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オリンピックと近代

マカルーン, J.著,柴田元幸・菅原克也訳(1988a):『オリンピックと近代―評伝クーベルタン―』平凡社.MacAloon, J. J. (1981): This Great Symbol: Pierre de Coubertin and the Origins of the Modern Olympic Games, Illinois: The University of Chicago Press.

マカルーン編『世界を映す鏡』に収録された「近代社会におけるオリンピックとスペクタクル理論」を読んでから,本書も読むべきだと思い,非常勤先の大学図書館で借りて読み始めた。ポール・オースターの翻訳で知られる柴田元幸氏が手掛ける翻訳で,645ページに及ぶ大著。以前,本書を手に取って目次は見たことがあった。本訳書の副題通り本書はあくまで近代オリンピックの父であるクーベルタンの伝記であり,1896年の第一回アテネ大会で締めくくられているため,今更読む必要はないと考えていたが,読み始めてその考えは変わった。著者は米国でオリンピック代表選考にかかるくらいの陸上選手であったとのこと。1968年のメキシコ大会を目の当たりにして,自分はそこに選手としている場ではないと実感するとともに,そのひきこまれる魅力について理解したいと思い立ち,学問の世界に入ったという。彼が身を置いたのは人類学。上述の編著にも寄稿しているヴィクター・ターナーへの謝辞が本書にもある。人類学に入門しながらも博士論文で取り組んだのが本書。同じく,編著に寄稿し,謝辞に名前が挙がっている歴史家,ナタリー・ゼーモン・デーヴィスらが始めた民族誌学的歴史学の影響も大きい。ともかく,注釈の多い本書は丁寧に歴史を紡いだアカデミックな書である。
緒言
第一章 ラオコーン――悲劇の予感
第二章 貴族の家柄
第三章 アーノルドとの出会い――スポーツの発見
第四章 スポーツ教育
第五章 オリンピックの理念
第六章 近代オリンピックの誕生
第七章 仕掛けとしてのオリンピック――第一回アテネ大会
第八章 結び――オリンピックと近代
冒頭にボルヘスの「中国の地図制作者」についての解説がある。正確には「学問の厳密さについて」というタイトルで,岩波文庫『汚辱の世界史』に収録されたものだが,この1分の1の地図に関しては,ウンベルト・エーコやジャン・ボードリヤールも論じており,若林幹夫『地図の想像力』の冒頭を飾る議論でもある。本書でこの説話が取り上げられているのは,ミイラ取りのミイラのように,この巨大で複雑で多くの人を夢中にさせる魅力を持ったオリンピックというものを学問の対象として理解することは難しく,足を踏み入れようものなら客観性というアカデミックの足場を奪われてしまうということを言いたいがためである。著者はオリンピックの魅力を理解しようと,それに関する文献を漁るが,学術的な客観性,オリンピズム的価値観から中立な立場を有する文献には出会えなかったという。一方で,正当な学問はオリンピックという社会的に大きな影響を与えている現象に背を向けてきたのだという。それならば,ということで著者は学術界に転向した。
そして,「オリンピックという事業を興味深いものとしている性質,すなわちそのスケールや,複雑さや,意味の多様性こそが,総合的な研究を困難にしている」(p.12)という理解に至り,「この男(クーベルタン)について,その人生のドラマと生きた環境について理解することなしに,近代オリンピックの起源はもとより,その不変の「構造」を理解することもまた不可能である」(p.14)との観点から,まず手掛けたのがクーベルタンの伝記となったわけだ。第一章はその全体像を象徴するイコンとしてのラオコーンの存在が示される。第二章では,彼の家系図の復元から,19世紀ヨーロッパにおける家系図の社会的意義と貴族階級における近在的個人について論じられる。特に,彼の父親は画家として多くの作品をサロンに出品しており,その辺りの美術史的な考察も興味深い。ちょうど以前紹介したように同じ時代の画家クールベについていくつか本を読んでいたし,それこそその時代背景を描くハーヴェイの『パリ』も読んでいた。