« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »

2019年5月

オリンピック,メガイベント関連文献(翻訳論文編1)

マカルーン, J.著,光延明洋訳(1988):近代社会におけるオリンピックとスペクタクル理論.マカルーン, J.編,光延明洋・今福龍太・上野美子・高山 宏・浜名恵美訳『世界を映す鏡―シャリヴァリ・カーニヴァル・オリンピック―』平凡社,387-442.MacAloon, J. J. (1984): “Olympic Games and the Theory of Spectacle in Modern Societies,” In MacAloon, J. J. ed. : Rite, Drama, Festival, Spectacle: Rehearsals Towards a Theory of Cultural Performance, Philadelphia: Institute for the Study of Human Issues.
この本は随分以前から知っていたが,結局入手しなかった。翻訳には高山 宏が関わっていて,「鏡に映される二十世紀」(pp.469-477)という高山氏にしては短めの解説を寄せている。そこで高山氏は,編者による序文「序説 文化的パフォーマンス,文化理論」(pp.11-33)を絶賛している。この序説はマカルーンによるものである。訳書タイトルにはないが,原著タイトルには「Drama」とあり,「社会劇」という捉え方がこの論集を通底している。そもそもこの論集は1977年に行われたシンポジウムの記録であり,マカルーンの報告に付随して,1936年ベルリン大会と1964年東京大会の記録映画の上映もあったようだ。それはともかく,劇学という系譜として,ケネス・バーク,アーヴィング・ゴフマン,G・H・ミードからグレゴリー・ベイトソンなどの議論が概観される。
本書でマカルーンは「米国のオリンピック候補にもなった一流の陸上競技選手から学問の道に転じ,異色の文化人類学者として知られる。」(p.188)と紹介されている。さて,ようやくオリンピック論文の紹介だが,かなり抽象的な議論が多い。いくつかの言葉が検討される。この章の中心にあるのは「スペクタクル」。この英語はラテン語のspecere「(意図的に)みる」が直接的で,さかのぼればインド・ヨーロッパ祖語の語根spek-「観察する」に由来するという(p.391)。そして,この語の使用法の歴史についても検討している。
この論文の主たるテーマは「スペクタクル」だが、ドゥボールの『スペクタクルの社会』が出発点なわけではない。スペクタクルは本書の原著タイトルにある4つの概念の一つであり、1つ目の概念「儀礼」の検討にもかなりの議論を費やしている。また、スポーツにおいても「play a game」であり、遊びとの共通性があり、オリンピックにおける競技と遊び=遊戯との違いも検討される。論文の中盤でベイトソン『精神の生態学』に依拠した議論が展開されるが、私にはいまいち消化不良。原著タイトル3つ目の概念が「Festival=祭典」、4つ目が「スペクタクル」であり、この後この論文では両者の違いが検討され、これが非常に興味深い。「祭典の場合、ドップリのめり込むくらいでなければ参加したことにはならない。冷めた傍観者的行動はお呼びではないのだ。一方、スペクタクルなら、そういう放埒な行動も許される。距離を置いて観察する見物人に徹する、というのがそれだ。見物するだけで結構、それ以上の規制はせず、後は観察者と「見物」との対話に任せる、というスペクタクルには随意性と個人的選択の余地が立派にある。」(p.433)そして、スペクタクル概念の検討において、ドゥボールとブーアスティン『幻影の時代』が対比される。対極的な政治的立場にある2人の著者がある部分では似たような主張をしていることの妙。
「オリンピック大会のスペクタクルは、ハンナ・アーレントの用語を使えば、清濁合わせのんだ「陳腐化(banalization)」を必ず果たしてくれるのだろうか?」(p.439)の記述からは、ムニョス『俗都市化』との接合ができようか。また、1972年ミュンヘン大会におけるテロ事件を、「冒涜」や「タブー」としてきたことも、人類学的な解釈が可能(p.441)。なかなか読み応えのある論文だった。やはり彼の著書である『オリンピックと近代――評伝クーベルタン』(645ページ!)も読まなければならない。

 

