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2019年2月

都市への権利

アンリ・ルフェーヴル著,森本和夫訳 1969. 『都市への権利』筑摩書房,221p.700円.Lefebvre, H. 1968. Le Droit à la Ville. Paris: Anthropos.

 

先日紹介したハーヴェイ『反乱する都市』もそうだが,近年「都市への権利」が流行っている。それはもちろん,原著が1968年に出版された本書を再読・再評価するということだが,地理学者のドン・ミッチェルも「都市への権利」をタイトルに含む著作を出版しているようだ。なんだかんだいって,皆さん流行りものが好きなんですね。本書は筑摩書店から出ていたこともあり,最近ちくま学芸文庫からも再販されたようです。ともかく,手元にある本書とルフェーヴル『都市革命』(原著1970年),ハーヴェイ『都市と社会的不平等』(原著1973年)を,原著が出版された順に再読してみよう。

まえがき
工業化と都市化 はじめの概観
哲学と都市
細分化された科学と都市現実
都市の哲学と都市計画イデオロギー
都市の特殊性 都市と作品
連続と非連続
現実と分析との諸水準
都市と田舎
危機的な点の周辺において
都市的形式について
スペクトル分析
都市への権利
展望か前望か
哲学の実現
都市,都市的なるもの,および都市計画についてのテーゼ

本書の冒頭に挑戦的なことが書かれている。本書は読者の皆さんがもっている頭の中の体系を破砕することを望んでいるのだと。しかし,前半ではけっこうオーソドックスなことが書かれている。「工業化と都市化」と題され,都市の発展の歴史が概観されるのだ。「危険な点の周辺において」の冒頭には「都市化の零」と「100%の都市化」との対比があり,また「都市と田舎」についても論じられている。それらによれば,現所的な人間の生活は農村的なもので,ギリシアのような政治都市ができ,商業都市があり,工業化が進むといった理解だ。住居に関しては田舎の基本的な一戸建てが都市では団地のような集合住宅になり,都市で生活を営みながら一戸建ての理想をかなえるために郊外化が進む,のような。ルフェーヴルの都市史の理解は非常にオーソドックスで,これだったら以前紹介したジェイコブズ『都市の原理』(原著1969年)の方がよっぽど私の体系を破砕した。「はじめに都市ありき」という発想の転換だ。
とはいえ,本書における常識の破砕に関しては,都市計画批判というところが大きい。といっても,私は本書より先に『都市革命』を読んだので,ルフェーヴルによる都市計画批判や「都市的なるもの」の議論はあまり新鮮ではなかったし,本書でこれほど議論されていたという記憶はなかった。ともかく,都市とは何かという定義が何度も何度も登場するのだ。
今回読み直して意外だったのは,本書がかなり「都市の記号学」的な議論を展開していることだ。ロラン・バルトの「記号学と都市の理論」は1971年の文章だし,イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』は1972年だ。そういう意味では,本書における「都市は作品である」から始まる記号論的考察は先駆的なのかもしれない。また,ハーヴェイはルフェーヴルによる1970年前後の都市論の影響下で自身の「資本の都市化」という議論を構築していくわけだが,本書にはあまりマルクス主義的な考察や政治経済学的な考察は濃厚ではない。むしろ,「都市的なるもの」という概念も含め,記号論的な捉え方もどちらかといえば文化的な側面が強調される。ハーヴェイにおいて文化的な側面がとりこまれていくのは『ポストモダニティの条件』の1989年だから,その辺りのハーヴェイとルフェーヴルの関係はちょっと興味深い。まあ,すでにどこかで論じられてはいるだろうが。近年のルフェーヴル研究によれば,翻訳されていない『リズム分析』などという著書があるようだが,本書にもその片鱗を感じさせる記述もいくつかあるが,本書では「スペクトル分析」なる言葉が何度か登場する。
後半にようやく「都市への権利」と題された文章があるのだが,読み始めてもなかなか期待するような記述は見当たらず,終わりの3ページでようやく登場する。「都市への権利は,たんなる伝統的な諸都市への訪問あるいは回帰の権利として構想されることはできない。それは,変貌させられ,維新された都市生活への権利としてしか定式化されることはできない。出会いの場所であり,使用価値の優位性であり,諸々の財貨のなかの至高の財貨の位へと昇った時間の空間のなかへの刻み込みである《都市的なるもの》が,その形態学的土台,その実践的=感覚的実現を見出しさえするならば,都市の織り目が田舎とか農民生活から生き残っているものを締めつけるとしても,大したことではない」(pp.174-175)といった具合である。その後も何度かそれらしい文章は出てくるが,本書の中でこのテーマが深く掘り下げられると期待するのは難しい。むしろ,それだからこそ今日の研究者があれやこれや論じたくなるのかもしれない。