そうした歴史的含蓄のあるオリンピック研究は非常にまれであり,1981年に原著が出版された本書であるが,今読む意義も十分にある。若かりし頃のクーベルタンの思想に関しては,これまでの研究でほとんど取り上げられてこなかった偽名で発表された自伝的小説「ある王党派共和主義者の物語」を詳細に検討している。ちなみに,マカルーンは「意味の問題が20世紀の問題だとするならば,クーベルタンは本質的に19世紀から抜けだすことはなかった。」(p.27)と述べ,新しい近代イベントを生み出したクーベルタンをそのイベントの真意を理解できない古い人間とみなしている。
クーベルタンがなぜスポーツに目覚めたかということについては,これまで読んだ文献でも有体の説明があった。英国のパブリック・スクール教育を維新したとして知られるトマス・アーノルドに感化され,スポーツによる教育的効果によりフランスの軍隊をもっと強いものにできると考えた,という感じの説明だ。第三章はその辺りの事情を詳細に検討している。まず,クーベルタンは英国に渡るわけだが,これにも当時フランスから英国に渡る人が多かったことが確認され,そんなフランス人による報告のなかでもイポリット・テーヌという人物の『イギリス覚書』が詳細に検討される。実際にクーベルタンはアーノルドが校長だったラグビー校をはじめ,多くのパブリック・スクールを訪れたということだが,アーノルドについてもさまざまな資料を検討している。特に,クーベルタンが理解したアーノルドは,アーノルド本人ではなく,彼について書いているトマス・ヒューズの『トム・ブラウンの学校生活』とスタンレーの『トマス・アーノルドの生涯と書簡』という性質の異なる2冊の本がクーベルタンに影響を与えたという。
第四章は,クーベルタンが寄稿した雑誌の発行元である「社会経済協会」についての詳細な検討から始まり,その主宰者であるフレデリック・ル・プレという人物の思想のクーベルタンへの影響を検討する。クーベルタンの頭の中に漠然とあった「スポーツ」が具体的な形で社会変革の道具として形をなしていく。「国際的スポーツ活動を管理すべく彼が創り出すことになる国際オリンピック委員会も「非イデオロギー的」な組織をめざしたものであったが,そのモデルとされたのが,テーヌが称賛していたイギリスの「庇護」団体であり,政治学学校であり,社会経済協会-社会平和同盟であった。なかんずく協会の場合はIOCのすべての原則の先例となっている。」(p.190)クーベルタンは一時期,その政治学学校にも通っていたのだ。1880年代後半ころから,クーベルタンは積極的に自分の思想を表現するようになり,その思想を組織づくりという形にするようになる。「そして後年クーベルタンが主宰することになる諸団体の名簿には,医学者や,生理学者や,実験心理学者の名前はほとんど登場することがない。これはスポーツ組織と正統的な科学が袂を分かったことを象徴的に示している。このことが1950年代および60年代までの欧米スポーツ文化を特徴づけることになるのである。」(p.221)本書ではクーベルタンの同時代人として,進化論者のハーバート・スペンサーや社会学者のデュルケームなどを登場させるのも面白い。次の引用にあるように,クーベルタンが妄想するスポーツ教育をオリンピックという祝祭へと結びつけるのにヒントを与える人物が登場する。「だがクルーゼには,クーベルタンにそれまで欠けていたものがあった。すなわち,スポーツ競技の背景となるべき祝祭への興味である。クルーゼは,中世の学生の祭典である「定期大祭」の復活を呼びかけた。そして,この「学校の若者たちのための盛大な競技祭典」が1889年と90年の二度にわたって開かれたのである。」(p.228)