ブルデュー, P.著,櫻本陽一訳(2000):オリンピック――分析のためのプログラム.ブルデュー, P.著,櫻本陽一訳『メディア批判』藤原書店,140-145.Bourdieu, P. (1994): “Les Jeux Olympiques: Programme pour une Analyse”, Actes de la Recherches en Sciences Sociales 103: 102-103.
この論文は,翻訳の対象となった原著(原題は『テレヴィジョンについて』)に収録されたものではない。ただ,オリンピックといっても短い文章で書かれている内容はテレビ放映に関わるものだということで,翻訳では本書に収録されたのだと思われる。書かれている時代が時代なので,そんな目新しいことは書かれていないが,以下の引用はさすがブルデューという観点です。「オリンピック全体を見る者は誰一人いないため,自分が見ているものが全体ではないということに誰一人として気づいていないという意味では,対象が二重に隠されているのである。」(p.141)そして,タイトル通り,オリンピックに関する社会学的研究はこういうことをしろという分析計画の提示になっています。①オリンピック・スペクタクルの社会的な構築の分析,②テレビ映像の生産の分析,コミュニケーション手段を生産している界の総体の分析,スポーツ生産の産業化の分析。

 

ホブズボウム, E.著,前川啓治訳(1992):伝統の大量生産―ヨーロッパ,1870-1914―.ホブズボウム, E.・レンジャー, T.編,前川啓治・梶原景昭他訳:『創られた伝統』紀伊國屋書店,407-470.
オリンピックを「伝統の発明invention of tradition」の枠組みで論じる文献がいくつかありましたが,いずれもホブズボウム自身がオリンピックについて言及しているような書き方をしていたので,読んでみました(というか,今まで読んだことなかったのかよ!)。この論文は,この論文集の巻末に置かれていて,総括的な意味でヨーロッパの19世紀末から20世紀初頭(第一次世界大戦前)に起こったさまざまな事柄を取り上げていますが,その後半でスポーツが国民国家形成に大きな役割を果たしたことが示されます。イングランドのサッカー,大陸でのサイクリング。ともかく,1870年以前は民衆レベルで共有されるスポーツのようなものはなかったという。それが,英国ではイングランドのサッカー,ウェールズのラグビーなど地域色がありながら,特定の競技が地域対抗で競われる,などと国家内のアイデンティティと国家間の対抗,そして国際大会と広まっていく。その過程でやはりクーベルタンの思想と,その実現としてのオリンピックが重要であるようです。ただ,1914年までに限定していることもあり,本格的にオリンピックが伝統となる前に話は終わってしまいます。

| | コメント (0)

オリンピック,メガイベント関連文献(英語編9)

Lenskyj, H. J. (2012): “Olympic Education and Olympism: Still Colonizing Children’s Minds,” Educational Review 64 (3): 265-274.
批判的な研究が多い著者ですが(カナ表記に困るお名前です),教育関係の論文もいくつかあるようです。オリンピック教育への関心は2004年以降ということですが,タイトル通り,理念ばかりを掲げるオリンピズムとオリンピック教育が子どもや若者の頭脳を植民地化すると訴えます。日本でもよくありますが,オリンピックやパラリンピックの出場選手が子どもを前にした教育の場に登場し,善き「ロール・モデル」を演じるというわけです。スポーツで夢を成し遂げた実例として,IOCの人間性祝福イデオロギーを体現します。紛争や搾取,さまざまな民族問題は無視した多文化主義。これまでも,オリンピック教育を批判してきた論者が紹介されます。そして,そうしたオリンピック養育に登場するのがスポンサー企業。企業がさらに子どもたちを食い物にしていくということです。

 

