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2019年6月

オリンピック,メガイベント関連文献(英語編11)

Preuss, H. 2007. The
Conceptualisation and Measurement of Mega Sport Event Legacies,
Journal of Sport & Tourism 12 (3,4):
207-227.
前にもPreussの共著論文は紹介しましたが,あちらの発行年は2008年だったので,「レガシー」に関する概念化はこちらの方が早いようです。オリンピック・レガシーについては,荒牧亜衣(2013):第30回オリンピック競技大会招致関連資料からみるオリンピック・レガシー,『体育学研究』58: 1-17.といういい日本語論文があり,このPreussの論文にも言及しているのだが,悲しいことに,ファーストネームでHolger2007)としているのが残念。ともかく,この論文はメガ・スポーツ・イベントで頻繁に用いられるようになった「レガシー」概念がかなりあいまいなので,きちんと定義したいとのこと。それこそ,開催都市の側がイベントを活用した「イベント戦略」や「都市政治の祝祭化」などといわれ,楽観主義に基づく(再)開発が行われる傾向には慎重にならなければいけません。ところで,「レガシー」は語源的に「意志によって残される所有物」という意味のようで(ウェブの語源辞典より)イベント関連の文脈には合わないという。IOC2000年に立ち上げたプロジェクト(OGGI)で環境と持続可能性を訴え,2002年の会議でレガシーを定義した。この概念についての初期の研究にはCashman2005)があり,(1)スポーツ(2)経済(3)インフラ(4)情報と教育(5)公共生活,政治と文化(6)象徴,記憶と歴史という6つの領域を分類した。Chappelet2006)は(1)スポーツ・レガシー(2)経済レガシー(3)インフラ・レガシー(4)都市レガシー(5)社会レガシーを区分した。これを受け,Preussはレガシー・キューブなるものを発案します。(1)計画/無計画(2)正/負(3)有形/無形の3次元で8つのサブキューブが想定されます。さらに(4)変化する構造の持続と時間(5)変化する構造に影響される空間,と時間軸と空間軸を加えた6次元です。その後の定義を引用しましょう。「生産の時間と空間に関係なく,レガシーはイベント自体よりも長く残る,スポーツ・イベントのために,によって創造される,全て計画されているかいないか,正か負か,有形か無形かである」(p.211)。この論文ではレガシーの概念化だけでなく,測定も含んでいますから,その測定が「総gross」なのか,「純net」なのかについても注意を喚起しています。レガシーの測定に関しては,標準型のアプローチ,トップダウン・アプローチ,ボトムアップ・アプローチと区分しています。標準型は,(1)同一都市の同一イベント(2)同一都市の複数イベント(3)複数都市の同一イベントという形での比較による相対的な測定になります。確かに,先述した荒牧さんは2012年の立候補都市の計画ファイルを比較していて,これは(3)ですね。Gaffney2010)によるリオデジャネイロの研究はレガシーに特化したものではありませんが,サッカー・ワールドカップとオリンピックなどをリオで検討していますので(2)ですね。東京でのオリンピックを1964年と2020年とを比較するのは(1)ですね。トップダウン・アプローチは統計資料を使ったような定量的な測定のようです。費用対効果分析のように,イベントが行われた場合(withケース)と行われなかった場合(withoutケース)を比較して,費用と効果を算出します。ボトムアップ・アプローチは前2者に対する代替的なもので,定性的で無形のものをも測定しようとするものでしょうか。また,正/負の区別というのは明確でなく,同じイベントが立場によって正ともなり,負ともなるというところも難しいところです。ボトムアップ・アプローチの弱点としては,イベントが開催されなかった場合の都市の発展について考慮できないとされています。そこで,最後に(5)と(6)の次元である時空間の説明になります。ここで「イベント構造」と「立地要因」という概念が登場し,まず時間軸が区分されます。イベント前は,①アイデアと実行可能性②招致過程③建設とイベントの組織化に分かれ,④イベント⑤イベント後と区別されます。イベント構造は,1.インフラ,2.知識,3.イメージ,4.感情,5.ネットワーク,6.文化に,立地に関しては,1.生活,2.観光客,3.祝祭,4.産業,5.会議,6.イベントとなります。最後にこの論文で示されたボトムアップ・アプローチに立ちはだかる障害を3つ挙げています。1.「総」レガシーから「純」レガシーを測定することの困難,2.正の価値と負の価値を決定する困難,3.時間を経過したレガシーの測定。

Baade, R. and Matheson, V. A. (2016): Going
for the Gold: The Economics of the Olympics,
Journal
of Economic Perspectives
30 (2): 201-218.
こちらも以前から文献表でよく名前を見かけていた経済学者2人の論文をようやく入手。謝辞には先日紹介したジンバリストの名前と文献表には『オリンピック経済幻想論』があります。内容的にも似通っています。まずは,オリンピック開催にかかる費用について。開催前に招致活動で成功しなくてはいけませんが,この招致段階でかかる費用もバカになりません。2016年大会に立候補したシカゴでは招致に失敗していますが,1億ドルに近い金額が費やされています。東京も2016年大会に失敗して2020年大会で開催が決定されましたが,多くの開催国は何度かの招致で開催権を獲得していますから,それだけの金額がかかります。IOCは夏季大会の開催に際し,4万人分のホテル容量を要求しており,選手村では15,000人分とされています。2016年リオデジャネイロ大会では新たに15,000人分のホテルが建設されたとのこと。既存の研究から1988年ソウル大会以降の開催に伴う費用の一覧表も掲載されています。続いては,短期的な経済効果についてですが,ここでも開催前の経済効果がいかに現実的なものでなく,希望的観測であることが指摘されています。例えば,2002年ソルトレイクシティ大会では35,000人の雇用創出が見込まれていましたが,開催後の研究では47,000人と見積もられています。短期的な経済効果については,既存の学術研究が算出した過去大会についての一覧表も掲載されています。ものによって金額だったり,雇用増であったりしますが,1984年ロサンゼルス大会,1996年アトランタ大会,1972年ミュンヘン大会,2002年ソルトレイクシティ大会,2000年シドニー大会,などです。開催前の希望的観測の経済効果に対して,開催後の学術的な見積もりが小さくなるのはいくつか理由があります。開催都市の住民はオリンピックにかける費用をプラスしているのではなく,オリンピックがなければ別の用途に費やした費用をオリンピックに使っているので,その分はマイナスなのです(代替効果)。そして,開催都市の多くは元来の観光都市でもありますが,開催時の混雑を避ける(混雑効果),あと計算上の問題も指摘しています(乗数効果)。長期的な効果については4つ挙げています。1.スポーツ施設のレガシー,2.インフラ投資,3.観光の宣伝,4.外国からの直接投資と貿易。競技施設の競技後の利用に関しても,かなり事例があげられていて有用です。貿易に関する研究も特徴的なものがいくつか紹介されていて,大雑把な定量的分析では,実際に開催に至らなくても,立候補都市になると貿易額が増加するというものがあるようで,一方ではそれを批判する研究もあるとのこと。これらの検討を含め,なぜ多くの国がまだオリンピックを招致し続けるのか,という疑問についてのいくつかの回答を最期に用意しています。1.オリンピックの全体的な効果が負であるにしても,国家としては巨大計画を必要とする。2.国家元首や政治・経済権力のエゴ,3.「オークション理論」というのがあるようで,オリンピック開催がもたらす不確かな価値は博打のようなもの。ジンバリスト『オリンピック経済幻想論』の原題副題にも「経済的なギャンブル」とあります。まあ,とにかく近年の立候補においては,そうした政府のエゴに住民たちがノーをつきつけていて,今後の動向を見守る必要がありそうです。