第五章の冒頭は,クーベルタンが1889年に渡米するようすから描かれる。先日した渡英と同様に,クーベルタンは何かに行き詰まると外国旅行をし,インスピレーションを受けてくるという。特に,次の引用のように,米国はクーベルタンのお気に入りになったようだ。「クーベルタンが精力的に書いた,アメリカを題材とした記事,アメリカ人読者に向けて書いた記事の数(およそ50)。「ある王党派共和主義者の物語」の舞台をアメリカに設定し自分の分身的人物をアメリカ人の娘と婚約させたこと。オリンピックにおけるアメリカ人選手たちの活躍を彼が我がことのように喜んだこと。そして,第三回オリンピックの開催権をアメリカに与えたこと。いずれを見ても,彼の「アメリカ熱」がいかに高かったかを物語っている。」(p.258)第五章は,クーベルタンが英国,そして米国から学んだスポーツ教育という思想を,オリンピック競技大会という具体的な実践に結実していくための影響が一つ一つ確認される。そして,当時ヨーロッパ最大のイベントであった万国博覧会もクーベルタンに大きな影響を与える。「また,厳密に証明することは不可能であるとしても,クーベルタンが古代スポーツをめぐる自らの思想を系統立てるために主要な情報源とし,ドイツ人によるオリンピア発掘の成果を知る媒体となったのがデュリュイの『ギリシア人の歴史』だったという可能性は,きわめて高いと私には思える。」(p.292)という引用から,古代オリンピックの復元を,そしてその先例としての試みがクーベルタン以前に存在する。いくつか引用をつぎはぎしよう。「近代オリンピックの真の原型が現われたのは,1830年代のスウェーデンにおいてである。その指導的立場にあったのは,ルンド大学のグスタフ・ヨハン・シャルタウ教授であり,1834年7月,教授はレムロサで「古代オリンピック大会を記念して」全スカンジナヴィア・スポーツ大会を組織した。」(pp.297-298)「クーベルタンはパリにおいて地方規模のスポーツ大会をいくつか組織しているが,それは基本的には,このより大きな目標に向けての土台作りだったのである。そして彼は,クルーゼの提唱する「定期大祭」のような「ローカルな忠誠心」を支持しなかった。」(p.303)「このギリシア・オリンピック競技会は,エヴァンゲロス・ザッパスという人物の発案によるものであった。・・・そこでザッパスは,王と政府に対し,スポーツ大会を産業見本市と組みあわせ定期的に開催することを提案した。見本市は実現しなかったが,「オリンピック競技会」の方は,ザッパスが費用を負担し,1859年にその第一回が開かれた。結果はあまりぱっとしたものではなかった。」(pp.305-306)第5章は以下のように締めくくられる。「要するに,「オリンピックの理念」は,四方八方からクーベルタンに向けて迫ってきていたのである。やがて彼に与えられることになる「改革者」という称号は,オリンピック大会復活のアイデアを思いついたことにではなく,その夢を現実にしたことに対して与えられるべきものなのである。」(p.309)
1896年の第1回オリンピック,アテネ大会については第7章で論じられ,第6章はそこに向けての組織づくりと大会準備にあてられる。クーベルタンは1890年に,サン=クレールという人物と共同で「フランス競技スポーツ競技連合(USFSA)」を結成する。最終的にこの組織がIOCと国際競技連盟(IF)へとつながっていく。「社会学者アルヴィン・グルドナーが指摘したように,ギリシア・スポーツとは,紀元前五世紀において都市に住むギリシア人の生活全体を支配していた,「競争」のパターンを好む性癖の,一つの表われにすぎないのである。」(p.347)少し後の次の引用のように,近代スポーツとなってその性質は普遍的なものを目指している一方で,本来のスポーツの在り方は土着的なものだったようで,オリンピック競技大会はその差異を巧妙に利用しているともいえる。「次にクーベルタンは,現代の体育教育における二つの流れを概観する。一方は体操派であり,スパルタから始まって,ナポレオンに敗北した後のプロシア,普仏戦争敗北後のフランス,南北戦争以後のアメリカへと続く。もう一方は「個人のためのスポーツ」を掲げる派で,アテネに始まり,アーノルドとキングスレー,ヨーロッパ・南米に広がったスポーツ・クラブ,そして「西欧の多くの有名なクラブに少しもひけをとらない」アテネのクラブへとつながる。クーベルタンの説くところによれば,前者は戦争の準備につながり,後者は平和を育む。」(p.373)この差異を普遍的なものに導いていくのに,ギリシアが重要な役割を果たす。「「ヘレニズム」はおそらく,パリ会議に集まった人々にとって,発展途上の近代スポーツ界につきまとっていた対立や派閥争いを,しばらくの間棚あげすることを可能にしてくれる,唯一の象徴・理念の集合体だったのである。」(p.348)
