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2018年12月

オリンピック,メガイベント関連文献(英語編2)

Pillay, U. and Bass, O. 2008. Mega-events as a response to poverty reduction: The 2010 FIFA World Cup and its urban development implication. Urban Forum 19: 329-346.
https://link.springer.com/content/pdf/10.1007%2Fs12132-008-9034-9.pdf
この論文はタイトル通り,2010年に南アフリカで開催されたワールドカップ大会における都市再開発を扱っている。多くの国際的文献はその収益効果の評価へと向けられるが,この論文では貧困の軽減がもたらされるわけではないことを示している。とはいえ,南アフリカにおいてどこがワールドカップの競技に用いられるために開発されたのかなど基礎的な情報が提供されず,国際的文献の分析に終始しているため,具体的な像がつかめない。まあ,実際には開催年の前に発表された論文であり,最後に「2010年大会に向けての洞察」などとなっている。南アフリカではまだメガイベントが国民形成や,国際社会への仲間入り,経済と再開発の獲得に向けられている。しかし,さまざまな文献から,開発のアジェンダを提言していて,コミュニティ支援プログラムや雇用創出,低家賃住宅の提供,零細企業支援,統合交通システムの提供などが含まれる。

 

Muller, M. and Steyaert, C. (2013). The geopolitics of organizing mega-events. In Handbook on the Geopolitics of Business, ed. Munoz, J. M. S. Edward Elger, 139-150.
https://serval.unil.ch/resource/serval:BIB_F03D204E0F87.P001/REF
ミュラーはメガイベント研究を専門とする地理学者だが,「ビジネスの地政学」と題されたハンドブックの1章ということで,メガイベント組織をビジネスとみなし,それを地政学の観点から論じたもの。よって,目新しいデータなどが使われているわけではないが,うまくまとめられている。まず,オリンピックのようなメガイベントはグローバル資本主義と消費者文化の縮図と認識している。そして,地政学を権力のグローバル競争と定義する。近年のメガイベント招致は新しい地政学的局面に入っているという指摘は,町村氏の議論と同じだといえよう。そして,三つの行為主体を特定している。1.国民とグローバル想像の地政学,2.企業と市場拡張の地政学,3.都市と(不)視覚的な効果の地政学。1.に関してはジョセフ・ナイの概念「ソフト・パワー」の概念を借り,北京大会の中国,アボリジニを開会式に動員したシドニー大会を論じている。国民の包摂と国際社会への仲間入り。2.に関しても北京大会のスタジアムが論じられ,世界的な設計会社による,最先端技術を用いて中国的モチーフをシンボルに仕立て上げる。チケット販売についても議論があり,その金額と販売方法が開催都市住民に開かれたものではない。3.に関してはメガイベとが都市政治から都市地政学へと移行しているという。企業家主義的でネオリベラリズムによる都市再開発は1984年のロサンゼルス大会に始まる。ジェントリフィケーションやブランド化が進展し,創造都市間で過度に競争され,グローバルな要求に都市政策が従属することでメガイベントは都市の均質度の増加に拍車をかける。

 

Hiller, H. H. (2000). Mega-events, urban boosterism, and growth strategies: An analysis of the objectives and legitimations of the Cape Town 2004 Olympic bid. International Journal of Urban and Regional Research, 24(2), 439-458.
http://people.ucalgary.ca/~hiller/pdfs/Olympic_Bid.pdf
かなり引用されることが多い文献。失敗に終わった南アメリカのケープタウンでの2004年夏季大会の招致活動を事例にしています。アパルトヘイトで知られる国ですが,1960年代に産業の成長がみられ人種の差を基礎とする経済格差が広がります。1991年にアパルトヘイト関連法が撤廃され,1994年に全人種参加の総選挙でマンデラ政権が成立。全人種参加の地方選挙の実施は1995年で,新憲法の発効が1997年とのこと。2004年の開催都市は1997年の9月にアテネに決定されますから,まさに民主化に向けた変容のなかで招致活動がなされたといえます。ということもあり,この国においてはオリンピックが単なる都市再開発のような狭い意味ではなく,人間開発(human development)がその理由とされた。具体的な開発においては,不遇地域(disadvantaged area)の多くがその対象となっていた(残念ながら地図が不鮮明で見にくい)。この論文では,その招致計画を以下の項目で詳細に検討しています。不遇地区における施設建設,コミュニティのスポーツ・プログラムを支援するスポーツ施設,人的資源の機会,手ごろな家賃の住宅ストックへの貢献,中小企業への支援,交通システムによる都市統合,コミュニティのコンサルタント,など。もちろんこれらがきちんと盛り込まれていた招致計画であったわけではありません。論文タイトルにもboosterismとありますが,boostとは「景気あおり」などの意味があるように,boosterismには「推賞宣伝」という訳語があります。ケープタウンでは1990年に企業家のアッカーマンという人物の主導で招致活動が始められました。しかし,アフリカ民族会議(ANC)の政権により,招致を政府主導で行う方針となり,その間にケープタウン市が1996年に,市が属する西部ケープ県が1994年に有色人種から指示を受けた国民党政府になります。
とはいえ,オリンピックは南アフリカにとって公私両側にとって,ビジネスの好機とみなされ,観光産業や歓待産業の企業がスポンサーに名を連ねたとのこと。オリンピックへの市民の期待はアンケートによって異なるようで,首都圏や富裕層が住む地区では80%が支持したという結果の一方,ケープタウンでは黒人が92%なのに,白人が62%,白人読者の多い新聞では70%が反対,他の新聞では92%が「No」など。実際には,候補地として落選するわけですが,その前にいくつかの施設が建設され,政府が多額の費用を負担したとのこと。結論としては,「パン」を必要とする人々のために「サーカス」を用意したようなものでしたが,メガイベント開催の大義としては,新しい人道主義的な都市的価値という新たなオプションを用意した,ということのようです。

