ』は新劇場版を1作観ただけだから、何が新しいのかよく理解できていないが、新海誠の『雲のむこう、約束の場所』と実写版映画の『最終兵器彼女』は観ていたので、なんとなくは理解できた。私のような人間は『エヴァ』を『機動戦士ガンダム』のパクリだと思ってしまうのだが、ガンダムがなぜ幼い少年少女たちが世界戦争に巻き込まれるのかというところを丁寧に描いて状況設定をしているのに対し、その辺の物語的な周到さを省略してしまった上で作品が成立するというのが、ある意味でまさにリオタール的なポストモダンと言えるのかもしれない。

第三章は独自の路線を走っていく。正当なアニメ研究の流れのキャラクター論では取り上げられないような展開。アニメといえばオタク文化だが、オタク文化の対極にも位置付けられそうな、ヤンキー文化を取り上げ、キャラクターという共通項で2つの文化の共通性を見出す。その具体例が痛車とパチンコ。第四章は最近話題の聖地巡礼や男の娘などを取り上げ、現在の状況を確認している。相変わらず、暮沢さんの本は発想が豊かで、読者のことを考えつつ、その予想を超えていくような展開で刺激的です。

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