本書でマカルーンはメディア分析も行っている。「誕生のその瞬間から,オリンピックは新聞編集者にとって,報道体制をめぐる問題の種となってきたのである。」(p.350)そしてその特徴は,第1回から現代的な特徴をかなり有していた。第7章からの引用を先取りするが,つまりは1896年アテネ大会を忠実に再現するには当時の報道が重要である。「この大会のみならず,その後のすべてのオリンピック大会に現われることになる,膨大な量の通俗民族誌学的な国民性観察がここですでに始まっているわけである。」(p.431)「新聞,民話,諺,ゴシップの場合と同じく,文学がオリンピックのパフォーマンスを取り込む時も,多くの場合は通俗民族誌学を取り入れ,神話,歴史,文学,宗教上の,時には実に意外な種々なるモチーフを付け加えるのである。」(p.474)
話を第6章に戻すと,1894年にクーベルタンは「パリ国際スポーツ会議」を開催し,第1回のオリンピック競技大会は1900年にパリでオリンピックを復活させる計画であった。しかし,会議の審議中に4年前のアテネ開催が審議され,急遽決定したのだという。その後のギリシアの情勢のなかで,ギリシア側は大会開催の困難をクーベルタンに訴えてくるが,クーベルタンはギリシアを訪れ説得する。「オリンピックは有益にも有害にもなりうるが,危険を冒してみる値打ちは十分にある,というわけである。」(p.361)アテネでの開催が決定され,準備が進んでもヨーロッパ各国への選手招待に関しても問題が続出するが,この時にクーベルタンは動かなかったという。なんと,この時期にクーベルタンは妻を迎え,さらに「1895年から96年初頭にかけて,クーベルタンがもっとも精力を注いだのは,『第三共和制下のフランスの発展』の執筆である。」(p.407)マカルーンは,そんなクーベルタンの歴史研究についても随分ページを割いている。第7章は1896年アテネ大会について詳細な記述が続く。観戦客のほとんどはギリシア人だったが,外国選手の活躍にも称賛を送るような雰囲気もこの頃からあり,特に大会終盤で行われたマラソンの優勝者がギリシア人だったこともあり,開催を渋っていたギリシア政府であったが,大会終了後はこの大会はずーっとアテネで開催され続けるべきだと国王が言い出すこととなり,そこに居合わせた多くの人たちもこれに賛同する。もちろん,開催地を巡回させると計画していたクーベルタンにとって,それは許容できるものではない。「第二に,相当な数の外国人観光客が訪れなければ,ギリシアは大会の出費を賄えない恐れがある。」(p.493)などと,いくつか具体的なギリシア開催否定論を持っていたが,それに止まらず理念上もそのことは認められない。「愛国主義と国家主義を区別することこそ,オリンピズムおよびオリンピック運動のイデオロギー的側面に彼が与えた根本的な遺産である。」(p.511)結局,ギリシアはクレタ島をめぐてトルコと戦闘状態に入り,惨敗する。
本書の終盤はそのほとんどを書き留めておきたいと思うほど,濃厚な考察が続く。特に,後ほど長文の引用をするように,愛国主義,国家主義,国際主義,世界主義という当時のヨーロッパ人が幾重もの広がりを見せる世界観のなかで,クーベルタンが身につけ,オリンピック運動という形で広めようとしたものの考察がなされる。しかし,次の引用にあるように,1896年アテネ大会ではクーベルタンの理想の姿が見られたものの,その後においてはそうでもなかった。「1900年のパリ大会,1908年のロンドン大会において,クーベルタンは,オリンピック選手たちでも,ほかの選手たちに対し島国根性的,国家主義的な態度を示すこともあるのだという事実を,まざまざと見せつけられることになる。」(pp.515-516)
