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2018年10月

君はオリンピックを見たか

天野恵一編 1998. 『君はオリンピックを見たか』社会評論社,230p.2,200円.

 

1964年の東京オリンピックをめぐっては探せばけっこう資料があるようだが,実はあまり手を付けていない。しかし,本書は出版年が1998年ということで,中古で格安だったこともあり,入手して読んでみた。本書は1998年に開催された長野オリンピック冬季大会に対する「長野冬季オリンピックに反対するネットワーク」という団体の作業から生まれたものでもあるという。その団体の代表者が第二部の執筆者であり,本書の3分の1は招致・計画段階の長野大会批判にあてられている。編者もそのメンバーであったが,それは「天皇制運動連絡会」という団体としての参加であるということで,いわゆる左翼系の現代社会批判を行っている知識人たちも執筆している(私が知っているのは池田氏と小倉氏ぐらいだが)。
ある意味でそんな偏ったものではあるが,そういう思想にも触れておきたいし,また,具体的なところでも得るところの多い読書だった。

第一部 誰のためのオリンピックか
 五輪神話の仕掛人とその背後関係(天野恵一)
 「動員」の構造――ナチのベルリン・オリンピック(池田浩士)
 オリンピック「動員」にどう対抗するか(岡崎 勝)
第二部 長野オリンピックのここが見所(江沢正雄)
 税金はどこに流れたのか
 メディアじかけの利権屋の祭典
 犬のフンとファシズムのはざまで
 こうして「聖火」が長野にやってくる
 [コラム]「天皇行事」のオリンピック 象徴天皇は“国家元首”か?(天野恵一)
第三部 東京の灯よサヨウナラ 天皇制と東京・札幌オリンピック
 リニューアルされた日の丸・天皇 シンボルが東京オリンピックで(野毛一起)
 大衆動員に使われた聖火 官僚の描いた日本地図の中心(小倉利丸)
 ナショナリズム形成のアイテム 重ね焼きされる皇族のパフォーマンス(浅見克彦)
 治安体制強化の口実として 国家イベントを支える自衛隊・警察(土方美雄)
 都市再活計画・1964・東京 垂直イメージにみる天皇制の陰影(高島直之)
 スポーツの無償性・映画の芸術性 映画「東京オリンピック」をめぐって(天野恵一)

まず,基本的に金にまみれたIOC(国際オリンピック委員会)を代表とするオリンピック関連組織を本書では「オリンピック・マフィア」と呼ぶのだが,そのような論調は既にあって,翻訳された書籍もいくつか紹介されている。例えば,シムソン, V.ジェニングズ,A.著,広瀬 隆訳 1992. 黒い輪――権力・金・クスリ オリンピックの内幕』光文社.という本だ。日本でもスポーツ記者による,石川泰司 1990. 『もう金メダルはいらない』河合出版.なる本があるようだ。まあ,この手の話は詳しくは知らないが,マスコミも好きな話だし,想定以上のものはない。1936年のベルリン・オリンピックもナチにうまく利用されたということはよく語られる。聖火リレーはこの大会で導入されたものだが,それがナチの侵攻ルートの事前調査になったとか,という話は少し眉唾物だが,そもそもオリンピックの理念とナチス・ドイツの政治的理念とは一致しないという議論はなかなか興味深い。
長野オリンピックの分析である第二部は資料が充実している。基本的には費用と財源に関する詳細だが,外国人取り締まりに関する資料は,2020東京大会でも作成したら面白い。また,第二部ではないが,長野大会時の子どもたちの「動員」についての岡崎氏の文章も興味深い。岡崎氏は実際に小学校の教員であり,大会が盛り上がっていることをアピールするために児童が動員された事実を訴えている。
第三部は1964東京大会を含めた内容で,著者たちの熱のこもった議論となっている。1964年大会に復帰前の沖縄が聖火リレーの国内(?)出発点に選ばれたという話は近年の論文もあるが,小倉氏の文章もかなり詳しいものだった。また,土方氏による五輪大会に対する自衛隊・警察の協力については,これまで私はほとんど考えておらず,刺激的だった。最近の都市研究の文脈におけるメガイベント研究の中心テーマである都市計画との関連についても触れられているし,市川 崑の映画に関する文章もあり,本書から学ぶことはなかなか多かった。