 

Hall, C. M. (1989): The Definition and Analysis of Hallmark Tourist Events. GeoJournal 19 (3): 263-268.
https://www.researchgate.net/publication/227225064_The_definition_and_analysis_of_hallmark_tourist_events
メガイベント研究という分野がありますが,その前にはホールマークイベントと呼ばれていたようです。ちょっと日本語としてしっくりくるものはありませんが辞書で調べると「折り紙付きの」のような意味位しかなく,まあ本来は規模に限らず重要なイベントという意味合いだったのでしょうか。この分野の先駆的な論文はRitchieという人の1984年のものだがまだ入手できず。とりあえず,継続的にメガイベント研究をしている地理学者ホールによるものがこの論文。地理学雑誌に掲載され,またタイトル通り観光分野をメインとしています。「ホールマーク観光イベントは近代観光のイメージ創造者である」と定義づけ,限られた期間で開催されるイベントを規模の小さいコミュニティ・イベントと比較的大きいホールマーク・イベントに区分し,後者をさらに規模の大きいスペシャル・イベントと最大級のメガ・イベントに区分する表を掲載しています。そして,最後の文章が示唆深いです。イベント計画者や観光研究者は,イベントの招致に当たり,ホストコミュニティの望まない費用を最小限にし,かつ効果を最大限にするように努めなくてはならず,当該コミュニティに持続的で活力のある観光産業を創造しなくてはならない,という。

 

Roche, M. (1994): Mega-events and Urban Policy. Annals of Tourism Research 21: 1-19.
以前にも紹介した,2000年の『メガイベントと近代性』で知られる社会学者の1994年の論文が入手できた。冒頭で,メガイベントはその開催都市に長期的な影響を及ぼす短期開催のイベントであると記し,前半で以前のホールマークイベント研究はその原因・大義よりも効果,特に経済効果に焦点を合わせることが多かったという。それに対して,今後は非経済的な影響を考えるために,原因や大義に焦点を合わせる必要性を説く。それには,計画へのアプローチと政治的なアプローチが必要だという。こう書くと,近年の研究の方向付けをしている気がします。この論文では事例として1991年にシェフィールドで開催された世界学生大会(ユニバーシアード)を取り上げている。実際に招致前と招致中,開催後とに分けたいくつかの表が掲載されていますが,どうも読んでいてすっと頭の中に入ってきませんでした。『メガイベントと近代性』も序文のみPDFで入手できたので読んでいたが,これもイマイチ頭に入ってこなかった。個人的に合わないのだろうか。ということで,この論文も結論近くの一文を引用することでお茶を濁したい。「遺産や新しいアトラクション,メガイベント政策を含む都市の観光政策は,変容の生みの苦しみや様々な危機のなかで,都市によって生産される。」

 

