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オリンピック,メガイベント関連文献(英語編17)

Roessner, L. A. (2014): "Sixteen Days of Glory: A Citical-Cultural Analysis of Bud Greenspan's Official Olympic Documentaries," Communication, Culture & Critique 7: 338-355.
この論文でも、オリンピック映画を取り上げた学術研究といえば、レニ・リーフェンシュタールによる1936年ベルリン大会の記録映画と、1964年東京大会の市川崑監督作品に関するものがほとんどだという。日本における研究も同様だが、米国のグリーンスパン(1926-2010)なる人物が多くのオリンピック・ドキュメンタリー映画を制作していたことは私も知らなかった。2008年の北京大会が最後になるが、それまでの40年間に43本の作品を制作しているという。その中には1998年長野大会も含まれ、夏季大会のみならず、冬季大会も制作していたとのこと。この論文は、カルチュラル・スタディーズ的な文脈で、批判的な立場から、グリーンスパン作品を分析している。グリーンスパンは1948年のロンドン大会で、ラジオ報道者としてニューヨークのWMGMという放送局のために取材したのが初めてだという。若干21歳の青年はその後10年にわたって、スポーツ記者としてホッケー、バスケ、テニス、陸上競技などをWMGMのために取材したという。そんななか、1948年と1952年の大会において、重量挙げで金メダルを獲得したジョン・デイヴィスを取り上げた15分間のドキュメンタリー作品『世界最強の男』が1952年に制作された。この作品が売却され、オリンピック関連のドキュメンタリーがお金になることが分かった彼は、その後も作品を制作し、1967年にカッピー・プロダクションという会社を設立し、1936年ベルリン大会の陸上での金メダリスト、ジェシー・オーエンスに関する作品は22時間にも及ぶもので、エミー賞を受賞している。1984年ロサンゼルス大会で、公式の大会ドキュメンタリー映画を制作することとなり、この論文のタイトルはその映画のタイトルで、1994年リレハンメル大会にも同じタイトルが用いられた。とにかく、グリーンスパンはIOCのお墨付きで、公式オリンピック映画を制作し続けることとなり、クーベルタンのオリンピック理念を、現代アメリカ流に変換させたものとして表現していく。オリンピックのテレビ放映に関する論文でも、アメリカ的な番組は選手の個人誌に焦点を当てて、ドラマ化するのが常套手段だというものがあったが、まさにそれはグリーンスパンの発明品なのかもしれない。例えば、私も知っている米国の助成陸上選手ジョイナーは貧しい地区で育っていて、まさにアメリカン・ドリームの体現者だった。スポーツによる人間精神の称賛と国境を越えた普遍性という、「競技大会のバラ色のビジョン」(p.349)が彼の作品では描かれる。それは、「人種差別主義や性差別主義、権力の不均等な配分、社会的病理など、オリンピックによって生じるスポーツの好ましくない側面を無視し、覆い隠している」(p.349)。

 