Boykoff, J. (2013): Celebration Capitalism and the Sochi 2014 Winter Olympics, Olympika 22: 39-70.
ボイコフによる2014年ソチ大会の論文。とはいえ,開催前で32ページある論文ですがソチに関しては5,6ページです。前半はひたすら祝賀資本主義の説明です。ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』の「参事便乗資本主義」から,カール・シュミットとアガンベンの「例外状態」を経て,ドゥボールのスペクタクル論,ハーヴェイ『資本の〈謎〉』なども登場し,再度祝賀資本主義とネオリベラリズムの関係が論じられます。今回はPPPが登場します。PPPとはPublic-Private
Partnerships
のことで,官民協同のことですね。公共部門を民間が担っていくのがネオリベラリズムの戦略ですが,祝賀資本主義や参事便乗資本主義は期限のある例外状態において公的資本が投入される。そして,場合によっては公的な政策が主導して民間資本が投入されるということもあるのでしょうか。この仕組みの公式なものがPPPですね。また,オリンピック自体が1992年にリオデジャネイロで開催された地球サミットの「時代精神」(ボイコフはこの語が好きなようです)に乗る形で持続可能性と環境を大会開催時の要件として組み込みます(アジェンダ21)。さらには1972年ミュンヘン大会でのテロ行為や,2001年同時多発テロを受けて,オリンピックでもセキュリティが流行りだといいます。そういう背景で2014年冬季大会がソチに決まります。ロシアは社会主義国であったソ連が前身ですから「国家寡頭資本主義」の下で独自のPPPの形があるそうです。私企業の投資も疑似的な私だというわけです。ボイコフの『オリンピック秘史』(早川書房,2018年)でも,「第5章 祝賀資本主義の時代」のなかに,「「ペテン師の楽園」――2014年ソチ冬季オリンピック」と題した節があり,本稿の概要版という感じでしょうか。黒海に面した自然環境,チェチェンなど問題を抱えた紛争地域,反五輪運動などを取り締まるお国柄。ある活動家の言葉によれば,「オリンピックは公的資金で購入される企業フランチャイズのようなものだ」というそうです。

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日本の原子力外交

武田 悠 2018. 『日本の原子力外交――資源小国70年の苦闘』中央公論新社,298p.1,600円.

今年度の非常勤先の講義は,日本地図を用いて広く浅く日本の多様性を知るというテーマでやっている。以前,ここでも紹介したスコシマロ『地図で見る日本ハンドブック』(2018年,原書房)を活用して。政治地理学分野に関して,この本には日本の植民地侵略,日本における自衛隊・米軍基地,そして原子力発電所に関する分布図があり,これを活用して講義をしている。植民地に関する地理学的研究は少なくないし,米軍基地などについては山﨑孝史さんの研究,そして松山 薫さんの研究もあるが,原子力発電所に関してはさっと読めるものが手元になかった。NIMBY関連ということでは新井智一さんの研究があるが。ということで,早速非常勤先の図書館で原子力発電所関係の本を探し,分量的に多くない本書を手に取った。スコシマロの本に掲載された地図は微妙にカラーなので,白黒印刷すると見にくくなってしまうことが多いが,本書には同じような地図が白黒で掲載されていたのでちょうどよい。

序章 国際政治と日本の原子力外交
1章 原子力の導入へ――194564
2章 平和利用への一本化――196470
3章 インド核実験の衝撃――197076
4章 迷走のアメリカ,日欧の説得――197682
5章 相次ぐ事故と日米協定の改定――198292
6章 冷戦崩壊後の積極的関与――19922011
7章 311以後の混乱――201117
終章 日本に課せられた役割

原発関係の本は福島第一原発の事故以降かなり多いが,本書はそこも含みつつ日本への導入から論じられており,また原発専門家ではなく,日米外交の専門家ということでなんとなく面白そうだなと思い選択した。本書によれば,国際政治という観点から日本の原子力発電開発を論じたものはこれまでほとんどないという。もちろん,日本には非核三原則があり,自衛隊はあるものの表立って軍力を持たないことになっているから,発電利用とはいえ原子力が自国での開発であるはずがない。日本も戦後に高度経済成長を遂げ,先進国の仲間入りを果たしたわけだが,原子力開発に関しては他国への依存と協力があったことは想像に難くない。とはいえ,日本における原子力の導入の基本的知識を得たいのはもちろんだが,本当のところは日本各地への原子力発電所が立地されていく過程を知りたいのが地理学者としての本音だったが,そういう側面は本書から全く知識は得られなかった。
さて,世界で唯一実戦で核兵器を使用した国である米国が核の平和利用についても指導的役割を担っていたことは理解しやすい。そしてその核兵器利用の対象国であった日本だが,米国の同盟国であることもあり,戦後間もない時期から日本でも核の平和利用が導入される。米国で原子力発電が成功するのが1951年だというのに,日本では1954年に突如国会で原子力発電に関する予算が決定し,ここから日本における原子力発電導入が進んでいく。自衛隊関係の論文を読んだ時にも登場したが,後に総理大臣になる中曽根康弘氏がそのキーパーソンだということだ。日本で初めての原子力発電に関する研究所が立地し,発電所もできることになる茨城県東海村に関しては詳しい研究論文も読んだが,法整備に先んじて施設建設が行われていく,かなり強引なやり方で開発を急いでいたようだ。それはそれとして,本書が強調しているのは,米国の思惑と日本の思惑。もちろん,影では日本でも核兵器開発なんてことが噂されるのであろうが,本書では基本的に学術的な立場を貫いているので,公的文書を基礎として,日本は原子力の平和利用が中心であったとされる。それに対し,核資源および核技術を世界各国に提供する米国は,その軍事利用を徹底的に監視する役割を自らに強いていることが語られる。国際原子力機関(IAEA)が発足するのが1957年だが,米国は個別に二国間協定を結ぶことで,各国に規制をかける。
日本で核開発が成功するのが1966年で商業利用の発電がおこなわれるようになるのが1970年らしい(?)が,目次にもあるように,インドが核実験を行うのが1974年。中国はそれに先んじて1964年に核実験を成功させている。中国は米国との協定外でソ連からの提供だが,インドは平和利用で提供を受けた核資源・技術を軍事利用したということで,大きな衝撃となる。さて,日本では核技術が進展する。核資源は石油などとは異なり,次々と消費するものではなく,1度に利用されるのは数%ということで,使用済みの燃料から再利用する技術があれば,一度入手した資源をもとに他国への供給をできるようになる。ということで,日本は核資源輸入国から輸出国へと移行する。東芝,日立,三菱といった企業が原子力産業を担い,冷戦後にはロシアとの技術協定を進めたりもする。
そして,2011311日。福島第一原子力発電所の事故は世界にも大きな影響を与え,この後,ドイツ,イタリア,スイスといった国は脱原発を宣言する。もちろん,日本でも脱原発の動きは非常に大きく続いているが,著者の立場としては,日本の脱原発に関しては課題が非常に多いという。確かに,全国の原発の再稼働のニュースを見ていても,単に反対運動の強さだけでは,米軍基地と同じように,それをなかったことにすることはとても難しいのだなと感じる。

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オリンピック経済幻想論

アンドリュー・ジンバリスト著,田端 優訳 2016. 『オリンピック経済幻想論』ブックマン社,226p.1,600円. Zimbalist, A. (2015): Circus Maximus: The Economic Gamble behind
Hosting the Olympics and the World Cup
, Brookings Institution Press.

