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2018年8月

パリ:モダニティの首都

デヴィッド・ハーヴェイ著,大城直樹・遠城明雄訳 2017. 『パリ――モダニティの首都 新装版』青土社,441p.4,800円.

 

日本でも地理学の枠を超えて翻訳されている地理学者ハーヴェイの地理学者による翻訳本。原著は2003年であり,訳者による「新装版のためのあとがき」にもあるように,それ以降矢継ぎ早にハーヴェイは著作を出版し,その翻訳が日本でも続いている。一応地理学者として,『ポストモダニティの条件』までの翻訳されている著作は読んできたが,正直いつも斜に構えて読んでいた。近年の翻訳本もいくつか読んでいるが,自分の研究に直接活かすようなつもりでは読んでいない。しかし,本書には脱帽だった。この大著を翻訳した訳者にも頭が上がらない。そういう読書だった。

序章 断絶としてのモダニティ
Ⅰ 表象 パリ1830-1848
 第1章 モダニティの神話 バルザックのパリ
 第2章 政治的身体(政体)を夢見て 革命的政治とユートピアの企図1830-1848
Ⅱ 物質化 パリ1848-1870
 第3章 プロローグ
 第4章 空間関係の編成
 第5章 貨幣,信用,金融
 第6章 地代と地主階級
 第7章 国家
 第8章 抽象的かつ具体的な労働
 第9章 労働力の売買
 第10章 女性たちの状況
 第11章 労働力再生産
 第12章 大量消費・スペクタクル・余暇
 第13章 コミュニティと階級
 第14章 自然との関係
 第15章 科学と感情,モダニティと伝統
 第16章 レトリックと表象
 第17章 都市変容の地政学
Ⅲ コーダ
 第18章 サクレ=クールのバシリカの建設

第18章にあるサクレ=クールの歴史分析はもともと1978年に発表された論文で,翻訳もあったので知っていて,本書がそれ以降のハーヴェイによるパリの歴史研究であることは知っていた。もともとの本書の訳本は2006年に出ているが,評判がよく重版が続いたのだろうか,昨年新装版ということで,おそらく訳文にもいくらか手を入れて出版された。訳者の一人,大城氏と何気ない会話の中で,今回バルザックなども結構読んだよ,みたいな話を聞いていた。本書を読む前だったので,話半分で聞いていたが,おそらく前半で登場する表象分析の対象である作品群をきちんと読んだということだろう。
まあ,ともかく訳文が素晴らしく,ストレスのない読書だった。前半の表象分析はまさに日本でも1980年代に流行った文学作品を通して都市を読む的な方法論によく似ているが,ハーヴェイの思考には常にマルクスがいて,常にそこに戻ってくる点がかつての記号論的都市論とは大きく異なっている。前半の表象分析はバルザックを中心として,フロベールやボードレール,ボードレールを論じたベンヤミン(なお,周知のことだが,ベンヤミンには「パリ 19世紀の首都」という文章があり,本書のタイトルはそれを借りているといえる)などの作品分析を,ドーミエという風刺画家のイラストを挿入しながら展開される。
その表象分析から「Ⅱ 物質化」で実在としてのパリの歴史分析に移行する。物質化とか物質性というのはちょっと前の英語圏の地理学で流行ったいいまわしで,私はそのことに違和感を抱いているのだが,ハーヴェイのこの使い方は正統である。そもそも,物質(
material)という言葉は,マルクス主義がよって立つ唯物論(materialism)と深い関係があるはずで,物質というのは物体ではなく,マルクスの場合には経済というものと大きなかかわりがあると私は思っている。経済というのはもちろん物体としての貨幣を媒介とするものだが,近年における貨幣の電子化をいうまでもなく,経済の中心である貨幣を媒介とした売買というものは,生産や流通といったものほど物体を感じないが,それを含めての物質であり,唯物論なのだと思う。
前半では各章の冒頭に,バルザックやベンヤミンの引用がつけられていたが,第4章以降は必ずマルクスの引用から始まる。目次を読むだけでは,都市の構成要素を次々と論じているだけの印象だが,各章の接続が非常になめらかで,時間軸に沿うのではなく,パリの歴史が見事に物語化されている。オスマンによるパリの大改造の話はそこそこ知っていたが,本書は本人の思想を含めて周囲の評価,さまざまな人物の都市思想を明らかにすることで詳細な情報を読者に提供している。実際に何が起こったかということを知る前に,さまざまな人がこの都市をどうしたいのかという思想=表象が論じられているので,理解しやすい。いろいろ書きたいこともあるが,きりもないのでこの辺にしておこう。ともかく,本書は理想的な都市記述の姿だと思う。

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経済的徴兵制をぶっ潰せ!