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反乱する都市

デヴィッド・ハーヴェイ著,森田成也・大屋定晴・中村好孝・新井大輔訳 2013. 『反乱する都市――資本のアーバナイゼーションと都市の再創造』作品社,320p.2,400円.

 

ハーヴェイは1990年代後半に日本地理学会の招待で来日し,講演したことがある。私も聞いていたが,今来日したらかなり大掛かりになるだろう。彼の著作はそこそこ難解で,翻訳は細々と出ていた。原著1969年の『地理学基礎論』は私も持っていないが,計量地理学の一冊として1979年に抄訳で翻訳され,1973年の『都市と社会的不平等』の翻訳が1980年。1982年の『空間編成の経済理論』が1989年,1985年の『都市の資本論』が1991年に,ここまでは地理学者による翻訳で出版されている。こう整理すると,まだハーヴェイの出版ペースもそれほど早くはないが,日本の地理学も頑張ってきたことがわかる。
地理学者以外の翻訳は1989年の『ポストモダニティの条件』の翻訳が1999年だが,この頃からハーヴェイの著作は地理学に収まらなくなっており,日本の地理学者が翻訳するのが難しい著作も多くなってきたようだ。また,2000年代に入るといろんな研究者が翻訳をしたがり,出版社も版権を競うようになってきたのかもしれない。本書は,森田氏のグループが作品社から出版しているハーヴェイ本の1冊。

序文 都市は誰のものか?――ルフェーヴルの構想
第Ⅰ部 都市への権利――金融危機,都市コモンズ,独占レント
 第1章 都市への権利――資本のアーバナイゼーションへの対抗運動
 第2章 金融危機の震源地としての都市
 第3章 都市コモンズの創出
 第4章 レントの技法――文化資本とコモンズの攻防
第Ⅱ部 反乱する都市――エルアルト,ロンドン,ウォールストリート
 第5章 反資本主義闘争とために都市を取り戻す
 第6章 2011年ロンドン――野蛮な資本主義がストリートを襲う
 第7章 ウォールストリート占拠(OWS)――「ウォールストリートの党」が復習の女神に遭うとき
付録 都市と反乱の現在――デヴィッド・ハーヴェイ,インタヴュー
 来る都市革命――世界各地の都市反乱は新時代の始まりを告げるか?
 「都市への権利」から都市革命へ――『反乱する都市』について

