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2018年3月

都市は人類最高の発明である

グレイザー, E.著,山形浩生訳 2012. 『都市は人類最高の発明である』NTT出版,484p.3,564円.

 

最近の読書日記で、原著が1961年に出版されたジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』、2002年に出版されたフロリダの『クリエイティブ資本論』を紹介した。
本書もその系譜に連ねることができるもので、著者の「謝辞」の表現を使えば「通俗書」である。最近の読書は、謝辞や訳者あとがきのようなものを先に読まず、1ページ目から読むようにしているので、気づかなかったが、著者にとって通俗書は一つのチェレンジだったようだ。それまでは、基本的に学術論文を発表の場としていたらしい。そのせいか、本書はまさに通俗書となっており、そういう意味でジェイコブズやフロリダと共通した雰囲気を持っている。いろんな事例が次から次へと登場し、それらが都合の良いように著者の主張を補強しているのだ。
ところで、これも1ページ目から読んだために気づかなかったが、学術書を煩雑なものにしている注釈が本書では巻末にまとめられている。しかも、ふつうは「1)」などと本文に示されているのだが、それがないのだ。巻末に該当するページの該当する文章が抜き出されていて、それに文献が省略形で示されている。詳細な文献表はそのまた巻末にまとめられているのだ。一方、本文では「ある研究者によると」とか「などといわれている」ような書き方で、この注釈に気づく前は「なんていい加減なんだ!」と思ったが、ともかく煩雑な注。

日本版への序文
はじめに:われら都市生物
1章 バンガロールの産物は?
2章 なぜ都市は衰退するのだろう?
3章 スラムのよいところ
4章 貧困者住宅の改善方法
5章 ロンドンは豪華リゾートか
6章 高層ビルのすばらしさ
7章 なぜスプロールは拡大したか?
8章 アスファルトこそ最高のエコ
9章 都市の成功法
結論:フラットな世界に高層都市

さて、本書は内容的にもジェイコブズとフロリダと似通っている。しかし、実はフロリダは文献表には登場せず、本文に一度だけ登場する。「あるビジョンは都市学者リチャード・フロリダが広めたもので、芸術やオルタナティブな生活様式への寛容性と、おもしろくてエキサイティングな都心を強調する。」(p.342)しかし、このページには注釈はない。そして、フロリダの考えに対しては「私だって都市文化はよいものだと思うが、美的な介入では都市の基本のかわりには決してならない」(p.343)と、文化的な側面よりも経済的な側面を強調し、フロリダ以降流行っている「創造的政策」を暗に批判している。ジェイコブズには基本的に賛辞を与えているが、ジェイコブズが主張していた低層な住宅が街路を魅力的なものにする、という考えには否定的な意見を示している。それは第6章のタイトルにもあるが、著者は基本的に高層ビルをよいものと考えているからだ。ジェイコブズも人口密度が人々の交流を生み出し、いい効果があることを主張しているが、高層ビルという極度な人口密度も著者は認めている。
そして、ジェイコブズやフロリダと根本的に違うのは、スラムや貧困地区を否定的にとらえていないところだ。というか、ジェイコブズやフロリダはそういう大都市の負の側面についてはあまり正面切って論じていない。すでに読書日記にも書いたように、フロリダも地域格差については論じている。しかし、本書では単なる階級としてだけでなく、貧困者の集住地区という空間的側面に対して向き合っているのだ。そして、ジェイコブズとフロリダ同様、本書の基礎はアメリカ合衆国にあるのだが、ムンバイやバンガロールといったインドの都市、リオ・デ・ジャネイロのスラムである「ファベーラ」、中東のドバイなど、欧米以外の都市についてもかなりのページを割いて解説をしている。また、都市だけでなく、インドと中国の動向についてもきちんと目配せをしているのは、本書で「グローバル化」という言葉は頻出しないが、21世紀を論じるのに当然の観点として、本書を貫いているのは好感がもてる。
そして、訳者山形氏による丁寧な「あとがき」がやはり有用である。とはいえ、彼の訳者あとがきとしてはすこし物足りなく感じるが。本書の主張に対する根本的な批判を忘れてはいない。この批判はフロリダの理論にも向けられていると思うが、ただ高層化して人口密度が高まれば、人々が出合いイノベーションが起こるわけではない。

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世界都市の論理

ノックス, P. L.・テイラー, P. J.編,藤田直晴訳編 1997. 『世界都市の論理』鹿島出版会,204p.3600円.

 

編者のノックスといえば,日本でも訳書『都市社会地理学』で知られ,テイラーも訳書『世界システムの政治地理』で知られる。ということもあり,本書も出版当時に知っていたが,当時は特に「世界都市」には関心もなかったので,購入しなかった。しかし,最近サッセンを読むようになり,また一方ではアブー=ルゴド(本書ではアブルゴッドと表記されている)『ヨーロッパ覇権以前』も読んだりして,本書への寄稿者の豪華さを今更実感し,中古で購入することにした。