雨宮処凛・入江公康・栗原 康・白井 聡・高橋若木・布施祐仁・マニュエル・ヤン 2017. 『経済的徴兵制をぶっ潰せ!――戦争と学生』岩波書店,93p.660円.

 

今年に入り,首都圏大学非常勤講師組合に加入しています。この存在を知ったのは,早稲田大学で非常勤講師を始めてから。非常勤講師用のポストに組合のチラシやらが入っていたのだ。労働契約法が改定され,有期雇用者が継続して5年間契約した場合に無期に転換するというやつだ。この法律ができ,早稲田大学は非常勤講師の継続契約の上限を5年とすることを決め,それに対してこの組合が戦いを挑み,勝利を勝ち取ったのだ。とはいえ,労働契約法改定後の契約は変わっていて,あくまでも無期契約に転換するのはそれ以前から勤めていた人であり,私は対象外である。
この話を書き始めると長くなるのでやめておくが,今年度初めてこの組合の総会に参加したのだ。その会場で販売していたのが本書。タイトルからするとなぜ,大学非常勤組合が本書と関わりがあるのか分からないが,本書は上に書いた,早稲田闘争による組合側の勝利を報告するために開催されたシンポジウムの記録だという。
「はじめに」の言葉が非常に印象的だ。大学の非常勤講師の処遇は非常に厳しいが,それにもまして近年は学生の立場が脅かされていて,その状況を放っておけないから,その改善を訴えるというのが,このシンポジウムの目的だという。

はじめに(大野英士)
序章 学費・奨学金が学生を食い殺す(入江公康)
第1章 戦争と学生のリアル(白井 聡)
第2章 しのび寄る「経済的徴兵制」(布施祐仁)
第3章 アメリカの大学と戦争と「条件なき大学」(マニュエル・ヤン)
第4章 最低賃金1500円運動から考える(高橋若木)
第5章 大学バカ一代――チクショウ!(栗原 康)
座談会 戦争法と経済的徴兵制にどう対峙するか
終章 究極の貧困ビジネス・戦争。(雨宮処凛)

本書は学術研究に携わる人たちによるものだが,決して,学術的な内容を有する報告ではない。とはいえ,その語り口は整然としていて説得的で,薄い本ながら非常に刺激的な読書だった。本書の論旨は明確である。現在,大学生は数十年前から数倍に跳ね上がった学費に追われ,約半数の学生が奨学金という名の借金を卒業時に背負わされる。在学中は学業をおろそかにせざるを得ずにアルバイトに時間を費やす。そのアルバイトはいわゆるブラック企業による搾取も含め,非正規雇用の最底辺を大学生たちが担っている,というもの。まあ,その辺りはよく知られていることではあるが,本書はその弱い立場に立たされた学生がどうするか,あるいは社会がそうした若者をターゲットに何をしているのか,というところを訴える。韓国や米国の事例から,そうした若者は徴兵の対象になるのだという。韓国は基本的に国家主導による,いわゆる徴兵制があるが,今日では国家による強制的な徴兵制まではできなくなる一方で,経済的な徴兵制が進んでいるのだという。つまり,経済的に将来を閉ざされた若者が,選択せざるを得ないものとしての軍隊への加入ということだ。日本においても,そうした若者をねらった自衛隊による勧誘が後を絶たない,という。
本書の議論で記憶に残ったことが2つあった。いずれも漠然とした議論で,その真偽は問われる内容ではあるが,感覚的には正しいようにも思う。一つは大学非常勤講師の給与体系の起源について。今日でも大学で非常勤講師をする人のなかには,本務校を持っていて,他の大学でも1,2コマを担当するという兼務という形がある。大学という企業はタイムカードなどで勤務時間を管理していなければ,就業規則にも何時から何時までが就業時間だという規定がないらしい。基本的に企業には就業時間があり,その就業時間内に他のアルバイトをするなんてもってのほかだ。給料の2重取得ということになる。しかし,大学の場合はそういうものがないので,平日の日中であろうと,堂々と本務校を抜け出し,別の大学で教えて給料をもらう。そういう具合だから,そもそもは給料というものではなく,謝礼金程度のものだったというのだ。まあ,本当のところは非常勤の起源がそういう兼務にあるかどうかはきちんと調べる必要があるが,納得させられてしまう記述だった。
2つ目は,学生が厳しい立場に立たされながらも,かつての学生運動のように,声を上げて運動をするような学生が少なくなっていることの理由を論じている箇所があった。大学生に限らず,近年の若者は,社会のなかで消費者としての振る舞いをするような教育(あるいは社会化)がなされているのだという。確かに,それは私にも当てはまる。保育園や幼稚園から小学校,中学校,義務教育であっても,行政サービスを受ける受益者としてのわたしたち。もちろん,高校以上になれば,教育サービスを提供する学校とその消費者である生徒・学生,その保護者。社会人になっても,社会に流通する商品の生産者という意識は乏しく,企業に労働力を提供するだけの,労働市場における消費者。いつだって,物事を決めるのは生産者側であり,消費者はせいぜいクレームをいれるだけ。自分たちの意思で物事の仕組みを変えることができるようなものだとは思いもしない。そういう社会のなかで成長した人間は,選挙権を持った主体としても,結局自分の投票権をどの政党に売却するのか,そんな視点になってしまうのであろう。恐ろしい世の中だ。