私は現在,オリンピックを含むメガ・イベントに関する研究を,より広い都市研究の文脈で理解しようとしている。以前も紹介したボイコフは反オリンピック運動を研究しているが,この動向をより深く理解するために本書が役立つのではと思い読んだ。目次では本書タイトルの「反乱する都市」が2部制の第2部となっており,期待をさせるが,第6章と第7章はもともとハーヴェイ自身のウェブサイトに掲載された時事ネタであり,短い文章であると同時にやはりアカデミックな色は薄い。訳者の解説によれば,第2章と第5章はもともと発表された時点では一つの論文であったという。第1章も『VOL』という雑誌に翻訳されていた文章で,もともとは『New Left Review』に掲載された短い文章だった。とはいえ,第1章は大幅に加筆されている。読む前の私の期待では,近年世界中で発生しているテロや暴動は,さまざまな形で民衆が自らの権利を求めているものであり,またそれらが都市で発生するということは,何かしらそれらの運動が「都市的なるもの」との関りを持っている,ということが論じられるのではないかというものだ。しかし,実際に読んでみると,まずテロの話はない。意外にも本書にグローバル化の話は欠如している。そして,『空間編成の経済理論(原題:資本の限界)』や『都市の資本論(原題:資本の都市化)』で構築された理論の差異主張という側面が大きいように感じた。
もちろん,本書は序文にあるように,ルフェーヴルの1968年の著書『都市への権利』を受けている。『VOL』に掲載された時のハーヴェイの文章を読んでもあまりすんなりと理解はできなかったが,本書の序文にはいくつか明白な文章が記されている。何度か出てくる表現だが,「「都市への権利」は空虚な指示記号である」(p.18)と著者はいっている。民衆の暴動などを念頭におくと,「都市への権利」とは権力者によってその権利を奪われた者がそれを奪還要求することだと簡単に考えがちだが,権力者にも「都市への権利」はあるのだ。そういう意味では人権や市民権などと同等に考える必要があるのだろう。都市への権利を具体的に想像することは容易いが,全ての種類のそれを列挙することは難しい。
ともかく,そんな文脈で第2章と第3章が続く。第2章はさきほど書いたように,著者の1980年代の主張が繰り返される。基本的にマルクス経済学に依拠しながらも,経済活動における土地の問題を付属的なものではなく,中心的なものだと主張する。都市において(もちろん都市だけではないが),土地は商品として売買され,投機の対象にもなる。とはいえ,土地はモノの商品とは異なり,所有したとしても公共性を有する。それが第3章で「コモンズ」と呼ばれるものであり,それを独占することで公共性を私有化するために資本が用いられる。そして,『ポストモダニティの条件』で文化を論じ始めた著者によって,そうした土地をめぐる経済活動に文化的な次元が付け加えられる。コモンズや独占は経済次元のみではなく,文化資本としての意味が加わる。今,ルフェーヴルの『都市への権利』を読み直しているが,そうしたハーヴェイの1990年代の議論を想起させる記述の断片に出会うことができる。
ともかく,そういった意味でハーヴェイの1980年代の著作を読み直す必要性を痛感させる読書だったが,都市社会運動的なものに関しては期待した理解は得られなかった。まだ読んでいないが,この辺りはカステル『都市とグラスルーツ』だろうか,やはり『都市問題』も読まなくては。そういう意味では,スミス『ジェントリフィケーションと報復都市』の方がその辺りについては理解が深まる。反ジェントリフィケーション運動とそれをさらに抑圧する報復都市という議論。おそらく,ハーヴェイはウォーラーステインの世界システム論に対しては批判的なのだと思うが,「反システム運動」という捉え方との関係も考えてみたい。

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アップリンク続き

2019113日(日)

吉祥寺アップリンク 『20センチュリー・ウーマン』
2016
年の作品ですね。すでに日本の公式ウェブサイトはなくなっていますが,映画サイトで情報を観ると,『人生はビギナーズ』のマイク・ミルズ監督作品とのこと。1979年のサンタバーバラを舞台に15歳の少年の成長を描く,とありますので,少年は私より少し年上の設定ですが,こういう時代設定,とても好きです。
そして,この少年を演じるルーカス・ジェイド・ズマンという俳優がとても輝いています。相手役のエル・ファニングもちょっと擦れた訳がなかなかいいです。とにかく,個性的な一人一人の登場人物が輝いていて,古き良き時代というノスタルジーとともに輝いている映画。とはいえ,私が否定したくなるような有体のノスタルジーではなく,想像上に創造される芸術的ノスタルジーといったらよいだろうか,忠実な過去の再現でもなく,過去の美化でもなく,フィクションとして描かれる史実と空想に基づく世界。

201923日(日)

吉祥寺アップリンク 『鈴木家の嘘
上映が始まる直前に急に思い出した。そういえばこの映画,私の通う美容室のお姉さんが観たっていってたな。予告編を観ると『グッバイ,レーニン!』と似た設定だと思うんだけど,お姉さん曰く「だいぶ違う」と。彼女の中で『グッバイ,レーニン!』はかなり好きな映画なので,少し残念だったと。確かにその通りで,いきなり加瀬 亮演じる鈴木家の長男が自室で自殺するシーンがかなりリアルに描かれる。確かに,彼がアルゼンチンで頑張っているんだという演技をする家族の一員としての大森南朋の役どころはコメディだが,それ以外の要素はかなりシリアスだ。加瀬 亮も冒頭で死んでしまうが,数少ないシーンはまさに彼ならではの存在感を見せている。そして,なんといっても私の心を鷲摑みしたのが,妹を演じる木竜麻生という女優さん。どうやら2018年はこの作品以外に『菊とギロチン』の主演で,キネマ旬報で新人女優賞を獲得したという。表情によって顔の見え方が違うというのが私の印象だが,それがいかにも映画向きだと思う。テレビドラマは出た瞬間に誰だか分からないといけないが,やはり映画は俳優は誰でもいいのだ。その登場人物に見えることが重要だと私は思っている。そういう意味で,非常に期待したい女優さんだ。

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都市はなぜ魂を失ったか

シャロン・ズーキン著,内田奈芳美・真野洋介訳 2013. 『都市はなぜ魂を失ったか――ジェイコブズ後のニューヨーク論』講談社,382p.3,800円.

