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オリンピック,メガイベント関連文献(翻訳論文編1)

マカルーン, J.著,光延明洋訳(1988):近代社会におけるオリンピックとスペクタクル理論.マカルーン, J.編,光延明洋・今福龍太・上野美子・高山 宏・浜名恵美訳『世界を映す鏡―シャリヴァリ・カーニヴァル・オリンピック―』平凡社,387-442.MacAloon, J. J. (1984): “Olympic Games and the Theory of Spectacle in Modern Societies,” In MacAloon, J. J. ed. : Rite, Drama, Festival, Spectacle: Rehearsals Towards a Theory of Cultural Performance, Philadelphia: Institute for the Study of Human Issues.
この本は随分以前から知っていたが,結局入手しなかった。翻訳には高山 宏が関わっていて,「鏡に映される二十世紀」(pp.469-477)という高山氏にしては短めの解説を寄せている。そこで高山氏は,編者による序文「序説 文化的パフォーマンス,文化理論」(pp.11-33)を絶賛している。この序説はマカルーンによるものである。訳書タイトルにはないが,原著タイトルには「Drama」とあり,「社会劇」という捉え方がこの論集を通底している。そもそもこの論集は1977年に行われたシンポジウムの記録であり,マカルーンの報告に付随して,1936年ベルリン大会と1964年東京大会の記録映画の上映もあったようだ。それはともかく,劇学という系譜として,ケネス・バーク,アーヴィング・ゴフマン,G・H・ミードからグレゴリー・ベイトソンなどの議論が概観される。
本書でマカルーンは「米国のオリンピック候補にもなった一流の陸上競技選手から学問の道に転じ,異色の文化人類学者として知られる。」(p.188)と紹介されている。さて,ようやくオリンピック論文の紹介だが,かなり抽象的な議論が多い。いくつかの言葉が検討される。この章の中心にあるのは「スペクタクル」。この英語はラテン語のspecere「(意図的に)みる」が直接的で,さかのぼればインド・ヨーロッパ祖語の語根spek-「観察する」に由来するという(p.391)。そして,この語の使用法の歴史についても検討している。
この論文の主たるテーマは「スペクタクル」だが、ドゥボールの『スペクタクルの社会』が出発点なわけではない。スペクタクルは本書の原著タイトルにある4つの概念の一つであり、1つ目の概念「儀礼」の検討にもかなりの議論を費やしている。また、スポーツにおいても「play a game」であり、遊びとの共通性があり、オリンピックにおける競技と遊び=遊戯との違いも検討される。論文の中盤でベイトソン『精神の生態学』に依拠した議論が展開されるが、私にはいまいち消化不良。原著タイトル3つ目の概念が「Festival=祭典」、4つ目が「スペクタクル」であり、この後この論文では両者の違いが検討され、これが非常に興味深い。「祭典の場合、ドップリのめり込むくらいでなければ参加したことにはならない。冷めた傍観者的行動はお呼びではないのだ。一方、スペクタクルなら、そういう放埒な行動も許される。距離を置いて観察する見物人に徹する、というのがそれだ。見物するだけで結構、それ以上の規制はせず、後は観察者と「見物」との対話に任せる、というスペクタクルには随意性と個人的選択の余地が立派にある。」(p.433)そして、スペクタクル概念の検討において、ドゥボールとブーアスティン『幻影の時代』が対比される。対極的な政治的立場にある2人の著者がある部分では似たような主張をしていることの妙。
「オリンピック大会のスペクタクルは、ハンナ・アーレントの用語を使えば、清濁合わせのんだ「陳腐化(banalization)」を必ず果たしてくれるのだろうか?」(p.439)の記述からは、ムニョス『俗都市化』との接合ができようか。また、1972年ミュンヘン大会におけるテロ事件を、「冒涜」や「タブー」としてきたことも、人類学的な解釈が可能(p.441)。なかなか読み応えのある論文だった。やはり彼の著書である『オリンピックと近代――評伝クーベルタン』(645ページ!)も読まなければならない。

 

ブルデュー, P.著,櫻本陽一訳(2000):オリンピック――分析のためのプログラム.ブルデュー, P.著,櫻本陽一訳『メディア批判』藤原書店,140-145.Bourdieu, P. (1994): “Les Jeux Olympiques: Programme pour une Analyse”, Actes de la Recherches en Sciences Sociales 103: 102-103.
この論文は,翻訳の対象となった原著(原題は『テレヴィジョンについて』)に収録されたものではない。ただ,オリンピックといっても短い文章で書かれている内容はテレビ放映に関わるものだということで,翻訳では本書に収録されたのだと思われる。書かれている時代が時代なので,そんな目新しいことは書かれていないが,以下の引用はさすがブルデューという観点です。「オリンピック全体を見る者は誰一人いないため,自分が見ているものが全体ではないということに誰一人として気づいていないという意味では,対象が二重に隠されているのである。」(p.141)そして,タイトル通り,オリンピックに関する社会学的研究はこういうことをしろという分析計画の提示になっています。①オリンピック・スペクタクルの社会的な構築の分析,②テレビ映像の生産の分析,コミュニケーション手段を生産している界の総体の分析,スポーツ生産の産業化の分析。

 

ホブズボウム, E.著,前川啓治訳(1992):伝統の大量生産―ヨーロッパ,1870-1914―.ホブズボウム, E.・レンジャー, T.編,前川啓治・梶原景昭他訳:『創られた伝統』紀伊國屋書店,407-470.
オリンピックを「伝統の発明invention of tradition」の枠組みで論じる文献がいくつかありましたが,いずれもホブズボウム自身がオリンピックについて言及しているような書き方をしていたので,読んでみました(というか,今まで読んだことなかったのかよ!)。この論文は,この論文集の巻末に置かれていて,総括的な意味でヨーロッパの19世紀末から20世紀初頭(第一次世界大戦前)に起こったさまざまな事柄を取り上げていますが,その後半でスポーツが国民国家形成に大きな役割を果たしたことが示されます。イングランドのサッカー,大陸でのサイクリング。ともかく,1870年以前は民衆レベルで共有されるスポーツのようなものはなかったという。それが,英国ではイングランドのサッカー,ウェールズのラグビーなど地域色がありながら,特定の競技が地域対抗で競われる,などと国家内のアイデンティティと国家間の対抗,そして国際大会と広まっていく。その過程でやはりクーベルタンの思想と,その実現としてのオリンピックが重要であるようです。ただ,1914年までに限定していることもあり,本格的にオリンピックが伝統となる前に話は終わってしまいます。

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