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涼しい朝を迎えるようになりました

201881(水)

新宿武蔵野館 『志乃ちゃんは自分の名前が言えない
前回武蔵野館に行った時に初日を迎えた作品。吃音をテーマとした作品ということで,舞台挨拶にはNHKも取人公に公衆電話から電話をするシーンなどもあり,調べてみると1990年代が舞台とのこと。そういえば,最近私は見たこともない若手俳優による作品でしたが,皆さんそれぞれキャリアのある俳優さんだったようです。主演の南 沙良さんは『幼な子われらに生まれ』に出演していたとのこと。そういわれれば。演技も初々しさが前面に出る感じでしたが,泣きじゃくる2回のシーンで,鼻水が垂れている様はとても良かった。この手の作品にありがちな冗長さはありましたが,結論的にはなかなか良かったと思う。彼女たちが立派な俳優に成長する頃に,本作が貴重な存在になるのでしょう。
ところで,この映画の時代設定に違和感を抱いたのは冒頭のシーン。確かに,私の時代には吃音(いわゆるドモリ)の生徒は身近にいた。大抵はそのことがからかいやいじめの対象になってしまう。だから,現代ではそういう情報は必ず進学の際に伝えられ,学校側で対処することになっていると思っていたからだ。しかし,映画ではそうではない。そういうのはいつ頃からだろう。

2018811日(土)

日比谷シャンテ 『追想
いくつかの作品で悩んだが,シアーシャ・ローナンの作品はなるべく観ているので,観ることにした。上映時間ギリギリになってしまい,少し遠いチケット屋で前売り券を購入して久しぶりのシャンテ・シネに向かう。すぐ近所にTOHOシネマズ日比谷がオープンしたので,当然TOHOシネマズに組み込まれたシャンテ。シネは閉館のはずだったが,なんとか存続するようです。本作も私の指定席,最前列中央が埋まっているなど,なかなかの盛況でした。
舞台は1960年代のイギリス。シアーシャ演じる女性が参加していた核廃絶運動の集会にたまたま潜り込んだ男性。彼は学校の試験にうまくいって,その通知を身近な人に自慢するが相手にされず,バスに乗ってオックスフォードに向かう。そこで,酒を飲みながら町を徘徊してたどり着いたのがその集会。主人公の方は電車を乗り継いでロンドンまでという話をしているので,その辺りが舞台。
相手役の男性が1974年の時点で街を歩くシーンに,背後の建物には「NO EVICTION(立ち退き反対)」という落書きがあったりして,時代を感じさせる。ストーリーはなんてことのない話。でも,逆に最近のヨーロッパ映画は,アクションやファンタジーものでない限り,どこか社会問題を組み込むようなものが主流のような気がするので,こういう素朴な恋愛ものはある意味で新鮮です。しかし,主人公の親の職業など,随所にその場所と時代,社会階層の雰囲気が散りばめられているところがさすがです。

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俗都市化

フランセスク・ムニョス著,竹中克行・笹野益生訳 2013. 『俗都市化――ありふれた景観 グローバルな場所』昭和堂,258p.4,000円.