 

シャロン・ズーキンは地理学者による2つほどの文章の翻訳があるものの,これまで日本語では読めなかった。しかし,1982年の『Loft Living』という本はとても有名で,読んでいない私でもそのタイトルの意味は何となく知っている。前回,藤塚吉浩『ジェントリフィケーション』を紹介したが,『Loft Living』ジェントリフィケーション研究の先駆的なものとしても位置付けられる。欧米先進国における都市の中心部,かつては活気のあった地区が産業の集積により住環境が悪化し,居住者は郊外に移動する。企業自体も工場を郊外に移転したり,多国籍化したり,いわゆる都心地区は空洞化し,荒廃する。ドーナツ化現象などと呼ばれたこともあったし,荒廃した都心地区をインナーシティと呼んだりもした。住環境が悪くなったところに,下層労働者や移民たちが住みつきスラム化する。しかし,郊外の成熟後,都心回帰という現象が起こる。その一部は公的権力によりスラムクリアランスされ,再開発されるが,全てではない。細かいところでは公的な権力ではなく,私的な資本により立ち退き,荒廃した建築物の再利用(今でいうリノベーション)によって,大きな資本でなくても,もともと居住目的で作られたわけではない倉庫などに貧しいアーティストたちが住みついて制作活動を行うというのが,いわゆるロフト・リビング。そのアーティスティックな雰囲気に引き寄せられ,センスのいい富裕層たちが生活を始める。そうした貧しくて荒廃した地区が高級化していく状態がジェントリフィケーションと理解される。
とはいえ,本書はタイトルからしても,1980年代の研究の延長線上にあるとは限らないので,ジェントリフィケーション研究を期待して読み始めたわけではない。邦題は以下の目次からも分かるように,序章のタイトルを流用しており,原題は『Naked City』という映画のタイトルを流用したものらしい。その映画についても言及されているが正直言って,その映画のタイトルのいわんとするところも,本書がそれを流用している意味も読後もよくわからない。

まえがき
序章 都市はなぜ魂を失ったか
Part1
 アンコモン・スペース
 1 ブルックリンはどのようにして「クールな」場所になったか
 2 ハーレムはなぜ「ゲットー」を脱したのか
 3 イーストビレッジで「地元」に住む
Part2 コモン・スペース
 4 ユニオンスクエアと公共空間のパラドックス
 5 2つのグローバル化の物語:レッドフックのププサとIKEA
 6 ビルボードとガーデン:由来をめぐる闘い
終章 目的地文化とオーセンティシティの危機