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追悼,樹木希林

201894日(火)

調布シアタス 『寝ても覚めても
原作の柴崎友香は『きょうのできごと』の原作者でもあるが,大学で地理学を学んでいて,大阪を中心とした地理的想像力にあふれる作品を有する作家。それだけでなく,斬新な視点を持つ作家として注目しているので,その実写版を楽しみにしていた。監督の濱口竜介は,名前も知らず,作品を初めて観るが,かなり注目されているらしい(この作品の公開後,『ユリイカ』で特集されていた)。しかし,私が何よりも心惹かれてしまったのは,主演女優の唐田えりかだ。相手役の東出昌大も含め,けっして演技で魅せるような俳優ではないのだが,スクリーンでのそのたたずまいになんともキュンとしてしまった。それが演技なのかどうなのかわからないが,その不器用そうで恥じらいのある演技が,真面目だが移ろ気で,普段は煮え切らないが時に強い決断力を持つ,そんな人間像に見事にマッチしていたと思う。相手役が東出さんであることもあって,身長は小さな印象を与えたが,大きく両手を何度も振るシーンでは,体の割にその長い腕に驚かされた。
映画としてはどうなのだろう。すっきりとスタイリッシュとはとても呼べない。淡々としているというのはいい評価の時に使うが,ダラダラしているともいえなくはない。原作に基づくストーリーも,現実離れしたラブストーリーともいえなくはなく,そういう意味では私の期待する柴崎作品(原作は読んでいませんが)とは異なっている。しかし,川辺を主人公2人が追いかけて走っていくシーンは,近年の映画のなかでは群を抜いて美しかった(そもそも,私は映画を画面の美しさではあまり評価しない)。久しぶりにスクリーンで観る山下リオちゃんも嬉しかった。もう26歳なんですね。すっかり大人の女性でした。濱口監督と,唐田えりか,これから注目しよう。

 

20181017日(水)

調布シアタス 『日日是好日
黒木 華と多部未華子の共演ということで,予告編で知ってすぐに観たいと思った作品。公開を心待ちにしている時に,樹木希林の訃報が届いた。意外にあっけなく亡くなるものですね。それにしても死の直前まで仕事に全うした姿はさすがとしかいいようがない。そんなこともあり,平日の回で,かなり大きなスクリーンだったが,観客席は年配の方々でかなり埋まっていた。監督は大森立嗣。
主人公は1973年生まれの設定となっていて,そんなには意識をしていないと思うが,懐かしさを感じる。まさになんてことのない物語。主人公は茶道で突出した才能を発揮するわけでもなく,樹木希林演じる茶道の先生も非の打ちどころのない人物なわけでもなければ,主人公とお茶以外の特別な結びつきが演出されるわけでもない。主人公と一緒にお茶に通っている多部未華子演じるいとこも,就職はするが3年で辞め,地元に帰って見合い結婚というありふれた人生。誰もが特別にすごいわけでもなく,特別な偶然が起きるわけでもなく,それでいて「何もない日常が素晴らしい」的な主張を強調するわけでもない。
一つ驚いたのは,華ちゃんと未華子ちゃんが並ぶと,華ちゃんの方が身長が大きいということ。この二人のバランスが面白かった。そういえば,黒木 華は『シャニダールの花』で,多部未華子は『ピース オブ ケイク』でともに綾野 剛と共演している。

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オリンピック,メガイベント関係論文(英文編1)