以前から知っていた本だが,あまり聞いたことのない出版社であることと,翻訳タイトルと装丁で敬遠していた。しかし,改めて著者名をZimbalistと読むと,それなりにこれまで読んだ英語文献でも見ていた気がしてきた。決定的だったのは,坂田和光(2016):オリンピックと経済,『リファレンス』781:
17-41.という文献で本書の著者が登場していたこと。『リファレンス』という雑誌は国立国会図書館が発行していて,そこの研究員による論文が掲載されることが多いようだ。今回,オリンピックの文献を集めている過程でいくつかの論文を読むことになった。これがなかなか手堅い論文が多くて,信用している。

第一章 オリンピックの問題点
第二章 オリンピックの起源
第三章 短期的な経済効果
第四章 レガシー,長期駅な経済効果
第五章 バルセロナの成功例とソチの失敗例
第六章 リオとロンドンに見る経済的効果
第七章 パンか? サーカスか?

これまで読んだオリンピック文献でも,基本的に大会開催前に出される。経済効果に関する報告書は,プラスの効果があるという前提で,シンクタンク各社がその規模を算出するものにすぎない,ということがいわれてきた。基本的にはメガ・イベント推進派によるもので,イベント開催には多額の費用が必要だが,それに見合う便益があることを訴えるものである。本書はそういう断片的な主張や,一般的にメガ・イベントの経済効果に疑問を持つ人の考えをまとめてくれているものである。第二章のオリンピックの歴史概観は非常に浅い記述だが,この分量の本としては致し方がない。第三章と第四章がセットになっていて,理論的な説明になっています。第五章と第六章もセットで事例研究です。
基本的には批判的な立場をとっていて,第三章ではいわゆるメガ・イベントの経済効果分析がどういうものであるのか,短期的な観点から説明されます。計上すべき項目は何なのか,なぜ当初掲げられた予算が実際には膨らんでしまうのか,など網羅的に説明されています。第四章は長期的な観点から,特にIOCが主張するレガシーということを考慮して説明されます。観光産業のメリットや貿易と投資などが長期的な経済効果として期待されますが,その測定が難しいこともありますが,明確に効果がもたらされる事例や理論的な根拠はほとんどないといいます。
第五章では,1992年バルセロナ大会の成功の理由と,2014年ソチ大会の失敗の理由とを対比させています。ソチについては散々語られているように,ロシアでの開催ですから他の資本主義国との比較にはならないような気もしますが,まあ二の足を含む可能性は2022年北京冬季大会など今後は十分に考えられます。バルセロナに関しては,さまざまな意見がありますが,本書では成功例として捉えられています。その理由も明快。バルセロナはオリンピックに向けて都市再開発をしたのではなく,長期的に都市全体の都市計画のプランがあり,そこにたまたまオリンピックがいいタイミングでやってきたということ。そして,もともと国際的観光地として潜在的な魅力を持っていたにもかかわらず,それがうまく活かされていなかったが,この都市改造によって観光客を受け入れる素地ができ,オリンピックによってそのことが世界中に宣伝されたということ,そして大会開催後も再開発を続けたということが指摘されています。
本書の原著出版年は2016年ですから,2016年リオデジャネイロ大会についてはまだきちんと振り返る時期ではありませんが,第七章では準備が遅れていることも含めて否定的に評価されています。2012年ロンドン大会についても,「開催自体は円滑に進んだ」(p.138)と記されるものの,概して批判的に捉えられている。2012年ロンドン大会はIOCのレガシーに基づいて初めて計画され,開催された大会だったが,レガシーについても有形/無形を問わず,批判的に評価されている。それは招致を成功させるために課題に見積もられたレガシーであったといえるかもしれない。この批判的な評価はレガシーの価値そのものというより,計画に対してどの程度実現されたかという観点にあるから。ということは,これまで経済効果が計画時に過大に見積もられて,一方費用は過少に見積もられていたのと同様に,レガシーもかなり過剰計画となる可能性が高いということかもしれない。
7章のタイトル「パンか? サーカスか?」はオリンピックへの批判的な語り口によく使われる言い回しである。オリンピック大会は巨大化したこともあり,大抵の大会でサーカスに当たるエンターテイメントを提供することには成功している。現地での観戦客については,特に冬季大会の場合は集客に難ありという場面も少なくないが,テレビ放映ということでいえば,世界中の多くの観衆を熱狂させる魅力をオリンピックは維持している。しかし,一方でパンに当たる,特に開催都市の住民に対して提供されるものはと問われると,成功している事例はごく限られている。本書でいえば,1984年ロサンゼルス大会と1992年バルセロナ大会くらいだろうか。そういうこともあり,近年ではヨーロッパのいくつかの国(オーストリア,ドイツ,スウェーデン,スイス)が,国としてオリンピックを招致することに賛成しないことや,住民投票で招致を取り下げるなどということが後を絶たないという。2024年大会と2028年大会は開催実績のあるパリとロサンゼルスに決定したが,これまでのやり方での開催はこれで最後かもしれない。IOCもそこまで時間的猶予を作って,その間に組織改革をするのだろうか。もっと透明な組織で,立候補都市には住民中心の招致活動,開催計画を促すような,環境や持続可能性,最近では苦し紛れの包摂などをオリンピックの理念に組み込んでいるが,今後は表向きでない形での人権(市民権),そして住民参加に取り組むことがオリンピックが生き延びる最後の手段ではないだろうか。もしそれが成功すれば,一部の国の国内政治に,そしてゆくゆくは国際政治に大きな影響を与えるかもしれない。もう一つの道としては,ヨーロッパ中心のオリンピック開催,そしてオリンピック理念を打ち捨て,中国にその主導権を明け渡し,一帯一路構想に含まれる諸都市での開催が可能になるような大会そのものの見直し,という方向性も考えられる。うーん,まさにオリンピックは世界の縮図だといえるかもしれない。

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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編10)