序文
1部 導入:世界都市,その理論と文脈
 1 世界都市研究の課題と方法(ノックス, P. L.
 2 世界都市研究の到達点:この10年間の展望(フリードマン, J.
 3 世界都市と領域国家:その相互性の隆盛と衰退(テイラー, P. J.
 4 世界都市における集中と中心性について(サッセン, S.
2部 システムのなかの都市
 5 グローバル・マトリックスのなかの都市:世界システムからみた都市システムの地図化に向けて(スミス, D. A.・ティンバーレイク, M.
 6 世界都市,多国籍企業,都市階層:アメリカ合衆国の事例(ライアンズ, D.・サーモン, H.
 7 交通と世界都市パラダイム(省略)
 8 世界都市仮設:周辺からの省察(サイモン, D.
 9 カリブの都市システムとグローバル・ロジック:マイアミの事例(グロスフォーゲル, R
 10 シカゴ,ニューヨーク,ロサンゼルスの比較:世界都市仮設の検証(アブルゴッド, J. L.
 11 反周辺地域における“グローバル化”(省略)
3部 世界都市における政治と政策:その理論と実践
 12 世界都市の再定義:文化的理論/社会的実践(キング, A.
 13 地球-地域関係の理論化(ボールガード, R. A.
 14 世界都市の消滅と地域政治のグローバル化(スミス, M. P.
 15 世界都市と地球社会(省略)
 16 世界都市の環境問題(省略)
 17 世界都市の経営と管理(省略)
付録 世界都市仮設(フリードマン, J.

本書は国際シンポジウムの記録であり,各章の分量は決して多くない。しかし,明確なヴィジョンを持っており,今の私が読むにはちょうどよい内容であった。本書にも付録として収録されている,フリードマンの「世界都市仮設」という論文は,社会学者の町村敬志が編集した『都市の政治経済学』(日本評論社,2012)にも訳出されているもので,原著が1986年だが,本書はこの論文が提示する仮説をその後10年かけて検証してきた研究者の報告ということになる。
実は私も勘違いしていたのだが,「世界都市
World City」という表現はフリードマンのオリジナルではなく,1970年代辺りから,幾人かの人が提示していた概念であり,またサッセンの「グローバル・シティ」も幾人かの人が使用してる。ただ,もちろん各人によってその意味する内容が異なるため,漠然とその概念について議論するよりも,本書のように誰の概念化を明確にして議論することが有用だと思う。
フリードマンの世界都市概念はグローバル化における都市システムというものを強く意識しており,ウォーラーステインの世界システム論を意識しつつもそれを乗り越えようとするアブー=ルゴドのような研究者と,移民研究を出発点とするサッセンを結びつける。地理学でも,世界システム論を用いて政治地理学を復活させたテイラーがこの辺りから新しい局面に入っていくことも確認できる。
ともかく,世界都市という概念がグローバル化によって世界各地にある都市がネットワークで結び付けられるように,世界都市という概念が世界各地の専門分野も異なる研究者たちを一堂に会し,結び付けているということに意義があろう。そして,いくつかの章が省略されているのは残念だが, 8章の周辺地域や9章のカリブ海周辺,11章の半周辺地域などは,西洋世界中心的なこの概念と対象としての世界都市の偏りにも目配りされているといえる。
ただ,残念なのが翻訳である。私は訳者の労力があってこそ,翻訳本が日本の読者に提示され,多くの人に,さほどの労力をかけることなく読むことを可能にしているため,そういう苦情はいわないようにしているが,本書はかなりの難点がある。しかも本書は1997年という早い時点で出版されているので,細かいことはいちいち書かないが,最大の難点は文献である。本書を通じてその議論のベースとなっている研究を知りたいと思っても,その情報は断片的にしか示されていない。ある程度は会議の記録という側面から原著の問題かもしれないが,そこだけは残念である。

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グローバリゼーションの時代

サスキア・サッセン著,伊豫谷登士翁訳 1999. 『グローバリゼーションの時代――国民国家のゆくえ』平凡社,221p.2,000円.

 

本書はサッセンの著作としてはコンパクトなものであり、公開講座の内容を基にしている。ちょっと前に読了したもので、細かい内容はきちんと思い出せないが、やはり刺激的な読書体験だった印象だけは残っている。原著のタイトルは「Losing control?: Sovereignty in an age of globalization」となっていて、「主権Sovereignty」がテーマになっている。また、序章には本書の内容が、「グローバル経済における統治(ガヴァナンス)と説明責任(アカウンタビリティ)」とをテーマにしたものであることが記されている。

日本語版への序論
序章
第一章 近代国家と権力の新しい地理学
第二章 経済的市民権について
第三章 新しい秩序の試金石としての移民

内容をきちんと覚えていないので、チェックをしたところを読み返すことで、少し思い出してみたい。以前は鉛筆を常備して、気になるところに傍線を引いていたが、最近はやめてしまった。せいぜい、ページの隅を折っておくくらいだ。
ということで、まず78ページ。「主権と領土は、いぜんとして国際システムの鍵となる特徴である。しかし、・・・わたしは、主権は脱中心化され、領土は部分的に脱国家化されてきた、と主張してきた。」とある。サッセンは別の本で、企業による他国の土地購入の話を書いているので、それと関連するのであろう。
114
ページも同様の記述に私は関心を持ったようだ。「多国籍企業とグローバル市場が現在享受している権利の国境を越えた網の目は、この変革の次の段階、すなわちかつて国家〔による支配〕であった国際領域の民営化であるのか。」
最後、129ページ。経済のグローバリゼーションは、国民経済を脱国家化し、それとは対照的に、移民は、政治を再国家化する。・・・移民や難民のこととなると、北アメリカ、西ヨーロッパ、日本のいずれの国においても、国民国家は、自国の国境を管理する主権国家の権利を主張する際に、〔国民国家の〕過去のすべての栄光をもちだすのである。」
明治学院大学で今年度までエスニシティをテーマとする社会学の講義を担当していた。学生の多くが、「日本では移民といってもピンとこない」なんていっていたが、なぜだろうか?私の住む東京都日野市にはかなり外国人が住んでいる。確かに、日本政府は移民や難民の政策には積極的ではない。しかし、一方で外国人観光客の受け入れに関しては非常に積極的で、それは日本での外国人移住も見据えたものとしか思えない。日本人口は減り続け、いろんな将来の予測において、高齢化する日本人を支えるために外国人に頼らざるを得ないということが明言されている。果たしてこの国はどうなるのであろうか。

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子どもを信じること

田中茂樹 2011. 『子どもを信じること』大隈書店,331p.2,800円.