本書現代の副題は『オーセンティックな都市的場所の死と生』というもので,ジェイコブズの1961年の著書『アメリカ大都市の死と生』をもじっている。邦訳副題にあるように,ジェイコブズのニューヨーク論を再考するのが序章の内容である。ここは非常に難しい。一般的にジェイコブズは再開発運動に反対し,その時そこにある人々の暮らしを擁護したものとされる。公的立場から再開発を推し進めたモーゼスという都市計画家と対比されるわけだが,ズーキンは両者の共通性も指摘する。ジェイコブズの思想や運動については高く評価するものの,当時としての,そして個人としてのその限界を詳細に論じている。しかし,その議論からじゃあどうしたらよいの,どういう考えが正しいの,とよくわからなくなってしまう。とはいえ,1章以降の議論は非常に具体的で読みやすい。Part1はいわゆるニューヨークという都市の中の「街」について論じられ,Part2は公共空間をテーマに,草の根運動的にそこで活動している住民と,それに規制をかけようとする公的権力とのせめぎあいが論じられる。
序章に「新たな最先端の地域の魅力は,新しく生まれたメディアの力によって広がっていきました。」(p.30)と書かれていて,インターネット誕生以前の「独立系の週刊新聞」を含め,『New York Times』などの印刷メディアがPart1では分析に十分活用されている。東京で同じようなものがあるかと考えるが『東京人』のような雑誌がそれに対応するのだろうか。ある意味では私が初期の論文で行ったようなメディア研究の手法が近かったりするのかと思ったりした。とはいえ,私が取り上げたような雑誌や『東京人』などはあくまでも文化の次元で街を描写するだけだが,ニューヨークの新聞は経営のことや地元での評判などについても描写しているのだろうか。ともかく,どこのどういうお店がどういうお店に代わったなどという細かい情報の積み重ねで街の系譜が語られる。最近でいえばムニョス『俗都市化』などで都市が大雑把に語られることに私は不満を抱いていたが,一方では個人で知り得る細かい情報からどのように大きな都市の話につなげていくかというところで途方に暮れてしまっていたが,ズーキンの語り口はごく自然に街路スケールからグローバル都市のスケールへとシームレスに論じている。しかし,一方では一軒の店の存在が街の動向を左右するような語り口に関しては多少疑問を抱いたりしてしまわないこともない。Part1を読んでいると,私の代官山論文から,あの街のあの歴史は実はジェントリフィケーションの一端を示しているのではないかと思ってしまったりもする。おそらく,あの街はかつてから高級住宅地化していたとは思うが,その街の中心にあった同潤会アパートの存在とその存続,取り壊しから代官山アドレス建設に関しては,今調べても面白いかもと思った。
Part2はやはり私ではなかなかできない話ではあるが,非常に興味深い事例を詳細に展開している。4章は新自由主義の流れの中で公共空間である広場が私的団体の管理に移行されるという問題。5章はレッドフックという,近年IKEAがオープンして雰囲気が変わるが,それ以前は公共交通の便が悪く,古びた野球場でローカルなサッカーリーグが開催されるだけの広い土地が紹介される。そこでは,サッカー目当ての人たちが細々と集まることを利用し,1970年代から移民たちが自分たちのソウルフードを屋台で販売していたとのこと。それが近年blog等で取り上げられることで人気になる。そうなると公的機関が規制をかけるようになり,それに対して複数の屋台を取りまとめ交渉を行うアクターが出てきて,長い交渉期間を経てなんとか成功するものの,結果としてはその場は大きく変容してしまった,とのこと。6章については,ビルボードの話はなんでもかんでも広告媒体(ビルの壁面からそれこそ近年のラッピングタクシーまで)にしてしまうということをこれまた新自由主義的政策と関連付けているが,時期的な問題でちょっと荒っぽい議論。6章でそれより面白いのはコミュニティガーデンの話。私の住む東京都日野市にも市民農園が多いが,なぜその土地が市民農園になったのかという由来は知らない。ニューヨークでは,打ち捨てられた公的な土地を,下層階級の人びとや移民たちが勝手にきれいにし,耕し,農園として占拠するという経緯があったとのこと。農園としてふさわしい土地でもなんでもなく,公的機関としても未利用で荒廃する状態よりは奇麗なガーデン(必ずしも農業生産物とは限らず,それこそ花壇のようなガーデンもあるようだ)であった方がよい。しかし,管理を市民たちに任せっぱなしというわけにもいかない。ということで,こちらも草の根運動と公的機関のせめぎあいという話。
本書はなかなか読み進めるのが大変だ。もちろん,個々の話は心躍るような展開なのだが,細かい話をじっくり聞くというような辛抱が必要な読書だった。しかし,得るところは大きい。そして,ある意味で東京でもまねのできる研究スタイルだと思う。

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ジェントリフィケーション

藤塚吉浩 2017. 『ジェントリフィケーション』古今書院,191p.2,800円.