Muller, M. (2015): The Mega-events Syndrome: Why So Much Goes Wrong in Mega-event Planning and What to Do about It. Journal of the American Planning Association 81 (1): 6-17.
https://www.tandfonline.com/doi/pdf/10.1080/01944363.2015.1038292?needAccess=true
論文ごとに面白い視点を提供してくれるミュラーですが,副題からも分かるように,今回もなぜメガイベントが負の側面を生み出し続けるのに継続されるのか,というところに力点を置いているようです。今回も11か国に及ぶメガイベント計画者,運営者,政治家,コンサルタントの51人から,2010年から2014年にかけて行ったインタビューに基づく研究になっています。オリンピック症候群における兆候は7つほど想定されています。1.過度に約束された便益,2.過小評価された費用,3.イベントの最優先,4.公的な危機引き受け,5.例外規則,6.エリート獲得,7.イベントの固定制。3.までは分かりやすいです。4.は私的投資による失敗を公的資金で補填するようなことでしょうか。2020東京大会でも少し意味合いは違いますが,晴海の都の土地を選手村として利用しますが,選手村の後はリニューアルして分譲マンションとして売却する予定で,私的企業が開発します。しかし,その土地の値段は格安になっています。5.7.も分かりやすいですね。6.に関しては,ジェントリフィケーションなどの言葉が出てきます。まあ,これもよくある議論で,メガイベントに乗じた開発などは富裕層に利益をもたらすのがほとんどで,貧困層は何の恩恵もなく,場合によっては立ち退きなどの不利益をこうむります。この論文の後半は政策的提言にあてられています。それぞれの兆候に他書するためのラディカルな変化として5つ,増えつつある変化として7つ挙げられています。前者が,メガイベントを大規模都市再開発と結びつけないこと,イベント開催団体との契約,公的支出に上限を設ける,独立した専門家評価を決める,エベントの必要規模を縮小あるいは上限を定める。後者は,招致段階で公的な参加を始める,招致時期に候補のための同意事項を固定する,レガシーを管理する独立した組織の創設,イベントの脱中心化,イベント後の利用が不確実なものは臨時の構造物とする,知識交換の契約,通常の契約手順に乗り入れしない。

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地図で見る日本ハンドブック

スコシマロ, R.著,神田順子・清水珠代訳 2018. 『地図で見る日本ハンドブック』原書房,168p.2,800円.

 

最近,非常勤先の授業内容に限界を感じている。もう非常勤で大学の授業を始めて18年になるが,それまでかなりアカデミックな次元にこだわってきた。しかし,私自身がもともと物事を知らない人で,今更ながら少しずつ基礎的な知識をつけようとしている。そういう自分の変化にも合わせて,授業内容も変更していこうと考えていた。ともかく,日本という国と,世界との関係の基本的な事実を,基本的な社会地図でも見せながらの授業を思い立った次第。社会地図に関しては,私の出身大学の人たちの業績があるのでそれを活用しようとは考えていたが,モノクロ印刷で耐えうるかなどと考えているうちに,本書を書店で見つけた。著者はフランス人の地理学者だということで,フランス研究者の知人に聞いてみたが,日仏会館で講演をしたこともある人だという。ともかく,タイトル通り地図が多数掲載されていてコンパクトな本だったので,購入して読んでみることにした。

はじめに
自然環境と日本人の起源
 災害の多い列島
 日本列島への人の渡来と拡散
 主要な空間区分
 近代日本の構築
 相反する人口動態トレンド
縁辺の日本
 米作の日本
 稲作以外の農業
 漁業
 野生化する日本
都市の世界
 メガロポリス
 都市周辺部の変容
 都心人口の盛り返し
 ビジネス街
 都市の三つのプロフィール
 性風俗業とヤクザ
 美しい地区と雑然とした地区
 過剰な国土整備
 東京と大阪にみられる大都市圏の構築
 規格外の空間
経済と社会
 産業競争力の維持
 臨海部開発
 エネルギーのパラドックス
 再生可能エネルギーの発展
 汚染列島
 2011311日――参事の連鎖
 神社仏閣
 景勝地と観光
 政党分布
 女性の現況
 21世紀日本の貧困
 外国人
 自殺――日本病?
世界と日本
 日本の軍事力
 気候変動と日本
 貿易と事業の国際展開
 世界のなかの日本
まとめ
付録
 年表
 参考文献
 索引

日本列島の自然条件から始まって,典型的な地誌書かと思いきや,やはりヨーロッパ人というところが独自な雰囲気を醸し出しています。高校までの日本地理や一般読者向けの概説書とはちょっと異なる印象で,けっこう読みやすいというか,ストーリー性があって読ませる内容になっています。例えば,それは日本人にとっても常識なのかもしれませんが,日本政府は米作に手厚い保護をしてきた歴史があり,それは農村部の農業従事者を支える政策であり,それが自民党の厚い支持層を形成しているという。ヤクザの取り扱いも面白い。「野性化する日本」という項目については私がよく知らなかったことだが,限界集落や近い将来における自治体の消滅などが叫ばれているので,そうした放棄された村が荒れ果て野性化するというのは想像できる。しかし,そのことと都市部にも野生動物が出没するということが並列に論じられているところの論理的結びつきはイマイチ理解できなかった。
その他,授業で使えそうな地図としては,まず日本の植民地支配に関するもの。まさにこういう地図が欲しかったのです。それから漁業に関するもの。こちらは日本地図での漁港の分布と,世界地図で日本に海産物を供給している国の分布図。「東京とソウルを結ぶメガロポリス」という地図もその説明は十分ではないが面白い。「性風俗業とヤクザ」の項目では吉原の地図が掲載されています。さすがに,一度は行ってみないと授業では使えませんが。原子力発電所の分布図も使えますね。新エネルギーの分布図もあります。やはり東日本大震災と福島第一原発のことも大きく取り上げています。政党支持率の地図も政党ごとにあって面白い。それから,東アジアの軍事力比較とか,自衛隊の海外派遣の実態,日本の輸出入地図とか。なかなか授業の素材となる情報がそこそこありました。