 

妻は現在人生の岐路に立っている。自らが実の親から十分な愛情を受けて育っていないため,思ったようには自分の子どもに愛情を注げていないということらしい。「らしい」と表現したのは,そもそも親子の愛情というものがどういうものかが分からないので,どういうあり方が正しいのは分からないので,判断材料がないのだ。とはいえ,多くの者は単一の親子関係しか経験したことがなく,しかも子どもの立場で経験する親子関係と親の立場となって子どもと接する場合とは比較にならないと思うので,個人的には親になるものは誰でも悩む問題だと思う。
とにかく,その答えのヒントでも知りたいということで,さまざまな本を読んでいる。その中の一冊,本書に関しては私にも読むことを薦めてくれたので,読むこととなった。本書の著者は医学部を卒業した後,心理学専攻で博士まで取っている。大学の教授でありながら臨床心理士としてカウンセリングも行っているという。自らの多様な経験から,一般向けの本として本書は執筆されている。本書は短い45の断片から構成されているが,大まかに三部構成となっている。

I 診察や面接で気がついたこと
II
 親子の関係
III
 子どもとのコミュニケーション

著者自身も親であり,本書で書くような育児の実践を実際に自分の家族でやり始めたのは一番上の子どもが中学生になってからというから,子どもを持つ親に対してカウンセリングを行う人が自分の子どもに対して決して完璧な育児をしているわけではないということをさらけ出しているところに著者の実直さを感じる。
本書はある意味で書名に関していろんな角度から具体的な話,時折難しい理論的な話を交えて展開される。要約すると,子どもは自らの力で自らを幸せに導く力を持っているから,親や大人の立場であれやこれやうるさくいう必要はなく,温かく見守りつつ子どもを人格を持った人間として認めることが必要なのだという。臨床心理士として著者が接する親は当然,育児に関して問題を抱える人たちである。多くは子どもが不登校になるという事例だが,もちろんそれは一つの問題として表に現れたものではあるが,そうではない普通の子育ての場面でも大いに役立つことが書いてある。
しかし,私のような読者が読むと,少しくどい印象を受ける。そしてややもすると,決定論的な印象を受けることもある。子どもが家庭内外で問題を起こすということは,本書のタイトルにあるようなことが足りていない,すなわち親が子どもを本当の意味で信じていないことが引き起こしているのだ,という風に読み取れてしまう箇所も少なくない。そして,著者の考えに基づいて親が子どもに接するとすべてがうまくいくような書き方も多く,現実的というよりは理想的であるような印象も受ける。本書を読んで思い出したのが,長男が生まれて間もなく読んだ,おむつなし育児の本だ。こちらも,苦労することは多いが,おむつなしで育てることの効用があれやこれやと書いていて,読んでいると「これは素晴らしい!」と思うのだが,ほとんど現実には実践できなかった。まあ,本書の場合には実践できることも少なくないので,無理のない範囲で,またすぐに効果がなくても,まあそんなもんか,という軽い気持ちで育児に利用させてもらおうと思う。

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嘘八百

今井雅子 2017. 『嘘八百』PARCO出版,239p.650円.

 

今年になって公開された映画のノベライズ版。映画の脚本は足立 紳さんとの共同だが,ノベライズは今井さんの単著。映画公開前に,調布のパルコでちょっとした映画関連の展示があって観に行ったとき,本書も売っていたが,映画を先に観ようと思っていたので購入せず。公開して,妻が監督・脚本家のティーチインがある会に観に行った。その際に,サイン会があり購入してきた次第。基本的に映画を忠実に活字化しているといえる小説。一応目次があります。

一 柴田
二 利休
三 光悦
四 大海原
五 嘘八百

そして,各章も節に分かれていて「うぶ出し屋 獺」「茶碗焼き 蜥蜴」「鑑定家 古狐」と,主たる登場人物が語り手となっている。とはいえ,厳密な意味で各人物の視点になっているわけではないが,映画が基本的に中井貴一演じる小池則夫(=獺)の視点で貫かれているのに対し,小説版ではいくつかの視点から物語が展開する。そういう意味でも,文学作品としてよく構造化されている。
また,これは文字による文学作品と映像による映画作品との違いとして当たり前の事実ではあるが,小説版では映画では表現することの難しい細かい事実を補足しているし,映画で俳優が微妙な表情で表現しているものは小説版では表現しえない。お互いが補足的な作品だともいえる。
ところで,本作は利休と当時の茶の文化,焼き物の文化などに関する史実も描かれている。かなり綿密な調査に基づく史実が本作を支えているのだ。しかし,一方で本作はあくまでもフィクションであり,史実の情報源などは示されていないし,どこからが事実でどこからが虚構かも明確には示されていない。私のような読者はどの区分が気になってしまうのだが,小説においてはそういうところは曖昧でいい。むしろ,区分できないところが面白い。

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新しい書評が掲載されました。

雑誌『現代思想』の地政学特集号ですが,こうして雑誌の書評が掲載されるのは珍しいかもしれません。まあ,以前に写真集や小説の書評も掲載していただいていますが。

成瀬 厚 2018. 栗原一樹編:いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方.地理学評論 91: 162-164

 

栗原一樹編:いまなぜ地政学か――新しい世界地図の描き方(現代思想9月号第45巻第18号).青土社,2017年,246p.1,400円.