Swart, K. and Bob, U. (2004): “The Seductive Discourse of Development: The Cape Town 2004 Olympic Bid,” Third World Quarterly 25 (7): 1311-1324.
南アフリカ共和国による2004年オリンピック大会の招致については,この論文でも引かれているように,Hillerによる2000年の論文がある。また,南アフリカ共和国についてはこの論文を読み終えた後に,宮内洋平『ネオアパルトヘイト都市の空間統治』(2016年,明石書店)を読み始めてしまったため,この論文の印象がかなり薄れてしまった。この論文でも,この招致活動が具体的にケープタウン都市内の施設配置や地区計画,インフラ整備などに与えた影響などは考察対象ではない。グローバル資本において,招致活動が都市間競争に与えた影響といったあたりが考察対象となっている。今回の招致はアフリカ大陸から初めてのものだったが,2016年リオデジャネイロ大会がまだ決定していないこの時点では,一方の南米からの招致はすでに1936年にブエノスアイレスからなされている。南アフリカ共和国は民主化以降にメガイベント招致を積極的に行い,1995年のラグビー・ワールドカップ,1996年にサッカーのアフリカ・ネーションズ・カップが開催され,オリンピック招致へと乗り出している。Hillerの論文にもあったが,ケープタウンは「人間の開発」をテーマに掲げた。この大会への招致は11の都市が名乗りを上げ,ケープタウンは1選考に残った5都市のうちの1つとなった。IOCとしては,五大陸を示す五輪を全うするためにもアフリカ大陸での開催を目指しているが,ケープタウンは最終的に落選した。IOCのアフリカ人委員もケープタウンにはほとんど投票しなかったといわれている。ケープタウンの犯罪率の高さは観客の安全を確保できない,などが大きな理由である。ただ,この招致活動は世界に対してアパルトヘイト後の世界に対する新たなイメージを提示したという意味では遺産を残したといえる。今後は人間の開発という意味でも,招致過程に市民参加を含めていくことが課題だといえる。

 

O’Bonsawin, C. (2010): “’No Olympics on Stolen Native Land’: Contesting Olympic Narratives and Asserting Indigenous Rights within the Discourse of the 2010 Vancouver Games,” Sports in Society 13 (1): 143-156.
知り合いではなかったが,この雑誌を所蔵する大学の地理学者にお願いしてコピーしていただいた論文。本当にこういうのありがたいです。さて,カナダのオリンピック招致,開催事情はこれまでもいくつかの論文を読んできましたが,この論文は先住民の扱いに関してです。論文タイトルを読んだ時にはボイコフが論じている反オリンピック運動について詳しく知ることができることを期待していたが,読んでみると,運動そのものではなく,なぜ五輪に反対するのかという動機を詳細に検討したものだった。オリンピックにおけるジェンダーや人種,エスニシティの問題は日本でも井谷聡子さんという人が論文を書いていて,このバンクーバーの「No Olympics on Stolen Native Land」についても書かれている。五輪開催都市/国の先住民問題で有名なのは2000年シドニー大会だが,2002年ソルトレイクシティ大会と一緒に論文の前半で触れ,「どちらの事例においても,先住民の人々は名目的なかつ取るに足らない役割へと追いやられている」(p.144)と述べられている。オリンピックの開会式ではそうした先住民を登場させたり,またそのモチーフだけを美的に利用したりしてその開催国の文化的多様性を強調し,その多様性を包摂する調和した社会が表象される。バンクーバー大会でも9つの先住民(First Nationと表現するようですね)から200人の代表が開会式に登場し,250人の非先住民のダンサーが「インディアン」のような恰好をして躍っていたという。カナダでは1988年のカルガリー大会でも先住民活動家による活動があったようです。この論文では,土地をめぐっての植民者の観点と先住民の観点について,カナダ連邦政府とブリティッシュコロンビア州の法律,オリンピック憲章と国連との関係など,丁寧に検討されています。IOCは国連が主張する持続可能性や公正な手順などを組み込んで,「アジェンダ21」を採択します。しかし,2つの深い欠陥があると指摘しています。1つはそれがオリンピック憲章にしっかりと固定されていないこと,2つめは周縁化された人々の基本的な人間的必要と権利を考慮していないことだといいます。今後は反オリンピック運動の主張に真摯に耳を傾け,オリンピズムに人権の問題をしっかりと組み込むことが要求されます。

 

Sebastião, S. and Lemos, A. (2016): “The Community Voice in the Preparation of a Mega-event: Rio 2016,” Cuadernos.info 39: 209-224.
ポルトガルの政治学者による2016年リオデジャネイロ大会に関する論文。地元住民の声を地元3紙の新聞報道からくみ取った研究。パブリック・リレーションに関する研究がベースにあります。2013年の新聞でリオ大会に関する119の記事に対して,定量的分析と定性的分析をしています。定量的分析からは必ずしも地元住民の声を反映できるわけではありませんが,鍵となる主題を記事数でランキングした2位に「Protest」が挙がっていたり,競技施設の建設現場で死者が出た事件の記事が多く,「準備における問題」が3位だったりして,五輪開催に否定的な声が新聞にそれなりの頻度で登場します。質的分析では,そうした住民の声や行為者,関心に焦点を合わせたものになっています。「コミュニティの声」は組織によって,その主要人物がジャーナリストに接触して新聞報道として公の場に届けられます。リオ大会では,スタジアムの民営化や数千世帯の立ち退き,インフラ建設や湾岸汚染の浄化などをめぐって市民の反対運動が起こっています。リオではワールドカップとオリンピックに反対するCPRCOという団体が組織され,住民の排除をめぐって市長との会合を要求したそうです。

 

Hiller, H. H. (1998): “Assessing the Impact of Mega-events: A Linkage Model,” Current Issues in Tourism 1 (1): 47-57.
以前紹介したOldsの論文は他人に複写依頼をしてようやく入手したものだったが,そのコピーに含まれていた次の論文がこのヒラーによる論文。ところが,ヒラーは自らのサイトでほとんどの自著論文をPDF公開しているので,難なく入手。こんなきれいなPDFがあるのだったら,Oldsのも公開してほしかった。さて,ヒラーは1990年代後半からメガ・イベントおよびオリンピックについての研究を進めている社会学者だが,この頃は特に南アフリカ共和国を専門的に調査していたようです。この論文の前半はタイトル通り,メガ・イベントのインパクトを評価するモデルの提示ですが,後半は2004年オリンピック夏季大会へのケープタウンの招致に関する事例となっています。まず,インパクト評価に関してですが,従来の研究は原因-効果関係を特定することが主眼でしたが,もっと広い視点で考える必要性を訴えています。そこで出されるリンケージモデルとは,原因→効果の一方向的時間軸だけではなく,フォーワード・リンケージという従来通りの原因→効果の時間の流れと,バックワード・リンケージという結果→目的・背景という逆の流れを想定し,さらにパラレル・リンケージというものを設定し,副次的な効果を分析に組み入れています。原因-効果というと,目的が達成されたという計画上の問題だけですが,想定外の効果が正負両方含まれるというのが,メガ・イベントです。
ケープタウンの事例に関しては,この論文自体が招致初期段階に書かれていることもありますが,バックワード・リンケージに関すること,特に住宅と移転に関することが考察されています。まず,招致委員会が地元からの批判を最小限にするためにはそうしたことへの配慮が必要です。しかし,都心近くでの低賃金住宅の供給が望まれましたが,多かれ少なかれその問題は無視されたといいます。全国的には2,3百万戸の住宅が必要だとされていましたが,1999年までに政府は百万戸の建設を目標にしていたという。西ケープに位置する黒人タウンシップには東ケープからの国内移民がやってきて,数千人が掘っ立て小屋のような不適切な住居で暮らすという。オリンピックによって都市の状況が改善されるという期待によって,オリンピック開催への支持は白人よりも黒人の方が高かったようですが,この時点でのそうした貢献は疑問視されると結論付けられています。

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ネオアパルトヘイト都市の空間統治

宮内洋平 2016. 『ネオアパルトヘイトの空間統治――南アフリカの民間都市再開発と移民社会』明石書店,437p.6,800円.