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反東京オリンピック宣言

小笠原博毅・山本敦久編 2016. 『反東京オリンピック宣言』航思社,269p.2,200円.

 

いくつかオリンピック関連本を紹介してきましたが,2004年の『オリンピック・スタディーズ』にも執筆した2人によって2020年東京大会決定後に編集・出版されたのが本書。書名は1980年の『反オリンピック宣言』を受けています。雰囲気的にはオリンピック反対の意志が強く出ていた『反オリンピック宣言』よりも,アカデミック色が強く,やはり『オリンピック・スタディーズ』に近い。とはいえ,2年前にすぎないものの,出版当時は反響が大きく,多くのところで取り上げられていました。今年(2018年)に多くの批判的なものも含むオリンピック本が出版されているのも本書の影響の大きさかもしれません。

巻頭言
 イメージとフレーム――五輪ファシズムを迎え撃つために(鵜飼 哲)
第Ⅰ部 科学者/科学論
 私のオリンピック反対論――スポーツはもはやオリンピックを必要としない(池内 了)
 災害資本主義の只中での忘却への圧力――非常事態政治と平常性バイアス(塚原東吾)
第Ⅱ部 レガシー
 先取りされた未来の憂鬱――東京2020年オリンピックとレガシー(阿部 潔)
 「リップサービス」としてのナショナリズム(石川義正)
第Ⅲ部 運動の継承
 メガ・イヴェントはメディアの祝福をうけながら空転する(酒井隆史)
 貧富の戦争がはじまる――オリンピックとジェントリフィケーションをめぐって(原口 剛)
 オリンピックと生活の戦い(小川てつオ)
 反オリンピック(ジュールズ・ボイコフ著,鈴木直文訳)
 祝賀資本主義に対抗する市民の力(鈴木直文)
 ありがとう,でももう結構――オリンピック協約の贈与と負債(フィル・コーエン著,小美濃 彰・友常 勉訳)
 トラックの裏側――オリンピックの生政治とレガシー・ビジネス,そして効果研究(友常 勉)
第Ⅳ部 アスリート
 競技場に闘技が入場するとき(小泉義之)
 アスリートたちの反オリンピック(山本敦久)
 なぜ僕がいまだにオリンピックを憎んでいるのか(テリエ・ハーコンセン著,山本敦久訳)
反東京オリンピック宣言――あとがきにかえて(小笠原博毅)