 

地理学者の多くが抱いていたと思われる疑問をタイトルにした特集が『現代思想』によって組まれた.大衆レベルにまで浸透している地政学の流行をわたしたちはどう理解したらよいのだろうか.そして,地理学徒として,今日地政学にどう立ち向かえばいいのだろうか.地理学者からも,山﨑孝史,北川眞也,柴田陽一が寄稿している本特集号から学ぶことは多い.
山﨑孝史「地政学の相貌についての覚書」は,特集ページ冒頭の対談記事に続いて掲載された.イントロダクションの役割を果たすとはいえ,ラッツェルから始まる通り一遍の教科書的解説は必要だったのだろうか.評者は近年大量に出版されている地政学関連書籍をきちんと読んでいないが,書店で手に取りパラパラとめくるだけで,そうした書籍が古典地政学の概観をしていることは知っている.中盤で検討されている京都学派の哲学者,西田幾多郎の地政学的思考については興味深いが,小牧実繁に代表される日本地政学と西田らの京都学派の関係について知りたかった.最後に「復古的,宿命論的,あるいは扇動的に『地政学』を標榜する言説には眉を顰めざるをえない」(p.38)とは書くが,説得的な批判にはなっているとは考えられなかった.
土佐弘之「地政学的言説のバックラッシュ――『閉じた世界』における不安と欲望の表出」はより明確に,反地政学を主張している.ここでは,批判地政学も丁寧に解説され,その後の展開についても「物質性の見直し,いわゆる新しい唯物論の必要性が唱えられるなど方法論をめぐる批判的な議論は,その難易度をさらに高めていく」(p.66)ととらえられている.アカデミックな反地政学の勢力が,今日高まっている古典地政学の勢力には対抗する力を有しない,という主張は悲しいながら納得してしまう.
下斗米伸夫「プーチン政治と地政学」は古典地政学への内省はなく,ロシア革命からソビエト連邦を経,現在のロシアまで,その存在を地政学的に解説したものである.
中山智香子「ジオポリティクスが媒介したヘゲモニーの推移――『アメリカの世紀』のあらわれ」は大衆地政学を意識しつつ,米国の雑誌『ライフ』に1942年に掲載された「ジオポリティクス」という小論を検討している.それは当時の米国地政学的言説に組み込まれたものでありながらも検討に値するものだという.この小論は,ランドパワーやシーパワーというこれまでの地政学の枠組みがこの時代の米国には馴染まず,空軍力という「空から見下ろす視点」(p.82)が米国を中心とした地政学に組み込まれる.
峯 陽一「『南』の地政学――アジア主義からアフラシアの交歓に向かって」は,「オルターナティブな地政学フレームを提示する思考実験」(p.89)と称し,「帝国に分割される側だった『南』の諸民族(『第三世界』に置き換えてもいい)の歴史的再興にかかわる地政学を考えてみる」(p.88)ことを目的としている.国連の人口予測のデータから,2100年までにはアジアの人口増加も停滞へと転じ,アフリカはさらなる増加を続けるという状況を確認する.すなわち,少し先の将来を見据えると,アジアとアフリカを合わせた「アフラシア」が重要となり,英語に代わるそこでの多言語コミュニケーションが「言語地政学」として考えられるべきだという.
羽根次郎「『一帯一路』構想の地政学的意義の検討」は,タイトル通り古典地政学の枠組みで近年の中国の外交政策を分析する.
末近浩太「シリア紛争の(批判的)地政学――『未完の物語』としての『シリア分割』」は近年シリア情勢について次々と発言している著者によるもので,地政学の観点を交え,わかりやすくシリア紛争を解説している.その観点とは,「シリア紛争の何をどこまで地政学で説明できて,なにがこぼれ落ちてしまうのか」(p.110)というものである.地政学は基本的に支配者側の論理だが,シリアでは「人びとによる多種多様な『地政学コード』の生成の営みがあった」(p.116)という.ここにもオルターナティブな地政学の試みがある.
中野剛志「地政経済学の射程――グローバリゼーションの終焉以降を読み解く」は『富国と強兵――地政経済学序説』(東洋経済新報社,2016年)の著者へのインタビューである.著者によれば,日本における地政学のブームは,グローバリゼーションの終焉に伴い,「おそらくアメリカに守ってもらえなくなるという事態に近づいたからで,焦って思い出した」(p.121)のだという.地政経済学とは,その著書のタイトル通り,富国という経済問題と強兵という政治問題がかつて国家間関係において強く結びついており,今日のグローバル世界でもそうであるという主張である.この著作は土佐による「経済問題をナショナリズムや地政学の枠組みに填め込もうとする地経学的な言説」(p.60)としての批判対象なのだろうか.
川久保文紀「ボーダースタディーズの生成と展開――批判地政学との接点」で,著者はボーダースタディーズを「地理学や地政学の影響を受けながら欧米で誕生を見た学際的領域」(p.126)と説明する.境界に関する研究の近年における特徴は,それを社会的構築物として捉えるということと,国民アイデンティティとの相互関係を分析することだという.
粥川準二「先端医療,生命論理,メディカルツーリズム」は最も地政学とは無縁に思える章である.ただし,医療をめぐっても各国の状況,技術や人間の移動を無視できないのは間違いない.
纐纈 厚「大陸国家日本への展望と地政学的知見の限界性――『生存圏』・『自足自給』論を中心に」は,明治期から敗戦までの時期の日本の政治軍事指導者層に地政学的見地が存在したという観点から歴史をたどる.隣国侵略は地政学に沿ったものだが,アジア太平洋戦争へと突入する時点で地政学の限界性を超え,そのことが日本の敗北を早めたという.
