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視覚都市の地政学

吉見俊哉 2016. 『視覚都市の地政学――まなざしとしての近代』岩波書店,468p.4,900円.

 

帯には「デビュー作『都市のドラマトゥルギー』から30年,続編にして吉見都市論の集大成!」と書かれている。本書は1992年以降に発表された既出論文をまとめたもの。加筆改稿とあるが,一方では四半世紀前に書いた文章もさほど有効性を失っていない,などと書いている。私は基本的にはやはり学術的な文章は初出年が大事だと思うので,こういう本よりも収録される前の文章をコピーして読むことを選ぶが,本書に収録された文章は雑誌よりも,論文集などに掲載されたものが多く,収集するのは多少面倒だ。
それはそれとして,今吉見俊哉の都市研究を読みたいと思ったのにも理由がある。日本では1980年代にいわゆる都市論ブームがあったといわれている。文学者の前田 愛をはじめ,文学分野の人や,建築分野,評論家,さまざまな人が,特に東京を中心に(江戸との連続性・非連続性もテーマの一つ),都市を論じていた。その学術的な到達点を1987年の『都市のドラマトゥルギー』とすることが多い。この頃の都市論は構造主義的記号論をその理論的な枠組みにすることが多かったが,そうした現代思想は1990年代以降,日本では下火になり,むしろマルクス主義政治経済学に基づく都市研究者の影響下での都市研究が都市社会学を中心に展開してきた。そういう意味では,文学者などが都市を論じることは少なくなったのかもしれない。吉見俊哉もそうした都市論にコミットしていたが,一方ではカルチュラル・スタディーズの日本における第一世代ということもあり,文化の問題は常に彼の研究の中心にあった。そういう意味でも,吉見氏は都市社会学者でありながら,政治や経済を強調する研究者とは一線を画し,文化を強調するといってもエスニシティなどを強調する研究者ともちょっと違う路線を歩んできたといえる。
そして,もう一つ。彼はメガ・イベント研究としての万博研究を手掛けていることもあり,オリンピックとの相性も良い。とはいえ,当初過去の博覧会を批判的に研究していたはずが,愛知万博では主催者側のアドバイザー(?)的な立場に取り込まれてしまい,それこそ政治的な立場から,おおっぴらにメガ・イベントへの批判的な立場を取りにくくなっているようにも思う。2020年東京オリンピックに関しても意見を求められることが多くなっているように思うが,基本的には推進派のような物言いになっている。ちなみに,『反東京オリンピック宣言』のなかでも編者の一人小笠原氏によって,吉見氏の立場は批判されている。それはともかく,私の本書を選んだ選択は非常に適していたと思わせる読書だった。

 序章 眼・群衆・都市――まなざしとしての近代
Ⅰ 拡大するモダニティ
 第Ⅰ章 帝都東京とモダニティの文化政治
 第Ⅱ章 近代空間としての百貨店
 第Ⅲ章 映画館という戦後
 補論1 占領地としての皇居
Ⅱ 飽和するモダニティ
 第Ⅳ章 テレビが家にやって来た
 第Ⅴ章 メイド・イン・ジャパン
 第Ⅵ章 テレビ・コマーシャルからの証言――アーカイブが開く地平
 第Ⅶ章 シミュラークルの楽園
 補論2 空から見た東京
Ⅲ 認識するモダニティ
 第Ⅷ章 都市の死 文化の場所
 第Ⅸ章 都市とは何か――都市社会学から文化の地政学へ
 終章 戦後東京を可視化する――まなざしの爆発とその臨界