まず触れておきたいのは小泉氏の文章だ。アスリートを論じる第Ⅳ部に入れられているが,アスリートのことを中心に論じているわけではなく,かなり根本的な問いを突き付けている。オリンピックのようなスポーツ・イベントあるいはメガ・イベントを批判するのであれば,近年とかく地方再生やらで取りざたされる地方でのアート・フェスティバルも批判しなくてはならないという。また,学者の営みである,毎年場所をかえて開催される学術大会(国内的なものも国際的なものも)も同じ論理では批判されるべきだという。確かに,学会発表の場としては学術大会を私も利用しているが,積極的に地方の大会に行こうというモチベーションは今はない。実際は分からないが,大学の出張費ででかけ,飲み代は私費だと思うが,毎晩のように飲み歩く知り合いの研究者たちを私はどこか冷めた目で見てしまう。そして小泉氏は『反オリンピック宣言』などの過去の反対理由についても一蹴してしまう。読んでいると,かつてのポスト構造主義的な著作を思い出してしまい,結局どうしたらよいのか分からなくなり,ある意味での読者の無気力感を感じてしまう。まあ,ドゥルーズ本も出している哲学者だということで納得。
一方で,あとがきで小笠原氏は非常に明白な論理でアカデミックではない次元でオリンピックに対する自らの立場を主張している。そこでは,日本語で読める先駆的なオリンピック批判として『反オリンピック宣言』と『ファイブ・リング・サーカス』を挙げ,30年前に議論は尽くされているのに,今度日本で開かれるオリンピックがそこから何も学んでいないことを嘆く。確かに,この2020東京大会では(でも)市民の言葉を聴くことがないどころか,専門家からも意見を聴くことはない。もちろん,イベント自体は非営利団体のIOCが開催するのであり(同じくJOCも非営利団体と呼べるのだろうか),それが開催国(都市)において政治的な意味で民主的に合意を得る必要はないかもしれないが,多額の公的資金が投入される以上は,少なくともそこの部分に関する決定には民主的な合意が必要なはずだ。とはいえ,日本という国が純粋に公的なものの決定に対して民主的な手続きを取っているかといわれると全くそうは思えないので,仕方がないのだろうか。また,こういう文脈で「仕方がない」と思わせる戦略なのだろうか。
先を急いでしまいましたが,本書はアカデミックな次元で高い水準にあるオリンピック研究だと思う。後半に2編の英語論文が翻訳されている。ボイコフという人物は私も英語論文を持っているが,単著の翻訳も出ている(ボイコフ, J.著,中島由華訳(2018):『オリンピック秘史:120年の覇権と利権』早川書房.)。その英語論文でも2010年のバンクーバー冬季大会に起こった反オリンピック運動を分析しているが,本書ではその運動全般について論じている。元プロサッカー選手という異色のスポーツ社会学者である。ボイコフ論文の後に続く鈴木論文は訳者による文献解題である。「祝賀資本主義」という概念は,ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』で提示された「参事便乗型資本主義」の概念から発想を得たものだとのこと。まあ,ともかく資本主義は災害やお祭りごとなどに便乗してその活動を活発化させるということか。もう一本本書に訳出されているフィル・コーエンはこれまで読んだことはないと思うが,文化地理学者だと紹介されている。訳出されているのは『トラックの裏側』というタイトルの著書の第6章だとのこと。これも続く友常氏の文章はその書名が付けられているが,これも文献解題。著書自体は2012年のロンドン大会に関するもののようだが,訳出されている第6章はオリンピック全般的な内容である。
後半からの紹介になってしまったので,ついでに山本氏の文章にも触れておくが,こちらは『オリンピック・スタディーズ』に収録されている論文の続編のようで,アスリート自体の反オリンピック運動を紹介しており,続けて山本氏が訳しているハーコンセンは,有名なスノーボーダーとのこと。世界のトップに立つスノーボーダーでありながら,オリンピックの正式種目として選ばれたという事実に反対し,オリンピックには出場していないという。
さて,頭からに戻りましょう。第Ⅰ部は2020東京大会の特徴でもある,東日本大震災および福島原発事故との関連が論じられています。第Ⅱ部はまず,継続的にオリンピック研究を進めている阿部氏による2020東京大会の計画書の丁寧な読み解き。私なぞはこういう文書はなかなかまともに相手にする気にならないので,こういう基礎的な仕事はありがたい。読み応えがあるのが地理学者である原口氏の論文。以前私の読書日記でも紹介したCOHREの報告書を始めとして,英語圏のメガイベント研究をいくつも引いていて,明確な主張を丁寧に裏付けしている。続く小川氏の文章も非常に刺激的。彼は冒頭に「私は都立公園に野宿者として生活している。」と記す人物でありながら,『現代思想』などにも執筆している。立ち退きの当事者でありながら運動家であり,思想家でもある。個人的にはこのように,自分の身に起こったことを冷静に丁寧に文章化することが最も重要で,主催者側の当事者が最も耳を傾けるべき声だと思う。
最期に再び小笠原氏によるあとがきに触れておこう。誠実な社会科学者は民衆や大衆など捉えがたい多数の人びとについて根拠のない記述はしない。しかし,このあとがきはアカデミックな次元よりも「反オリンピック宣言」という政治的主張を全面に出すことで,あえてその誠実さを犠牲にし,オリンピックに関わるわたしたちのような市井の人びとを,「ありきたりの批判者」,「どうせやるなら派」などと分類し,この「どうせやるなら派」を読者として想定している。オリンピックに対する批判も理解した上で,それを自分たちにとってより良いものにしようと考える人々。小笠原氏は日本におけるカルチュラル・スタディーズの第二世代といってもいいと思う。日本においては,カルチュラル・タイフーンというイベントからそのムーブメントが形になっていったといえるが,それの発起人である第一世代の吉見俊哉,そして実際の運営をしていた第二世代。という関係でありながら,オリンピックに関しては近年の吉見氏の発言を手厳しく批判している。吉見氏はメガイベント研究としてもやはり日本の先駆者であり,『博覧会の政治学』は中公新書でありながら世界に誇れる研究成果だと思う。しかし,愛知万博の際に開催者側に取り込まれる形で,外在的な批判者から内在的なアドバイザーになってしまった。まあ,それは仕方がないことでそれくらい影響力のある研究を残した者としては栄誉だともいえる。だが,やはりそのあり方を外部から評価する者がいなくてはならない。

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邦画2本

20181121日(水)