柴田陽一「日本における訳語『地政学』の定着過程に関する試論」は著書『帝国日本と地政学』(清文堂出版,2016年)で残された課題に取り組んでいる.それが,日本におけるGeopolitikの導入時期に用いられた訳語の整理である.丹念な文献学的検討であり,纐纈の推測を裏付ける資料ともなろう.
平田 周「なぜ空間の生産がいまだに問題なのか」は,ルフェーヴルの『空間の生産』の再読である.著者はこの本を「1976年から1978年にかけて4巻本で出版された『国家について』」(p.172)と併せて読み,そこからスケール問題を引き出している.近年のグローバル化による複合的なマルチスケールの再配置を考える際,それ以前のルフェーヴルによる議論から学ぶことは多いという.
北川眞也「地図学的理性を超える地球の潜勢力――地政学を根源的に問題化するために」は一番難解な文章である.そして,単なる学術論文ではなく,自らの執筆が反地政学な運動として,後半で意識的にルクリュを含むアナーキストの文章に言及する.著者は,支配者側の地政学的意識として地図学的理性の語を用い,それからとらえきれない存在としてテロリストの存在を論じる.
古屋 哲「主権の海と移り住む島の人びと」は日本の離島で著者が聴き取った住民の話が紹介される.その島は鹿児島県の下甑島であり,2016年に成立した「有人国境離島法」の対象地域として指定された.1953年に制定された離島振興法の国民的経済発展という目的とは異なり,「海の地政学」とも呼ぶべきものへ移行しているという.この島では江戸時代から異国船を見張る遠見番所が置かれ,明治期には陸軍省が灯台を設置する.第二次世界大戦期には軍事施設が建設され,それは米軍によって破壊されるが,戦後は米兵が駐屯し,その後自衛隊へと移管される.一方で,住民の出稼ぎによる流出,戦後の引き揚げ,中国人密航と,その地理的位置の故に歴史を左右され続けている.
猪瀬浩平「水満ちる人造湖の辺から――相模ダム開発の経験と戦後啓蒙」では,冒頭から飯塚浩二の地政学批判が論じられる.タイトル通り,舞台は相模ダムが開発された相模川上流域の与瀬なのだが,飯塚は戦時中そこに疎開していた.それは東京大学経済学部の大塚久雄の世話をするためだったといい,多くの知識人もこの地域に疎開していたという.一方で,相模ダムの工事が進み,「強制連行された朝鮮人・中国人が多数動員された」(p.214)という.その場での短い期間の経験が大塚の学説に作用し,飯塚は朝鮮半島から満州を旅した.
原山浩介「ハワイ立州の周辺にみるポリティクス」は1955年に立州したハワイをめぐって,日本語新聞『布哇タイムス』の記事をいくつか取り上げながら論じている.ハワイの立州にあたっては,共産主義問題,「人口の三分の一超を占めたハワイの日本人・日系人の立場」(p.222)および米兵として参加した日系人の存在,などが絡み合う中,「先住民を置き去りにしたまま」(p.235)議論されたという.
中田秀樹「移民の生きる毎日は『開拓』か『侵略』か――在ブラジル日本人が『二分制限法』にみた『恐日病』の世界と日本帝国の近代」は「進出(タイトルでは開拓)」と「侵略」の概念の違いを問い直す.日本政府は戦前から世界遠方に移民を送り込んだ.一方で,隣国に対しては軍事的侵略を目指して,軍人以外にも開拓移民がいた.これらは全く意味の違う移民なのか,本人たちの意識や受け入れ側の意識も含め,何が違うのかを,かつてブラジルに渡った日本人,そして近年ン来日する日系ブラジル人などの事例を交えて論じている.
市嶋典子「内戦,国家,日本語――シリアの日本語学習者の語りから」は,ラマという30代前半の女性の語りで構成されている.1970年代後半以降の日本の経済力拡大に伴って,外国での日本語学習者が増加する.その後,さまざまな組織が,各時代の要請に応じた日本語普及事業を展開し,シリアに住むラマも日本語学習者であった.しかし,2011年以降のシリア内戦により,日本人教師は国外退避となる.ラマは難民とならず,国内に留まるが,「日本語を武力に対抗する武器として,自分を守るツールとして意味づけている」(p.244)だという.
最後に,特集冒頭の伊勢崎賢治と西谷 修による討議「『非戦』のための地政学」に触れておこう.話題としては,「大国の地政学的ゲームの狭間で翻弄される『民族自決』の問題」(p.34)や中国経済によるアフリカの支配(p.37),テロとの戦争,戦争の「民営化」(p.47)やロボット化,など多岐にわたる.2人は現代世界をどうにかしたいという共通認識を持ち,ようやく最後にタイトルにある「非戦(平和ではなく)」へと収斂する.しかし,地政学そのものを批判する意図はなく,むしろ地政学的思考は必要なものだとみなしているように思われる.「地政学」という言葉は数か所で使用されるが,その内実は確たるものではなく,かれらの議論はこの語がなくても成立する.
以上みてきたように,事例としては日本に関わるものが多いが,ロシア,アメリカ,アフラシア,中国,シリア,ハワイなどの話題が提供され,この特集号を通読すると世界情勢についての一定の知識を得ることができる.地政学に対する態度は多様である.古典地政学の観点から現代世界情勢を解読する者,オートゥーホールの20年前の著作に寄りながら批判地政学を解説する者,オルターナティブな地政学を模索する者,こうした複数の立場が混在するのは,雑誌という媒体としては好ましいといえる.
地政学が地理学より知名度を増そうとしている昨今,社会的には地理学者にもそうした知識や発言を要求される場面が訪れよう.