Oliver, R. (2011): “Toronto’s Olympic Aspirations: A Bid for the Waterfront,” Urban Geography 32 (6): 767-787.
前に紹介した,Urban Geography誌のオリンピック特集の1本。著者はバージニア工科大学の地理学の研究者とのこと。トロントはオリンピックの開催都市になったことはないが,かつてからウォーターフロント開発の起爆剤としてオリンピックを利用しようと何度も招致運動をしてきた歴史が語られます。幾人かのインタビューも含みますが,基本的に新聞記事の分析になります。オンタリオ湖に面したトロントの湖岸地区は長い間公共空間とされ,私有化を拒んできたという。この地区の詳しい土地利用については説明されていないが,いわゆる工業地帯があり,脱工業化後の再開発が中心だとは思う。トロントのオリンピック招致運動は1954年に始まる。ローマで開催された1960年大会の招致であったが,計画要件がIOCのものを満たされておらず,招致は失敗している。1976年大会にも名乗りを上げたが,この大会は同じカナダのモントリオールで開催されている。都市の希望は国策により阻まれたことになる。当然,同国による続けての開催はほとんどないので,当面カナダでの開催はありえない。次なる招致は1996年大会だが,先にOldsの論文で確認したように,1986年バンクーバー万博以降,カナダではメガイベントによる都市にもたらされる弊害に反対する市民運動が勢いを増し,この招致は失敗している。ここでは,「サーカスよりパンを」という名前の活動団体が紹介されている。ただ,この論文では「1996年の試みは無駄な努力ではなかった。IOCは歴史的に繰り返し招致する都市を好む」(p.773)と記している。最後に2008年大会への招致運動がこれまでより詳しく論じられている。この間にウォーターフロント再開発も独自の進展を遂げており,各種組織が2008年の招致活動を支援する。しかし,やはりトロントが招致すべきかどうかにかかわる公的な議論もされないまま話が進み,より広い市民のコンセンサスを得られない。最終的には都市としての問題だけではなく,州政府,連邦政府の目論見のもとで計画が決定される。実際の競技会場の地図も掲載されている。ただ,最終的にIOCは政治的約束にではなく,確実な財政的関与を要求するため,トロントは開催都市とはなれなかった。とはいえ,ウォーターフロントの再開発はいつくか成果を生み出してはいて,トロントにおけるウォーターフロント再生がいかに重要かを市民たちが議論する素地も残している。将来的にも2015年のパンアメリカン競技大会の開催都市となり,これはもう決定しているが,2020年と2024年大会への招致も準備しているとされている。

 

Shoval, N. (2002): “A New Phase in the Competition for the Olympic Gold: The London and New York Bids for the 2012 Games”, Journal of Urban Affairs 24 (5): 583-599.
以前別の文献で言及されていて読みたかった論文。意外にも非常勤先の電子ジャーナルで入手することができました。しかも,この論文著者はイスラエルの地理学者だとのこと。2000年前後は都市研究としてのオリンピック研究が一気に登場する時期で,EssexとChalkleyという2人の地理学者による一連の論文や,AndranovichとBurbank,Heyingという3人の政治学者による一連の論文,社会学者Rocheのメガイベント本や,同じ社会学のHillerが積極的に論文を発表していたのもこの頃です。
この論文は前半でオリンピックの歴史的経緯を概観し,時期区分をしています。そして2000年以降に世界都市であるロンドンやニューヨークが2012年大会に向けて招致に乗り出したことを,新しい段階に入ったと捉えています。この議論は日本の都市社会学者,町村氏が『スポーツ社会学研究』に2007年に寄せた論文「メガ・イベントと都市空間――第二ラウンドの「東京オリンピック」の歴史的意味を考える」の論旨と共通しています。町村氏もオリンピックだけでなく万博にも注目していますが,Shovalの興味深いことは,時代的に万博→オリンピックという流れがあり,一度万博は下火になるのだが,1980年代に復活してきて(その最後に愛知万博が位置づけられます),その後にオリンピックの開催都市が新しい段階に入るという仮説です。そして,著者は町村氏と同様にこの動向には悲観的な見方をしています。経済効果についても,都市再開発についても,都市イメージの向上についてもあまり正の効果は見込めず,場合によっては負の効果をもたらすと警告しています。ただ,これはよく言われるように,オリンピックが肥大化し,それを開催できる都市は限られてしまっていることと,都市の側もそれなりの規模の変化をもたらすにはそうした契機に期待するしかなくなっているということでしょうか。

 