テアトル新宿 『
水曜日はサービスデーにしている映画館がいくつかある。その中でも広瀬アリスが出演しているということで選んだ作品。芥川賞作家による原作があるんですね。シチュエーション的に村上虹郎が主演というのは納得し,モノクロ映画というのもいいと思う。あまり前情報を入れずに観ました。
またリリー・フランキーさんが出ています。カツラに見えるヘアスタイルが刑事という役どころと微妙にマッチしています。シリアルになりすぎず,かといってコメディタッチの場面が多いかというとそうでもない。その微妙なバランスがいいのか悪いのか,なんとも評価のしづらい作品です。広瀬アリスちゃんは魅力的でしたが,もうひとひねり欲しかった気もします。最後の最後で村上 淳が登場し,親子共演してしまうところが最大のコメディだった。

 

2018124日(火)

有楽町スバル座 『えちてつ物語:わたし,故郷に帰ってきました。
お笑いタレント横澤夏子が,東京でお笑いを目指すがうまくいかずに故郷の福井に戻ってくるという役どころを演じる。残念ながらテレビのないわが家なので,お笑いタレントには疎いが,まあ地方プロモーション映画といったところ。緒形直人が血のつながらない兄役を演じるが,実年齢差は23歳ということでちょっと無理はある。とはいえ,もうベテラン俳優の域に達した彼の存在でしまっていますね。
実は福井には少し思い入れがあります。以前ライヴ通いをしていたころに知り合った福井在住の女性がいて,以前福井に遊びに行ったこともあったのです。さすがに「えちてつ」までは乗りませんでしたが。その女性は滋賀県に嫁ぎ,その結婚式にも出席しました。しかも,私がその頃聴いていたシンガーソングライターの「なおりゅう」さんはその女性の知り合いでもあり,結婚式でお会いしました。それはそれとして,なおりゅうさんのお兄さんは「片山 享」という俳優さんなんです。なんと,本作品のクレジットにも名前が出てきました。まあ,福井県出身ですのでこの類の映画には出ていてもおかしくありません。ただ,容姿も覚えていたのに,どの場面で出ていたかは思い出せない

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反オリンピック宣言

影山 健・岡崎 勝・水田 洋編 1981. 『反オリンピック宣言――その神話と犯罪性をつく』風媒社,261p.1,100円.

 

オリンピックとは,その研究が多岐にわたるが,研究成果についても,読めば読むほど次々出てくる。今,日本でオリンピックを議論するとなると,目下2020年東京大会が念頭に置かれるわけで,その前の1998年の長野冬季大会,1972年札幌冬季大会,1964年東京夏季大会と時代ごとに日本はオリンピックを経験しているわけで,それらに関しても研究は蓄積されている。ということで,2020年東京大会について書かれた『反東京オリンピック宣言』を読む前に,是非本書に目を通してみたかった次第。幸い,私が非常勤で勤務している東京経済大学の図書館に所蔵があった。しかも,けっこうオリンピック関係の書籍を所蔵しているのだ。過去の研究にどこまで手を伸ばすのか,悩ましいところである。
本書は現物を手にとって初めて知ったことだが,1988年の夏季大会の招致運動をしていた名古屋大会をめぐる運動が基になっているものである。この大会は結局ソウルに決まったが,IOCで正式に決まるのが19819月であることが本書に記載されているが,本書の発行は19811010日である。この日はかつて体育の日だったが,確か1964年東京大会の開会式を記念して休日になった気がする。

まえがき(水田 洋,1-4)
プロローグ(岡崎 勝,15-21)
Ⅰ オリンピックの診断書
 1 オリンピック教の誕生(山本芳幹,24-35)
 2 アマチュアの亡霊(岡崎 勝,36-59)
 3 多国籍企業――オリンピック産業株式会社(土井俊介,60-76)
 4 「平和の押しうり狂典」オリンピック(土井俊介,77-99)
Ⅱ オリンピックと市民のスポーツ――その対立点と展望
 1 呪われた近代スポーツ(山本芳幹,102-113)
 2 市民スポーツとの距離――オリンピックの欺瞞性(影山 健,114-128)
 3 オリンピックの犯罪性――自由なスポーツの抑圧(影山 健,129-146)
Ⅲ オリンピックと子供たち
 1 管理主義教育と子供たち(岡崎 勝,151-160)
 2 オリンピック教育と子供たち(岡崎 勝,160-178)
Ⅳ オリンピック招致と市民生活の破壊
 1 名古屋オリンピックの社会的な背景と意味(水田 洋,180-200)
 2 オリンピックをめぐる名古屋市の財政・都市問題(山田 明,201-225)
〔資料〕
 IOCオリンピック憲章の問題点(野場とも子,228-235)
 最近の選手強化政策について(加藤昌己,236-246)
 反名古屋オリンピック市民運動年表(反オリンピック研究会議,247-252)
 反名古屋オリンピック市民連合加盟団体リスト
あとがき(影山 健,257-261)