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東京臨海論

『地理学評論』に投稿した書評原稿ですが,「難解」という理由でリジェクトとなりました。一応,わかりやすくして再投稿する予定ではありますが,そのままこちらに掲載しておきます。

 

渡邊大志:東京臨海論――港からみた都市構造史.東京大学出版会,2017年,3695p.5,400円.

 

評者は現在,2020年東京オリンピック開催に向けて東京という都市がどのように語られるのかという課題に取り組んでいる.東京は,1980年代の都市論の主たる対象として語られた.その言説は記号論的解釈を基本とする日本独自の展開であり,経済の失速とともに過去のものとなった.欧米の都市論は世界都市論からグローバル・シティ論へと展開し,近年では創造都市論や都市の新自由主義化などと盛り上がりをみせている(上野 2010).
都市論という枠組みで東京を捉える必要性の一方で,2020年東京オリンピック大会との関連を考えるのであれば,新しい施設が整備される「東京ベイゾーン」と名づけられた湾岸地区に焦点を当てる必要がある.評者はそうした関心に応えてくれることを期待して本書を手にした.本書は様々な事物が交錯する港湾という場所を対象としていることもあり,一筋縄ではいかない難しいテーマに挑んでいる.読者の関心の違いによって本書の読まれ方は異なり,関心のある章を中心に別の章を位置づけるという作業が読者には要求されよう.ここでも,評者の関心に沿って本書の内容を紹介したい.
まず,著者の立場を明らかにしておきたい.序章「東京港という舞台」には,「本書は現在の東京港の現状を肯定的に捉えようとする視座に立っている.それはロンドン,ニューヨークといった経済的,制度的に世界を制覇し,その他の港に較べて成功しているとみられている資本主義下の港に対して,その評価軸をややもすれば置き換え,警鐘を鳴らす役割を東京港が果たす可能性を持つと考えるためである」(p.9)と記されている.本編からは,さまざまな史実に対して著者が批判的な立場をとっている印象を受けるが,総体としてはそうではないことを確認しておく.
評者の関心は,第3章「世界都市概念の根本
――言説と経済の中の1980年代臨海地区」にある.最近では創造都市という概念が都市政策に応用されているように,1979年から416年東京都知事を務めた鈴木俊一の時代には,世界都市の概念が都政に利用されていた.本章は「世界都市博覧会」をめぐる言説分析である.このイベントは長らく「東京フロンティア」という名称を用いていたが,その発案は1988年になされた.当時は,「一定の東京論が出尽くした『東京論ブーム』の絶頂期を迎えた」(p.188)時期であった.
本章は,雑誌の東京論特集やウォーターフロント論などを中心にその「言説史」(p.181)を丁寧にたどっている.雑誌に寄稿する著者の属性や,雑誌の性質などを踏まえ,こうした言説がジャーナリズムに先導され,アカデミーがそれを追随したにすぎなかったという.このことが,東京の臨海部開発においてジャーナリズムの議論が行政に利用されていったことにつながっている.
議会の議事録は地理学でも利用されるが,本書では東京都議会や東京都で組織される各種委員会や審議会の会議録や報告書が活用されている.これら資料から,都市政策に関する議論をその首長である鈴木都知事のみに帰すのではなく,いくつかの部局の役人たちの発言として丁寧に提示される.本書では,その組織論まで踏み込まないまでも,非常に興味深い論の展開である.
当時提示された「東京フロンティア構想計画」を理解するために,第1章と第2章が必要となる.第1章「築港理念の頓挫と再生
――隅田川口の明治」は明治期の東京築港計画をたどる.まず,その計画の担い手としての東京府の立場が確認される.「戦後の地方自治法が制定される以前は,東京府や東京市は内務省に管轄された出先機関の性質が強く,現在の東京都のような地方分権の要素は薄かった」(p.38).東京港をめぐっては,その後も計画・開発の主体として,内務省,東京府,東京市のせめぎあいで輻輳する.
1880
(明治13)年に提示された築港計画は,当時横浜港が持っていた首都圏における商業貿易の拠点機能を東京へと移行する目的があった.また,この計画は道路と鉄道を含む都市インフラという陸上側の計画であった.しかし,実際の事業は隅田川の河川整備へと形を変える.隅田川口に規模の大きい船舶が出入りできるように,海底の土砂浚渫を行い,その土砂による埋立地の造成が行われた.本来港湾法の下で行われるべき整備が河川法の下で行われたことは,当初の築港計画を矮小化したものであったが,それは「少なくとも後の港湾計画上のインフラと成り得たとみなすことができる」(p.80)という.