Burbank, M. J., Andranovich, G. and Heying, C. H. (2002): “Mega-events, Urban Development, and the Public Policy”, The Review of Policy Research 19 (3): 179-202.
2000年前後に米国で開催された3つのオリンピック大会,1984年ロサンゼルス大会,1996年アトランタ大会,2002年ソルトレイクシティ冬季大会についていくつかの論文を発表している政治学者と都市計画研究者の3人。これまで読んだ2本の論文はAndranovichが筆頭著者でイマイチ面白くなかったけど,Burbankが筆頭著者の本論文はなかなか面白いです。この論文で言及されているやはりBurbankが筆頭著者の2000年の論文は市民による抵抗を主題としていてもっと面白そう。この論文では,米国におけるオリンピック開催が,1984年から2002年に至るまでいかに推移したかが分かりやすくまとめられている。1984年は1932年にも開催経験のあるロサンゼルスということで,メインスタジアムは改修して利用し,その他大学の協力のもと,公的資金に頼ることなく成功させたという意味で,オリンピック史の転換に位置づけられている。しかし,アトランタではその実績がないため,それなりの公的資金を用いて競技施設を新設し,インフラを整備している。それだけではなく,世界的な都市間競争に立ち向かうにはアトランタはまだそのレベルには達していなかった。この論文のタイトルにもあり,掲載雑誌もそうであるように,本論文の主眼は都市開発ではなく,あくまでも公共政策にある。都市政策が管理主義的なものから企業家主義的なものに移行するというのはハーヴェイのお馴染みの議論だが,1984年ロサンゼルス大会はその一つの手本である。しかし,それはネオリベラリズムの一端であるが,都市政策という意味では典型ではない。ソルトレイクシティは1972年から冬季大会への招致運動をしてきたという。1992年にも立候補をしたが合衆国はアンカレッジを選択する。スキーリゾートとして国内では地位を持っていたが,それをより国際的な観光地として名を売りたかった。ここでも,かなりの公的資金が投入され,カナダと同様に市と州,連邦の3つの政府が関係する。この時代になると,オリンピックを利用した公的資金の投入は,さまざまな市民の反対運動にあうことになる。オリンピック関係の決定に市民の参加が含まれるようになるのはまだ先なのだろうか。

| | コメント (0)

10連休終わりました

恐怖の10連休が終わった。初日27日(土)は午前中PTAの集まりがあり,午後は一人で行動させてもらった。子どもたちは学校も保育園も休みで,私も休日出勤は基本的にできない会社なので,私が子守。しかも,アルバイト契約で10連休中の手当てはQUOカードで支給された1万円だけなので,妻には働きに出てもらう。
28日(日)は妻の仕事場のショッピングモールに出かけ,終業を待って,皆で夕食。29日(月)はいつもの休日程度の外出とし,近くのトイザらスに行って,ちょっとビデオゲームで遊び,息子にサッカーボール,娘にもボールを買い,帰りに近所の講演で少し遊ぶ。30日(火)は3人で近くの映画館に映画を観に行った。1日(水)は妻が仕事を休み,子どもをみてもらい,私は映画サービスデーということで,吉祥寺で2本立て。メーデーのデモ行進に出くわしました。2日(木)は子どもを2人連れて3人で昭和記念公園に連れて行く。こちらもすごい賑わいだ。最近はレンタルサイクルを借りて移動する。息子の同級生とバッタリ会い,一緒に遊ぶ。3日(金)はちょっと隣駅まで買い物に出かけ,家で過ごす。息子が白いTシャツに自分で絵を描きたいというので,その制作。4日(土)はこの連休の一大イベント,3人でよみうりランドにでかける。夕方に雷雨に見舞われたが,十分満喫。5日(日)は妻も一緒に皆で東京競馬場に行く予定だったが,前日妻は午前様で脱落。また3人で出かけました。この日も良く晴れ,皆で陽に焼けました。最終日6日(月)は隣町にちょっとでかけ,家で過ごす。近所の子どもたちと一緒に遊ぶ。連休はじめになんとなく風邪をひきそうな雰囲気があったが,病院にかかるようなこともなく,無事に過ごせたことはとても良かった。

 

2019427日(土)