Hiller, H. H. (1990): "The Urban Transformation of a Landmark Event: The 1988 Calgary Winter Olympics," Urban Affairs Quarterly 26 (1): 118-137.
ヒラーは早くからメガ・イベント(メガ・イベントという語が一般化する前、ホールマーク・イベントと呼ばれている頃から)研究を続けている研究者で、メガ・イベントでも特にオリンピックに集中して研究をしてきている。この論文は初期のころのものだが、所属がカルガリー大学になっていて、ちょうど1988年冬季大会を経験している。オリンピックの社会学的研究を押し進める著者だが、とかく社会学的な観点からだと批判的な立場を取りがちで、著者自身も2010年大会への南アフリカのケープタウン招致活動を取り上げた論文では批判的な論調である。しかし、この論文はそうではない側面をうまく引き出している。とはいえ、一般的な意味でのオリンピック称賛の立場ではなく、あくまでも学術的な立場であるのがさすが。冒頭で、オリンピックのようなメガ・イベントは本来エリート主義的なもので、経済的ブースター(後援者)によって経済発展の道具として用いられることを認識している。一方で、住民はこの時期でもデンバーが住民投票で、冬季大会の招致活動をやめさせたという事実があったり、エリート主導のメガ・イベント招致に対する抵抗運動がある。かつて、万国博覧会も大衆動員の手段として用いられたこともあり、商業的に成功したオリンピックとして知られる1984年ロサンゼルス大会に続く、1998年カルガリー大会も同じような側面を持っていると指摘する。「定義からして、オリンピックはエリート主義のスポーツ・イベントであり、巨額の公的資金が、出場選手の支援や施設建設に用いられ、それらはエリート・スポーツの訓練や競技に用いられる」(p.122)という。限られた高額の観戦席のチケットは、一部の住民にしか行き渡らない。しかし、カルガリーでは多くの住民が大会開催を支持していたという。住民の意識によって、このエリート主義的なイベントは都市祝祭に変容するという。カルガリーという都市の歴史において、大会開催が決まった1981年は経済成長のピークだった。エネルギー産業の発展によって1961年から1981年までに人口は倍増したが、1970年代中ごろから住宅価格などが落ち込むようになり、1981年に住宅市場の崩壊や収入の下落、失業の増加、転出の増加などが始まる。
招致・開催側は都市イメージや人口の回復を目論んでいたわけだが、その一方で市民たちはこのイベントを歓待したという。まずは、子どもたちが教育プログラムを通じてこのイベントに参加した。ショッピング・モールに展示をしたり外国からの選手や観客に手紙を書いたりした。カナダ国内での聖火リレーはメディアで毎日報道され、参加者も増えた。この大会の重要なレガシーはオリンピック・プラザの建設が新市庁舎に近接して建設業者にショッピングモールの建設地としても魅力を与え、結果的には新しい舞台芸術センターなど多様なエンタテイメントの場となった。カルガリーには夏の年間行事として「カルガリー・スタンピード」と呼ばれるロデオのイベントがあるが、これをオリンピック開催時に数箇所で行ったという。恒例の無料の朝食がふるまわれる。オリンピック・プラザに近い広場では空を色とりどりのバルーンが覆ったという。また、大会期間中に、クリスマスの屋外照明を出し、訪問者を歓迎したという。もちろん、文化イベントであるオリンピック芸術フェスティバルも開催された。この大会では、ジャマイカのボブスレーチームが話題になったが、金メダルを取るようなエリート選手だけでなく、こうした民衆のヒーロー的な話題があったのも大きい。選手と都市住民との社会的な距離を取り除き、同じ市民として相互に注目しあうような関係が築かれたのではないかという。街中では、外国からの観客に対して地元住民が自分の家に招待してお茶をしたり、ホテルが満室で宿泊先がない旅行者、あるいは選手の家族に民家を提供したりという草の根の参加が観察されたという。最後の方でジェイコブズにも言及しながら、こうしたランドマーク・イベントは街路や舗道、広場といった場所で、祝祭的な活動が人々の正の感情を呼び起こし、都市生活を活性化させる可能性を秘めている、と締めくくっている。この論文は、それを実証的にきちんと示したわけではないが、とかく批判的な立場で論じがちなメガ・イベントに対して、偶然から生じる市民参加について論じることも重要だと教えてくれる。

 

Silk, M. (2011): "Toward a Sociological Analysis of London 2012," Sociology 45 (5): 733-748.
かなり漠然としたタイトルで、1990年代ならまだしも、ちょっと懐疑的に読み始めた。著者自身は2012年ロンドン・オリンピックをはじめ、2012年ソルトレイクシティ大会、2008年北京大会、1998年のクアラルンプールのコモンウェルス大会などを手掛けているようだが、この論文はいまいち論点がはっきりしない。カルチュラル・スタディーズの影響下にもあるようで、ホールやギルロイ、ジェイムスンやジェソップ、バウマン、フェザーストーン、ハーヴェイやズーキンなども引用されている。一応、論点を3点ほどに絞っていて、1つ目がドゥボールの議論によりながら、オリンピックが新自由主義的な資本主義の論理の下でのスポーツのスペクタクルであると論じる。2つ目はジェソップの「グローバル都市化Glurbanization」の概念を用いて、メガ・イベントを契機とした、ポスト産業都市の生き残りをかけた、公民連携(PPP)による開発を論じる。3つ目は「過去の商品化」というタイトルで、2008年北京大会の閉会式での8分間のロンドン・プレゼンを論じている。改めてこの論文の発表時期を見ると、また2012年大会の前なので、本番の開会式は分析しようがない。2012年大会の開会式については日本でも優れた研究があり、この論文での分析はあくまでも限定的な印象を受ける。ただ、開会式にみられるナショナリズムとコスモポリタニズム、そして国民の多様性の称賛という話は、日本でも阿部 潔が論じているし、さまざまな大会で同じようなことが主張されている。ということで、ちょっとオリジナリティにかける論文だった。