共同研究のメンバー宛のメールで送っていた内容ですが,少しずつこちらでも公開していきたいと思います。

Gaffney, C. (2013). Between discourse and reality: The un-sustainability of mega-event planning. Sustainability, 5(9), 3926-3940.
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以前にも紹介したブラジルの地理学者による論文です。リオ大会についての研究をしています。この論文はサステイナビリティの専門誌ということで,それを強く意識した内容になっています。2016年の開催前に書かれたものですが,まずIOC自体がレガシー,環境という言葉とともに,あるいはそれと関連してサステイナビリティという言葉を大会招致の条件として強調していることを確認します。そして,言説分析をうたっていますが,リオ招致ファイルのごく単純なキーワード件数の分析をし,サステイナビリティという語が強調されていることを確認しています。
事例研究として,リオ大会から正式種目として復活したゴルフ場の建設に関する議論に移ります。そもそも,開発国におけるゴルフというスポーツの位置を確認し,ごく一部の上流階級のための施設となっているといいます。結果的には,建設地への環境負荷をかなり与えるだろうということです。

 

Essex, S. and Chalkley, B. (1998) Olympic games: catalyst of urban change. Leisure Studies 17: 187-206.
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1990年代のオリンピック基本文献と呼べそうな内容です。夏季オリンピック限定ですが,近代オリンピックの理念から,1896年のアテネ大会から2000年のシドニーを見越したところまで。
初期の頃は各都市である意味基準もなく適当にお祭りがなされていましたが(第一期),1912年のストックホルム大会あたりから,オリンピックのために新しい施設(スタジアム)が建設されるようになります。選手村ができるのは1932年のロサンゼルス大会のようですが,1936年のベルリン大会はよく知られるように,かなり「見せる」というところを意識するようになりますね。そうした第二期を経て,第三期は1960年のローマ大会以降とされます。単に施設を建設するだけではなく,それらの間の移動も考慮してインフラが整備されるようになり,いわばオリンピックを契機に都市の建造環境の変容がなされるということです。夏季大会への参加国数と選手数を示した世界地図がありますが,オリンピックが大規模化し,よく知られるように,1984年のロサンゼルス大会から放映権が高騰し,商業目的になっていきます。都市競争の一環としての誘致合戦に勝てばグローバル・シティとしての仲間入りが果たせるというのが,1990年代までの状況でしょうか。

 

 

Hiller, H. H. (2000). Towards an urban sociology of mega-events. Research in Urban Sociology 5: 181-205.
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ヒラーは社会学の分野でメガイベントを都市研究と結び付けた主要な研究者といえると思います。そういう意味でも,本書は代表的な論文です。今読むと目新しい議論は少ないですが,脱工業化の都市において,メガイベントのような契機が必要です。まずは観光を始めとした経済的インパクトですね。それはメガイベントの招致活動を通じて世界にその都市を知らしめます。実際に外国人観光客を迎え入れる(それ以前にイベント会場づくりがありますが)際に,都市再生事業を行い,レジャー・観光商品の生産が行われます。もちろん,その過程で貧困層の立ち退きなどが行われます。以前も別の文献で紹介しましたが,イベント開催前,開催中,開催後のそれぞれのフェーズで論点は異なってきます。最後に,メガイベントの都市社会学におけるテーマが羅列されています。都市変化のための触媒,重要な都市空間の土地利用変化,都市計画における創造性のひらめき,移動性の発見(公共部門,私的部門),時折野心的,過剰すぎる支援事業,開催日までの完了要求,(交通など)限定された領域におけるインフラ改修,都市空間を改良する意味のある構造の生産。

 

Malfas, M., Theodoraki, E., & Houlihan, B. (2004). Impacts of the Olympic games as mega-events. Proceedings of the Institute of Civil Engineers, Municipal Engineer, 157(ME3), 209-220.
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掲載雑誌がどういうものか分かりませんが,土木協会のような純粋な学術というよりは業界誌のような感じかもしれません。この論文は一般的なタイトルがついていますが,少し一般の読者向けに書かれた文献レビューです。なので,すでに知っていることも少なくありませんが,基本的な知識から分かりやすく解説されているという意味では助かる論文です。引かれている文献も,一般向けの著書が多いのでしょうか,これまでのレビュー論文では挙がっていなかったものがけっこうあります。
近代オリンピックの成立からオリンピズムの解説,メガイベントの簡単な定義,メガイベントのインパクトとして,社会-経済的なもの,社会-文化的なもの,物理的なもの,政治的なもの,というわかりやすい項目に沿って解説されています。立ち退きの問題や,観光へのインパクトに関する批判的な研究なども取り上げられています。長野大会の費用が市の予算を圧迫したということにも触れられています。
メガイベント誘致に際し,行われる費用対効果分析の多くが,開催側の都合の良い結果になっている,などという記述は,土木業界に身を置くものとして,最もだと思いました。