著者にはスポーツ社会学を専攻している研究者が名を連ねるが,編者の一人,岡崎氏は小学校教員とのこと。多くの著者が市民運動のメンバーになっている。そういう意味では,近年の『オリンピック・スタディーズ』(2004年)や『反東京オリンピック宣言』(2016年)がかなり学術的色彩が強いのに対して,長野オリンピックを中心に執筆された『君はオリンピックを見たか』(1998年)と似ていて,著者たちの熱い思いが伝わってくる。
当時のスポーツ社会学の状況はよくわからないが,やはり時代的な影響も色濃く反映されているような気がする。本書のなかにも,ボードリヤールやイリイチなどの思想書に言及された個所もあり,また当時翻訳されていた『スポーツの社会学』(大修館)なる本も紹介されている。当時は日本でも記号論や構造主義がもてはやされる一方で,それに対する主流派の反発などがあったのだろうか。ともかく,カルチュラル・スタディーズの導入はまだで,冷静な分析というよりは,社会批判が先に立っている雰囲気がある。とはいえ,それは1960年代後半のプロテスト的な意味ではなく。
などと書きながらも,本書の主張は素直に納得させられるものばかりで,市民の目線の反対運動に研究者が助言をしている本である。上に挙げた『オリンピック・スタディーズ』や『反東京オリンピック宣言』は確かに,研究者である私のような読者が読むと,その学術的な水準に納得するのだが,市民の声を代弁するかというと,ある意味難解すぎて,じゃあオリンピックに反対した先にどんな代替案を提示すればいいのか分からなくなる。もちろん,オリンピックを中止にすればそれでいいのだが。
例えば,本書にはオリンピックを開催するのであればこうしてほしい,という要望がいくつかあり,印象的である(本書にはそうした素朴な主張の重複も多い)。オリンピックに対応した大規模な競技施設をいくつか作るのであれば,同じ予算を使って,小規模な施設を多数作った方が市民スポーツの活性化に役立つ,というのがその一つだ。
単に市民目線というだけでなく,そもそもオリンピック憲章が掲げるアマチュア精神とはそもそもなんなのかを,単なる理念ではなく,具体的な市民とスポーツとの関りで考える。しかも,そこでいうスポーツが近代スポーツであり,オリンピックのようなトップ・アスリートの競技を見ること,模倣することが,子どもたち,市民たちの楽しみのためのスポーツをより近代的なもの,すなわち規律・訓練され,共通のルールの下で競い合うものへと矮小化されていくという。さらに,それが教育の場へと組み込まれることによって助長される。この教育論はかなり強引なところもあるが,大枠は正しいともいえる。
最期に名古屋市のオリンピック招致計画の検討が,財政学を専門とする著者によって非常に詳細に検討される。細かすぎて私のような読者には詳しく読む気にはなれないが,こういう見当は必要である。いずれにせよ,読後に驚くのは,日本でもこうしてしっかりとオリンピックに反対する意見が出されているのに,今回の2020東京大会において何一つ教訓を得ていないということだ。招致活動に数億円が投じられ,結果が出せなくても,次に活かすのであれば無駄ではない。とはいえ,長野に活かされたのは不正な金の使い方だったのだが,招致を成功させるという活かし方だけが教訓ではないはずだ。

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オリンピック・スタディーズ

 

清水 諭編 2004. 『オリンピック・スタディーズ――複数の経験・複数の政治』せりか書房,255p.2,500円.

 

東京は2016年オリンピック夏季大会に立候補しているが,本書はそれ以前に発行されたもの。その正式な立候補は20079月とされているが,本書には近い将来東京でオリンピックが開催されることになることを予見しているような記述はほとんどない。1か所のみ(どこだか特定できなくなってしまったが),近年の名古屋や大阪などの招致活動に関する記述があるが,そうした近年のオリンピック計画に対して,1964年の東京大会がひな型になるという記述があった。ということで,本書は2020年東京大会に焦点を当てたものではなく,むしろ1964年を含む過去の大会から学ぶことがほとんどだが,それは将来の大会に向けられた考察になっている。