私が最近読んでいる都市研究は基本的に最新の状況を扱っていて,過去にさかのぼるとしても1960年代までだったので,近代期の歴史分析を得意とする吉見氏の都市論を読むのはある意味新鮮だった。彼は日本に対するアメリカの影響を強く主張している。とはいえ,万博から百貨店の流れに関しては,もちろんアメリカではなくヨーロッパからの影響が強いとはいえ,意外にも「輸入」という側面にはこだわっていない。もちろん,国内勧業博覧会というのは日本独自の文脈があるとは思うのだが,そういう制度が日本にどのように導入されたのかという点はあまり明らかにされていない。というのも,彼はあくまでもメディア研究者であり,新聞や広告などのメディア表象を通じて歴史を紡いでいるからだ。それは,映画館やテレビという点でも変わらない。実際にそうした場で提供されるコンテンツがどのように輸入され,国産コンテンツとの割合の変化など,私が知りたいところはあまり示されていない。
彼のディズニーランド研究については,本書にも出てくる「キューティフィケーション」の議論を私は早くに聞いていた。私が修士課程の頃だったと思うが,八王子のセミナーハウスで開催された泊りがけのセミナーに吉見氏が講師で出席していて,私も参加したのだ。その際に,私は質問した。「ドルフマン・マトゥラール『ドナルドダックを読む』はディズニー作品の作品構造が観る者を夢中にさせることが示されたが,私たちの世代はディズニー映画は観るが,ミッキーマウスなどのアニメは観ていない。なぜ,キャラクターだけでディズニーランドの世界に夢中になれるのか?」と。吉見氏は鋭い質問だといい,その後食事の場などで顔を合わせた際にもその件について議論してくれた。結論的には,よくわからないというものだ。本書にはサンリオに関する記述もある。サンリオも実は物語を持ったアニメ作品があるのだが,少なくとも私の子どもの頃はそれらは観ていない。ともかく,文房具などのファンシィグッズなどがあふれていた。表情豊かなアニメ上のミッキーマウスには確かに感情移入する気持ちも分かるが,無表情のキティにどのように愛着を付与するのか,その辺りを学術的に理解するのは難しいかもしれない。それはともかく,吉見氏に限らずマクドナルド化やディズニー化という議論は消費社会の究極の到達点とみなしているようなところがあるが,吉見氏もそれらに与している。確かにそういう側面や部分的にそうした空間もあるが,果たしてそれで都市全体を語るというのはあまりにも強引ではないか。そもそも,一つの都市を一枚岩的に捉えることへの批判として著者は「地政学」の語を選んだのではないか。『都市のドラマトゥルギー』は東京という都市を,浅草,上野,銀座,新宿などという街の違いを時代の違いと対応させて論じているところにその面白さがある。このディズニー化の議論は一つの都市を一枚岩的に捉えるだけでなく,全ての都市を十把一絡げにしてしまうようなところがある。
第Ⅲ部はやはり今読んでおく文章だった。
第Ⅷ章は「都市再生」という概念を素朴に「都市とは何か?」と問い,その「都市」なるものが「再生する」とはどういうことなのかを問い,その言葉を自明視した政策を疑問視している。第Ⅸ章は,近年の都市論について,ハーヴェイやソジャという地理学者も取り上げながら,カステルやルフェーヴルについても論じ,都市の記号論について論じていたルフェーヴル『都市への権利』をしっかり紹介しつつ,その後の都市の記号論をしっかり紹介している。やはり著者にとってはマルクス主義的政治経済よりも文化表象の方が性に合っているのだろう。そして,私にとって最も有益だったのは,本書のために書き下ろされた終章「戦後東京を可視化する」だ。戦後占領下におけるアメリカの影響を捉えるというところはこれまでと首尾一貫しているが,「上空から東京をまなざす」として,米軍による日本への空襲の作戦について論じられている。これに関しては,工藤洋三という人が自費出版で2011年に出版した『米軍の写真偵察と日本空襲』という著作に寄っているが,その内容がすごい。米軍は自ら撮影した航空写真に基づき,ハリウッド映画の撮影スタジオのごとく,ミニチュアの東京ジオラマを再現し,カメラを積んだミニ飛行機を動かして,パイロットにその映像を見せたという。この文章に続くのが「路上から東京をまなざす」と題された文章で,特に長野重一が撮影した1950年代の写真が検討される。ちょうど,先日世田谷美術館で開催されている「田沼武能写真展 東京わが残像1948-1964」を観てきたところなので,かなりリンクします。田沼氏はサンニュース・フォトス社に入社しましたが,ちょうどその頃名取洋之助がこの会社から岩波映画製作所に移り,岩波写真文庫の制作を始めたのだが,名取の異動にくっついていった一人に長野重一がいる。まあ,それはともかく,本書のなかでは岩波写真文庫に採用された長野の作品が,自身の写真集に収められるときにはキャプションやトリミングが異なり,違った意味を与えられているということを論じている。かなり写真研究としても深みのある文章だ。さすが吉見俊哉と思わせる終章でした。

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