 

Muller, M. (2017). Approaching paradox: Loving and hating mega-events. Tourism Management 63: 234-241.
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同じミュラーによるこちらの論文は,タイトル通りパラドクス(逆説)という観点でメガイベントをとらえようという面白い試みです。副題にあるように,「私はメガイベントを愛するし,同時に憎む」という感情を説明しようというものです。ここでは,6つのパラドクスが挙げられています。1.普遍主義的逆説:これは5つ目の逆説とも関わりますが,オリンピックのようなグローバルなメガイベントは普遍主義を謳いますが,同時に国家間競争であったり,ローカルな特色を生かした開催だったりします。2.コンプライアンスの逆説:ここで挙げられているのはドーピング検査のようなもので,イベントの規模やスケールが大きいほど,それを運営するための基準が必要で,それは時に上からの暴力的な規則になってしまうということですね。3.勝者の逆説:オリンピックなどの招致活動はもちろん勝つためにやるわけですが,勝ったが故に背負わなくてはならないものも少なくない。4.参加の逆説:メガイベントはトップダウン的に様々なことが決められますが,競技者や市民の参加がないと成立しません。その参加者も多様であり,関わり方も多様です。5.単一性の逆説:メガイベントはさまざまな規制の下に成立し,その運営には型通りの作業が要求されますが,同時にそのなかで開催国,都市の独自性=単一性も要求されます。6.情熱の逆説:同一の個人の中にも生じる競合する感情。冒頭に書いた愛と憎しみです。
このパラドクス=逆説という観点についても哲学的な省察がなされています。contradiction=矛盾は2つのものが同時に成立しない二律背反的なものですが,パラドクスは両極のものを包含し,どちらか選ぶということではないということで,物事の本質を捉える上で哲学的な意義があるということです。メガイベントの逆説については3つの戦略で立ち向かうとされています。1.説明:逆説の両義性を維持したまま,ともかく説明します。メガイベントは関わる主体や時期,状況によって意味が変わります。2.差異化:逆説の構造により深く探求します。メガイベントについては,時間,空間,社会集団という観点の差異に注目します。3.再枠組み:物事はさまざまな理論的立場によって見方が異なります。
なんでも「批判的」という形容詞がつく研究動向がありますが,「クリティカル・イベント・スタディーズ」なるものも標榜されているようで,この論文のような内省的な思考がイベント研究にも必要だ,ということのようです。

 

Muller, M. (2015) What makes an event a mega-event? Definitions and sizes. Leisure Studies 34(6): 627-642.
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ミュラーも数多くのメガイベント研究をしているスイスの地理学者です。彼は論文によって切り口を変えているので,とても読みやすい研究者です。この論文はかなり基本的な問いを立てています。タイトル通り,メガイベントと一般的にいうが,どこからがメガと呼べるのか,さまざまな指標から論じています。まず,規模に関してはメガの下が「メジャー」,上が「ギガ」となります。まず,「観光要素」「放映・報道」「費用」「開発」の4つの指標で,従来の研究におけるメガイベントの位置付けの違いを確認しています。
続いて,具体的なイベントをさまざまな指標で比較します。万博,五輪,サッカー,地域別スポーツ大会など,2010年以降に開催されたものが対象です。チケット販売数,放映権料,資本投資額,運営収支の指標でまとめた表があります。上記4つの指標を03まで点数化し,合計点数によって,ロンドン2012大会がギガ,バンクーバー2010冬季大会までがメガ,APECサミットやラグビーのワールドカップ,スーパーボールなどはメジャーイベントと位置付けられています。

 