 

本書は,スペインの地理学者による都市論である。それをスペイン研究を専門とする日本の地理学者が翻訳した。しかし,私は本書の翻訳・出版については知らず,『地理学評論』に掲載された荒又美陽さんによる書評(2014年,874号)でその存在を知った。その後,著者はオリンピック関係の英語論文も書いていることを知り,その都市理論がどんなものかを把握するために読むことにした。

序 空間的フォーマットとそれを支えるダイナミズム(サスキア・サッセン)
日本語版はしがき
俗都市化とは
第1章 解体途上にある1000の地域
第2章 多重化都市,テリトリアンの都市
第3章 俗都市化
第4章 俗都市化の四つの道程
 交換される都市――ロンドン
 ロゴ都市――ベルリン
 引き裂かれる都市――ブエノスアイレス
 ブランド都市――バルセロナ
第5章 「俗景観」,俗都市化の景観
終章 「俗都市化」に抗う
訳者あとがき

目次にあるように,サッセンが序文を書いている。「差異のマネジメントから出発して,結果的に共通の景観を生み出すにいたるダイナミズムである。私自身は,このプロセスを扱った英語文献を目にしたことがない。」(p.ii)と絶賛している。まあ,著名な著者による序文が広告文のようなものだから,絶賛するのが当たり前だが,それなりの期待を込めて読み始めた。
本書における経験的事例の提示や,個々の詳細の論理があって本書が成立していて,そのやり方は説得的なものだと思うが,行きつくところは少し残念だった。過去でいえばレルフの『場所の現象学』,日本でいえば松原隆一郎の語り口とよく似ている。かつての個別の都市の論理で生じた郊外化を代表とする都市化ではなく,近年の世界的ネットワークによるグローバル化に伴う都市化は「平俗banal」なものを拡散しているという結論である。
もちろん,1970年代のレルフをはじめ,ボードリヤールやドゥボールの議論に基づく点は日本における1980年代の都市(記号)論をほうふつとさせるが,その後の都市論としてのハーヴェイやソジャ,カステルの都市論,スミスのジェントリフィケーション論,オジェの「非・場所」論などの新しいところも参照されていて,過去の議論が今日においてもある意味別の文脈で成立することを確認できる。本書では引用されていないが,ディズニー化の議論などにも共通するのだろうか。
最後に,本書における経験的分析について書いておきたい。本書はあらゆる都市について断片的に語るのではなく,ロンドン,ベルリン,バルセロナ,ブエノスアイレスという4つの都市に集中して論じている。そういった意味においては雑多な印象は受けないのだが,やはりどこか違和感を抱くのだ。まあ,研究者視点の都市論なんてこんなものだといえばそれまでなのだが,ここでいう「経験的」分析とは,どういう経験なのだろうか。私は40年以上東京都市圏で生活し,東京都民になってからも20年近い。とはいえ,東京西郊に居住し,現在は都心部に通勤しているが,年数は長くない。私は都市居住者である一方で,本書のいうところの「テリトリアン」だ。この言葉を私はバルトの「都市使用者」から借りて使っているが,消費者,あるいは旅行者として都市を利用する者のことをいう。自身の研究でいえば,代官山や下北沢という東京内部の「街」についてはある程度語ることができるが,それも特定の目的で「利用」している側面のみであり,またある特定の「時期」だけである。現在居住している日野市や過去に居住していた調布市や府中市という「町」についてもある程度語ることができるが,それも限定的だ。特に,日野市では持ち家を得て,子どもたちを地元の教育機関に通わせるという一般的なライフステージを得ることで,永住するような覚悟が私に芽生えた。そのおかげで,初めて一般的な地域への関わりの意思を持ったわけだが,それでもこの行政区画について知らないことが多すぎる。どこまで関われば,その土地について知っていると自信を持っていうことができるのだろうか。そういうことを考えさせられる読書であった。
最後にテリトリアンについても書いておこう。私は全般的な意識として,居住しているという属性が,その土地に対する関わり方の最優先であるという考え方に疑問を抱いている。下北沢の再開発反対運動にあったように,そうした運動は住民運動でなければならない理由はない。別の場所に居住していながら働いているでもなく,遊びに来ているだけという場所との関わり方がある。通常,そういう関わり合い方は一時的であり,二次的であるとみなされる。でも,場合によっては住んでいるといったって,寝に帰るだけで,活動時間の大半を別の場所で過ごすという生活も多いはずだ。そういう意味でも,本書がテリトリアンという存在に着目するのは素晴らしい。しかし,本書の語り口はやはりそういう人の関わり合いは一時的で二次的で,そういう消費者・旅行者のために都市が造られるというのはおかしい,だからこそ都市景観が似通ったものになるのだ,という論調のように思える。やはり大衆を一括りにして軽視する1980年代の消費文化論と似てなくもない。