はじめに オリンピックと「政治的なるもの」(清水 諭)
Ⅰ 近代オリンピックを問い直す
 1 「ロゴ」身体――カール・ルイスの登場とビジネスツールとしてのオリンピック(清水 諭)
 2 グローバル,ポピュラー,インター・ポピュラー――市場,国家,市民社会にまたがるオリンピック・スポーツ(ヘニング・アイヒベルク)
 3 オリンピック男爵とアスレティック・ガールズの近代(田中東子)
 コラム:「世界」からの呼びかけ――『クール・ランニング』とジャマイカ・ボブスレー・チーム(鈴木慎一郎)
Ⅱ ナショナルなものの想像力
 4 アメリカン・イメージの構築――‘32ロサンゼルス大会の前史とアメリカニズムの変容・持続(井上弘貴)
 5 規律化した身体の誘惑――ベルリン・オリンピックと『オリンピア』(伊藤 守)
 6 国家戦略としての二つの東京オリンピック――国家のまなざしとスポーツの組織(石坂友司)
 間奏曲:帝国日本がはじめてオリンピックに参加した頃――外交家嘉納治五郎と’12ストックホルム大会(鈴木康史)
Ⅲ プレ/ポスト‘64
 7 日の丸とモダン――’64東京大会シンボルマークとポスターをめぐって(前村文博)
 8 未来の都市/未来の都市的生活様式――オリンピックの60年代東京(石渡雄介)
 コラム:長野オリンピックと環境問題(鵜飼照喜)
 9 「東洋の魔女」――その女性性と工場の記憶(新 雅史)
Ⅳ アウターナショナルな経験
 10 故郷/経路 人見絹枝の旅と遭遇――イエテボリ,アムステルダム,プラハ(有元 健)
 コラム:「すずスマイル」と自己主張――千葉すずが残したもの(稲葉佳奈子)
 11 レボルト
68――黒人アスリートたちの闘争とアウターナショナルなスポーツ公共圏(山本敦久)
 12 ボイコット(小笠原博毅)
 コラム:メキシコ・オリンピックにおける「1968年性」について(坪内祐三)
危機にあるオリンピック――「あとがき」にかえて(清水 諭)
「オリンピック・スタディーズ」基本文献一覧
オリンピック関連年表

目次からもわかるように,対象やテーマは多岐にわたる。私たちの研究グループはオリンピックを「メガイベント」の一つの事例として捉え,また都市研究の一環として考察することで,オリンピックの地理学研究を目指している。そういう意味では本書から直接学ぶことはそれほど多くないが,1998年の長野冬季大会を経て2004年の時点で日本においてオリンピックについて何を考えられるのか,かなり網羅的な考察がなされている。2000年時点では英語圏でメガイベント研究のそれなりの蓄積があり,本書はそれらに言及することはほとんどないが,日本の文脈でのオリンピック研究としてはこの時点での最新成果と言えそうな論文集である。
伊藤 守氏は長野大会についても論文を書いているし,近年も2020東京大会について発言をし続けている,いわずとしれたメディア研究者。その他にも,私は以前カルチュラル・タイフーンというカルチュラル・スタディーズの研究集会に参加していた時期があるが,その頃にその集会の主催者だった人たちが本書にも名を連ねている。有元 健,小笠原博毅,田中東子,山本敦久という人たちである。ということで,本書でもかれらの書く文章は理論的な基礎がしっかりしています。編者の清水 諭さんは知っているようで,知らないような。本書でも1章を執筆していますが,まあ1章にふさわしくオリンピックの商業主義化の歴史が概観され,各論としてカール・ルイスという1980年代のオリンピックの陸上ヒーローが取り上げられています。有元さんが翻訳した2章もオリンピック全般についてのコンパクトでいてかつ鋭い視点からのオリンピック本質論になっています。3章はオリンピック史における女性の登場について,4章はオリンピックへのアメリカ合衆国の関わりの過程,5章はリーフェンシュタールの『オリンピア』の美術批評的考察。6章の石坂氏は2020年東京大会決定後も積極的にオリンピックに関する発言をしているスポーツ社会学者であり,6章は幻の1940年東京大会から1964年大会までの経過をたどっている。
7章はデザイン批評の立場から1964年大会のシンボルマークを考察する。8章は都市的生活様式というオーソドックスな社会学的概念を用いて,1964年東京大会時に整備されたインフラについて考察している。特に,柴田徳衛という人の業績に依拠したものではあるが,廃棄物から上下水道の整備という衛生環境の向上については学ぶことが多い。9章は「東洋の魔女」と呼ばれた「大日本紡績貝塚工場チーム」について,そして10章は日本人女性として初めてオリンピックに参加した人見絹枝について,その活躍をたどっている。特に10章は有元氏による執筆ということもあり,人類学の「旅する理論」を援用した素晴らしい考察。11章と12章も1968年のメキシコシティ大会を中心とした,反体制的な世界情勢における五輪大会と政治,そして人種などのアスリートの葛藤などが論じられており,非常に興味深い。
本書にも執筆した小笠原氏と山本氏の編集により,2020東京大会決定後の2016年に『反東京オリンピック宣言』が出版されている。続けてこの本を読んでみることにしよう。

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