とある研究集会で本書の著者と会った。飲み会の席で近くになり,彼の研究を全く知らないまま,いろんな話をさせてもらった。私自身は南アフリカについて大した知識もないが,オリンピック関係の論文を読む中で,ケープタウンが2004年夏季大会に立候補していたこと,2010年にサッカー・ワールドカップを開催したことなどを知っていたので,そんな話をさせてもらっていた。自宅に帰って調べると,本書がすでに3年前に出版されていて,しかも人文地理学会で賞を受賞していたことを知り,何も知らずに話をしていたことを恥じた。その場では,今度彼を報告者とした研究会の企画の話が進んでいたこともあり,本書を読んでその研究会に臨むことにした。

序章 自由の迷走
1章 南アフリカと新自由主義
2章 例外空間と構造的不正義
3章 アパルトヘイトとフォーディズム
4章 インナーシティの空間編成史
5章 ヨハネスブルグのクリエイティブ産業
6章 「光の都市」の誕生
7章 「闇の都市」に生きる移民
8章 「光の都市」のネオアパルトヘイト
9章 「光の都市」の社会工学
10章 「光の都市」の葛藤
終章 正義への責任のために

とても読み応えのある一冊でした。博士論文が基になっているということもあり,前半では理論的な議論が続く。第1章では南アフリカの現状を英文文献で概観し,「新自由主義時代の生権力論」と題し,フーコーの「生権力論」を,ハーヴェイやバウマン,ポランニーやアパデュライなどの議論を通じて現代的文脈で再解釈する。第2章はヨハネスブルグにおけるゲーテッド・コミュニティの現状を紹介しながら公共空間論へと展開し,アイリス・マリオン・ヤングの「構造的不正義」という本書の一つのキーワードにたどり着く。
3章では,南アフリカではアパルトヘイトが廃止された後も移民労働に頼っている現状が語られる。もともとヨハネスブルグは金鉱が発見されたことで多くの移民が集中してできた都市だという。アパルトヘイトが正式に成立したのは戦後の1948年だが,1994年に撤廃されるまで黒人にはろくな教育も与えられていなかったため,その時点で成人していた黒人たちは労働者としての最低限の技術も身につけていない人が多いという。民主化以降,南アフリカは経済成長をしていくが,その際に必要な労働力として黒人はあまり役に立たず,周辺諸国からの移民が必要な労働力を提供しているのが現状だという。アパルトヘイトが撤廃されても,資本主義の自由経済を優先する新自由主義的政策の下では,白人中心の企業経営に低賃金労働者の黒人という図式のもとで,アパルトヘイトと同様の状況が継続する。それをネオアパルトヘイトと呼ぶらしい。
4章ではヨハネスブルグのインナーシティの状況が歴史的にたどられる。ヨハネスブルグは金鉱でにぎわった都市なので,それなりの資本蓄積で,早くから高層ビルなどが立ち並んでいた。世界的な都市化→郊外化の流れに従って,白人の富裕層は都心を離れ,新都心と呼ばれる「サントス」という地区に移動し,企業の本社なども移動する。残された都心のビルは放置され,先ほど述べた近隣からの外国人労働者によるスクウォッティング,またはマフィアのような組織による乗っ取りが行われ,劣悪な環境で貧困層が所狭しと住まうという。黒人はもともと黒人地区として隔離されていた「タウンシップ」に隔離政策が終わった後も相変わらず住み,またかつて炭鉱などで働く単身黒人男性のために建てられた「ホステル」なる集合住宅に住み続けるという。民主化以降,政府はそうした黒人向けに大量の社会住宅を建設しているようだが,量的には足りていないという。そんなインナーシティを,政府は「都市改良地区」と定め,民間資本を利用して再開発を行っている。第5章ではそんな再開発で,リチャード・フロリダのいうクリエイティブ産業が一つの役割を果たしていることが紹介される。アート・フェスティバルが開催され,アーティストたちが住みつき,賑わいを見せ,他のイベントが模様され,複数の地区でクリエイティブ産業が立ち上がっていく。
6章では,そんな地区がいくつか紹介される。ニュータウン,ブラームフォンテイン,そして著者が集中的に調査したマボネンである。これまでにはほとんどなかったミニシアター系の映画館や小劇場,ギャラリー,ナイトクラブ,バーやカフェが立ち並ぶ。こうした地区に投資する起業家たちは,放置されたビルを買い取り,リノベーションし,オフィスを構え,さらなる起業家のためのシェアオフィスを作ったりする。まあ,いわゆるジェントリフィケーションですね。そのマボネンという地区は,リーブマンというユダヤ系の青年実業家がPT社という会社を立ち上げ,この地区をほぼ1社(子会社を含む)で再開発を進める。各地で再開発が進むとはいえ,ヨハネスブルグは相変わらず危険な都市であることは変わらないので,この地区は監視カメラや警備員を配置し,オフィスや住宅は入館警備を徹底する。そうすることで,この地区で働き,また遊びに訪れる者たちの安全を確保している。
7章では,そんなジェントリファイされたマボネン地区のすぐ近隣では,古い移民である南アジア人やアフリカ人が経営するさまざまな店舗が紹介される。それなりの技術を持って移民労働者としてやってくる外国人とかつてアパルトヘイトに苦しめられた南アフリカ人との間には不和がある。どこでも同じような状況だが,最下層の人たちは移民によって自分たちの職が奪われたという妬みがあるのだ。インナーシティではそんな下層民たちが独自に行うインフォーマル経済の様子が報告される。八百屋や床屋,パン屋や食堂など。南アフリカ共和国国土内に含まれるレソトという王国からやってくる移民の多くが廃品回収の担い手となっている。その廃品回収業者もインフォーマルとフォーマルとに分かれているとのこと。マージンを引かれて移民たちにどれほどのお金が渡るのだろうか。先述したホステルの様子も報告される。
8章ではマボネンを再開発しているリーブマンのPT社をめぐって,メディアなどに寄せられる批判とリーブマンの主張などが検討される。この辺りが日本とは異なり,健全な気がします。例えば,日本では森ビルという会社が,六本木や虎ノ門の再開発を次々と手掛けたが,かれらのやり方に対する表立った批判はあまり目にしていないと思う。多くの人はそのやり方に不満を抱いていると思うが,公の場でその是非を問うことはまずしない。そもそも,こうしたクリエイティブ産業地区に集うのは,人種を超えて高学歴の富裕層であるとのこと(ただし,他の改良地区ではこうした人種のミックスはほとんどないとのこと)でそうした議論が可能になるのだろう。その議論では「ジェントリフィケーション」という日本では学術研究者と一部のメディアしか使わないような言葉が日常的に使われる。そして,それはもちろん否定的な意味において。第9章では同じマボネンの話で,実際にかれらの再開発がこのかつては無秩序状態だったヨハネスブルグに何をもたらしたのか,ということが再検証される。少なくとも一部の人にとって,この地区は安全で健全な企業活動,文化活動ができる場所に「改良」された。しかし,それが故に今度はこの地区とその近隣地区との格差が明確になる。そして,第10章で論じられるように,整然とした一画に生まれ変わったマボネンだが,ある意味それはグローバル都市の仲間入りであり,アフリカの都市であるという土着性を失うことでもある。同時にその地区で活動するアーティストはそのことで自らのアイデンティティに対して疑念を抱くことにもなり,アフリカへの回帰,ないし再発明ということも起こってくる。ズーキンやスミスのジェントリフィケーション論をようやく私は学ぶようになったが,ひそかに抱いていた疑念があった。それはジェントリフィケーションを批判する研究者は,そこで排除の対象になるスラムや貧困者をどうしたいのかということが分からなかった。ホームレスとして生きるのも人権のうちなのか,衛生という思想は近代に生まれたものだが,不衛生という状態も存在する価値があるのか。経済発展が不要だという議論には賛成するのだが,生死の境を生きる最底辺の人々の生活はどうなのか。まあ,そういう論者は単なる開発の問題だけでなく,社会的な不平等を訴えているから,社会全体の問題が解決すれば貧困層の人々が減るのだろうかともかく,色々考えさせてくれる読書でした。