Renau, L. de R. and Trudelle, C. (2011) Mega events and urban conflicts in Valencia, Spain: contesting the new urban modernity. Urban Studies Research 2012: 1-12.
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掲載雑誌はHindawi Publishing Corporationという企業の発行する雑誌のようなので,どの程度の学術的価値があるかは分かりません。ただ,この論文に限っては前半にけっこうしっかりとレビューがなされています。スペインのバレンシア地方がメガイベントの誘致を契機に沿岸部の再開発をするというよくある話ではあります。ヨットレースの世界的大会であるアメリカズカップの開催会場に2003年に決定し,2007年に開催されます。また,その後F1のレース会場(街中を走る)になるということで,既存の都市構造に手が加えられます。
本題に入る前にこの港湾地区の歴史が簡単に説明されます。地中海に面した湾はかつては漁業と造船の町として栄えますが,1970年代に衰退します。
この論文では,1995-20101つの日刊地方紙の記事を分析したものです。報道ではその期間に25の紛争が確認されていますが,そのほとんどは地元行政および地域行政と住民の間のものです。紛争があった場所を,失業率の地図と重ね合わせたりしていますが,あくまでも資料が新聞なので紛争の詳細までは踏み込めていない。結論的にはメガイベントのための観覧席などの施設が使用されないまま残されて,というありがちな状況が報告されています。

 

Roche. M. (2002). Olympic and Sport Mega-Events as Media-Events: Reflections on the Globalisation paradigm. Sixth International Symposium for Olympic Research 1-11.
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ロッシュは2000年の『メガイベントと近代性』で知られる社会学者(?)で,荒又さんも引いている様に,メガイベント研究では避けて通れない著書のようです。2017年に『メガイベントと社会変容――スペクタクル,レガシー,公共文化』というのを新しく出していますね。
さて,この論文はたまたまウェブで見つかったもので,オリンピック研究のシンポジウム報告書の一部のようです。2000年という早い時期にメガイベント論を近代性という枠組みで論じたロッシュの著作は,観光をやはり近代性の枠組みで捉えたマッキャネル『ザ・ツーリスト』(原著1976年,邦訳2008年)ほど知られてはいませんが,それに匹敵するのかもしれません。この報告書論文では,それを今度はグローバル化の文脈で議論を深化しようとしています。冒頭でグローバル化研究全般がなぜメガイベントおよびメディア・スポーツに注意を向けてこなかったのかと問いかけ,オリンピック大会を「地球村」における「メディア・イベント」ととらえることで,全般的なグローバル化研究に寄与できるものと主張しています。
確かに,近代オリンピックの時点で普遍性を謳っていますが,それはあくまでもヨーロッパ幻想的な普遍性であり,それをごまかしつつ欧米以外の開催国で行うことでグローバリズムの普遍性へと置き換えてきたといえるかもしれません。もちろん,それを支えるのがメディアであり,そういう意味でも次に挙げる浜田さんの論文は面白いです。

 

Teigland, J. 1999. Mega-events and impacts on tourism: the predictions and realities of the Lillehammer Olympics. Impact Assessment and Project Appraisal 17: 305-317.
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オリンピックのツーリズムへの影響というテーマは,このメンバーでは取り扱いませんが,膨大な研究成果があるようです。全く無視するわけにもいきませんので,いくつかは読むようにしています。オリンピックのような一過性のイベントによる観光への効果は,もちろん開催中と開催後,そして開催後の期間(数ヶ月か数年か)によって異なってきて,開催後ある程度たつともとの水準に戻ってしまう場合もあります。また,もともと観光客の推移には季節変動などもあり,そうした要素を取り除くことで実際のイベントの効果を評価しようというのが研究の中心です。この論文では,1994年に冬季大会を開催したノルウェーのリリハンメルを対象としており,1989-1997年という長期の統計データを用いて分析しています。時間の推移だけでなく,ノルウェー全体,大会会場中心部,衛星的な競技会場付近,周縁部という感じで,地理的な違いについても考察しています。もちろん,イベントがあるだけで観光客が増えるなんてことはなく,イベント関連で来たお客にいかに魅力的なものを感じ取ってもらえるかという仕掛けの開発が必要だということですね。