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東京大都市圏におけるハウジング研究

久保倫子 2015. 東京大都市圏におけるハウジング研究――都心居住と郊外住宅地の衰退』古今書院,208p.3,500円.

 

2020年の東京オリンピックは湾岸地区を中心に施設が新設されることになっている。例えば選手村に関してはこれも公的な土地が極度な安価でオリンピックのために開発され,その後宅地に転用されるらしい。そんなことを理解するのに,東京大都市圏全体の不動産事情と,湾岸地区におけるマンション建設の動向を理解したいと思っている。そんな時に,本書の存在を知った。本書の著者はこれまでもよく名前を見ていたが,実際に論文をきちんと読んだことはなかった。しかし,コンスタントに論文を書いているし,本書のタイトルが,由井義通さんの『地理学におけるハウジング研究』を意識しているし,実際に由井さんと共著論文も書いているので,信頼できると思い,読み始めた。ちなみに,カバーの写真も東京湾岸部のタワーマンションから撮影された写真になっている。

 1章 序章
第1部 マンション居住の進展とその意義――水戸市中心部と幕張ベイタウンにおけるマンションの役割の分析から
 2章 日本における住宅市場の変化とマンション居住の浸透過程
 3章 東京都心部における1990年代以降のマンション供給の変化
 4章 水戸市中心部におけるマンション購入世帯の現住地選択に関する意思決定過程
 5章 幕張ベイタウンにおけるマンション購入世帯の現住地選択に関する意思決定過程
 6章 マンション購入世帯の現住地選択に関する意思決定過程からみたマンションの役割
第2部 郊外住宅地の衰退と持続可能性
 7章 郊外住宅地における居住環境の変化
 8章 成田ニュータウンにおけるミックス・ディベロップメントの実態
 9章 成田ニュータウンにおける地域社会の特性と住宅地の持続性
 10章 海外都市の居住環境に学ぶ――第2部の結びにかえて
 11章 結論――東京大都市圏における居住地域構造の変容に関するハウジング研究の成果と課題

しかし,2日の通勤電車で読み終えてしまい,けっきょく私の希望は果たせない読書だった。確かに3章では東京大都市圏全体のマンション供給について,地図とグラフで示されているが,これはその後の水戸,幕張,成田の位置付けをするための導入にすぎない。湾岸地区の細かい話など分からない。
ともかく,200ページ足らずの本で11章もあるので,各章は事例の紹介自体もコンパクトにされていて,考察という考察は各論でしかない。そもそも,本書における総論と各論は抽象度の問題ではなく,スケールの問題なのだ。読み終える頃に,やはりいい意味でも悪い意味でも筑波大学の地誌学の伝統の延長線上にある研究者だなと思うと,実際に結論部で地誌学の有効性を謳ったりしている。しかし,だからといって今この時代に地誌学を謳うことの意義や,その方法論について議論されているわけではない。
本人も「おわりに」で書いているが,著者の境遇を非常に羨ましく思うことが大きい読書だった。学振の研究員に関しては,私の時代よりも多くの人がなれるようになっているが,著者は若手向けの科研費をいくつも獲得していて,また共同研究者にも恵まれ,本書のように学会の助成で本を出版している。もちろん,それは本人の努力なしに獲得できるものではなく,私はそういう努力を避けてきたが,正直研究のために他人のお金を使ったことは,現在のオリンピック研究以外にはない。そういう意味でも,このような研究が社会的に要請されているものだといえるのだろうか。ちなみに,私も著者校正が苦手な人なので偉そうなことはいえないが,2箇所の誤植を発見。

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