 

オリンピック研究において,ジェントリフィケーション研究は避けて通れない。スミス『ジェントリフィケーションと報復都市』,ズーキン『都市はなぜ魂を失ったか』を読み,この分野の奥深さと地理学的意義を痛感する今日この頃。日本の地理学におけるこの分野の第一人者である著者による本書も避けて通れないと思い,読むことにした。基本的には著者が1994年以降の20年間の間に発表した論文をまとめたのが本書だといえる。

1章 ジェントリフィケーション――海外諸国の研究動向と日本における研究の可能性
2章 京都市西陣地区におけるジェントリフィケーションの兆候
3章 日本におけるジェントリフィケーションと近隣変化――京都市を事例に
4章 ジェントリフィケーション研究のフロンティア――2000年代のロンドンの事例を中心に
5章 ロンドンのテムズ川沿岸における新築のジェントリフィケーション
6章 ニューヨーク市ブルックリン北部におけるジェントリフィケーション――2000年代の変化
7章 景気後退後の東京都中央区における新築のジェントリフィケーション
8章 ロンドン,ニューヨーク,東京におけるジェントリフィケーション
9章 社会主義後のベルリン東部におけるジェントリフィケーション
10章 脱成長社会におけるジェントリフィケーション――大阪市福島区の事例

本書について書かれた書評を2つほど読んだ。『人文地理』に発表された香川貴志氏による書評では,本書の300余りの文献表の不備を指摘しているが,英語圏に関してはかなり網羅的に本書の中で紹介されている。その中には,上述のスミスやズーキンの翻訳書以外もある。私がこの2冊の翻訳書を読みながら読んでみたいと思ったこの分野の古典文献についても文献表に含まれており,これらの研究を吸収してどんな興味深い議論が展開されるのか,多少は期待しながら読み進めた。
また,著者の手による実証研究は東京や大阪ではなく,京都を事例にしているという点でも興味がわいていた。京都はあまり訪れたことはないが,それでも知人が住んでいて何度か訪れ,知人に連れられて夜の街を散策したこともある。少なくとも,飲食については古い街並みを活かしながらひっそりとした雰囲気の中,質の高い料理とお酒をいただける店が多いという印象だけは私の頭の中にある。それをジェントリフィケーションと呼ぶかどうかは別として,リノベーションした店舗でその店主がその周囲のコミュニティとうまくやっているという意味では,東京にはない雰囲気を味わった経験がある。
確かに,著者による既存の研究に関するレビューは抜け目なくしっかりとしている。しかし,私がこれまでわずかな数だがこの分野の論文を読むことで感じてきた面白みが不思議なことに含まれていない。それは実証研究のスタイルにもよるのだろう。基本的に著者の調査・研究は人口データの詳細な分析を中心としている。単なる人口の多い少ないではなく,職業別,年齢別,所得別,ニューヨークに関してはエスニシティ別をなるべく細かい単位を基礎とし,適宜適切なスケールで集計,分析している。また人口データだけでなく,住宅に関するデータも併せて,これまでのジェントリフィケーション研究で指標とされている定量的な分析に関して,入手できる統計資料を駆使してこの現象を明らかにしている。まさにオーソドックスな地理学研究だといえる。
そのことがおそらく私が感じる面白みを欠く研究にしている大きな要因なのだろう。いわゆる客観的なデータを使い,適切な手法で現象を明らかにするという態度はまさに科学的な態度だといえる。一方で,例えばズーキンは自らの住む都市を対象とし,自らの立場,生活者としての嗜好を基礎としながら,この現象に対してまさに自身が当事者であることを忘れない。一方で,本書は著者自身の都市生活者としての存在は見えないし,それだけでなく,研究対象とされている都市でどんな人々がどんな生活を営んでいるのか,そういうことがほとんど見えてこないのだ。ところで,一つ疑問に思ったのは,「ジェントリファイアー」という概念だ。著者は従来の研究に対して自身の知見から批判をしたり,何か新しい発想を主張したりすることのない,控えめな研究者である。なので,この概念を誤って使っている可能性はゼロなのだが,本書ではこの概念を新しく流入してくる,以前よりも社会階級の高い人々を指している。しかし,それをいうのであれば「ジェントリー」でいいのではないか。ジェントリファイアーというとジェントリフィケーションを積極的に進める主体を意味するはずではないのだろうか。衰退した地区に資本を投資し,新しい階層の高い人々の流入を促す主体によってジェントリフィケーションが進むのではないだろうか。そういう主体の姿も本書ではほとんど明らかにされない。まあ,ともかく日本の地理学者はこれまで,彼という先駆者のおかげで,同じ分野での研究を発表しにくかった雰囲気があったのかもしれない。しかし,ジェントリフィケーション研究もかなり多岐にわたり盛り上がっている感があるので,徐々に日本での研究者も増えてくれば,さまざまな議論が展開し,面白くなってくるかもしれない。と,期待しよう。

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