 

Horne, J. (2007). The four 'knowns' of sports mega-events. Leisure Studies, 26 (1), 81-96.
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ちょっとよくわからない論文も一つ。この論文は,2003年にイラク情勢に関する米国ラムズフェルド国防長官の発言に関して,スラヴォイ・ジジェクが『ガーディアン』に寄せた文章に用いられた枠組みでスポーツ・メガイベントを考えようというものです。それが4つの「知る」ということです。一つ目は「知られていることを知ることKnown Knowns」であり,オリンピックについてよく知られていることが論じられます。1980年代以降の商業主義的なオリンピック。脱産業時代に新自由主義的で,起業家主義的な都市間競争の一舞台となっているオリンピック招致活動。二つ目は「知られていないことを知ることKnown Unknowns」であり,オリンピックについてはよく知られていないことも多く,それを知ることが研究に課せられた責務でもあります。まあ,開催に関わる腹黒い政治とか,負の遺産とか。この著者は2002年の日韓合同開催ワールドカップの研究もしているようで,その事例もここで挙げられています。三つ目は「知られていないことを知るすべもないUnknown Unknowns」で10行足らずの記述です。このことに関しては,なかなか想像もできないことですが,想像力を働かせて調査することで,「知られていることを知ること」にもなり得るということだそうです。四つ目が「知られていることを知らないUnknown Knowns」は知られていることを信じていないということや,知っていることを思い出していない状態のこと。ここではなぜかけっこう普通の研究が取り上げられ,立ち退きに関わるCOHREの研究なども挙げられています。まあ,結局よくわからない論文ではありますが,いろんな観点でオリンピックを捉えるというのは必要で,面白いですね。

 

Hall, C. M. (2006). Urban entrepreneurship, corporate interests and sports mega-events: the thin policies of competitiveness within the hard outcomes of neoliberalism. the Sociological Review 2006: 59-70.
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章や節で区切られていない短い文章ですが,この人物も観光研究の文脈でスポーツ・メガイベント研究を手掛け,地理学雑誌にも寄稿しているようです。この論文はスポーツ・メガイベントを,場所のプロモーション,新自由主義,都市の起業家主義という文脈で捉えようとするものです。メガイベントが意識的,経済的競争世界の市場のなかで都市や国家のイメージを改善する機会として期待されているといいます。この論文は,基本的に既存の研究のレビューですが,過度な競争が,ゼロサム・ゲームどころか,マイナスサム・ゲームであり,勝者が必然的に敗者になると指摘する研究もあるようです。まあ,オリンピックもそれに近いですかね。

 

Surborg, B., VanWynsberghe, R. and Wyly, E. 2008. Mapping the Olympic growth machine: transnational urbanism and the growth machine diaspora. City 12: 341-355.
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この論文は,いくつかの理論的枠組みを使って,2010年のバンクーバー冬季大会を分析しています。その枠組みとは「都市の成長マシーン論」とレジーム理論です。馴染みのない議論ですが,検索してみると日本人の研究者で紹介している人もいるようです。都市の成長マシーン論はその名の通りですが,その土地の名士の役割が強調されているようです。こう書くと限定的ですが,東京における森ビルみたいな存在でしょうか。レジーム理論は政治学を中心としたもののようですが,公共機関と私的企業,非営利団体などの都市政策における混成などが論じられるようです。こう書くと,まさにオリンピック分析にふさわしい気もします。
この論文は当の2010年以前に書かれていますから,オリンピックの話も断片的で,招致の話が中心です(開発中の写真は掲載されていますが)。この論文では「成長マシーン・ディアスポラ」という表現も用いられていて,1970年代後半に唱えられた成長マシーンの概念が,グローバル化の時代には地元のというところが変容し,トランスナショナルな主体がローカルな都市の発展に寄与する,ということでしょうか。バンクーバー大会の招致に関しては,2001年から始まる運動における市長や州知事,IOC会長などのプレゼンについて検討され,それらがカナダだけでなく,米国やオーストラリアなどでも行われたことを示しています

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