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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編10)

Swart, K. and Bob, U. (2004): “The Seductive Discourse of Development: The Cape Town 2004 Olympic Bid,” Third World Quarterly 25 (7): 1311-1324.
南アフリカ共和国による2004年オリンピック大会の招致については,この論文でも引かれているように,Hillerによる2000年の論文がある。また,南アフリカ共和国についてはこの論文を読み終えた後に,宮内洋平『ネオアパルトヘイト都市の空間統治』(2016年,明石書店)を読み始めてしまったため,この論文の印象がかなり薄れてしまった。この論文でも,この招致活動が具体的にケープタウン都市内の施設配置や地区計画,インフラ整備などに与えた影響などは考察対象ではない。グローバル資本において,招致活動が都市間競争に与えた影響といったあたりが考察対象となっている。今回の招致はアフリカ大陸から初めてのものだったが,2016年リオデジャネイロ大会がまだ決定していないこの時点では,一方の南米からの招致はすでに1936年にブエノスアイレスからなされている。南アフリカ共和国は民主化以降にメガイベント招致を積極的に行い,1995年のラグビー・ワールドカップ,1996年にサッカーのアフリカ・ネーションズ・カップが開催され,オリンピック招致へと乗り出している。Hillerの論文にもあったが,ケープタウンは「人間の開発」をテーマに掲げた。この大会への招致は11の都市が名乗りを上げ,ケープタウンは1選考に残った5都市のうちの1つとなった。IOCとしては,五大陸を示す五輪を全うするためにもアフリカ大陸での開催を目指しているが,ケープタウンは最終的に落選した。IOCのアフリカ人委員もケープタウンにはほとんど投票しなかったといわれている。ケープタウンの犯罪率の高さは観客の安全を確保できない,などが大きな理由である。ただ,この招致活動は世界に対してアパルトヘイト後の世界に対する新たなイメージを提示したという意味では遺産を残したといえる。今後は人間の開発という意味でも,招致過程に市民参加を含めていくことが課題だといえる。

 

O’Bonsawin, C. (2010): “’No Olympics on Stolen Native Land’: Contesting Olympic Narratives and Asserting Indigenous Rights within the Discourse of the 2010 Vancouver Games,” Sports in Society 13 (1): 143-156.
知り合いではなかったが,この雑誌を所蔵する大学の地理学者にお願いしてコピーしていただいた論文。本当にこういうのありがたいです。さて,カナダのオリンピック招致,開催事情はこれまでもいくつかの論文を読んできましたが,この論文は先住民の扱いに関してです。論文タイトルを読んだ時にはボイコフが論じている反オリンピック運動について詳しく知ることができることを期待していたが,読んでみると,運動そのものではなく,なぜ五輪に反対するのかという動機を詳細に検討したものだった。オリンピックにおけるジェンダーや人種,エスニシティの問題は日本でも井谷聡子さんという人が論文を書いていて,このバンクーバーの「No Olympics on Stolen Native Land」についても書かれている。五輪開催都市/国の先住民問題で有名なのは2000年シドニー大会だが,2002年ソルトレイクシティ大会と一緒に論文の前半で触れ,「どちらの事例においても,先住民の人々は名目的なかつ取るに足らない役割へと追いやられている」(p.144)と述べられている。オリンピックの開会式ではそうした先住民を登場させたり,またそのモチーフだけを美的に利用したりしてその開催国の文化的多様性を強調し,その多様性を包摂する調和した社会が表象される。バンクーバー大会でも9つの先住民(First Nationと表現するようですね)から200人の代表が開会式に登場し,250人の非先住民のダンサーが「インディアン」のような恰好をして躍っていたという。カナダでは1988年のカルガリー大会でも先住民活動家による活動があったようです。この論文では,土地をめぐっての植民者の観点と先住民の観点について,カナダ連邦政府とブリティッシュコロンビア州の法律,オリンピック憲章と国連との関係など,丁寧に検討されています。IOCは国連が主張する持続可能性や公正な手順などを組み込んで,「アジェンダ21」を採択します。しかし,2つの深い欠陥があると指摘しています。1つはそれがオリンピック憲章にしっかりと固定されていないこと,2つめは周縁化された人々の基本的な人間的必要と権利を考慮していないことだといいます。今後は反オリンピック運動の主張に真摯に耳を傾け,オリンピズムに人権の問題をしっかりと組み込むことが要求されます。