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オリンピックと近代

マカルーン, J.著,柴田元幸・菅原克也訳(1988a):『オリンピックと近代―評伝クーベルタン―』平凡社.MacAloon, J. J. (1981): This Great Symbol: Pierre de Coubertin and the Origins of the Modern Olympic Games, Illinois: The University of Chicago Press.

マカルーン編『世界を映す鏡』に収録された「近代社会におけるオリンピックとスペクタクル理論」を読んでから,本書も読むべきだと思い,非常勤先の大学図書館で借りて読み始めた。ポール・オースターの翻訳で知られる柴田元幸氏が手掛ける翻訳で,645ページに及ぶ大著。以前,本書を手に取って目次は見たことがあった。本訳書の副題通り本書はあくまで近代オリンピックの父であるクーベルタンの伝記であり,1896年の第一回アテネ大会で締めくくられているため,今更読む必要はないと考えていたが,読み始めてその考えは変わった。著者は米国でオリンピック代表選考にかかるくらいの陸上選手であったとのこと。1968年のメキシコ大会を目の当たりにして,自分はそこに選手としている場ではないと実感するとともに,そのひきこまれる魅力について理解したいと思い立ち,学問の世界に入ったという。彼が身を置いたのは人類学。上述の編著にも寄稿しているヴィクター・ターナーへの謝辞が本書にもある。人類学に入門しながらも博士論文で取り組んだのが本書。同じく,編著に寄稿し,謝辞に名前が挙がっている歴史家,ナタリー・ゼーモン・デーヴィスらが始めた民族誌学的歴史学の影響も大きい。ともかく,注釈の多い本書は丁寧に歴史を紡いだアカデミックな書である。
緒言
第一章 ラオコーン――悲劇の予感
第二章 貴族の家柄
第三章 アーノルドとの出会い――スポーツの発見
第四章 スポーツ教育
第五章 オリンピックの理念
第六章 近代オリンピックの誕生
第七章 仕掛けとしてのオリンピック――第一回アテネ大会
第八章 結び――オリンピックと近代
冒頭にボルヘスの「中国の地図制作者」についての解説がある。正確には「学問の厳密さについて」というタイトルで,岩波文庫『汚辱の世界史』に収録されたものだが,この1分の1の地図に関しては,ウンベルト・エーコやジャン・ボードリヤールも論じており,若林幹夫『地図の想像力』の冒頭を飾る議論でもある。本書でこの説話が取り上げられているのは,ミイラ取りのミイラのように,この巨大で複雑で多くの人を夢中にさせる魅力を持ったオリンピックというものを学問の対象として理解することは難しく,足を踏み入れようものなら客観性というアカデミックの足場を奪われてしまうということを言いたいがためである。著者はオリンピックの魅力を理解しようと,それに関する文献を漁るが,学術的な客観性,オリンピズム的価値観から中立な立場を有する文献には出会えなかったという。一方で,正当な学問はオリンピックという社会的に大きな影響を与えている現象に背を向けてきたのだという。それならば,ということで著者は学術界に転向した。
そして,「オリンピックという事業を興味深いものとしている性質,すなわちそのスケールや,複雑さや,意味の多様性こそが,総合的な研究を困難にしている」(p.12)という理解に至り,「この男(クーベルタン)について,その人生のドラマと生きた環境について理解することなしに,近代オリンピックの起源はもとより,その不変の「構造」を理解することもまた不可能である」(p.14)との観点から,まず手掛けたのがクーベルタンの伝記となったわけだ。第一章はその全体像を象徴するイコンとしてのラオコーンの存在が示される。第二章では,彼の家系図の復元から,19世紀ヨーロッパにおける家系図の社会的意義と貴族階級における近在的個人について論じられる。特に,彼の父親は画家として多くの作品をサロンに出品しており,その辺りの美術史的な考察も興味深い。ちょうど以前紹介したように同じ時代の画家クールベについていくつか本を読んでいたし,それこそその時代背景を描くハーヴェイの『パリ』も読んでいた。そうした歴史的含蓄のあるオリンピック研究は非常にまれであり,1981年に原著が出版された本書であるが,今読む意義も十分にある。若かりし頃のクーベルタンの思想に関しては,これまでの研究でほとんど取り上げられてこなかった偽名で発表された自伝的小説「ある王党派共和主義者の物語」を詳細に検討している。ちなみに,マカルーンは「意味の問題が20世紀の問題だとするならば,クーベルタンは本質的に19世紀から抜けだすことはなかった。」(p.27)と述べ,新しい近代イベントを生み出したクーベルタンをそのイベントの真意を理解できない古い人間とみなしている。
クーベルタンがなぜスポーツに目覚めたかということについては,これまで読んだ文献でも有体の説明があった。英国のパブリック・スクール教育を維新したとして知られるトマス・アーノルドに感化され,スポーツによる教育的効果によりフランスの軍隊をもっと強いものにできると考えた,という感じの説明だ。第三章はその辺りの事情を詳細に検討している。まず,クーベルタンは英国に渡るわけだが,これにも当時フランスから英国に渡る人が多かったことが確認され,そんなフランス人による報告のなかでもイポリット・テーヌという人物の『イギリス覚書』が詳細に検討される。実際にクーベルタンはアーノルドが校長だったラグビー校をはじめ,多くのパブリック・スクールを訪れたということだが,アーノルドについてもさまざまな資料を検討している。特に,クーベルタンが理解したアーノルドは,アーノルド本人ではなく,彼について書いているトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』とスタンレーの『トマス・アーノルドの生涯と書簡』という性質の異なる2冊の本がクーベルタンに影響を与えたという。