次なる展開はグローバル化によってもたらされる.第2章「コンテナリゼーションの地政学と近代倉庫の配布
――大井地区の戦後」では,米国が先導した港湾の技術革新としてのコンテナ輸送の観点から論じられる.従来の港湾には,海運貨物を内陸に輸送する中継地点として多くの機能と労働者が集約されていた.ガントリークレーンを常設する景観に変貌した港湾は,コンテナを積み替えるだけの経由点と化す.
2章のタイトルにある地政学に関しては,以下のような説明がある.「これ(地政学:引用者)は主に陸上におけるインフラの整備と連環する.また大井のような市街地を直接背後に持つ埠頭の場合,倉庫群と市街地の位置関係によって倉庫群の拡大に制約が発生する」(p.155).また,「コンテナを含む倉庫群は海を介した地球スケールの情報の地図の上に配布されることを意味しており,その事実は実際の地理に拠らない新しい地政学を都市に示し始めている」(p.162)と説明される.地政学文献への言及はないが,「地勢学」という表現ともに,使用回数は少なくない.本書は東京港を,都市や港湾部というローカルな状況だけでなく,コンテナ化をもたらしたグローバルな状況も含めた大小のスケールを意識して認識している.
また,コンテナ化がもたらした「オンラインシステムがもたらした港湾の地勢学的変化は,都市の様々な情報の集積でもある近代都市に空けられた『情報の空地』へと,埠頭という旧来の埋立地を転じさせた」(p.161)という記述も見受けられる.コンテナ化による物資輸送の効率化は同時に情報化であり,港湾はグローバル空間の重要な結節点となる.
再び第3章に戻って,このことを世界都市概念と結びつける言説として,東京世界都市博覧会基本構想懇談会の座長を務めた丹下健三の論が紹介される.「このとき丹下は世界都市という概念を世界と電子マネーを含む記入情報をインフラとして接続した都市として考えていたのである」(p.223).情報や金融を媒介とする世界都市概念の主張は説得的だが,この臨海部開発は,港湾という土木的開発とそこで行われる物流的交換をうまく機能させることはできなかった.「その時もはや埋立地は陸と海を接続する媒介ではなく,海が陸になろうとしたのが臨海副都心開発であった」(p.210).都市フロンティアという港湾の物質的機能を意識した名称が世界都市博覧会に変更されたことは,そのイベントが臨海部で開催される地理的固有性を失ったことを意味する.
4章「倉庫の配布による都市の再編集
――臨海部・青海埠頭の1990年代以降」では,世界都市博覧会の中止を受けた「港湾空間の再港湾化」(p.278)が論じられる.地理学であれば分布と呼ぶところを,違和感を抱く配布という言葉で説明する.配布という表現はその行為主体を想定させるが,決して東京都という行政が倉庫を配布したわけではない.しかし,自然発生的に分布したと捉えるのではなく,複数の権力主体が意図的に倉庫を立地し,特定の意図をもって港湾空間が生産された,というのが著者のいわんとするところではないだろうか.
ここに至って,東京臨海部が港湾機能を有するようになる.コンテナ化に続いて,財閥企業の倉庫部門が1960年代からプラント海貨を開始する.さらに物流に関わる国際的な組織の発足や各国での法改正を受け,東京港において倉庫業が国際複合一貫輸送を担っていく.こうした動向を受け,東京都による港湾計画も変更される.一方で,倉庫業の新しい動向としてトランクルームが登場し,「都市生活者(個)ごとに分節された倉庫ネットワーク」(p.312)をも形成していく.
終章「都市の領域・埠頭空間・倉庫」は本書の内容を簡潔にまとめているが,附論「〈みなと〉からみた都市の姿――『分節港湾』単位系の都市の萌芽」では,港湾を改めて都市の視点から捉え直している.「都市イデア」という「人為を超えた存在」(p.363)による説明は評者には分かりにくいが,模式図によって従来の都市認識モデルに対して「航路による分節構造の都市認識モデル」を提示している.領域的な都市理解をネットワーク的な理解で代替するのは近年では珍しくないが,港湾というネットワークのノードについての具体的な事例で論証する本書のモデルは説得的でもある.ただ,本書で論証されたのはあくまでもノードであり,パスとしての物流ではない.

文 献

上野淳子 2010. 東京都の「世界都市」化戦略と政治改革――開発主義国家がネオリベラル化するとき.日本都市社会学会年報 28: 201-217

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

フィリップ・K・ディック著,浅倉久志訳 1977. 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』早川書房,328p.,円.

 