 

Sebastião, S. and Lemos, A. (2016): “The Community Voice in the Preparation of a Mega-event: Rio 2016,” Cuadernos.info 39: 209-224.
ポルトガルの政治学者による2016年リオデジャネイロ大会に関する論文。地元住民の声を地元3紙の新聞報道からくみ取った研究。パブリック・リレーションに関する研究がベースにあります。2013年の新聞でリオ大会に関する119の記事に対して,定量的分析と定性的分析をしています。定量的分析からは必ずしも地元住民の声を反映できるわけではありませんが,鍵となる主題を記事数でランキングした2位に「Protest」が挙がっていたり,競技施設の建設現場で死者が出た事件の記事が多く,「準備における問題」が3位だったりして,五輪開催に否定的な声が新聞にそれなりの頻度で登場します。質的分析では,そうした住民の声や行為者,関心に焦点を合わせたものになっています。「コミュニティの声」は組織によって,その主要人物がジャーナリストに接触して新聞報道として公の場に届けられます。リオ大会では,スタジアムの民営化や数千世帯の立ち退き,インフラ建設や湾岸汚染の浄化などをめぐって市民の反対運動が起こっています。リオではワールドカップとオリンピックに反対するCPRCOという団体が組織され,住民の排除をめぐって市長との会合を要求したそうです。

 

Hiller, H. H. (1998): “Assessing the Impact of Mega-events: A Linkage Model,” Current Issues in Tourism 1 (1): 47-57.
以前紹介したOldsの論文は他人に複写依頼をしてようやく入手したものだったが,そのコピーに含まれていた次の論文がこのヒラーによる論文。ところが,ヒラーは自らのサイトでほとんどの自著論文をPDF公開しているので,難なく入手。こんなきれいなPDFがあるのだったら,Oldsのも公開してほしかった。さて,ヒラーは1990年代後半からメガ・イベントおよびオリンピックについての研究を進めている社会学者だが,この頃は特に南アフリカ共和国を専門的に調査していたようです。この論文の前半はタイトル通り,メガ・イベントのインパクトを評価するモデルの提示ですが,後半は2004年オリンピック夏季大会へのケープタウンの招致に関する事例となっています。まず,インパクト評価に関してですが,従来の研究は原因-効果関係を特定することが主眼でしたが,もっと広い視点で考える必要性を訴えています。そこで出されるリンケージモデルとは,原因→効果の一方向的時間軸だけではなく,フォーワード・リンケージという従来通りの原因→効果の時間の流れと,バックワード・リンケージという結果→目的・背景という逆の流れを想定し,さらにパラレル・リンケージというものを設定し,副次的な効果を分析に組み入れています。原因-効果というと,目的が達成されたという計画上の問題だけですが,想定外の効果が正負両方含まれるというのが,メガ・イベントです。
ケープタウンの事例に関しては,この論文自体が招致初期段階に書かれていることもありますが,バックワード・リンケージに関すること,特に住宅と移転に関することが考察されています。まず,招致委員会が地元からの批判を最小限にするためにはそうしたことへの配慮が必要です。しかし,都心近くでの低賃金住宅の供給が望まれましたが,多かれ少なかれその問題は無視されたといいます。全国的には2,3百万戸の住宅が必要だとされていましたが,1999年までに政府は百万戸の建設を目標にしていたという。西ケープに位置する黒人タウンシップには東ケープからの国内移民がやってきて,数千人が掘っ立て小屋のような不適切な住居で暮らすという。オリンピックによって都市の状況が改善されるという期待によって,オリンピック開催への支持は白人よりも黒人の方が高かったようですが,この時点でのそうした貢献は疑問視されると結論付けられています。

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