第四章は,クーベルタンが寄稿した雑誌の発行元である「社会経済協会」についての詳細な検討から始まり,その主宰者であるフレデリック・ル・プレという人物の思想のクーベルタンへの影響を検討する。クーベルタンの頭の中に漠然とあった「スポーツ」が具体的な形で社会変革の道具として形をなしていく。「国際的スポーツ活動を管理すべく彼が創り出すことになる国際オリンピック委員会も「非イデオロギー的」な組織をめざしたものであったが,そのモデルとされたのが,テーヌが称賛していたイギリスの「庇護」団体であり,政治学学校であり,社会経済協会-社会平和同盟であった。なかんずく協会の場合はIOCのすべての原則の先例となっている。」(p.190)クーベルタンは一時期,その政治学学校にも通っていたのだ。1880年代後半ころから,クーベルタンは積極的に自分の思想を表現するようになり,その思想を組織づくりという形にするようになる。「そして後年クーベルタンが主宰することになる諸団体の名簿には,医学者や,生理学者や,実験心理学者の名前はほとんど登場することがない。これはスポーツ組織と正統的な科学が袂を分かったことを象徴的に示している。このことが1950年代および60年代までの欧米スポーツ文化を特徴づけることになるのである。」(p.221)本書ではクーベルタンの同時代人として,進化論者のハーバート・スペンサーや社会学者のデュルケームなどを登場させるのも面白い。次の引用にあるように,クーベルタンが妄想するスポーツ教育をオリンピックという祝祭へと結びつけるのにヒントを与える人物が登場する。「だがクルーゼには,クーベルタンにそれまで欠けていたものがあった。すなわち,スポーツ競技の背景となるべき祝祭への興味である。クルーゼは,中世の学生の祭典である「定期大祭」の復活を呼びかけた。そして,この「学校の若者たちのための盛大な競技祭典」が1889年と90年の二度にわたって開かれたのである。」(p.228)
第五章の冒頭は,クーベルタンが1889年に渡米するようすから描かれる。先日した渡英と同様に,クーベルタンは何かに行き詰まると外国旅行をし,インスピレーションを受けてくるという。特に,次の引用のように,米国はクーベルタンのお気に入りになったようだ。「クーベルタンが精力的に書いた,アメリカを題材とした記事,アメリカ人読者に向けて書いた記事の数(およそ50)。「ある王党派共和主義者の物語」の舞台をアメリカに設定し自分の分身的人物をアメリカ人の娘と婚約させたこと。オリンピックにおけるアメリカ人選手たちの活躍を彼が我がことのように喜んだこと。そして,第三回オリンピックの開催権をアメリカに与えたこと。いずれを見ても,彼の「アメリカ熱」がいかに高かったかを物語っている。」(p.258)第五章は,クーベルタンが英国,そして米国から学んだスポーツ教育という思想を,オリンピック競技大会という具体的な実践に結実していくための影響が一つ一つ確認される。そして,当時ヨーロッパ最大のイベントであった万国博覧会もクーベルタンに大きな影響を与える。「また,厳密に証明することは不可能であるとしても,クーベルタンが古代スポーツをめぐる自らの思想を系統立てるために主要な情報源とし,ドイツ人によるオリンピア発掘の成果を知る媒体となったのがデュリュイの『ギリシア人の歴史』だったという可能性は,きわめて高いと私には思える。」(p.292)という引用から,古代オリンピックの復元を,そしてその先例としての試みがクーベルタン以前に存在する。いくつか引用をつぎはぎしよう。「近代オリンピックの真の原型が現われたのは,1830年代のスウェーデンにおいてである。その指導的立場にあったのは,ルンド大学のグスタフ・ヨハン・シャルタウ教授であり,1834年7月,教授はレムロサで「古代オリンピック大会を記念して」全スカンジナヴィア・スポーツ大会を組織した。」(pp.297-298)「クーベルタンはパリにおいて地方規模のスポーツ大会をいくつか組織しているが,それは基本的には,このより大きな目標に向けての土台作りだったのである。そして彼は,クルーゼの提唱する「定期大祭」のような「ローカルな忠誠心」を支持しなかった。」(p.303)「このギリシア・オリンピック競技会は,エヴァンゲロス・ザッパスという人物の発案によるものであった。・・・そこでザッパスは,王と政府に対し,スポーツ大会を産業見本市と組みあわせ定期的に開催することを提案した。見本市は実現しなかったが,「オリンピック競技会」の方は,ザッパスが費用を負担し,1859年にその第一回が開かれた。結果はあまりぱっとしたものではなかった。」(pp.305-306)第5章は以下のように締めくくられる。「要するに,「オリンピックの理念」は,四方八方からクーベルタンに向けて迫ってきていたのである。やがて彼に与えられることになる「改革者」という称号は,オリンピック大会復活のアイデアを思いついたことにではなく,その夢を現実にしたことに対して与えられるべきものなのである。」(p.309)
1896年の第1回オリンピック,アテネ大会については第7章で論じられ,第6章はそこに向けての組織づくりと大会準備にあてられる。クーベルタンは1890年に,サン=クレールという人物と共同で「フランス競技スポーツ競技連合(USFSA)」を結成する。最終的にこの組織がIOCと国際競技連盟(IF)へとつながっていく。「社会学者アルヴィン・グルドナーが指摘したように,ギリシア・スポーツとは,紀元前五世紀において都市に住むギリシア人の生活全体を支配していた,「競争」のパターンを好む性癖の,一つの表われにすぎないのである。」(p.347)少し後の次の引用のように,近代スポーツとなってその性質は普遍的なものを目指している一方で,本来のスポーツの在り方は土着的なものだったようで,オリンピック競技大会はその差異を巧妙に利用しているともいえる。「次にクーベルタンは,現代の体育教育における二つの流れを概観する。一方は体操派であり,スパルタから始まって,ナポレオンに敗北した後のプロシア,普仏戦争敗北後のフランス,南北戦争以後のアメリカへと続く。もう一方は「個人のためのスポーツ」を掲げる派で,アテネに始まり,アーノルドとキングスレー,ヨーロッパ・南米に広がったスポーツ・クラブ,そして「西欧の多くの有名なクラブに少しもひけをとらない」アテネのクラブへとつながる。クーベルタンの説くところによれば,前者は戦争の準備につながり,後者は平和を育む。」(p.373)この差異を普遍的なものに導いていくのに,ギリシアが重要な役割を果たす。「「ヘレニズム」はおそらく,パリ会議に集まった人々にとって,発展途上の近代スポーツ界につきまとっていた対立や派閥争いを,しばらくの間棚あげすることを可能にしてくれる,唯一の象徴・理念の集合体だったのである。」(p.348)
本書でマカルーンはメディア分析も行っている。「誕生のその瞬間から,オリンピックは新聞編集者にとって,報道体制をめぐる問題の種となってきたのである。」(p.350)そしてその特徴は,第1回から現代的な特徴をかなり有していた。第7章からの引用を先取りするが,つまりは1896年アテネ大会を忠実に再現するには当時の報道が重要である。「この大会のみならず,その後のすべてのオリンピック大会に現われることになる,膨大な量の通俗民族誌学的な国民性観察がここですでに始まっているわけである。」(p.431)「新聞,民話,諺,ゴシップの場合と同じく,文学がオリンピックのパフォーマンスを取り込む時も,多くの場合は通俗民族誌学を取り入れ,神話,歴史,文学,宗教上の,時には実に意外な種々なるモチーフを付け加えるのである。」(p.474)