 

Shin, H. B. and Li, B. (2013): "Whose games? The Cost of Being "Olympic Citizens" in Beijing," Environment & Urbanization 25 (2): 559-576.
2009年の単著論文に続いて、同じ2008年北京オリンピック大会を扱ったShinさんの共著論文。2009年の論文では、北京の状況についての説明が多かったが、この論文は論点を絞っている。2009年の論文では「都市的農村urban village」と表現されていたが、この論文では、公的な用語としても定着したのか、「都市のなかの村villages-in-the-cityVICs)」と表現される。中国語では「城中村Chengzhongcun」というらしい(Wikipediaではurban villageになっている)。ウェブで調べると写真が出てきますね。衝撃的です。
http://www.mascontext.com/issues/19-trace-fall-13/the-chengzhongcun-urban-traces-of-the-village/
政府の調査によると、2000年代にVICsは北京に332存在しており、このうち231を「環境改良」という事業の下に取り潰すことを決め、2008年オリンピック大会までに171の取り壊しを計画していたという。この論文では、北京市の海淀区Haidian3箇所のVICでインタビュー調査を行っている。調査は200812月から20091月にかけて行われている。2009年の論文でも説明したが、北京では農村部から都市部への人口流入が激しく、都市が拡張し、かつて農村だった場所の土地所有者が、都市化される過程で、その土地に賃貸住宅を建て、農村からの移住者を住まわせるということが行われ、それがVICと呼ばれる。農村からの移住者は都市市民とはみなされず、公的なサービスを十分に受けられず、公共住宅には入居できないために、こうしたインフォーマルな賃貸住宅に住まざるを得ない。一方で、貸主はこの賃貸収入が所得の重要な部分を占めるといった次第。インタビューは移住者と貸主の両方について行われ、移住者が28人、以前からの居住者(≒貸主)が20人の合計48人である。北京は環状線が発達していて、インタビューの対象となった地区は、第三環状線の外側、第四環状線の外側、第五環状線の外側からそれぞれ1箇所選択されている。北京の都心4区(第三環状線内)と外縁部4区についての人口データ(移住者の割合や人口密度)などが示されている。北京大会の住民の支持率は2000年時点で94.6%を占めていたという。移住者はオリンピック開催に反対していたわけではない。この辺りが日本とは明らかに事情が違う。ある意味インフォーマルに移住してきたものは、住居を追われることになっても仕方がないと回答している。また、VICの取り壊しはオリンピックに始まったものではなく、いつ取り壊しが来ても仕方がないと思っていて、また政府のやることは自分たちとは関係ないというか、自分たちの意見で政治や行政が変わるとは考えていない。取り壊しを当然だと考えているのは移住者だけではない。貸主であるかつてからの北京居住者も取り壊しは仕方がないと考えている。しかし、実際に取り壊しの計画はあまり進んでおらず、取り壊しが行われない限りはインフォーマルな住宅建設、賃貸経営をやめないという。実際、2009年の論文にも書かれていたが、農村からの移住者たちは、オリンピックに関しても建設作業員として関わるような労働者であり、それだけでなく、北京の経済成長にとって欠かせない存在でありながら、排除の対象にもなっている。この論文でも、ルフェーヴル以降流行りの概念である「都市への権利right to the city」(p.573)が出てくるが、欧米で議論されるような意味とはだいぶ異なる。そういう意味でも、このShinさんの研究は非常に重要であるといえる。

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