「モラスの言う「国際主義」とは,それぞれの国民の差異と分離を強調する多国間交流のことだった。クーベルタンはこれを,「世界主義」のカテゴリーの中にとり入れたわけである。むろんクーベルタンにとっても,真の国際主義とは,社会的・文化的差異の発見・体験があって初めて成立するものではあった。しかし彼から見れば,そうした国家間の差異は,人間と人間を隔て反発させあうものでは決してなく,その逆に,人間としての生き方の多様性として肯定されるべきものであった。そのような差異を認識することこそ,平和と友好への第一歩であり,彼がのちに言う「相互の敬意」への道なのである。こうした考え方に基づいて,クーベルタンは一つの哲学的人類学ともいえるべきものを築こうとしたが,結局彼は,それを完全に体系化することができずに一生を終えた。それは,一つには彼の思考力の散漫さが災いしたためであり(晩年の著作においては,「世界主義」「国際主義」といった基本的用語の使い方すら一貫性を欠いている),もう一つにはそのような作業に相応しい「文化」概念を彼が欠いていたからである。モラスとクーベルタンの終着点から出発し,愛国主義,国家主義,世界主義,国際主義という諸概念を,国民国家をめぐる一つの一貫した社会人類学の体系にまとめあげる作業が行われるには,マルセル・モースの出現を待たねばならなかったのである。だがいずれにせよクーベルタンは,文化的差異にもかかわらずではなく,文化的差異ゆえに普遍的存在としての「人類」が存在するのだ,という信念をますます強めていった。人類学者ルース・ベネディクトの言う「世界を差異が安住できる場にする」ことこそが「最良の国際主義」に課せられた任務である,という思いを深めていったのである。」(pp.523-524)
「クーベルタンや,彼を批判した多くの同時代人たちのような合理主義者には,現代の人類学者,社会思想家,そしておそらくは現代人の大半にとって常識となっている事実がついに理解できなかった。すなわちそれは,良かれ悪しかれ,人間の行動を左右するのは,多くの場合まさに型にはまった先入観や浅薄な偏見なのであり,しかも,子細に検討してみれば,そうした一見浅薄な見解も実は浅薄というにはほど遠い深さを持つことも多い,という事実である。」(p.526)
「「壮観(スペクタクル)という言葉は,すでに見たように,1896年のオリンピックのパフォーマンスの形容句として,直接その場に居あわせた人たちが繰り返し使っている言葉である。しかし,「スペクタクル」が文化的パフォーマンスの一ジャンルとして確立するのは,まだ先の話である。その根拠に,「壮観」という名詞の限定句として,「言葉にしがたい」という形容詞が再三再四用いられているという事実があげられる。あたかも,「スペクタクル」という言葉が表現している「もの」的な要素を否定し去るかのように。この時点において「スペクタクル」という言葉はまだ,純粋な「質」の表現,驚嘆の対象たる神々しさと華麗さの表現であって,パフォーマンスの主格的カテゴリーではなかった。そうなるのはオリンピックの歴史においてはもっとあとのことであり,より広範に見れば,西洋文化の歴史全体においてはさらにあとのことになる。」(pp.532-533)
「こののちオリンピックは,1900年,1904年の「大失敗」,1906年,1908年の過渡期的大会を経て,1912年と1924年の大成功を通過し,32年,36年にける成熟へという歴史を辿るわけだが」(p.533),「この16年間途絶えることのなかった,忍耐強い,決して英雄的とは言い難い尽力の数々こそが,「改革者」と呼ばれる権利を彼にもたらしたのである。」(p.540)
第7章の注31で,クーベルタンの世界主義と国際主義との区別が,ブーアスティン『幻影の時代』における旅行者と観光客の区別に類似していると指摘する(p.630)。
大学図書館で借用した本のため,読書記録のように引用箇所を記録しておくことがメインになってしまった読書日記ですが,前半の詳細な史実の整理が終盤で見事に融合され,人類学的なテーマとして論じられている,素晴らしい著作です。これまで私が読んできたオリンピック研究でももちろん本書に言及しているものは多いのですが,やはり随分過去の文献となってしまったからでしょうか,あまりきちんと紹介されていない気がします。私の論文でもあまり分量を使って紹介はできませんが,うまいこと本書の魅力を伝えたいものだ。

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