話を第6章に戻すと,1894年にクーベルタンは「パリ国際スポーツ会議」を開催し,第1回のオリンピック競技大会は1900年にパリでオリンピックを復活させる計画であった。しかし,会議の審議中に4年前のアテネ開催が審議され,急遽決定したのだという。その後のギリシアの情勢のなかで,ギリシア側は大会開催の困難をクーベルタンに訴えてくるが,クーベルタンはギリシアを訪れ説得する。「オリンピックは有益にも有害にもなりうるが,危険を冒してみる値打ちは十分にある,というわけである。」(p.361)アテネでの開催が決定され,準備が進んでもヨーロッパ各国への選手招待に関しても問題が続出するが,この時にクーベルタンは動かなかったという。なんと,この時期にクーベルタンは妻を迎え,さらに「1895年から96年初頭にかけて,クーベルタンがもっとも精力を注いだのは,『第三共和制下のフランスの発展』の執筆である。」(p.407)マカルーンは,そんなクーベルタンの歴史研究についても随分ページを割いている。第7章は1896年アテネ大会について詳細な記述が続く。観戦客のほとんどはギリシア人だったが,外国選手の活躍にも称賛を送るような雰囲気もこの頃からあり,特に大会終盤で行われたマラソンの優勝者がギリシア人だったこともあり,開催を渋っていたギリシア政府であったが,大会終了後はこの大会はずーっとアテネで開催され続けるべきだと国王が言い出すこととなり,そこに居合わせた多くの人たちもこれに賛同する。もちろん,開催地を巡回させると計画していたクーベルタンにとって,それは許容できるものではない。「第二に,相当な数の外国人観光客が訪れなければ,ギリシアは大会の出費を賄えない恐れがある。」(p.493)などと,いくつか具体的なギリシア開催否定論を持っていたが,それに止まらず理念上もそのことは認められない。「愛国主義と国家主義を区別することこそ,オリンピズムおよびオリンピック運動のイデオロギー的側面に彼が与えた根本的な遺産である。」(p.511)結局,ギリシアはクレタ島をめぐてトルコと戦闘状態に入り,惨敗する。
本書の終盤はそのほとんどを書き留めておきたいと思うほど,濃厚な考察が続く。特に,後ほど長文の引用をするように,愛国主義,国家主義,国際主義,世界主義という当時のヨーロッパ人が幾重もの広がりを見せる世界観のなかで,クーベルタンが身につけ,オリンピック運動という形で広めようとしたものの考察がなされる。しかし,次の引用にあるように,1896年アテネ大会ではクーベルタンの理想の姿が見られたものの,その後においてはそうでもなかった。「1900年のパリ大会,1908年のロンドン大会において,クーベルタンは,オリンピック選手たちでも,ほかの選手たちに対し島国根性的,国家主義的な態度を示すこともあるのだという事実を,まざまざと見せつけられることになる。」(pp.515-516)
「モラスの言う「国際主義」とは,それぞれの国民の差異と分離を強調する多国間交流のことだった。クーベルタンはこれを,「世界主義」のカテゴリーの中にとり入れたわけである。むろんクーベルタンにとっても,真の国際主義とは,社会的・文化的差異の発見・体験があって初めて成立するものではあった。しかし彼から見れば,そうした国家間の差異は,人間と人間を隔て反発させあうものでは決してなく,その逆に,人間としての生き方の多様性として肯定されるべきものであった。そのような差異を認識することこそ,平和と友好への第一歩であり,彼がのちに言う「相互の敬意」への道なのである。こうした考え方に基づいて,クーベルタンは一つの哲学的人類学ともいえるべきものを築こうとしたが,結局彼は,それを完全に体系化することができずに一生を終えた。それは,一つには彼の思考力の散漫さが災いしたためであり(晩年の著作においては,「世界主義」「国際主義」といった基本的用語の使い方すら一貫性を欠いている),もう一つにはそのような作業に相応しい「文化」概念を彼が欠いていたからである。モラスとクーベルタンの終着点から出発し,愛国主義,国家主義,世界主義,国際主義という諸概念を,国民国家をめぐる一つの一貫した社会人類学の体系にまとめあげる作業が行われるには,マルセル・モースの出現を待たねばならなかったのである。だがいずれにせよクーベルタンは,文化的差異にもかかわらずではなく,文化的差異ゆえに普遍的存在としての「人類」が存在するのだ,という信念をますます強めていった。人類学者ルース・ベネディクトの言う「世界を差異が安住できる場にする」ことこそが「最良の国際主義」に課せられた任務である,という思いを深めていったのである。」(pp.523-524)
「クーベルタンや,彼を批判した多くの同時代人たちのような合理主義者には,現代の人類学者,社会思想家,そしておそらくは現代人の大半にとって常識となっている事実がついに理解できなかった。すなわちそれは,良かれ悪しかれ,人間の行動を左右するのは,多くの場合まさに型にはまった先入観や浅薄な偏見なのであり,しかも,子細に検討してみれば,そうした一見浅薄な見解も実は浅薄というにはほど遠い深さを持つことも多い,という事実である。」(p.526)
「「壮観(スペクタクル)という言葉は,すでに見たように,1896年のオリンピックのパフォーマンスの形容句として,直接その場に居あわせた人たちが繰り返し使っている言葉である。しかし,「スペクタクル」が文化的パフォーマンスの一ジャンルとして確立するのは,まだ先の話である。その根拠に,「壮観」という名詞の限定句として,「言葉にしがたい」という形容詞が再三再四用いられているという事実があげられる。あたかも,「スペクタクル」という言葉が表現している「もの」的な要素を否定し去るかのように。この時点において「スペクタクル」という言葉はまだ,純粋な「質」の表現,驚嘆の対象たる神々しさと華麗さの表現であって,パフォーマンスの主格的カテゴリーではなかった。そうなるのはオリンピックの歴史においてはもっとあとのことであり,より広範に見れば,西洋文化の歴史全体においてはさらにあとのことになる。」(pp.532-533)
「こののちオリンピックは,1900年,1904年の「大失敗」,1906年,1908年の過渡期的大会を経て,1912年と1924年の大成功を通過し,32年,36年にける成熟へという歴史を辿るわけだが」(p.533),「この16年間途絶えることのなかった,忍耐強い,決して英雄的とは言い難い尽力の数々こそが,「改革者」と呼ばれる権利を彼にもたらしたのである。」(p.540)
第7章の注31で,クーベルタンの世界主義と国際主義との区別が,ブーアスティン『幻影の時代』における旅行者と観光客の区別に類似していると指摘する(p.630)。
大学図書館で借用した本のため,読書記録のように引用箇所を記録しておくことがメインになってしまった読書日記ですが,前半の詳細な史実の整理が終盤で見事に融合され,人類学的なテーマとして論じられている,素晴らしい著作です。これまで私が読んできたオリンピック研究でももちろん本書に言及しているものは多いのですが,やはり随分過去の文献となってしまったからでしょうか,あまりきちんと紹介されていない気がします。私の論文でもあまり分量を使って紹介はできませんが,うまいこと本書の魅力を伝えたいものだ。

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