1982年の映画『ブレード・ランナー』の原作として知られる1968年の作品。日本語訳も1969年に出されている。私が購入したのはハヤカワ文庫版。
原作といえど、かなりストーリーは異なっている。映画のタイトルにもある「ブレード・ランナー」の意味合いは説明されないが、まあ刃の先を渡るような危険な仕事という意味合いなのだろうか。原作ではバウンティ・ハンター、まさしく賞金稼ぎと表現されている。電気羊というのは、人造動物であるが、タイトルになっているように、原作の中心をなす。映画ではこの手のものはほとんど出てこないが、原作では非常に重要である。地球に住む人間の多くが屋上でペットを飼っており、それが生きがいのようだ。映画の主人公と名前は同じでリック・デッカードは原作では夫婦で暮らしている。かれらが飼っていた羊が亡くなってしまい、それを忠実に再現した模造品を所有しているという設定。デッカードはアンドロイドを始末して手に入れた金を頭金に山羊を購入したり、ともかく生きた動物に対する執着は主人公に限らず非常に強い。
映画ではアンドロイドの製造会社として「タイレル」が登場するが、原作では「ローゼン」と名前が違う。ただ、主人公が心惹かれる「レイチェル」は同じ。映画では、火星から地球に来たアンドロイドの目的がタイレル社に行って寿命を延ばすということになっているが、原作ではそういう明確な目的はない。また、アンドロイドの目を作っている職人セバスチャンは、原作ではアンドロイド生産とは全く関係ない人物「イジドア」になっている。ただ、アンドロイドの一人、プリスをかくまうという点は同じである。
映画は映画で「フィルム・ノアール」などと呼ばれるようになる独自の雰囲気を出していて,重要な作品であることは間違いない。ある意味では原作の中心にある生命に関する洞察という根本のテーマについては,映画という映像による表現でできるところに限定し,小説という文字表現がもつ特有なところを大幅にカットすることであの映画が成立しているのかもしれない。ただ,記憶という部分については文字表現よりも,1968年から映画の1982年までの間に社会が獲得した技術革新,あるいは映像技術を利用して微妙に表現しているような気もする。
ともかく,原作の中心は生命,特に動物がもつ従順な生命ということになる。作中人物たちはそれに異様なまでに執着しているのだ。そして同時に宗教。原作には「マーサー教」なるものが登場する。原作と映画で共通するのは,人類が火星に植民地を築き,多くの地球人が移住しているという設定。火星でこの宗教がどうなのかは分からないが,ともかく地球に取り残された孤独な地球人たちはこの宗教にすがらずに生きることができないということになっている。この2つが原作の根底をなしている。

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新クリエイティブ資本論

リチャード・フロリダ著,井口典夫訳 2014. 『新クリエイティブ資本論――才能が経済と都市の主役となる』ダイヤモンド社,485p.3,024円.

 

以前も、この読書日記でフロリダの『クリエイティブ都市経済論』を紹介しましたが、やはり大本のを読まなくてはと思い、500ページ弱の本書に手を付けた。本書は原著が2002年、その翻訳が2008年に『クリエイティブ資本論――新たな経済階級の台頭』というタイトルで出版されている。これも520ページあったようだから、決して内容が増えたということではないようだが、原著出版の10年後に、改訂版が出版され(2012年)、本書はこの版に基づくもの。
ここまで書いてきて気づいたが、原著のタイトルには「クリエイティブ・クラス」という言葉があり、クラスを旧版の翻訳では「階級」と訳している。これは正当な訳だと思うが、なぜか新版では下の目次で分かるように「階層」と訳している。なぜだろうか。階級という日本語はやはりマルクスの階級闘争を思い出してしまうが、クリエイティブ・クラスは違うニュアンスを印象付けたいのだろうか?

序論
 第1章 日常生活の変化
1部 クリエイティブ経済の時代
 第2章 クリエイティブ経済
 第3章 クリエイティブ・クラス
2部 新しい働き方
 第4章 機械工場と美容室
 第5章 素晴らしい新たな職場
 第6章 カジュアル化
3部 日常生活
 第7章 歪んだ時間感覚
 第8章 経験の追求
 第9章 ビッグモーフ
4部 コミュニティ
 第10章 場所の重要性
 第11章 階層の地域分布
 第12章 経済成長の三つのT
 第13章 世界規模へ
 第14章 場所の質
 第15章 クリエイティブなコミュニティの構築
5部 矛盾
 第16章 格差の地域分布
 第17章 増大する階層の重要性
結論
 第18章 人はだれもがクリエイティブである

訳者あとがきにもあるように、「本書は厳密な研究書ではない」。訳者によれば「啓蒙書」である。そういう意味では、本書の翻訳はアカデミックな厳密性にこだわる研究者には難しかったと思う。気楽に読めるといういいかたもできるが、私にはそこそこ読みにくい本だった。しかし、本書の主張を根底から否定することはできない。本書で著者は自らを楽観的な性格としているが、夢物語だけが描かれているわけではない。まあ、全体からして第5部に充てられた分量は少ないが、マイナスの側面もしっかり論じている。そして、基本的に私も賛同したいのは第18章のタイトル。決して、本書は社会を勝ち組/負け組に分類しようとしているのではなく、そして訳書の副題に「才能」とあるが、これは選ばれし者のみが持つ能力として捉えるのではなく、誰もが持つものであり、それを発揮できる環境にあるかどうかという捉え方をしている。
そして,目次からもわかるように,本書は「場所」の重要性を強調している。よくいわれるように,グローバル化によって場所の意味が失われるのではなく,ますます重要になるという主張を本書も人的資本という形で強調している。しかし,著者が地理学にも片足を突っ込んでいるような人物でありながら,地理学における場所論は参照していない様子。目次にも出てくるが,地理的な「場所」ではなく,むしろ社会学的な「コミュニティ=共同体」と代替可能な概念だといえる。しかも,これは強い紐帯で結ばれた旧来の共同体ではなく,あくまでも経済や文化の緩い結びつきによって,ある意味単に同じ場所に住むことで利益を共有する人々という意味合いのように思える。そして,その人的ネットワークについては具体的には論じられない。
ということで,突っ込みどころは満載な本なのだが,やはり発想の豊かさと,その発想に説得力を持たせようとデータを分析して提示するというところは大いに学ぶことができる。

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