立川シネマシティ 『ビューティフル・ボーイ』
立川で映画をと考え,上映作品の中からなんとなく選んだ作品。事実に共づく話。父親ととても仲良く育った少年が,ある日18歳でドラッグを覚えてしまい,その後の苦悩を描く。父親役はスティーヴ・カレル。彼の作品はあまり観たことがないが,コメディタッチの出演作が多いことは何となく知っていて,非常にシリアスな役どころにはじめは違和感を覚える。息子役は,先日観た『21センチュリー・ウーマン』のルーカス・ジェイド・ズマンかと思ったが,そうではなく,ティモシー・シャラメという俳優で,『君の名前で僕を呼んで』に出演していたとのこと。結局,観なかったが予告編は覚えている。この映画,Amazonの製作とのこと。映画産業に進出しているんですね。この作品で驚いたのが,終盤でパブロフズ・ドッグというバンドの曲が流れたこと。まだタワーレコードが渋谷の東急ハンズの近くにあって,視聴器もない時代。輸入CDが盗難防止の為か紙のケースで2倍の大きさでパッケージされて売られていた。私はペン画でモノクロに書かれた寂しそうに佇む犬の絵のジャケットのCDを連れて帰ったのだ。家に帰ってかけると予想だにしない高音ヴォーカルが響く衝撃的な音楽だった。そのCDはあまり聴くことがなかったが,大切に今でも持っている。しばらくすると音楽に詳しい友人もそこそこできるようになるが,このバンドが知る人ぞ知るバンドだと知り自分のセンスに驚いたものだ。
さて,それはさておき,この映画はまだ実在する人物の事実に基づく話ということで,脚色は少なかったのだと思う。結局,どういう教訓だかは私にはわからなかった。父親は息子の話に耳を傾け,自分の趣味を押し付けることはないが,何でも息子と共有しようと努めてきた。早くに離婚をして,男手一つで育てた自慢の息子だったのだが,ドラッグにはまって抜け出せなくなってしまう。何が原因だかは突き止めようとしない。父親は何をやってもドラッグに戻ってしまう息子を何としてでも助けようとし続けるが,ある時からは逆に諦めてしまい,息子が求める助けを断ってしまう。まあ,伝わるのは子育ての難しさということだろうか。
https://beautifulboy-movie.jp/

 

2019430日(火)

府中TOHOシネマズ 『東映まんがまつり』
私の子どもの時代にあった,東映マンガまつりが復活したそうです。今回の目玉の「おしりたんてい」は随分前から息子が気に入っていて,わが家にも何冊かあります。少し前からアニメもやっていて,娘も観るようになり,ひらがなを覚えてきた最近では本を開いて自分で眺めるようになりました。そんなこともあり,うちの子どもたちもこちらを最大の楽しみにしている。やはり4本中最後の上映でした。トップバッターは「うちの3姉妹」。「あたしんち」的雰囲気で,母親目線で6歳,4歳,2歳の三姉妹の奇行を描く。こちらも動画配信サイトで娘がアニメを観ていた。4本立てで子どもが観ていられる上映時間なので,1本は通常のテレビアニメ程度の時間ですね。2本目と3本目は順番が定かでありませんが,息子が購読している『コロコロコミック』連載中の「爆釣バーハンター」という作品。私も原作は読んでいませんでしたが,実在するビデオゲーム(?)を利用した作品。1本で設定からきちんと理解するのは難しい。とはいえ,それなりに観られるように出来上がっています。続いては「リさいくるずー」という段ボールで作られた動物たちのコマ撮りアニメ。こちらもなかなか子どもの笑いのツボをとらえた作品。最後の「おしりたんてい」は書籍の最新版を原作とするもの。昔のアニメといえば,原作の画風とアニメとが違っていたり,アニメの絵が雑だったりしましたが,最近は原作もパソコンを活用していたりするせいか,ほぼ一緒ですね。なかなかの出来です。大人の私も面白かった。
http://www.toei-mangamatsuri.jp/

 

201951日(水)

吉祥寺アップリンク 『こどもしょくどう』
実在する,小学生までの子どもに無料で食事を提供する食堂をモデルにした作品。食堂を経営する夫婦を常盤貴子と吉岡秀隆が演じます。子役たちも経歴のある役者ばかりのようですが,映画の出来としてはイマイチ。社会問題的なものをフィクションとして描くのがどうもうまくない。どうしても文部科学省推薦的な雰囲気になってしまうのが残念。
https://kodomoshokudo.pal-ep.com/

吉祥寺アップリンク 『シンプル・フェイバー』
主演のアナ・ケンドリックは『マイレージ・マイライフ』で観ているが,整いすぎた顔がイマイチ好きではないが,本作ではその雰囲気が適役。相手役の女優,ブレイク・ライブリーはまさにその醸し出す雰囲気が本作の役どころにぴったり。ほとんど社会問題的なものは含まれず,サスペンス的だがコメディタッチで,いいテンポで展開していく,勢いのある時代のアメリカ映画的な感じで,近年にしては秀作です。素直に面白かった作品。
http://simplefavor.jp/

 

 

 

| | コメント (0)

« 2019年4月 | トップページ | 2019年6月 »